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仏教福祉 No.01

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Academic year: 2021

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ISSN 1343-02

仏 教 橘 仏

1997年3月

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巻頭言 成 田 水 谷 有恒 幸正

特別対

御 門 主 インタビュー-連載﹁浄土教と福祉 ﹂ 禅勝房の伝える詞にみる ﹁ 浄土教と福祉﹂ : -j i -: : : : -j i -: : : : : : :j i -j i -上田 浄土宗と仏教社会事業への 一 考 察 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 落 合 特集﹁高齢者問題と仏教福祉﹂ 高齢化と仏教福祉 ・ ・. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ・ 島 崎 長寿社会と仏教福祉上回同齢者援助と終末期医療をめぐって l j i -: j i -: : j i -: : : 奈倉 高齢者福祉における活動の可能性・ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ・ 村 上 千 年 ・ ・ ・ 山 宗 士 んU 義 孝 ・ ・ ・ 道 隆 ・ ・ ・ 徳 和 ・ ・ ・ III

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誌上シンポ ジ ウム ﹁ 仏教福祉を現代に問う ﹂ 基調講演﹁法然上人のお心﹂

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-・:大本山増上寺法主 シンポジウム﹁仏教福祉を現代に問う﹂ 藤堂恭俊台下 ・ ・ ・ 研究論文 現代社会に求められる仏教思想 ・ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ・ ・ ・ ・ 金子

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l問 主 主

空基

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提 田 坂 宮 上 現代仏教福祉人物伝 子どもの権利擁護ひとすじ、 田尻玄龍師 ー さ ま ざ ま な 苦 難 を 乗 り 越 え て き た 大 長 老 │ : ・ : : : : : : ・ : : : : : : : : : : 硯 川

編集後記

光 雅翁 ・ ・ ・ 仁 邑 ( 句 ・ ・ ・

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少さ﹂めた布施行

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福祉はどうあるべきか 。 これは 二 十一世紀へ向けて人類に課せられた共通の命題であるはずです。 福祉を 実 施したくとも金がない 。 物資の面でも行き詰ま っ てきた 。 ことに高齢化社会が肥大し、さらには 構造不況が地球上に拡大しているからにはかなりません 。 福祉亡国や倒 産 が現に各国が始まろうとしています 。 あらためて ﹁ 福祉とは何か ﹂ という原点に立ち帰 ら ねばなりますまい 。 その原点ですが、第 二 次世界大戦 以後の五十余年、福祉とは金をパラまく、物を与えることに集約されてきました 。 そこに人間どうしがいた わり合うという。 心 。をどこかへ置き忘れてしま っ たのでした 。 だから受 ける側 は権 利 をのみ主張し、与え 側 は感謝の念を強要する。お互いに身勝手な立場で福祉をとら えてしまう結果を招いてしま っ たのであります 。 福祉とは恵んでやるものではありません 。 使い古した表現をかりれば ﹁ 今日は他 人 の 身 、 でなければなりますまい 。 そこに暖かい 心 がこも っ てくるのであります 。 仏教福祉は失頭に 立 っ てこの原点からの再出発に 心 がけるべきでありましょう 。 明日はわが身 ﹂

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江戸時代の話です。大伝馬町に住む旗本の下女でお竹さんという若い女性がいました 。 彼女はどんな動機 からか不明ですが、三食自分が口にする飯米をすべてお握りにして貧家の子供らに与えてしまうのです 。 そ して、自分は食事を済ませた二家の人々の食器やおヒツ、お釜を洗うとき、洗った水を網にかけ、そこにた ま っ た米飯を食べていたそうです。 ││つねに称名怠ることなく、ついに大往生を遂げしとなり 。 と﹁江戸名所図絵﹂は紹介しています。 彼女は グ お竹知来。と呼ばれて現在、大本山増上寺裏の心光院にまつられており、炊きたての飯米をお握 りにして供える信仰があとを絶たなか っ たと 言 われます 。 洗い流した飯米をすく っ ておのれの食糧とする行為もですが、だいじなのはそのお竹きんを か 如来さま。 としてあがめる﹁心ぶり﹂であります 。 古代インドの仏教の修行僧たちは毎朝托鉢に出かけます 。 鉄鉢にもらい受けた食糧を、精舎に持ち寄 っ て 自分たちが食べる分だけを残してあとは全部貧しい家に配 っ て歩いたと聞きます 。 これが仏教福祉の原 景 でありまし ょ う 。 もちろん現代ではすべてがサマ変わりしていますが、現代なりに お金や物に﹁心をこめる﹂布施行を求められるはずであります 。 ││人の命は食 事 の時、むせて死する 事 もあるなり 。 南無阿弥陀仏とかみて、南無阿弥陀仏と の み入る べ きなり 。 法然上人もつねに仰 ら れています 。 食事を項くたびにひもじくしている世界難民の身の上に思いをのばす べきでありまし ょ う 。

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ノム、 r口'

法然上人にとって、人聞はもともと愚かものであり弱いものである、そしてその生活ははかないむなしい ものだ、というのが立教の人間観であった。これを凡夫ともいう。法然上人のまなざしは一貫してこの九夫 に注がれていた。苦しみ迷い悩む凡夫がどうすれば濁世を安穏に生きぬき、 るか、を説いてやまなかった。これが浄土宗の教えである。仏教なかんずく浄土教の信行に生きる者にとっ 心安らかに往生することができ III ての社会福祉の視座がここにある。 仏教福祉の概念ないしそ の用語の意味がいまだに 一 定していないが、ここでいう福祉とはふつう社会福祉 をさす場合が多い。社会福祉は戦後定着した用語であるといってよい。その内容はこの五十年間、社会状勢 の変化に対応して展開している。社会福祉学においても社会科学の領域から学際分野へと拡大している。社 会科学盛行の時代を反映して、社会科学にもとづかなければ社会福祉学は学問にあらず、という風潮が支配 的であったが、ここ二十年来かなり変容するにいたっている。その一つが、かねてわたくしどもが主張して いた仏教思想、仏教精神による社会福祉である。社会福祉の理念からいっても、また日本の風土に適した社

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全福祉のありかたからいっても、仏教を中核におくことが望ましい。仏教によって社会福祉の統一的な実践 理念を構築することが、ひいては、仏教の社会的実践のありかたを提示することにもなる 。 仏教福祉の 意義 がここにある。 浄土宗の社会福祉はもちろん仏教福祉である。大正時代以来、矢吹慶輝、長谷川良信両師をはじめとする 先覚者たちの活動によって、わが浄土宗が社会事業宗と呼ばれていたことは周知のところである。この伝統 は戦後も根づいていた 。 社会事業従事者が質量ともに優れていたこともさることながら、大正大学や仏教大 学において 研究教育が孜々として続けられており、とくに仏教大 学に日本唯一の 仏教社会事業研究所が昭和 四十年に設置されたことは、仏教福祉の研究とその実践において格段に充実することができた。﹃仏教福祉 ﹄ を第十七回すまで刊行し、斯界に著しく貢献したが、大学内の事情により廃刊のやむなきにいたったことはま ことに残念である 。 浄土宗総合研究所が平成七年度より長谷川匡俊先生をチ

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フとする﹁仏教と社会福祉に関する総合的研 究﹂のプロジェクト研究を発足させ、その成果の 一 部として、ここにあらためて ﹃ 仏教福祉 ﹄ を刊行するこ とになった。欣快にたえない 。宗 門に大いに貢献することであろう。 法然上人の説く凡夫性の自覚にすわりをおく浄土宗関係者の社会的実践のありかたはもちろんのこと、多 くの仏教徒のありかた、さらには社会福祉のありかたについて、本誌が廿一世紀を展望する 一 石を投ずるこ とができれば幸甚この上ない 。

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御門

インタビ

L 長谷川 このたび浄土宗総合研究所では ﹃ 仏 教 福 祉 ﹄ という機関誌を発行することとなりました 。 宗門内はも とよりですけれども、これからの時代に宗外に向か っ て も 、 ﹁ 仏 教 福 祉 ﹂ を ア ピ ー ル し て い こ う で は な い か と い う所長のお考えもあり 編集のお手伝いをさせていただ いております 。 そこで まずは御門主税下よりお話を承 ることができればと、ご無理をお願い申し上げたわけで す 中 村 私は社会福祉の研究室に籍を置いたというだけで その方面については何の造詣もなく、また勉強もできな かった人間ですからご期待に沿うような話はできないだ 応答

中村

康隆

狽下

浄土門主 質 問 淑徳大 学学 長 ろうと思 っ ておりますけれども 。 1 長谷川 いやとんでもございません 。 ところで昨年の阪 神 ・ 淡路大震災や オウム真理教をめぐる 一 連の事件、 さらには近年のいじめの問題 そうした問題をめぐ っ て 宗 教 、 とりわけ仏教などの既成の宗教がどのような役割 を果たしうるのか、今日改めて見直しが迫られているよ うに思います 。 ま た 一 方で、社会福祉の方にいたしまし ても、現在のように政治状況が不安定で 、 経済的にも景 気の低迷という事態が続きますと、 その政治経済状況に 非常に左右される側面があると思うのです 。 そういう時

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にこそ社会福祉を支える価値と 言 いましょうか、 理 今 む の 問題が改めて問われてきているように思うものですから、 このたびの ﹃ 仏教福祉 ﹄ 創刊ということも 一 つの意味が あるように思われます 。 そこで、最初に御門主税下が社会福祉、あるいは、社 会 事 業に関わりを持たれた頃のことなどについて少しお 話をお聞かせください 。 中 村 今、世紀末的ないろんな社会現象が起こっている わけですけれども、特に少子高齢時代と 言 われるなかに あ っ て これからは老人福祉 そして終末を考える問題 も浮かび上がってくるでしょうし、仏教福祉の果たすべ き役割が大きいと思 っ ております 。 例えば 世紀末の原子力の利用の仕方などを考えると これで正しい方向に向か っ ているのか 。 明るい 二 十 一 世 紀を迎えるようにするには、宗教家の活動を待つほかは ないだろうと、 そのように思っておるわけでございます 。 私が社会福祉に関係したというのは 長谷川良信先生

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のお導きなんですけれども、私の中学時分でしょうか 私の師匠の中村弁康が寺に心配 事 相談所というのを作り まして、多くの檀信徒の方々、 一 般の方々からいろいろ 相談を受けておりました 。それを目に しておりましたし また時にはや くざの親方のような方 が大きな企業と対立 するようなことがありまして、大変困って、親父に何と かあの人を信仰に入れてくれないかと、親父がお念仏の 信仰に引き入れました。 山崎弁栄上人や 土屋観道先生 維尾弁 匡先生を呼んでおりまして そういう宗教活動と いうのを これもやっぱり大きな社会的な不安というか そういう要因を除く役割を果たしているということを感 じたわけでございます。 大学からは戦争が激しくなって、親父が増上寺に務め ておりましたので 田舎の寺を守れと命ぜ られて田舎へ 帰 り ま し て 、 一 生 を 田舎の 寺の 和尚で過ごす つもりでお りましたのですが、学制が変わりまして、大学へ戻るこ とになりました時、 長谷 川良信先 生から 社会 事業のほう へ来てくれというお話がありました。社会事業のことは 何もわかっておりませんで、真野正順先生からも是非行 っ てあげてくれという話があ っ たものですから それな ら中継ぎ、中間的なあとにくる人を育てる、適当の人に 譲るまでの問、暫くの間でもお手伝いしましょうという ことで、大 学へ帰りま し た 。大学の 社会福祉の方へ移ら せていただいたというわけなんです 。 その時は、幼稚園も閉鎖されてしまいましたので 私 は幼児保育の増設も出来ず、また今後の僧侶の社会活動 としては福祉とそれから心配事相談所のような そうい 3 う仕事がやっぱり必要ではないかと。 それがカウンセリ ング研究所の創設になったわけでございます。 カウンセリングの研究所を作ったことは決してマイナ スではなかっただろうと私は思っております。やっぱり お坊さんが そうい っ た人事相談 心配 事 相談所という ような﹁人事相談所 ﹂と いう名前だったかもしれません。 そういうものに携わることが、特に、昭和五、六年頃の 世界大恐慌の影響で浮浪 者が大変多くきました。寺にも 何十人食べ物を求めてや っ て ま い りました 。そういう こ

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とを目にしておりましただけに どうしても福祉の実践 に携わる人が お坊さんの中から沢山でなきゃいけない 。 その教育に関係することは大変有り難いことだと思 っ て 関係したのでございます 。 その時、私が 一 番感じましたのは やっぱり社会福祉 というのは人聞の生活の充実ということ、 そこに重点が あるわけですから、 人聞の成長というものは、幼児には 幼 l日 jし

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〉 成長とともに違う対処の仕方があるわけで、人 聞の持つ成長ということ ‘ これにひとつ目をあててみた らどうだろうというようなことを感じて、講義なんかし たこともございます。 特に今日のような事情になりますと いつでも私は社 会福祉というのは人間生活の充実を求めるものであ っ て 社会制度の問題でもなければ、また救貧事業でもなけれ ば、や っ ぱり仏教的な真実に生きるという歓 喜 を沸き立 たせることが福祉の根底でなきゃいけないんじゃないか、 そういう気がいたしまして、長谷川良信先生の教育と宗 教と社会福祉の 三 本柱ということ これは大変有り難い 教えだと思って、今でも感謝しているようなことでござ います。戦争が終わりましてから、自坊でも寺内の幼児 施設を営んだり、民生委員を務めたりして 民生委員は 殆ど二十九年、もう一年で三十年になりますのに、 や め ょうということでやめて 二十九年でございました。と にかく町の人と本当に戦後すぐの時の大変な役割を担つ て、毎日のように飛び回 っ ておりました。それを私も仏 教者としても務めてなきゃならないなと深く感じたわけ でございます。そんなところが私の社会福祉の関わりの 発端と言ったらいいんだろうと思います。 もうひとつは 日本仏教社会福祉学会 それを創設し た 時 、 上田千秋先生なんかに相談しまして つくる発起 人にならせていただいたこと ﹂れも有り難いご縁だと 感謝しております。 長谷川 ご自坊での社会福祉活動更には大正大 学の 社会 福祉の研究と教育に関わりをお持ちになられた経緯です と か カウンセリング研究所のこと、これなど大正大学

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の福祉というとカウンセリング研究所が思い浮かぶほど 充実してまいってきておりますが その基礎をお創りい ただいたお話を承って、改めて大正大学の社会福祉とい うものを見直す機会にな っ たように思います 。 大正大学の社会事業研究室と 言 いますと 日本で最初 に開設された機関であると、こういう歴史的な住置づけ がなされておりますし、 また多くの有為な人材を社会福 祉の各方面に輩出されております 。 そこで、視下がこの 研究室に関わりを持たれ 多くの子弟を育てられた経過 5 などを顧みられたとき、この社会事業研究室のいわば 学 風と 言 いましょうか、 カラ!というようなものについて 何かお感じになられることがあればお話し願います 。 中 村 私は本当に社会事業研究室の発展のためには何の 力も持たなかった人間だと思 っ ておりますが、矢吹先生 長谷川先生、こういう大先輩が本 当 に人聞社会の中心の ものとしての ﹁仏教福祉﹂をも つ ようにと努力された 。 それは大正大 学の長 い 学 風とな っ て、仏教者の社会活動

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というところに根本が置かれていると思うんです。 今度の臨床 心理 学科なんかでも 人聞のパ│ソナリテ ィーや素質と環境との相関関係、 その中でおこる困難な 問題状況 そういうことにメスを当て、真実の生活とい うものを打ち立てようとする。やっぱりその仏教的な生 活建立と 言 い ま す か 、 生き方の建て直しというところ、 そこに大正大 学の 社会事業を出た人々が、社会で活躍し ている流れがあるのではないかと それがやっぱり矢吹 長谷 川 両先生の学風を継いでいるんじ ゃ ないか そんな 風に思 っ ているんでございますが 。 長谷川 そうですね やはり浄土宗の福祉、或いはまた 広い意味での仏教の福祉 その担い手が大正大 学の 社会 事業研究室 また現在の社会福祉 学 科か ら沢 山 育 っ て 今や斯界で本 当 に中心的な役割を担われている方が少な くないと思います。 それが創設以来、脈々と流れる大正大学の学風のしか らしめるところだと改めて思う次第です。 中 村 優秀な社会福祉宗と 言 われたのはや っ ぱ り明治 大正の混乱期 。 そういう中で生活困窮者も多か っ たし 生活問題 そうい っ たものが大きく突出しておりました 。 また本当の未来社会を築く方向づけというものも失われ て お っ たと思うんです 。 そのために仏教者が社会福祉に カを入れること、単に葬式 ・ 法事とい っ たことだけに閑 わるんじゃなくて 生きた人間との接触 その中に宗教

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の生活をうき立てようと そういうところからおこった ものが浄土宗の社会福祉宗と 言 われる所以だろうと思う ん で す ね 。 その大きな流れというものは やっぱり大正大学の学 風として残 っ ているし ﹂れからもや っ ぱ りそれが大正 大学の社会福祉の中心的なものにな っ ていかないといけ ないだろうと思います 。 世紀末の時代になりまして、新しい世紀を迎えるこの 時には、社会的な混乱というものは決して少なくなり つ こないわけで、 そういうわけで、 そういうものにこそ、 本当の明るい未来社会の実現に向かって努力するという こ と これが仏教者に諜せられた福祉の原点ではないだ ろうか。そんなことを思っておるわけです。 長谷川 あ あ そうでございますね 。それ が先ほどの話 にもございましたけれども、特に世紀末のかかえている 様々な難問題に応えて仏教が社会的な役割を果たしてい くということにつながると思うんです。 特に視下のおっしゃられるように、社会福祉というも のは救貧事業でもなければ単なる制度的な整備でもない 。 要するに ﹁ 入閣の生活の充実 ﹂ というところに力点をお いて考えていかなければいけない。 またそれが社会福祉 と仏教を結びつけるところではないかと承りました 。 中 村 本当ですね 。 長谷川 そこで 二 十 一 世紀の少子高齢化社会に向けて 7 寺院や僧侶の果たすべき役割は いろいろあろうかと思 うんです 。 この点について視下のお考えをお聞かせいた だきたいと思います 。 中 村 特に今、物の豊かな時代になってまいりまして 購買心をそそる商法というのが軒を連ねていると 言っ て もいいと思います。そういう時だけに、本当の﹁心の福 祉 ﹂ というもの それが人間にと っ て 一 番大切なものだ 制度によって生活が保障されるよ、勺な国々であっても

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老人の自殺が多くなったりするようなこと、 また社会悪 がはびこっているようなところ、 そういうことを考えま すと仏教者が社会的な奉仕ということ ﹂れは仏様の慈 悲心の実践ということになるわけですから、 そのことを 通 し て 本 当 の 幸 せ と は 何 か そ の こ と を 単 に ﹁ 物 の 福 祉﹂ではなくて、 心の福祉に向かって目を聞かせてあげ ヲ h v ﹀ ﹂ い よ ノ こ ﹀ ﹂ ﹂れが一番の仏教者のこれからなすべき 福祉活動の目的ではないだろうかとそんなふうに考えて お り ま す 。 ﹁ 心 の福祉 ﹂とい 、 え ば 、 大 変 抽象的に な っ てしまいま すけれども、 やっぱりそれは日々生きていく上の、人間 の幸せというものがどこにあるのか、 そのことに仏教者 が関わっていがなければ、 仏様のお慈悲をいただきなが ら生かされている人間としての自覚から遠ざか っ てまい ります 。 それを立て直して人聞のなすべき本 当 のところ は、仏様の心を皆さんに知っていただくことにあるんじ ゃないだろうかとそんなことを思 っ ております 。 長谷川 今のお話の様に 先 ﹁心の福祉﹂という場合 頃の阪神 ・ 淡路大震災で被災された方々の心の傷と 言 い ますか そういうようなものを癒やすという意味で仏教 者はもっと積極的に心のケアに取り組むべきではないか とか、或いはまた やってもらいたいと期待を込めた話 をよく聞くのでございます 。 仏教関係者のボランティア活動というものがあの大震 災を契機にかなり盛り上が っ たことは事実だと思うんで すが では一体被災された檀信徒の方々の心のケアとい うようなところにどこまで関わることができたのか、 そ の点で疑問視するむきもないわけではありません 。 こ の あたりはいかがでございましょうか 。 中 村 やっぱり困難な面にあいますと どうしても﹁物 の福祉 ﹂ の 方 へ と 自 が い く わ け で す 。 そ う い う と き に ﹁心の福祉﹂を説いても何に もならないような、 飢えて いる人にパンをあげることが一番大切だと、 そ の 原 点 、 根本のところに大きな事変にあった人々の 心 はいってい

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るわけですから。そう考えると物的な対応を離れた心の ケアはあり得ないと思うんですね 。 や っ ぱ り目の前の被 害 状況を見極め 被災者のニ

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ズに応じてから 心 の ケ アに触れていく いろいろな 心 配事の相談をしてあげる ということが大切じゃないかと思いますね 。 長谷川 そうでございますね 。 ところで 先ほどのお話 にもございましたように、 浄土宗は社会事業宗と 言 われ たほどに活発な活動を展開した実績があります。 ではそ の輝かしい伝統をどのように受け継ぎ発展させてい っ た らよいものか、宗門の社会福祉事業の将来についてお考 えをお伺い致したいと存じます 。 中 村 そうですね。浄土宗が社会福祉宗と 言 われるよう になった背景は、仏教が葬式仏教だというような点から、 死後のことばかり考え説いているという非難があ っ たわ けでございます 。 それに新しい物質文明が入ってきたその時において やっぱり宗教が現実社会に立ち向か っ ていかなきゃいけ ないんだと それが社会事業宗、社会福祉宗へと浄土宗 を導いたと思うんです 。 今日の時代になってきますと やっぱり高齢 化 社 会に なってまいりましたので タ ー ミナル ・ ケアというか終 末看護というか、 老人の心の友にな っ てあげることが最 も大きいと思います 。 それとともに幼児の育成でござい ます 。 私が戦後 町 の児童愛護協会をつくって、子供会運動 9 をしたり 日曜学校運動をやったりしたのも、 日本の将 来を担うのは子供であって 子供に長く続いてきた仏教 の伝統的な精神、 それを失わせないようにしなきゃいか ん と 児童福祉活動の 一 環として 子供会運動のような ものを興さなきゃいかんというんで興したんでございま す 。 また、今日の社会においては 生涯教育といった方面 に仏教者がも っ と関わ っ ていくべきだと思います 。 例え ば各地に趣味と教養の 二 つを基にした老人大学のような、

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そういった活動を今後していく必要が大いにあるんじゃ ないか。ボーイスカウトとかガールスカウト、幼児教育 に対しても子を伸ばさなきゃいけないでしょう 。 し か し 、 それにもましてやっぱり人生の終末に対しては最も力を 入れて 正しい本当の人生を過ごしてきて良かったとい う喜びの中で老人が生活していけるようなことが大事で あるということが、浄土宗の社会福祉としても重点をお かなければいけない点ではないかと考えております 。 長谷川 ありがとうございます。これからの浄土宗の社 会福祉がどういう方向に向か っ て進むべきかということ についてご示唆をいただきました 。 そこで、私ども浄土宗の社会福祉の将来を考える場合 に、宗祖法然上人が今この現代におられたならばどうな きるかとそういうふうに考えることがあります 。浄土宗 徒の福祉実践いわば根幹を支えている思想とか、信仰、 そういうものを法然上人に立ち返って考えてみなければ ならないのではないでしょうか 。 こんな思いもありまし て、目下我々のプロジェクトで法然上人のご法語を少し ずつ読み進めているところでございます 。 法然上人の福祉思想ともいうべき事柄につきまして、 祝下からご示唆いただければ幸いです 。 中 村 法然上人は本当に それまでの宗教と違って、誰 でもの宗教を説かれた方でございました。誰でもの信仰 誰でもが生まれてきてよか っ たという 喜 びの中で生涯を 送ることができる、 そのことを目指しておられたと思う んです 。 仏様の絶対の慈悲の中に包まれて生きるという こ と 、 そのことを法然様は目指していらしたと思います 。 そういう意味では、浄土宗と社会との結びつきという ものは 社会生活が本当は仏様のお慈悲の中にあるとい 、 っ こ ﹀

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、 そのことに本当に目覚めて、行住坐臥に時節 の久近を問わずと、起きても寝ても仏様の慈愛の中に包 まれて生きるという これがや この信仰を進めること っ ぱり老人の心の福祉を増進する、福祉に目覚めさせる ことになるのではないかと、 そういうふうに思うんです

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ね 長谷川 そうでございますね 。 確かに行住坐臥つまり日 常の生活に念仏の心を心として生きられるような、 老 後 の あ り 方 、 そして高齢者の方々の心の支えになる そ こ に法然上人の御心が生き続けられていけば ﹂んなに素 晴らしいことはないと思います 。 中 村 そこに、宗教活動がそのまま老人福祉につながる 道があると思うんですね 。 それが法然上人のいわれる行 住坐臥 仏様の救いの中に生きる 喜 ぴというのを強調さ れた心に 一 致するものではないだろうかと、 そんなこと を思 っ て お り ま す 。 長谷川 いろいろお伺いしてまいりましたが、最後にこ れまでの繰り返しになるところもあるかと思いますが、 ﹁仏教福祉﹂ないしは﹁仏教社会福祉﹂というものへの 期待につきまして ﹂の間仏教社会福祉 学 会をお育てい ただき、仏教福祉の先頭に立 っ て我々を牽引して下さつ た祝下のお立場からお話を承ることができればと思いま す 。 中 村 仏教の人間観、仏教の人間論というものは案外に 忘れられている 。 仏教では人間というものをその縁起説 からするその実存的把握に立って単に人の間にある存在 ではなくて、蓮華蔵世界の中にある存在だと。そういう 大きなところから、和合と共生という生き方、 ﹂ れ が 説 かれてきたわけでございますから、 11 そういう人間関係の 中心なるものは 人間存在の根底からとらえるという 仏教の人間学、 それを広めていくことですね 。 和合と共生、椎尾先生が盛んに 言 っ た﹁ともいき﹂の 世界、和合理論と共生主義が仏教福祉の中心に見据えら れなきゃいけないんだろう 。 それが同時に 二 十 一 世紀 の宗教の時代を聞く鍵になり指標となるのではないかと いうふうに考えているわけです 。

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長谷川 大変貴重なお時間を、 いろいろ仏教福祉に関す るご示唆を項戴いたしまして、ありがとうございました 。 これから本誌が、宗門の枠を越えて、 仏教と社会福祉を つなぐかけ橋となることができるよう努力してまいりた いと存じます 。 誠に長い時間、貴重なお話をいただきあ りがとうございました 。 平成八年六月十五日 総本山知恩院にて対談 ・ 収録)

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禅勝房の伝える詞にみる

法然上人が伝えた浄土教は、数多くの門弟達によって 記録され、伝授されているが、 そのなか禅勝一房に伝えら れた文 言 は、平易ながらも法然浄土教の本質を捉えてい るひとつと考、えられている 。 梶村昇氏が述べているよう に、馴染み深い多くのご法語が彼の伝えたものであるこ とは衆知の通りである 。 ただ禅勝房自身は、法然上人の 高弟のひとりとして挙げられてはいない 。 むしろ多くの 弟子のなかの 一 人であると いった方が良いかもしれない 。 彼の経歴は、 ﹁ 二十 九歳まで道心をおこさなか っ た 。 ﹂と か ﹁木工を傍らにする大工である 。 ﹂というような断片 的に伝えられた資料のみで判然としていない 。 しかしそ のような資料の中に次の 一 節が見受けられる 。 ﹁上人の座下を辞し 下向の暇を由叩ける時上人京 、 つ と

浄土教と福祉

せんとて、聖道門の修行は、智恵を極めて生死をはなれ 浄土門の修行は、恐療にかへりて極楽にむまると 心 得 べ しとぞ仰られける 。 ﹂ ﹂れは、禅勝房が法然上人のもとを去る際に伝えられ

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た 言 葉である 。 ここに着目したい 。 法然上人自らのこと ばを帰省の際に手向けとして与えられ、 そのことが記録 として残 っ たことばである 。 このような記録は禅勝房の ものだけかもしれないといわれる 。 そこには法然上人が別離を惜しんだだけでなく、自ら の詞を託すに値する 人物であると考えていたとは推測で きないか。そこで、禅勝房の伝える詞を吟味して﹁仏教 への寄与出来得る概念の抽出を試みたく思う 。 福 祉 ﹂ それに関わる ﹃ 和誇灯録 ﹄ の解題や歴史的な背景は、

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既に多くの資料によって判明しているのでそちらを参照 されたい 。 ここでは宗教者が求める﹁仏教福祉﹂ へ寄与 できうる概念 ・ ことばを何故 ﹃ 諸人伝説の詞 ﹄ に求めた かに関して述べたい 。 それは以下のことを考えたからで ある 。 つ は これが法然上人自身の 言 葉をほぼ確実に伝え たものとして位置付けることが可能となり得る点が挙げ られる。当然浄土教と福祉の関わりを法然上 人の 言葉を 通じて考えていく以上必要な条件といえる 。 二 つには、法然上人は、浄土教に関して相手の機根に 応じて その都度適切な 言 葉を用いて、内容が理解でき るように述べていたと考える 。 僧侶をはじめとする高弟 達等には哲学的な思考或いは、専門的な仏教知識を要求 に応じた見解を、在家者達にはできる限り平易で 信 仰 へ の導きとなる教えを述べているごとくである。 そのうちここで注目する ﹁ 浄 土教と福祉 ﹂か らみた ﹁仏教福祉 L に寄与出来得るものは何であ ろうか。高度 な哲 学 や認識論等を展開することではなく、誰にでも平 易に伝えられる言葉でありそれを考察すべきだと考える 。 禅勝 一 房の伝える法然上人の言葉は平易なものが中心で あり、在家者へと伝えられた教えとして考えることが可 能である 。 前述したように、法然上人は浄土教に関して 相手の機根に応じて述べていた傾向がある。禅勝房はそ の経歴が判然とはしないけれど、 むしろそのため僧俗両 方の性格を有するともいえ、 彼の伝える法然上人の言葉 を吟味することに﹁浄土教と福祉﹂ への接点を見いだせ ないかと期待するのである 。 以上が ﹃ 諸人伝説の詞 ﹄ に﹁仏教福祉﹂ のよるべを求め る理由である 。 そ こ で 、 ﹃ 諸人伝説の詞 ﹄ より特に挙げるべき 言 葉と して﹁現世を過ぐべき様は念仏を申されん様に過ぐべ し﹂という一文を挙げたく思う 。 ﹁ ま た い う 。 ﹃ 現在の世を暮らすべき方法は、念仏 がとなえられるようにくらしなさい 。 念仏のさまたげに き っ となりそうであるならば どんなものでも、あらゆ るものの嫌い捨てて ﹂れをおやめなさい 。 いうなれば

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聖の生活をしていて、念仏が申されないらば、妻をめと っ て申しなさい 。妻 をめと っ て申きれないならば、聖の 生活をして申しなさい 。 一 つ ところに定住して申されな いならば 遍歴して申しなさい 。 遍歴して申されないな らば、家に住んで申しなさい 。 自分の力で衣食を調えて 申されないならば、他人に助けられて申しなさい 。 他人 に助けられて申されないならば、自分の力で衣食を調え て 由 ! ? 介 。 支 ﹂ い 。 一 人だけで申されないならば、仲間と 一 緒に申しなさい 。 一 緒に行動して申されないならば 一 人だけで龍も っ て申しなさい 。 衣 ・ 食 ・ 住 の 三 つ は 念仏するための助けになる事柄です 。 こ のことはすなわ ち自身が安穏に念仏して往生をとげるためには、 どんな ﹂ と で も みな念仏の助けとしての行為になります 、 獄 ・ 餓 鬼 ・ 畜生の三途になるべきことをしている身でさ えも 捨てにくいも の ですから 反省し育成するもので す 。 ましてや住生というほどの大事を励んで念仏を申そ うとする身をば、 どうでも、﹂うでも育て助けなければな りません 。 もしも念仏の助けとなる行為と思わないで ﹂の身を食り求めるのは、 三 悪道に堕ちる行為となりま す 。 極楽に往生するための念仏をとなえるために 自 身 を貧り求めるのは 往生を助ける行為となってしまいま す 。 万事このようなものです ﹄ と ﹂ 以上の内容には 法然上人の念仏に関する見解も述べ られているだけでなく、実生活に 即した念仏者 の姿勢が 一 不されている 。 それは念仏という基準によって自己の生 き方がよりよく規定されるように願うことである。梶村 氏はこの 一 文に関してこう述べている 。 15 -﹁衣食住は念仏 の助業である。第一義 ( 自 分 の生涯を かけて悔いのないもの)を生きるための助けとなるべき ものであるという 。 ところが今も昔も同じなのであろう 地 かさかさまに助業が 主 人 公 と な り 、 本当の主 人公はそれ に奉仕されている 。 (中略)しかし本末顛倒するならば ﹂の世の最後に、﹁私は何のために生きてきたのか﹂と いう嘆きを残していくことになるであろう 。 人 生の第 義が衣食住を豊かにするための奉仕であっては、 きはなくなるまい 。 L ﹂ の 嘆

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最後の一文にはこのようにある。﹁もしも念仏の助けと なる行為と思わないで、この身を食り求めるのは、三悪 道に堕ちる行為なります。極楽に往生するための念仏を となえるために、自身を食り求めるのは、往生を助ける 行為となってしまいます。万事このようなものです﹂ (参照原文﹁もし念仰の助業とおもはずして身を貧求す るは、三悪道の業となる。極楽往生の念偽申さんがため に、自身を貧求するは、往生の助業となるべきなり。商 事かくのごとし ﹂と) 。 そこでは念仏を基準とした生き様が勧められている。 そこには梶村氏の指摘するように物質的な欲求に終始す る姿勢に大いに反省を促す 一 面がある。ここには、 現 代 の物質的欲求を常に満たしたいと考える我々に対する痛 烈な批判と目指すべき生き方があるのではないか。 今回は ﹁ 現 世 を 過 ぐべき様は念仏を申されん様に過ぐ べ し ﹂ の紹介に終始した形となったが、法然浄土教から みた福祉の特徴を考えるとするならば、このような在家 の生活に合わせた仏教の見解とそれから得られる生き方 への指針にあるのではないかと考える。 専門的知識を駆使しなければならない哲学的な思想で はなく﹁現世を過ぐべき様は念仏を申されん様に過ぐべ し﹂に表されているような具体的事例に法然浄土教と福 祉からみた﹁仏教福祉﹂ の源泉を求めたく 思う 。そして それらの概念 ・ ことばの中に、浄土門としての我々のす すむべき生き方の 一 つが﹁念仏﹂を機縁として示されて いると期待したいのである。 参考文献 梶 村 同 汁 ﹃ 禅勝 一房(念仏に生きた人 2 } ﹄ 東 方 出 版 、 一 九九四 。 坂本善隆編 ﹃ 法然{日本の名著 5 } ﹄ 中公パ ッ ク ス 一 九八 三 。 注記 石井教道編 ﹃ 昭和新修法然上人全集 ﹄ 平 楽 寺 書 底 、 九 五 五 。 六九六頁 。 2 今回筆者は﹁浄土教と福祉﹂という立場に関して、客観的 な研究としての性絡が要求され、社会福祉学の領域で論じられ

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るべき﹁仏教福祉学﹂あるいは﹁仏教社会福祉学﹂の範鳴で論 じることよりもより宗教性に富んだ﹁仏教福祉﹂として探求し たいと考えた 。 その理由は、ここで浄土教と比較される福祉は、 社会制度としての福祉としてではなく、むしろ人聞の有り様あ る い は 生 き 方 を 考 え た 毛 市 一 一 σ 2 口 問 ( 幸 福 、 し あ わ せ 等 、 宅 包 一 ー σ g ロ聞に関する解釈は数多 く論じら れているが、この場合は精 神的な繁栄と考えている 。)として考えた からである 。そのた め文中で使われる﹁仏教福祉﹂は﹁仏教という福祉(仏教にみ られる人の良きあり方)﹂ということとして用いている。 3 ﹃ 法然(日本の名著 5 ) ﹄三 六 一 ー l 三 六 二 頁。原文参照は

1

7

-﹃ 昭和新修法然上人全集 ﹄ 四 六 二 頁 。 4 ﹃ 樽勝房(念仏に生きた人 2 } ﹄ 七四頁 │ 七 五 頁 。 5 注 ( 3 } に 同 じ 。 (浄土宗総合研究所研究員)

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浄土宗と

教社会福祉への一考察

I はじめに 近 年 仏教社会福祉や仏教福祉への考察が盛んに展開 されている 。 高 齢社会の到来による福祉的課題としても 佐置づけられるタ ー ミナルケア

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へも仏教社会福祉およ び仏教福祉からの研究が成果を得ている。 反面、仏教社会福祉や仏教福祉の語意やその使用につ い て ややもすると不明確なままになされており多少の 混乱も生じているともいえる 。 社会福祉そのものも 二 十 一世紀への 社会的激動のなかで複雑化多様化を余儀なく されており 先行き不透明観が強くなっている。そうし た背景を受けつつ 仏教社会福祉あるいは仏教福祉が社 会的に担う役割はますます大きくな っ てくるであろう考 えられる 。

メ入 口 忠 一 小 士 一 仙 仏教社会福祉および仏教福祉の概念については、社会 福祉の概念と同様に時代 ・ 立場 ・ 研究者などによって幾 つもの定義がなされており 不変の固定的な概念ではな く、時代とともに社会・経済 ・ 政治 ・ 文 化 などの動向や 思想 ・ 価値観などの変化とともに変遅していく社会的、 歴史的概念である 。 仏教社会福祉および仏教福祉の特色 は、仏教徒を中心に仏教精神を内在させながら科学的な 社会福祉実践を指向展開していくことにあると考えてい る 。 したが っ て、浄土宗では、法然浄土教を基軸にした 科学的 ・ 社会的な福祉 実践を宗 門社会福祉と位置づける 努力を重ねて行かなければならない 。 現状の宗内においては 仏教教化と仏教福祉との関連 相違 等につ いての検証も不十分であり、今後の課題も多

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いことと感じられる。 小稿では 以 上のような点を踏まえて ﹁ 浄土教と福祉 ﹂ を究めていくうえで、社会福祉の視点から日本近代社会 事業成立期にその研究 実 践を展開した 宗 門の先達のなか から、渡辺海旭と矢吹慶輝両師に視点をあて その見解 等への再考から 宗 門社会福祉のあらたな方向を見いだす 一 助としたい 。 11 宗門社会事業の系譜 社会福祉とい っ た語意が公で使われるようにな っ て 五 十年の年月が経過している 。 周知のように ﹁ 社会福祉 L は日本国憲法第 二 十五条で

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巧 ゆ 広 角 川 町 民 の 語 訳 と し て使われたのが最初と伝えられている 。 それ以前は 時的には行政用語としていくつかの変選を経ているが、 概 ね ﹁ 社会事業 ﹂ は 一 九 二

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大正九)年頃よりその概 念等も 一 般 化 し 、 研 究実践が展開されてい っ た 。 そ し て 一 九四六(昭和 二 十 二 年 以 降 の ﹁ 社会福祉 L に継承さ れ て い っ たと考えられる 。 仏 教 社 会福 祉を 考察するときも、 仏 教社会事業の語意 および 概 念がいつ頃から提示されたかを 抑 えておく 必 要 がある。また、宗門のなかでどの よ う に 仏 教社会事業の 研 究実践が展開されてい っ たかを踏まえておく 必 要もあ る 。 その考察についてはいくつかの方法があるが 明 治 後半から昭和初期に仏教社会事業への考察を試みた宗門 の先達の研究実践より 仏 教社会事業を再考 した い 。

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渡辺海旭と仏教徒社会事業研究会 仏教社会事業の研究は

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( 明 治 三 十 四 ) 年 五 月 ﹁ 浄土教報 ﹂ 第四 三 三 号に渡辺海 旭 ( 一 八 七 二

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一 九 一 二 三 )によ っ て、社会事業と慈善事業が並列に使用され たことから始まった 。 そ の ﹁ 浄土教報 ﹂ の 書 簡には ﹁ 日 本の今日より将来を 推 す と どうしても 吾 党の士が 一 膚 ぬいで、社会が 健 全の発育を遂げる為、国家に報効する 為、是非とも 社 会事業や慈善事業に眼をつけて項かねば ならない ﹂ と著されている 。 その後、渡辺によ っ て創設された ﹁ 仏教徒社会事業研 究会 ﹂ ( 一 九 一 二 年 ) わが国おいて最初に ﹁ 社会事 lま

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業﹂を冠した団体であ っ た 。 この﹁仏教徒社会事業研究 会﹂は渡辺とともに東京在住の仏教社会事業家有志によ って創設された研究会であり、浄土宗労働共済会にその 事務所をおき活動拠点とした 。 研究活動は毎月 一 回例会 を開催し、﹁知識の交換、相互の懇親﹂につとめ そ グ〉 目的を社会事業の研究調査と事業の発展とした。 渡辺を中心とした研究会が当時において最も社会的に 機能したと評価できる事柄は 一 九 一 四(大正 三 )年六 月に第 一 回全国仏教徒社会事業大会を東京で開催したこ とである 。 この大会には、浄土宗のみならず各宗から仏 教主義の社会事業従事者が多く集ま っ ている 。 大会の開催によって、仏教徒の手により社会事業がど のように運営展開されているかを社会に周知させる契機 とな っ た 。 大会は 一 九 (大正十二年に開催された 第四回大会まで回を重ねている 。 渡辺は、浄土宗労働共済会を活動拠点として、 ドイツ 留学中に得た見識をこの共済会で時代に即した社会事業 の建設をめざし宗派を超越した仏教徒社会事業の先駆的 指導にあたり実践したのである 。 この先駆的指導がのち の宗門社会事業の展開への布石にもな っ ている 。 また ﹁ 現代感 化 救済事業の五大 方 針 ﹂ 一九二二(大正 二 )年 慈善事業から社会事業への分水嶺となる論文を発 表しており、社会福祉史においても高い評 価 を得ている 。 で は 、 (2) 矢吹慶輝と宗教大学社会事業研究室 大正期に入り浄土宗内において、社会状況への対応等 をはかることを 一 目的とした﹁財団法人浄土宗報恩明照 会 ﹂ が一九一四(大正 三 )年九月 二 十六日に設立された。 この報恩明照会が、当時東京帝国大 学宗 教 学 姉崎正治教 授 ( 一 八七 三 │ 一 九四九) の助手としてハーバード大 学 に同行していた矢吹慶輝(一八七九 │ 一 九 三 九)を浄土 { 一 木 第 二 期 海 外 留学生に任命した 。 そして、矢吹に対して 欧米における社会事業の状況視察と資料収集を命じたの である 。 矢吹が浄土宗第二期海外留学生にな っ たのは 浄土宗報恩明照会が社会事業に関心を示した現れである と考えられる 。 この宗門の社会事業に対する関 心 と、矢

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吹自身が楓田本真尼(一八四五

l

一 九 二 三 ) の布施行の 実践から触発され抱いていた慈善事業 ・ 社 会 事業への関 心 が 一 致して その後社会事業研究をおこなう大きな契 機とな っ たのである 。 矢吹が欧米へ留学していた時期は アメリカ社会事業 の成立、専門社会事業の生成期となっており 慈善事業 から社会事業への発展過程とその現状や専門職育成教育 の実態を眼にしたのである。これらが日本 社会事業成立 への欧米社会事業の導入と専門職育成に貢献する事とな っ た 。 矢吹がこの留学を終、えて帰国したのが 一 九 一 七 大 正 六)年 一 月である 。 帰国後は各地で欧米社会事業の状況 に つ い て 講 演 し 、 地方機関 誌にも著述を行っている 。 議 演著述のなかでは 、 当時のアメリカでの

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・ リ ッ チ モ ン ド ( 一 八 六 一 -1 一 九 二 八 ) による慈善からソ

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シャルワ ークへと転換していく動向 のなかで 人々を援助してい く専門技術の発展と体系化への状況も紹介している 。 そして その年の 二 月に 宗 教大学(現・大正大 学 ) に 社会事業研究室を創設(開設は翌年五月)して初代主任 になった。この研究室創設には、矢吹が留学中に収集し た文献資料と渡辺海旭がドイツより持ち帰 っ たそれがと が加えられ研究室の貴重な資料とな っ たのである 。 ま た この時研究室の名称を﹁感化救済事業﹂や﹁慈 善事業 ﹂ではなく 公的教育機関に﹁社会事業研究室﹂ と命名したことは、 当 時の社会状況等を考えても矢吹の 英断であり勇気でもあ っ た 。 ﹁社会事業研究室﹂ の名称 については当時の日本社会事業界の中心人物であった井

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上 友 ( 一 八七一│一九一九)より、社会的背景を鑑み ﹁ 社 会﹂と ﹁ 事 業 ﹂ の 間 に ﹁ 救 済 ﹂ と い う字を入れて ﹁ 社 会救済事業研究室﹂としてはとの忠告を受けた事は よく知られている 。 し か し 、 この忠告を受け入れずに世 に﹁社会事業研究室 L を送りだしたのである 。 こ こ に は 、 矢吹の社会事業に対する一つの信念と、矢吹を支えた渡 辺海旭や椎尾弁匡等の浄土宗内の人脈を感じることがで き る 。 そして、宗教大学社会 事業 研究 室 から多くの 宗 門 社会事業 実 践家を輩出するにつなが っ たのである 。

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矢 吹 に よ る 研 究 は 宗 教 学 者 と し て の ﹁ 阿 弥 陀 仏 の 研 究 ﹂ ﹁ 三 階教の研究﹂ で著名である 。 社 会 事 業 に つ い て は数多くの著述講演録があるが ﹁ 社 会 事 業 概 説 ﹂( 一 九 一 一 六 )﹁社会事業﹂( 一 九 二 七)そして晩年の﹁仏教社会 事業の現在及び将来﹂(一九三三)を代表的なものとす ることができる 。 矢吹の社会事業研究の特色は﹁社会連帯共同の思想﹂ に基づき、先祖 H 自 分 H 子 孫とい っ た家族関係での時間 的連帯を意味した﹁縦の連帯共同﹂と家族 H 近隣 日 地域 H 社会とい っ た、問題を有する者の社会的状況での空間 的連帯を意味した﹁横の連帯共同﹂を基軸にしていると ころにある 。 さらには﹁縦の連帯共同 ・ 横の連帯共同 ﹂ から派生した ﹁ 縦の社会事業 ・ 横 の 社 会 事業 ﹂ の展開を 主張している。これら矢吹の ﹁ 社 会連帯共同 L による社 会事業研究をみると﹁仏教者 ・ 宗教者からの視占じが織 り込まれている事がうかがえる 。 つぎに矢吹の仏教社会事業については、 ﹁仏教社会 事 業とは何か﹂ ﹁何をど のようにすべきか ﹂ 等 に つ い て を 研究課題に掲げている 。 その 一 端をまとめたものが﹁仏 教社会事業の現在及び将来﹂である 。 こ こ で は 、 心 主 物 従 の 教 化 ・ 精神的教化に仏教社会事 業の独自性を求めている。その展開については、寺院の 特殊機能の発揮を促している 。 その特殊機能の 一 つとし ては地域社会との密着した事業展開が可能であることを 示唆している。具体的方法としては、 仏教伝道・仏教教 化はあくまでも内在化させ 対象者への精神的教化をめ ざすことによって魂ある社会事業が築きあげられるとし そこに仏教社会事業の 一 つの特色を見いだそうとしたの である 。 さらに矢吹は仏教の社会的機能を仏教社会事業 に求めており、 そのために寺院その他が仏教を基盤に日 常の生活を営むに諸問題を抱、えている檀信徒あるいは寺 示 に し 参 て つ い た る

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人 対 象 者 への関わりをどうすべきかなどを 矢吹が仏教社会事業を研究展開する根底には、彼の宗 教 学 的視点にもとづく世界的宗教状況を内包しているこ とが伺える 。 さらには、晩年の著作﹁法然上人﹂からも

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法然浄土教の特色の一つを僧俗差別撤廃すなわち平等主 義に着眼していることが理解できる。矢吹は法然浄土教 の平等主義と師僧である矢吹良慶と楓田本真尼から継承 した戒律の社会性を究明しつつ その時代における信仰 のあり様の一端を仏教社会事業実践に求めようとしてい たと考えられる 。 ﹂のような、矢吹の仏教社会事業への視点は、今後の 宗門社会福祉実践を考えていく上での指針となる。した が っ て 、 さらにその詳細について検証を加えていく必要 を痛感する 。 III まとめにかえて 小 稿 は 、 宗門社会福祉、 仏教社会 事業の先達の代表的 師である、渡辺海旭と矢吹慶輝のその研究実践を検証し、 そこから現代への課題を見いだそうと試みる作業の一過 程 で あ る 。 の 宗 よ 門 -) こ, に み ま る と 社 め 会 ら 福 れ 祉 よ ( う

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社 。 会 事 業 思想と実践の流れは次 法然│││近世捨世 ・ 持律僧 │ │ 福田行誠 ・ 矢吹良慶 ・ 楓田本真尼 │ │ 渡辺海旭・椎尾弁匡・矢吹慶輝・長谷川 良信 │ │ 林 文雄・鵜飼俊成 │ │ 現代へ 特に渡辺以降のその思想と実践は、 浄土教 ・ 宗義を基 底とした仏教の一社会実践を仏教社会事業に求めたとい 、 ぇ ト 品 、 7 0 その現代的意義と将来的課題への研究は、二十一世紀 の宗門社会福祉の指針を求めるためにも怠つてはならな し、

ム、 室主 23 -、 王 記 安藤和彦﹁渡辺海地﹂ ﹃ 原典仏教福祉 ﹄ 原典仏教福枇編集 委員会編 北辰堂 大橋俊雄﹁渡辺海旭と仏教徒社会事業研究会﹂ ﹃ 近代浄土宗の社会事業 ﹄ 長谷 川 匡俊編著 相川書房 。 2 大橋俊雄﹁矢吹度続と 三 輪 学 院 ﹂ ﹃ 近代浄土宗の社会事業 ﹄ 長谷 川 匡 俊編著 相川喜 一 房 拙著﹁矢吹慶糠﹂ ﹃ 原典仏教福祉 ﹄

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拙著﹁わが国における社会福祉研究の史的考察﹂ ﹃ 共栄社会 福祉研究 ﹄ 二 号 、 共栄 学 園 短 大 昭和六十一年 。 3 矢吹度輝 ﹃ 法然上人 ﹄ 矢吹輝夫発行 昭和六十三年 。 4 長谷川匡俊﹁仏教福祉再考﹂ ﹃ 日本仏教社会福祉学会 第 二 一 回大会発表要旨集 ﹄ 一 九九六年 。 (大正大学専任講師)

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高齢化と仏教福祉

ここ数年発行されている毎日の新聞で高齢者に関する記事のない日はおそらくないであろう。阪神大震災 後の仮設住宅における高齢者の﹁孤独死﹂は最も耳目の注目する悲惨な出来事だが、それでなくとも介護に 関わる人員 ・ 制 度 ・ 設備施設・栄養、あるいは高齢者の保険 ・ 社会保障、高齢者の心理 ・ 人間関係・レジャ ー、そして最近では介護保険の問題などのニュースまで数え挙げれば枚挙にいとまがない 。この ような一般 新聞紙上に掲載される記事の読者はいうまでもなく広汎なわれわれ大衆であ っ て、連日こうした情報が掲載 されるのはそれだけ高齢者をめぐる問題にたいしてわれわれの関心が高いからである 。 社会の高齢化はいわ ゆる先進国に数えられるわが国で生起した顕著な社会現象の 一 つのであるが、この傾向は長期にわたり加速 度的に強まってくることは明らかである。だが、このような高齢化現象はそれほど以前からわれわれに意識 されていたわけではない 。 わが国で高齢者の問題が﹁老人問題﹂として国民 一 般の関心をひくようにな っ たのは有吉佐和子の ﹃ 悦惚 の 人 ﹄ や深沢七郎の ﹃ 楢山節考 ﹄ などが相次いで発表され、映画化もされた 一 九 六

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年代以後のことである 。 25

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-この頃からテレビでも、 たとえば

NHK

や民放が老人福祉施設での生活の実態を克明に映像に映し出し、 ごく限られた人々だけにではなく、広く国民 一 般に訴えかけるようになった 。 そして一九七 三 年のいわゆるオイルショックを契機としてそれまでの高度経済成長が頓挫し、快適な生活環 境の改善が限りなく存続するという幻想が潰えたのと機を 一 にして、老いの問題の深刻きが一般の日本人に も認識されるようにな っ てきた 。 このような出来事を通じて今度は、多くの日本人が老人の生活の悲惨や醜 態、加齢によるも っ ぱら負の側面を嫌悪と戦懐をも っ て見始めたのである 。 たしかに戦後の経済的な繁栄に よ って極端な貧困や、 ﹃ 楢山節考 ﹄ に見れるような貧困からくる老いの悲惨は、多くの日本人にはもはや無 縁の問題にな っ てしま っ ていた。多くの日本人にはすでに忘れ去られた過去の悲惨な物語というふうに受け 取られていたのである 。 し か し 、 ﹃ 悦惚の人 ﹄ に描かれた老人の﹁ボケ﹂や俳個、あるいはブラウン管を通 して見る老人施設での高齢者の孤独や複雑な人間模様は、相対的に恵まれた社会状況にいると考えていた人 たち、つまり自己の意識としては﹁中流階層﹂に属すると考えていた人口の八

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にも上る人々の不安と、 ほとんど恐怖とも嫌悪ともつかない感情をかきたてたのである 。 人の悲惨な生活のようすを、 それまでの時代には、 それを受け入れざるをえない状況にある人々が、 一 人の人間の長い人生周期におけ る最後の段階を介護し、 看 取るという作業を、何世代にもわた っ ていわば当然のこととして、家庭という枠 の中で順次繰り返しなが ら生 活してきたのである 。 ところが今ゃそうした問題がいわば白日のもとに晒され るようにな っ たわけである 。 活字や映像を通じて送られて くるメッ セージはいずれもが誰に起こ っ てもおか しくない痴呆やアルツハイマ

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症、あるいは死の問題であ っ た 。 また、高齢者を取り巻く生産年齢の世代に いずれ自身にもおとずれるかもしれない不安な体験を予感させた 。 と っ ては厄介な介護の問題であり 老 連

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のメッセ ー ジは平均的な日本人にと っ ては寝耳に水といった一種の衝撃をもって受け取られたのである 。 こ れらは具体的な個々の問題を扱うことで老化に関わる問題をわれわれに提起していたのだが、じつは社会全 体としての高齢化の問題はわれわれがメディアによ っ て気付かされるよりもも っ と早い時期から着 実 に進行 していたのである 。 わが国で初めて国勢調査が始ま っ た大正九( 一 九 二

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年には六十五歳以上の高齢者人口は約 二 九 四 万 人 で 、 この年齢層の人口がほぼ 二 倍の五九六万人になるのが昭和 三 十八( 一 九六 一 二 ) 年 頃 で あ る 。 この間に四十三年 間を要したことになる 。 これとほぼ同じ よ うに人口が 二 倍になる時間枠を後年にずらして見ると昭和五十 ほぽ倍増している。こ れにはわずか 二 十五年を要しただけである 。 さらにそれを老年化指数、 つ まり十五歳以下の若齢者と高齢者 との比 率 で みると、社会の高齢化は想像以上に急速に進行していることが理解される 。先と 同じようにそれ ぞれの時点で指標をとると、老年化指数は大正九( 一 九 二

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年に 一 四 ・ 四%であ っ たものが、昭和 三十 八 ( 一 九 六 三 ) 年 に は 二 二 ・ 三 % 、 昭和五十( 一 九七

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年には 三 二 六 % 、 平成七( 一 九九五)年には八

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・ 四%す ( 一 九 七

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年の八八七万人から平成七( 一 九九五)年の 一 八

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一 万人のそれであ っ て 、 る 。 そして平成 三 十 二 ( 二

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年にはほとんどピークの 一 四 二 ・ 八%に達すると推定されている 。急 速な 高齢化の一方で少子化、つまり出生率の低下が進んでいるからである。このことだけを捉えても、わが国の 人口増加の様態が深刻であることが知られるよう 。 いわゆる福祉六法が 一 応の体裁を整えたのは昭和 三 十八( 一 九六 三 )年だが、その中で老人福祉法がも っ と も遅く制定された。それは当時、他の社会福祉法の整備の方がより急がれたからで、高齢化ないし老人のた めの福祉政策は当時としては現在ほど深刻には考えられていなか っ たからである 。 しかし、それから 一 世代 - 27

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-を経た今日、高齢化社会への移行はその規模と速度において、 とく解決困難なさまざまな課題の湧出が誰の目にも明らかである 。 こうした高齢者の急激な増加とそれによ っ て引き起こされる問題について議論の対象になるのは、しばし ば指摘されているように介護、年金、保険などを中心とした社会負担の問題であろう 。 推計によれば、いわ ゆる生産年齢人口を 二 十歳から六十四歳とすると、現在高齢者 一 人を働く世代五 ・ 一 人で支えているに対 して、平成 二 一 ( 二

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年には 三 ・ 七 人 、平成 三 十 二 (

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年には 二 ・ 三 人で扶養していく計算にな るという 。 多くの場合、も っ ぱら統計的な数値が提示され、問題の深刻さが強調されるのであるが、それは それとしてここで注目したいのは、統計的数値やそれに対応して行なわれる政策的方面のことがらではなく、 むしろそれらによ っ てだけでは対応できないいわば精神的環境に関わる質的な問題である 。 いわゆる欧米先進国の比ではなく、周知のご

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高齢化に関わる統計的な数値は概略先に見た通りであるが、いうまでもなく老人はどの時代、どの社会に もいたわけであり、その意味ではことさら問題にされる理由はないはずである 。 ところが現代、とくに近い 将来﹁超高齢社会﹂の到来が確 実 とされ、高齢化はわれわれの最も関心の高い課題の 一 つにな っ ているのは 何故であろうか 。 その理由を改めて整理すると、まず ① 総人口に占める高齢者の数が急速か つ 大幅に増加す ること 。 したが っ て ② 生 産 年齢人口ひとりあたり の 社会的な負担が増大する 。③ それと並行してとくに医療、 介護などの面で多大 の 人的ならびに物的(技術的、物質的、医療面)需要の急増が予想されること 。 ④ 一 方 で 出 生率 が大幅に低下し、生産年齢人口が減少して、国家 全 体としての生産性が低減し、⑤最終的には国際

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的な競争力が減退するけっか国力の萎縮に繋がることが懸念されている、などにまとめることができるであ ろ 、 っ 。 ここでいくつかの問題が指摘できるが、 一 般的なレベルでいえばわれわれ国民の多くにと っ て、高齢化に よる国家の生産性の問題までもが必ずしも視野に入っているわけではない 。基 本的には飽くまでも諸個人 (本人であれ家族であれ)の問題であろう 。 高齢化への課題は社会的にいえば 主 として生産性と消費のバラ ンスの問題に関わることであ っ て、諸個人の抱く懸念の中心は生産性の低下によ っ て今日まで築き上げてき た繁栄の成果をもはや同じようには享受できない、換 言 すれば現在の生活の質を低下させてしまうことへの 不満や心配である 。 生産性がきわめて低かった時代には、たとえばわが国でも ﹃ 楢山節考 ﹄ に見られるような﹁棄老 L の風習 があ っ たであろうし、 自然の生 活環境がも っ と厳しいエスキモー ( イ ヌ イ ッ 卜)などは、老人をわずかな食

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-料を載せただけでひとりボ

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トで海に送り出す慣習をも っ ていた 。 このような時代、社会では 一 般に、老人 にと っ て苛酷な条件で生活するのは身体的にも精神的にも困難であるし、エスキモーのように移動を基本と した生活様式をもっ、それ自体が生産性の低い共同体全体の維持のためには結果的に手棚足棚にな っ てしま うからである。そこでは家族や親族の愛情とか血縁的な緊密性などは、種ないし族全体が生き延びるために は第 一 義的な属性ではなくなってしまう 。 次の世代を生み育てるために、すでに 一 定の役割を終えた旧い世 代は順次、個体としての生命を終える必要があ っ たのだ 。生産 性のより大きい若い世代を切れ目なく次々と 生み育てる ことが種・族 全 体のためにはどうしても不可欠だった 。 それはそれぞれの個人の領域を越えた共 そこでは個人の意志(家族愛や夫婦愛、親子愛など)は共同体の意志に呑 同体の存続・維持の問題であり、

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み込まれることが予定されていたのである。 その時期に至るまでに老人はそれまで伝統的に伝えら れてきた知識技術、あるいは自身で身にたくわえた知識や経験を次の世代に的確に伝達していく作業を済ま していなければならない。そしてすべての役割を終えた後には、死後の世界ですでにそうした作業を終えた し か し 、 過去の世代の人々と暮らす安住の地があるという意識が、共同体全体の観念として用意されていたのである。 一 般的には浄土や天国という観念がそれであるが、そこでは争いも生活の不安もない永遠の世界で平穏で快 適な毎日が約束されていると考えられた。目前で展開される現実の世界が悲惨と陰惨をきわめるほど、永遠 現世はまさに仮のすがたであり、 ﹁ 苦 ﹂ に満ちた世界 に平穏な世界が強く希求されたであろう。その場合、 というしかなかった 。 その出発の段階から﹁苦﹂を前面に出し、病気、老化そ して死までを誰しもが避けえない事実として終始説いてきた仏教だが、現今の科学 ・ 技術の進歩がもたらし 人聞のライフサイクル全体を﹁苦﹂として促え、 た生活上の無数の利便性は少なくともこうした﹁苦﹂のリアリティをわれわれから遠避け、軽減し、もしく は最も深刻な部分を覆い隠しているかに見える 。 近年の傾向として﹁老い﹂や﹁死﹂がトピックス化してい るが、老の問題を論じるときも、死について語るさいにも、 その根底では﹁苦﹂という認識は必ずしも実感 されているとは言い難い部分があるように思われる 。 死についていえば、従来の日本人が最大公約数的に共 通してもっていた死生観は大きく揺らぎ、死後の人聞が辿る中陰のようすを示し人々の他界観を支えていた ﹃ 十王経 ﹄ などのイメージは、ほとんどの人々には漠然とした希薄な 一 つの伝統的観念にしかすぎなくなっ ている 。 亡くな っ た人々に対して冥福を祈り、遣された者にと っ ては喪失感を慰撫するためのあまりリアリ ティのない物語、もしくは 一 過性の習俗にな っ てしま っ ているのである 。 そうした文脈では、かつて人々に

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