冷戦期アジアの軍事的自立化に関する比較経済史研 究 (特集 冷戦変容期の南アジア世界)
著者 横井 勝彦
雑誌名 ヨーロッパ文化史研究
号 22
ページ 39‑58
発行年 2021‑03‑30
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024405/
冷戦期アジアの軍事的自立化に関する比較経済史研究 39
2021 3 31
特集 冷戦変容期の南アジア世界
冷戦期アジアの軍事的自立化に関する 比較経済史研究
横 井 勝 彦
1. はじめに
2. 冷戦期東アジアにおける軍事的自立化 (1) 韓国の自主国防
(2) 台湾防衛産業の拡充 (3) 日本の兵器国産化
3. 冷戦期インドにおける軍事的自立化 (1) 米ソの対インド国際援助 (2) 防衛体制の自立化と軍事的自立化 (3) ライセンス生産
4. おわりに─民需と下請け─
1. はじめに
本稿のテーマは,冷戦期インドの軍事的自立化の特徴を当該期東アジアの韓国,台湾,
日本と比較することによって明確にすることである。1960年代冷戦期のインドには非共 産圏の第三世界最大の兵器産業が形成された(1)。にもかかわらずインドは韓国,台湾,日 本と比べて兵器国産化も軍事的自立化も達成できていないと言われてきた。より正確に言 えば,自主防衛・防衛体制の自立化の裏付けとなる兵器の純粋国産化を志向してこなかっ た。米ソ二大超大国が中心となって展開した冷戦期の国際援助は経済援助,技術援助さら には軍事援助に及び,それらは韓国,台湾,日本,さらにはインドが追求した国内防衛産 業(indigenous defense industries)の整備・拡充に大きく貢献したはずであるが,インドは いまだに世界有数の武器輸入国である。インドにおいては軍事主導型の重工業化も軍民・
軍産の連携も存在しなかったのか。本稿では,この点を韓国,台湾,日本との比較におい て考察していく。
なお,本稿では,韓国,台湾,日本,インドの各国について,次の
4
つの側面に注目し(1) Matthews, R.G. [1989] “The Development of India’s Defence-Industrial Base”, Journal of Strategic Studies, 12-4, p.412.
40
ている。(1)国際援助と軍事的自立化の関係,(2)軍事的自立化と防衛体制自立化の関係,
(3)兵器国産化とライセンス生産の関係,(4)軍民・軍産の関係,以上の
4
点である。本稿のメイン・テーマであるインドの軍事的自立化を扱う第
3
節ではもっぱら1960
年 代に注目しているが,それは上記の4
点に関連して打ち出されたインド政府の政策や決定 がその時代に集中していたからに他ならない。具体的には,重化学工業化路線を打ち出し た第3
次5
カ年計画(1961-66
年),中印紛争(1962年)直後の国防生産局の創設(同年),第
1
次防衛5
カ年計画(1964
-69
年),ソ連とのジェット戦闘機MiG
-21
の購入とライセン ス生産の契約(1964年),ヒンダスタン航空機会社の再編(1964年),インド工科大学5
校での航空工学科拡充計画(1964),第二次印パ戦争(1965年),ボンベイ(現ムンバイ)のマザゴン造船所でのインド初の軍艦建造(
1965
年)などである。2. 冷戦期東アジアにおける軍事的自立化
周知の通り,1950年
6
月に勃発した朝鮮戦争を契機として東アジアは「冷戦の主戦場」と化していった。アメリカと相互防衛条約を締結した韓国,台湾,日本は,アメリカの対 ソ・対中国戦略の一環として位置づけられ,アメリカの援助のもとで軍備強化を進めていっ た。しかし,1969年にはニクソン・ドクトリンによってアメリカがアジアへの軍事援助 の抑制を表明したことによって,東アジアの
3
国では軍事的自立化(自主防衛と兵器自主 国産)に向けた新たな展開が見られたが,はたして政府主導による軍事的自立化はどの程 度達成されたのであろうか。以下ではこの点を確認していく。(1) 韓国の自主国防
韓国政府はアメリカから多大な軍事支援を受けて朝鮮戦争を敢行し,休戦後の
1953
年 には米韓相互防衛条約を締結している。以降,韓国は冷戦期東アジアにおけるアメリカの 対ソ・中国政策の一環に組み入れられ,引き続きアメリカから大規模な軍事・経済援助を 受けることとなる。このように,朝鮮戦争後の韓国の安全保障政策はアメリカ従属下で展 開されたことは否定できないが,朝鮮戦争中もその後も韓国には一貫して自主国防(self-defense)への強い志向が存在していたことにも留意すべきであろう
(2)。そうした韓国おける自主国防と軍事的自立化(
military independence
)の志向が,1960
(2) Son, Kyongho [2018] “Distinctions of the ROK National Security Policy and the Pursuit of Military Inde- pendence during the Cold War”, Journal of Research Institute for the History of Global Arms Transfer, No. 5, p.
28.
年代末以降,より明確なかたちとなって展開していった。1960年代末以降,ベトナム戦 争に対するアメリカ市民からの痛烈な批判と膨大な戦費による高インフレに直面し,ニク ソン政権はベトナム戦争からの段階的撤退を模索した。その一方でニクソン大統領は,
1969
年7
月にニクソン・ドクトリンを発表し,アジアにおける通常戦争での当事国の自 助努力の重要性を強調した(3)。同盟国である韓国にも自助努力の強化を求めるものであり,これを機に韓国では国産兵器による自主国防の機運が高まっていった。
朴正煕政権(
1963
-79
年)による自主国防の主な目標は,北朝鮮の武力侵入を阻止しう る戦闘能力を開発することに置かれ,基礎兵器と戦略兵器の国内独自開発に全力が注がれ ていく(4)。ただし,いかに歴代政権が脱アメリカ依存を志向していたにせよ,ニクソン・ドクトリン以降,アメリカの軍事支援(
military aid
)がなくなったという訳ではない。ア メリカの軍事的プレゼンスは縮小したものの,それを補填すべく多額の軍事援助によって アメリカから韓国への軍事技術移転はその後も継続した。そうした中で,韓国では重機械,電子,造船,鉄鋼などの資本・技術集約型産業の再編が進み,防衛産業の拡大と軍民連携 が達成されたのである(5)。
具体的には
1971
年の「戦力近代化5
カ年計画」と自主国防計画(栗谷(ユルゴク)事業)に基づいて,1970年代の韓国では自立的兵器生産体制確立のための産業基盤の整備が進 展している(6)。海軍と空軍の戦力近代化では課題を残したものの,1970年代以降の韓国で はアメリカとのライセンス契約に依存しつつも兵器産業を産業高度化の牽引車として位置 付け,軍事主導の産業高度化が現代造船重工(ミサイル,電子機器),韓国重機(大型軍 需品),韓国造船造機(軍艦),韓国航空(航空機),サムスン精密工業(航空機エンジン)
などの多くの民間兵器企業によって進められた(7)。その後,トルコへの戦車や大砲の輸出,
マレーシアへの歩兵戦闘車の輸出,インドネシア,トルコ,ペルーへの練習機
KT
-1「雄飛」
の輸出,インドネシア,イラク,フィリッピンへの練習着
T
-50「ゴールデン・イーグル」
の輸出など(8),韓国は武器輸出国に転じている。
(3) Son [2018] p. 31 ; 菅英輝[2017]「アメリカ合衆国の対韓援助政策と朴正煕政権渡の対応─1964〜 1970年代─」渡辺昭一編『冷戦変容期の国際開発援助とアジア─1960年代を問う─』ミネルヴァ 書房,320-321頁。
(4) Son [2018] p. 31.
(5) Baek, Kwang-il and Chung-in Moon [1989] “TecŠological Dependence, Supplier Control and Strategies for Recipient Autonomy : The Case of South Korea” in Baek, Kwang-II Baek, R.D. Mclaurin and Moon, Chung-in Moon eds., The Dilemma of Third World Defense Industries : Supplier Control or Recipient Autonomy
?, Inchon, pp. 157-158.
(6) Nolan, J.E. [1986] Military Industry in Taiwan and South Korea, New York, pp. 28, 62-63.
(7) Nolan [1985] “South Korea : an ambitious client of the United States”, in M. Brzoska and Th. Ohlson eds., Arms Production in the Third World, Solna, p. 221.
(8) Bitzinger, R.A. [2017] Arming Asia : TecŠonationalism and its impact on local defense industries, London,
42
(2) 台湾防衛産業の拡充
朝鮮戦争を契機として,アメリカは韓国のみならず日本,台湾,フィリピンなどとの軍 事同盟も強化した。冷戦時代の戦略的思考に基づき,アメリカはこれらアジア同盟諸国を より広範な戦略的構想に組み入れ,全体的な防衛能力と利益範囲を強化する手段とした。
台湾の安全保障の基本構造もアメリカ主導の同盟関係のなかで形成され,台湾国内の防衛 産業の振興もアメリカによって支援された(9)。台湾は
1954
年の米華相互防衛条約によって 正式にアメリカの同盟システムに組み込まれた。以降,アメリカは高性能兵器システムを 台湾に供給して軍事装備を改善し,軍事力の強化を支援していくが,ここでは,米華相互 防衛条約が四半世紀後の1979
年に米中国交正常化とともに破棄されている事実に注目し たい。もっとも,すでにそれ以前よりアメリカのアジア政策が中国寄りにシフトする中で,台 湾政府のアメリカに対する信頼度は低下して,アメリカの軍事援助からの独立が模索され ていた(10)。国内防衛力の向上が台北の優先課題として掲げられ,防衛産業を強化しアメリ カの軍事援助への過度な依存を解消するために,蔣経国国防部長は
1965
年に,兵器国産 化の最初のステップとして,国家中山科学研究院(National Chung
-Shan Institute of Science and TecŠology : NCSIST)の設立を命じている
(11)。NCSIST
は,兵器の研究開発と製造の両面で体系的発展を主導する機関として1969
年に正式に設立されているが,前述の通りその年にはニクソン・ドクトリンによってアメリカ の東アジア政策が大きく転換している。アメリカは同盟国への直接の軍事援助を削減し,
その代わりにアジア各国の防衛産業の発展を促す方向に転換したのである。以降,台湾の 防衛産業の発展は,
NCSIST
,国防部連合役務部隊(Combined Service Forces : CSF
),国営 の 漢 翔 航 空 工 業(Aerospace Industrial Development Corporation : AIDC), 中 国 造 船 公 司(China(Taiwan)
Shipbuilding Corporation : CSC)などによって担われていく
(12)。国内産業の技術水準を高め,独自の防衛産業を構築するために,台湾国防部は,優れた 技術者集団の育成,近代設備と高度な科学技術の導入,先端的製造方法の確立などに努め,
防衛産業を国民経済の中に根付かせようとしていった。イスラエルやアメリカなど外国依 p. 15.
(9) Liu, Fu-Kuo [2018] “Taiwan’s Security Policy since the Cold War Era : A Review of External Military Assistance and the Development of an Indigenous Defence Industry”, Journal of Research Institute for the His- tory of Global Arms Transfer, No. 5, pp. 4-5.
(10) Nolan [1986] pp. 47-48.
(11) Liu [2018] p. 9.
(12) Gregor, A.J. and R.E. Harkavy and S.G. Newman [1985] “Taiwan : dependent ‘self reliance’ ”, in M. Brzoska and Th. Ohlson eds., Arms Production in the Third World, Solna, pp. 237-239.
存(ライセンス生産)を克服できないものの,政府によって設立された上記の国内防衛研 究機関ならびに国防省と協力関係にある
300
を超える国内民間製造企業を介して,台湾は 段階を追って国内防衛産業の拡充を実現していった。台湾においては,経済発展と技術開 発の進展を前提として,政府主導による通常兵器の自立的開発・国産化が推進されたので あった。(3) 日本の兵器国産化
日本はすでに第二次世界大戦以前において,おおむね軍事的自立化を達成していた。兵 器の設計,開発,製造で海外依存を脱却し,兵器国産化を実現していた(13)。その後,敗戦 とともに日本の軍備は解体され民需転換が進められたが,
1951
年に勃発した朝鮮戦争を 契機として,アメリカ軍の兵器特需によって日本の兵器産業は復活し,日本は対ソ・対中 国戦略を支える極東・東南アジアにおけるアメリカ軍の補給基地として位置づけられてい く。1951
年9
月の日米安全保障条約に続いて,1952年3
月にはこれまで禁止されてきた日 本の兵器製造が許可され,戦後に始まった兵器産業の解体も中止となり,急きょ再軍備が 進められていったのである。同年4
月にはアメリカが賠償に指定していた859
の軍事施設 で指定が解除されて日本側に返還されているが,そこには飛行機工場314,軍需工場 131,
航空機・兵器研究機関
25
,造船所18
が含まれていた(14)。完成兵器のアメリカからの本格 発注は早くもその翌月に始まっている。以上とほぼ同時期に,民間兵器企業を広範に組織 する業界団体も誕生していた。1951年に日本技術生産協力会が創設され,これが翌年に は兵器生産協力会として組織され,さらに53
年にはそれが今日の日本防衛装備工業会の 前身である日本兵器工業会に改組・改称されている。また,1952年には経団連の経済協 力懇談会のもとに防衛生産委員会も設置されていた。さて,
1954
年には日本はアメリカとの間で日米相互防衛援助協定(MSA
協定)を締結 している。そのもとでアメリカは日本に軍事援助を約束したのみならず,アメリカ製兵器 のライセンス生産と共同開発も認めたが,その見返りとして日本は防衛能力増強の義務を 負った。それらは日本の兵器生産能力の強化にとって決定的に重要であったが,はたして そうした日本の再軍備は軍事的自立化・兵器国産化への挑戦と言えたのか。それとも軍事(13) 奈倉文二・横井勝彦・小野塚知二[2003]『日英兵器産業とジーメンス事件─武器移転の国際経 済史─』日本経済評論社; 奈倉・横井編[2005]『日英兵器産業史─武器移転の経済史的研究─』
日本経済評論社を参照。
(14) Drifte, R. [1986] Arms Production in Japan : The Military Applications of Civil Technology, London, pp.
9-10.
44
同盟のもとでのアメリカとの従属的統合の始まりなのであろうか。日本は
1950
年代末ま でにはライセンス生産を脱して兵器国産化を達成しつつあったという評価もあるが(15),ラ イセンス契約のもとでアメリカ製兵器の国内生産・組立てが続いているために,自衛隊の 主要装備品の国産化率は依然として低い(16)。また,サミュエルズは「兵器生産のために導 入された技術は,1952年の兵器生産の再開後少なくとも20
年の間,日本経済の発展に大 きく貢献した(17)」と言うのであるが,戦後日本の兵器国産化はどのような過程を経て進め られてきたのか。以下では,この点を防衛力整備計画に即して確認しておこう。MSA
協定調印の4
年後に発表された第1
次防衛力整備計画(1958〜60年)では「国防 の基本方針」がようやく策定されるに至っているが,防衛装備の大部分は依然としてアメ リカからの援助に依存しており,研究開発の強化と兵器の国産化が目標に掲げられたのは2
次防(1962〜66年)においてであった。日本の防衛産業はすべて民間企業で構成されて 国営軍事工廠などは含まない。2次防期間中の上位契約会社には新三菱重工業,川崎重工 業,川崎航空機,三菱電機,富士重工業,石川島播磨重工,三井造船,日本電気,住友商 事,日立製作所,新明和興業,小松製作所,日本アビオトロニクスなどが名を連ねていた。しかし,
2
次防中の兵器国産化率(自給率)は60%
程度にとどまり,「自主国産」は3
次 防(1967〜1971年)に持ち越された(18)。3
次防においてようやく兵器の国産化(ライセンス生産方式による装備国産化を含む)と民間企業の育成が重視されることとなるが,それは韓国や台湾の場合と同様,アメリカ の東アジア政策の転換を反映していた。1963年
2
月,アメリカ国防総省は1967
年以降,MSA
資金の供給を停止すると発表した。しかも,1969
年5
月にはニクソン・ドクトリン(同7
月発表)を先取りするかたちで,経団連が総会において「日本の自衛力強化」を決議し ていた。この時期から日本の兵器国産化は急速に進んでいく(19)。2次防の国産化が基本的 に伝統的兵器のそれであったのに対して,3次防以降は国産防衛技術の研究開発の進展と ともに近代兵器に重点が移り,重工業化と産業構造の高度化と相俟って国産化率も9
割に 達した(20)。(15) Bitzinger [2017] p. 10.
(16) 小泉親司[2008]「日米軍事利権の構図」『経済』No. 153, 33-38頁。
(17) サミュエルズ,J・リチャード(奥田章順訳)[1997]『富国強兵─技術戦略にみる日本の総合安 全保障─』三田出版会,89頁。
(18) 小山弘健[1972]『日本軍事工業の史的分析』御茶ノ水書房,360-364頁。
(19) サミュエルズ[1997]248頁; Green, M.J. [1995] Arming Japan : Defense Production, Alliance Politics, and the Postwar Search for Autonomy, New York, pp. 54-57.
(20) Green [1995] pp. 56-57 ; 坂井昭夫[1984]『軍拡経済の構図─軍縮の経済的可能性はあるのか─』
有斐閣,195頁。
3. 冷戦期インドにおける軍事的自立化
(1) 米ソの対インド国際援助
独立後のインドは非同盟中立を掲げ,軍事ブロックへの参加や軍事援助の受け入れを拒 否し,米ソ両大国からの兵器購入も意図的に避けてきた。1950年代まではインドの主要 兵器の
3
分の2
近くが,いぜんとしてイギリスからの調達であった。しかし,1954年に アメリカがインドと交戦状態にあるパキスタンを冷戦同盟国と位置づけて相互防衛援助協 定を締結し,さらに62
年の中印紛争で敗北するとインドは軍備増強へと大きくシフトす る。中印紛争以降1967
年までのわずか5
年の間にインドの国防費は3
倍に膨張を遂げ,欧米先進国に比べれば格段に少ないもののインドの軍事研究開発費も倍増を遂げてい る(21)。
① 1960年代経済危機とソ連のプロジェクト援助
もともと経済的自立化を目指したインドの
5
カ年計画は,第1
次5
カ年計画の段階から すでに欧米からの国際援助に依存しており,はやくも第2
次5
カ年計画の2
年目にあたる1957
年頃には,輸出不振と輸入偏重型工業化による外貨不足,さらには人口膨張にとも なう食糧輸入の増大などのために,国際収支危機が始まっていた。続いて重化学工業化路 線を追求した第3
次5
カ年計画(1961〜65年)も,凶作と旱魃による食糧危機,さらに は中印紛争や第二次印パ戦争などに直面して修正を迫られ,第4
次5
カ年計画に至っては1969
年まで延期を余儀なくされている。こうした危機的状況の下で,インドに対する国 際援助は開発援助から国際収支危機救済・債務危機救済へと変容していったと言われてい る(22)。しかしその一方で,既述の通り,インドの国防費はとりわけ中印紛争以降に急増を遂げ,
米ソの軍事援助も受け入れて兵器生産基盤の整備が進められたのであり,1960年代以降 のインドは「開発と国防」,すなわち経済援助に依拠した経済開発と国際収支危機回避に 加えて,軍事援助に依拠した「防衛体制の自立化」が同時に追求されていたのである(23)。
1951
年から1970
年の間における主要各国のインドへの経済援助実績では,5
カ年計画 への援助も含めアメリカの援助が全体のほぼ半分を占めていた。これに対して,ソ連の対(21) Hoyt, T.D. [2007] Military Industry and Regional Defense Policy : India, Iraq, and Israel, London, p. 30.
(22) 渡辺昭一編[2017]『冷戦変容期の国際開発援助とアジア─1960年代を問う─』ミネルヴァ書房,
参照。
(23) Nehru, Jawaharlal [1963] “Changing India”, Foreign Affairs, p. 464.
46
インド経済援助はほぼ
1
割程度にとどまっていた(24)。つまり,インドへの経済援助ではア メリカが圧倒的な供与国であったが,ソ連の援助対象国の中に限って見ればインドは突出 していた(25)。しかも,インドへのソ連の援助は,西側諸国の援助に比べては小規模であっ たものの,そのほとんどがプロパガンダ的効果を当て込んだプロジェクト援助であった点 を特徴としていた(26)。1960
年代のインド経済は危機的な状況にあったが,そのような時代状況の下でインド がソ連に要請したプロジェクト援助は次のようなものに及んでいた。鉄鋼増産を目的とし たビライ製鉄所の拡充,第2
次5
カ年計画に続いての重機械製造工場の拡充と新設,石油 掘削設備の製造工場の建設,石油探査への支援拡大,200万トン規模の製油所の創設,化 学肥料工場の新設,重電機器製造工場の新設,ボールベアリング工場の新設,ビハール・ボカロ製鉄所とランチ重機械製造工場,西ベンガル・デュルガプールの石炭鉱山機械工場,
マドラスのネイヴェリ他
3
カ所での火力発電所,ビハール・グジャラートの石油精製所,炭鉱と洗炭所などの建設,そして水力・蒸気タービン,水力タービン発電機,直流交流の 大型電気機械の設置など多岐に渡っていた。なお,ここで特に留意すべき点は,ソ連の援 助によって開始されたプロジェクトに関しては,その後の修理・拡充にともなう部品類の 輸入調達先も必然的にソ連に限定されていたという事実である(27)。
以上の点に関連して,ソ連の対インド支援の特徴についてさらに次の点にも論及してお きたい。プロジェクト援助の拡大と関連して印ソ間の貿易も拡大しており,
1957
年から1964
年までの8
年間に印ソ間における貿易は輸出入額ともに3
倍近く拡大して,ソ連は ドイツに次ぐインド第三の貿易相手国となっていたのである(28)。ソ連のプロジェクト援助 の下で,インドは工業化に必要な機械・設備や鉄類・非鉄金属類をソ連から輸入していた。1954
年から68
年までの14
年間について見ると,それらがソ連からインドへの毎年の輸 入額のおよそ7
割を占めていた。1960年代にはインドからソ連への一次産品輸出が年率16
パーセントで成長したのに対して,ソ連からインドへの生産財輸出は年率20
パーセン トで成長していた。なお,1967〜68年から1970〜71
年の間に,上記の印ソ間の生産財貿 易は34
パーセントも落ち込んでいるが,それはインドが生産財の輸入先を多角化したた(24) Stanislaus, M. Sebastian [1975] Soviet Economic Aid to India : An Analysis and evaluation, New Delhp. 60.
(25) Boquerat, Gilles [2003] No Strings Attached ? : India’s Policies and Foreign Aid 1947-1966, New Delhi. p.
(26)395. Stanislaus [1975] p. 227.
(27) TNA DO189/548 Possible motives for Soviet aid to India 1964-1966, ‘India hopes for more Soviet aid’, Yorkshire Post, 12 Jan. 1966 ;Soviet Social Imperialism in India A (CPI-ML Publication), 1976, p. 10.
(28) TNA DO189/548 Possible motives for Soviet aid to India 1964-1966, India : Indo-Soviet Relations, pp. 4-5.
めでも工業化を放棄したためでもなく,インドの自立的な工業化・国産化がそれなりに進 展(つまり自給率が向上)していたことを反映したものであった(29)。ここにはインドの兵 器国産化との関係も看取できる。
② 1960年代冷戦期ソ連の対インド軍事援助
次に,米ソのインドに対する軍事援助に目を移すと,以下のような特徴を指摘すること ができる。1955〜67年の間における米ソ両国の軍事援助総額は,アメリカが
54
億ドルな のに対して,ソ連は58
億ドルであった。経済援助とは異なり軍事援助に関しては両国の 間に大きな開きはなかった(30)。そして,インドへの経済援助ではアメリカがソ連を大きく 上回っていたが,軍事援助では逆にソ連がアメリカを若干上回っていたのである。ソ連の場合は総額
58
億ドルのうちインドへの軍事援助の割合が12%
(58
億ドル中7
億 ドル)であったのに対して,アメリカの場合はわずか4%
(54億ドル中2
億ドル)にとどまっ ていた。つまり,インドへの経済援助ではアメリカがソ連を大きく上回っていたが,イン ドへの軍事援助では逆にソ連がアメリカを大きく上回っていたのである。ちなみにパキス タンへの同時期の軍事援助は,ソ連が1,000
万ドル以下であったのに対して,アメリカは7
億5,000
万ドルに達していた(31)。中印紛争の結果,1962
年末には欧米諸国もインドからの要請を受けて緊急軍事援助を開始している。さらに
1964
年にも第1
次防衛5
カ年計画 に対して,アメリカは主に砲兵工場の近代化と増設のための軍事援助を決定しているが,インドが最も求めるルピー決済での主力戦闘機
F
-104
の提供は,同盟国パキスタンの反発 を恐れて拒否していた(32)。ソ連のインドへの軍事援助が開始されたのは
1960
年のことであった。アメリカとの間 で相互防衛援助協定を締結し,パキスタンはアメリカから最新兵器供与の約束を取り付け ていたが,そのような動きに対抗して1960
年に調印されたのが第1
回印ソ軍事援助協定 であった。この援助協定(総額3,150
万ドル)によって,輸送機An
-12
を8
機,II-14
を24
機,Mi
-4
ヘリコプターを10
機ならびにインド北部境界地域の通信連絡体制を改善す るための諸施設などが提供された(33)。これがソ連によるインドへの軍事援助の最初であ(29) Stanislaus [1975] pp. 172, 174 ; Mehrotra, S. [1990] India and the Soviet Union : trade and technology transfer, Cambridge, p. 173.
(30) Joshua, W. and Stephen P. Gibert [1969] Arms for the Third World : Soviet Military Aid Diplomacy, London, pp. 102, 130.
(31) Joshua and Gibert [1969] pp. 102, 130.
(32) Times of India, 8 Jun. 1964 ; Ganguly, S. [1972] “U.S. Military Assistance to India 1962-63 : A Study in Decision-Making”, Indian Quarterly : Journal of International Affairs, 28-3, pp. 220-222 ; Banerji, A.K.
[1977] India and Britain 1947-68, Calcutta, pp. 253-255.
(33) Joshua and Gibert [1969] p. 58.
48
る。第
2
回印ソ軍事援助協定が調印されたのは1962
年9
月,つまり中印国境紛争でイン ド軍が大敗を喫する1
月前のことであった。この協定で注目すべきは,ヘリコプター,輸 送機,ジェット戦闘機ミグ21
の追加援助に加えて,ソ連がMiG
-21
のインド国内でのラ イセンス生産を認め,同機の製造工場の建設支援までもインドに約束したことであっ た(34)。キューバのミサイル危機以降も拡大しつづける中ソ対立を背景として,ソ連はインドを アジアにおける中国への対抗勢力として支援する方針を明確にしていく。一方,インド政 府は
1962
年の中印紛争での敗北を機に,これまでの軍事費抑制の方針を一変させて,2 年以内に兵員を倍増し,空軍の輸送志向型から戦闘志向型への転換を決定している(35)。MiG
-21
のライセンス製造契約はそれを象徴するものであった。続いて1964
年9
月に締結 された第3
回印ソ軍事援助協定では,インドの軍備増強方針に即して,MiG-21
が44
機,ヘリコプター
20
機,PT-76
戦車70
台の総額3
億ドルの軍事援助が実施された。その頃に は,MiG-21
の製造工場建設のためにも経済面と技術面の両方でようやくインドへの援助 が実施に移された。1965年に第二次印パ戦争が勃発すると,英米は印パ両国への兵器供 給を全面禁止としているが,その時点までにソ連を中心とした社会主義諸国から行われた インドへの軍事援助は総額1
億5,000
万ポンドに上った。それに対して,英米のインドへ の軍事援助額は,3,100万ポンドと2,200
万ポンドにとどまっていた(36)前述の通り,
1965
年に第二次印パ戦争が勃発すると,英米は印パ両国への武器移転を 全面禁止していが,67年にはアメリカが武器の禁輸を解除して,パキスタンへの軍事援 助を拡大させていった。アメリカからの武器移転はパキスタンがインドのほぼ倍に達して いたが,その額もソ連のインドへの膨大な武器移転に比べればはるかに小規模であった。アメリカからインドへの兵器類の供与・輸出は,すでに指摘した通り
1954
年に米パ相互 防衛援助協定が締結されて以降はパキスタンとの関係に規定されて,限定的なものにとど まっていた。いずれにせよインドは,アメリカを中心とした反ソ陣営からも軍事援助を引 き出しつつも,一方でソ連への軍事援助依存度を急速に高めていったが,その背景には米 パの接近ならびに中印関係の悪化があった(37)。アメリカに関しては,圧倒的な規模の経済援助にも関わらず,冷戦同盟国パキスタンと
(34) TNA, CAB21/5685 Supply of Military Aircraft to India : MIG’s Licence 1962-1963.
(35) Joshua and Gibert [1969] p. 69 ; コーエン,スティーブン,スニル・ダスグプタ著,斎藤剛訳[2015]
『インドの軍事力近代化─その歴史と展望─』原書房,38頁。
(36) TNA, OD 27/57 Indian Defence Expenditure 1966.
(37) TNA, OD 27/57 Indian Defence Expenditure 1966 ; Mott IV, William H [2001] Soviet Military Assistance: An Empirical Perspective, London, p. 226.
の軍事協定にも制約されて,インドへの軍事援助ではソ連を大きく下回っていた。では,
ソ連のインドへの影響力はどうであったか。ソ連の軍事援助はインドの軍事的自立化に貢 献したのであろうか。以下では,その点に議論を移していく。
(2) 防衛体制の自立化と軍事的自立化
首相ネルーは,独立当初,国家にとっての最重要課題は国民経済の発展を加速化させる ことであって,この目標の達成するために重要なのは民需産業部門の整備であると主張し た。だが,その一方で,兵器産業についてはその非生産的性質を認識しつつも,非同盟中 立のインドが軍事的自立化を達成するためには,その条件として兵器国産化を追及せざる を得ないと考えていた。しかし,印パ戦争や中印紛争などに直面して,当面の目標は軍事 的自立化(自主国産)から防衛体制の自立化(自主国防)へと変更を余儀なくされ,その 状態が今日にまで至っているのである。
そこでまず,兵器国産化,軍事的自立化,防衛体制の自立化の
3
つの用語がインドにお いてはどのように用いられているのかを確認しておきたい。じつは,この点も東アジアの3
カ国の場合と同じではないのである。最初に「兵器国産化」(indigenisation ; indigenous armaments production)(38)
であるが,そ
れは,一国の軍事的自立化のような広義の概念ではなく,軍事的自立化を達成するための 個別の取り組みを指している。次に「軍事的自立化」(self-
sufficiency ; self
-sufficiency in defence equipment)は,兵器生
産のすべての段階(原料調達から設計・開発までのすべての段階)を一国内で完結できる 体制を指す。そこでは兵器生産に必要な原料素材の確保から,他国の援助に依存すること なく(ライセンス生産の段階を脱して)独自の設計・開発までのすべてを遂行できる専門 技術者の存在までもが必要条件とされる。したがって,ライセンス生産方式による装備国 産化を含まない。いわゆる純粋国産化である。最後に「防衛体制の自立化」(self-
reliance ; self
-reliance in defence equipment)は,兵器
の海外依存(直接輸入やライセンス生産)を排除するものではなく,武器移転の多角化に よって自国の独立性を確保しつつ,兵器の設計・開発・製造の国内基盤を順次整備するこ とを目標とした概念である。インドにおける「兵器国産化」とは,このような内容の「防 衛体制の自立化」(ライセンス生産を含めての国産化)を当面の目標とし,その最終目標(38) Bitzinger [2017] p. 14.
50
として「軍事的自立化」の達成を視野に置いた取り組みなのである(39)。
インドにおける防衛体制の自立化(自主国防)と軍事的自立化(自主国産)の取り組み を独立直後から現代までの
150
年間の中で段階区分するとすれば,以下のような5
段階に 分けることができる。① 1947年の印パ分離独立から
1960
年代前半までの「軍事的自立化」が国家目標であっ た時代,②
1962
年の中印紛争以降80
年代中葉までの国家目標が「軍事的自立化」から「防衛体制の自立化」に置き換えられた時代,
③ 1980年代中葉から
2000
年代初頭までのロシア,イスラエルなど外国との共同生産 を介した「防衛体制の自立化」に力点が置かれた時代,④ 2000年から
2014
年までの「防衛体制の自立化」がインド民間セクターの大規模な 参入によって追求された時代,⑤ モディ政権下(2014年-)での「メイク・イン・インディア」政策の一環として民間 セクターの参入環境を改善し「防衛体制の自立化」が追求されている現代(40)。 このうち本稿で対象としたのは②の第
2
段階(1962
〜80
年代中葉)のみであるが,こ の段階で確定された「防衛体制の自立化」(ライセンス生産を含めての国産化)という冷 戦期南アジアにおけるインドの軍事政策は,その後現代に至るまで引き継がれてきている のである。さて,ここで留意しておきたい点は,インドとは対照的に,韓国,台湾,日本の場合,
アメリカの東アジア軍事政策の転換に対応して,この時代に自主国防・自主国産へと大き く踏み出したと言われているが,それはライセンス生産方式による兵器の国産化を含んで いるという事実である。
(3) ライセンス生産
① ライセンス制と国産化率
上述の通り,「防衛体制の自立化」(自主国防)は,兵器の海外依存つまり直接輸入やラ イセンス生産を排除するものではなかった。だとすれば,「防衛体制の自立化」は「兵器 国産化」や「軍事的自立化」とどのような関係のもとで進んだのか。以下では戦闘機の調
(39) Singh, Ajay [2000] “Quest for Self-Reliance” in Jasjit Singh ed., India’s Defence Spending, New Delhi, p.
127 ; Pardesi, Manjeet S. and Ron Matthews [2007] “India’s Tortuous Road to Defence Industrial Self-Reli- ance”, Defense & Security Analysis, 23-4, pp. 420-421.
(40) Behera, L.K. [2016] Indian Defence Industry : An Agenda for Making in India, New Delhi. pp. 3-17.
達に注目してこの点を確認していく。
インド空軍は
1950
年代に至るまで戦闘機のほとんどをイギリスに依存していた。1950 年にはデ・ハビランド社(英)とのライセンス契約に基づいて,最初のジェット戦闘機バ ンパイアの生産が始まった。つづいて1956
年には,フォラント社(英)の軽量戦闘機ナッ トならびにブリストル社(英)のオフューズ・エンジンなどで相次いでライセンス生産の 契約を締結している。一方,「兵器国産化」の観点から言えば,インド初の機体独自設計による超音速ジェッ ト戦闘機マルート(HF-
24
-Marut,エンジンはブリストル社(英)製オフューズ 700
エン ジン二基搭載)が1961
年に完成し,1964年には初の国産エンジンHJE
-2500
を使用した ジェット練習機キラン(HJT
-16
-Kiran
)が試験飛行に成功していた(41)。この両機は今日で もインドにおける兵器国産化を象徴する存在として高く位置づけられており,ニューデ リーのインド空軍博物館でもバンガロールの科学技術博物館やHAL
ミュージアムでもマ ルートの扱いは特別である。ソ連のMiG
-21
の扱いとは比較にならない。だが,戦闘機に関しては,1961年のマルートから
1980
年代に開発のはじまったインド 国産の軽戦闘機(Light Combat Aircraft : LCA
)に至るまでほぼ20
年間にわたって,独自(41) Committee on public undertaking (1967-68), eight report : Hindustan Aeronautic Ltd., ministry of defence, New Delhi, p. 63.
インド空軍のジェット戦闘機マルート
インド空軍博物館(ニューデリー)にて,筆者撮影
52
の設計・開発はほとんど中断したままであった(42)。インドはソ連からのライセンス生産に 大きく依存して,インド航空機産業の設計・開発分野では進展はなかったと言われている。
その点との関係で最も注目すべきは,やはり第
2
回印ソ軍事援助協定のもとで1963
年 にはじまったソ連製の超音速ジェット戦闘機MiG
-21
のインド国内でのライセンス生産 である。具体的には,① 輸入主要コンポーネントの組み立て(セミ・ノックダウン生産),② 輸入部品の組み立て(コンプリート・ノックダウン生産),③ 部品の製作,④ 原料素 材からの製造,以上のような段階的展開が計画されていた。
1964
年には,バンガロール の旧来からのHAL(Hindustan Aircraft Limited,1940
年設立)がMiG
-21
のライセンス生 産のためにインド各地(ナシク,コラプート,ハイデラバード,カンプール)に開設され た専用工場と統合されて,国内最大規模を誇る国営兵器企業HAL
(Hindustan Aeronautic
Limited)が誕生している。HAL
はソ連とのライセンス契約に基づいて,その後20
年間にMiG
-21
を700
機以上製造してきており,1960年代末にはいわゆる国産化率(indigenouscontent)が 60%
に達していたと言われているが,それでもHAL
の設計・開発部門は萎縮したままであった(43)。当時のインドにとっては,インド空軍の拡充要請に迅速に対応して,
防衛体制の強化を図ることが最優先課題であって,独自の設計・開発による兵器国産化の 取り組みは,いまや二義的な課題でしかなかったのである(44)。
② 装備品の輸入代替化
航空機部品の輸入代替の試みがまったくなかったというわけではない。たしかに
1970
年代中葉においても,適切な機体素材の不足や航空機部品で求められる厳しい製造仕様な ど輸入代替に際しては難問山積であった。加えて,注文数が限られているために,多くの 航空機部品がインド国内では生産コストが割高とならざるを得なかった。だがそれでも,タイヤ,油圧シール,電気部品,電気ケーブル,バッテリーのような複雑な技術を必要と しない製品についてはインド航空機産業向けに国産化も可能であった。アルミ合板の国内 生産も実現した。
1970
年代前半にはラクナウに航空機産業の付属品を製造する専用工場 も建造中であった。その完成によって外国依存からの大幅な脱却が期待されていた。ラク ナウ工場での製造予定品目は,車輪,ブレーキ装置,着陸装置,飛行制御装置,燃料・油 圧・計器システム,さらには航空機の射出座席などに及んだ。しかし,それらのインド国 内での生産もイギリス企業かソ連からのライセンスによるものであった。つまり純粋な国(42) Singh [2011] p. 167 ; Singh [2013] p. 236.
(43) Hindustan Aeronautics Limited [2001] Diamond in the Sky : Sixty years of HAL 1940-2001, New Delhi, p.
98-99.
(44) Singh [2000] pp. 133, 145 ; Singh [2011] Indian Aircraft Industry, New Delhi, pp. 167, 256-257 ; Singh
[2013] Defence from the Skies : Indian Air Force through 80 years, New Delhi, p. 236.
産化ではない。当初,それらの部品は輸入に全面依存していたが,ひとまずライセンス契 約によって現地製造に置き換えたのである(45)。また,1974年にはバンガロールに鋳造・鍛 冶工場が設立され,アルミニウムとマグネシウムの合金の開発製造,鉄・非鉄合金の鋳造 鍛造の独自開発も実現していた(46)。これらはすべてライセンス生産による技術蓄積の成果 と言えよう。
③ ライセンス部品の海外輸出
かつて英仏両国はインドに対して,戦闘機のライセンス契約ではインドで製造された航 空機部品の海外販売を容認するという条件をあえて提示していた。ソ連に対抗するための 譲歩であり,それ自体はインドにとって大変魅力的なオファーであった。しかし,最終的 にインドが締結したソ連との
MiG
-21
の製造に関するライセンス契約では上記の海外輸出 は一切禁止されていた(47)。のみならず,インド国内でのライセンス生産ではたとえ部分的 にでも修正を加えることにソ連は否定的であった(48)。ソ連にとってインドでのMiG
-21
の ライセンス生産は,インド兵器市場における欧米諸国の影響力を排除して,みずからがそ れに取って代わることが目的であって,インドにおける兵器国産化を手助けするものでは 決してなかったのである。ライセンス生産は,技術移転と経済性というメリットだけではなく,部品・完成品の海 外輸出による国際収支改善への貢献という点でも大きな可能性を有していた。インドの兵 器製造企業はすべて国有企業でその数はわずか
8
社程度(ヒンダスタン航空,バーラト電 子,バーラト・アース・ムーバー:
大型産業用車両,マザゴン造船,ゴア造船,ガーデン リーチ造船造機,バーラト・ダイナミクス:
ミサイル開発製造,ミシュラ・ダト・ニーガ ム:
電子機器,超合金製造)に限られていた。そのうちの最大規模を誇る企業が先述のヒ ンダスタン航空であったが,各社の輸出収益という点ではバーラト電子とマザゴン造船所 が突出していた(49)。じつはこの両社は他の兵器製造企業と同じように国防公共セクター受 注企業(Defence Public Sector Undertakings
)に属してはいたが,内外の民間市場に大きく(45) US National Archives : The Central Intelligence Agency (CIA), South Asian Military Handbook, August 1974, pp. IV-3〜IV-4.
(46) Standing Committee on Defence (2006-07) Fourteenth Lok Sabha, Ministry of defence : In-Depth Study and Critical Review of Hindustan Aeronautics Limited (HAL), p. 6.
(47) Ross, Andrew L. [1989] “Full Circle : Conventional Proliferation, the International Arms Trade, and Third World Arms Exports,” in Kwang-II Baek, Ronald. D. McLaurin and Chung-in Moon eds., The Dilemma of Third World Defense Industries : Supplier Control or Recipient Autonomy, Inchon. pp. 19-21 ; Brzoska, Michael and Thomas Ohlson eds., [1966] Arms Production in the Third World, SIPRI, p. 141.
(48) Committee on public undertaking (1967-68), eight report : Hindustan Aeronautic Ltd., Ministry of Defence, New Delhi, p. 66 ; Singh [2000] p. 145.
(49) Report 1979-80, Government of India, Ministry of Defence, New Delhi, pp. 36, 39.
54
依存して,国有兵器企業でありながらも海外の民間市場にも大規模に輸出していたのであ る。この点については後段において改めて紹介するとして,ここではさらにもう一社,兵 器製造企業ではないが東西両陣営からの資金援助で
1958
年に設立されたバーラト重電機(
Bharat Heavy Electricals Ltd. :
以下,BHEL
と略記)に注目して,1960
年代におけるインド 産業化の到達点とアジア諸国への産業技術や重電機器の輸出の実態を紹介しておく。BHEL
は,1958年に発電用機械を製造する国有企業として操業を開始している。BHEL は総合的電力関連企業であり,製造品は多岐に及んだ。一例を上げれば,蒸気タービン,変圧器,リアクター,電線管,制御装置,コンデンサ,発電機,各種工業用機械,電動ト ロリーバス,整流器などである。1968年に輸出促進を目的として,輸出販売部が開設され,
同年,アラブ連合共和国からの大規模受注を得て,ついに海外市場に乗り出す。その後に 輸出した重電機器には,エジプト,シンガポール,ガーナ向けのモーター,制御装置,コ ンデンサ,イラク向けのスイッチギヤ,マレーシア向けのタップ切り替え器などがあっ た(50)。BHELは創業後わずか
10
年足らずにして,重工業部門で世界展開が出来るインドを 代表する国有企業となったのである。1970年代末にはリビアの火力発電所やマレーシア とブータンの水力発電装置など,BHEL
による海外での一括事業請負も見られた(51)。重工 業部門ではこのような海外展開が見られたが,それにはイギリスとソ連からの資本援助と 技術援助が大きく関わっており,韓国で見られたような軍事主導型の重工業化の成果では なかった。4. おわりに─民需と下請け─
上記のインドの兵器製造企業は現在に至るまで一貫して
10
社程度にとどまり,外国企 業の参入や兵器生産の民営化は一貫して排除されてきた。兵器生産体制のこうした排他的 な体質こそがインドにおける「軍事的自立化」を阻んできたという批判も多いが(52),ここ ではそうした兵器企業の生産活動の約半分が民間市場を対象としていたという事実に注目 したい。インド民間航空は最新鋭の旅客機をイギリスのヴィッカーズ・アームストロング 社やアメリカのロッキード社やボーイング社などからの直接購入に依存しており,ヒンダ スタン航空はほぼ完全に軍用機生産に特化していたが,高い海外収益を上げていたバーラ(50) Kundu, A., G.K. Misra and R. Meher [986], Location of public enterprises and regional development, New Delhi, pp. 49-51.
(51) Lall, S. [1982] Developing countries as exporters of tecŠology, London, p. 103, Appendix, Table A.4.
(52) Bitzinger [2017] pp. 87-88 ; 伊豆山真理[2016]「インドの装備調達─買い手からつくり手へ?─」
『防衛研究所紀要』18-2,36頁; コーエン[2015]150-153頁。
ト電子の民需依存度は約
40%,バーラト・アース・ムーバーは約 30%,マザゴン造船所に
至っては70%
にも達していた(53)。これは何を意味しているのであろうか。軍民統合の成果 というよりは,軍事主導型の工業化がいまだに未発達であったことを物語っている。国民 経済に根を張った軍産複合体(indigenous military
-industrial complex
)の存在を反映したも のではなかった(54)。韓国で見られた自立的兵器生産体制確立のための産業基盤の整備や,台湾での経済発展と技術開発の進展を前提とした政府主導による通常兵器の自立的開発・
国産化や,さらには日本の
3
次防で見られたライセンス生産方式による装備国産化を含む 兵器国産化と国産防衛技術の研究開発,これらは当時のインドでは確認できなかった。インド政府防衛省の報告書は兵器製造企業の抱える下請け企業の成長と広がりを指摘し ているが(55),一般産業分野においても近代技術の普及と民間企業の成長では多くの課題を 残していおり,インドの兵器産業が広範な下請け体制を擁していたとは到底考えられない。
ちなみに
1951
年時点でインドの工作機械市場に占める各国の割合は,アメリカが22%,
西ドイツが
7%,日本が 5%
であったのに対してイギリスはじつに60%
を超えていたが,その後はアメリカのシェアが急増している(56)。
1968
年にマザゴン造船所で進水したインド海軍初のフリゲート艦ニルギリの鋼板の国 内自給率は65%
に達していたと言われている。だが,艦船全体の国産化率(indigenouscontent in the entire warship)は 30%
にとどまっていたと言われている(57)。この艦船建造計 画が「兵器の完全国産化」計画の一環であったことを考えれば(58),この数値はかなり低い と言わざるをえないが,そこには当時のインドの民間産業の状態を反映した克服しがたい 課題があった。必要とされる資材・機械・設備の品質はもとより納期や数量も指定どおり に確保することがそもそも困難であった。そのような事情で,当時のインドの民間産業は,軍艦建造で必要とされる特殊な設備や資材を国産できるレベルに達しておらず,ほとんど を輸入に頼らざるをえなかったのである(59)。マザゴン造船所の船舶修理部門における各種 設備はやはり圧倒的部分を輸入に依存していた。インド造船業の自立化を支える機械製造
(53) Matthews [1989] pp. 414-415.
(54) Bitzinger, R.A. [2014] “The Indian Defence Industry : Struggling with Change”, in R. Basrur, A.K. Das, M.S. Pardesi eds., India’s Military Modernization : Challenges and Prospects, New Delhi, p. 119.
(55) Report 1979-80, Government of India, Ministry of Defence, New Delhi, pp. 38-39.
(56) アジア経済研究所報告双書[1961]『インドの機械工業と貿易構造』アジア経済研究所,153頁,
表12参照。
(57) The Times of India, 22 Oct. 1968.
(58) The Times of India, 1 May 1970.
(59) Mazagon Dock Limited [2010] A Golden Voyage, Mumbai. p. 109 ; Thomas, Raju G.C. [1975] “The Politics of Indian Naval Re-armament, 1962-1974”, Pacific Community, 6-3, p. 471 ; 横井[2016]「戦後冷戦下の インドにおける航空機産業の自立化」横井編『航空機産業と航空戦力の世界的転回』日本経済評論社,
361頁。
56
業の発展はいまだに期待できなかったのである。この点,1970年代の台湾の中国(台湾)
造船公司とは大きく異なる。
しかし,最後に先端的の事例についても指摘しておかなければならない。冷戦期におけ る軍事産業都市バンガロール(現ベンガルール)の誕生である。独立直後からインド政府 は,南部の内陸に位置するバンガロールに重要な研究施設や防衛関連産業を集中させる方 向で設備投資を行ってきていた(60)。ヒンダスタン航空(1940年設立,1964年再編),イン ド科学大学院大学航空工学科(
1940
年開設),バーラト電子(1954
年設立),国立航空研 究所(1959年設立)やガスタービン研究開発機関(1959年設立)などが,すべてインド 空軍の軍事的技術的要請に応えた航空機生産体制の拡充・近代化の過程でバンガロールに 集中している。さらにバンガロールでは1950
年代までに,マイソール電気産業(1945
年 設立),インド電話産業(1948年設立),ヒンダスタン工作機械(1953年設立),新政府電 気工場(1956年設立)など,当地の産業発展を支える各種企業の集中も進んでいた(61)。バンガロールには南アジアで冷戦が本格化する以前に軍事産業都市としての条件が整い つつあった。先端的な兵器製造分野から周辺産業への技術移転も継続して行われ,それが その後の
IT
産業都市バンガロールの布石を成したと言えよう。だが,インドを総体とし てみた場合,米ソ両超大国から経済援助と軍事援助があったとしても,冷戦下の東アジア で見られたような軍事主導の重工業の発展や産業構造の高度化は期待できなかった。その 点は民需市場や兵器下請け企業の成熟度の低さから明らかである。さらに加えて重要な点は,非同盟中立のインドは,韓国,台湾,日本のように同盟国あ るいは旧同盟国であるアメリカからのライセンス契約を通した武器移転を兵器国産化の範 疇に加えることはせず,兵器の国産化(自主国産)を前提としない防衛体制の自立化(自 主防衛)を追求したという事実である。インドにおいては「軍事的自立化」はライセンス 生産方式による装備国産化を含まず,兵器の海外依存(直接輸入やライセンス生産)は「防 衛体制の自立化」においてのみ許容された。そのような戦略思考の違いは,アメリカとの 相互防衛協定によって軍事援助を受けつつ軍事的自立化を追求した韓国,台湾,日本と非 同盟中立主義を掲げ,パキスタンや中国との緊張関係の中で冷戦外交を展開しながら防衛 体制の自立化を追求したインドとの冷戦下における位置関係の違いを反映していると言え よう。
(60) Stallmeyer, J.C. [2001] Building Bangalore : Architecture and urban transformation in India’s Silicon Valley, New York, p. 35 ; Stremlau, J. [1996] “Dateline Bangalore : Third World TecŠopolis”, Foreign Policy, 102.
(61) Kahatriy, S.S. [2003] Silicon Valley Greats : Indians who made a difference to TecŠology and the World, New Delhi, p. 32.
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