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「 脳 死 ・ 臓 器 移 植 」 に 対 す る ドイツ福音教会( EKD )の立場 1

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(1)

1

「 脳 死 ・ 臓 器 移 植 」 に 対 す る ドイツ福音教会( EKD )の立場 1

トビアス・バウアー

(Tobias BAUER)

[email protected]

熊本大学文学部

2010

3

要約

本稿は、「脳死・臓器移植」問題に対するドイツ福音教会(EKD)の立場について分 析を試みるものである。1997 年の臓器移植法の可決以前にも、ドイツ福音教会はドイ ツのカトリック教会と共同で、脳死・臓器移植に関する基本的な見解を二度にわたって 公にしている(1989年及び

1990

年)。その見解の中で、ドイツ福音教会は「脳死」を 基本的に認め、臓器提供が隣人愛の行為になり得るとして、移植医療を肯定的に評価し た。本稿は、脳死・臓器移植をめぐる福音主義神学の議論ではなく、ドイツ福音教会が 教会として取った公式見解を検討し、「脳死」というコンセプト、臓器提供、臓器摘出、

移植術を受けること等に関する教会の論証のありかたを分析しようとするものである。

移植医療を肯定的に評価するに至るまで、いかなる論証が行われ、キリスト教の教義及 び聖書がどのように解釈し直されたのか、それに伴って、1989年と

1990

年の見解から 現在に至るまで、福音教会の立場がいかに発展してきたのかという点についても考察す る。

キーワード:生命倫理、医療と宗教、脳死、臓器移植、キリスト教

1 本稿は、科学研究費補助金・若手研究(

B

)の研究課題「ドイツの生命倫理論議にみられるキリスト教な らびに同教会の果たす役割に関する研究」(課題番号

19720016, 研究代表者:トビアス・バウアー)の

成果の一部であり、『熊本大学社会文化研究』第

8

号に掲載している論文「

Die Position der Evangelischen

Kirche in Deutschland (EKD) zum Problem von Hirntod und Organtransplantation」の和訳である。

(2)

2

1 節 はじめに

生命倫理学的な問題提起は、宗教的な伝統や組織においてすでに明確な立場が形成さ れている問題領域に関わってくることが珍しくない。宗教団体やその代表者たちは、自 らの伝統的な人間学的、倫理学的考え方から適切な解決策を見出し、それを生命倫理に 関わる議論に適用する必要性に直面していることを自覚している。その際、宗教団体は 現下の生命倫理学的ディレンマによって惹起された挑戦を目の当たりにして、種々さま ざまな戦略を展開させて、その権威ある教典や教義を新たに解釈し直し、その伝統的な 釈義や論証のモデルを(時代の)要請に適合させようとしている。2

避妊と妊娠中絶という相互に絡み合った問題と並んで、脳死・臓器移植の問題も、す でに「より古くから」の生命倫理学上の問題領域の一つであるが、ドイツのキリスト教 会は独自の態度表明を公にすることによってこの領域に参入し、その議論に影響を及ぼ してきた。3 人間遺伝学、ヨーロッパの生命倫理条約の問題や臨死介助の問題性などに 対するドイツのキリスト教諸教会の姿勢については、すでに詳細な分析が行われている の で 、4 本 稿で は脳 死と 臓 器移 植に 関 する ドイ ツ 福音 教会 (

Evangelische Kirche

Deutschlands EKD

)の議論を検証し、この問題についての同教会の立場を浮き彫りにし

ていくことにしたい。その中心になるのは、この問題領域の個々の視点の具体的な倫理 学的評価、及びそこから導き出されてくる立場についての問いかけに止まらず、個々の 立場を根拠づけるために援用される教義や引用箇所を、これがこの態度表明の枠内で触 れられる限りにおいて分析することである。その際、本稿の考察は、主に脳死及び(死 者の)臓器提供とその移植5 の問題に関するドイツ福音教会の公式見解の分析、並びに そこで提示された神学的、倫理学的論証を検討することに限定したものであり、ここで 取り上げられる教会の立場からは完全に逸脱し、個々の生命倫理学的問題についての立 場に多面的で広範な視野を提示し得るような個々の神学者の所見、並びに神学的な倫理 学の議題は除外するものとする。6

2 生命倫理論議における諸宗教の立場については、

Camenisch 1994

Schicktanz/Tannert/Wiedemann 2003

収載されている論文を参照のこと。宗教と生命倫理の関係については、例えば

Guinn 2006

を参照。

3 例えば、いかなる人工的な避妊をも一切拒否するカトリック教会の回勅「

Humanae Vitae

」(

1968

)(批 判的に「ピル回勅」とも呼ばれている)。

4

Pinter 2003

Klinnert 2009

Schardien 2007

を参照。

5 生者からの臓器提供及び異種移植(脚注

19

を参照)に関しても、ドイツのキリスト教諸教会から声明が 出されているが、本稿では取り扱わないことにする。また、胎児組織移植のような最新の応用分野、及 び臓器移植問題に関する州教会のレベルでの諸声明(例えば、Kirchenleitung der Evangelischen Kirche in

Berlin-Brandenburg o.J.

)も同様とする。

6 ドイツのプロテスタンティズムにおける生命倫理諸問題に対する多声性、及びそれと関連しているが、

組織としての福音教会と福音派神学との関係については、

Anselm 2003

を参照。

(3)

3

2 節 脳死と臓器移植の問題に関するドイツ福 音教会の取り組み

臓器移植はドイツにおいては

1963

年の最初の腎臓移植以来実施されており、特に

1980

年代以降の免疫抑制剤の改良後は、一つの標準治療方式となるまでに発展した。7 長年の議論の末 その間には、後述する通り、

1989

年及び

1990

年の二大キリスト教 会の支持表明にも関わらず、福音派陣営の一部からの批判的な意見も少なからぬ役割を 果すことになったが 8

1997

年にはドイツ移植法(

Transplantionsgesetz

9 が発効し た。これに伴って、それまで行われていた移植治療の正統性が確認され、死後及び生前 の提供によって確保されていた臓器の提供、摘出、移植、配分が法的に規制されること になった。脳死者の臓器摘出に関しては、(多数の他のヨーロッパ諸国と違って)「拡 大された同意方式」(

erweiterte Zustimmungslösung

)が選択されたが、それによると、

臓器の摘出は、脳死者本人がその同意を例えば臓器提供証明書の形で裏書きしたとか、

親族が脳死者の推測され得る意思を代理して同意を与える場合に限って認められるこ とになっている。仮に法律が明確な死の定義を挙げることを断念しようとしても、臓器 摘出の前に「大脳、小脳、及び脳幹の全体的機能の最終的で回復不可能な消失」(移植 法第

3

条第

2

項第

2

号)が確認され、加えて、「臓器提供者の死亡が、医学的知識の水 準に合致した規準によって」(移植法第

3

条第

1

項第

2

号)― 移植法第

16

条によって 脳死コンセプトを支持する連邦医師会はこれを委託されている ― が確認されなけれ ばならないということから、この法律は脳死コンセプトを用いていると言える。個別の 脳死判断基準の具体的な確認は、

1982

年以来連邦医師会によって積み重ねられてきた 指針に従って行われる。10

ドイツにおける法律的規制の前段階では、臓器移植のさまざまな局面、とりわけ脳死 コンセプトの問題をめぐって相対立する議論が展開されたが、この議論にはキリスト教 側として神学者ばかりではなく、諸教会もこのテーマについての声明を携えて参入した。

生体提供の制限、臓器売買の禁止、及び提供臓器の配分に 関する判断基準は、この法律によって定式化される。

7 ド イ ツ に お け る 臓 器 移 植の 最 新 の 統 計 デ ー タは 、 例え ば ド イ ツ 臓 器 移 植財 団 (

Deutsche Stiftung

Organtransplantation (DSO))のウェブサイトに見られる (www.dso.de;

以下、インターネット資料はすべ

2009

11

30

日現在)。

8 脳死コンセプトを批判的に論じるものの一例に

Hoff/in der Schmitten 1995

がある。福音派側からの批判と しては、その中に収載されているヴォルフガング・フーバー(

Wolfgang Huber

)の論文がある(

Huber 1995

)。

移植法の公布までのドイツにおける脳死コンセプトをめぐる議論の展開については、Schöne-Seifert 1999 を参照。

9

Transplantationsgesetz 1997

10 その指針の最新版は、

Wissenschaftlicher Beirat der Bundesärztekammer 1998

にある。

(4)

4

この中、もっとも重要な態度表明と見なされるのが、

1989

年及び

1990

年に出されたド イツの二大キリスト教会の主導機関による共同声明である。11

1987

年には、ドイツ司教会議(

Deutsche Bischofskonferenz

)とドイツ福音教会評議会

Rat der Evangelischen Kirche in Deutschland

)によって任命された研究班の活動が開始 されたが、その目的とするところは、それ以前の共同声明の範に倣って、生命倫理学の 種々の問題に関する態度表明を練り上げるところにあった。その成果は、

1989

年に『神 はいのちの友:生命の保護に際しての要求と課題』というタイトルで一冊にまとめられ、

ドイツ福音教会宗務局(

Kirchenamt der Evangelischen Kirche in Deutschland

)とドイツ司 教会議事務局(

Sekretariat der Deutschen Bischofskonferenz

)の共同で出版された。12 に 、 ド イ ツ 連 邦 共 和 国 と ( 西 ) ベ ル リ ン に お け る キ リ ス ト 教 会 の 作 業 共 同 体

Arbeitsgemeinschaft christlicher Kirchen in der Bundesrepublik Deutschland und Berlin

(West)

)に属している諸教会がこの態度表明に同調したという事実は、その全教会的性

格を際立たせ、焦眉の生命倫理学上のディレンマに対するドイツキリスト教諸教会の基 本的コンセンサスとしての意義を証明するものである。13 この声明の出発点は、さま ざまな領域における「生命の贈与」に差し迫った危機には、キリスト教の教義と呼応し た広範な努力によって対処されねばならないという認識である。曰く、「この努力は、

地上における生命の自然な根底、即ち、同じ被造物、同胞としての人間、及び自分自ら の生命において一人一人の人間に賜物として授けられている生命

..

を守り、育てていくこ とに向けられる。教会とキリスト教徒はいのちという贈り物を、いのちの贈り主たる主 なる神に帰す。本声明は、人間もいのちの友たるべく召命し、その資格を与える神を、

「いのちの友」(知恵の書

11:26

14)として認識するための手引きたらんとするもので ある」(『神はいのちの友』

, S. 11

)。この声明は、特に被造物としての特性と人間の 尊厳の問題についての議論に関する聖書の創造言説を引き合いに出しながら、人間学上 の基本的立場を論じることから始まり、種々の医学的、環境倫理学的な問題提起、中で も脳死や臓器移植に対する具体的な意思表示や要求にまで及んでいる。15

11 キリスト教教会が立法の過程を観察し、自らの立場を発表した。例えばドイツ福音教会側からは、

1995

年に立法に当たっての見解が公にされた(Stellungnahme des Kirchenamtes der EKD zur Öffentlichen

Anhörung des Gesundheitsausschusses des Deutschen Bundestages zur Vorbereitung eines Transplantationsgesetzes am 28. Juni 1995)。

差し迫った 医学的及び環境倫理学上の問題を克服するために、「生命の保護のための万人

..

の広範で 共通の努力」が必要であるという仮定から出発して、この声明は、教会構成員の枠を超 えた幅広い大衆、「異なった政治的信条や世界観を持つ種々の生活領域に属する人々、

キリスト教徒並びに非キリスト教徒」(『神はいのちの友』

, S. 11

)に向けられる。そ

12

Kirchenamt der Evangelischen Kirche in Deutschland/Sekretariat der Deutschen Bischofskonferenz 1990

。以下は

『神はいのちの友』と省略する。

13 『神はいのちの友』

, S. 9

14 「命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる。」聖書からの引用は すべて共同訳聖書実行委員会訳(

2003

)『聖書:新共同訳:旧訳聖書続編つき』、日本聖書協会、によ るものである。

15 『神はいのちの友』

, S.102-105

(5)

5

れゆえこれは、生命、及び生命保護を擁護する聖書的根拠づけを提示して、非キリスト 教徒でもそこから得られた結論と要求に同意してもらいたいという意思を明確にした ものであり、16

同様に、福音派とカトリックの共同作業においては、『神はいのちの友』という文書 発行の

1

年後に、『臓器移植』(

1990

「これらの要求と提案が政治、学界並びに経済界、保健機関、教区、

即ち、自らの特殊な場で生命に責任を有している人々に耳を傾けてもらい、慎重に考慮 してもらって、かつ補完してもらいたい」という期待を表明するものである(『神はい のちの友』

, S. 15

)。

17 という共同声明が出されたが、これは

1988

年に開始された組織及び臓器移植の問題に関する両教会合同の作業グループに遡る。18 この声明の目標とするところについては、「この共同声明の切願するところは、臓器移 植外科に際しては、如何なる医学的、法律的、倫理的観点が顧慮されねばならないか、

そしてまた、如何にしたらキリスト教的死生観からして責任ある態度表明が見出され得 るかを明らかにすることである」(『臓器移植』

, S. 5

)と謳われている。ここでは問題 点の個々の局面は、より詳細な議論と、部分的には神学的、倫理学的評価が行われる。19 この両声明の公表は、

1997

年の移植法の発効よりかなり以前のことであり、それ以 来すでに

20

年が経過しているにも関わらず、両声明はやはり現時点においても今なお、

脳死と臓器移植というテーマに関するドイツ福音教会の基本姿勢を示すものと見なさ れねばならない。両声明はその間にドイツ福音教会の比較的短い声明によってその姿勢 が確認され、補足され、後に触れる如く部分的に相対化されはしたものの、全体として は現時点に至るまで、両声明と同様のレベルのドイツ福音教会の声明によって変更も補 正もなされてはいない。20 かくして、例えば、ドイツ福音教会宗務局の当時の副局長 ヘルマン・バルト(

Hermann Barth

)は、移植法成立の折の声明の中で、明確に

1989

及び

1990

年の態度表明が今後も引き続き有効であることを確言していた。21

16 『神はいのちの友』, S. 22

しかるに、

その際、これらの態度表明には福音派的見解から見て、当然ながら個々人には何らの絶 対的な拘束力も課せられるものでないことは、バルトが他の機会で詳説している通りで ある。曰く、「

1989

年及び

1990

年の両声明は、いずれにしても福音派の理解するとこ

17

Sekretariat der Deutschen Bischofskonferenz/Kirchenamt der Evangelischen Kirche in Deutschland 1990

。以下は

『臓器移植』と省略する。

18 『臓器移植』

, S. 5

19 キリスト教的見地から異種移植の倫理的含意を評価する声明として、

1998

年にドイツ福音教会とドイツ カトリック教会が共に出した見解がある(

Kirchenamt der Evangelischen Kirche in Deutschland/Sekretariat der Deutschen Bischofskonferenz 1998)。

20 ドイツ福音教会のウェブサイトには、同教会の最も重要なテキストが掲載されており、例えば、ドイツ カトリック教会と共同で公にしたシリーズ「共同のテキスト」(そこには本稿が紹介する臓器移植及び 異種移植に関する諸声明も含まれる)、「覚書と指針」、「ドイツ福音教会のテキスト」、及び説教や 講演の原稿(www.ekd.de/ekd_kirchen/44057.html)がある。生命倫理についてドイツキリスト教教会の基 本的な立場を形成する声明である『神はいのちの友』の高い重要性は、神学及び宗教学の研究によって も把握されている。それらの研究は、キリスト教の立場を分析する際、しばしばその声明をよりどころ としている(例えば

Höver/Eibach 2003

)。その声明が修正されたり、ドイツ福音教会の臓器移植につい ての新たな声明が出されたりする可能性については、第

4

節を参照。

21

Pressestelle der EKD 1997

(6)

6

ろに従えば、倫理的な判断形成の一助を提示しようと意図するものである。(ドイツ福 音教会の…

T.B.

)評議会は、その際、如何なる行動様式が先々キリスト教的であり、善 きものであると見なされ得るかと規定することを要求するものではない。本評議会は、

福音派の良き伝統に則って、個々のキリスト教徒がその置かれた特殊な責任の場におい て、最終的な倫理的判断を下すに任せるものである。倫理的問題に関する教会の声明は、

方向指示器であり道しるべなのである。それがこの機能を果たしているかどうかは、生 を遂行する中で初めて証明されねばならない。それゆえ、これはまた、断じて教会の最 終的な態度表明と見なされるべきものではなく、修正可能なものであり、補強を要する ものである」(

Bart 2003, S. 73f.

)。22 倫理的問題に関する判断形成における福音教会 の役割と使命は、「助言を与え、干渉せず、他者の倫理的判断を規定したり先取りした りせず、むしろ、自己責任による問題解明の一助を提供しようとし、常に他の男性、他 の女性がやはり正道を踏んでいることを考慮に入れ、それゆえ、より良い啓蒙のために 耳を傾け、心を開いていること」(

Bart 2008

)というわけである。23

3 節 ドイツ福音教会の立場と論証モデル

1989

年及び

1990

年における両教会合同の態度表明は、脳死と臓器移植に関する問題 評価の点で、原則的にこれを支持するという判断を下すに至る。その際、脳死と臓器移 植に対する教会側の同意の出発点と見なされるのが、「人間の尊厳と、それと連動する 生命の維持と増進への義務に対する敬意」(

Huber 2008, S. 68

)であるが、しかしなが ら、この問題に関わるキリスト教の教義内容は更に広範に及び、それと並んで、例えば 死去、死と甦り、肉体性、病気、苦悩と健康、治癒、科学と技術、魂への配慮、隣人愛 と連帯感という多種多様な領域を含んでいる。24

(1)臓器提供

本節ではこの態度表明から明らかに なる臓器提供、脳死、臓器摘出とその受容に対する姿勢を、その折々の根底となってい る論拠と併せて提示することにしたい。

両声明の中でドイツ福音教会は臓器提供を原則的にキリスト教的倫理の価値観と合 致する、歓迎すべき行為として是認している。こういう評価に当たっての考え方の中心

22 特 に キ リ ス ト 教 二 大 教 会 の 異 種 移 植 に 関 す る 態 度 表 明 (

Kirchenamt der evangelischen Kirche in Deutschland/Sekretariat der Deutschen Bischofskonferenz 1998

)には、拘束力のある見解ではないと明白に述 べられており、むしろ その態度表明の副題にもあるように 各自の「判断形成のための助言」と いう立場である。

23 個人の意見形成にとっての教会の声明の役割、または、教会の声明と神学的倫理学との区切りについて は、

Barth 2003, S. 11-30

及び

Anselm 2003

を参照。

24 教会の声明における、生命倫理上の各々の問題の評価の根拠になる神学的、人間学的、倫理学的キリス ト教の基本的コンセプトの分析は、

Höver/Eibach 2003, S. 17-27

にある。

(7)

7

になっているのは、臓器提供を、死を超えた隣人愛の具体的実践であると共に、援助を 必要としている同胞たちとの連帯感の表れだとする価値観である。即ち、「臓器提供と 臓器移植を通じて、病苦に悩むとか生命そのものが脅威に晒されている同胞を助けよう という意図は、原則的に是認されるべきである。それゆえ、すでにこれまで教会は声明 を通じて、自らの死去後の臓器提供を推奨してきたのである。教会は今後とも臓器提供 への心構えを覚醒させ、強化させていきたいと思う。臓器提供は死を超えた隣人愛の行 為であり得る」(『神はいのちの友』

, S. 103

)。「キリスト教的視点から見て、死後の 臓器提供への心構えは、隣人愛と、病者及び障害者との連帯感のしるしである」(『臓

器移植』

, S. 26

)というのである。この文脈で

1990

年の声明は、ヨハネによる福音書

15:13

と関わり合っている(「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛

はない」)。この「これ以上に大きな愛」は、臓器提供において実現され得る(『臓器

移植』

, S. 23

)、というわけである。死後の臓器提供は従って、人間が神の似姿をした

ものであり、それと結び付いた各人の人格的尊厳を持つものであることを背景にして、

提供者が自分の同胞、とりわけ困窮している人々や弱者に対して、無条件に向き合う行 為であると解釈され得ると思われる。

しかしながら、その際に決定的に重要なことは、自由意志という原則である。即ち、

死後の臓器提供はドイツ福音教会の立場に照らして隣人愛の行為であり得る

....

が、しかし、

だからといって、仮にドイツ福音教会が臓器提供への個々人の決断を明確に歓迎すると しても、この肯定的評価が、キリスト教徒、もしくは全般的にもそれを義務付けること につながることは断じて許されない、とする。これに従って、

1997

年の臓器移植法に 対するドイツ福音教会の声明では次のように述べられている。「臓器移植はキリスト教 徒にとって持参債務ではない。しかし、ドイツ福音教会は

1989

年以来の数度の声明に おいて、臓器提供は死を超えた隣人愛の行為であり得ることを確認してきた。当教会は 今 後 とも 、臓 器提 供への 心 構え を喚 起し 、強化 す るた めに 尽力 するで あ ろう 」

Pressestelle der EKD 1997

)。

(2)脳死

潜在的な臓器提供者の死が疑問の余地なく確定されることは、ドイツ福音教会にとっ ても臓器摘出の根本的な前提である。25

25 脳死コンセプトを採用せず、脳死状態で残っている生命を苦しんでいる他人のために犠牲にするという、

例えば日本仏教においても議論されているような考えは、本稿が考察する声明には見当たらないのであ る。死が疑う余地もなく判定されていることが基本的な前提となっている:「生きている提供者は、臓 器提供によって自らの死を招いてはならない」(『臓器移植』

, S. 8

)。

Bauer 2006

を参照。

両声明は脳死コンセプトに対する見地を次の ように定式化して表明しているが、それは、脳死コンセプトの有効性を基本的に是認す ること、即ち、脳死を人間の死と同一視することに同意し、それによって教会の立場と

(8)

8

連邦医師会のそれとが一致することを示唆している。26

「一人の人間のこの世の生命が後戻りできないほどに終わりを迎えたことは、脳死の 確認によって疑問の余地なく証明される。そうなれば、生への帰還は医者の技術をもっ てしてももはや不可能である。この世の生からの不可逆的な別離が到来した上は、機能 可能な臓器が身体から摘出され、他の重症の人間に移植されることができるが、それは かれらの生命を救い、かれらの健康回復なり生命の質の改善なりに資するためである」

(『臓器移植』

, S. 23

)。

その際、人間の脳の特殊な地 位が明白に強調され、脳全体の統合機能の不可逆的な喪失は個としての人間存在の終局 と見なされ、脳死判定の具体的な判断基準の確定は医学の手に委ねられることは、声明 の以下の章句に見られる通りである。

「脳死は個人の死の徴表である。(

)死亡時刻の決定と死亡確認の方法を確定する ことは、医学の管轄に属し、医学的判断基準に従って定義されるべきものである。全脳 の死は個人の死の到来と同一視される。なぜなら、それによって生命体の霊肉の統一と いう制御が終了したからである」(『神はいのちの友』

, S. 104

)。

「脳死は、心臓死と全く同様に、人間の死を意味する。脳死によって、人間にはこの 世におけるその精神的存在を支えるための代替不能の、二度と再び入手され得ない肉体 的基盤が断たれてしまう。あらゆる生き物の中で唯一無比の人間の精神は、肉体的には 専ら脳と結び付いている。脳死に陥った人間は二度と再び観察とか知覚をしたり、消化 したり、応答したりすることが出来ず、二度と再び一つの考えをまとめ、追求し、表明 することが出来ず、二度と再び感情の動きを感じ取ったり表示したりすることが出来ず、

二度と再び何らかのことを決断することが出来ない。同時に、脳死後は人間には生命体 の生存を可能にするための統合的な脳活動、即ち、他のすべての器官を制御し、かつ、

単なる部分の総和という以上の、質的にそれとは別種の自立的な生命体という高次の統 一体となるための器官の活動を統合することが果たせなくなる。かくして脳死は、それ だけではまだ人間の死とは言えない単なる持続的な無意識状態とは決定的に異なる状 況を意味するのである」(『臓器移植』

, S. 18

)。

仮に「脳死者の臓器摘出に対する感情的な留保」(『臓器移植』

, S. 23

)が現存する ことも有り得るのは容認されるとしても、ここで見てきた声明の中には、例えばハン ス・ヨナス(

Hans Jonas, 1903-1993

)とか神学の側からさまざまな形で提示されたこの ような脳死コンセプトに関わる批判との論争は見当たらない。27

26 「脳死判定によって、自然科学的・医学的には、人間の死が確認される」(

Wissenschaftlicher Beirat der Bundesärztekammer 1998, S. 1861)。

ちなみに、その批判 とは、脳死コンセプトと世間的な死の概念との間に見られる矛盾に注意を促し、臓器摘 出とはこれによって人間の死の過程を許し難く侵害するものであるという見解を代弁 するものである。

27

Jonas 1987

(9)

9

1989

年と

1990

年の教会声明を解説した

2003

年の論文の中で、ドイツ倫理評議会委 員であり、ドイツ司教会議とドイツ福音教会評議会によって始められた研究班の一員と して共同声明『神はいのちの友』(

1989

)にも関与した、現在のドイツ福音教会宗務局 局長ヘルマン・バルトは、脳死コンセプトの問題に関して、多少に異なる見解を代弁し ているが、28 これは同様な形ですでに

1995

年のドイツ福音教会の態度表明の中で言明 されていたものであった。29

1989

年と

1990

年の両声明の内容をより明確にし、修正す るという意図の下にバルトは、両声明の中で表現された「いわゆる脳死」に関する発言 はもはや事態に適合しない、というよりもむしろ、「前進した議論の光に照らして細分 化する必要がある」(

Barth 2003, S. 76

)ことを確認した上で、これらの声明によって引 き起こされた「脳死と人間の死は直接的に同一視され得る」という誤解に対して反論し

ている(

Barth 2003, S. 77

)。この誤解に対して彼は次のような見解を支持している。即

ち、死とは時間的に正確に特定し得る瞬間的な事象ではなく、脳死が一つの 無論決 定的な 区切りを示すものであり、それには臓器摘出をさしあたり社会的、法的に規 制するのに資するような「実用的な定義とか慣習の質」(

Barth 2003, S. 78

)が付随する 一つの過程として捉えられるべきだ、というのである。更に、さまざまな「死の見方」

Barth 2003, S. 78

但し、その多様性は脳死者の臓器摘出という現行の実践行動と

矛盾するものではないとするが が存在することは、死後の臓器移植の実施を可能に しようとする目的のための一時的な線引きとしての脳死に関するこの社会的合意と矛 盾していないとして、次のように説く。「人間の死は、自然科学、哲学、或いは神学的 視点において種々さまざまに言い表される一つの複合的な出来事である。臓器移植と、

とりわけ臓器の摘出の時期の問題には、人間の死に関する種々の見方についての何らの 意見の一致も前提となっていない。それは単に、責任を自覚し、良心に基づいて決心さ れた合意、即ち、これ以後は死活に関わる臓器の摘出が法的にも倫理的にももはや身体 損傷とか殺害と見なされることにはならない時期についての協定を要求しているに過 ぎない」(

Barth 2003, S. 78-79

)。30

死の過程を正確に記述することは医学の使命であるから、絶えず進展する医学的知見 の水準に照らして、この規制の将来的な変更は十分あり得ることである。31

28

Barth 2003, S.76-79。このテキストは、1994

年の演説を改訂したものである。

ここで想 定されている人間の死の経過に即した性格づけのための論拠を、バルトはユダヤ教・キ リスト教的伝統を引く聖なる教典、とりわけ詩篇の中に求めているが、それは死を「断

29

Stellungnahme des Kirchenamtes der EKD zur Öffentlichen Anhörung des Gesundheitsausschusses des Deutschen Bundestages zur Vorbereitung eines Transplantationsgesetzes am 28. Juni 1995

30 ベルリン・ブランデンブルク州福音教会の元司教であり、国家倫理評議会の元一員でもあるヴォルフガ ング・フーバーは、ドイツ福音教会の有名な代表者として世間の注目を集めているが、バルトと似たよ うな立場に立っている。彼は、死の過程性を強調した上で、脳死と人間の死の関係を明らかにするにあ たって、脳死を必ずしも人間個人の死とは同一視できない「まぎれもない死の徴候」と見なしている

Huber 2002, S. 69

)。

31 バルトは、

1990

年の声明が主張する、脳死判定によって、人間の死が「疑う余地もなく証明される」(『臓 器移植』

, S. 23

)という言い方を批判する(

Barth 2003, S. 78

)。

(10)

10

じて一定の時点とは見ず、むしろ、病気、事故、脅威やその他の出来事という形で生の 領域に手を突っ込んでくる勢力範囲」(

Barth 2003, S. 77

)と見なしている、というので ある。32

(3)臓器摘出

提供者の脳死が疑問の余地なく確定されることと並んで、ドイツ福音教会は臓器の摘 出に関して更なる条件を提示している。33

例えばローマの信徒への手紙

8:11

即ち、敬虔さという根拠からして、原則的 に人間の死体には敬意に満ちた取り扱いがふさわしい、として次のように説く。「人間 の死体に対する敬虔さと親族の感情に対する敬意が常に保持されなければならない。人 間の死体は生前には人間としての人格の担い手だったものである。それゆえ、それを敬 意を欠いて取り扱うようなことがあってはならない」(『臓器移植』

, S. 21

)。だから といって、敬虔な思いで死体を取り扱うことが、提供臓器の摘出を排除することにはな らず、「故人に対する敬虔さを義務づけることは、臓器摘出と何ら矛盾するものではな い。死体と向き合う中で我々は故人の人格に対する敬虔さという責務を負う。しかしな がら、敬虔さを尊重することは、キリスト教的理解に照らしても、手術を絶対的に禁止 することにつながるものではない」(『神はいのちの友』

, S. 104

)と言う。それどころ か、臓器提供について故人の意思が表明されている場合には、この意思は隣人愛及び連 帯感の表れとして優先されるべきものであり、「死体の不可侵性に対する権利は絶対的 な効力を持つものではない。それは重病とか死の脅威に晒されている同胞との連帯感の 背後に退くこともあり得る。(

)組織や臓器の適切な摘出は故人の尊厳を損なうもの でもなく、死者の平安を妨げるものでもない」(『臓器移植』

, S. 21

)と強調する。

34 やコリントの信徒への手紙一

15:12-22

35

32 バルトはここでは、詩編

88:6-7

「汚れた者と見なされ 死人のうちに放たれて 墓に横たわる者となり ました。あなたはこのような者に心を留められません。彼らは御手から切り離されています。あなたは 地の底の穴にわたしを置かれます 影に閉ざされた所、暗闇の地に。」及び詩編

116:3, 8-9

「死の綱がわ たしにからみつき 陰府の脅威にさらされ 苦しみと嘆きを前にして(…)あなたはわたしの魂を死から わたしの目を涙から わたしの足を突き落とそうとする者から助け出してくださった。命あるものの地に ある限り わたしは主の御前に歩み続けよう。」を引用する。カトリック教会における、両声明発表後の それについての議論及び脳死コンセプトに関する解釈の展開については、

Bertels 2002, S. 102-106

を参照。

に表現 されているような死者の甦りへの希望も、臓器摘出とは矛盾するものではないとして次

33 『臓器移植』, S. 21

34 「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死 者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体 をも生かしてくださるでしょう。」

(11)

11

のように言う。「死者の甦りと永遠の生に対する期待は死体の無傷性と関わるものでは なく、信仰によって恵み深い神が死から生へ甦えらせ給うと信ずるのである。創造者た る神の御業に対する敬意に満ちた畏敬の念が、死者の亡骸を敬虔の思いで遇し、厳かに 埋葬することを命ずるのは言うまでもない。死者たちに対する畏敬は人倫の原点である。

あらゆる文化において生に対する姿勢は、死者たちに対する敬虔さの中にも見て取れる。

それは、葬儀典礼において表現されている〈肉体は神の宮居であった。主が汝に永遠の 喜びを贈り給わんことを〉。かくして、神の与え給うていたものが畏敬の思いのうちに 神の許に返還され、ひとり神のみがいのちの源泉であるという確信に言葉による裏打ち がなされるのである」(『臓器移植』

, S. 23

)。

しかしながら、

1990

年の態度表明の要求に従って適切な方法で尊重されるべきもの は、故人の尊厳だけではなく、親族の感情も軽率に傷つけられるようなことがあっては ならず、むしろ、医師による思慮に富む助言と支援と並んで、希望に応じて牧会者がい つでもかれらの相談に乗るようにすべきだ、とするのである。当該者が生前に臓器提供 の意思表示を明らかにしていない場合に、親族の臓器摘出に対する賛否をめぐる意思決 定の問題に病院所属の牧会者が付き添うことは、臓器移植実施の具体的支援のための教 会のあり得べき寄与と称される。これは、親族の心に事後になって自分たちの下した決 定に疑問を抱くようなことが生じた場合に、そういう事態をより適切に克服することが 出来るようにするためのアフターケアも含んでいる。同じ個所でこの声明は、親族と臓 器提供者の別離に、それにふさわしい葬送儀礼を行うことによって支援するよう推奨し て、次のように言う。「親族が故人の臓器の摘出に同意する場合、このことは特別なや り方ででも故人との別れに臨んで表明されるべきだろう。教会の典礼は故人とその親族 のための代願の祈りを勧める。その祈りはその折々の事情に応じたものであるべきで、

先ず第一に、列席者たちの寄る辺なさと無力さが表明され、神へ全託されることが許さ れるし、またそうされるべきである。他ならぬこの別離の瞬間こそ、すべての人間に甦 りを約束したいのちの神に対する希望が身をもって経験され得るはずである。多くの親 族は、別離に際して故人に肉体的に接触することによって慰めを見出す。それゆえかれ

35 「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の 復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなか ったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた がたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に 死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しを したことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キ リストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあるこ とになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この 世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者 です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死 が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによっ てすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」

(12)

12

らは死者を例えば十字架という標で形に表し、祈りによってこれに随伴しようという勇 気を与えられるべきであろう」(『臓器移植』

, S. 25

)。36

(4)臓器受容

両声明においてドイツ福音教会は、その包括的な「いのちの保護」、その保持と促進 に対する要求に則って、自らの危機に瀕したいのちを提供臓器の助けを借りて救うとか 延長したいという潜在的な受容者の願望を原則的に容認して、「自らの生命を維持しよ うとするこの願望は正当なものである」(『臓器移植』

, S. 11

)と言う。この原理的受 容には、しかしながら、警告的な限定が伴う。それによれば、一面では、一つの臓器移 植は受容者に、これによって得られた生存期間を有意義な生き方によって、量的な生存 期間の確保がそれにふさわしい人生の質の確保と連動したものとなるように努めると いう課題を課すことになるとして、「臓器移植には、歳月に新たな生を加味することは 叶わないままに、新たな臓器によって人生に新たな歳月を加えることができると思いが ちな誘惑が存するのは言を俟たない」(『神はいのちの友』

, S. 103

37

36 移植医療に伴うべき牧会の諸問題については、Roser 2000を参照。

)と指摘する。し かし、他方では、とりわけ医学的進歩の可能性に鑑み、冷静かつ謙虚な姿勢、人間の生 の有限性に対する洞察、神を生と死を司る主として是認することが求められる、とする。

かくして、例えば

1989

年の声明では次のように主張される。「臓器移植の助けを借り て生存期間を延長しようという欲求は、人々が人間の生の有限性を受け入れることを拒 絶することを通しても惹起され得る。単なる量的な生命延長は、いのちの保護を利用す ることから導き出されるものではない」(『神はいのちの友』

, S. 105

)。そして

1990

年の声明では以下のように強調される。「臓器移植はなるほど生命を延長させることは 出来るが、しかし、移植外科のあらゆる成果にも関わらず、医師の働きにはこの点でも 限度があるのである。健康上の危機や疾病は克服されることもあり得るが、しかし、死 がこれによって究極的に駆逐されることは有り得ない。それゆえ、人間の生と死の意義 についての疑問は依然として残されたままであり、生きかつ死するに当たって、後ろ盾 と指針を与えることの出来る、信ずるに足る解答が求められるのである。医学の進歩と、

他ならぬ移植外科の成果を有り難く認めることと、冷静な判断、積極的な援助、人間に 負わされた限界に対する認識とは一体のものでなければならない。それによって我々は 今日でもなお、神を生と死を司る真に唯一の主と認め、ひとり神のみに栄光を帰するこ とが出来るのである」(『臓器移植』

, S. 5

)。

37 『臓器移植』

, S. 9

を参照。

(13)

13

4 節 最終考察

1989

年及び

1990

年の声明を概観してみると、次のように要約することが出来る。即 ち、この両テキストは脳死や死後の臓器提供の問題に関して、その判断や要求の神学 的・倫理学的ないし聖書的根拠、もしくはその源泉となっているキリスト教的教義コン セプトを細部にわたって議論することをほとんど行っていない。両声明の大部分はむし ろ報告的な性格を示しており、先ず第一に臓器移植の法的並びに医学的・技術的側面、

及び一般的に多数派に通用する倫理的立場を述べることに限定されていて、その根底に ある特殊キリスト教的な人間学的、あるいは倫理学的信条が詳細に検証されているとは 言えない。従って両声明は、例えば脳死コンセプトの人間学的な含意を神学的な見地か ら細部にわたって論じることがないことに気づかされるのである。38 このように現状、

即ち当時の移植実施、その技術的側面、臓器移植が実施される際の条件、並びにその法 的根拠と普遍的・倫理的側面(例えば自発的意思の原則、故人の尊厳の尊重、「即物的 かつ倫理的に正当化できる規制に応じた臓器の分配」(『臓器移植』

, S. 21

)等)の記 述に集中していることと並んでテキストの論法を見ても、目下の臓器移植実施が教会に よって明確に肯定的に評価されているのが認められる。このことは特に

1990

年の声明 について当てはまるが、それに反して

1989

年の声明はこの点ではるかに慎重で懐疑的 な形を取っているとはいえ、原則的にはやはり同じように支持的な結論に達してい る。39 関連した神学的な基本的教義についてのより詳細な考察は、

1990

年の声明のよ うやく終盤に至って、「キリスト教的理解における生と死」というテーマに関する独自 の章という形で組み込まれているが、その中では、キリスト教的な死の解釈を引き合い に出して、臓器提供は身体的な不可侵性を損なうことで当事者の甦りに否定的な影響を 及ぼしかねないという、「感情的な」(臓器移植

, S. 23

)誤解に反論が展開されている。40

1990

年の声明より取り扱いが短い

1989

年の声明の脳死・臓器移植問題に関する章節に は、たとえその前にキリスト教的生命倫理の普遍的な聖書的根拠、並びにキリスト教に 裏付けられた人間の尊厳の理論の詳細な分析が述べられているにしても、脳死と臓器移 植に対する神学的・倫理学的論証が少なからず欠けている。41

両声明が出された時点では普通の、

1997

年の臓器移植法の発効によって裏書きされ た、脳死及び臓器移植の実施を修辞、内容の面で明確に支持したその意思表示によって、

特に

1990

年の声明は、ドイツにおける臓器移植促進に該当する情報資料の中に詳しく 取り入れられている。例えば連邦健康啓発センター(

Bundeszentrale für gesundheitliche

Aufklärung (BZgA)

)はその啓蒙キャンペーン「臓器提供はいのちを贈る」の枠内で、無

38 脳死コンセプトに対する神学的人間学の批判的論拠については例えば

Jörns 1995

が論じている。

39 この点に関しては、ヘルマン・バルトの判断(Barth 2008)を参照のこと。

40

3

節(

3

)を参照。

41『神はいのちの友』の第

2

章「聖書が伝えるメッセージを沈思する」(S. 22-28) 及び第

4

章「人間のいの ちの特別な尊厳性」

(S. 39-53)

(14)

14

料配布のパンフレットや臓器提供についてのインターネットによる情報提供の中でも

1990

年の声明を引用し、そこでドイツ福音教会のウェブサイトに掲載されている声明 の全文を紹介している。42 連邦健康啓発センター及びドイツ臓器移植財団(

Deutsche Stiftung Organtransplantation (DSO)

)によって提供される広範な教育資料の中でも、

1990

年の両教会共同の声明は詳細な評価を得て、「教会の視点からして、如何なる倫理的憂 慮 も 存 し な い 」 こ と の 論 拠 と し て 引 き 合 い に 出 さ れ て い る (

Bundeszentrale für gesundheitliche Aufklärung 2007, S. 39

)。43

つい最近、ドイツ福音教会の宗務局局長ヘルマン・バルトは、これまでの教会声明、

特に

1990

年のそれに含まれる臓器移植を促進する傾向を更に一層強化しようと提案し ている。「臓器提供の数字を高める:移植医学の急務の問題について」

これらの資料における教会の立場についての 記述に見られる幅の広さは、臓器提供への心構えを高めようと努力する際、教会の声明 に与えられる高い評価付けを窺わせる。「臓器提供の必要性に対する一般の意識を深化 させよう」という声明の趣旨、及び教会やキリスト教団も「より多くの臓器移植の可能 性を実現させるために、事実に即した住民啓蒙に寄与する」(『臓器移植』

, S. 26

)よ うに呼びかけられているという自己認識によって、二大キリスト教会は連邦健康啓発セ ンター及びドイツ臓器移植財団の目的意識と一致している。

44 と題する

2007

年の国家倫理評議会の声明に依拠しながら バルトは国家倫理評議会の一員として その仕上げに参画した 、彼は臓器提供の心構えを高める努力と方策を強化すること に賛同するが、その際に彼は教会やキリスト教徒の関与も求めている。臓器提供の数字 を高めるために、バルトは国家倫理評議会の勧告に呼応して、「意思表明方式と異議申 し立て方式の組み合わせとしての段階モデル」(

Nationaler Ethikrat 2007, S. 33

)を提案 し、現行の拡大された同意方式を緩和することに賛同しているが、ちなみにこのモデル は、市民に死後の臓器提供に関して意思表明を届け出るように勧め、意思表明が為され ていない場合には、親族に異議がない限り、臓器摘出を法的に容認することを想定して いる。45 バルトによれば、このような規定はすでに

1990

年の声明において、あり得べ き選択可の能性として教会から提示されていたものであり、46

42 例えば、

Bundeszentrale für gesundheitliche Aufklärung 2002, S. 44f.

、または

www.organspende-info.de/

organspende/religionen

その結果、いまやキリ スト教会も新たな態度表明によって立場を明確にし、臓器移植を一層促進するよう問い かけられているとして、こう言う。「それゆえ、私の見解によれば、臓器提供の数の増 加に対するその当時の臓器移植法と結び付いた希望が満たされないことが明らかにな っ た 時 点 で 、 倫 理 評 議 会 の 提 案 こ れ は 断 じ て 純 粋 の 反 対 意 思 表 示 方 式

Widerspruchsregelung

)を意味するものではない! に従うことは支持できる。それ

43

Deutsche Stiftung Organtransplantation 2007

を参照。

44

Nationaler Ethikrat 2007

45

Nationaler Ethikrat 2007, S. 53

46 「しかし、ヨーロッパの他の国の移植法に依拠し、事前に通知された親族に異議がない限り、生前に意 思表示をしていない故人からの臓器摘出を認めることも可能に思われる。」(『臓器移植』

, S. 20

)。

(15)

15

でなくとも、臓器移植の問題に関する福音教会、カトリック教会の最初にして最後の両 声明後きっかり

20

年にして、今こそ新たな声明が目指され、こういう権威づけられた 形で教会の声が公の対話の中で明らかにされるべき時期なのかもしれない。教会の言葉 が明らかにされるべき時期に来ており、十分に未解決たる問題が存在するのである。私 は生者からの提供の規制緩和への努力を挙げるにとどめよう。同じく、同意方式、及び 反対意思表示方式の評価も同類の問題である。反対意思表示方式に対するこれまでの拒 否は本当に最後の言葉とならざるを得ないのだろうか?」(

Barth 2008

)。しかしなが ら、徹底して言外に懐疑的な響きも含み、隣人愛に対する「キリスト教徒の務め」に対 する警告を含むこれまでの態度表明をはるかに超えると思われるこのような要求が、近 い将来に教会としてのドイツ福音教会の公的な態度表明の糸口となるのかどうか、ある いは両教会的文脈の中でさえもコンセンサスが可能かどうかについては予断を許さな いが、現時点までの「脳死・臓器移植」に対するドイツ福音教会の立場の展開を鑑みれ ば、難しいように思われる。

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『神 はいのちの友』と省略

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