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棲神 第40号 (学長米寿・新校舎落成記念号)

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(1)

第40号

学長米寿・新校舎落成記念号

身延山短期大学学会

(2)

膝ノ│: l l紳学1を猟 ’ 函一乱▲廿 − 鯛 酔 事 ゾ ー ﹄ ■ 。 旬 ・ ’ 四 叫 制 艮猟|、、御染′'ii

(3)
(4)

日蓮聖人の神祗観l天照太神・八幡大菩薩を中心としてl:⋮:・・・:・ 末法思想に関する試論I﹁末法為正﹂︵日蓮︶の意味を考えるl⋮.:・

・ハールフット彫刻からガンダーラ仏へ︵大乗仏教の基盤の考察︶⋮⋮

比丘尼教団の成立に就いて::::::;:⋮:;・⋮::::.⋮:⋮・・⋮:。: 宗教と音楽l宗門の現代化に関連してI.::;.:.⋮::..:::⋮.:⋮:: 。ハストラル。カウンセリングの基礎的原理について lヒルトナーの所論を中心上やしてI うもれている記念塔:。::::::.::;::::::・・・:。:⋮⋮⋮⋮ スチーブン・クレーンについて:。:・・・・・・・:・・:.⋮;・・・:・・:・・・・⋮;..::: 身延山短大・商校々舎並びに大講堂落慶式に当りて 校舎建築経過報告・・⋮..⋮.:..:;::..:⋮..:.;;・⋮ 謙寿法主︵学長︶狐下米寿⋮.:⋮:⋮・⋮:・・・:::..: 新校舎落成に際して:.⋮・・⋮・⋮⋮:::.:.;;::.・・・: 学長藤井日静狼下略年譜:..・・・:.⋮:.:::::.:.::

棲辛

学長近影・染筆。新校舎

学剛だより・図洲鮒だより

後記

第四十号目次

学会梨報

身延

望月

松木

里見

秋筒高町上

高橋堯

室住一

大森

山井橋田田 張本Iヨ 智妙堯是本

孝妙慧孝清昭正昌

/声、/ 、 / 、 /南、/毎、/=、〆-,〆-、

113 102

90

80 64 40 32 11

、_ノ、=ノ 、_ノ 、_ノ讐一、_ノ ミーノ 隠興雄静 へへへ/へ/ 、

膠u旦乙&

︵燗︶

(5)

身延山は日通聖人留魂の聖地であって、私共、愉れの雛地であります。大聖人が弘安四年九月十一日南条兵衛七郎 殿に与え給うた御番を拝すれば、﹁この所は人倫を離れたる山中也、東西南北を去りて里もなし。八中略V教主釈 尊の一大事の秘法を霊鷲山に相伝し、日蓮が胸中に秘して隠し持てり。かかる不思議なる法華経の行者の住処なれ ば、いかでか霊山浄土に劣るべき、法妙なるが故に人貴く、人貴さが故に所尊しと申すは是也。﹂と弦に吾が身延山 は近く聖誕七百五十年と、御入山七百年の開開会を迎えますので柳か報恩謝徳に擬すべく関係の機関に計って、老朽 その極に逮せる身延山短大と高校の校舎を近代式鉄骨を以て新築すぺく全国寺院信徒各位の絶大なる御協力を得て、 老衲誕生の十月一日を以て落慶式を挙ぐる事に至りました事を謹んで報告し併せて御礼を申述べる次第であります。 抑も大型人が身延御入山の旨を推し奉るに、外には三諌容れられず、山林に交るという古聖の芳燭を踏み給うと錐 も、内には子弟を教存し、教護を明らかにして妙法広布末法万年の暗黒を救うためでありました。諸御齋を拝すれば ﹁昼は終日一乗妙典の御法を諭談し、夜はよもすがら要文調持の声のみす﹂と常精進の御生活であって、聴聞する者

身延山短大高校々舎並に

大講堂落慶式に当りて

身延日

( 3 )

(6)

は限られた人々でありました事は、下山抄に﹁おぼろげの強縁ならでは、かない難く候⋮⋮閑所より忍びて参り、御 庵室の後にかくれ、人々の御不審につき、あらノー御法門説かせ給い候さ﹂とあるを以てしても、推し計ることが出 来ます。今日伝えられる御義口伝、日向記の両沓は共に大聖人が身延山に於て法華経御識義の華録を伝えられ、勿体 なくも三間四面の草堂であって草葺の草庵が即是道場の識堂であらせられたのであります。 今、この立派な近代式に建立された大識堂と大学の校舎を眺め、身延山文庫に入って古記録を拝し、先年再版した ﹁身延鑑﹂を締けば、先師先哲の御苦労が思い出されます。老衲が始めて祖山に奉職した明治の末期、豊永日良法主 時代は既に学校は明治以来柵山学院と称して多くの偉才を輩出して名高く、恩師日謙法主の時、再び祖山に職を奉じ た時には、身延山専門学校と称し、戦後身延山大学を公称していますが、それ以前徳川時代には西谷植林と呼ばれて 只今の西谷施坊の鮒の広場から北之坊の海った位樅に西谷檀林が偉容を誇っていた事は﹁身延図経﹂に明らかであり ます。この図絲に腕植林と大番してあるのがこれであります。法華題目抄に﹁腕植の一葉開きぬれば四十由旬の伊蘭 変ず﹂とあり、世間でも﹁腕檀は二菜より芳ばし﹂とも申します。﹁摩梨山には航檀生ず、今この処︵身延山︶もか くの如し、仏菩薩の住み給う功徳聚の棚也﹂と大聖人は身延山の事を腕檀にたとえて仰せられました。伊蘭は毒草で 悪臭が強く、春夏の頃、摩梨山に薮の如く茂りますが、一たび腕檀が仲秋明月の光に照らされて、伊閲の薮の中に腐 植の一葉が芽を出しますと、さしもに四十由旬と云う広さの伊蘭の薮も枯れ果てるのでありますが、恰も法華経の題 目が世間の暗然を照すが如きであります。 抑て西谷植林の中央に﹁藩学院﹂の大額を拝む事ができます。身延鑑に﹁それより植林に至り拝み申せば善学院額 あり、識堂は九間に十一間、能化寮は五間に七間、飯台所は七間に九間、ばんとう寮は四間に七間、座配の数は三百 ( 4 )

(7)

余、幸 ます。 玄 大講堂の﹁善学院﹂の額、これが身延山大学の元祖であって、身延山第十四代善学院日鏡上人が御在山十三年後 ﹁弘治二年西谷に善学院を建てて閑居すること三年、又能く能化を集めて誰談す。蓋し西谷檀林の発祥これ也﹂と身 延山史に認めてあります。この日鏡上人は数百年後の今日に至るまで、甲駿遠の三国、今の山梨静岡両県下に鏡師法 縁の寺院の多きことは、上人に私淑せる門下の多きことと、その感化力の偉大であった事を物語るものであります。 この普学院が後にお万様の御師、心性院日述上人によって西谷植林という内容外観の備った学校というより立派な迩 場が出来上ったのであります。記録によりますと、岐初に﹁九間に十一間の大識堂か出来上りました。これは安藤壱 岐守寄進とあります。そして心性院日述上人自ら西谷植林の第一代化主となられましたが、当時我が筬門は不受不施 問題で多事多難であり、宗門の代表者である心性述師はコ時は識義の中止の時あり﹂切角造った植林で識義も出来 ない状態でありましたが、志は問く﹁慶長十九年刊び洲栽を開き別頭の教観を税けり﹂と、これから施檀林が日を追 うと共に学徒か雲集してきました。 第三十三代述沽院日亨上人の正徳年間には識堂・厨舎学寮等数十余棟、学侶数百人を数ふるに至りました。 私共は静学院日鏡上人と心性院日述上人と遠沽院日亨上人の御苦辛を思う時、うたた断腸の思いがいたします。 西谷植林が如何に内容の充実した学問所であったかは、その組織と学則を見れば判然と致します。それから常経堂 を別慨して﹁如法の読経怠りなし﹂という言葉の中に、学問と共に修行の大切なことが伺えるではありませんか。 最近アメリカは各方面から日本の現状を詳しく観察して去る本年八月八日、ボストン大学々生七名は東京大崎立正 文止観昼夜講説、常経堂には如法の読経怠りなし﹂とありますが、これで旋檀林の活気に満ちた様子が窺われ ( 5 )

(8)

大学から、村野宣忠教授指導の許に、身延山を訪ねて私にずいぶんぶしつけな質問を致しました。これは日本の様な 小国が日清、日露の戦争や、大東亜戦争に大敗はしたが、世界の大国を相手に、永年の間戦った国力には、その反面 に持久力となる精神的源泉は何かという調査であります。彼等は、寺小屋式の教育方法、即ち教師も学生も打って一 団となって、共に学び、共に修行し、共に談じ、共に遊ぶ、能所一体となって教育に励むことがすなわちその源泉で あると、報告したとの事であります。その教育法は学問の切り売りに終らず、精神的な堅い結びつきが、持久力の源 泉であって、寺小屋式教育にあると考えます。 近来﹁頭脳の流出﹂の声を艇耳に致しますが、これは近代科学の粋を集めた傑出せる技術者の交流であります。近 来外人が吾国に来て、新幹線を見て恐畏を感じ彼等はこの技術よりも三倍の速力を出して米国東海岸の桑港から大陸 を横断して、太西洋岸のニューヨークに通ずる道を計画中なりとのことであります。 今や否が技術は世界の恐艮となって糒巧なる磯械が海外を雄飛するに至っては、欣快に堪えません。これは独り物 衝文化のみに限らず、精神面に於ても然りであります。本化別頭の法門に至っては、世界は一つというのみでなく、 通一仏土といって宇爾法界は一つであるというに至っては、典に天衣無縫と云うべきであります。 今や香り商さ胸檀林の行学を継承せる、吾が身延山大学並に高校は、先師菩学鏡師並に心性遠師の御苫辛に対し て、将来は僧風教育の道場たらしめたく期待する次第であります。 舷に身延山大学高校々舎並に大講堂の落慶式に当って、全国の寺院並に信徒各位に対し謹んで、御礼を申し述べる 次第であります。 (6 )

(9)

身延山大学の校舎新築に就いては、現法主税下が御入山遊された昭和三十四年迄に何回か計画されたのですが実現 されなかったのであります。昭和三十七年身延山大学の創立五十周年に同窓大会が催された時に、出州者一回により 大学新築の希望決識がされました。昭和三十九年に身延山当局は昭和三十八年の開鮒七百年紀念の事業に就いて研究 した結果、大識堂と校舎の新築が決定し、結局五階の校舎を作ることに決議機関の承認を得たのであります。 昭和四十一年が法主現下の米寿の記念の年になりますので、寄附募集も工事も共に急いで満手したのであります。 設計は大阪の双星社々長竹腰健造博士にお願いし、工事の諭負は大阪の佐伯建投工業株式会社社長佐伯蝋氏で、実 際の工事施工者は九州大分の佐伯建設社長川崎啓一氏にお願いしました。 本年三月八日に上棟式を行い、八月内外の工事が完了いたしました。 その建設の総収支は次の通りです。

総収入弐億四千六百九十参万壱百八拾参円

経過報告

寺院並信徒等寄附金壱億六千七百七拾八万参百六拾五円

内入 訳

身延山大学学園理事長望月

(7 )

(10)

建築礎弐億四千六百九拾参万壱百八拾参円

不足金額弐千壱百弐拾四万壱千四百四壱円

こうして、身延山大学の校舎と講堂は立派に完成されました。私には身延山大学が立派に完成されたことに関連し て思い起すことがあります。それは今から約三十年程前、当時の法主日謙上人の代に身延山の西谷に信仰道場が造ら れ、今日の宗門の欠くべからざる行の道場となって居ることであります。そして本日、日謙上人のお弟子の現法主狼 下によって、学の道場が完備されました。こ典から、吾々としては益々行学二道を励み、我もいたし人をも教化する 人材を作ることに努力しなくてはなりません。この問題は我々の今后に課せられた責任であります。 尚、身延山大学々園の落成を記念して、学園歌を一般に募集しました処七十通あまりの応募作品が集りました。審 査の結果、その中から岡本淳三氏のものを当選と決定し、北川冬彦先生に補筆して頂きました。 作曲は身延山本願人ビクター音楽学院の理事長田中はま先生にお願いして、戸根一郎氏が作曲されたものでありま す ○

本山寄附金六千八百万円

利息壱千壱百拾四万九千八百拾八円

総支出弐億六千八百拾七万壱千六百弐拾四円

内訳

−8−

(11)

仁者が長しといひ、昔から高僧・磧徳といはる典方々は概して長命であらる典・塵点劫来不滅の寿を保ち給ふ仏と は何を岩間のこけ清水た寛慈悲心にしくものはなし、で仏の本質は慈悲心であり、此の慈悲心に催されて三世不休の 化遊の起るのが仏の久遠劫来の無功川の大道と忠はる典のである。志士仁人は身を殺して仁を為すといふが、自らの 使命の自覚の前には身を殺すといふ自任はなく只悠々自適自己の所信に向って進む間に清浄なる宗教家としての、仏 陀・聖祖の後継者としての大絵巻が展開して来るものと思はるる。私はこれを学長税下に見る、税下が若きより殆ん ど寧日なく、法華経の大教を宣布法化せられての積功累徳の八十八年これが狼下の米寿といふ現下御自身よりも宗門 人全体の慶びとして寿ぎ度い、近く白寿を迎ふる一段階として先づ米寿をお祝いしたいと思ふ。 其の米寿の記念として祖山学苑校舎の改築を思い立たれて己に総坪数一、二○一・三六鉄筋コンクリート五階建て の校舎の完成を見、十月一日の狼下の誕生日を期して落慶式を挙げられ様として居る。 祖山学苑の変遷については訂正すべき点もある様だが身延山史があり、又林是幹教授が居られて何れかの機会に発 表せらる些事と思ふが、私の知れる六十年の短時日の間を顧みた丈でも幾変遷がある。中田阜師の祖山教学に対する 希望の表れと見るべき大学院といふ大きな看板だけが書院の片隅に立てかけられて在り、教室らしい教室はなく、明

謹寿法主李屋現下米寿

松木本興

(9)

(12)

治八年身延山大火の後棲神閣其の他の諸堂宇建立の際の普請会所が大学院の教室、教師・生徒の宿舎、山林部堂員の 頓所にあてられ、別に現在の新応接の所に小檀林の教室と称する建物があり、其の二階の一室に島知良先生が居られ て全生徒の監督にあたって居られた、萩の松下村塾の未整理の有様といえば間違いない様なものだ。大正六年武生の 青山様の御寄進に依って校舎が出来たが是も岐近では危険校舎になってしまって校舎が欲しいと関係者の二十年来の 希望であった、前後六十年の夢が実現して昔の武井坊の坊舎と野菜畑の地に身延山の将来を托すべき青年教育の機関 が厳然として天空に聾ゆることになったのであるが、これを記念して毎年発行して居る楼神の記念号を世に出したい

といふので拙筆を走らした。︵四二、九、一二︶

(〃)

(13)

棲神の第四十号を、学長現下の米寿と新校舎落成の記念号として発刊することになった。学長狼下の積極的なお考 えと、理事長の決断によって、近代的な校舎が立派に竣工した。五十年以上の年輪を重ねた木造校舎に代って鉄筋コ ンクリート五階建ての新校舎が、緑の山を背景に建っている姿は、実に壮観である。 過去何十年もの間、本学関係者は教師も学生も、卒業の同窓も、待望していただけに、その喜びに一入深いものが ある。校舎新築は過去の長い間に、幾度となく計画されては、立ち消えていたもののようである。私たちの知らない 旧い時代につくられた設計図などが事務所にあるのを見ても、先輩たちの熱意が見えるようである、それだけに本学 卒業の同窓諸賢も口を揃えて心から喜んでいただいた。それと同時に、此処に到るまでの陰に陽に、物心両面にわた っての御支援も絶大なものがあった。同窓諸氏のみならず、宗門有縁の方々、身延山有縁の各氏の御後援も、筆に尽 せないものがある。またこのような大事業が遂行されるまでには、私たちの知らない思はぬところで、思はい人々の 御好意や御尽力を受けているものであり、思ひ合せて感謝に堪えないものがある。此の新らしい教育の場に、充実し た教育と研究の内容を芽生えさせることにつとめることが、私たちのこれからの進むべき道であることを術感する。

新校舎落成に際して

身延山高校蕊長里見泰穏

(血)

(14)

明治十二年

明治二十年

明治二十六年 明治二十八年 明治三十一年 明治三十二年 明治三十四年 明治三十八年

明治四十年

明治四十一年 明治四十二年 明治四十四年

学長・藤井日静睨下略年譜

十月一日東京神田錦町陸軍御用達薪炭問屋豊後屋に生まれる。 父藤井太郎太、母とめ。幼名三男︵みつを︶と命名される。 束京車坂尋常高等小学校入学。 九凡望凡日謙上人について得度して僧道の第一歩を踏み出す。 俗名三雄を教仁と改名す。 山梨中植林に入学。 東京錦城中学校に転入。 日露戦役に陸軍兵として出征。 束京正則英語学校商等部入学。 山梨県妙太寺住職となる。 祖山大学院を卒業。 風間幸と結婚。二月六日父太郎太死去。 山梨県泉能寺住職となる。二月一日長男教雄誕生。 一月三日長女安子誕生。 (12)

(15)

大正 大正 大正 大正

大正十年

大正十二年

昭和三年

昭和十一年

昭和十二年

昭和十三年

昭和十四年

昭和十七年

昭和十八年

昭和二十一年 昭和二十一年 昭和二十二年 六五二元 年年年年 山梨仏教会布教師、身延山布教師、免囚保護司。 六月十六日次女よし子誕生。 中山荒行堂に入行。 九月宗門初の映画布教を各地で行い大きな反響を呼ぶ。 一月十日三女静江誕生。 七月十六日次男安国誕生。 十二月京都満願寺住職となる。 二月二十五日母とめ死去。 日蓮宗専任布教帥。 身延山法主望月日謙上人のもとで御廟奉行をつとめる。 四月身延山執事となる。 僧正昇叙。 四月東京身延別院主梼となる。 一月身延山総務代行に就任。 八月総務に就任。 祖山教学財団理事長。 四月信行道場主管に就任。 (”)

(16)

昭和二十三年 昭和二十四年 昭和二十四年 昭和二十六年 昭和二十七年 昭和二十九年 昭和三十四年 昭和三十五年 昭和三十六年 昭和三十八年 昭和三十四年 灯明会支部長。 身延山大学校舎建設委貝長。 総務を辞任。 権大僧正昇叙。 雑誌﹁願満﹂を発行。 東京都修法師会々長。 海士山麓電鉄社長堀内一雄氏とはかり、全国檀信徒に呼びかけて経ヶ岳常唱堂を復興させる。 御真骨奉遷常任委員長。 教仁を日静に改名す。 東京都東部家務所長に就任。 七月身延山第八十六世法主として入山。 身延山短期大学々長に就任。 身延山街頭布教隊を組織し各地に派遣すると共に自ら陣頭に立ってこれを指揮す。 第一回東京街頭布教を実施。 一月三十日第三十八代日蓮宗管長に就任。 第一回日蓮宗護法連動を東京に於いて開催。十二月八日ハワイ真珠湾アリゾナ艦上に於いて 追悼法要を営む。 (I4)

(17)

昭和四十年

昭和三十九年 昭和四十一年 昭和四十二年 教育新潮社より〃救国の宗教を生きる〃を発刊。 四月大阪府磯長叡福寺第十一世座主に就任。 六月十七日世界連邦世界大会に名番団長として渡米〃逝義の実践″を提唱。 大会終了後、北米各地を巡教。 私学振興の功労に依り勲三等瑞宝章を受ける。 東京で米寿祝賀会を開く。 十月一日身延山短期大学々園鉄筋五階新校舎並に大講堂完成す。 (1S)

(18)

この上代人がどうして古来からの宗教のほかに、外国から入って来たもう一つ別の宗教を求めて行ったのであろう か。と云うに、その当時に於ける唐の国の文化は、わが国より遥かに秀れており、文字を始めとして暦や易学、或い は農工・医薬等の生活水準が全般的にわたって、わが剛上代人の目を驚かしめたのである。この外国異民族の文化に 好奇と誠嘆の念をいだいた人々は、その伝えられた宗教についても、全く無関心ではいられなかったのである。寧ろ 彼等は、伝来された宗教、即ち仏教を通して先進文化の吸収に努力しようとしたのである。 ることであろう。 唯一個有の宗教, 仏教がわが国に伝来してより、互いに影響し合ってきたものの一つに神道がある。これはわが国の建国以来、国体 及び理想を示すものとして、栄えて来た宗教である。従って、奈良朝時代に至り仏教が伝って来る以前にあっては、 唯一個有の宗教として広まり、上代人の間で尊ばれて来ている。これは建国史にまつわる神話の上からも考えられう

日蓮聖人の神祇観

I■■■■

l天照太神・八幡大菩薩を中心としてI

上田本昌

(〃)

(19)

然し、こうした摩擦を除いては、仏教はあたかも陽に向って溶ける氷のように、次第とわが国の中に浸透して行っ たのであり、神道との関係も又、自ずと融和して行ったのである。寧ろ時が流れるに従って、仏教はその思想の中に 於て、神道を包認しつつ開顕して、更に意義あらしめようとする傾向を持って行ったのである。 今、此の本論に於ては、特にそうした一面をとり挙げ、日蓮聖人の見た神道がどのようなものであるか、その一端 を窺ってみようとするものである。日蓮聖人は神道、即ち天照太神を重視しておられる。これは八幡大菩薩と共に、 受茶羅の中にも、その名目が掲げられている点からみても知れるところである。従って、愛では神道の主神たる天照 太神並びに八幡大菩薩を中心として、みて行くことにしたい。尚更にこの点をすLめることにより、日遮聖人の愛茶 羅についてその意義を知る上での一助ともなりうるのではないか、と考えられるからでもある。 である。 然し、 それは仏典と共に土木建築・産業技術などが輸入され、遣唐船に乗った僧侶の手によって、中国の文化はわが国に もたらされていった点から考えてみても充分首肯できよう。また事実わが国の文化に於ては、仏教を離れて考えるこ とはできないと云って、敢て過言ではない。 さて、此のような関係にある仏教が、わが国本来の神道と、どのような関連をたどって来たのであろうか、と云う に、もとより伝来の当初から何んの摩擦もなく、そのまL受容されて行ったのではない。先進国の文化に憧れる反 面、在来の宗教を守ろうとする一派の輸入された宗教に反対する動きも、相当に強く現れて来たのであるが、これと ても純粋な宗教心の中から起った連動と云うのではなくして、なかば政治的な権力斗争と結び付いたものであったの (J8)

(20)

ものであったようである。 ければならないであろう。 神道の主神である天照太神については、﹃神国王御書﹄を始めとして、﹃諫暁八幡妙﹄等その他の祖書の中に、数 多く散見されるところであって、日蓮聖人にとっては、かなり早い時期から、天照太神に対する関心が、相当に深い ものであったようである。その理由は日蓮聖人誕生の地が﹁神﹄とゆかりの深い関係にあったことを先ず考えてみな かくのごとし。 ①

ノノ

メ 艸日蓮一閻浮提の内、日本国安房国東条郡に始て此の正法を弘通し始たり。﹂ これは﹃新尼御前御返事﹄の一文であるが、伽の文意とするところは、安房の国東条の郷は天照太神の跡を垂れ給う た土地であるが故に、たとえ辺狭の地と雌も、日本の中心と云うことができよう。と云うのである。つまり天照太神

ノノハ

ノ レ ⑪﹁安房国東条郷辺国なれども日本国の中心のごとし。其故ば天照太神跡を垂れ給へり。昔は伊勢国に跡を垂させ 上 ケタ リ 給てこそありしかども、国王は八幡加茂等を御帰深ありて、天照太神の御帰依浅かりしかば、太神順おぼせし ノ セ 時、源右将軍と申せし人、御起請文をもってあをか︵会加︶の小太夫に仰つけて頂戴し、伊勢の外宮にしのびを ヒ ヒ さめしかば、太神の御心に叶はせ給けるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給ぬ。 ノ フ ノ 側此人東条郡を天照太神の御栖と定めさせ給・されば此太神は伊勢の国にはをはしまさず、安房国東条の郡にすま セ ノ ヒ ミう ぃ例ば八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども、中比は山城国男山に移り給、今は相州鎌倉鶴が岡に栖給。これも う せ給か。 一 一 (”ゞ)

(21)

をもって日本の中心とみなしている点にあると考えられる。国内諸神の主神に当る天照太神にゆかりの深い土地に出 生された型人としては、当然のことながら幼少の頃より、こうした神道的なムードにふれて来られたことが理解でき るのである。 安腸には﹁安房神社﹂があり安房郡はその神郡であったのであるが、その上更に聖誕の地たる東条の郷は、源頼朝 が元府元年に伊勢神宮外宮の御厨として、寄進した土地であった。故に﹁太神の心に叶いて、日本を手ににぎる将軍 となり給ひぬ。﹂と云う歴史の事実を当時の人々は眼前にし、しかも側の文章が示す通りに、太神は今や伊勢ではな く、此の安冴に﹁すませ給ふか﹂と云うのである。聖人のこうした考えは、やがて、その太神のまします生風東条の 郡に、始めて法華絲を弘通し始めたのであるとするいの文章につながるのであって、太神と正法たる法華絲弘通との 関巡が、愛に生れて来るのてある。 聖人の思想内に於ける神道的色彩は、こうして早い内から、か典わりがあったものとみなしうるのてある。聖人の 一代を一般に鎌介・佐渡・身延の三期に分額しているが、その初期に当る鎌倉期の代表耕作たる﹃立正安図論﹄の中

シヲ人ヲ②

テヲルヅヲテ

に、金光明経・大集経・仁王経等の経典を証として、﹁価菩神聖人捨レ国去レ所。足以悪鬼外遊成し災致し難央。﹂と論 断されているが、此の﹁善神﹂とは、﹁日本守護の天照太神八幡大菩薩﹂を中心とする日本国守護の諸天普神を指す のである。しかも聖人の立場からすると此の天照・八幡を代表とする﹁日本国守護の諸天善神﹂は、同時に一︲法華経 の行者守護﹂の使命を帯ているものとみなすのである。此の聖人の一︲守護神観﹂は後に佐渡期をへて、身延期に至る 頃になると、更に穂極的な見解を持たれるようになり、天照・八幡を含めて、すべての諸天は皆これ法華経の守護神 たる使命を負うものであることを明からにし、天照・八幡はその守護神の中の一分として、わが日本国を担当する善 (20)

(22)

神であると云うむしろ逆説的な考えに発展して来るのである。 シダ。フヲ③ 即ち、法華経の行者を﹁諸天昼夜常為し法故而衛二護之一。.﹂と云う経証に照して、すべての善神を、行者擁護の天 神地祇と見ているようである。故に、妙法大曼茶羅を見ると、そこには法華経に描かれた鬼子母神・十羅刹女.及び日月 明星・天照八幡等を始め、数多くの神々が名をつらねているのを見てもはっきりするであろう。言換れば聖人は、法 華経に関係した神々は勿論、国土や広く仏典の全般にわたって出て来る諸天を、すべて﹁行者守護の菩神﹂として、 その悉くを末法に於ける法華経行者の守護を司る神として規定したところに特色が窺えるのである。尚、この聖人に ④ 於ける守護神観は、既に﹁日月・明星﹂を中心として、本誌に発表してあるので、愛ではその詳細にわたり論究は省 略することとし、専ら﹁天照・八幡﹂を中心としての神祇観を見て行くことにしたい。 たのであるが、これは、 ニル ヒ い﹁当ン知八幡大菩薩は正法を力として王法をも守護し給ける也。 佃今又日本国一万一千三十七の寺竝に三千一百三十二社の神は、国家安穏のためにあがめられて候・ ル の而に其寺々の別当等、其社々の神主等は、みなノ、あがむるところの本尊と神との御心に相違せり。 、、、、、、、、⑤ 側彼々の仏と神とは其身異体なれども、其心同心に法華経の守護神也。﹂ と﹃諫暁八幡抄﹄に述べられている如く、⑤の﹁正法﹂の法味を力として、日本の王法を守護するものであり、天照 理人の﹁日本守謹の天照太神・正八幡﹂は、かくして﹁法華経守護﹂の諸天菩神の飛要な一員とみなされるに至っ 三 (2I)

(23)

・八幡を中心として国中の寺社は、⑥の文の如く国家安穏を司どる守護神として、一般から尊崇されているのであ る。ここで云う正法とは、云う迄もなく諸経中最第一たる法華経を指すのであるが、その法華経は単に大蔵経典の中 の一つとしての法華経ではない。本門の教主釈尊によって開顕された常住不壊の真理︵本法︶を云うのである。聖人 によればすべての諸仏諸天は久遠本仏の前で、法華経行者守護の瀞願をしているのであり、その諸仏諸天は法華正法 の法味によって、守謹の力を得ると云うのである。正法なき処には﹁善神住み給はず﹂であり﹁捨剛去所﹂と云う結 果を生じ、災厄を招くことになるのである。故にのの文に示す如く、寺社の主らは本尊との御心に相違して、此の正 法によろうとせず、徒に権法をもって神意に反していることになるのである。﹁別当と社主等は、或は真言師、或は ⑥ 念仏者、或は禅僧、或は律僧なり。皆一同に八幡等の御かたきなり。﹂と云う一文からめの別当社主が具体的に示さ 念仏者、ト また側に挙げられた数多の寺社は、側の如く﹁異体同心の法華経守護神﹂と見なしているのであるが、これは更に 前述の﹁久遠本仏﹂の肢も根本となる立場からすると、すべての諸仏諸神は、﹁本仏の分身散体﹂として、﹁天月の 水にその影を浮ぶるが如き﹂存在として見ることが出来るのである。 此の﹁本地垂迩﹂又は﹁権現﹂と一般に云われる﹁分身散体﹂説から、ひるがえって﹁日本国守護の天照・八幡﹂ を見た場合、明らかに﹁法華経行者守護の天照・八幡﹂として当然考えられて来ることになるのである。更に究極的 には﹁本仏分身の天照・散体の八幡﹂と云う立場にまで到達することになるであろう。即ち﹁日本剛守護﹂から更 に、﹁法華経守護﹂への性格賦与がなされているのであり、本仏への帰属である。 是を要するに、側の文で示された国内勧請の社寺は、すべて仰の文の如く異体同心にして法華経の守謹神であり、 れている。 (22)

(24)

﹃神国王御蒋﹄によると、次の如くわが国の神祇に関する詳細な記述かなされている。 ナリ ノ ハイサナギノザ、コト 4サ い﹁国主をたづぬれば神世十二代、天神七代・地神五代。天神七代第一者国常立尊、乃至第七伊笑諾尊男也。伊奨 ナ3.ノ&、コト ノ 冊尊妻也。地神五代の第一は天照太神伊勢太神宮日神是也。いざなぎいざなみの御女也。 ⑩第一の王は神武天皇、此はひこなぎさの御子也。乃至第十四は仲哀天皇”父岬。第十五は神功皇后錘母蝿。第十 ③ ニシテトノ 六は応神天皇仲哀神功御子、今の八幡大菩薩也。﹂ 右の文の中で、側は天照太神についての説明であり、天神七代と地神五代の十二代に於ける﹁神世﹂について述べへ 天照太神は地神の第一代であって、天神第七代伊梁諾尊・伊婆冊尊の御女に当ることになるのである。従って天照は 神世の地神であり、神圃と云われるわが国の第一代地神として嫉められていることになる。即ち、国造の神たる伊笑 ヒコナ 諾・伊簗冊の尊によって、わが閏造りがなされ、その御女に当る天照太神が垂通して地神第一代となり、第五代彦波 そこで次に、わが国守護の代表神たる天照・八幡について、その神体に関する聖人の考えを推見してみよう。すで にいの文でも明らかな如く、天照太神の在る地を以て﹁日本国の中心﹂としておられる点、又㈲の文が示すように、八 ⑦ 幡の王法をも守護すると云う点、更に﹁此国の主、八幡大菩薩﹂と云う点からみて、此の両神を極めて重く見ておられ ることが知れよう。たんに守護を司ると云うにとどまらず、国内に於ける中心の神又は主神として扱っているのであ 此の国内守護神を代表する神が、即ち天照・八幡である、と云うことになるのである。 プ︵︾。 四 (23)

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華.サタケウカヤブキアハセスノさ・コト 激武鴎鷲草葺不合尊まで続き、以上で地神の神代が終り、次に﹁人王﹂の時代に移るのである。その人王第一代は神 武天皇であり、これは彦波激の御子に当るのである。 ⑨ 従って、⑩の八幡大菩薩は、人王第十六代応神天皇のことであり、﹃四条金晋許御文﹄によれば、更にくわしく八 幡の興味ある物語が記述されている。﹁男山の主、我帆の守護神、正体めづらしからずして競験新たにぉはします。﹂ とも、又﹁八幡大菩薩の御醤は、月氏にては法華維を説て正直捨方便となのら給ひ、日本国にしては正直の頂にやど らんと誓ひ給ふ。﹂とも記されている。 地神第一代の天照の子孫に当る人王第十六代の応神帝か、即ち八幡と云うことになるのであるから、天照と八幡の 、 、 関係は、﹁地神﹂とその子孫たる﹁人王﹂との関係と云うことになり、天照が主、八幡は従、と云う系統を持つこと ⑩ になるであろう。﹁問ふ神の次第如何、答ふ天照太神を一座と為し、八幡大菩薩を第二座と為す。﹂とあるを見ても 肯けよう。わが国が古来、﹁神国﹂或いは﹁神州﹂と称せられるに至ったのは、こうした神々及びその子孫によっ て、常に守没されて来ていると云う考え方によるものであると思える。 聖人はこうした関係にある天照と八幡、即ち﹁神﹂と﹁人王﹂との間柄からして、幽主・天皇を染めなければなら ない尊貴な存在として見て来られていたのではなかろうか。一︲日本国の王となる人は天照太神の御魂の入りかわらせ ⑪ 給ふ王也。﹂と云う考え方が生れるに至ったのも、此のためと云えよう。故に人王安徳天皇の入水を始めとして、後 鳥羽・土御門・順徳の各天皇の述烏流刑、幕府の権力専横等、人王の存在が全く継視されたことに対し、﹁H蓮大に 疑て云く﹂と、天照八幡の守捜なきは如何なる理由によるものであるかを考え、﹁其上神は又第一天照太神・第二八 ⑫ 幡大菩薩・第三は山王等の三千余社。昼夜に我国をまほり、朝夕に国家を見そなわし給ふ。﹂にもかLわらず、国内 (24)

(26)

の乱れが治らないのは何故であろうか。﹁天照太神は玉体に入りかわり給はざるか。八幡大菩薩の百王の郷はいかに となりぬるぞ。﹂と疑を発し、その答を維典に求められ、﹁国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐぺからず。﹂とし、 ﹃安国論﹄で引証された諸経典に徴して、前記いの﹁正法の力﹂を失った為に、その威力を発揮できず﹁捨国去処﹂ の状態にありと云う結果を見出されているのである。﹃開目妙﹄には、正法が失せ果てし故をもって、﹁天照太神・ 正八幡・山王等諸守護の諸大善神も法味をなめざるか、国中を去り給ふかの故に、悪鬼便塞得て国すでに破れなんと ⑬ す。﹂とあり、天照八幡等の守護なきをもって、国破れんとする要因とみなしているのである。 こうした点からもわかる如く、天照八幡の守護が、わが国にとって如何に大事な意義を持ったものであるか、また こうした守護神の威力の源となる正法が、如何に不可欠の重要な存在であるかが知れよう。 上来の考察により、神体に関する概観を窺ったのであるが、天照は地神としての﹁大神﹂であり、八幡は人王とし ての﹁大菩薩﹂として、一応の区別がつけられ、﹁神﹂と﹁菩薩﹂と云う語感の上から、一般には全く此の両者が異 賀のものとし、異った分野の神であり蕃薩であると考えられて来ていたのであるが、聖人にとっては共に法華経守捜 、、⑭ の普神であり、文永十一年身延山で図顕せられた愛陀雛本尊の中には、﹁南無天照八幡等諸仏﹂と注目すべき表現が の普神であり、文永十一 なされているのである。 これは明らかに天照八幡等の日本国守護の善神は、側の文で既に示されている如く法華経守護と云う基本線に於 て、﹁同心﹂であり、更に此の場合は単に﹁神道﹂に於ける主神と云うにとどまらず、仏教に於ける本仏の分身散俸 五 ('2”

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として、法華本門の﹁開会﹂の立場で表されているものと云うことが出来よう。尚、八幡については、剃髪姿の﹁僧 形八幡﹂が、相当に古い頃︵平安初期︶からあったようであり、神仏習合の一つの現れとして考えられている。これ は明らかに神道の神が、仏教の影響を強く受けたためであって、日蓮聖人の場合は、単なる形の上だけでなく、徹底 した神格への影響までもが感じとれるのである。 かくして日越聖人の宗教の中には、日本古来からの宗教である神道の代表神たる天照八幡等を包含し、これを法華 、、 経の守護神として開会し、その上、曼陀羅本尊の中には、本仏分身の諸仏の一員として、その名目をつらねるに至って いるのである。これは又一つに法華経の包容性に宿んでいる一面を示唆したものと考えることが出来うるであろう。 曼陀羅本尊については﹃本尊妙﹄を中心として、﹃日女御前御返事﹄等に図顕の詳しい解説がなされているが、天 照八幡は日本国守護と法華経守護の双方の立場から、妙法大曼陀羅の中には、そのほとんどに名目が掲げられている のを見ても、聖人の関心の度合を知ることが出来るであろう。 ノ

ノノーシニノ

ノニ

ノノ

⑪﹁其本尊為︾体本師娑婆上宝塔居レ空、塔中妙法迩華経左右釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊脇士上行等四菩薩、︵乃至︶

ヲ⑮

ノハシタマフノ一一凡ル 十方諸仏処二大地上一。表二通仏迩土一故也。﹂ ノ ⑫﹁日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神々、総じて大小神祇等体の神つらなる、 ⑯ 一 一 其余の用の神堂もるべきや。﹂ 右は何れも大曼陀羅に関する祖文であるが、⑫は⑪を更に詳細に解説されたものと見てよいであろう。曼陀羅が﹁諸 仏集﹂の意味を持つものであることは、既に周知だが、か典る意味から考えて、・曼陀羅中の諸仏諸神は、いづれも守 護の諸天を代表するところのものであって、特に選ばれてその名目を掲げているのであり、名目の掲げられていない (26)

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体・用のすべての諸天を代表する存在であるとみなすことが出来る。しかも此の諸天はその他の大衆と共に﹁此御本 尊の中に住し給ひ、妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる。﹂とあり、正法の威光によって初めて威力を倍 増することが可能となるのである。故に正法が失れた国土にあっては、これらの諸天が、守護の力をうることが出来 ず、天照八幡と雌も捨脚去処せざるをえなくなるのである。妙法五字の光明にてらされることにより、更にその正法 の法味をなめることによって、威光を略し尊形たりうると云うところに、法華経の絶対性が存し、天照八幡もその中 に包含されることによって、逆くに典価を発押することができるとするのである。 しかるに叩人の出仙された当時に於ては、正法の弘布がみられず、﹁天照太神の内侍所も八幡大菩薩の百王守護の ⑰ 御ちかいも、いかでか叶はせ給ふぺき﹂現状にあったのであり、﹁国すでに亡びなんとす﹂る有様であった。聖人は ﹃安剛論﹄にも示されている如く、此の滅びようとしている現実の国土を救済するためにも、天照八幡の守護によっ て災難をまぬがれる為にも、正法弘布が絶対必要な先決条件であると考え、その弘布に挺身されたのである。即ち、 聖人の関心は超越的な観念世界・到来の世ではなく、常に現実の国土に向けられていたことがわかるのである。﹁娑 婆即寂光﹂と云い、﹁立正安国﹂と云う言葉が、最もよくその意味を表しているものと云えよう。 次に、聖人の図顕による妙法大曼陀羅中の天照八幡について一見してみよう。此の大愛陀羅図顕は聖人の宗教に於 ける肢も代表的な特色の一つであり、門弟檀越に授与された数は、現存の御真賦百三十幅に及んでいる。 、、 初期の文永十一年十二年頃の大曼陀羅には、﹁南無天照太神正八幡等﹂と一行に記されているのが多く、曼陀羅中 ︷ハ (27)

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の位撒は、首越の左側で迩化の菩隣・声聞衆に続いて第二段目に配列しておられる。﹁南無天照八幡等﹂︵文永十年 、、 、、、、 七月︶﹁南無天照八幡等端仏﹂︵文、水十一年十二月︶等となり、更には﹁大日本田天照太神八幡大菩薩等﹂︵文永十 一年七月︶と記されている例もみられる。文字の上に多少の相異か見られる程度で、位侭は全ぺ変っていないのであ るが、次の建治年中に移ると、しばノ、その配列の上に移動が生じてくるのが見られる。即ち、﹃御本尊集﹄第二十 六︵建治元年十月︶の大愛陀羅には、首題の右側二段目に﹁天照太神︲一とあり、その左側に﹁八幡等﹂とあって、両 、 側に分れて配列されており、同年十一月の大曼陀羅︵御本尊集第二十七︶には、﹁天照太神﹂﹁正八幡等﹂と二行に わけて首題の左側三段目に配列されている。﹁南無﹂の二字が冠されていないのも此の頃からである。 、 建治三年十月には再び首題の左右に別拠右に﹁天照太神﹂左に﹁正八幡宮﹂となり、﹁経﹂の字の下か、又はそ の両側に配されている場合が多い。続いて弘安年中には、ほぼ位置は固定化して変化はあまりみられなくなり、﹁天 照太神﹂﹁八幡大菩薩﹂と云う名称も定着をみせている。但し、愛に例外として考えられるものに、建治元年十一月 の大愛陀羅︵身延竹存︶では、天照と八幡の摩配が入れ違いになっており二︲正八幡等﹂が首題の右に来て、﹁天照太 ⑬ 神﹂が左に入っているのが見られる。尚、聖人御執雅の大曼陀羅中で建治以降に此の天照八幡の二神を隅くものは、 ほんの数柵にしかならない点も注目すべきことと云えるであろう。 こうした点を考えに入れて、型人の大拠陀羅を拝する時、﹁本尊﹂としての意義を持つ一面、﹁守護﹂の意味をも 持つものであり、﹁お守り﹂としての性絡を充分備えたものであることが知れよう。つまり愛陀雛は﹁守り本尊﹂と しての意義を持つものとして、其の他の木凹像の本尊と共に、信仰の対象として、古くから尊雛されて来たことにな るのである。 (.38)

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かくして、聖人により大曼陀羅の中に図顕された天照八幡は、もはや単なる神道で規定した﹁地神﹂或いは﹁人 王﹂と云うのみの存在ではなく、妙法五字の光明にてらされた本仏の分身散体として、法華経守護を司る菩神たるこ とは、既に前述せし如くである。﹃諫暁八幡抄﹄には、八幡をさして﹁本地釈迦如来にして、月氏国に出でては正直 ⑲

キヒハニレ

捨方便の法華経を説給、垂迩日本国生ては正直の頂にすみ給ふ。﹂と八幡の本地垂迩を明らかにしておられるのであ る。更に﹃妙法比丘尼御沸﹄には、﹁天神七代・地神五代︵乃至︶神と王とすら釈迦仏の所従なり。﹂と述べている。 ム 尚、梨人は後年法華絲の行者﹁本化﹂としての立場から、﹁日巡は幼若の者なれども、法華絲を弘れば釈迦仏の御 ン 使ぞかし。わづかの天照太神・正八幡なんどと中すは此刷には重ずけれども、梵。釈・側月・四天に対すれば小神ぞ

⑳セフ

かし。﹂と述べ、更に﹁教主釈尊の御使なれば天照太神服八幡脚も頭をかたぶけ、手を合て地に伏し給べき事也。﹂ と、きわめて強い態度を表しておられるが、これはあく迄、﹁仏使﹂としての自覚の上に立たれた本化の導師が、法 華経守護神の加謹を要請されたものと見ることができるのである。﹁日蓮は幼若の者﹂であるが、所持の経典は﹁三 世諸仏の魂﹂である法華経であり、是を弘める本仏の使者たる﹁本化﹂であってみれば、守護の善神も又此の導師に 付いて昼夜に給仕救護を為すものでなくてはならない、とするのであって、聖人の強い宗教体験から発したものであ り、釈尊の根本結神を正統に継承する聖人の﹁本化仏使﹂としての面目躍如たるものが窺える一文と云えよう。 然し乍ら型人は、その晩年身延で著された﹃撰時抄﹄の末文に示されておられる如く、此の日本国に於て法華経を 弘むる者は、教主釈蝋を飴めとして、十方分身の諸仏・地涌千界の菩薩等、すべての講天普神の守護がなければ、た とえ一日片時と雌も安穂には過せないであろうと記されている如くであって、聖人の法華経応謹の諸天に対する関心 は、極めて深く、不可欠の存在であったことが理解出来えよう。 (29)

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行者守護﹂と、わ聖 がわかるのである。 聖人幼少の頃からの天照八幡に対する関心は、仏教の研鐡と共に上昇し、特に法華経本門の﹁開会﹂によってその 本地を極め、本仏との関連を明白化するに至ったのである。聖人叡山に於ける研讃を終えられ、一代仏法中の眼目正 法を把握せられ、将に立教開宗を宣しようと決意せられた時、先ず伊勢大廟に参じ、弘教に対する守護を祈ったと伝 ⑳ えられているが、初めに挙げたいの祖文、及び﹁日蓮は日本国の中には安州のものなり、総じて彼国は天照太神の住 ン 初給ひし風なりといへり、︵乃至︶かLるいみじき国なれば定で故ぞ候らん。いかなる宿習にてや候らん、日蓮又彼

⑳@

国に生れたり、第一の果報なるなり。﹂と云う文から推して、しかるべく考えられて来るであろう。 聖人の天照・八幡を中心とするわが国の神祇観は、このように御聖誕の当初から幼少時・立教開宗時をへて、鎌倉 ・竜ノロ更に晩年の身延山に蕊るまで、そのご生涯を通じて主要な守謹神の一員として、極めて亜さを樅いて来られ たであろうことが以上の所論により推察できうるのである。 特にわが国を守護の領域として担当する﹁天照・八幡﹂については、上来の考察から見ても知れる如く、﹁法華経 者守護﹂と、わが国土を昼夜に守り、朝夕に見そなわす使命を持った善神として、篤い信奉がよせられていたこと 戸 註 一

①新尼御前御返事定遺八六八頁

②立正安国論同二一三頁

③安楽行品第十四大正蔵九’一’三八C

④﹃日蓮聖人と守護神信仰﹄︵﹁棲神﹂第三十三号の拙稿を参照されたい。

⑤諌暁八幡抄定遮一、八四二頁

⑥同同

⑦月満御前御課定遺四八五頁

⑧神国王御書同八七八頁

讐 (30)

(32)

⑳、、⑳⑲⑬⑰⑯⑮⑭⑬⑬、⑩⑨

四条金吾許御文同一、八一二頁

真言七重勝劣同二、三一八頁

高橋入道殿御返事同一、○九○頁

神国王御番同八八二頁

開目紗同五四二頁

御本尊集第十六。保田・妙本寺蔵。︵万年救渡の御本尊︶

観心本尊妙定避七一二頁

日女御前御返事同一、三七五頁

神国王御譜同八九○頁

﹁大崎学報﹂第一○二号参照。

諌暁八幡抄定遮一、八四九頁

種種御振舞御書同九七六頁

﹃日蓮聖人の生涯﹄︵塩田義遜博士︶六四頁参照。

弥源太殿御返事定遺八○七頁

聖人は天照と日天との関係についても、関心を持っておられたのであるが、この問題については、﹁棲神﹂第三十三号 の拙稿を参照されたい。 (3I)

(33)

イデオロギーとは歴史的社会的に制約された考方︵観念的意識形態︶だと云われる。いまこの直訳的な語義を日本 平安朝後期から雛倉時代の末期にかけて打続く戦乱・剛家的動乱・社会的混乱・統発する天災地異聯は、当時 の人々をして憂愁・苛悶・焦燥・恐怖の世界へと追い込み、そこに有為転変の世相を反映した﹁末法思想﹂を形 成していった。このとき、側じく雛命時代に生を受けられた日述聖人は法華経の色統者としての自覚から﹁此経 者如来現在猫多怨嫉況滅度後﹂︵法師品等々︶の文征に基き末法濁悪世こそ釈尊出世の本懐・法華総宣布の時な りとされ、一︲正像末三時と中以末法始為正中正﹂︵観心本尊抄︶との所謂﹁末法為正﹂の聖意を宣揚されたこと は、日本思想史上でも稀有のことに属するのではないか。白法隠没して末法的な圧世主我の世界に沈潜すること なく、かえって、解放的に積極的に能動的に末法の克服に立ち向かわれた精神的態度の中には、単に日蓮宗学の 問題にとどまることなく、そこには弁証法的に止揚された思想を把えることが可能のように思える。この小論で は、日蓮宗学の研究成果を導入しつL﹁末法為正﹂の意味を角度を変えて考えてみたい。

末法思想に関する試論

I﹁末法為正﹂︵日蓮︶の意味を考えるI

町田是正

(32.)

(34)

思想史上にあてはめてみたとき、日本人の思想形成のうえでエポック・メーキングをつくった歴史的現実と云えば、 第二次世界大戦による敗北と、平安朝末期以降の約二百年にわたる有為転変の世相を指摘することができる。前者の 場合、余りにも無惨な敗戦・神州不滅帝国日本の崩壊という心理的衝撃・日本民族の誇りを剥奪された愼悩と焦燥こ の歴史的現実こそ日本人のイデオロギー形成のうえでエポックであったことは否定のない事実である。後者の場合 は、平安朝後期の貴族支配体制の動揺期まで遡り、荘園制の成熟に伴う社会経済的混乱・比叡山と園城寺との醜争・ 保元平治の動乱・平家の栄華と表亡・源氏の勃興と骨肉の葛藤・承久の乱と三上皇遠流という膝史的転変。更には連 年に亘る天災地変など、この歴史的現実を反映して人々に危機感を呼び覚まし、所謂﹁末法思想﹂を形成するに至っ たのである。

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周知の如く末法思想は平安貴族の後退的な社会観・歴史観を理論的に表明したものである。また末法時代には王法 仏法ともに衰滅するとの正像末三時説が現実の事実となって認識されたとき、迫真的思想となって中世人の心を揺振 ったのである。然しながら、中世の人々は末法の危機を意識したとき、敗北感のみを抱いていたわけではなく、仏教 者を中心とした識者はその打開策を探索していた。即ち末法濁悪を意識することによって、消極的・逃避的手段では あるが厭離磯土・欣求浄土の思想を生み出し、この濁悪圧世的現実を避けて西方世界へ浄土を建設しようとする側面 と、他方では末法思想と対決し、その克服をもって使命となし、この現実世界こそ浄土建設の場であるとの祇極的側 而を示したことである。前者は源信・法然・親鴬に連がる浄土系の立場であり、後者は日巡聖人の立場であることは 論をまたない。 (33)

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こうした窓味で、末法思想は悲感的一面のみを示すのではなく、そこから危機の打開を目指して雄々しく生き抜こ うとする実践的な思想を生み出すに至ったことは重要なことである。

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日本仏教を顕りみるとき、平安仏教・鎌倉仏教共に末法思想を基盤として樹立されている。末法思想をいかに克服 するかを共通の課題として誕生したのが、日本仏教であったと云えよう。若しそこで、日本仏教から末法思想を棄て 去ったならば、日本仏教の成立基盤は崩壊するであろう。このことは現代の仏教各教団にも相い通ずる致命的な問題 を含んでいる。旧来、それら既成教団内部にあっては、この問題を一つの恥部的な扱方をなし、真正面から検討を試 みることはなかった。勿論、正像末三時説が仏教本来のものではなく、仏教衰滅の憂いを体系化したものであるか ら、末法思想を棄て去ったとしても仏教の根本義には変化は生まれない。従って、若し科学的で合理的な近代歴史観 を仏教の中に導入しても、支障を生じないとすれば、末法思想を棄てるのに何の蹄跨もしないであろう。然しなが ら、既成教団が末法思想を土台とする限り問魑はいつまでも残されるのである。

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末法思想を一つの歴史観として後の近代史観と比較した場合、その論理的榊造・理論的体系の未熟性と幼樅さを指 摘することは容易である。末法観が宿命的・後退的な継落思想であるのに対して、近代歴史観の殆どは︵シュペング ラー﹁西洋の没落﹂・トィンピーの文明循環史観は例外としても︶発展的・進歩的思想を含んでいる。この後退的と 発展的との対照は人生観の形成のうえに重要な関係をもつのである。末法観が人生の暗黒面・危機的な圧世観を強調 するのに対して、近代史観は前進的で開放的である。従って、末法観に対する人生観・理論的転換が行われないかぎ (34)

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り、重苦しき末法観の重圧から脱却することは出来ないのである。 キリスト教がダーウィンの進化論に対して禁圧的な態度を示したのも、神の摂理・宿命論に対する進化論との矛盾 解決途上における両者の剋斗を語る興味ある緬魑である。ところが日本仏教史上に於て、末法思想と近代史観との対 立斗争の時代はなかった。と云うよりは斗争の樋会が生まれなかったのである。近代史観が移入されたのは明治以降 であって、時あたかも廃仏殿釈の禁圧時代にあった為に、日本仏教界に在っては、歴史観︵末法観︶などの問題に没 頭する余裕さえなかったのである。然しなから、現存の仏教が平安・鎌倉時代に末法思想の克服を共通の課題として 樹立されているかぎり、我々はその土台となった末法思想のもつ意味を黙視することは出来ないのである。

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末法思想はよくキリスト教の終末論と類比されるが、純然たる歴史理論の立場から見れば、正像末三時説︵五五百 年説︶は一方的な下降変退の過孫を示すのみで、そこには終末の時点について明確な観念はない。従って、何にかの 目標に向って腋史か発展進行すると云う観念もそこからは成立し得ない。歴史的時間を超越した雁史は存在しないの であるから、この観点で考えるならば末法観は歴史観とは云えないのである。 近代歴史観、就中、唯物史観の立場は歴史発展の究極目標を共産社会の実現におき、歴史発展の様相を唯物弁証法 〆 の図式で把握しようとしている。そこには共産社会達成という究極的意味についての歴史的自覚を生み出している。 即ち、歴史の目標についての観念は、延いては歴史の究極的意味についての自覚に結びついている。こうした意味で 末法思想の中には、歴史的自覚を生み出す要素が稀薄であったと云えよう。 キリスト教的腋史観、例えばアウグステイヌスの神圃諭に展開する二元論的神学史観にしても、この世界は神の摂 (35)

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理に支配されて天上国家︵教会国家︶が実現するという、歴史の究極目標を設定している。そこには神の摂理・神の 内在する絶対力を歴史発展のうえに適川することによって、歴史の背後にひそむ神の計画的な観念を生み出し、歴史 を左右する法則性を見出している。つまり、歴史発展の究極目標に関する自覚がもたらされているのである。 これに対して末法思想には﹁末法﹂それ自体の終極点は示されていない。そこには表退・混乱・濁悪・頽廃・恐怖 と云った圧世的観念が強く押し出されており、雁史の究極目標に関する意識や自覚は表明されてはいない。此処に末 法思想のもつ末法の意味を如何に把え、いかに克服の通を発見するかが、当時の人々の叡知をかけての課腿となった のである。例えば、中山忠親の﹁水鏡﹂や慈円の﹁愚智抄﹂などは、末法観に基く史論を展開してはいるが、共に悲 感的な憂愁の世界に沈んでいる。末法思想それ自体の克服については探究されてはいない。この時、当時の人々に対 して警鈍を大きく鳴らしたのが鎌倉新仏教の勃興である。鎌倉仏教のすべては、末法思想の自覚に出発しI末法克 服の態度に積極的・消極的の別はあるとしてもlその克服をもって共通の課題となし、そこから普逓的原理を探究

l◇l

末法思想が必然的下降線を辿る遮命的な社会観・仏教史観である限り、そこには人間の意志の働く余地はない。歴 史を形成すべき人間の存在が無視されているのである。果してこれをもって歴史観と兇倣し得るであろうか。ここに 末法観そのものに対する見方と思惟のコペルニクス的転回が行われなければならない。こうした意味で、人間的自覚 に基いた﹁末法為正﹂の糀神的態度を示された日蓮聖人の立場は、大きな示唆を提供しているのである。因にその一 文を引用しておこう。 せんとしたのである。 (36)

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、、、、、、、 正像末三時之中以二末法始一為正中正一。問日其証如何。答日法師品云而此経者如来現在猶多一悪嫉一況滅度後。宝塔 品云令二法久住一乃至所し来化当し知一庇意一等。勧持・安楽等可レ見し之。迩門如し是。以一禾門一論し之一向以二末法初一 為二正機一・︵観心本尊抄・昭定遺一巻七一四頁︶ 自二安楽行一勧持・捉婆・宝塔・法師逆次読レ之以一滅後衆生一為し本。在世衆生傍也。以二滅後一諭し之正法一千年像法

、、、b、

一千年傍也。以二末法一為し正。末法中以二日通一為し正也。問日其証拠如何。答日況滅度後文楚也。疑日日辿為し疋文 如何。涛日有諸無智人悪口蝿署等及加刀杖者等云云。︵法華取要抄・昭定進一巻八一三頁︶ 日遮馴人在世の時代が、当に白法隠没・闘誹略間世枡であったことは周知の事実である。この時代を一仏教者とし て力強く生き抜かんとするのには、確固たる雁史観がなければなならい。然らばその社会観・雁史観を支えた精神 ︵信念︶は何か。それこそ法華経絶対観に裏付された宗教的信念であったのである。 因に本尊抄の文を徴すのに﹁以一己前明鏡︸椛二知仏意一仏出世非し為一読山八年諸人一。為二正像末人一也。又非し為一正 像二千年人一・末法始為二如し予者一也﹂︵昭定適一巻七一九頁︶とあって、法華経の行者としての自覚が明確にされて いるが、この立場から﹁此時地涌千界出現本門釈尊為二脇士一、一閻浮提第一本尊可レ立二此剛匡︵本尊抄・前掲七二 ○頁︶と或は﹁我日本国は一閻浮提の内、月氏漢土にもすぐれ、八萬の国にも超たる剛ぞかし﹂︵神岡王御蒋・前掲 八八二頁︶と申されて、法華経絶対観に基く仏国土の建設と、全世界人類が尊糸すべき本尊が我が日本国に確立さ れ、末法濁悪の開を照し、正に立正安国の宗教実現こそ使命であるとの確信にみたされていることは否定のない所でt、﹄ 才 ある。 日蓮聖人の場合は、浄土宗法然上人の如く、末法濁悪のこの国土、この歴史的現実を逃避して弥陀の本願に托して (37)

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西方浄土に理想を実現しようとする、消極的な末法の克服ではない。当にこの歴史的現実の中に浄土を実現しようと するのである。この歴史的現実こそ浄土建設の場であるとされ、積極的・能動的に末法の克服に立ち向ったのであ る。当に﹁末法為正﹂と云う歴史的自覚の発現は、自主的・能動的な人間観の表明であって、こうした歴史的に自覚 された人間の表明は、日本思想史上でも日蓮聖人を先駆とするのではなかろうか。

l◇I

人間は雁史の意味を発見。考える場合に、人間は歴史の外に立つことは出来ない。人間は縦史の内部に立っていな ければならない。この意味で、浄土宗が末法克服の方途を西方浄土に欣求したことは、雁史的現実を超えた世界のこ とであり、十劫の世界に救済されると説いたことは、歴史的時間を超越した次元の災なる世界のことである。超時間 的なものを幾多かさねても、雁史的時間は生まれてはこない。純然たる歴史理論の立場からすれば、そこには歴史観 はないのである。勿論、親鴛上人の悪人正機説には、末法時に付与されていたマイナスの面をプラス面へと価値の転 換を行った雁史的恵投をもつのであるが、親鴬の湯合、悪人の自覚があくまでも個人的であるのに対して、日並聖人 の﹁末法為正﹂の自覚は社会的意味を含んでいるのである。この﹁時﹂︵末法時︶と人間的自覚を内包する﹁末法為 正﹂の糀神的内容には、現代にも通じる実践的課題を示しているのである。 人間は常に或る特定の歴史世界の中に生れ、そこで形成され、かつ同時に自ら歴史を作ってゆく。ここに歴史的世 界︵末法︶と歴史的存在としての人間︵日蓮︶との連関が生まれてくるのである。歴史的世界は様々な方法で人間の 探究の対象となるが、この歴史をつくり、歴史を探究する人間の存在こそ、歴史的世界の主体である。歴史の核心・ 歴史の主体は人間である。この意味で、有為転変たる歴史的現実の中に在って、法華経絶対観の信念に支えられ﹁末 (38)

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法為正﹂の歴史観を持たれた日蓮聖人こそ、歴史的人間の存在であったと云わねばならない。︵未完︶ ︵昭和四十二年十月十二日東京大学史学会々員︶ 追記この小論は中国法制史を専攻とする筆者が、日蓮教学には素入たるを辞せず、自己の日蓮聖人讃仰の一端を披瀝した ものである。そこには直接に聖人の教学・聖人に対する信仰には立ち入ってはいない。また論理的にも無理な箇処と表 現の稚拙が指摘されるであろう。読者の御教示を得て今後の研究に資したい。 この小論作製に当って、本文中には論文の性格もあって参考文献等の註記は避けたが、一括してここに記しておく。 1辻善之助﹁日本仏教史﹂第二巻中世篇之一・昭和三十五年岩波灘店。 2望月歓厚﹁日蓮教学の研究﹂・昭和三十三年・平楽寺書店。 3歴史学研究会編﹁日本史年表﹂・昭和四十一年・岩波書店。 4R・K・ブルトマン﹁歴史と終末論﹂︵岩波現代叢書︶・一九五九年。 5戸頃重基﹁日蓮の思想と鎌倉仏教﹂・昭和四十年・富山房。 6昭和定本・日通聖人遺文第一巻。 7松浪信三郎﹁実存主義﹂︵岩波新樗︶・一九六三年。 8尾藤正英﹁日本における歴史意識の発展﹂︵岩波識座日本歴史二十二別巻一所収︶一九六三年。 9増谷文雄﹁仏教と歴史観﹂︵雑誌﹁仏教﹂︵第二巻第三号︶昭和十一年。 、家永三郎﹁日蓮の宗教の成立に関する一考察﹂︵﹁中世仏教思想史研究﹂所収︶昭和二十二年。 、国史大系第六巻扶桑略記 胆N・H・K教育テレビ﹁末法と神国﹂︵昭和四十二年八月二十九日午後八時放送︶ 咽執行海秀﹁日巡聖人とその思想﹂︵法華新譜︶平楽寺番店・昭和三十六年。 (39) ザ

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盛を眺めて来た。 然うして私はこの両者に、大きな立場の移行を認めるのである。即ち◇ハールフット、サンチーでは仏の像は未だな い。然しガンダーラでは、ゼウスやアポロと見まちがう程のギリシャ的な仏像がある。然もそこに彫られた物語が、 前者は釈尊の本生話、即ち前世物語が多く、後者には仏伝図、即ち生れてからの物語が多い。然して後者のジャータ アしゆくみろく 力では燃灯仏の像等、然もこの燃灯仏話では釈尊以外の仏、阿弥陀、阿閤、弥勒等の物語りが出て来る○私にはこ上 に於て・ハールフットからガンダーラヘの移行に、大乗仏教への推移が読みとられるのである。 私は二度にわたってインドと。ハキスタン及びアフガニスタンの仏教遮跡の調査をして来た。 第一回の?ハールフット︵現地になくカルカッタ博物館内に復元︶や、サンチーの偉大な遺跡をみて、ジャータヵや ヤクシニー像のその素購しさに打たれた。更に二回目は所謂ガンダーラ仏や。ハーミャンの大石仏にかっての仏教の隆 ●ハールフットはインドの丁度中央部にあり西方海岸とマガダ国を結ぶ重要な道路沿い、アラハ。ハートから二一○哩 や、、

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ルフット彫刻からガンダーラ仏へ

◇ ︵大乗仏教の基盤の考察︶

高橋堯

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参照

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記)辻朗「不貞慰謝料請求事件をめぐる裁判例の軌跡」判夕一○四一号二九頁(二○○○年)において、この判決の評価として、「いまだ破棄差

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︵原著三三験︶ 第ニや一懸  第九號  三一六

〔追記〕  校正の段階で、山﨑俊恵「刑事訴訟法判例研究」

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