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コミュニケーション行為理論の論理構造(下)

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コミュニケーシ ョン行為理論の論理構造

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下)

The Logic in the Theory of Communicative Action

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コ ミュニケ ー シ ョン行 為 概 念 をめ ぐる い くつ かの 論 点 (1) コ ミュニケ ーシ ョン行為の下位類型 これ まで検討 して きた ように、 コ ミュニケー シ ョン行為 の根本的な特質 は、批判可能 な妥 当性要 求 の呈示 とその相互承認 に もとづ くとい う点に求 め られ る。--バマースは、こうした特徴づ け を つかみだす こ とに よって、 コ ミュニケー シ ョン行 為概念の論理構造 を明示化 しえた とい うこ とが で きる.--バマースは、言語行為 の分析 を利用 し て、意思疎通が 目的活動 には還元 しえないこ とを しめす とともに、その こ との論証 をつ うじて、「了 解」が 「影響力行使(EinfluBnahme)」とな らぶ も う一つの行為整合 メカニ ズム として機 能 してい る ことを解 明 しえた といえよう1)。 さてここでは、 コ ミュニケー シ ョン行為 にかん す るこうした特徴づ け をふ まえた うえで、 コ ミュ ニケー シ ョン行為概念 をめ ぐるい くつかの論 点に つ いて検討 し、 コ ミュニケー シ ョン行為概 念につ いての理解 を深めてい くこ とに したい。そこで ま ず最初 に取 りあげてお きたいのは、コ ミュニケー シ ョン行為 にはいかな る下位類型が設定 され うる のか とい う論 点である。その さい、さきにのべ た コ ミュニケー シ ョン行為概 念の特徴づ けに よって 獲得 された視座か ら、 コ ミュニケー シ ョン行為 の 下位類型が どの ように整理 され うるのか とい う点 に留意 して、その解 明 をすすめてい くこ とに しよ

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い まここで、 コ ミェニケ- シ ョン行為 の基本的 な特質 として、妥 当性要求の呈示 とその相互承認 とい う点 をあ らためて確認 したけれ ども、こうし た基本的特質 の把握 は、 コ ミュニケー シ ョン行為

Akira Nagal

の下位類型 を設定す るにあたって も活用 され るこ ととなる。つ ま り-ーバマー スはまず、この妥 当 性要求 とい うもの を分類 し、その分類に もとづ い て、コ ミュニケー シ ョン行為 の下位類型 を体 系的 に構築 しようとす るのである。--バマー スに よ れば、妥 当性要求 には次の3種類の もの をあげ る こ とが で き る とい う。 す な わ ち、 真 理 性 要 求 (Wahrheitsanspruch)、正 当性要求 (Richtigkeits -anspruch)お よび誠実性要求 (Wahrhaftigkeits -anspruch)の三つ である2)0 --バマースに した が えば、これ ら三つの妥 当性要求 につ いて、以下 の ように ま とめ るこ とが で きる3)。 ① 真理性要求 お こなわれた言明が真 である (ない しは、言 及 されている命題 内容 の存在前提が じっさい にみたされている) とす る要求。 ②正 当性要求 当の言語行為が 、妥 当 している規範的文脈に て らして正 当である (ない しは、その言語行 為 のみたすべ き規範的文脈 それ じたいが正統 的である) とす る要求。 ③誠実性要求 話 し手の顕在的な意 図が 、発言 された とお り に思念 されている とす る要求。 この ように話 し手は、 まず第

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には、言明 ない しその存在前提 にたい して、真理性 を要求 してい るのであ り、つ いで第2には、正統 的に規制 され た行為 お よびその規範的文脈 にたい して、正 当性 を要求 しているのであ り、 さ らに第3には、主観 的体験の表明にたい して、誠実性 を要求 している のである4)。 話 し手は、意思疎通に指 向 した発言

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323 長 野大学紀要 第15巻 第3号 1993 をお こな うこ とに よって これ ら三つの妥当性要求 を呈示 しているのであ り、そ うした要求 にたい し て、 もし聞 き手の側 に疑問があ るばあいには、聞 き手は これ ら三つの妥 当性要求 のそれぞれにたい して異議 をとなえるこ とがで きる。 さて、--バマー スの理論 においては、こ うし た三つの妥当性要求 には、それぞれ一つの 「世 界 (Welt)」概 念が対応す る とされている。す なわち、 真理性要求には客観 的世 界(objektiveWelt)が、 正 当性要求 には社会的世 界 (sozialeWelt)が、誠 実性要求には主観 的世 界 (subjektiveWelt)が、 それぞれ対応 してい るとい うわけである。そこで、 これ ら三つの世 界概念の内容 につ いて確認 し、そ の意味あいを検討 してお くこ とに したい。--バ マースに したが えば、これ ら三つの世 界につ いて、 次の ように まとめ るこ とが で きる5)0 ①客観的世 界 実在物の総体 であ り、それにつ いては真 なる 言明が可能 であ る。 ②社会 的世 界 正統的に規制 された対 人関係 の総体 。 ③主観的世 界 当の行為者本 人にのみ特権 的に接近す ること ので きる体験の総体 であ り、そ うした体験 に つ いて話 し手は、聞 き手の まえで誠実 に話す ことが で きる。 コ ミュニケ- シ ョン行為 をい となむ行為者は、発 言 をおこなうことによって何 らかの妥当性要求 をか かげているわけだが、その行為者は、そ うした妥当 性要求 をかかげることによって、それに対応す る世 界 を引 きあいにだ している。 ここでの世 界 とい う 概念には もともと、実在 している事態の総体 という 意味あいが含 まれていたのだけれ ども6)、 --バ マー スは、世 界 とい う概念か らその存在論的な意 味あいを取 りき り、 コ ミュニ ケー シ ョン理論上の 概 念 として位置づ けなおそ うとす るO--バマー スに よれば、これ ら三つの世 界は、 コ ミュニケー シ ョン過程のなか で共通 に仮定 されてい る座標系 だ とい うのである7)。 行為者 たちに とって行為 の 制 限 としてたちあ らわれて くる ものは、状況の構 成要素 として とらえられ るのであ り、それゆえ行 為者たちに よって主題化 され うるこ とが らとされ る。話 し手 と聞 き手 とが何 ご とかにつ いて意思疎 通 しようとしている とき、かれ らはさまざまな事 態 を取 りあげているわけだが 、その こ とをつ うじ てそ うした事態 を、客観 的世 界のなかへ と事実 と して帰属 させ た り、社会 的世 界のなかへ と規範 と して帰属 させ た り、主観 的世 界のなかへ と体 験 と して帰属 させ た りしている。 その意味において、 これ ら三つの世 界は、 コ ミュニケー シ ョン過程 に おけ る座標系 としての機能 をい となんでいる と--バマースはい うのである。行為者 たちは、意思 疎通す るこ とをつ うじて、これ ら三つ の世 界のな かの何 ものかにつ いて言及 している とい うこ とが で きるの であ り、この点に着 目す るな ら、これ ら 三つの世 界は、そ うした コ ミュニケー シ ョン過程 において主題化 され るものの総体 だ とい うこ とが で きる。 そ うしてみ ると、世 界のなかへ と帰属 さ れたこ とが らは、状況の構成要素 として意思疎通 の対象 となるのであ り、 この点において世 界は、 生活世 界 と対比的な概 念 として設定 されているこ とに注意 してお こ う8)。 とい うの も生活世 界は さ しあた り、意思疎通過程 の背景 としてその機能 を い となむ もの とされてい るのであ り、関与者に と っては 自明で、主題化 をまぬかれた意味領域 とさ れているか らである9)0 ところで、 コ ミュニケー シ ョン行為 をい となむ 行為 者は、ある発言 をお こな うこ とに よって、 こ うした三つの妥当性要求 を同時にかか げているの であ り、 したが って原則的には これ ら三つの妥 当 性要求 のいずれについて も異議 をとなえるこ とが で きる。 このこ とを説明す るために、--バマー スは次の ような例 を用 いてい る10)0 ゼ ミナールの場面において、教授がゼ ミナ-ル のある参加者にたい して、「一杯の水 をもって きて くだ さい」 と要請 した。その学生は、 自分 に向け られた発言 を命令 ではな く、意思疎通 に指向 した 態度 で遂行 された言語行為 であ ると理解 した。--バマー スが呈示す るのは、 こ うした事例 である。 --バマースに よれば、こ うしたばあいここのゼ ミ ナール参加者 は、原則的には、三つの妥 当性 の局 面においてこの要請 を拒否す ることがで きるのだ とい う11)0 まず第

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に、この学生 は しか るべ き存在前提が

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42-あては まっている とい う点に疑問 をさしは さむ こ とがで きる。「いいえ。いちばん近 い水道 で もとて も離れているので、ゼ ミナールが終了す るまでに 戻 って くるこ とが で きませ ん」。 この ば あ いに は、 こ うした所与の事情の もとで教授が真理 であるこ とを前提 に してい るにちがいない言明その ものに 疑 いが さしは さまれている。つ いで第

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に、教授 の要請の規範的正 当性 に異議 をとなえるこ とが で きる。「いいえ。私 をあなたの被雇用者の ように取 り扱 うこ とはで きませ ん」。 このばあい、所与の規 範的文脈 において教授 の行為が正 当である とい う 点に疑 いが さしは さまれている。 さらに第3に、 この学生は、教授の発言の主観 的誠実性 に疑問 を 提起す るこ とが で きる。「いいえ。ほん とうは先生 は、他 のゼ ミナール参加 者の まえで、私 に誤 った 印象 を与 える とい う意図だけ をもってお られ るの です」。 このばあい、教授が発言 した とお りに思念 している とい う点に異議が唱 え られているのであ り、教授 は発語媒介効 果 を達親 しようとしている のではないか との疑念が 、表 明 されているのであ る。 この ように、--バマースに よれば、 コ ミュ ニケー シ ョン行為 を遂行 しようとしたばあい、三 つの種類の妥 当性要求が同時にかかげ られてい る のであ り、 したが って これ ら三つの妥当性要求 の なかの どれにたい して も、疑問 をさしは さむ こ と が で きる。 しか もこの こ とは、意思疎通 に指 向 し た言語行為 のすべ てにあては まるのだ とい う12)。 さて、意思疎通 に指 向 した言語行為 は、原則的 には、三種類の妥 当性要求 を同時にかかげている わけだが、その さい話 し手が三つの妥当性 の局面 の うち、 とくに どの局面において 自分の発言 を理 解 させ たが ってい るか につ いては、その言語行為 の発語内の役割 に着 目す るこ とに よって読 み取 る こ とが で きるのだ とい う13)。 まず第

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に、話 し手 は、ある言明 をお こな った り、何 ごとか を主張 し た り、物語 った り、説明 した り、叙述 した り、予 言 した り、究明 した りす る ときには、真理性要求 の承認に もとづ いた了解 を聞 き手 とのあいだに追 究 している。第2に、話 し手が括令 を与 えた り、 約束 した り、誰か を任命 した り、訓戒 を与 えた り、 何か を買 った り、誰か と結婚 した りす るばあい、 そこにおけ る了解 は、その関与者 たちが 当の行為 を正 当な もの として通用 させ るか どうかに依 存 し ているo第3に、話 し手が体験文 を発言 した り、 何 ごとか を漏 らした り、告 白した り、公表 した り す るばあい、そこにおけ る了解 は、誠実性要求の 承認に もとづ いてのみ成立 しうる。 こ うした--バマー スの視座か らす ると、意思 疎通に指向 した言語行為は、その純粋型においては、 真理性要求、正 当性要求および誠実性要求の うちの いずれか一つ をきわだたせ ている とい うこ とが で きるのであ り、この点に着 目すれば、意思疎通 に 指 向 した言語行為 の類型論 を構築す るこ とが で き る。す なわち、事実確認的言語行為 (konstativer Sprechhandlung)、規制 的言語行為 (regulativer Sperechhandlung)お よび表 出的言語行為 (ex・ pressiverSprechhandlung)とい う三つの言語行 為か らな る類型論 であ る14)。 ①事実確 認的言語行為 主 として真理性要求がかかげ られている。 こ こにおいては、基本的 な言明文が用 い られて いる。 ②規制 的言語行為 主 として正 当性要求がかか げ られてい る。 こ こにおいては、(指令 のばあいの ように)基本 的な要請文が あ らわれた り、(約束のばあいの ように)基本的な意図文が あ らわれた りす る。 ③ 表 出的言語行為 主 として誠実性要求がかか げ られている。 こ こにおいては、(1人称現在の)基本的な体験 文があ らわれ る。 ただ し、 これ までの検討か らも明 らか な ように、 ここでの類型論 は、あ くまで も純粋 型的な もの と して理解 されなければな らないのであ り、その点 において、 コ ミュニケー シ ョン行為 と戦略的行為 とを区別す るさいの類型論 とは意味 あい をまった く異に しているこ とに注意 してお こ うO コ ミュニ ケー シ ョン行為 と戦略的行為 とを区別す るばあい、 これ らの行為 は、その基本的特質 において相 いれ ない もの と位 置づ け られてお り、それゆえ個 々の 社会 的行為 は、 コ ミュニケー シ ョン行為か戟略的 行為かのいずれかに分類 され うるもの とされてい る。つ ま りコ ミュニケー シ ョン行為 と戦略的行為 との類型論は、いわば背反 しあ うものか ら構成 さ

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325 長 野大学 紀要 第15巻 第3号 1993 表1 言語に媒介 された相互行為の純粋型1) 形式的語用論のメルクマール 特 徴 的 な 言語の機能 行為の指向 基 本 的 な 妥当性要求 関 連 す る 行為 類 型 言 語 行 為 態 度 世 界 戦 略 的 行 為 発語媒介行為,命令2)㌔相手へ と影響 を与える 成果に指向 した 客観化的態度 〔実効性〕 客観的世界 コ 会 話 事実確認的 事態の叙述 意思疎通に 客観化的 真理性要求 客観的世界 主 (事実確認的言語行為) 言語行為 指向 した 態度 ケシー 規範に規制された行為 規制的言語行為 対人関係の創出 意思疎通に指向 した 規範同調的態度 正当性要求 社会的世界 右 ドラマ トウルギカルな 表出的 自己呈示 意思疎通に 表出的態度 誠実性要求 主観的世界 註1)TKH,I,S.439. 邦 訳 (中 )73頁、 を も とに作 成0 2)--バマ ー スは 、言語 に媒 介 され た戦略 的行為 と して命令 を考 察 してお り、そのか ぎ りにお いて表 の この場 所 に命令 を位 置 づ け るこ とが で きる。 ただ し、発語媒 介行 為 をモデ ル として命令 とい う言語行為 を分析 す るこ とは で きな い。- ーパ マー スは 、 命令 とい う言語行 為 もまた発 語媒 介行為 をモデ ル と して分 析 し うる とい う印象 をあた えて い る とい うそのか ぎ りに お いて 、 こ の表 に は不適切 な面 が あ るこ とを認 め て い る。 この論 点 につ いて は 、本稿 (中 )の註49を参 照 され た い(『長野大学紀要』第15 巻 第1号、1993年、141頁 )。 3)- -バマー ス じしんが作 成 した図表 には 、 ここに コ ミュニ ケー シ ョン行 為 とい う表 記 は ないが 、会話 、規 範 に規制 され た行 為 お よび ドラマ トゥル ギ カル な行 為 が コ ミュニ ケー シ ョン行 為 の下位 類 型 であ る とい うこ とを明示化 す るため に 、挿 入 したD また 、 これ ら三つ の行 為 が純粋 型 的 な性格 を もつ こ とを強調 す るため に 、 その境 界 を実 線 では な く破 線 で示 した。 れてい るの であ る。 それにたい して、 ここでの類 型論 は、そ うした背反的 な性格 をもっていない。 す でにみたように、意思疎通に指向 した言語行為 は、 原則 としては三つ の妥 当性要求 を同時 にかか げて いるわけ であ り、その うち どの一つ をきわだたせ て い るか に よって 、ここでの類型論 は組み立て ら れてい る。 そ うしてみ る と、あ る一つ の妥 当性要 求 をきわだたせ てい るか ら とい って、それ以外の 二つ の妥 当性要求が消滅 して しまったわけ ではな いの であ り、三つ の妥 当性要 求が並 存 してい る以 上 、 どの妥 当性要求 を と くに きわだたせ てい るか が不 明瞭 な言語行為 もまた十分 に考 え られ うる。 そ うした点か らして、 これ らの三つの類型 は明確 には境 界づ け られ えないのであ り、それ ゆえあ く まで も純粋 型的 な もの として理解 され なければな らない とい えよ う

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さ らに、 これ までの分析 を導 きの糸 として、言 語 に媒介 された相互行 為 の純粋型 を整理す るこ と が で きる. い うまで もな く、 コ ミュニケー シ ョン 行為 は、成果 に指 向 した言語行為 たる戦略 的行為 と対比 され る概 念 として導 入 され たの であ り、つ ま りは意思疎通 に指 向 した言語行為 い っぽん を指 す もの として設定 され た とい うこ とが で きる16)0 い ま検討 した意思疎通 に指 向 した言語行為 の純粋 型 にか んす る分析 をふ まえれば 、そ うした コ ミュ ニケー シ ョン行為か ら、三つ の妥 当性要求 の うち 主 として どの種類 の妥 当性要求 を呈示 しているか に もとづ いて、三つ の純粋 型 を とりだす こ とが で きる。す なわち、会話 (Konversation)ない しは 事 実 確 認 的 言 語 行 為 、 規 範 に 規 制 さ れ た行 為 (normenreguliertesHandeln)お よび ドラマ トウ ル ギカルな行為(dramaturgischesHandeln)とい う三 つ の行為 であ る17)。 ① 会話 (事実確 認 的言語行為 ) 主 として真理性要 求 を呈示 して い る。 ② 規範 に規制 された行為 主 として正 当性要求 を呈示 してい る。 ③ ドラマ トウル ギカルな行為 主 として誠実性要求 を呈示 して いる。 これ までの検討 を前提 にす れば 、これ ら三つ の 行為 は コ ミュニケー シ ョン行為 の下位類 型 として 位 置づ け られてい る とい うこ とが で きる。その さ い、 これ らの下位類 型 は、純粋 型的 な性格 をもっ こ ともまた、確 認す るこ とが で きる。 -44

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-さて、 こうしたこれ までの分析 を総括 して、-ーバマースは表1を呈示 しているO (2) 行為整合の力 第2の論点 として取 りあげてお きたいのが、行 為整合 の力 をめ ぐる問題 である。 コ ミュニケー シ ョン行為 はいかに して行為 整合 の機能 をはたす と 考 えれば よいのだ ろ うかO この点 をハ-バマー ス に したが って検討 してお くことに したい。 コ ミュニケー シ ョン行為 によって了解が成立す る と、その了解 は行為 整合す る力 をもち、関与者 のあいだの相互行為 を方向づ け るこ とになる。了 解 は、関与者 たちが そこで呈示 されている妥当性 要求 を相互承認 したがゆえに成立 してい るのであ り、だか らこそ関与者 たちにたい して拘束力 をも っているo Lか もこのばあい、この拘束力は、決 して強制 された ものではないこ とをあ らためて確 認 してお こ う。た とえば命令のばあいであれば、 何 らかのサ ンクシ ョン ・ポテ ンシャルに裏 うちさ れてい るため、聞 き手はいやお うな しに命令 に し たがわ ざるをえない。つ まり命令のばあいには、強制 力によって行為 を結びつける力が生みだされている わけだが、それにたいして、コミュニケーション行為 のばあいには、そ うした強制力に よって行為 を結 びつけ る力が生みだ されているわけではない。あ くまで も、それ ぞれの関与者が 自発的な意思 に も とづ いて了解 に したが っているのであ り、その意 味において関与者は行為へ と 「合理 的に」動機づ け られている18)。そ うしてみ る と、こ うした行為 整合 の力は どこか ら生みだ されて くるのかが問題 とされなければな らない。 この問いにたい して--バマースは次の ように こたえて いる19)。 この合理 的に動機づけ る力は、 語 られ たこ との妥当性か ら直接に引 きだ され るの ではない。相互承認 された妥 当性要求 を、必要 と されたばあいには話 し手が履行す る

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と い う保証 を話 し手は引き受けているのだが、そ うし た保証か ら、この行為整合の力が引きだされている のだ とい う。話 し手は、意思疎通 に指 向 した言語 行為 を遂行す るこ とに よって妥当性要求 をかか げ ているわけだが 、そ うした妥当性要求 の妥 当性 を 聞 き手に よって問い直 されたばあいには、その妥 当性 を明 らかにす る とい う保証 を、話 し手 はお こ なってい る。話 し手 はこの保証 を、真理性要求 と 正 当性要求のばあいには、討議 に よってす なわち 根拠 を提 出す るこ とに よって履行す るこ とが で き るし、誠実性要求のばあいには、首尾一貫 した行 動 をお こな うこ とに よって履行す るこ とがで きる。 話 し手に よって提案 されてい る保証 を聞 き手が あ てにす るようにな るな ら、語 られたこ との意味の なか に含 まれている拘束力が効 力 を発す るこ とに な るのであ り、そ うした拘束力が相互行為 の帰結 を方向づけ るこ とになる。 この ように して合理 的 に動機づけ られた了解が 、行為整合 の機能 をはた しうるのだ と--バマースはい う。 (3) コ ミュニケ ーシ ョン行為 と討議 ここでは、これ まで検討 して きた論点 をふ まえ て、 コ ミュニケー シ ョン行為 と討議 との関係 につ いて検討 をお こない、コ ミュニケー シ ョン行為 に つ いての理解 をさらに深め ることに したい。 これ までの検討 で明 らかに した ように、 コ ミュ ニケー シ ョン行為 は妥 当性要求の呈示 とその承認 に もとづ く行為 だ とい うこ とがで きる。その こ と をふ まえ、ここでは次の ような論点 を確 認 してお くこ とに したい。す なわち、 コ ミュニケー シ ョン 行為 は妥 当性要求の呈示 とその承認に もとづ く行 為 だが 、その過程 は顕在的になされ る必要 はない、 とい う点である。 もちろん関与者のあいだでその 妥当性要求 その もの を主題 とし、それ を論議す る こ ともあ りうる。--バマースは妥 当性要求 その もの を主題 とす る論議の こ とを 「討議

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とよび、 コ ミュニケー シ ョン行為 とは明瞭に区別 している20)。 こうした討議 は、 コ ミュニケー シ ョン行為 にお いてかかげ られてい る妥当性要求 に異議が さしは さまれたばあいに開始 され る。逆 にいえば, とく に異議が さしはさまれないばあいは、 コ ミュニケ ー シ ョン行為 において呈示 されてい る妥 当性要求 は さ しあた り主題化 され るこ とはない。 しか しこ こで見誤 ってほな らないのは、コ ミュニケ- シ ョ ン行為 にお いては さしあた り主題化 されていな く とも、妥当性要求 はかか げ られているのであ り、 とくに異議が さしはさまれないか ぎ りにおいてそ うした妥 当性要求 は承認 されてい るとい うこ とな のである。この点 を見誤 り、妥当性要求 を主題 とし

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327 長野大学紀要 第15巻 第3号 1993 てとりあつか う行為だけ をコ ミュニケー ション行為 であると解釈す るなら、コ ミュニケー シ ョン行為 を あまりに も狭い概念 として理解す ることになる。も しコミュニケーシ ョン行為 とは妥当性要求 を主題化 す る行為であるとす るなら、コミュニケーシ ョン行 為 は 日常の行為 の うちの ご く一部分 の ものにす ぎ ないこ ととな り、社会的行為 をコ ミュニケー シ ョ ン行為 と戦略的行為 とに二分す る とい う社会 的行 為 の類型論 その ものの妥当性が 、疑問視 されかね ない。 しか し、そ うした理解 は コ ミュニケー シ ョン行 為 と討議 とを とりちが えた結果だ といわなければ な らない。--バマー スか らすれば 、妥当性要求 の呈示 と承認 とい う過程 は 日常的な行為 の連鎖の なか で くりか えされてお り、そ うした行為 の連鎖 においては、妥 当性要求 その ものは と りたてて主 題化 されは しない。 そ うした 日常的な行為 を表象 し、そこか らつかみだされた ものが コ ミュニケー シ ョン行為 の概 念だ とい うこ とを、ここで確認 し てお くことに したい。関与者 たちは、妥当性要求 に異議が さ しは さまれたばあいには じめて、そ う した コ ミュニケー シ ョン行為 の連鎖 を中断 し、討 議 を開始 し、妥 当性要求 その もの を主題化す るこ とになる。 その ように して討議が開始 され るこ と になるわけだが 、討議- の移行がいつ で も可能 だ とい うことさえ保証 されていれば、 コ ミュニケー シ ョン行為が成立す るためには十分 なのであ り、 妥当性要求 をつねに主題化 してお く必要 はない。 そ うしてみ る と、--バマースの論理 においては、 コ ミュニケー シ ョン行為の レヴェル と討議 の レヴ ェル とを峻別 した うえで、 コ ミュニケー シ ョン行 為か ら討議へ の移行可能性 を保証す るこ とだけが 必要 とされている といえよう。 ところで、す でに検討 した ように、コ ミュニケ ー シ ョン行為 は原則的には三つの種類の妥 当性要 求 を同時にかかげている。 そ うしてみ る と、これ ら三つの妥当性 の局面 それ ぞれにつ いて異 をとな えるこ とがで きる。ただ し、 コ ミュニケー シ ョン 行為 の下位類型 を検討 した さいに明 らか に した よ うに、 コミュニケー シ ョン行為 はそれ ら三つの妥 当性要求の うちいずれか一つ を主 としてかかげて いる とい うこ とが で きるのであ り、 したが って、 それ ぞれの コ ミュニケー シ ョン行為 においては、 その主 としてかか げている妥 当性要求 にたい して お もに異議が さ しは さまれ るこ とになろ う。 さて、 ここで注 目してお きたいのは次の点 である。すな わち、真理性要求 と正 当性要求のばあいには、討 議のなか で論拠 をしめす こ とに よってその妥 当性 を確認す るこ とがで きるのにたい して、誠実性要 求のばあいには、そ うしたや り方 ではその妥 当性 を確認す るこ とが で きない とい う点である21)。 真理性要求に疑念が さしは さまれたばあい、そ の発言の真理性 いかん を主題 とした討議が くりひ ろげ られ るこ とになる。 こ うした討議 を--バマ ースは理論的討議 と呼んでいる22)。正 当性要求に 異議が となえ られたばあいには 、その発言の規範 的正 当性 を主題 とした討議がお こなわれ る。 こう した討議 を--バマースは実践的討議 と呼んでい る23)。 これにたい して、誠実性要求に疑念が さし は さまれたばあいには、討議 のなか で論拠 をしめ す こ とに よってはそ うした疑念 を解消す るこ とが で きない。 とい うの も行為者は、い くら自分 は誠 実 だ と主張 した ところで、みずか らの誠実性 を証 明す るこ とにはな らないか らであ る。行為者は、 みずか らの発言 と矛盾 しない行為 をお こな うこ と に よって、誠実 に行為 しているこ とをしめ きなけ ればな らないのであ り、行為 の経過 のなかで首尾 一貫 した行為 をしめす こ とに よってのみ、みずか らの誠実性 を証 明す ることが で きるのである。 ともあれ、討議 とコ ミュニケー シ ョン行為 とを 概 念上 、明確 に区別 してお くこ とが きわめて重要 である。 コ ミュニケー シ ョン行為 は、妥当性要求 の妥 当性 いかんにつ いての論議 を主題的にお こな う行為 のこ とではない24)。 ここであ くまで も強調 しておか なければな らないのは、 コ ミュニケー シ ョン行為 とい う概 念は、何か理 想的な行為 を思惟 のなか で設定 し組み立てた ものではない とい うこ とである。ノ\-バマースはあ くまで も日常的な行 為 の連鎖 を表象 し、そこか らコ ミュニケー シ ョン 行為 の概念 をつかみだ している0--バマー スは コ ミュニケー シ ョン行為 とい う概 念に よって、 日 常 的な行為連鎖 のなかか ら、妥 当性要求の相互承 認 とい う過程 を読 み とってい る とい うこ とをあ ら ためて確認 してお きたい。 -4

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コ ミュニケ ー シ ョン行 為理 論 の 社 会理論 的意 義 --バマースは、社会理論た りうる行為理論の 構築 をめ ざして、行為理論のパ ラダイム転換 を提 唱 した。 コ ミュニケー シ ョン行為はそ うした理論 的探求の成果なのであ り、その構成の基本的特徴 につ いて、これ まで検討 をすすめて きた。--バ マースは、社会理論の基礎視角 として十全 に機能 をはた しうる行為理論 を構築す るために、行為理 論の鍵概念 を目的活動か らコ ミュニケー シ ョン行 為- と移行 させ た。その さい、 コミュニケー シ ョ ン行為が 目的活動 には還元 されえない とい うこ と をしめす ことが、かれに とっての重要な理論的課 題 となった。それゆえかれは、言語行為の分析 を 利用 して意思疎通の構造について解 明をすすめて いったのであ り、そ うした検討 をつ うじて、意思 疎通は目的活動 としては把握 しえないことを明 ら かにす るこ とがで きた0--バマースは、妥当性 要求の相互承認に もとづ くとい う点にコ ミュニケ ー シ ョン行為の基本的特徴 をみいだ したのであ り、 その ように特徴づけ られたコ ミュニケー シ ョン行 為概念 を準拠点 として、 コミュニケー シ ョン行為 理論 を展開 しているのである。 ところで、われわれ としては、この ように構築 されたコミュニケーシ ョン行為理論が、--バマ ース社会理論 その ものの構成のあ り方 を方向づけ ているとい う点に注 目してお きたい と思 う。 コ ミ ュニケー シ ョン行為理論はかれの社会理論の基礎 視角 とでもい うべ き役割 をはた しているのであ り、 この点 を十分にみ さだめておかなければな らない。 コ ミュニケー シ ョン行為理論が社会理論の基礎視 角 としていかなる意味 を有 しているのか。 コ ミュ ニケー ション行為理論の構成のあ り方によって、 --バマースの構想す る現代社会の社会理論にい かなる特徴が きざみ こまれることになったのか。 コ ミュニケー シ ョン行為理論の社会理論的な意義 を確認す るためには、これ らの点が十分に解明 さ れなければな らない。 そこで最後に、こ うした論 点について検討 を くわえてお くことに したい。 まず第

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に、コ ミュニケー シ ョン行為理論に よ って、行為整合への問いにかん して体系的な視座 が与 えられ るこ とになった、 とい う点 を確認 して お きたい。す でにのべ たように、社会学の行為理 論は、行為整合の問題 を解明す るとい うことをそ の中心 的な課題 として きた。 自我の行為 と他我の 行為 とはいかにして整合 され うるのか。社会的行為 はいかに して可能 なのか。社会学の行為理論 にお いては、この問題 こそがその関心 の焦点に位置 し ていた とい うことができる25)。 しか もこの問いは、 社会秩序 はいかに して可能かの問いを相互行為 レ ヴェルで表現 した ものにほかな らず、その意味で も、この行為整合 メカニズムへの問いを十全に解 明 しうるか どうか こそが、その行為理論が社会学 の基礎視角 として十分 な ものか どうか を決す る試 金石 であるといわなければな らない。 す でに検討 をすすめて きたように、--バマー スは、意思疎通の分析 をつ うじて、コ ミュニケー ション行為 の論理構造 を明示化 しようとした。 コ ミュニケー ション行為 は 目的活動 には還元 しえな い。そのことの論証 をつ うじて、--バマースは コ ミュニケー シ ョン行為 における行為整合 メカニ ズムの独 自な論理 を解明す ることができた といえ よう。 目的活動 としての行為 を出発点 とすれば、 複数の行為者たちがかれ らの E]的活動 をかみあわ せ るこ ととしてのみ、社会的行為 は理論化 され う る26)0--バマースは、この種の社会的行為 にみ いだされる行為整合 のメカニズム を、さしあた り 「影響力行使」として特徴づけている。だが、 目的 活動 を出発点 とす るか ぎり、ひ とび とのあいだの 意思疎通に もとづ く社会的行為 は理論化 しえない。 それゆえ--バマースは、 コミュニケー シ ョン行 為への行為理論のパ ラダイム転換 を提唱す る。--バマースは、コ ミュニケー シ ョン行為が 目的活 動 には還元 しえないこ とを明 らかにす るこ とに よ って、了解が影響力行使 とならぶ もう一つの行為 整合 メカニズムであることを明示化 しているので ある27)

コ ミュ/=ケ- シ ョン行為 は、行為 におけ る意思 疎通の側面 と目的活動 の側面 とを綜合 した概念で ある28)。--バマースか らす ると、そ うした コ ミ ュニケー シ ョン行為 を出発点 とす ることによって は じめて、了解 と影響力行使 とい う二つの行為整 合 メカニ ズム を視野におさめ るこ とが可能になる。 -∼バマースの主張 をふ まえれば、コ ミュニケー シ ョン行為理論によっては じめて、「社会的行為 は 47

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-329 長 野大学紀要 第15巻 第3号 1993年 いかにして可能か」の問いに対す る包括的な視座 を獲得す ることがで きたのであ り、行為整合の問 題にたいして十全 な解答 をしめす ことがで きるよ うになった とい うことができる。 第

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に、コ ミュニケー シ ョン行為理論に よって、 行為の合理性 にかんす る包括的な視座が獲得 され る、 とい う点 を指摘 してお くことに したい。ハ-バマースか らすれば、目的活動 としての行為 を出 発点 とす るか ぎり、行為 の合理性の把握 にかん し て決定的な限界が生 じざるをえない29)。 これ まで 検討 して きたように、 目的活動 としての行為の特 徴は、(さしあたっては単独の)主体が 目標指向的 に対象へ とはたらきかけ、成果 を獲得するという点 にみいだされ る。 こうした行為概念 を出発点 とす るか ぎり、その行為の合理性は成果の合理性へ と 還元されることにな り、そ うした行為は、いかに して成果 をうま く達成 しえたか とい う点でのみ評 価 され ることになる30)。つ ま り目的活動 としての 行為の合理性は、あ くまで も実効 性 (Wirksa m-keit)とい う側面ではか られ るとい うのである31)0 --バマー スか らすれば、こうした前提に もとづ くか ぎり、 目的合理性 (Zweckrationa

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itat)こそ が、行為が批判 された り改善 された りしうる唯一 の側面であるとして、 目的合理性に固執せ ざるを えな くなる32)。 こうして--バマースは、 目的活 動 としての行為 を出発点 とす るか ぎり、 目的合理 性 ないしは認知的・道具的合理性(kognitiv・instru一 mentelleRationalitat)へ と行為 の合理性 を切 り 詰めて しまう結果におちいることを明 らかにす る。 そ うした うえで--バマースは、行為の合理性 と い うものが決 して 目的合理性 には還元されえない とい う点に注意 をうながす0--バマースか らす れば、単独の行為者が客体へ とはた らきかける目 的活動 としての行為 ではな く、複数 の行為者のあ いだの意思疎通関係 を出発点 とし、そうしたひ と び とのあいだで、意思疎通 をつ うじての了解がい かに して十分に達成 され うるのか とい う点 を基準 として、行為の合理性 を評価す ることができる と い うのである。この--バマースの論理に したが うなら、行為の合理性は決 して成果の合理性につ くされるのではな く、意思疎通の合理性 とい うべ きもの も、行為の合理性のなかに含 まれなければ ならない0--バマースは、そ うした意思疎通の 合理性のこ とを目的合理性 と対比 させ て、「コ ミュ ニケー シ ョン合理性 (kommunikativeRationali -tat)」と呼んでいる33)O これ まで検討 して きた ように、--バマースに よれば、意思疎通は 目的活動 には還元 しえない独 自の構造 を有す るものであ り、この論拠 を説得的 に しめす こ とこそが、コ ミュニケー ション行為理 論の もっとも重大な理論的課題であった。意思疎通 は 目的活動には還元 しえない とす るこの論点は、 行為 の合理性 を検討す るうえにおいて も、重要な ポイン トとなる。意思疎通 もまた一種の 目的活動 として とらえうるのであれば、行為の合理性 を把 握す るためには 目的合理性 とい う基準だけで十分 だ とい うことになるか らである。意思疎通が 目的 活動 には還元されえない とす る前提があるか らこ そ、 コ ミュニケー シ ョン合理性 とい う合理性の基 準は有意味な もの として確認 され うる。成果に指 向 して行為す るひ とび とが相互に影響力 を行使 し あい、その結果 として行為がかみあわせ られるこ ととして意思疎通が把握 され うるのであれば、行 為の合理性は もっぱ ら目的合理性 を基準 としての みつかみだされ ることにな り、コミュニケー シ ョ ン合理性 な どとい う概念が成立 しうる余地は存在 しえない。--バマースは、言語行為の分析 をつ うじて、意思疎通に指向 した行為は批判可能 な妥 当性要求の相互承認に もとづ くとい う点にその根 本的な特徴 を有す ることを明 らかに し、意思疎通 は 目的活動 には還元 しえない ということの論拠 を しめす とともに、こうした基本的特徴 をふ まえる ことに よっては じめて、意思疎通の行為にみ られ る合理性 の基盤について解明 しうるのだ と主張す ることになる。 コ ミュニケー ションをつ うじて達 成 された了解 とい うものは、潜在的であれ妥当性 要求の相互承認に もとづ いている。了解 とい うも のの有す るこうした性格に着 目すれば、究極的に は根拠に依拠 しなければならない という特徴 をそ うした了解 とい うものか らひ きだす こ とが で き る34)。--バマースか らすれば、この点にこそ、 意思疎通の行為に特有の合理性が しめ されている とい うのである。 すでに検討 した とお り、了解 とは、ただたんに 事実上一致 しているとい うこ とではないO当の発 言内容の妥当性 を関与者のそれぞれが 自発的に承 - 4

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8-認 している とい う点に こそ、了解 とい うものの も つ重要 な特徴がみいだされ る。 もちろん発言の背 後にある何 らかの強制 力に よって同意 を とりつけ る こ とは で きるけ れ ども、 その よ うに して誘発 され た同意 は、 関与者 じ しんか らは決 して了解 とは認知 されえない。あ くまで も発言内容 の妥 当 性 を自発的に承認す る とい う点にこそ、了解 とい うものの特徴 があるのであ り、意思疎通 は、そ う した了解 の達成 をめ ざした ものだ とい うこ とがで きる35)0--バマー スは、意思疎通の行為 にみ ら れ るこうした基本 的特徴 に注 目し、そのなかか ら 目的活動 とは異な る もうひ とつの合理性 の基準 を 読み とってい る とい うこ とが で きる。 --バマースか らす ると、コ ミュニケー ション行 為 を出発点 とす るこ とに よっては じめて、行為 の 合理性 を論議す るための包括的な視座 が え られ る とい うこ とになる。 さきほ ども再確認 した とお り、 コ ミュニケー シ ョン行為 とは、行為 におけ る 目的 活動 の側面 と意思疎通の側面 とを綜合 した概 念で あった。 それゆえ、 コ ミュニケー シ ョン行為か ら 出発す るこ とに よって、行為 の合理性 とい うもの を成果の獲得 と了解 の達 成 とい う二つの側面か ら 評価す るこ とが可能 になる。 さらに、前節 で検討 したコ ミュニケー シ ョン行為 の下位類型 を手がか りとすれば、 コ ミュニケー シ ョン行為 のなか に具 体化 され る行為 の合理性 の諸側面につ いて、分析 を展開す るこ とが で きる36)。 この点につ いて--バマースは、表2においてその概要 を呈示 してい る. ともあれ、 コ ミュニケー シ ョン行為理論 を前 提 とす るこ とに よって、 目的合理性ばか りでな く コ ミュニケー シ ョン合理性 をも視 野にお さめ るこ とが で きるようになるのだ と--バマー スは主張 す るのである。 さらにこ うした論議 は、近代社会の生みだ した 合理性 を評価す る視 点 をみ きわめ るために も、重 要 な手がか りとなる。--バマー ス もい うように、 近代 の 自己了解 を強 く特徴づ けて きたのは、認知 的 ・道徳的合理性 だ とい うこ とが できる37)。主体 が客体- とはた らきかけて、成果 を獲得す る。そ うした成果 の合理性 とで もい うべ きものが近代社 会 を方向づけて きたのであ り、そ うした合理性 こ そが現代社会の巨大 な生産力 を生みだ して きた。 だが 、他方 において、そ うした合理性 こそが現代 社会 の さまざまな問題 を生みだ して きたのではな いか との疑念 も、表明 されている。周知 の ように、 M・ホル ク- イマ- とTh・W・ア ドル ノは、対象へ とはた らきかけて成果 をえる人間 とい うものの理 性 のあ り方 を 「道具 的理性

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」 として特徴づ け、そ うした理性 こそが、 自然や (他者ばか りでな く自分 じしん をも含む ) 人間にたいす る支 配 を生 み だ して い るの だ とす る38)。 こうした考 え方か ら出発すれば、道具 的 ・ 認知 的合理性 こそが近代社会の合理性 にほか な ら ず、 しか もそれは 自然や 人間 を支配す る合理性 だ との帰結が導かれ よう。 そ うだ とす るな ら、この 視座か らぼ、近代社会 を特徴づけ る合理性 その も の- の全面的な批判が展開 され ざるをえないOだ が、--バマースか らすれば、近代社会へ といた る社会 の発展のなかで、認知 的 ・道具 的合理性 ば か りでな く、 コ ミュニケー シ ョン合理性 も育 まれ 表2 行為合理性の諸側面

具体化 された知識の類型 論証の形式 伝.知識の範型承される 目的論的行為 技術 としてないしは戦略 理論的討議 技術、戦略 (道具的行為、戦略的行為) として利用可能な知識 事実確認的言語行為(会話) 経験的 .理論的知識 理論的討議 理論 規範に規制 された行為 道徳的 .実践的知識 実践的討議 法観念、道徳観念 ドラマ トウルギカルな 行為 審美的 .実践的知識 治療的批判、審美的批判 芸術作品 (TKH,I,S.448.邦訳 (中)80真、より作成) -4

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9-331 長 野大学紀要 第15巻 第3号 1993 て きたのであ り、このこ とに も十分 な評価が なさ れなければな らない。現代社会- といた る社会発 展 のなか でひ とび とは、客体へ とはた らきかけて 成果 をえることばか りでな く、ひ とび とのあいだ の意思疎通 をはか るこ ともお しすすめて きた。そ うした社会発展 のなか で、ひ とび とのあいだの相 互 批判 を許容 しあ え る よ うな文化 や 社会規範や パ ー ソナ リテ ィの あ り方 もまた、 育成 されて き た。 コ ミュニケー シ ョン行為 とい う概念 を出発点 とし、 コ ミュニケー シ ョン合理性 とい う概 念 を手 がか りとす るこ とに よっては じめて、社会発展 の こうした側面が十全 に評価 され うる とい うのであ る。 さらに第

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に、 コ ミュニケー シ ョン行為 とい う 概念 を前提 に しては じめて、生活世 界論 を社会理 論 として生かす道が開示 され る とい うこ とを指摘 してお きたい。その さいまず確認 されなければな らないのは、--バマー スか らすれば、 コ ミュニ ケー シ ョン行為 を出発点 とす るこ とに よっては じ めて、生活世 界の問題性が問われ うる とい うこ と なのである。これまですでに検討 してきたように、 コミュニケー ション行為 とは、行為者のあいだでの 妥 当性要求の相互承認に もとづ く行為 だ とされて いる。そ うしてみ る と、 コ ミュニケー シ ョン行為 は、行為者間の相互 了解 に もとづ (行為 だ とい う こ とができるわけだけれ ども、そ うした相互 了解 がいかに して成立す るのか を問題 に していけば、 そ うした行為者 たちのあいだに共有 されている 自 明な意味基盤が重要 な機能 を果 た してい ることに 目を向け ざるをえない39)。ある行為者が他者 と意 思疎通 しよ うとす るばあい、そ うした行為者 たち は、共有 され た意味基盤 をその コンテキス トとし て前提 に しているのであ り、そ うした 自明な意味 基盤が まった く存在 しなければ、意思疎通は成 り 立 ちえない

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・フ ッサールや

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・シュ ッツはこ う した 自明な意味基盤 を生活世 界 とよび、その構成 を問題に しようとした40)。そ うしてみ る と、 コ ミ ュニケー シ ョン行為 を出発点に設定す ると、その 論理展開のなか で、必然的に生活世 界の問題性 に つ きあた らざるをえない とい うこ とがで きるので あ り、その意味において、 コ ミュニケー シ ョン行 為への問いは生活世 界への問いに直結 している と い うこ とが で きよう41)0 そ うだ とす るな ら--バマースは、こうした論 理 をつ うじて、生活世 界論 には コ ミュニケー シ ョ ン理論的な視座が不可欠の前提 とな ってい るこ と を明示化 している とい うことがで きる。--バマ ースか らすれば、 目的活動 としての行為 を出発点 とす るか ぎり、生活世界の問題性は十全には視野に お さめ るこ とが で きない。 とい うの も、 目的活動 としての行為か ら出発 し、外界- のはた らきかけ として行為 を理論化 しようとす るか ぎり、当の行 為者に よるそ うしたはた らきかけにかかわる もの だけが主題化 され うるのであ り、当の行為者に と って 自明なもの とみなされる意味基盤は問題 とされ えないか らである。目的活動 としての行為 を前提 と すれば、当の行為者に とって意識化 され うるような 要素 (た とえば、手段 、目的、価値 、結果)は視 野にお さめ られ るけれ ども42)、行為者に とって 自明な意味 基盤はまさしく自明であるがゆえに問題 とはされえ ない。 もちろん、そ うした意味基盤 も、それが行 為 に とっての条件 として当の行為者にかかわ るこ とがあれば 、主題化 され うるだろう。けれ ども、 こ うした視角 に とどまるか ぎ り、 自明な意味基盤 その ものす なわち生活世 界それ じたい を主題化す るとい う視 点はみ ちびかれえない。そ うした点か らして、生活世 界その もの を主題化 しうるために は、 コ ミュニケー シ ョン行為理論の視角が不可欠 だ と--バマースはい うのであるOひ とび とが意 思疎通 をお こなお うとす るばあい、 自明な意味基 盤が重要 な機能 をい となんでいる とい うことが で きる。ひ とび とのあいだの意思疎通関係 を理論 的 な出発点 とすれば 、生活世 界の問題性 につ きあた らざるをえないOそ うしてみ ると、意思疎通 に指 向 した行為か ら出発す るこ とに よっては じめて、 生活世 界の問題性 を主題化す るこ とがで きるとい うわけなの であ り、その意味において、生活世 界 論は コ ミュニケー シ ョン行為理論 をその理論的な 前提 としているとい うこ とが で きる。 ところで、ここで銘記 しておか なければな らな いのは、--バマースの理論構成において、 コ ミ ュニ ケー シ ョン行 為 と生 活世 界 とが相補 的関係 にあるもの とされてい る とい うことである43)。 ま ず一方において、コ ミュニケー シ ョン行為がい と なまれ るためには、 自明な意味基盤 としての生 活 世 界が存立 していなければな らない。生活世 界は -

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50-コ ミュニケー シ ョン行為 の資源 として役 だ ってい るのであ り、そ うした資源 を利用す るこ とに よっ て コ ミュニケー シ ョン行為 は成立す る44)。他方 に おいて、生活世 界は、 コ ミュニケー シ ョン行為 に よってのみ再生産 され る。 コ ミュニケー シ ョン行 為 は、生活世 界 を資源 として利用す るのだが 、 ま さにそれゆえに こそ、生活世 界は再生産 され るの だ とい うの で あ る45)。 コ ミュニ ケー シ ョン行為 の成立 は生活世 界 を前提 に してお り、生活世 界の 再生産 は コ ミュニケー シ ョン行為 をつ うじてのみ な しとげ られ る。 この意味において、コ ミュニケ ー シ ョン行為 と生活世 界 とは相補 的な関係 にある とい うのである。そ うしてみ る と、-ーバマー ス 社会理論の構成上 、 コ ミュニケー シ ョン行為理論 と生活世 界論 とは、それ ぞれたが いの存在 を前提 に してい る とい うべ きなのであ り、その意味にお いて両者は、密接 な関連にある といわなければな らない。 コ ミュニケー シ ョン行為理論が社会理論 として の意義 を十分に発揮 しうるためには、生活世 界論 と接続 されなければな らないだ ろう。 じっさいの 行為状 況におけ るコ ミュニケー シ ョン行為 のあ り 方は、その基盤 となってい る生活世 界のあ り方 に 大 き く左右 され る といわなければな らない。 コ ミ ュニケー シ ョン行為理論 は、生活世 界論 と接続 さ れ るこ とに よって、現代社会のあ り方 を分析す る 理論 としてそのポテ ンシャル を十全に生か しうる ための回路 を確保す るだろ う。他方、 コ ミュニケ ー シ ョン行為理論 を前提 とす るこ とに よって、生 活世 界論に次の ような二つの重要 な視 点が もた ら され るこ とを確認 してお こ う。す なわち、それは 一つには、流動 的視 点ない しは再生産論的視 点 と もい うべ きものであ り、 もう一つには、合理化論 的視 点 とで もい うべ き視 点 である。 さきほ どもの べ たように、コ ミュニケー シ ョン行為 は生活世 界 を資源 として利用 しているのであ り、その こ とを つ うじて生活世 界は再生産 され る。 こ うした論点 は、生活世 界の流動 的性格 ない しは過程 的性格 を 強調 している ともい うこ とがで きよう。生活世 界 とい うものは、さしあたっては行為者 たちに とっ て 自明な意味基盤 として特徴づ け られ る。 さらに、 そ うした特徴づ け をふ まえた うえで、生活世 界が コ ミュニケー シ ョン行為 をつ うじて再生産 され る とい う性格 を明示化す るこ とに よって、そ うした 自明な意味基盤 その ものす なわち生活世 界が変動 す る性格 をもった ものだ とい う論理 を明 らかにす るこ とが で きる。た しか に生活世 界は、 自明な意 味基盤 として機能 しているけれ ども、そ うした 自 明性 はつねに安定 した ものであ りつづけ るわけで はないOつねに コ ミュニケー シ ョン行為のなかで 問いなお され る可能性 をは らみつつ 、再生産 され てい るのであ る。 もちろん生活世 界はそれが生活 世 界であ る以上 、その全体 が問いなお されその 自 明性が完全 に崩壊す る とい うこ とは、め ったにな い例外的な事態だ といわなければな らない。 しか し、その生活世 界の個 々の断片にか ん していえば、 つねにその 自明性が問いなお され る可能性 をは ら んでい る。 コ ミュニケー シ ョン行為 の概 念 を前提 とす るこ とに よって、生活世 界は、 さしあたって は 自明であるが 、潜在的には批判可能 な意味領域 として とらえなおす こ とが で きるのであ る。 さらに コ ミュニケー シ ョン行為の概 念 を前提 と す るこ とに よっては じめて、生活世 界の合理化 と い う論 点 を主題化す ることがで きる。 コ ミュニケ ー シ ョン行為 の概 念 を検討 した さいに明 らか に し た よ うに、意思疎通の行為 にはそれ独 自の合理性 の基盤がある とい うこ とが で きる。す でに何度 も のべ て きた ように、妥 当性要求 を相互承認す る と い う点に意思疎通の行為 の根本的特徴 がみいださ れ るのであ り、 しか もそ うした相互承認は何 らか の強制 力に よって誘発 された ものではな く、あ く まで も個 々の行為者の 自発性 に依拠 している とこ ろにその特徴が あるO まさし くこ うした点に--バマー スは、合理性の源泉の一つ をみいだ したの であったoそ うした コ ミュニケ- シ ョン行為 の基 本的な特徴づ け をふ まえるな ら、こ うした特徴づ けが よ り明確 にあ らわれ うる方向へ と生活世 界が 変動 してい く過程 を生活世 界の合理化 として特徴 づ け るこ とが で きる。生活世 界は、さ しあた り行 為者 たちに とって 自明な意味基盤 として特徴づけ られ るのだけれ ども、そ うした生活世 界の 目明 き はそれ ぞれの社会 のあ り方 にお うじて異なってい る とい うこ とが で きる。そ うした生活世 界の 自明 性 は、いわば規範によってあ らか じめ定め られて いるばあい もあ りうるし、そ うした規範の拘束力 が弱 く、それゆえコ ミュニケー シ ョンに よって 多 15

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1-333 長野大学紀要 第15巻 第3号 1993 くの こ とが らを取 り決めなければな らない可能性 をは らんでいるばあい も想定 され うる46)。前者の ばあい、問題化 され うる生活世 界の領域 は小 さい が、後者のばあいには、生活世 界のなかの問題化 され る可能性 をは らんだ領域 は大 きい0--バマ ー スは、 コ ミュニケー シ ョン行為 の概念 を前提 と す るこ とに よって、後者のばあいの方が コ ミュニ ケー シ ョン行為が よ り純粋 な形 でその生活世 界に おいてい とな まれているとみてい るのであ り、そ れゆえいわば合理性 の高 い状態 とみなす こ とが で きるのである47)。 しか も、社会の発展過程 をみれ ば、生活世 界のなかで問題化 され る可能性 をは ら んだ領域が拡大す る とい う傾 向は確実 にみいだ さ れ るのであ り、こ うした趨勢 を--バマースは生 活世 界の合理化 として特徴づ けているのである48)。 第

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に、コ ミュニケー シ ョン行為の概 念 を前提 に しては じめて、 コ ミュニケー シ ョン ・メデ ィア を整序す る視 点が獲得 され うる とい うこ とをあげ てお こう。 まず--バマー スは、 コ ミュニケー シ ョン行為理論 を前提 に して、コ ミュニケー ション・ メデ ィアの基本的な機能 をみ さだめ ようとす る。 -ーバマースか らすれば、コ ミュニケー シ ョン ・ メデ ィアの もっ とも基本的な機能は、コ ミュニケ ー シ ョン行為 の負担軽減 (Entlastung) とい う点 にこそみいだ されなければな らない49)。--バマ ースに よれば、 コ ミュニケー シ ョン ・メデ ィアは、 言語に よる意思疎通の支出 を縮減 し、コンセ ンサ スの不成立 とい う リス クを軽減 し、 自我 と他我 と のあいだの行為整合 に役立つ とい う機能 を有 して いる とい うOつ ま りコ ミュニケー シ ョン ・メデ ィ アが媒介す るこ とに よって、 自我の 申し出を他我 が受 け入れ るよ う促進す るこ とがで きるのであ り、 そ うした点において言語に よる意思疎通の負担軽 減 をはた し行為 整合 に役立つ とい うのである。 し か も、こ うした コ ミュニケー シ ョン ・メデ ィアの 機能が社会 的に重要 な もの として位置づけ られな ければな らない背景 として、 さきにみた生活世 界 の合理化 とい う過程がみ いだ され るこ とを確認 し ておか なければな らないOひ とび とのあいだでい とな まれ る 日常 の コ ミュニケー シ ョンは、生活世 界 をコンテキス トとしてお り、そ うした生活世 界 を資源 として利用す るこ とをつ うじて成 り立 って いる。つ ま り自我 と他我 とのあいだの行為整合 は、 そ うした生活世 界 を基盤 とし、言語に よる意思疎 通 をつ うじて、な しとげ られているのである。 そ うした点に注 目す るな ら、生活世 界は、間主観的 に 自明な もの として受け入れ られ るこ とをつ うじ て、 コンセ ンサ スの前貸 しとで もい うべ き機能 を はた してい るのであ り、ひ とび とは多かれ少 なか れそ うした コンセ ンサ スの前貸 しを利用 して意思 疎通 をはか っている とい うこ とが で きる50)。 とこ ろで、社会が発展す るその過程 のなかで、動機や 価値 の一般化が進行 し、無問題的な ものの領域 が 収縮す る。 そ うしたばあい、 コ ミュニケー シ ョン 行為 をい となむ行為者 たちは、生活世 界によるそ うした コンセ ンサ スの前貸 しを素朴に前提 とす る ことが で きな くな り、それゆえに 自分 たち じしん に よる解釈 のはた らきに依拠 しなければな らな く なる。その こ とに よって同時に、意思疎通の支 出 は増大 し、 コンセ ンサ スの不成立 とい うリス クも 増大す る51)。だが この こ とは他面において、言語 に よる意思疎通の もつ重要性 が高 まっているとい うことをも意味 してお り、つ まりは批判可能な妥当 性要求の間主観的な承認に依拠す る とい う意思疎 通の基本的性格が よ り明瞭 な もの として浮かび上 が って きた とい うこ とをさ ししめ して もいる。す でにみた ように、言語に よる意思疎通 をつ うじた 了解 の達成 とい うものは、あ くまで も関与す る個 々の行為 者 たちに よる自発的な承認に もとづ くと い う点にその基本的な特徴 があ り、何 らかの強制 力や不透 明 さに もとづ くものではない とい う点に おいて、合理 的であると--バマースはみな して いる。言語 に よる意思疎通 とい うものには、基本 的にこ うした特徴がみ られ るのだけれ ども、生活 世 界がその 自明で無間題的な性格 を強固に もって いるばあい、そ うした合理性 はポテンシャルに と どまっているのであ り、当の生活世 界のなか で言 語に よる意思疎通の重要性が増す とい うことは、 そ うした合理性の ポテンシャルが ときはなたれ、 現実化す る とい うこ とにほか な らない。--バマ ースは、 まさし くこうした過程 を生活世 界の合理 化 として特徴づけているのである。だが、その半面 において、こうした生活世界の合理化過程は、意思疎 通の必要 を上昇 させ 、解釈の支 出を増大 させ 、コン セ ンサスの不成立の リス クを拡大す る。生活世 界 の合理化 の過程 は、意思疎通に過大 な負担 を強い

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2-るこ とにな るのであ り、こうした負担 を軽減す る 機能 をコ ミュニケー シ ョン ・メデ ィアは担 ってい るとい うこ とが で きるのである。 コ ミュニケー シ ョン ・メデ ィアの基本的機能 に かんす るこ うした認識 をふ まえ、--バマ-スは、 コ ミュニケー シ ョン ・メ

ィア をその性格か らし て二種類 に分類すべ きだ と主張す るOす なわち、 言語に よる意思疎通 を濃縮す るコ ミュニケ- シ ョ ン ・メデ ィア と言語に よる意思疎通 に とってか わ るコ ミュニケー シ ョン ・メデ ィアの二つ に コ ミュ ニケー シ ョン ・メデ ィアは分類 されなければな ら ない とい うのである52)。前者の例 として-ーバマ ー スが あ げて い るの は、専 門的声望 (fachliche Reputation)や価値 コ ミッ トメン トない しは道徳 的 ・実践的 ))- ダー シ ップであ り、--バマース はそれ らを一般化 され た形式の コ ミュニケー シ ョ ンだ と特徴づけてい る53)。それにたい して後者の 例 として--バマー スが あげてい るのは、貨幣 と 権力である54)。 ここでまず確認 しておか なければ な らないのは、 こうした分類の前提 になってい る のが コ ミュニケー シ ョン行為 の概 念だ とい うこ と であ り、 コ ミュニケー シ ョン行為 の基本的特質 に かんす る分析 をふ まえて こうした分類が根拠づ け られてい る とい うこ とである。 まず前者のばあい、 そ うした メデ ィアは、 コ ミュニケー シ ョン行為 に とってか わるものではな く、コ ミュニケー シ ョン 行為 を促進す る もの として位置づけ られている と い うこ とが できる。 このばあい、た しか にそ うし たメデ ィアが媒介す ることをつ うじて行為 整合 は な しとげ られているのであ り、その意味において、 言語 に よる意思疎通の負担軽減がはか られている。 しか しこの種の メデ ィアは、妥当性要求 の呈示 と 承認 とい う過程 をいわば第一審級においてのみ軽 減 してい るにす ぎない とい う点にその特徴がみい だされ る55)。 とい うの も、これ らの メデ ィアはそ れ じたい言語に よるコンセ ンサ ス形成 を利用 しな ければな らず、それゆえこれ らの メデ ィアは生活 世 界の文脈か ら切 り離 されえないか らである56)。 た とえば専 門的声望 が メデ ィア として機能すれば、 自我の 申 し出がそ うしたメデ ィアに もとづ いてい るばあい、それ を受 け入れ るよう他我 をうながす こ とがで きるのであ り、そのか ぎ りにおいて この メデ ィアは行為整合 に役立つ こ とがで きるO とこ ろで、このばあい他我が 自我の申 し出 を受 け入れ たのは、 自我の 申し出の背後にあ る何 らかの強制 力に よる ものではな く、専 門的声望 に もとづ く自 我の 申し出を信用 したか らにほか な らない。 とこ ろで専 門的声望 とい うものは言語 に よるコンセ ン サ ス形成に依拠 してお り、当の生活世 界の文脈に 埋め込 まれている。だか らこそ専 門的声望 は信用 をうるこ とが で きるのであ り、行為整合 の力 をも っ こ とが で きる。 さて、メデ ィア としての専 門的 声望 が そ うした特徴 をもつ以上 、そ うした専 門的 声望 の根拠 を問 うこ とがで きるのであ り、つ ま り はそ うした コ ミュニケー シ ョン ・メデ ィア を媒介 としてお こなわれ る行為整合のあ り方 には疑 い を さしはさむ こ とも可能 だ とい うこ とがで きる。 そ うしたばあいには、言語による意思疎通の場面にひ きもどされ、そこで潜在的にかが ずられていた妥当 性要求の妥 当性 いか んが主題化 され、行為整合 の あ り方 の妥当性が検討 され るこ ととな る。 そ うし てみ る と、この種 の コ ミュニケー シ ョン ・メデ ィ アの もつ行為整合 の力は、究極 的には妥 当性要求 の相互承 認か ら引 きだ されている とい うこ とがで きるのであ り、そのか ぎりにおいて、 この種 の メ デ ィアに媒介 された行為 は、 コ ミュニケー シ ョン 行為 と同一 の構造 を有 している といわなければな らない。つ ま りこの種 の コ ミュニケー シ ョン ・メ デ ィアは、意思疎通過程 をいわば濃縮 してい るに す ぎず 、決 して意思疎通過程 に とってか わってい るのではない。 この種の メデ ィアに媒介 された行 為 は、さしあたっては妥 当性要求の吟味には さら されないけれ ども、潜在的には批判可能 だ とい う 点にその特徴 をみいだせ よう。 これにたい して、後者の コミュニ ケー シ ョン ・ メデ ィアす なわち貨幣 メデ ィア と権 力 メデ ィアの ばあい、いわば コ ミュニケー シ ョン行為 に とって かわ ってい る とい うところにその特徴があ る とさ れている57)。つ ま りこれ らの メデ ィアは、言語に よる意思疎通過程 を回避 して、他 の相互行為参与 者の決定- と影響力行使 をお こな うこ とを可能 と しているのであ る。その意味において、貨幣 メデ ィア と権 力 メデ ィアは、行為整合 の場面 において 言語 の負担軽減 としての機能 をはた している。そ の さい注 目しておか なければな らないのは、この ばあい、行為 整合 は言語に よるコンセ ンサ ス形成 -5

参照

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