Title
大学生の脳死と臓器移植をめぐる意識
Author(s)
小西, 吉呂
Citation
沖大法学 = Okidai Hōgaku(11-12): 107-167
Issue Date
1991-12-20
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/6532
目次 三結果とその分析 四おわりに 二調査の対象と方法 一はじめに 1対象 2方法 2全学生の意識 3県内男子学生と県内女子学生の比較 4県内学生と県外学生の比較 1概観
大学生の脳死と臓器移植をめぐる意識
大学生の脳死と臓器移植をめぐる意識小
西吉呂
一つ芒筆者は、一九九一年度の宇流麻学術研究助成基金を得て、沖縄県内医療関係者の脳死と臓器移植をめぐる動向を調査 中であるが、この調査と平行する形で、県内大学生の脳死と臓器移植に関する意識調査を行なった。興味深い結果が得 (1) られたので、}」》」にその内容の一部を紹介させて頂く。 沖縄の地は、民俗学研究の宝庫にたとえられるように、非常に関心をそそる風俗・習慣に満ち満ちている。死生観や 死者儀礼等は、その一つの典型であろう。沖縄民衆の死生観は、日本人の死生観の変遷・推移を考察する際、その具体 的なイメージを生き生きと与えてくれるといわれる。そして、「祖霊崇拝の念の篤い沖縄では、古い時代の日本の姿が (2) 埋葬の儀礼や墓制のなかで現に生きて動いている」という。また、沖縄には、「仏教やキリスト教の影響による世界観 (3) (4) や死生観が支配する以前の曰本人の考え方」が残っているとされる。 このような沖縄にあっては、現在特別の問題になっている脳死や臓器移植に対する考え方も、西欧社会とは勿論、曰 本本土と比較しても、それなりに異なった様相を呈するであろうことが予想される。今回一連の調査を試みた目的の一 つは、この点を探ることにあった。本稿が、そのささやかな一資料となることを願うものである。 (1)本稿の執筆にあたっては、同じく宇流麻学術研究助成基金による共同研究者の一人である、本学教養科の国吉和子教授から 貴重な御助言を賜わった。記して感謝の意を表する。 (2)桜井徳太郎、谷川健一、吉野裕子「鼎談沖縄の生と死1日本人の死生観の原像をもとめて-」『伝統と現代保存版』六六 頁(伝統と現代社、一九八三)。 (3)谷川健一『常夜論-日本人の魂のゆくえ-(講談社単術文庫)』一三頁(講談社、一九八九)。 沖大法学第十一・十二合併号 はじめに 一つ〈
1対象 調査は、県内の大学において法学関連科目を受講している、二年次~四年次大学生一一四○名に対して行なわれた。そ の内、有効回答者は二一一一六名である。有効回答者の男女別内訳は、男子一八五名、女子五一名となっている。回答者の 年齢は一九歳から四五歳までであるが、この内、一一○歳前後(一九歳から一一三歳まで)が全体の約九割を占めている。
Ⅲ調査熟による集合調査を行なった。
⑭調査票は、1.Ⅱ部、学部・学科、学年、年齢、性別、出身地(都道府県、市町村)をたずねるフェース・シー トと一五項目の質問から構成されている。質問は、内容的に五つのカテゴリーに大別できる。すなわち、①死生観・ 来世観や死に対する一般的イメージに関係した質問(三問)、②脳死と臓器移植に対する関心度を問う質問(|問)、 ③脳死に関係した質問(五問)、④臓器移植に関係した質問(五問)、⑤一九九一年六月に公表された「脳死臨調」 の中間意見に対する質問(一間)、である。 大学生の脳死と臓器移植をめぐる意識 一つ九 2方法 (4)ただし、このように沖縄を「古代日本の鏡」と捉える見方には、周知の通り、批判も寄せられている。たとえば、住谷一彦、 クライナー・ヨーゼフ「南西諸島の神観念』’八三頁以下(未来社、’九七七)。なお、高良倉吉「知られざる沖縄学批判」沖 縄タイムス’九九一年一○月八日付朝刊五面参照。 二調査の対象と方法なお、「二調査の対象と方法」で紹介した一五項目の質問の内、死生観・来世観や死に対する一般的イメージに関 係した三つの質問については、別稿で分析を予定している。したがって、以下では、それら一一一質問以外について分析を 1概観 Ⅲ全学生(付表1)、②県内男子学生と県内女子学生の比較(付表2)、③県内学生と県外学生の比較(付表3)、 という三種類の形で集計を行なった。このような形で集計を試みたのは、学生全般の傾向(単純集計)とともに、学生 の属性(出身地[県内と県外]、性別[男性と女性])からくるであろう傾向(クロス集計)をも比較・分析しようと したためである。もっとも、男女割合の不均衡、県外出身者数の不足等から、必ずしも十分な考察を行ない得なかった。 ③回答では、自由応答形式と制限応答形式(単一回答、複数回答、限定回答等)を適当に織り混ぜている。また、 調査票の最後に感想・意見を任意に記入してもらう箇所(以下、これを感想欄と呼ぶ)を設けた。 Ⅲ調査は一九九一年七月に行なわれた。調査に先立ち、調査の趣旨や記入上の注意事項等について、文書(調査票 の冒頭)および口頭で簡単に説明した。 (1)調査票の作成にあたっては、本年の日本刑法学会において学会員を対象に行なわれた、関西脳死研究会(代表中山研一)「脳 死・移植問題に関するアンケート」を参照させて頂いた。 三結果とその分析 沖大法学第十一・十二合併号 ’’○
2全学生の意識 Ⅲ脳死と臓器移植に対する関心度をたずねる問四(図①) では、「いくらか関心がある」が最も多く、これに「非常に関 心がある」が続く。この両方の回答でほぼ九割に達している。 とくに「非常に関心がある」が全回答の四分の一を占めている ことから、脳死と臓器移植への関心は予想以上に強いことが理 解される。この点は、任意に記入を求めた調査票末尾の感想欄 をほとんどの学生が活用し、そこに相当詳しい感想・意見を記 入しているところからも窺われる。生死という万人に共通の事 柄に関係するから関心が高いのであろうか、あるいは、近時の あ関 f 図 マスコミによる影響からそうなのであろうか。 ②①脳死を「人の死」と認めてよいかどうかをたずねる問五(図②)では、「認めてよいと思う」が多く、過半 数に達している。ただし、「どちらともいえない」も決して少なくはない。 ②問五の①「認めてよいと思う」理由(図③)は、1「脳が人間の生命活動の中枢であり、脳死の状態になるとそ の機能は絶対に戻らないから」、2「脳死の状態になった人の心臓は『機械で動かされているだけ』だから」、3「心 試みることとする。 大学生の脳死と臓器移植をめぐる意識 まったく 関心がない ) 一一一 脳死・臓器移植に対する関心度 図①
るな0 じわ㈹卯⑭釦卯、0脳そ脳だ専か外心かそ めはう 認で恩 123456 m|番多かつた「脳が人間の生命活動の中枢であり、脳死の状態になるとその機能は絶対に戻らないから」の回答 に関連しては、「人間とは絶えず考え続ける生物であり、その考える能力、つまり脳が死ねば、たとえ心臓が動いてい ても「死」だと考えることがよいと思う。脳が死ねば、人間としての機能がない」(感想欄)とか、また、これとは多 少ニュアンスを異にするが、「脳死にしても心臓死にしても、人間として意思決定する能力や行動力が伴わない限り、 僕は死だと判断したいです」(感想欄)というものがある。こうした感想からは、「人(の本質)とは何か」といった 類の大変困難な問題が生じる。この問題をめぐり、「認めてよいと思う」の選択肢「6その他」欄にも、「意識・思考 臓や肝臓の移植を可能にする道が開けるから」の順に多く、これら三つの回答以外は比較的僅かである。 わからない(0.4%) ’ 沖大法学第十一・十二合併号 脳死の是非 図② (% ) ]23456 脳カメ生命活動の中心であり、脳死状態では その機能は戻らないから 脳死の人の心臓は「機械で動かされている だけ」だから 専門家である医師の多くがそう言っている から 外国ではそうであるから 心臓や肝臓の移植を可能にする道が開ける から その他 図③脳死を認める理由
イコール人間だと思うから」のような、右の回答と密接に関連する理由が挙げられている。確かに、これらの理由には
率直な感情があらわれているのであろう。しかし、この種の考えによれば、「植物人間」は勿論、精神障害者やさらに
は身体障害者の一部も、人間としての価値をもたないか、あるいはその価値が極めて低いものと見なされるおそれが生
じる。周知のとおり、こうした考えは歴史的にも繰り返し主張されてきた。たとえば、ナチスの安楽死計画やその背景 にあったとされるニーチェの思想も、この点に関わっては想起されるところである。実際、問五で脳死に反対の回答を選択したある学生は「脳死を認めることで、植物人間のような人も脳死として処理されかねないと思う」(感想欄)と
している。感想欄を見ていると、このように脳死の人と「植物人間」とを結びつけたりオーバーラップさせたりして、脳死容認に懸念を表明する学生が散見される。脳死の人と植物人間とは、概念上区別されるべきものである限り、こう
した懸念は素朴ではある。しかし、決して無視できるものではない。しかも、脳死について「大脳死説」を採れば、こ回「脳死の状態になった人の心臓は『機械で動かされているだけ』だから」という二番目に多い回答は、広い意味
で尊厳死の問題と関連するものである。この回答を選択したある学生は「生き返る望みがあるならよいが、それがない
のに肉体だけ動かすのは、死んだ人に対して失礼である」(感想欄)と述べている。同じく、「脳死となった私の身体 を医療器具でがんじがらめにしたくない」(感想欄)とか、「死んでもなお生かされ続けるのは、自然の摂理に反して いると思われる」(感想欄)と述べる学生もある。こうした感想からまず窺われるのは、遺体に対する特別の感情であ る。この問題は後に触れる。それと同時に、こうした感想からは、人工呼吸器での心肺運動の維持という不自然な生よ りも、むしろ尊厳をもって自然な死を迎えたい(迎えさせたい)という感情も窺われる。 の懸念は当然のものとなろう。 した懸念は素朴ではある。し《 句「悩死の伏態になった1 大学生の脳死と臓器移植をめぐる意識  ̄  ̄  ̄  ̄  ̄化した議論であろう。 目ところで、こ( ロところで、この間五に対する回答傾向で興味深いのは、「専門家である医師の多くがそういっているから」が一・ 五%に過ぎないことである。医師の見解や意見が、まったくといってよいほど意に介されていないように思われる。脳 死は究極的に医学上の問題であるといわれたりもするが、学生はそのように考えていない様子である。 他方、「その他」の記入欄には、「脳死の場合、ただの肉のかたまりになってしまうから」というのがある。この回 答をした学生は、さらに感想欄で「僕は脳死は『人の死』だと思います。なぜなら、感情もない痛みもない、ただ機械 で生きているというだけの『人』を『人』とは思えないからです。これでは、ただの『肉のかたまり』でしかありませ ん。「人間」とは思えません」としている。この学生は「その他」欄で回答しているが、実質的には「脳死の状態になっ た人の心臓は「機械で動かされているだけ」だから」の回答と同じ趣旨のことを述べているといってよいであろう。そ して、このような理屈は、さらに「脳が人間の生命活動の中枢であり、脳死の状態になるとその機能は絶対に戻らない から」という、すでに検討した多数の支持を得た回答とも親近性を示すものとなる。 い「心臓や肝臓の移植を可能にする道が開けるから」に関連しては、「なぜ僕が脳死を認め移植を支持するかは、 もし臓器が提供されるのならば、他の人の命が助かると考えるからである。僕は「去りゆく人々も大切な人だが、今を 生きている人々にも希望の光を与えてほしい』と願っている」(感想欄)がある。これは、いわば脳死移植即「愛の行 為」としての考えである。この種の考えは、脳死肯定者に割合広く見られるように思われる。今回の調査でも数多く見 られたが、後述するように問題が残る。いずれにせよ、脳死を人の死と認めなければ心臓や肝臓の移植を可能にする道 が遠退くとしても、僅か全死亡例の一%に過ぎないとされる脳死を、その移植のために人の死とするのは、やはり倭小 沖大法学第十一・十二合併号 一一四
㈱すでにいくつか紹介したが、「認めてよいと思う」の選択肢「6その他」の記入欄にも、興味深い内容のものが
少なくない。以下、それらをまとめて紹介する。「長期的になると、家族への経済的負担・精神的負担が大きいから」とか、「回復しない人の看病をする家族の悲し
さがわかるから」として、家族側の問題をとくに指摘して脳死を人の死と認めるものがかなりある。さらに、感想欄に もこの問題をより詳しく論じているものがある。「現在の医学水準でもっても、脳死になった人はもう回復の余地はな いと思うし、ただ、機械じかけの人形のように内臓機能だけを生かしておくのは、ある意味でその家族にとってもその 脳死者にとっても苦痛なのではないかと思う」。「医療行為は、その本人や家族の幸福のために行なわれる行為である と思います。今行なわれている延命術なるものは、幸福になる保証がなければ行なう必要はないと思います。家族が幸福だと思えば延命もしかたないけど、大方の考えは、延命が家族の重荷になっている場合が多いはずです。その重荷を
だれがおろしてくれるのか。それを家族は待っていると思います。ですから、医師はその延命術をやめて、自然の成り行きにまかせるのも一方法だと思います」。これらの意見や感想では、主として家族側の精神的苦労が、前述した尊厳
死の問題とも絡まりつつ語られている。しかも、その苦労の中には、医療費の経済的負担からくるものも含まれている のではないかと推測される。そして、脳死を認めることは、このような場合、医療を打ち切る方便として非常に好都合 ところで、やはり「認めてよいと思う」の「その他」欄で、「心臓は今の科学では作りだせるが、脳はまだ作れない から」という理由を挙げる学生もいる。脳を最重要視しているという意味では、「脳が人間の生命活動の中枢であり、 脳死の状態になるとその機能は絶対に戻らないから」という回答の変種であるともいえよう。それにしても、心臓は作 で.ある。 大学生の脳死と臓器移植をめぐる意識 一一三論議を呼んでいる。
には、脳の機能は喪失しておらず、その機能は一部とはいえ代替されているともいえるのである。仮に、高度な意識作
生の理由は、心臓と脳の代替可能性を問題にしているのであろう。しかし、生命が人工心肺装置で維持されている場合
す装置は、医学的にはともかく、素朴な心情としては心臓と呼ぶことがためらわれる。要するに、脳死を認めるこの学
りだせるというが、半永久的埋め込み型の心臓は、実用にはほど遠い。ベッドに寝たきりの患者に対して拍動を繰り返
(1) 用は生命維持装置でも維持できないとして代替性を否定すれば、それは大脳の死を脳死と見る考えに行き着くであろう。 そして、この考えは、前述した植物人間や障害者の問題に突き当たらざるを得ない。③問五の②「認めるべきではないと思う」の理由では、回答のばらつきが目立つ。脳死を「人の死」と認めない理
由の多様性を窺わせる。以下、さらに詳しく検討したい。㈹「医師の脳死判定を信用できないから」を選択した脳死に反対する学生は「現在の脳死の基準は将来変化する可
能性があるので、「人の死』として決めつけるのはどうか」(感想欄)としている。ここで問題にされている判定基準
の問題は重要である。この点について、ある学生は次のように述べている。「僕は現在問題なのは、脳死は『人の死』
なのか、ということより、脳死の判定基準だと思います。曰本では、竹内基準が行なわれていますが、これは諸外国の
判定基準より厳しいものですが、これでもまだ確かではないと思われます。今しなければいけないのは、判定基準を正
確にすることだと思います。また、脳死の判定基準さえ正確になれば、臓器移植にも何ら問題が起きないと思います」
(問五の②「その他」欄)。確かに、「竹内基準」の問題性も久しく指摘されてきたところである。「器質死」・「機能
死」問題のような大きな問題を始め、視床下部のホルモン分泌その他の微妙な事例問題等、竹内基準との絡みで多くの 沖大法学第十一・十二合併号 一一六この判定基準の問題は医学の発展可能性の問題にも連なるであろう。ある学生は「脳死の問題は医療の技術向上によっ
てでてきた問題だから、これからも向上すると思うので、はたして脳死患者の機能は回復しないままなのか、それとも
これからは技術の向上によって回復する余地はあるのか、そこらへんも疑問がある」(問五の②「その他」欄)と述べ
ている。そこでは、脳死からの「生還」への期待、脳死そのものの治療不可能性への疑問が表明されている。他にも、
「NHKの特集等を見て、自分は脳死状態を回復させることが、近い将来できるのでないかと期待したい気持ちがある」(感想欄)という学生がいる。こうした疑問や期待は、相当多くの学生によって示されていた。医学的には回復不能と
される脳死であるが、それはあくまでも現在の医学水準を前提にして語られることに注意する必要がある。回他に「認めるべきではない」の「その他」欄で注目されるものをいくつか挙げておく。まず、脳死の容認が障害
者の人権を危険にさらすことに懸念を示す学生がいる。すでに触れた通り、この懸念はもっともであろう。また、「自
分の家族が脳死になっても死とは認めたくないから」というものがある。問題を自分の身近に引き寄せて考えているの がよく窺われる。このような理由を見ていると、いくら論理的に脳死が解明されたとしても、脳死肯定への心情的回避 が問題として残されることを痛感する。さらに、「その他」欄として、「この制度が定着すると、回復する見込みのあ るものまで脳死にされる危険があると思う」がある。この同じ学生は、感想欄でも「脳死イコール「もう絶対に助から ない状態』と思い込まれている。本当はそうではないでしょう。誤った知識をマスコミを通して信じ込まされているの だと思う。正しい脳死教育が必要ではないかと思う」と述べて、脳死に対する深い懐疑を示している。他に、感想欄に は、「以上の回答は、『脳死に陥った場合、その脳は全く機能回復の余地がない、あるいは完全に回復することはない』 ということを前提にして回答したものです。医学的知識はほとんどないので、この前提を信頼していいかどうか疑問は 大学生の脳死と臓器移植をめぐる意識 一一ゼ③問六(図④)では、「脳死を認める人には脳死を人の死とし、心臓死を認める人には心臓死を人の死とする選択
権を本人や家族に与える」が半数を超え、圧倒的な支持を集めている。この質問に関係して、感想欄にも「脳死につい
ては、それを『人の死』と認めるかどうかについて多くの論議が交わされているようだが、それも、二者択一で統一す
る必要があるのかという疑問をもつ。臓器移植は必要であると思うが、家族や本人の意思を尊重するのが一番だと思う」
識される。 の死と認めると「死者が子を産む奇怪さを認めることになる」として表明されていたところでもある。いと思った」(感想欄)というものがある。周知の通り、これは、脳死臨調の中間意見における少数意見で、脳死を人
療への同様の疑問が示されている。また、「脳死の人でも子供を産めると知ったから、脳死の人は死んでいるのではな
あります。もしこの前提がくつがえるのなら、問五以降の回答も違うものになるでしょう」(感想欄)として、脳死医
④問五の③「どちらともいえない」の理由では、「その他」欄として、「もしこのまま脳死を人の死としてしまえ
ば、臓器移植ということになると思う。そしたら、脳死は治療について進歩できるかもしれないのに、それをダメにす
るおそれがあるから」がある。これは、実質的に脳死を認めない立場と見てよいであろう。すでに触れた脳死の治療可
能性と深く関わった疑問である。他方、「客観的立場からなら認めた方が臓器移植等で妥当な役も果たせるだろうが、
自分に直観的見地からなら『認めるべきでない』というより『認めたくない』と思うであろうから」という回答があっ
た。判断に苦慮している様子がよく窺われる。また、この回答は、脳死のようなデリケートな問題では、第三者的立場
と当事者の立場で、考え方に相当の開きが生じ得ることを端的に示していて興味深い。以上のように見てくると、脳死を人の死とするかどうかは、臓器移植の問題以外とも複雑に関連していることが再認
沖大法学第十一・十二合併号 - - ′へを感じさせもする。← いない点は興味深い。 る。 しい」との回答が説得的ではある。この回答は二番目に支持されてい て『生きている』とされたり『死んでいる」とされたりするのはおか 味では「死は客観的に判断されるべきものだから、同じ状態が人によっ 性を許容するという法的観点からは是認しがたいものである。その意 する自己決定の問題とも関係するであろう。しかし、死の判断の相対 この種の考えは、心情的には十分理解できる。そして、それは死に対 というものがある。本人を含めて身近な者の意思を尊重したいとする 側人工呼吸器の取り外しに関する問七では、「家族の承諾があれ ば外してもよい」が半数を超え、やはり家族の意思を尊重する姿勢が 見て取れる。この回答は問六の本人や家族に選択権を与える回答とほ ぼ同数の支持を得ており、両者の間に正の相関を窺わせる結果と挙った。 次に多い回答は、「心臓が止まるまでは人工呼吸器を着けておいてほしい」であり、全体の四分の一を占める。これ ら二つの回答で約八割になるが、死を肯定することへの抵抗、つまり身近な人の死をできるだけ遅らせたいという心情 を感じさせもする。なお、ここでも「医師の判断で人工呼吸器を外してよい」という医師の判断が必ずしも重視されて 「その他」欄として、本人の生前(意識の明確なとき)の意思によるべきであるとする学生が目立って多い。これは、 大学生の脳死と臓器移植をめぐる意識 , 態冒 DJI蝋施の I 一 一 ブ而凸 , 脳死と本人・家族の意思との関係 図④
沖大法学第十一・十二合併号 一一一つ
それなりに注目される。後にも触れるが、本人と家族とは、理念的にも現実的にも区別されるべきものである。家族が
承諾しても本人が反対する(あるいは反対していた)場合は往々にして起こり得る。この点で、ある学生は「その人の
人権は死ぬまでその人のもので、肉親でも侵すことはできない」としているが、比噛としてはおもしろい。ちなみに、別の学生は「臨調で脳死を死とするという結論がでても、リビング・ウィルによって明確に呼吸器使用を望まないとい
う意思が示されていない限り、臓器提供も呼吸器不使用もすべきではないと考える」(問五の③「その他」欄)としている。したがって、この間七に「本人の事前の承諾があれば外してよい」といった類の選択肢が備わっていれば、これ
に少なくない支持が集まったかもしれない。いずれにせよ、脳死移植に対する理解が十分に流布しているとはいえない現状では、本人の意思が表明されている場合をどれほど想定できるかという点等は、それなりに疑問である。また、死
の問題がタブー視され、死への準備・心構えが不十分である現状も、併せて考えなければならないであろう。⑤脳死を認める際に考慮すべきことは何かをたずねる問八でも、問六、問七の結果と関連する回答傾向があらわれ
た。「本人または家族の意思」が高い支持を得ている。他方、「社会的合意」は必ずしも多くない。また、「政府の決
定」も意外に低率であることに驚かされる。この点について、学生は「いくら脳死といわれても、家族にとっては身内
が死んだか生きているかは大きな問題である。それを政府が『脳死は人の死だ』と決めてしまったら、そして、それで
社会の目が臓器移植をしない家族に対して冷たくあたってしまう。こんな一本やりで決める必要はないと思う。あくま
で家族か死んだ人の意思の決定で決めるべきだ」(感想欄)とか、「脳死が『人の死」かという判断は、本人や家族し
か決められないと私は思う。やっぱり患者とつながりの深い人が決めるべきで、政府や医師の判断で死を決めてほしく
はない」(感想欄)としている。そこでは、政府や医師の決定に対する反発すら感じられる。⑥社会的合意の有無をたずねる問九では、「脳死の社会的合意はまだできていない」が非常に高い割合に達してい
る。他方、「内容の不明確な社会的合意など考慮する必要はない」はごく僅かである。したがって、社会的合意はでき
ていないと考えられているものの、その必要性はほぼ共通に認識されていることが窺われる。ただ、問八との関連では、
脳死の社会的合意の必要性が積極的に重視されているかどうかは、必ずしも明確でない。すなわち、脳死が認められる
に際して社会的合意が考慮されるべきであると答えた学生は、決して多くないのである。この点は、「社会的合意形成」
を目指して設置されたとされる、「脳死臨調」答申の社会的インパクトの問題とも関連して興味深い。
「その他」欄として、「社会的合意とはあいまいであり、後からついてくるものである。正しければよい」というか
なり乱暴な意見も存在する。この意見は「内容の不明確な社会的合意など考慮する必要はない」という回答の一変形と
考えられる。なお、医師その他の意見の中にも、国が法律を作ったりしてイニシアティブをとっていけば、社会的合意
は自然に形成されるとするものがしばしば見受けられることに注目したい。 、①脳死移植の是非をたずねる問一○(図⑤)では、「認めるべきである」が過半数を占めている。問五の脳死 を人の死と「認めてよいと思う」とほぼ同じ割合である。反対に「認めるべきでない」は少ない。しかも、問五の脳死 を人の死と「認めるべきではないと思う」よりも、さらに少ないことが注目される。このように問一○と問五を比較す ると、脳死を人の死と認めることに反対の学生の中にも、臓器移植には賛成する学生は案外いることが窺われる。確か に、「私は脳死を『人の死』だとは考えていないが、臓器移植をすることによって人の命が救える事実もあるので、臓 器移植の必要性も感じる」(感想欄)と述べる学生があり、この点を裏づけているようである。この傾向は、あたかも 「脳死臨調」中間意見の少数意見を坊佛させる。 大学生の脳死と臓器移植をめぐる意識  ̄  ̄ - -社会的合意による強制は反対である」として、本人・家族の意思と社会的〈ロか0 るし めな わ 認で 意を対比させたもの等がある。ちなみに、「脳死臨調」の中間意見における (2) 少数意見も、移植条件の一つに臓器提供者本人の明確な意思表示を掲げてた(したがって、本人の明確な意思が確認で
きない場合には、臓器提供の対象とされるべきではない)。ちなみに、学生の中には、本人の意思と家族の意思を明確
に区別していない者も少なくない。しかし、すでに触れた通り、両者の意思が食い違うことも当然に起こりうる。この 場合、どちらの意思を重視するかは、遺体に対する権利をどう捉えるかという問題とも関わる今後に残された課題であ る。いずれにせよ、脳死移植に対する一般人の理解が必ずしも十分といえない現状では、はたして本人や家族の意思が どれほど意味をもつかには、疑問もあろう。たとえば、医師等専門家のいうがままになることも懸念される。もっとも、 ここで問題にされている意思が移植の実施・不実施を自ら選び取るという積極的なものではなく、医師等の専門家によ なお、(生前の)本人や家族の同意がある場合と、とくに断わり書きをし た上で「認めるべきである」とする者が相当数いる。この点について、「感 想欄」では「臓器移植をする場合、あくまでも私または家族の同意が必要で あり、医師の判断だけでやった時は罰するべきである」として、本人・家族 の意思と医師の判断を対比させたものや、「本人や家族の合意がなければ反 対である。社会的合意だけで移植を行なうのは、ナチスのように生きるに値 しない生命の抹殺のようである。社会が生きるに値しないと決めつけるよう なものである。最終的には、本人・家族の合意による移植は賛成であるが、 沖大法学第十一・十二合併号 らなし勢
 ̄  ̄ - -  ̄ 図⑤ 臓器移植の是非ところで、「どちらともいえない」の回答が割合多い。問五の「どちらともいえない」とほぼ同率である。学生の慎
重な態度が窺われるが、これは脳死移植に関する情報の不足に起因するところが少なくないように思われる。
「その他」欄として、「本人、家族の合意で決めるべき」や「家族や本人の意思によって決めた方がよい」、「家族
や本人の意見に沿って認めるべきである」といったものが、多数見られる。これらは、前述した本人や家族の同意があ
る場合に限って臓器移植を認める立場と類似性を示す。また、「自分の場合はいいが、もし家族のだれかがそうなった
場合はダメと答えるかもしれない」や「自分自身については認めてもよいと思うのだが、家族が脳死で死んで、病人に
対し提供してもよいと言っても、私自身、家族の臓器を他者に提供したくない」がある。これらは、すでに触れた通り、
自分と家族を別個に見ているものとして興味深い。さらに、そこには遺体に対する配慮の念も含まれていよう。確かに、
感想欄で遺体の一部を傷つけることに対する抵抗感が自分にも社会一般にもあるとしている学生がある。前述した通り、
脳死者を人工呼吸器で生かすことを本人に「失礼である」とする学生もいた。とくに「沖縄の場合、死後も肉体に魂が
宿っていると考えているので、脳死と判定して臓器を取りだして、他人に移植することもよいとは思えない気がする。
文化的背景からも肉体を切りきざむのはよくない」(感想欄)といわれる。この沖縄の死体観や霊魂観については、別
稿で詳しく触れる予定である。 ②㈹脳死移植を認める理由を問う問一○の①(図⑥)では、「臓器移植によって生命の助かる人がいるから」を挙げる者が最も多い。臓器移植が脳死を前提として成り立つ医療であるという意味において、脳死と臓器移植を結びっ
は尊重されなければならない。る実施の意向に対する拒絶を表明するという消極的なものである場合には、それなりに可能であるし、また、その意義
大学生の脳死と臓器移植をめぐる意識  ̄  ̄  ̄  ̄  ̄  ̄昭㈹卯卯、印加㈹卯mm0鯛柵綱川棚柵錯川即
させる方向にもっていくような感じを私は受け11 る」(感想欄)として、この点を敏感に感じ取っ 12345 ている。また、次のような意見もある。「現在の脳死論議は、あまりにも移植のために脳死を認めようとするものに見 える。しかし、本来脳死とはあってはならない状態であり、いかに脳死状態に陥らないように努力しているかが問題と なるべきではないか。最近やっと認められようとしているドクターカーのように、その努力はまったく皆無であるとは いわない。しかし、救急の現場におけるタライ回し、ICUに入ったとしても医師の経験不足や不勉強によって、本来 なら脳死にならなくても済んだ例が多々あると聞く。まずはこのようなずさんな救急現場から手をつけるべきではない か」(感想欄)。ここでも、脳死即移植という捉え方に対する疑問が示されている。加えて、この感想は、脳死を防ぐ ことこそが本来の医療であるという、当然ではあるが、ともすれば忘れ去られる核心に言及している。 ら、臓器が取られる』といったような考え方を に主体的に考えさせるのではなく、「脳死した 偏見に偏った報道である。そのため、一般住民 と思う。脳死イコール臓器移植といったような、 するマスメディアの報道のあり方に問題がある に思われるが、ある学生は、「現在の脳死に対 マスコミの影響によるところも少なくないよう けて考える傾向を感じざるを得ない。この点は、 』 沖大法学第十一・十二合併号 12345 1:移植によって生命の助かる人がいるから 2:脳死の状態は人の死であると思うから 3:外国に出かけて臓器移植を受けるのは好まし くないから 4:脳死は人の死ではないが、本人の同意があれ ば脳死状態の人から臓器移植しても刑法で処 罰されることはないから 5:その他 図⑥臓器移植を認める理由 酉これに対して、脳死と臓器移植を結びつけて移植に賛成する学生は、右のような意見は勿論、臓器提供する側への配 慮の問題、受容者の術後管理や拒絶反応の問題(免疫抑制剤による副作用の問題)、莫大な治療費の問題、障害者の人 権への影響の問題、臓器提供者と受容者との需給バランスの問題等を、どの程度視野に収めているのであろうか。臓器 移植を安易に「愛の行為」としてのみ把握することには、慎重でなければならない。「人と人の助け合い。私がもし脳 死の状態になった場合、おしみなく困っている人へ臓器を提供します。そのことによって、自分の人生で最後に困った 人を助けることができるなら、それこそすばらしいことではないかと思うからです」(感想欄)とか、「脳死を人の死 とするかどうかについては、自分の意見として認めるべきであり、それにより、多くの人達が助けられることがとても すばらしいことであり、積極的にやって行かなくてはならないと思います」(感想欄)といった、通り一辺の意見にど れほどの説得性があるかは疑わしい。もっとも、右で指摘したような脳死移植に関して生じ得る諸問題は、それ相応の 基礎的知識がなければ気づかないことであろう。そうした知識の不足こそが、移植を「愛の行為」として把握する方向 に作用しているのであれば、やはり啓蒙的教育的活動が望まれる。 回問一○の①では、「脳死の状態は人の死であると思うから」が、右に検討した「臓器移植によって生命の助か る人がいるから」に続く。これは、脳死を肯定する者が過半数であった問五の結果から、容易に想像されるところ である。 ③脳死移植を認めない理由をたずねる問一○の②では、際立って高い回答は見られず、どちらかといえば、回答の 分散化傾向が目につく。問五の②の結果と同じパターンである。その中にあって、「脳死の判定に不安があるから」と 「臓器売買などの問題が生じるおそれがあるから」が比較的高率である。その根底には、移植医療や医療政策に対する 大学生の脳死と臓器移植をめぐる意識 一一一三
「それまでの本人の考えに従って決める」が約半数で最も多い。「家族や医
師とよく相談して決める」、「他人の生命を救えるので提供する」がそれに続く。例によって、本人・家族の意思が重
視される傾向にある。それは、決断を他者に委ねて自己決定を回避する傾向とも受け取れる。問二との対比では、臓器を貰うのはよいが与えるのは蹟踏されるという心情が浮かび上がってくる。これをどう理
⑨家族をドナーとするか否かの意向をたずねる問一二(図⑧)では、 と答えた学生の多くも当然念頭にあったであろう。 合い、見込みがあるのなら考える」がある。この点は、「移植を希望する」 に任せるとするものが相当数ある。他に、「移植後の状況をよく医師と話し 「移植を希望する」が圧倒的に多い。「その他」欄として、患者本人の意思 ⑧家族への臓器受容の希望をたずねる問二(図⑦)では、予想通り、 されたとしても一年ももたない傾向がある」というのは、事実であろうか。 信念から移植医療の限界を認識しており、興味深い。ただ、「臓器移植はな ないのは当然だと思います」というものがある。これは、魂の存在に対する の一部から臓器を取りだし、他人の身体に取りつけたりしても、身体がもたももたない傾向があるが、それはやはり人間の身体と魂が密接につながっていると思うからです。魂には関係なく身体
なお、感想欄の中からも臓器移植に批判的な意見を挙げておくと、「現段階では、臓器移植はなされたとしても一年
不信感が存在するように思われる。 沖大法学第十一・十二合併号 ,ご無回答(0.4%) 〈 図⑦ 臓器受容の希望の有無生命を救えるので提供すると答えたけれど、やっぱりすぐに曝供はしないと えていると自分が矛盾的な考えであるのがわかります。なぜなら、もし 家族に脳死状態の人がいるとして、臓器を提供しますかと問われたら、 本人の意見に任すとし、もし家族の中に臓器を提供しないと助からない としたら、移植を希望するとしました」といった意見が少なくない。脳 死者からの臓器提供が許容されても、移植用臓器がどの程度あらわれる かという周知の懸念を、これらの回答は裏づけているように思われる。 また、移植一般は肯定しつつも、具体的な状況のもとでは否定に回る人々 の微妙な心理を端的に示している。 Ⅲ臓器提供を拒んだ遺族の責任の有無をたずねる問一三では、「な いと思う」が多数を占める。ただ、この問題に関連して、感想欄では、 「脳死を『人の死』と考え、臓器移植でしか助からない人の命が救える のはよいが、脳死になって臓器移植を拒んだ場合、社会から変な目で見 生命を救えるので堤供すると答えたけれど、やっぱりすぐに曝供はしないと思います。難しいですね」、「アンケートに答 しまうだろうと思う」、「自分の母等が脳死状態になって、臓器を移植してくれとたのまれた場合、問一二では他人の でしか助からない病気なら移植を希望するが、逆に身内の者から他人へ臓器を提供するよう頼まれたら、すごく困って 脳死を認めたほうがよいと思うし、提供する側になればいやなのでよくわからない」、「仮に私や身内の者が臓器移植 解するか。人間の身勝手な心情が端的にあらわれたということか。確かに、感想欄で「自分達が臓器を必要な場合には 大学生の脳死と臓器移植をめぐる意識
醜い唯肌堀川
nJ やぼ く相 伝lnLA 臓器の一部 でも生き続 けてほしい から提供す る(5.6%) Z」 ‐上 図⑧臓器提供の意思の有無①「自分の臓器を家族のだれかに与えることは認めるが、他人にはやらない。自分が臓器を移植してもらわなくて は生きて行けない場合、他人からは勿論、家族からの移植も受けつけない。基本的に人の脳死、その臓器移植には同意 するが、人のものをもらって自身の命を保とうとする人の気がしれない」。かなり特異な意見であると思われる。自分 は脳死移植を受けつけないにもかかわらず、どうして基本的に脳死移植に同意できるのか。やはり他入ごととしての安 佃以L しておく。 ⑪臓器移植について話し合ったことがあるかどうかをたずねる問一四では、「ある」と「ない」がほぼ同数である。 ⑫脳死臨調の中間意見を支持するかどうかをたずねる問一五は、問五や問一○と関連する。「支持する」が約半数 であるが、これは、問五の「認めてよいと思う」や問一○の「認めるべきである」の数値に対応していると見てよいで あろう。「支持しない」も問五の「認めるべきではないと思う」に対応しているように思われる。いずれにせよ、「ど ちらともいえない」がかなりの数にのぼっていることが注目されてよい。 ㈹以上、全学生の意識を分析したが、最後に感想欄の中から興味深いものをまとめて紹介し、若干のコメントを付 中間意見における少数意見も、「われわれが恐れるのは、愛の行為や菩薩行の名において臓器提供が事実上強制さ 任があるかのようになってしまうおそれがあると思います」といった懸念が示されている。ちなみに、「脳死臨調」の としても、社会的。|般的合意がなければ歯止めがきかなくなり、問一三のように、移植を拒んだ人に対し何らかの責 診られることのないようにしてほしい」とか、「たとえ専門家や医師、政府が脳死を『人の死』とし、臓器移植を認めた (3) れ、義務づけられ」ることであるとして、とくにこの種の問題を強調している。〈「後、真剣に検討されるべき課題で あろう。 沖大法学第十一・十二合併号  ̄ - - ノヘ
③「この問題は倫理的な問題であり、どちらか一方が正しいということはないと思う。それぞれの真理がある以上、
相対的な見方をするしかないのではないか」。「どちらかというと、脳死を認めたい人にはそれを認め、脳死や臓器移植を拒む者には、それをむりやり押しつけないというのがよいと思います。そんなものは、個人の問題だと思います」。
確かに、詳しく見てきた通り、これほど多様な感想・意見が寄せられていることからも、そういう一面は否定できないが、他面で現状の混乱を安易に座視することも、また適切とは思われない。その意味では、たとえば以下の④のような
意見に傾聴すべきものがあるのではないだろうか。 ④「決して、医師・政府・その他の分野の専門家が勝手に決めるのではなく、支持する立場の理解を求めるだけで なく、支持しない人達がなぜ支持しないのか、なぜ一部の医師達が支持しないか考えてほしい。当事者になっていない私達より、支持する当事者、支持しない当事者の意見をもっと具体的に表面化して問題を解決できるなら支持するかも
しれない。安易な支持をする強い者だけの意見で決定しないでほしい」。「脳死を『人の死』と決定するのは、まだ早
すぎると思う。国民の意思は尊重されているのでしょうか。また、国民は理解している人は多いのでしょうか。この問
題を専門家達の判断だけで決定づけるのは納得いかない。何よりも優先すべきなのは、本人や家族の意思ではないでしよ ②「臓器移挙 れば、早急に決} ているに等しい。 易な脳死移植容認といわざるを得ない。もっとも、この意見は、他者の臓器を不浄とする見方、あるいは他者の臓器に (4) 対する不気味さや死者の「怨塞工」への恐怖等とも関係しているのかもしれない。②「臓器移植が一○○%成功すること、脳死が回復不可能であることが一○○%であることの二つが立証されなけ
れば、早急に決定することではないと思う」。脳死移植に慎重であることは理解されるが、これでは脳死移植を否定し 大学生の脳死と臓器移植をめぐる意識 =  ̄ ブTj⑤さらに、右の脳死問題の専門化に関係して、同じく「脳死については専門家だけで討論している感があり、もっ と一般の人にもわかりやすい情報を提供してほしい」がある。確かに、専門的な情報の不足からか、脳死の概念につい ても十分に理解が及んでいないと思われるものが少なくない。たとえば、「自分はまだ人の死は心臓が止まった時点で 考えることが正しいと思っています。なぜならば、脳死とは脳の一部分だけが動かなくなるだけであって、また動きだ すという可能性があると思うからです」とか、「脳死については、僕自身から見れば人の死といってもいいと思います。 |生植物人間で社会復帰もできず、又、家族も悲しくつらい思いをするよりは、安らかに眠らせてあげたいと思います」 等はそうである。実際、「あまり脳死についての理解度が足りないのでよくわからない」と率直に述べる学生も多い。 現状では、脳死の問題について、広くかつ十分に理解されていない点があるので、専門学会等が、教育的ないしは啓蒙 (6) 的活動を十分に行なう》」とが必要なのであろう。そして、とくに脳死臨調は「国民自身が自分の問題として考え決断す (7) ろために不可欠な客観的情報の提供に努めるべき」であるとすれば、最終答申も含めてその諸活動に注目したい。学生 ではなく、家族等も死を認めることであり、この過程は必ずしも論理的、合理的でなく、最終的には情緒的な問題であ で指摘してきた通り、かなりの学生に見られた傾向である。そして、死を認めることは、医師が死を判定することだけ 批判・疑問とともに、問題に対する決定権・拒否権を身近に留保しておきたいという切実さがあらわれている。これま い人が決めるべきで、政府や医師の判断で死を決めてほしくはない」。これらの意見には、脳死問題の専門化に対する うか」。「脳死が「人の死」かという判断は、本人や家族しか決められないと私は思う。やっぱり患者とつながりの深 (5) ろともいえるのである。いずれにせよ、これらの学生は、脳死・臓器移植の問題を自分の問題として割くロ真撃に捉えて いることが窺われる。 沖大法学第十一・十二合併号 一一一一つ
います。成人に達している人」 査をして、提供すると答えた‐ 恩を重視するものであるが、え しようとしているものである。
「いくら医学レベルがあがろうと、家族でも自分以外です。他人の命は私は判断できません。人でも、その人の生き
方などを考えて判断していくのが医学ともう一つ並走していく国民的なプラスアルファだと思っています。私は、この
アンケートは提供されようとしている本人のことには触れていませんが、そうした本人達の声も少しは聞いてみたいと 思いました。たぶん、健康体の人と病気で苦しんでいる人では大きく意見が変わっていると思います」。「価値観を画 一化させて行くには時間がかかると思う。だから、今のところは脳死で死に行くその本人の意思を何よりも尊重すべき あると思う。死は周囲の者達の問題である前に、何よりもその本人の問題であると思う」。「人の生死は、全て本人に や臓器移植を理解する必要がある」(感想欄)としている。も「多くの人は、脳死に対する知識が浅いため、これに対する適確な答えをだしかねているのが現状で、もう少し脳死
⑥すでに随所で触れてきたところではあるが、本人・家族の意思を重視しようとする意見の中から、改めていくつ
かを紹介する。「私は脳死が人の死であるということに関しては社会的には反対ではない。しかし、一番大事なことは、
やはり本人と家族の意思であると思う。前もって、市役所等に本人の希望を提出したらいいと思います」。「基本的に
は脳死になる前の段階で本人の意思を調査・確認する必要があるように思う。だから、このような調査を行政単位で調
べてから一定場所に保管しておくとよいと思う」。「臓器の提供については、本人の意思によって決めた方がよいと思
います。成人に達している人々に調査をして、『もしあなたが脳死になった場合臓器を提供しますか」というような調
査をして、提供すると答えた人は提供し、しないと答えた人は提供しなければいいのです」。これらもやはり本人の意
思を重視するものであるが、それを公的にも承認させようとしているところに特色がある。意思の実現を安定的に確保 大学生の脳死と臓器移植をめぐる意識  ̄  ̄  ̄ - -⑦社会的合意と個人の意思との関係について、次のような興味深い感想も示されている。「こういった問題は上の 人が決めるのではなく、国民の合意によって定まるべきものと考える。要は、この社会は現実に生きている人によって 成り立っている。生きている人の意思を尊重すべきなのだ。死人には基本的人権はない」。これは、脳死問題の政府に よる押しつけではなく、社会的合意による解決を説いている。また、本人や遺体ではなく、遺族(家族)の意思を重視 する。ただ、右の⑥で紹介した本人の意思を重視する立場と比較すれば、数は少ない。 ていて興味深い。 ことができる。拝ことができる。なお、最後に紹介した感想は、脳死移植問題が単に医学的に解決できる問題でないことを端的に表明し 意思よりも)と/意思よりも)とくに重視しようとするものである。それぞれ、多少一三アンスは異なるが、その意図は十分に窺い知る 本人の宗教観や死生観に乗っとってあくまでも本人の意思を尊重すべきだと思う」。これらは、本人の意思を(家族の と思っている。脳死は人の死だと思うが、死後の世界は誰にも分からないと思っている。だから、死後の肉体の処理も、 その権利があると思う。私には、人の精神と肉体を分けて考えにくいので、死体の処理も本人が望む通りにしてほしい 3県内男子学生と県内女子学生の比較 Ⅲ問四(図⑨)では、男女とも「いくらか関心がある」が最も多く、次いで「非常に関心がある」が続く。女子で は、この両方の回答で一○○%である。男子も、この両方で九割となる。とくに女子の関心は高く、「非常に関心があ る」だけで四一%にも達している。 ②問五(図⑩)では、男女とも肯定の回答が多い。詳しく見ると、「認めてよいと思う」は男子が相当に多く、両 沖大法学第十一・十二合併号 =一 一 一 ▲
これらの結果から、とくに女子の場合、脳死容認に慎重である傾向が窺われる。このように態度決定に慎重である、
または態度決定を回避するという結果は、以下においてもかなりはっきりした形であらわれている。さらに、女子の場
合、問四や問一四から、この種の問題を男子以上に身近にかつ真剣に捉えていることも窺われるが、そのために慎重に
ならざるを得ないのかもしれない。□
者間にかなりの開きがある。反対に、「認めるべきではないと思う」は女子が僅かに多い。また、「どちらともいえない」も女子が多く、四一%と非常に高い割合である。女子ほどではないが、男子も「どちらともいえない」は約四分の
い」も女子が多/ |に達している。 男子 (% 70 大学生の脳死と臓器移植をめぐる意識 60 50 40 30 20[
10 0 関非関い関あ関ま 心常心く心ま心つ がにがらがりがた ああかななく るるいい 図⑨脳死・臓器移植に対するわからない蝦
〃 関 (% 60 50 40 301
20~liil
10 0 非 どちらとも是 の いえない 死 因 I 認めるべき ではないと思う ⑩ 図 認めてよい と思う わからない --  ̄  ̄ - - - -一一一一四 沖大法学第十一・十二合併号
③問五の①では、男子は1「脳が人間の生命活動の中枢であり、脳死の状態になるとその機能は絶対に戻らないから」、
2「脳死の状態になった人の心臓は『機械で動かされているだけ』だから」、3「心臓や肝臓の移植を可能にする道が
開けるから」の順に多く、これら一一一つの回答以外は比較的少数である。
他方、女子は1「心臓や肝臓の移植を可能にする道が開けるから」、2「脳死の状態になった人の心臓は「機械で動
かされているだけ」だから」、3「脳が人間の生命活動の中枢であり、脳死の状態になるとその機能は絶対に戻らない
から」の順になっており、やはりこれら以外の回答はごく僅かである。この女子の順位については、人助けをしたいと
いう女子に比較的強く見られる心情があらわれているのであろうか。さらに、女子は脳死と臓器移植を結びつけるマス
コミや世間一般の風潮からストレートに影響を受けている面も否定できないように思われる。ただ、移植の目的で死の
定義を変更するとすれば、それはやはり便宜的であろう。
側問五の②および③では、男女とも回答のばらつきが目立つ。この傾向は、とくに男子に著しい。脳死を「人の扉亡
と認めない立場、あるいは脳死を認めることに慎重な立場の多様性を窺わせる。この点は、全学生の分析においても指
と認めない立場、あ乏 摘したところである。⑤問六では、性差はあまり表面にあらわれていない。男女とも「脳死を認める人には脳死を人の死とし、心臓死を
認める人には心臓死を人の死とする選択権を本人や家族に与える」が過半数を占め、とくに女子の場合、六○%に達し
ている。家族や本人の意思を重視するという特徴が明瞭にあらわれている。しかし、これは、法的観点からは死の判断
の相対性を許容するという問題を含む。これに「死は客観的に判断されるべきものだから、同じ状態が人によって『生
きている』とされたり『死んでいる』とされたりするのはおかしい」、「心臓死を人の死と決めた上で、脳死を認める
人には例外的に脳死を人の死として扱う」が続く(男子では両者が同率)。
⑥問七では、男女とも「家族の承諾があれば外してもよい」が多い。ここにも、家族の意思を重視するという問六
の特徴があらわれているように思われる。ただ、率で見ると男子が六一%、女子が四二%とかなりの開きがあり興味深
い。他方、「心臓がとまるまでは人工呼吸器を着けておいてほしい」、「わからない」の割合が女子では相当高くなっ
これらの回答結果から、女子には、決断を回避したいという心理とともに、死が明確に納得できるまで死の受容を遅
らせたいという心理が強く働いているように見える。また、女子は、死をより具体的なイメージ(心拍の停止、死後硬
直、その他)の中で捉えているのかもしれない。、問八では、「本人または家族の意思」が両者とも多い。ただ、男子の割合の方がやや高い。他方、女子では「脳
死についての市民の知識・理解」や「人の死についての慣習や文化的背景」が男子より高率を示している。おそらく、
女子の場合、心臓の停止まで死の受容を遅らせようとする問七の傾向が、ここでもあらわれたためであろう。市民の感
覚・常識からすれば、心臓の停止は死と直接に結びつく。また、慣習や文化的背景からは、心臓死こそが死であるとも
⑧問九(図⑪)では、男女とも「脳死の社会的合意はまだできていない」が一番多いものの、男子は六○%、女子
は七二%と、かなりの開きがある。これをどう見るか。おそらく、女子では、問五で「どちらともいえない」と答えた
層(相当な数に達していた)の多くが、ここで社会的合意の未成立に回っているのではないかと推測される。さらに分
析すると、女子では、問八で指摘した通り、脳死を認めるに際して、市民の理解や慣習を重視する傾向が窺われたが、
いい得る。 ている。 い。他圭 大学生の脳死と臓器移植をめぐる意識 一一一一三移植を肯定しながらも、それが社会的合意にまで達 側加㈹卯⑩鋤、、O していないことを率直に認めているものとして興味深い。 ⑨問一○(図⑫)では、男子では「認めるべきである」、女子では「どちらともいえない」が多い。性差があらわ れている。また、「認めるべきでない」は男子の方が多く、女子は少ない。女子の場合、その少なくなった分が「どち らともいえない」に回っている格好である。問五その他で指摘したのと同様の傾向が見られる。 Ⅲ問一○の①では、男女とも「臓器移植によって生命の助かる人がいるから」を挙げる学生が多い。両者とも、臓 器移植を「愛の行為」として受けとめているといえようか。しかし、すでに全学生の分析で指摘した通り、このような なると思う」(感想欄)。この感想は、脳死・臓器 ば、脳死の人から臓器移植をすることに抵抗はなく これから脳死についてもっと理解できるようになれ と認めることは現在ではまだ難しいと思う。でも、 からいわれても、心臓が動いていたら、死んでいる ような感想を述べている。「『脳死』ですよと医師 ある女子学生は脳死・臓器移植を肯定しつつ、次の る回答が、女子について多数を占めた一因であろう。 い。この点も、社会的合意が形成されていないとす この観点からすれば心臓死の意義も依然として大き 沖大法学第十一・十二合併号
□鰯
膠
まだできていない剛
おおむね できている その他 否 成 わからない の 一息 考慮する 〈□ 必要はない 的 ヘヱ どちらとも 社 いえない 無回答 〈受けとめ方には問題も多い。
⑪問一○の②では、男子では「脳死の判定に不安
があるから」、「臓器売買などの問題が生じるおそれ
があるから」の一一つが多いものの、全体に分散化して
いる。なお、女子では回答数が少ないので、特徴をし
ることは困難である。⑫問二では、男女とも「移植を希望する」が圧
倒的に多い。なお、とくに女子については、その他の
回答として、患者本人の意思に任せるとするものがか
なりの数にのぼる。後に詳しく考察する通り、女子で
決める」の順に多い。は当事者の意思にこだわる強い傾向があらわれている。㈹㈹印仙加加、0
⑪問一一一では、男子では「それまでの本人の考えに
従って決める」が半数近くになってる。続いて、「他人の生命を救えるので提供する」、「家族や医師とよく相談して
女子でも「それまでの本人の考えに従って決める」が圧倒的に多い。ある女子は「このアンケートを受けながら考え
ていたことは、脳死を人の死と考え臓器移植を認めるべきだとしても、最終的にはその本人の意思いかんだと思います。
本人はいやなのに周りがむりやり行なうことになったら、それは権利侵害になるのではないかと思います」(感想欄)
一一一一七 大学生の脳死と臓器移植をめぐる意識 その他 わからない どちらとも いえない 認めるべき でない 認めるべき である 臓器移植の是非 図⑫子は「今回( 身と『臓器》 としている。 ⑭問一三秀 ⑮問一四一 のであろうか。 沖大法学第十一・十二合併号 三一一へ