社会福祉活動のチ
l
ムのなかで︑仏教者が高齢者援助にたずさわる機会は多い
︒これにたずさわるために
は︑高齢者の特性を理解することと︑高齢者に内在する健常な力を活用して自立を助長するかまえが大切で
ふ め ヲ
hv︒
高齢者を特色づけるものは﹁老化﹂であるが︑老化は老年期に始まるものではなく︑
二
十五歳ごろから表 面化する自然な身体的変化である
︒
その特徴は︑身体を構成している細胞の数が徐々に減少し︑機能が縮少
残っ ている細胞は健常であり︑これを無理なく活用すれば健康な 生活を営むことができる︒すなわち︑中年以後は食事の量を体調に合わせて減らすとか︑無理に重いものを
もっ
たり速く走
ったりすることをきけながら︑規則正しく身体を活用することである
︒予 備力や防衛力は低
下する︒
そのため︑日ごろしないことを極端にしたり︑身に危険の及ぶことをしたりするのを避けるべきだ ということになる
︒
しかし︑使わない機能は衰えが早いという老衰の原則もあり︑適度の活動は続ける必要
していくことである︒しかし減少しても︑
がある︒
老化で最も重視したいことは︑適応力の低下である
︒
環境が変化したとき︑それに合わせて自己を変えて いく能力が減少する︒そのため︑急に環境が変わると不適応を起こしたり︑不適応を起こすまいと努力する あまり過剰適応に陥ることもしばしばある
︒
不適応が起きると身体の不調や精神の動揺が現れ︑行動が不活 発となったり︑生きがいが失われやすい︒過剰適応の場合は︑表面上は適応し︑問題なく見えるが︑内面に は緊張感がたかまり︑感情の動きが乏しくな
ったり︑自律神経系の失調に基づく身体症状が現れやすい
︒
高齢者援助では︑これらを予防したり︑よりよく適応できるようにすることが大切である
︒そのためには︑
環境を適応しやすく改めたり︑高齢者と環境とのギャップを埋める個別援助が必要である
︒
そして︑高齢者 は自主性をもって生きることを望み︑自己実現の達成に生きがいを感ずることが多い
︒
それを可能にするよ
うに環境を整えることも重要である︒
高齢者には︑長い人生経験に裏付けられた知恵がある︒ものごとを総合的に判断したり︑ものの本質を洞 察する力は︑年とともに深まっていく︒自主的に生きたいと願うが︑それが抑制されたり貫けないときは︑
やむなく依存的になり︑
そうすることによ
って消極的な安定を得ょうとするのである︒
高齢者は︑自主性を重んじて支援すれば︑自発性と協調性がたかまるが︑高齢者の主体性を無視する援助 をすると無
気力で依存的とな
って
しまうか︑協調性が失われていく
︒主体性が無視されるところでは積極
的
に生きる意欲がもてなくなるであろうし︑また︑主体性を無視する人とは協調する気になれないからである︒
仏教福祉の活動としては︑老人ホ
l
ムや
家庭で生活する高齢者に対する相談を重視したい︒相談の対象は︑
生きる意欲を失った人︑︑問題行動をする非協調的な人など多様である︒いずれの場合でも︑高齢者の主体性
・自主性を尊重
し︑残存する健常な力を精
一ばい活用して自己実現がはかれるよう︑支援していくことが解
決の糸口となる︒痴呆症状をもっ高齢者の場合も︑決して異常者とみるべきではない︒知的な機能の低下は
みられるが︑情緒や情操の働きは残っているので︑昔の歌をうたったり︑若い頃から続けている勤行に喜び
を感ずる人は多い︒共に歌ったり︑仏前で一緒に勤行することを通して︑共感の喜ぴを味わうようにしたい︒
‑E l y ‑‑ A v ‑‑ A
転換期に立つわが国の社会福祉
‑ 39 ‑
世界は歴史的な転換期を迎えており︑わが国でもさまざまな面で変化が現れている︒社会福祉も脱
皮するときが来ている︒こうした時期に︑近代思想とは違った仏教思想に基づいて︑福祉活動がすすめられ
ることは歴史的にも大きな意義があると考える︒では︑今後の社会福祉にどのような変化が求められるか︑
いま
︑
仏教福祉との関係で考えてみたい︒
川自発性と協調性に基づく﹁共に生きる福祉﹂の構築
近代社会福祉が発達した欧米は﹁個人﹂を尊重する契約社会である︒これに対しわが国は﹁関係﹂を尊重
するつきあい社会の構造をもっている︒近代社会福祉が﹁自立﹂や﹁人権﹂を重視するのは︑個人の自由を
尊重し︑契約によ
って社会を成り立たせているからにはかならない︒
国際化が進展するなかで︑わが国もつきあい社会のままでなく︑﹁個人﹂や﹁契約﹂を重視する方向に向
かいつつある︒しかし﹁関係﹂を重視するわが国のものの考え方は︑システム論やネットワーキングの思想 に通じるものであり︑今後も大切にする必要があろう︒ 最近︑わが国では﹁共に生きる福祉﹂という言葉が使われるようになった︒共に生きることの根底には仏 教の縁起思想がある︒共に生きるためには各人に自発性と協調性が求められる︒すなわち︑互に助け合って
他者との関係を良好に保ちつつも︑依存することなく自発的に生きなければならない︒従来の﹁自立﹂は自
主独立を意図するものであり︑超高齢者や重度の障害者は目標とし難いものであった︒しかし︑自発性と協 調性はだれもが身につけることができ︑これによって共に生きる福祉を育てていくことはだれもができよう︒ 仏教福祉活動は︑わが国の文化となじむ社会福祉を推進する力となるであろう︒
ω
制度的社会福祉と交流する自発的社会福祉の育成近代社会福祉は︑国民の基本的人権を保障するために︑
方向で充実する必要があろう︒
しか
し︑
公的な制度とする歩みを続けてきた︒今後もその これが潤いのあるものとして活用されるためには︑民間の自発的な 福祉活動が育てられなければならない︒歴史的には︑相互
扶助や慈
善事業として発達をみたが︑今日ではそ
れ自体が孤立して機能するのでなく︑制度的な社会福祉と交流し︑相互に支え合いながら発展していくこと
が望まれる︒ たとえば︑高齢者の心の支援をするボランティア組織が公的な老人ホlムと連携するような場合である︒
ホームは︑これによってホlム自体ではできないような行事がすすめられる︒と同時に︑ボランティア組織
はホ
lムの機能を活用して人材の育成ができる︒こうした相互関係によって自発的な福祉活動を育てること
が望まれよう︒ボランティア活動の原動力となるものは︑自発性と協調性である︒自発性のないボランティ
アは存在しえないが︑協調性を失ったボランティアも社会的な援助力となりにくい︒独善的な活動はかえっ
て他のボランティア活動の妨げとなることが多い︒
この自発性と協調性は︑仏教の二燈明の教えに通ずるといえるのではないだろうか︒二燈明の一つは﹁白
からを燈とせよ﹂という教えである︒他人の命令で動いたり他人に依存して行動するのではなく自主的自発
的に自づから進んで行動することを奨励する教えである︒もう一つは﹁法を燈とせよ﹂という教えである︒
法すなわち仏法の根本は縁起の法であり︑ものごとは相互関係をもって存在するという真理である︒自分だ
けが生きているのではなく︑助け合い支え合いの中で生かされ生きていることを説くものであるから︑自己
中心的になること戒める教えともなろう
︒ 言
いかえれば協調性が奨励されているとうけとめることができる︒
要するにボランティア活動には二燈明の教え︑仏教思想が必要だということである︒仏教福祉はこの面で
も重要な役割を果たすことが期待されよう︒
I V
医療目標の拡大と終末期ケアへの参加
高齢社会では死亡年齢が高齢期に集中するようになり︑死に至る生をいかに充実させるかが福祉の課題と
なった︒終末期ケアは︑従来は医療の課題とされたが︑今後は医療と社会福祉とが共同でとりくまねばなら
ないと考える︒
41
医療もまた転換期を迎えている
︒
従来の医療が治すことを目標としたのに対し︑今日では必ずしも治すこ とにとらわれず︑患者の生の充実をめざすことも目標とされるようにな
った︒
また︑医療のすすめ方も︑医 師が主導するものから患者の自己決定を重視するものに変わりつつある
︒
さらに︑従来は死を考えない医療
であっ
たのが︑死をみつめて末期の生の充実をはかる医療が
重
視されるようにな
った︒これらの転換の特色
はいずれも患者の主
体性を尊重するものであり︑患者がど
のような生き方を望むかということが重視される
︒
従って末期ケアにおいても︑本人がどのような生き方を選ぶかがまず問われる必要があろう
︒
たとえば︑癌の末期において︑患者が何よりも延命を望むならば最後まで抗癌剤を使用し続けることとな ろう
︒
但し薬の副作用などによる苦痛は避けられない
︒
これに対し︑患者が何よりも安らぎと自由を得たい と望むならば︑ホスピス医療を行なうことになろう
︒
ただし不自然な延命は行なわれない
︒いずれの道を選
しかし我国の現状では︑本人の意向が聞かれることはまだまだ少 ぶかは本人が自己決定すべきことである
︒
ないといってよい︒
その理由はいろいろあるが︑第
一に ︑
死期がせまってからの医療は本人よりも家族の意
向が
重視されると
か︑救命処置は医師が主導する
習
慣から︑末期医療も医師にまかせるべきだと考えられやすいからである
︒
第二
には︑死期が近いことを本人には知らせず︑常に治る希望をもたせていることが多い
ので︑大部分の
患者は苦しみに耐えてでも積極的な治療を
受
けなければな
ら
ないと考える
︒そして医師もそれに応ずること
に使命感を感じそのまま治療を続けることになりやすい
︒
たとえ本人が死期
の接近を感じたとしても︑そ
の
ことを明確化してホスピス
医
療を希
望するに
が︑その条件が整わないと本人もなりゆき
第三
には
︑ は勇気が必要であり︑周囲の人びとの理解や支援が必要である
︒