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大乗仏教と有部教学の接点としての諸法の体系 ――『五蘊論』における世親の著作姿勢を例に――

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(1)『対法雑誌』第 1 号 2020 年 3 月 65–87 頁 対法雑誌刊行会. 大乗仏教と有部教学の接点としての諸法の体系 ――『五蘊論』における世親の著作姿勢を例に ―― 横山. 剛. はじめに インド仏教において大きな勢力を誇った説一切有部の教理は大乗仏教の成立とそ の後の展開を支える基礎となった。有部の教理が有するこの基礎学としての性格こ そが、インド仏教の研究において有部の教理研究が重視される理由の一つである。特 に有部の教理の原理論に相当する諸法の体系(いわゆる「五位七十五法」 )は、大乗 仏教においても重視され、有部の教説を基礎として大乗独自の解釈がなされたり、新 たな法体系が構築されるなどした。このような思想史的な状況とその具体性から、法 体系は有部教学と大乗仏教の関係を考えるのに適した教理的ポイントであるといえ よう。 筆者はこの数年、中観論書が伝える有部の法体系の研究に取り組んできたが、その 一方で中観派と共に大乗仏教の一翼を担う瑜伽行派にも目を向けて、その法体系(い わゆる「五位百法」 )と有部の教理の関係についても分析を進めている。法体系の解 説を含む瑜伽行派の文献は少なくないが、本稿では世親(Vasubandhu, 400–480 年頃) の『五蘊論』 (Pañcaskandhaka)に注目する。そして、同論における世親の著作姿勢を 検討することで、有部の教理が有する基礎学としての性格を示したい。. 1.『五蘊論』研究の現状と課題 数ある瑜伽行派の文献の中から『五蘊論』に注目するのには二つの理由がある。す なわち、近年、テキスト研究と思想研究の両面において目覚ましい進展が見られると いう点と同論には瑜伽行派の教理から外れて有部の教理と一致する点が認められる という点である。 一点目については、 『五蘊論』本論の梵文テキストが LI and STEINKELLNER[2008]と して刊行され、その後、安慧注の梵文テキストが KRAMER[2013]として刊行された。. 65.

(2) 対法雑誌 第 1 号. そして、以上のテキスト研究を前提に思想研究も新たな段階に入り、Kramer 氏の諸 論文や、国内では同論の全訳を示しながらその内容を総合的に解説する師[2015]な どの研究が発表され1、今後も更なる展開が予想される。 二点目について、師[2015]28–29 は、 『五蘊論』の教理的な特異性を、世親の思想 的な変遷に関する問題と合わせて、次のように紹介する。 先に見ましたように、世親菩薩の伝記の多くが、説一切有部から大乗への転向について 語っています2。これによると世親菩薩は、部派仏教から大乗・唯識の立場へと思想的立 場を変えていったわけですが、 『大乗五蘊論』はその過渡期の思想を伝えるものだと言わ れてきました。たとえば、横山紘一先生は、 『大乗五蘊論』について次のように述べてい ます。 識蘊にアーラヤ識を加え、無為に真如を加えるなど、唯識思想的傾向が強いが、 『倶 舎論』的見解もなお認められ、 『大乗成業論』とともに、ヴァスバンドゥの過渡期の 思想を伝える書である。 (三枝充悳『世親』 、一五八ページ)3 私が冒頭で『大乗五蘊論』について「保守的な色彩が強い」と言ったのは、このことを指 しているのですが4、この横山先生のような考え方は、これまで広く受け入れられてきま した。しかし、先ほど見ましたように、近年の研究では世親菩薩がそのような転向をし なかった可能性も指摘されています5。そうだとすると、 『大乗五蘊論』を『倶舎論』から 唯識にかわっていく過渡期の著作だとは、簡単には言えないということになります。今 後の研究が期待されるところです。. 1『五蘊論』の先行研究については、師[2015]304–307. に主要な研究がまとめられているため、 これらの研究について本稿では再説しない。同研究以後に発表された同論に関係する主な研究 に、KRAMER[2015] 、松本[2015] 、箕浦[2016] [2018] 、清水[2017] [2018] [2019]がある。 2 師[2015]6–8 を参照。 3 師[2015]が引用する『世親』 (講談社学術文庫,講談社,東京,2004)は三枝充悳氏の著書 であるが、学術文庫版の「原本まえがき」の末尾によれば、この引用部分は横山紘一氏による ものである。 4 師[2015]4–6 を参照。 5 師[2015]8–11 を参照。. 66.

(3) 大乗仏教と有部教学の接点としての諸法の体系(横山剛). 先行研究によれば、世親の著作の順序としては『倶舎論』→『釈軌論』→『成業論』 →『縁起経釈』→『唯識二十論』→『唯識三十頌』という順序が想定される6。一方、 室寺[2000]は『五蘊論』の識蘊の内容を根拠に、同論が明らかに唯識的な立場から 著されており、 『唯識二十論』の前後に位置づけられることを指摘する。するとこの 点からも、 『五蘊論』に見られる有部的な傾向を世親の思想的な変遷に帰して解決す ることが難しくなる。 本稿では、 『五蘊論』の法体系を無著(Asaṅga)の『阿毘達磨集論』 (Abhidharmasamuccaya)に説かれる瑜伽行派の法体系(いわゆる「五位百法」 )と比較することで、 『五蘊論』のいかなる点が「保守的」であるのか(すなわち、有部的な傾向を残して いるのか)を示し、さらにその理由を検討する。. 2.『五蘊論』と『阿毘達磨集論』に説かれる法体系の比較 『五蘊論』と『阿毘達磨集論』 「本事分三法品」の冒頭部で説かれる法体系を比較 すれば7、以下の通りである。両論の法体系における相違点を太字で強調して示す。 『五蘊論』. 『阿毘達磨集論』. 五蘊 色蘊. 五蘊 色蘊. 四大種:地界・水界・火界・風界. 四大種:地界・水界・火界・風界. 大種所造:五根・五境・無表. 大種所造:五根・五境・法処所摂色. 6. 世親の著作の順序については、松田[1984] 、室寺[1986] 、李[2001]を参照。 本論の写本に欠 損があるため、二つの注釈書(ASBh・ASVy)を用いて、本論を復元しながら読解を行う必要 がある。AS と ASBh の該当箇所は次の通り。AS: GOKHALE[1947]15–19(cf. PRADHAN[1950]1– 15) ,ASBh: TATIA[1976]1–20.早島[2003]は AS・ASBh・ASVy のテキストを整理して示す が、法体系については、同研究の 6–131 を参照。また、最近、李学竹氏によって ASBh・ASVy の梵文原典の研究が進められており、法体系の解説については、L[2013] I [2015] [2016] [2017] [2018] [2019]を参照。さらに、阿毘達磨集論研究会は、これらの研究成果を総合して『阿毘 達磨集論』のテキストの再校訂と和訳を進めており、 「本事分三法品」冒頭から心所法の伺ま での研究成果が阿毘達磨集論研究会[2015] [2017] [2018] [2019]として刊行されている。こ のように、李学竹氏による原典研究や阿毘達磨集論研究会によるテキストの再校訂・和訳など によって、 『五蘊論』と同様に『阿毘達磨集論』の研究にもこの数年で大きな進展が見られる。 7『阿毘達磨集論』 「本事分三法品」冒頭における法体系の解説については、AS. 67.

(4) 対法雑誌 第 1 号. (極略色・極逈色・受所引色・遍計所 起色・定自在所生色) 受蘊・想蘊. 受蘊・想蘊. 行蘊. 行蘊 思. 受・想以外の心所法 遍行:触・作意・. 受・想・思以外の心所法. 遍行:作意・. 思、別境:欲・勝解・念・定・慧、. 触、別境:欲・勝解・念・定・慧、善:. 善:信・慚・愧・無貪・無瞋・無癡・. 信・慚・愧・無貪・無瞋・無癡・精進・. 精進・軽安・不放逸・捨・不害、煩. 軽安・不放逸・捨・不害、煩悩:貪・. 悩:貪・瞋・慢・無明・見・疑、随. 瞋・慢・無明・疑・有身見・辺執見・. 煩悩:忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・. 見取見・禁戒取見・邪見、随煩悩:忿・. 諂・憍・害・無慚・無愧・惛沈・掉. 恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・憍・害・. 挙・不信・懈怠・放逸・失念・散乱・. 無慚・無愧・惛沈・掉挙・不信・懈怠・. 不正知、不定:悪作・睡眠・尋・伺. 放逸・失念・不正知・散乱、不定:睡 眠・悪作・尋・伺. 心不相応行法 得・無想定・滅尽定・. 心不相応行法 得・無想定・滅尽定・無. 無想・命根・衆同分・生・異・住・. 想・命根・衆同分・生・異・住・無常・. 無常・名身・句身・文身・異生性 …. 名身・句身・文身・異生性・流転・定 異・相応・勢速・次第・時・方・数・ 和合. 識蘊. 識蘊 十二処. 十八界. > 法処 > 無為:虚空・非択滅・択. >法界>無為:善法真如・不善法真如・. 滅・真如. 無記法真如・虚空・非択滅・択滅・不動・ 想受滅 十八界. 十二処. 68.

(5) 大乗仏教と有部教学の接点としての諸法の体系(横山剛). 両論の法体系における主な相違点は次の六点である8。すなわち、 (1)色蘊におい て、法処所摂の色として無表を説くか、極略色などの複数の法を説くか、 (2)心所法 において、見を一法と数えるか、有身見などの五法を数えるか、 (3)心不相応行にお いて、異生性に続く流転などの法を解説するか、省略するか、 (4)無為法において、 真如を一法として説くか、善法真如などの三法を説くか、 (5)無為法において、不動 を説くか否か、 (6)無為法において、想受滅を説くか否か、という点である。 極略色などの法処所摂の色、流転などの心不相応行法、三種の真如、不動、想受滅 は、 『瑜伽師地論』や『顕揚聖教論』などにも説かれる法であり、これらの法を説か ないという点において『五蘊論』は瑜伽行派の教理から逸脱していると言えよう。以 下では、これらの点において世親が従来の瑜伽行派の教理を踏襲しなかった理由を 考えてみたい。. 3.『五蘊論』と『阿毘達磨集論』の法体系に見られる差異の検討 3.1. 法処所摂色について 色蘊における五根・五境以外の法処に含まれる要素として、 『五蘊論』は無表を挙 げるが、『阿毘達磨集論』は五種類の法を挙げる。両論における定義は以下の通り。 『五蘊論』 無表とは何か。表と定から生じる色であり、無見であり、無対である9。. 『阿毘達磨集論』 法処に属する色とは何か。それは五種であると見られるべきである。 〔すなわち〕集約に 関するもの(極略色) 、空地に関するもの(極逈色) 、受持に関するもの(受所引色) 、構 想に関するもの(遍計所起色) 、自在力に関するもの(定自在所生色)である10。. 8. 三科(蘊・処・界)を法体系の骨格とする際に、蘊・処・界の順番をとるか、蘊・界・処の 順番にするかという点については、吉元[1987]を参照。 9 PSk, 3.8–9: avijñaptiḥ katamā / vijñaptisamādhijaṃ rūpam anidarśanam apritagham // Cf. 斎藤ほ か[2011]38, 師[2015]81–96. 10 AS 梵文欠損部分。AS (Tib.), D 47a3–4, P 54a4–5: chos kyi skye mched pa'i gzugs gaṅ źe na / de ni. 69.

(6) 対法雑誌 第 1 号. 上述の五種の法処所摂色は、阿毘達磨集論注において次のように解説される。 「集約に関するもの」とは、極微という色である。 「空地に関するもの」もおなじそれ(極 微という色)であり、 〔先に色境の解説において〕説かれた通り、それ以外の妨げとなる 所触を欠いたものである。 「受持に関するもの」とは、無表という色である。 「構想に関 するもの」とは、影像という色である。 「自在力に関するもの」とは、解脱静慮者の認識 領域である色である11。. さらに『五蘊論』の安慧注は『阿毘達磨集論』に説かれる上述の五種類の法が『五蘊 論』において法処所摂の色として説かれない理由を次のように述べる。 さらに、それ(法処に属する色)は五種類である。 〔すなわち〕集約に関するもの、空地 に関するもの、受持に関するもの、構想に関するもの、自在力に関するものである。 しかし、ここ(本論)では、十一の実体(五根・五境・無表)のみが色蘊であると説か れることが意図されたので、受持に関するもののみが、無見無対の色であると説かれた。 他〔の四種類〕は〔無見無対の色であるとは説かれ〕ない。 それでは、いかなる目的でそれ(他の四種類)が説かれないのか。 「集約に関するもの」 とは、諸極微に他ならず、 〔それらは〕青などからなる色彩から区別されない。そして、 青などからなる色彩以外の色彩の現れはない。 「空地に関するもの」とは、諸極微に他な らず、それ以外の抵触をなす所触を欠いたものである。そして、それら(諸極微)は、色 彩を本質とするから、ここ(本論)では、 〔色彩に〕含まれるものに他ならないので、再 説されない。 「構想されたもの」 (=構想に関するもの)とは、骨鎖などの影像という色である。 「自 在力に関するもの」とは、解脱静慮者の認識領域である色である。それは構想を本質と. rnam pa lṅar blta ste / bsdus pa las gyur pa daṅ / mṅon par skabs yod pa daṅ / yaṅ dag par blaṅs pa las byuṅ ba daṅ / kun brtags pa daṅ / dbaṅ 'byor pa'o // Cf. *AS, ASG-1, 86.20–21: dhārmāyatanikaṃ rūpaṃ katamat / tat pañcavidhaṃ draṣṭavyam / ābhisaṃkṣepikam ābhyavakāśikaṃ sāmādānikaṃ pārikalpikaṃ vaibhutvikaṃ ca //, RAHULA[1971]5, BOIN-WEBB[2001]6, 斎藤ほか[2014]213–214. 11 ASBh, ASG-1, 87.5–7: ābhisaṃkṣepikaṃ paramāṇurūpam / ābhyavakāśikaṃ tad eva yathoktaṃ tadanyaprativārakaspraṣṭavyarahitam / sāmādānikam avijñaptirūpam / parikalpitaṃ pratibimbarūpam / vaibhutvikaṃ vimokṣadhyāyigocaro yad rūpam / この中で tadanyaprativārakaspraṣṭavyarahitam と いう一節は色境の解説における「その中で空地とは、それ以外の妨げとなる所触を欠いた場所 である」 (ASBh, ASG-1, 82.18: tatrābhyavakāśas tad tadanyaprativārakaspraṣṭavyarahito yo deśaḥ /) という一節を指す。. 70.

(7) 大乗仏教と有部教学の接点としての諸法の体系(横山剛). しているから、ここ(本論)には、含まれない。なぜならば、それは、その形象をもつ識 の現れの外側には存在しないからである。そして〔上で述べた〕影像も、他ならぬ識が対 象として現れたものであるから、影像は識を離れて存在しないし、識は影像を離れて存 在しない。 したがって、 「受持に関するもの」のみが説かれ、他〔の四種類〕は〔無見無対の色で あるとは説かれ〕ない12。. 以上の『五蘊論』の安慧注の解説によれば、 「集約に関するもの」 (極略色)と「空地 に関するもの」 (極逈色)は極微(paramāṇu)に他ならず、極微は色彩(varṇa)を本 質とし、したがって色蘊の色処に還元されるために、世親はこの二つを法処所摂の色 として説かなかったということになる。また「構想に関するもの」 (遍計所起色)と 「自在力に関するもの」 (定自在所生色)については、本質的には識(vijñāna)であ り、識蘊に還元されるために法処所摂の色として説かなかったということになる。そ して世親は「受持に関するもの」 (受所引色)だけを無表として説いたということに なる。つまり、世親は『倶舎論』などの有部論書に見られる法の自性にもとづく分類 にしたがって瑜伽行派の法体系に修正を加え、有部の法体系においても法処所摂の. 12. PSkV, 21.11–22.8: tat punaḥ pañcaprakāram ― ābhisaṃkṣepikam ābhyavakāśikaṃ sāmādānikaṃ parikalpitaṃ vaibhūtvikaṃ ceti / iha tv ekādaśadravya eva rūpaskandho vivakṣita iti sāmādānikam eva rūpam anidarśanam apratigham ity uktam, nānyat / kimarthaṃ punas tan noktam / ābhisaṃkṣepikaṃ paramāṇava eva nīlādikād varṇān na bhidyante / na ca varṇanibhā anyā nīlādikād varṇāt / ābhyavakāśikaṃ paramāṇava eva tadanyapratighātikaspraṣṭavyavirahitāḥ / te ca varṇātmakatvād ihopāttā eveti punar na nirdiṣṭāḥ / parikalpitaṃ pratibimbarūpam asthisaṅkalikādikam / vaibhūtvikaṃ vimokṣadhyāyigocaraṃ yad rūpam, tad vikalpātmakatvād iha nopāttam / na hi tat tadākāravijñānapratyavabhāsād bahir vidyate / pratibimbaṃ ca viṣayapratyavabhāso vijñānasyaiveti na vijñānāt pratibimbaṃ pratibimbāt vā vijñānaṃ pṛthag asti / tasmāt sāmādānikam evoktam, nānyat / Cf. ENGLE[2009]264. 以上の解説に続けて、安慧は世親が極略色などを法処所摂色として説かない理由の他の可能 性として次のように述べる。PSkV, 22.8–10: ko vā prabhāvamahatām asmadvidho buddhivispanditāny avagāhituṃ samarthaḥ / tasmāt tadanabhidhāna ācāryābhiprāyo 'nveṣyaḥ /「あるいはまた、 我々のようないかなる者が偉大な力を持つ人々の知の微細な活動を理解することができよう か。それ故に、それら(他の四種)を説かないことに関して、師(世親)の意図が探求されな ければならない。 」 (cf. ENGLE[2009]264–265)本稿で指摘する『五蘊論』における世親の著作 姿勢を考慮すれば、凡夫が理解できないから説かなかったというよりは、極略色などが色蘊や 識蘊に還元されるからと考える方が理にかなっているように思われる。. 71.

(8) 対法雑誌 第 1 号. 色として認められる無表のみを『五蘊論』において説いたということになる13。 以上の理解はあくまでも安慧注によるものであり、それを直ちに世親の意図であ ると結論することはできない。しかし、有部の教理にもとづいて瑜伽行派の説に修正 を加えていると考えられる点が他にも確認される。次に心不相応行における省略を 見てみよう。. 3.2. 心不相応行について 『五蘊論』において世親は、有部においても心不相応行法として説かれる、得・無 想定・滅尽定・無想・命根・衆同分・生・異・住・無常・名身・句身・文身について は、定義を述べるが、その一方で、瑜伽行派が独自に心不相応行法として説く、異生. 13『五蘊論』の安慧注に注目して『五蘊論』と『阿毘達磨集論』に説かれる法処所摂色の差異. を考察する研究に清水[2017] [2019]がある。清水氏の研究は本稿と同一の教理的ポイントを 同じ資料を用いて考察するが、注目する点、考察の内容、そしてそこから導かれる結論が本稿 とは異なる。少し長くなるがここでは清水氏の両研究の要点を整理して、本稿における筆者の 見解との異同を明らかにしておきたい。 本稿では、安慧注が法処所摂色の四法が色蘊と識蘊に還元されると説明する点に注目して、 世親が有部の法理論にもとづいて瑜伽行派の説に変更を加えていると理解した。一方、清水 [2017]は、安慧注の解説から読み取ることができる四法の性質に注目して、極微であり色処 に含まれる「集約に関するもの」と「空地に関するもの」については、広義の色と齟齬をきた すから色蘊から除外され、本質的には識である「構想に関するもの」と「自在力に関するもの」 については大種所造ではないから色蘊から除外されたとする。そして、大種所造である「受持 に関するもの」だけが法処所摂の色として説かれたとする。広義の色との齟齬や大種所造とい った四法が色蘊から除外される具体的な理由については、その妥当性を改めて検討する必要が あるが、有部の教理との関係からこれらの法が説かれない理由を説明する点は、本稿と共通す るといえよう。 次に清水[2019]では、先の論文の内容を踏まえた上で、世親は法処所摂色における四法を 否定しておらず、敢えて説かなかったと安慧は理解していると指摘し、法体系の略説という同 論の著作目的を考慮に入れて、世親自身もそのような意図を持っていた可能性が高いとする。 瑜伽行派が説く「集約に関するもの」などの教理そのものを世親は否定していないという点に ついては、筆者は清水氏の指摘に同意する。ただし、本稿の結びにおいても指摘するように、 心不相応行に見られるような「~などの」といった省略表現を用いることすらなく、『瑜伽師 地論』や『阿毘達磨集論』において認められる法に全く言及しない点を見ると、世親は瑜伽行 派の法体系であってもそれらの教理概念を法として建てる必要はないと判断しており、 『五蘊 論』がこれらの論書が伝える瑜伽行派の教理から逸脱しているように筆者には思われる。この ように本稿では『五蘊論』における有部の教理を前提とする世親独自の理解と瑜伽行派の法体 系を再構成しようとする積極的な姿勢を強調したい。 本稿を執筆するにあたって、清水氏には清水[2017]の電子データを提供いただくとともに、 校正中の清水[2019]の原稿をお見せいただいた。同氏のご協力に記して感謝申し上げたい。. 72.

(9) 大乗仏教と有部教学の接点としての諸法の体系(横山剛). 性・流転・定異・相応・勢速・次第・時・方・数・和合については、冒頭の異生性の 定義のみを示して、それに続く諸法については「というこのような区分に属するも の」 (ity evaṃ-bhāgīyāḥ)と述べて、解説を省略する。 このように『五蘊論』における心不相応行の解説では、有部以来認められている伝 統的な要素と瑜伽行派が独自に説く要素の間で、解説の姿勢に温度差が見られ、前者 のみを解説の対象としている。次に心所の見と無為の真如における差異について検 討してみよう。. 3.3. 見と真如について 見については、 『五蘊論』も『阿毘達磨集論』も五見を説くという点では同じであ るが、その説き方に差が見られる。 『五蘊論』は、心所法の列挙においては見のみを 挙げ、後に見を説く際に「見とは何か。五つの見である。有身見 …」というように 下位分類として五見を説く。一方、 『阿毘達磨集論』は心所法の列挙において、有身 見ないし邪見の五つの見を別々に挙げて、五法として数えて、後にそれらの定義を順 番に示す。 『五蘊論』 次にそれら(心所法)は何か。触、作意、… 見、… 尋、伺である14。 見とは何か。五つの見である。〔すなわち〕有身見 … 禁戒取である。有身見とは何か。 …15. 『阿毘達磨集論』 次にそれら(受・想・思以外の心所法)は何か。作意、触 … 有身見、辺執見、見取、戒 禁取、邪見、… 尋、伺である16。. 14. PSk, 4.6–14: te punaḥ katame / sparśo manaskāro … dṛṣṭir … vitarko vicāraś ca // Cf. 師[2015] 121–122. 15 PSk, 9.10–13: dṛṣṭiḥ katamā / pañca dṛṣṭayaḥ, satkāyadṛṣṭir … śīlavrataparāmarśaś ca // satkāyadṛṣṭiḥ katamā / … Cf. 師[2015]169–171. 16 AS, ASG-2, 62.14–20: te punaḥ katame / manaskāraḥ sparśaḥ … satkāyadṛṣṭir antagrāhadṛṣṭir dṛṣṭi-. 73.

(10) 対法雑誌 第 1 号. 有身見とは何か。…17. この点からは、瑜伽行派の教理にしたがって法体系において見を説く場合であって も、直に五見を説くのではなく、五見の本質が見であることを考慮して、見のもとに 五見を整理して説くという世親の姿勢を確認することができる18。これと共通する姿 勢が無為法の真如にも確認される。 『五蘊論』は無為において真如を一法として説くが、 『阿毘達磨集論』は無為にお いて善法真如・不善法真如・無記法真如という三法を説く。両論における定義は以下 の通りである。. 『五蘊論』 真如とは何か。諸法の法性であり、法無我である19。. 『阿毘達磨集論』 善法真如とは何か。二種の無我、空性、無相、存在の極限、勝義であり、それは法界でも ある。なぜ、真如を「真如」というのか。他に変化しないからである。なぜ「空性」とい うのか。汚れが活動しないからである。なぜ「無相」というのか。相を静まらせるからで ある。なぜ「存在の極限」というのか。顛倒のない認識対象であるからである。なぜ「勝 義」というのか。聖者の最高の智慧の認識領域であるからである。なぜ「法界」というの か。声聞と独覚と仏の一切法の因であるからである。善法真如と同じように不善法真如 と無記法真如も見られるべきである20。. parāmarśaḥ śīlavrataparāmarśo mithyādṛṣṭiḥ … vitarko vicāraś ca // Cf. RAHULA[1971]6–7, BOINWEBB[2001]8–9. 17 AS, ASG-3, 34.9–10: satkāyadṛṣṭiḥ katamā / … Cf. RAHULA[1971]10, BOIN-WEBB[2001]12. 18 有部では見の自性は慧(prajñā)であるとされるため、見は法体系には含まれない。したが って、五見を見という一法にまとめて説くこと自体が有部の教理にもとづくとは言えない。し かし、有身見や辺執見といった見の様相によって分類を行うのではなく、見という本質的な性 質にもとづいて分類を行う点は、有部の自性による法の分類に通じるものであると言えよう。 19 PSk, 19.7–8: tathatā katamā / yā dharmāṇāṃ dharmatā dharmanairātmyam // Cf. 師[2015]254– 258, 斎藤ほか[2014]301–302. 20 AS 梵文欠損部分。AS (Tib.), D 54a1–5, P 62a8–b5: chos dge ba rnams kyi de bźin ñid gaṅ źe na / bdag med pa rnam pa gñis daṅ / stoṅ pa ñid daṅ / mtshan ma med pa daṅ / yaṅ dag pa'i mtha' daṅ /1). 74.

(11) 大乗仏教と有部教学の接点としての諸法の体系(横山剛). 『阿毘達磨集論』は善・不善・無記という法の性格に応じて、真如を三法として立て るが、解説の末尾には「善法真如と同じように不善法真如と無記法真如も見られるべ きである」とある。これによれば、善法であれ、不善法であれ、無記法であれ、それ らの法の真如は等しく無我などであるということになる21。したがって、世親は、善 などの法の性格によるのではなく、真如の本質的な性質に注目して、真如を一法とし て説いたと考えることができる22。次に想受滅について考えてみよう。. 3.4. 想受滅について 無為法の要素として『阿毘達磨集論』は想受滅を説くが、 『五蘊論』は同法を説か ない。 『阿毘達磨集論』における想受滅の定義は以下の通りである。 想受滅とは何か。無所有処の貪りを離れ、有頂を越えた者にとっての、寂静に住まうと いう想念に先行された作意による、心と心所で常にはないものと、その(心と心所)一部 で常にあるものの抑止である23。. don dam pa ste // chos kyi dbyiṅs kyaṅ de yin no // ci'i phyir de bźin ñid la de bźin ñid ces bya źe na / gźan du mi 'gyur (2ba ñid kyi2) phyir ro // ci'i phyir stoṅ pa ñid ces bya źe na / kun nas ñon moṅs pa mi3) rgyu ba'i phyir ro // ci'i phyir mtshan ma med pa źes 4) bya źe na / mtshan ma ñe bar źi ba'i phyir ro // ci'i phyir yaṅ dag pa'i mtha' źes bya źe na / phyin ci log med pa'i dmigs pa yin pa'i phyir ro // ci'i phyir don dam pa źes bya źe na / 'phags pa'i ye śes dam pa'i spyod yul yin pa'i phyir ro // ci'i phyir chos kyi dbyiṅs źes bya źe na / ñan thos daṅ /5) raṅ saṅs rgyas daṅ / saṅs rgyas kyi chos thams cad kyi rgyu yin pa'i phyir ro // chos dge ba rnams kyi de bźin ñid ji lta ba bźin du chos mi dge ba rnams daṅ / luṅ du ma bstan pa rnams kyi de bźin ñid (6kyaṅ de bźin6) du blta bar bya'o // 1) om. D 2) ba'i P 3) ma P 4) źas D 5) om. D 6) om. P Cf. *AS: kuśalānāṃ dharmāṇāṃ tathatā katamā // nairātmyaṃ śūnyatā ānimittaṃ bhūtakoṭiḥ paramārtho dharmadhātur api sā1) / kena kāraṇena tathatā tathateti ucyate / ananyathībhāvam upādāya // kena kāraṇena śūnyatety ucyate / saṃkleśāpracāratām upādāya // kena kāraṇenānimittam ity ucyate / nimittopaśamanatām upādāya // kena kāraṇena bhūtakoṭir ity ucyate / aviparyāsālambanatām upādāya // kena kāraṇena paramārtha ity ucyate / paramārthajñānagocaratām upādāya // kena kāraṇena dharmadhātur ity ucyate / sarvaśrāvakapraty2)ekabuddhadharmanimittatām upādāya // yathā kuśalānāṃ dharmāṇān tathatā evam akuśalānām 1) sā] saḥ Dip. 2) sarvaśrāvakapraty-] avyākṛtānāṃ ca dharmāṇāṃ tathatā draṣṭavyā // sarvaśrāvakāpraty- Dip.(LI[2018]300.34–301.18 の diplomatic edition を筆者が校訂) ,RAHULA [1971]18–19, BOIN-WEBB[2001]23–24, 斎藤ほか[2014]298–302. 21 正確には『五蘊論』は法無我のみを説き、 『阿毘達磨集論』は二種の無我を説く(ただし ASVy 中の本論は「二種の」という表現を欠く) 。この点については、今後の検討課題としたい。 22 見の場合と同様に、真如は有部の法体系には含まれないから、善法真如などの三つの真如を 真如という一法にまとめて説くこと自体が有部の教理によるものであるとは言えない。しか し、ここでも、真如という法の本質を意識して真如を一法として説いている点は、有部の法分 類に通じるものである。 23 AS 梵文欠損部分。AS (Tib.), D 54a6–7, P 62b7–63a1: 'du śes daṅ 1) tshor ba 'gog pa gaṅ źe na / ci. 75.

(12) 対法雑誌 第 1 号. 一方で『倶舎論』の第八章「定品」では、想受滅は滅尽定であると説かれる。 一方、滅は定である。 (VIII.33a) 一方、想受滅である第八解脱は滅尽定である。そして、これ(滅尽定)は先に〔第二章 で〕解説された24。. そこで『五蘊論』における滅尽定の定義を示せば、以下の通りである。 滅尽定とは何か。無所有処の貪りを離れ、有頂を越えた者にとっての、寂静に住まうと いう想念に先行された作意による、心と心所の法で常にはないものと、 〔その心と心所の〕 一部で常にあるものの抑止である25。. 『五蘊論』における滅尽定の定義と『阿毘達磨集論』の想受滅の定義は一致する26。. yaṅ med pa'i skye mched kyi 'dod chags daṅ bral (2la /2) srid pa'i rtse mo las gyen du bskyod pa'i2) źi bar gnas pa'i 'du śes sṅon du btaṅ ba'i yid la byed pas / sems daṅ sems las byuṅ ba'i chos brtan4) pa ma yin pa daṅ / brtan pa de dag las kyaṅ kha cig 'gog pa'o // 1) P inserts /. 2) ba P 3) pa D 4) brten D Cf. *AS: saṃjñāveditanirodhaḥ katamaḥ / ākiñcanyāyatanavītarāgasya śāntavihāra-1)saṃjñāpūrvakeṇa manasikāreṇa asthāvaraṇāṇāṃ cittacaittasikānāṃ tadekatyānāṃ ca sthāvarāṇāṃ2) (3nirodhaḥ //3) 1) śāntavihāra-] vihāra- Dip. 2) sthāvarāṇāṃ] sthāvaraṇāṃ Dip. 3) nirodhaḥ //] nirodho … Dip. (LI [2018]302.14–16 の diplomatic edition を筆者が校訂) ,RAHULA[1971]19, BOIN-WEBB[2001]24, 斎藤ほか[2014]296–297. 24 AKBh, 455.19–466.1: nirodhas tu samāpattiḥ VIII.33a saṃjñāveditanirodhas tu aṣṭamo vimokṣo nirodhasamāpattiḥ / sā ca pūrvaṃ nirdiṣṭā / Cf. 櫻部ほか [2004]333. 25 PSk, 14.10–13: nirodhasamāpattiḥ katamā / ākiñcanyāyatanavītarāgasya bhavāgrād uccalitasya śāntavihārapūrvakena manasikāreṇāthāvarāṇām ekatyānāṃ ca sthāvarāṇāṃ cittacaitasikānāṃ dharmāṇāṃ yo nirodhaḥ / Cf. 師[2015]210–211, 斎藤ほか[2014]234–237. 26 この場合、 『阿毘達磨集論』において滅尽定がどのように定義されるかという点が問題とな る。同論における滅尽定の定義は次の通り。AS, GOKHALE[1947]18.25–27: nirodhasamāpattiḥ katamā / ākiñcanyāyatanavītarāgasya bhavāgrād uccalitasya śāntavihārasaṃjñāpūrvakena manasikāreṇāsthāvarāṇāṃ cittacaitasikānāṃ dharmāṇāṃ nirodhe nirodhasamāpattir iti prajñaptiḥ //「滅尽 定とは何か。無所有処の貪りを離れ、有頂を越えた者にとっての、寂静に住まうという想念に 先行された作意による、心と心所の法で常にはないものの抑止に対して、滅尽定と仮に設定す る。 」Cf. RAHULA[1971]15, BOIN-WEBB[2001]19, 斎藤ほか[2014]233–237. これを見ると『阿毘達磨集論』と『五蘊論』における滅尽定の差は、 「心と心所の一部で常 にあるものの抑止」を含めるか否かという点である。 『五蘊論』はこれを滅尽定に含めるが、 『阿毘達磨集論』は滅尽定には含めずに、想受滅の働きであるとする。ただし、ASVy から回 収される本論は「その一部で常にあるものの」という一節を含み、想受滅と差がない形になっ ている。*AS: nirodhasamāpattiḥ katamā / ākiñcanyāyatanavītarāgasya (1bhavāgrād uccalitasya śānta1) vihārasaṃjñāpūrvakena manasikāreṇāsthāvarāṇāṃ cittacaitasikānāṃ dharmāṇāṃ tadekatyānāṃ ca sthāvarāṇāṃ nirodhe nirodhasamāpattir iti prajñaptiḥ // 1) bhavāgrād uccalitasya śānta-] om. Dip.(LI. 76.

(13) 大乗仏教と有部教学の接点としての諸法の体系(横山剛). 両論における定義の一致と『倶舎論』における見解を総合すれば、世親は『倶舎論』 における見解を踏襲して、想受滅は滅尽定に他ならないとし、無為法として説かなか ったと考えることができる。最後に不動について検討してみよう。. 3.5. 不動について 無為法の要素として『阿毘達磨集論』は不動(āniñjya)を説くが、 『五蘊論』は同 法を説かない。 『阿毘達磨集論』における定義は以下の通りである。 不動とは何か。遍浄天(第三静慮の最高処)の貪りは離れているが、 〔それより〕上の貪 りを離れていない者にとっての、楽と苦の抑止である27。. 一方で『倶舎論』の第八章「定品」では、第四静慮が不動であると説かれる。 一方、八つの欠点を離れているので、第四〔静慮〕は不動である。 (VIII.11ab) それでは、その欠点とは何か。 尋・伺と、呼吸と、楽をはじめとする四つとである。 (VIII.11cd) 〔つまり〕尋・伺と、楽・苦と、喜・憂と、呼気・吸気とである。第四〔静慮〕には、こ の八つの中で、一つの欠点もない。したがって、それは不動であると説かれる28。. このように『倶舎論』では、第四静慮における状態が「不動」 (āneñjya)であるとさ れる。第四静慮に対する有部の理解をさらに詳しく見てみよう。以下に示す通り、有 部の教理では、第一静慮から上の静慮へと上がるに連れて、伺、喜、楽を順に離れ、 第四静慮ではそのすべてを離れる。. [2017]233.8–10 の diplomatic edition を筆者が校訂) 27 AS 梵文欠損部分。AS (Tib.), D 54a6, P 62b6–7: mi g-yo ba gaṅ źe na / dge rgyas kyi 'dod chags daṅ bral la goṅ ma'i 'dod chags daṅ ma bral ba'i bde ba daṅ 1) sdug bsṅal 'gog pa'o // 1) P inserts /. Cf. *AS: āniñjyaṃ katamat / śubhakṛtsnavītarāgasya upary avītarāgasya ca sukhaduḥkhanirodhaḥ //(LI [2018]302.12–13 の diplomatic edition を筆者が校訂) ,RAHULA[1971]19, BOIN-WEBB[2001]24, 斎藤ほか[2014]294–295. 28 AKBh, 441.12–16: aṣṭāpakṣālamuktatvād āniñjaṃ tu caturthakam / VIII.11ab ke punas te 'pakṣālāḥ / vitarkacārau śvāsau ca sukhādi ca catuṣṭayam // VIII.11cd vitarkavicārau sukhaduḥkhe saumanasyadaurmanasye śvāsapraśvāsāś ca / eṣām aṣṭānām eko 'py apakṣālaś caturthe nāsty atas tad āneñjyam uktam / Cf. 櫻部ほか[2004]266.. 77.

(14) 対法雑誌 第 1 号. 次にどのような種類の善なる一境性が初静慮であるのか。乃至、どのような種類が第四 〔静慮〕であるか。まず、初〔静慮〕は、 伺、喜、楽を有する。 (VIII.2a) その初静慮は、伺・喜・楽と結びつく善なる一境性である。伺の語によって、尋もまた 〔有する〕と説かれたことになる。 〔伺・喜・楽は尋を〕伴うからである。煙と火のよう に。なぜならば、尋なしでは喜と楽を有する伺は存在しないからである。次に残りの三 静慮は、 順に前の支を離れた(VIII.2b) 〔順に前の支を離れた〕浄の一境性である、と〔本頌 1c に〕続く。第二〔静慮〕は伺を 離れ、喜と楽を有する。第三〔静慮〕は伺と喜とを離れ〔、楽を有す〕る。第四〔静慮〕 は伺・喜・楽を離れる、と〔いうように〕29。. さらに静慮を構成する要素(静慮支)の解説では、以下に示すように、第四静慮の構 成要素は不苦不楽受・捨の清浄さ・念の清浄さ・三昧であるとされ、実質的には不苦 不楽受であると説かれる。 その(四静慮)中で、 はじめには五がある。 (VIII.7a) 第一の場(初静慮)には、五支がある。 尋・伺と、喜・楽・三昧である。 (VIII.7ab) 尋、伺、喜、楽、心一境性という、これらが五支である。… 第二には喜などと浄の四支がある。 (VIII.7cd) 第二静慮には四支がある。内的な清浄、喜、楽、心一境性である。 一方、第三には、捨、念、慧、楽、安住の五がある。 (VIII.8ab). 29. AKBh, 433.14–21: kīdṛśaṃ punaḥ kuśalam aikāgryaṃ prathamaṃ dhyānaṃ kīdṛśaṃ yāvac caturtham / prathamaṃ tāvat, vicāraprītisukhavat VIII.2a vicāraprītisukhasaṃprayuktaṃ1) kuśalam aikāgryaṃ tat prathamaṃ dhyānam / vicāravacanād vitarko 'py ukto bhavati / sāhacaryād dhūmāgnivat / na hi prītisukhavān vicāro vinā vitarkeṇāsti / śeṣaṃ punar dhyānatrayaṃ, pūrvapūrvāṅgavarjitam / VIII.2b śubhaikāgryam iti vartate / vicāravivarjitaṃ prītisukhavat dvitīyaṃ vicāraprītivarjitaṃ tṛtīyaṃ vicāraprītisukhavarjitaṃ caturtham iti / 1) PRADHAN 本は saṃyuktaṃ とするが、櫻部ほか[2004]212 の 注 2 の指摘に従い、訂正する。Cf. 櫻部ほか[2004]208–209.. 78.

(15) 大乗仏教と有部教学の接点としての諸法の体系(横山剛). 一方、第三静慮には五支がある。捨、念、正知、楽、三昧である。安住とは三昧の異名で ある。… 最後には四がある。不苦不楽、捨、念、三昧である。 (VIII.8cd) 最後とは第四静慮である。そこには四支がある。不苦不楽受、捨の清浄、念の清浄、三昧 である。それらは十八の静慮支となる。初〔静慮〕と第三〔静慮〕には五支があり、第二 と第四には四支があるからである。名称としては、以上の通りである。 実体としては十一である。 (VIII.9a) 実体としてはこれらは十一となる。初静慮に属するものは五つである。第二〔静慮〕で は、内的な清浄が増す。第三〔静慮〕では、捨、念、正知、楽〔が増す〕 。第四〔静慮〕 では、不苦不楽受〔が増す〕30。. したがって、上述の有部の教理を考慮すれば、世親は第四静慮の状態を不動と考えて おり、さらにその本質を不苦不楽受(つまり、受)であると理解していると考えられ る。そして、それ故に不動を無為法として立てる必要はないと考えて、法体系に含め なかったと考えることができる。 本稿で検討した諸々の点からは、世親がいたずらに法を増やすことで法体系が複 雑になるのを避けようとする姿勢を読み取ることができる。そして、瑜伽行派の法体 系を整理する際には、有部の教理を前提に整理にあたっていると考えられる。. 30. AKBh, 437.14–438.12: tatra, pañcādye VIII.7a prathame bhāge pañcāṅgāni / tarkacārau ca, prītisaukhyasamādhayaḥ / VIII.7ab vitarko vicāraḥ prītiḥ sukhaṃ cittaikāgratā cety etāni pañcāṅgāni … prītyādayaḥ prasādaś ca, dvitīye 'ṅgacatuṣṭayam // VIII.7cd dvitīye dhyāne catvāry aṅgāni / adhyātmasaṃprasādaḥ prītiḥ sukhaṃ cittaikāgratā ca / tṛtīye pañca tūpekṣā, smṛtiḥ prajñā sukhaṃ sthitiḥ / VIII.8ab tṛtīye tu dhyāne pañcāṅgāni / upekṣā smṛtiḥ saṃprajñānaṃ sukhaṃ samādhiś ca / samādhiparyāyo hi sthitiḥ / … catvāry ante sukhāduḥkhopekṣāsmṛtisamādhayaḥ // VIII.8cd caturthaṃ dhyānam antyam / tatra catvāry aṅgāni / aduḥkhāsukhā vedanā upekṣāpariśuddhiḥ smṛtipariśuddhiḥ samādhiś ca / tāny etāny aṣṭādaśa dhyānāṅgāni bhavanti / prathamatṛtīyayoḥ pañcāṅgatvāt / dvitīyacaturthayoś caturaṅgatvāt / nāmata evam / dravyato daśa caikaṃ ca, VIII.9a dravyata etāny ekādaśa bhavanti / prāthamadhyānikāni pañca / dvitīye 'dhyātmasaṃprasādo vardhate / tṛtīye upekṣāsmṛtisaṃprajñānasukhāni / caturthe 'duḥkhāsukhā vedaneti / Cf. 櫻部ほか [2004]242–244.. 79.

(16) 対法雑誌 第 1 号. おわりに 本稿で設定した『五蘊論』のいかなる点が「保守的」であるのか(つまり、瑜伽行 派の教理から外れて、有部の教理と一致するのか) 、そして、なぜ「保守的」なのか、 という問いに対して、次のように答えることができる。 まず、一つ目の問いについては、 『五蘊論』に説かれる法体系が瑜伽行派の法体系 と異なる点としては、色蘊の五根五境以外の法処に含まれる要素としていかなる法 を説くか、心所で見を説く際に一法と数えるか五法と数えるか、心不相応行において 流転などの法を解説するか、無為法において真如を一法として説くか三法として説 くか、無為法に不動を含めるか、無為法に想受滅を含めるか、という六点が挙げられ る。 次にこれらの点において世親が瑜伽行派の教理から外れて、有部の教理を採用し た理由としては、法体系が複雑になるのを嫌い、有部の教理にもとづいて瑜伽行派の 法体系を整理しているという著作姿勢を指摘することができる。 法体系が複雑になるのを避けるという点については、確かに瑜伽行派の法体系を 簡潔に説く『五蘊論』の綱要書としての性格も考慮しなければならない31。しかし、 想受滅や不動といった『瑜伽師地論』や『阿毘達磨集論』などの瑜伽行派の論書で説 かれる法を全く説かないという点を見れば、世親はこれらの教理概念を法として認 める必要はないと判断していると考えられ、 『五蘊論』はこれらの論書が伝える瑜伽 行派の教理から逸脱しているといえよう。このような点からは有部の教理にもとづ いて瑜伽行派の法体系に積極的な整理と訂正を加え、瑜伽行派の法体系を再構成し ようとする世親の意図を読み取ることができる。また、このような著作姿勢によれ ば、世親が有部の教理を瑜伽行派の思想を理解するための基礎として位置づけてい たことが分かる。 有部の教理を基礎学として重視する姿勢は『倶舎論』に始まる彼の著作の順序にも 窺うことができよう。そして世親のこのような思想的な傾向を考慮すれば、著作の順 序に沿った小乗有部から大乗唯識への転向を想定せずとも、 『五蘊論』の教理的な特 徴を説明することが可能である32。本稿で明らかにした『五蘊論』における世親の著. 31『五蘊論』の著作目的については、拙稿[2014]4–5、師[2015]37–53 32. を参照。 本稿で得られた結論は世親が有部から大乗へと転向したこと自体を否定するものではなく、. 80.

(17) 大乗仏教と有部教学の接点としての諸法の体系(横山剛). 作姿勢は、有部教学が有する基礎学としての性格に注目して大乗仏教と有部教学の 関係を考える際の好い例となろう。 今後は本稿で得られた結果を考慮に入れて、有部の法体系との差を意識しながら、 瑜伽行派の法体系に独自の法や定義について検討してゆきたい。このような作業を 通じてそれらの瑜伽行派的な意義や特徴がより明らかなものとなろう。. 略号一覧 AKBh. Abhidharmakośabhāṣya. AS. Abhidharmasamuccaya. *AS. Passages of the AS extracted from the ASVy. ASG-1. 阿毘達磨集論研究会[2015]. ASG-2. 阿毘達磨集論研究会[2017]. ASG-3. 阿毘達磨集論研究会[2018]. ASBh. Abhidharmasamuccayabhāṣya. ASVy. Abhidharmasamuccayavyākhyā. D. sDe dge edition of the Tibetan Tripiṭaka. Dip.. diplomatic edition. P. Peking edition of the Tibetan Tripiṭaka. PSk. Pañcaskandhaka. PSkV. Pañcaskandhakavibhāṣā. またそのような転向の否定を論証することを本稿は目的としないという点をここで改めて確 認しておきたい。本稿の要点は、有部の教学を基礎学として重視する世親の姿勢を考慮すれば、 世親の思想的な変遷に結びつけずとも、 『五蘊論』の教理的な特徴を説明することができると いうことを指摘することにある。. 81.

(18) 対法雑誌 第 1 号. 参考文献 一次文献 Abhidharmakośabhāṣya (Skt.)PRADHAN[1967] . (Jpn.)櫻部ほか[2004] .. Abhidharmasamuccaya (Skt.)GOKHALE[1947] ,阿毘達磨集論研究会[2015] [2017][2018]. (Tib.)D(4090)ri 44b1–120a7, P[112] (5550)li 51a2–141b2. (Jpn.)阿毘達磨集論研究会[2015] [2017][2018],斎藤ほか[2014] . (Fren.)RAHULA[1971] . (Eng.)BOIN-WEBB[2001] .. Abhidharmasamuccayabhāṣya (Skt.)阿毘達磨集論研究会[2015] . (Jpn.)阿毘達磨集論研究会[2015] . Abhidharmasamuccayavyākhyā (Dip.)LI[2017] [2018] .. Pañcaskandhaka (Skt.)LI and STEINKELLNER[2008] . (Jpn.)師[2015] ,斎藤ほか[2011] [2014].. Pañcaskandhakavibhāṣā (Skt.)KRAMER[2013] . (Eng.)ENGLE[2009] .. 82.

(19) 大乗仏教と有部教学の接点としての諸法の体系(横山剛). 研究一覧 ABHIDHARMASAMUCCAYA STUDY GROUP 阿毘達磨集論研究会 2015. 「梵文和訳『阿毘達磨集論』 (1)」 , 『インド学チベット学研究』19,57–96.. 2017. 「梵文和訳『阿毘達磨集論』 (2)」 , 『インド学チベット学研究』21,55–86.. 2018. 「梵文和訳『阿毘達磨集論』 (3)」 , 『インド学チベット学研究』22,27–57.. 2019. 「梵文和訳『阿毘達磨集論』 (4) 」 , 『インド学チベット学研究』23,近刊 予定.. BOIN-WEBB, Sara. 2001. Abhidharmasamuccaya, The compendium of the Higher Teaching (Philosophy) by Asaṅga, Asian Humanities Press, California.. ENGLE, Artemus B. 2009. The Inner Science of Buddhist Practice: Vasubandhu's Summary of the Five Heaps with Commentary by Sthiramati, Snow Lion Publications, New York.. GOKHALE, V. V. 1947. “Fragments from the Abhidharmasamuccaya of Asaṅga,” Journal of the Bombay Branch of the Royal Asiatic Society (New Series) 23, 13–38.. HAYASHIMA, Osamu 早島理 2003. 『 『梵蔵漢対校 E-TEXT『大乗阿毘達磨集論』 『大乗阿毘達磨雑集論』 』 ,瑜伽 行思想研究会,大津.. KRAMER, Jowita 2013. Sthiramati's Pañcaskandhakavibhāṣā, Part I: Critical edition, Sanskrit Texts from the Tibetan Autonomous Region, No.16/1, China Tibetology Research Center and Austrian Academy of Sciences, Beijing-Vienna.. 83.

(20) 対法雑誌 第 1 号. 2015. “Innovation and the Role of Intertextuality in the Pañcaskandhaka and Related Yogācāra Works,” Journal of the International Association of Buddhist Studies 36/37, 281–352.. LEE, Jong Choel 李鐘徹 2001. 『世親思想の研究―『釈軌論』を中心として―』 ,山喜房佛書林,東京.. LI, Xuezhu 李学竹 2013. “Diplomatic Transcription of Newly Available Leaves from Asaṅga's Abhidharmasamuccaya ― Folios 1, 15, 18, 20, 23, 24 ―,”『創価大学国際仏教学高等研究所年 報』16, 241–253.. 2015. “Diplomatic Transcription of the Sanskrit Manuscript of the Abhidharmasamuccayavyākhyā ― Folios 2v4–8v4 ―,”『創価大学国際仏教学高等研究所年 報』18, 275–283.. 2016. “Diplomatic Transcription of the Sanskrit Manuscript of the Abhidharmasamuccaya-vyākhyā ― Folios 8v4–18r1 ―,”『創価大学国際仏教学高等研究所年 報』19, 217–231.. 2017. “Diplomatic Transcription of the Sanskrit Manuscript of the Abhidharmasamuccaya-vyākhyā ― Folios 18r1–23v4 ―,”『創価大学国際仏教学高等研究所 年報』20, 231–240.. 2018. “Diplomatic Transcription of the Sanskrit Manuscript of the Abhidharmasamuccayavyākhyā ― Folios 23v4–29r6 ―,”『創価大学国際仏教学高等研究所 年報』21, 299–307.. 2019. “Diplomatic Transcription of the Sanskrit Manuscript of the Abhidharmasamuccayavyākhyā ― Folios 29r6–35b1 ―,”『創価大学国際仏教学高等研究所 年報』22, 217–226.. LI, Xuezhu 李学竹 and STEINKELLNER, Ernst 2008. Vasubandhu's Pañcaskandhaka, Sanskrit Texts from the Tibetan Autonomous. 84.

(21) 大乗仏教と有部教学の接点としての諸法の体系(横山剛). Region, No. 4, China Tibetology Research Center and Austrian Academy of Sciences, Beijing-Vienna.. MATSUDA, Kazunobu 松田和信 1984. 「Vasubandhu 研究ノート(1)」, 『印度學佛教學研究』32-2,82–85.. MATSUMOTO, Shirō 松本史朗 2015. 「 『五蘊論分別疏』和訳―アーラヤ識とアーダーナ識の語義説明―」 , 『駒澤 大學佛教學部論集』46, 1–12.. MINOURA, Akio 箕浦暁雄 2016. 「大谷大学図書館所蔵『大乗五蘊論聞書』 (1) 」 , 『大谷学報』95-2,1–18.. 2018. 「大谷大学図書館所蔵『大乗五蘊論聞書』 (2) 」 , 『大谷学報』97-2,1–13.. MORO, Shigeki 師茂樹 2015. 『 『大乗五蘊論』を読む』,春秋社,東京.. MUROJI, Yoshihito 室寺義仁 1986. 「 『倶舎論』・『成業論』 ・『縁起経釈』 」 , 『密教文化』156,82–53.. 2000. 「ヴァスバンドゥによる「識」理解―『五蘊論』を中心として―」 , 『加藤純 章博士還暦記念論集 アビダルマ仏教とインド思想』,春秋社,東京,167– 180.. PRADHAN, Prahlad 1950. Abhidharma Samuccaya of Asanga, Visva-Bharati Series 12, Santiniketan, 1950.. 1967. Abhidharmakośabhāṣya of Vasubandhu, Tibetan Sanskrit Works Series 8, Kashi Prasad Jayaswal Research Institute, Patna, First ed.(2nd ed. 1975). 85.

(22) 対法雑誌 第 1 号. RAHULA, Walpola 1971. Le compendium de la super-doctrine (philosophie) (Abhidharmasamuccaya) d'Asaṅga, Publications de l'École française d'Extrême-Orient, vol. LXXVIII, École française d'Extrême-Orient, Paris.. SAITŌ, Akira et al. 斎藤明ほか 2011. 『 『倶舎論』を中心とした五位七十五法の定義的用例集』 ,山喜房佛書林, 東京.. 2014. 『瑜伽行派の五位百法』,山喜房佛書林,東京.. SAKURABE, Hajime et al. 櫻部建ほか 2004. 『倶舎論の原典解明 智品・定品』 ,大蔵出版,東京.. SHIMIZU, Naofumi 清水尚史 2017. 「法処所摂色に関する一考察―特にスティラマティ『五蘊論釈』を中心と して―」 ,『淑徳大学長谷川仏教文化研究所年報』43,115–124.. 2018. “The Sarvāstivāda’s Theory of the Existence of All Dharmas in Three Times as Referred to in the Pañcaskandhakavibhāṣā by Sthiramati,”『印度學佛敎學研究』 65-3, 155–159.. 2019. 「 『五蘊論釈』の法処所摂色におけるスティラマティの註釈態度について」 , 『印度學佛敎學研究』67-1,159–162.. TATIA, Nathmal 1976. Abhidharmasamuccaya-bhāṣyam, Tibetan Sanskrit Work Series 17, Kashi Prasad Jayaswal Research Institute, Patna.. YOKOYAMA, Takeshi 横山剛 2014. 「 『入阿毘達磨論』の原題に関する考察―蔵訳仏典が伝える書名中の “rab tu byed pa”(prakaraṇa)の意味をめぐって―」 , 『日本西藏學會々報』60,1–14.. 86.

(23) 大乗仏教と有部教学の接点としての諸法の体系(横山剛). YOSHIMOTO, Shingyō 1987. 吉元信行. 「阿毘達磨集論における蘊界処建立の特質」 ,『印度學佛敎學研究』27-1, 214–220.. 本稿は日本印度学仏教学会第 70 回学術大会パネル発表 A「説一切有部研究の可能性 を考える」 (2019 年 9 月 8 日、佛教大学)における発表の内容を論文にまとめたもの である。. 本稿は特別研究員奨励費(18J02114)ならびに若手研究(19K12952)の研究成果の一 部である。. 〈キーワード〉説一切有部、瑜伽行派、世親、『五蘊論』、無著、 『阿毘達磨集論』. 87.

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