• 検索結果がありません。

龍谷大学論集 430 - 002信樂峻麿「親鸞における現世往生の思想」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "龍谷大学論集 430 - 002信樂峻麿「親鸞における現世往生の思想」"

Copied!
55
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

龍谷大学論集 ・ 第 430 号抜刷 ・ 昭和 62 年 5 月 25 日発行 -- - - -- - -- - -- - -- - -- - -- - --21 親鸞 にお ける現世往生 の思想 信楽 峻麿 -- - -- - -- - -- - -- - -- - -- - -- -一、親鸞に お ける救済をめ ぐ る 新解釈 二、即得往生に関す る 伝統的解釈 1 、 経文の原意 2 、 浄土教 理 史におけ る理 解 3 、 真宗教学 に お ける理解 三、親鸞に お ける 現世往生の主 張 1 、 即得往生の意義 2 、 必得往生 と摂得往生の意義 四、 親鸞 におけ る 現世 往生の思 想的背 景 1 、 龍樹に お ける 現 生 不 退 と 生 如来家の思 想 2 、 法然に お け る 現 生 不退 と決定往生の思想 3 、 証空 に お ける即便往生(証得往生)の思 想 五、親鸞に お ける 現世 往生 の論 理 1 、 親鸞 にお ける信心の意義 2 、 親鸞 にお ける往生 と成仏

(2)

▲ -- - - -- - -- - -- - -- - -- - -- - --一 親鸞に お ける救済をめぐる新解釈 - - -- - -- - -- - -- - -- - -- -浄土 教 と は、 す で に別 に 論 考 し た 如 く (1) 、それ は 基本 的に は、 現 世 今生 におい て 種 々 な る 善 根 を修 め 、 その 功 徳 に 基 づ い て 、 来世 死後には 浄土に 転 生し、そこ に して 更に 自利々 他 の 善 根を 積習して 、や が て 仏 果菩 提 を 聞 覚 し て ゆく と い う道 で あ った。 こ の ような浄土教における行道の基本的構造は、イン ド 、 中 国 、 日 本にわ た る 浄 土 教 理 の 展 開 史に おいて も、ほぼ一貫し て 変容すること はな か っ た。 その 点、浄土教に お け る 証 果、救済という も のは 、主と し て 来 世死後における利益と し て 語られて き た わ けで あ る 。 しかし な がら 、 そ の よ うな浄 土 教に おけ る 救 済に ついて の 伝統的 な 理 解 が 、 親 鸞 に お いて 新し く解 釈さ れ 、 大 き な変化を見た ことは、充分に注目 さ れるべ き こと で あ る。 す な わち 、親鸞は、浄土教 の 伝 統に おい て 、 長く来世死後に お ける 浄土往生の益とし て 語 られ て き た正 定聚、 不 退 転 位に入 る ことを、現世今生 にお ける 信心 の 勝 益とし て 領解したの で あ る 。

(3)

もと より 親 鸞 も、 時に は 伝 統的 解 釈 を 踏 襲 し て 、 正定 聚 を 来 世 の 益 と 捉 え 、 「ま たす でに往生 をえた る ひとも、すなわ ち 正定聚にいるなり 」 ( 一念多念文意) と明かす場合もあ るが、 全 体 的 に は 、つね に 伝統 的解釈 を 越え て 、 それ を現生 の 利益 とし て 領 解 し 、そ の ように主張し た の で あ る (2) 。 そ し てまた 親 鸞 は 同 じ く 信 心 の 利 益 とし て、 信心 の人 を、 し ば し ば 如 来 と等 し き 人 と も 呼 ん で い る 。 この如 来 と等 し と は、も と 『 大 方広 仏華厳経』 ( 音 訳 )巻 60 に、 「此 の法 を聞き て 歓 喜 信心し て 疑い無 け れば、速 か に 無上 道を 成じ て諸の如来 と 等 し 」 ( 大正 9 ノ 788a ~ b) と説か れ る文 に基づい て 主 張したもの で ある が、その原 文 の意 趣は 、聞法修道する者は 、 やがて つ いには 仏道を成就し て 、 如 来 と成ることが で き るという ことを明 か し たもの で あっ て 、 こ の 文に お け る聞 法 、 信 心 と 成仏 との間 に は、時間 的な距 離 が 存 在すると解 さ れるべき で あ ろう。 しか しながら、親鸞 は こ の 文 を 根拠とし て 、 如来の救済、信心の利 益 に つい て 、 信心の人はこ の現生に お いて 、 直 ち に 、 如 来と 等 し き 人 に な る と 領 解 し 、 主 張 し た の で あ る 。

(4)

親鸞にお ける このような思想 は 、 い まだ『教行証 文類』におい ては 明確 化され て はお らず、その著述以後 に お い て 成熟 し て い っ たも ののよ う であ る が 、親 鸞 は ことにそ の晩年 に おい て は 、 こ の こ とを繰返し て 強 調して い るので あ る (3 ) 。 そし て い ま ひ と つ 、親鸞は信心の利益と し て 、 こ の現世に おい て 往 生を 語ること が あ る。 親鸞は、多く は浄土教 の伝統 を 継 承 し て 、来 世死後 に お け る浄土往 生を 明かすの で あ るが、 時 とし ては、 こ の 現 生 に お い て も往 生を 語る ので ある 。 このこと もまた、親鸞の浄土教領解の特色として 特筆されるべきことで あろう。 親 鸞 はいったい何 故に、如何なる根拠によっ て 、 これら伝 統 に おい て 来 世死後の利益と理解さ れていた ものを、現世今生に お ける 信心 の利益と し て 領解したの で あろう か 。 そ の 問題 をめぐっ て は 、す で に 親鸞における救 済 の 性 格、および現生正定聚 の 思 想 、 如来と等しの思 想 に ついて 、 各 々 別に論 考 した の で (4 ) 、い ま は と く にその現 世往 生を めぐって 、 い さ さ か の 考察を試みること とす る。

(5)

▲ -- - - -- - -- - -- - -- - -- - -- - --二 即得往生に関する伝統的解釈 - - -- - -- - -- - -- - -- - -- -1、経文の原意 -- - -- - -- - -- - -- - -- - -- ---親 鸞 が、新しく往生を現生の利 益とし て 領 解 するに 至 った具体的な文証は、 直 接 的 に は、第 十 八願成就 文に おいて 、 「諸 有衆 生、その名号を聞き て 信 心 歓喜せん こと乃至一念せん。至 心 に 廻向せしめたまへり。彼の国に 生 ま れ んと願ずれ ば 、 即 ち 往 生 を 得 て 不退転に住せん」 ( 無 量寿経) と明 かされるこ と に 拠 る も ので ある 。 こ の 文は 、その 当 意 と し て は 、 信心の利益に つい て 、 来世死 後 に お い て 浄土に 往 生し、不退転に住 す る と 説くわけで あ るが、親鸞 は 、 す で に 指摘した如く、正定聚、不退転 に 住することを、信心の人の現生 に お け る 利 益 と 領 解し たわ けで ある 、し た が って 、 そ の 点 から すると 、 こ の 成 就 文 の 「 即 ち 往 生を 得て 不 退 転 に住せん」という文にお け る「即 得 往 生 」と は、不退 転に住するこ と の 前 提 と な る も の で ある以上、当然 に、 ま さ しく 現生に お ける出 来 事と理解せざる を え な いことと なっ て く る。

(6)

もとも と 浄土教にお け る伝統的な 教 理 の 構造 と し て も 、往生 と 不退転地 と は 不 離 なる 関 係 にあった わけ で ある 。 親鸞が往生 を う る ことを現世の利益として 語 った基本 的な根拠が こ こにあ る 。 この 第十 八 願 成就 文 は 、 『 如 来 会 』 に よ る と 、 「他方 の 仏 国 の 所 有 の 衆生、無量寿如来の名号を聞 き て 、 乃至能く一 念 の浄信を発し て 歓 喜 せ し め 、所有 の善 根 廻 向 し た まへる を 愛 楽 して 無量 寿国に 生 ぜんと 願 せば 、願に随 いて 皆 生 まれて 、 不 退 転乃至 無 上 正 等菩提を得ん」 と説かれ て い る、 ここで も 「生ま れ て不退転 」 と 明かされる わ け で 、不 退転 を現生 の 益 と 捉 え るか ぎり、 ここでい う往 生もまた現生の利益と 解釈せざる を え な いこととなる。 とこ ろ が 、こ の 『 無 量 寿 経 』 の サ ン ス ク リ ッ ト 本 に よ る と 、 そ れ に 相 当 す る 文 と して は 、 「たとえ 一たび心を 起すだけ で も 、浄信にと も なわ れた 深 い 志向をも っ て 心を 起すならば、かれらは すべ て 、 無上 なる 正等覚よ り 退 転しない状態に安 住する か らで ある」 ( 足利惇 氏 校 訂 ・ 梵本 大経 43 頁 、 藤田 安 達 ・ 和訳本 108 頁 )

(7)

と明か さ れる も の が そ れ で あ る が 、 ここ で は 不退 転 位 につ い て 説く に、 往生 をう るという 意味 の語 がなく、 この 文 に お け る浄 信 に よ る 不退 転 位 に 安 住 す る と いう 利 益 は、 直 ち に こ の現生 に おい て え ら れ るよ う に も 理解 されるので あ る 。 しかしながら、 こ の文の直後 に おかれ て いる、い わ ゆ る「往覲偈」によると 、 『 無量寿経』に、 「其の仏の本願 力 、 名 を聞 き て 往生せん と欲はば、皆悉 く 彼の 国に到り て 自 ら不退転に致る」 と説 かれ て い る文に相当するサンスクリット本の文 で は、 「わ た く しの 、こ の 卓 越 し た誓 願は 満た され た。 そし て 生 ける 者たち は 多くの世 界からやって くる 。 かれらは すみ やかにわ た く しの も と に 来 て 、 ここで 一 生の間退転しない者となる」 ( 足利惇 氏 校 訂 ・ 梵本大 経 46 頁 、 藤田安達 ・ 和訳本 115 頁 ) と語っ て い る が 、 こ の 文 か らす る と 、 サ ン ス クリ ッ ト 本 に おい ても 、 不 退 転 位 に 住 す る こ と は 、 浄 土 に 往 生するこ と に よって 獲 得される 利益で あ るこ と が 明 瞭 で あ る 。 かくし て 、 『 無量寿経 』 の 原 意 によれば、第十八願文に基づく行 道 に お いて 、正定聚、不退転位に住すると いう ことは、基 本 的 に は、ま さ しく来 世 死後 にお ける浄土 往生 のの ち の 利益 で あ る こ とが 明確 で あ る 。

(8)

▲ -- - -- - -- - -- - -- - -- - --2、浄土教理史に おける理解 -- - -- - -- - -- - -- - -- - -- - -- -こ の ように 浄 土の行道に お いて 、正定 聚 、不退転位に 住するこ とを 、来世 死 後に おける 浄 土往生の利益 として領 解 す ることは、 『 無量寿経』の教説以来、浄土教理史に お いて も一貫し て い るとこ ろ で あ っ て 、中 国浄 土 教 の 曇 鸞 (476 ~ 542 ?) は、そ の 『往 生論 註』 に は 、 「易行道 とは、謂く信仏の因 縁 を 以 っ て 浄土 に生ま れ んと願ず、仏 の願 力に乗じ て 便 ち 彼 の清浄の土 に 往 生を 得る 、仏 力住 持して 即 ち 大 乗 正 定 の 聚に 入る 」 と明 かし、 ま た、 「 心 を 至 して 声 を して 絶え ざら し め て 十 念 を 具 足 して 、 便 ち 安 楽 浄 土に 往 生 を え て 、 即ち 大 乗 正 定 の聚 に 入 っ て畢 竟 じ て退 せ ず 」 と説き、 ま た 、

(9)

「初め に 浄土 に至 る、是れ近相な り 、 謂 く大 乗 正 定聚 に入 る、阿 耨多羅 三 藐 三 菩 提 に近 づくなり」な どと 明か すと こ ろ で あ る 。 また善導 (622 ~ 681) は 、 その『 観経疏散善義』に お い て 、 「 一 生の 修福の念 仏を し て 、彼 の 無 漏 無 生の国に 入りて 、 永 く 不 退 の 位 を 証 悟するこ と を 得る」 と説き、 ま た 『法 事讃』には、 「行 者見お わ り て 心 に 歓喜し終る時に、仏に従い て 金 蓮に 坐 し 、一 念に華に乗じ て 仏 会に到り、即ち不退 を証 し て 三 宝 に入 らん 」 と述 べ、ま た 、 「 極 楽 は 無 為 にし て 実 に是れ精なり。九品ともに廻し て 不 退 を 得よ 」 などと も 明 か して いる 。 また日 本 浄土教の 法然 (1133 ~ 1212) にお い て も 、『 往 生 大 要 鈔 』 に は、

(10)

「 浄 土 門 は、 ま づ この 沙 婆 世 界 を い と ひ す て て、 い そ ぎ て か の 極楽 浄土 に む ま れ て、 か の く に に し て仏 道 を行ず る 也。 し か れ ば か つ かつ 浄土 にいた る ま で の願行 を た て て 往 生をとぐ べ き なり」 ( 法然全集 49 ) と明かす と こ ろ で あ っ て 、 その浄土 とは 、「 不 退 の浄土 」 ( 黒 田 の聖 人へ つかは す御 文 ・ 法然全集 500) 「安楽 不退の国」 ( 逆修 説法 ・ 法然全集 270) 「安楽不退のくに」 ( 法然聖人御説法事 ・ 法然全 集 224) 「 極 楽世 界不 退 国土 」 ( 三部経 大 意 ・ 法然全集 36) などと説く如く に、ま さしく不退転地をうる世界 で あ った わけ で あ る。 そ の 点 、 法 然 にお い て も 、 正 定 聚 、 不 退 転位 に入 る と は、死 後 にお ける 浄土 往生 の 利 益 と し て 理解 さ れ て いたとい い う るの で あ る。 た だ し、 法 然 にお い て は、 ま た 他 面 、 こ の不退 転 位の 利益 を 、 現生 にお い て う る という 理 解 も 見 ら れ る が、 それに つ い て は 改 め て 後に 考察 すること と す る 。 こ の ように来世死 後の浄土往生 に お い て 、不退転 位の 益をう る という こ とは 、迦才 ( ~ 648 ~ ) の『 浄土 論』によれ ば 、浄土には 五 種の転落退堕の悪縁 、 退縁が な い こ とによるという。 その 五種の 退 縁とは 、 「若し西 方に生ず れば、五 の退 縁無き に 由る 故 に 退 せ ざるなり。五 の退 縁と は、一 に 短命多病、 二に女人 あり及び 生 じ て六塵 に 染ま る、三 に 是 れ 悪行 の 人 、謂 ゆ る 悪知識、四に是れ 不善 及び無 記 の 心 、五 に常に

(11)

仏に 値わざる なり、浄 土 の 中 に は 此 の 五 の 退 縁 な し、故に 畢竟じて 退 せ ざ る なり」 ( 浄全 6 ノ 634) と語る如 く で あ る 。 浄土 には、 か か る 五 種 の退 縁がないから、仏道 に お い て 、 ま さ しく不退 転位に住する ことが で き る という ので ある 。 また窺基 (632 ~ 682) の 『 西方要決 釈疑通規 』 に よ る と 、 「ただ浄土 に 生 ず れ ば 、五 の勝 事に逢う。一 には長命 無病、二には 勝侶に 提 携す、三には 純 正 にし て 邪 な し、四には唯浄にし て 染なし、五 に は恒に聖尊に事う、 こ の五 縁に由る故に不退を う る」 ( 浄全 6 の 599) と説 く如く、浄土 には 五種の 善 縁、勝 事 があ るゆ えに、ま さしく不 退転 位に住する こ とが できるというの であ る 。 か く して 浄土に 往 生すれ ば 、こ の よ うな 五種の 退 縁 が な く 、 ま た 五 種の善 縁 が あ る ゆ えに 、仏 道に おけ る 正 定 聚、不退 転 位 に住 す る という勝 益が えら れる という わ け で あ る 。 その 点、 こ の 不退転位とい う こ とが、浄土往生の利益とし て 、 往 生 と不離にし て 語られるとこ ろからすれ ば、第十 八願成就文にお け る 「 即 ち 往生 を得 て 不 退転 に住せん」という 文の「即得往生 」 とは、その原意 におい て も、またそ の 伝統の教 理 解 釈 に おい て も 、ま さしく来世死後 に おけ る往生 を 意 味 し て いた ことは 明瞭 である 。

(12)

しか しな が ら 、 親 鸞 に お い ては、 そ の 往 生 と 不退 転 位 に入 る こ とが 、 と もに 現世 にお け る 利 益 とし て 領 解 され た わ けで ある 。 ▲ - - -- - -- - -- - -- - -- - -- -3、真 宗教学にお ける理解 -- - -- - -- - -- - -- - -- - -- ---とこ ろ で 、こ の第 十八願成就文の 「 即得 往生」に 対する親鸞の 領解をめ ぐ っ て 、 伝 統 の 真 宗 教 学に おい ても 、種 々 に 考 究 さ れ てき た と ころ であ っ て 、 そ れ は 直 ち に 現 世 に お け る 往 生 を 語 っ た も の で は な く 、 あ くまで も 来世死後に往 生 を うべき 身に定 ま るこ とを意味す る と理解する説と 、 こ の 語は まさし く 現 生 の利 益を 明かすもの で 、それ は 現 世 に お ける往生を意味すると理解 する説の、両説が分かれ て いるの で あ る 。 前者の、来世 死後に往 生をうべき 身に定 ま ると いう説に つ い ては 、鳳 嶺 (1750 ~ 1816) の 『 愚禿 鈔顕心記』 に、

(13)

「 い ま だ 現 法をえ ず と い えど も、預 め そ の 法を うる を法前得と 名 づ く 、い まだ 往生 をえず と いえど も 、定 ん で 往生をうべき 身に定 ま らしむるを 即 得 往 生と いう 。 然 れ ば 則 ち 、 預 め う るを得と名づ くに 妨げ なし 。( 中 略 ) 爾れば 則 ち 、 即得往生の義を 立 つと いえど も 、 ま ったく捨此往彼蓮華化 生の定 則 と違わ ず 、 僻 覚の徒 、 摂取 光 中 に 生 きるを 即 得往 生 と 名づ くと いうは 、 妄 解 の甚しきな り 。是れ 即 ち 祖 釈の 告げる 往 生の字に 詳 か な ら ず して 、こ の 妄 解を なす の み 。 秘 事 の 徒こ の義 に つ いて 妄 談 す る こ と 多 し と い う」 と主 張 す る と ころ で あ る。 また 沃 洲 ( ~ 188 4) の『宝 章 綱要』には、 「 得 とは 、 此 に逮得、 決 得 の 二 義 あ り 。 此 中、 逮 得 往生 は当 益な り、 決得往生 は 現 益 な り 。 今 は決得 の 義、 故に 『 証 文』に曰 く「正定聚の位に つ き さ だ まるを、 往生をうとはのたまへ るなり」と。往生の二字は、 往 生 彼 国 な れ ば 当 益 無 論 な れ ど も 、 得 を 決 得 とす るが 故 に 之 を 現 益 と 談 ず 」 ( 真叢 1 の 109) と明かし て い る。 そして ま た、 こ の ような 理 解 は 、今日に お け る伝統的な真宗教 学 の 主流をなし て いるもの で も あっ て、 普 賢大円の『最近の 往生思想をめ ぐり て 』 に よ れば、

(14)

「 こ れは何れも本願成就文の 「 即 得 往生住不退転」の解釈 で あ る。 こ の即得往生を解釈し て 、 それは現生 信 一 念に正 定 聚 に 定ま る こ とだ と言う て いる のであ る 。即 ち 即 得往生 に よっ て 、 正 定 聚 を 解釈したの で は な く 、 正 定聚に よ って 即 得 往 生 の 解 釈を し た ので あ る 。 若 し 即 得 往 生に よ っ て 正 定 聚 を 解 釈し た の なら 、 正定 聚 に 住す る こ とは 往生を 得 るこ と だ と し て 、 正定聚 を 往生と 名 づけるこ と も 出 来 る が 、今はその 反 対 であ る 。 正 定 聚 に よ っ て 即 得 往 生 の 解 釈 を し てい る の であ る。 し か る に 正 定 聚 と は 、 正 し く 往 生 浄 土 に 決 定する聚類 と いう こと で あ るから、 即 得 往生 は往生 に 決定するという こ と に ならねばならぬ」 (34 ~ 5 頁 ) と 述 べて 、 即 得 往 生と は 、 い か なる 意 味 に お いて も 、 現 世 に お いて 往 生 を う る こ とで は な く 、 そ れ は た ん に、来 世 死 後 の往生が 決定す る ことにほ かな ら な いというの で あ る 。 そ の ような見解 は 、神 子上恵龍も 主 張すると こ ろ で あ っ て 、 「宗 祖の撰述を考察し て 見 る と 、往生の二字は あ くま で 捨 此往彼の 義 に 理解され て お り、正定聚とか即得 往生 という こ とも、 こ の往 生 の 根本 義に基い て 「 往 生 に さ だ ま る」 と い う 解 釈をとられ て いるの で あ る 。( 中 略 ) 一念 多念 証文 など に 「 往生を う 」と あっ て も 、 前 後の文を よ く 読 ん で 見 る と 「 さ だまる」と い う義に 解す べ き で あ る 」 (往 生 浄 土の 問 題 ・ 龍 谷 教 学 第 五号 ) と 語 って いる とこ ろで ある 。 以上 いずれも、 こ の即得往生 を 解 す るのに、それは現生 に おい て 来 世 死 後 の 往生が確定した こ とを意味す る も ので あっ て 、 直 ち に 現 世に お い て 往 生を え た と い う こ と で は な い と い う ので ある 。

(15)

今日に 至 る伝統教学の 主流は、 おおむねかかる立場に立っ て い るわけで ある。 しかしながら、また他面、古く から この 即 得 往 生 を解釈するのに、現 世 今生にお け る 往生 を意味すると 捉え る 説 が あ る 。 すな わち 、道隠 (17 4 1 ~ 1813) の『 仏 説 無 量 寿 経 甄解 』 に よ る と、 「 此 れ ら の 祖 誥に 拠ると 、 即の 言には 二 義を 存す 。 上に 向 え ば 、 則ち 聞 信 同時 に 往 生の 益 を う る を あ らわ す 。 真因業成の故に、摂取不捨の故に、時日 を隔 て ず 一 念 同時に往生をうる。 異時に あ らざ る こ と秤 の 低 昂の時の 如し。 一念 同 時 の 中 に お いて 生 滅 あ り 、 故 に 前 念 命 終 後 念 即 生と い う の み 。 また下に向えば、則 ち 即の言は 即 位 の 義 を あ らわ す。 不退正定 聚こ れそ の位 なり。

(16)

不退 位に住するをもって即得 往 生 と あ ら わす。 い わ く 往 生 を うるとは、 こ の穢身をす て て 彼 の 蓮 華の中に化生するをいうには あらず。 主因す で に成ず、かの当果に お い て 不退の分位を即得往生 と い うなり。 (中略 ) これらの詩文、 み な 真 因 決 定の時を即 得 往生 と説くなり」 (巻 13 )と 論じて い る 。 また 円月 (1818 ~ 1902) は、そ の 『 宝 章 論 題 』 にお い て 、 「即得往生の言が即 ち 往 益成 弁を顕す、之に依っ て 往生 の語自 ら 現 生 に通ず、現生 摂取住正 定聚 を名 けて 往生 とす 。( 中略) 三 有生 死 の 因 亡 じ果滅するを往生 とい ふ 。 摂取の 心 光に入っ て 仏 智に契当するを生 とす 、 これ は現生 に 約 す る の 義な り 」 ( 真叢 1 ノ 112 ) と明 かして い る 。 何れ も 即 得 往 生を 解する の に 、 それ が現 生に おいて 往 生を うるこ と を意 味すると い う ので ある 。 そし てこ のような理解は、 ま た 今日の親鸞理解に おい て も 見られ る もの で あ る 。 すなわ ち 、 曽 我量 深は その『正信念仏偈聴記 』( 攻究)に おいて 、

(17)

「 信 心 を 獲 て 、新しい生活をする。その生活を 往 生というの で あ る 。 何も 死んで か ら ― ―と いうので は あ り ま せ ん 。 信心を獲たときに、 ち ゃ ん と決定 往 生の 生活をする。 決定往生 という こ とは、 い つ死 ん で も往生間 違いない という こ とが、 決 定往生 だ という の で は あ り ま せ ん。 決 定 往 生 と い うこ と は 、そ んな 非 常 意 識 で も って 表わ さ な け れ ば な ら ぬ と い う も ので は あ り ま せ ん 。 往生 は通常意 識 で も っ て 理 解し て い くべきものだと思い ま す 。 非常 意識で も っ て 理解し て いくのは 、方 便化 生の往 生 で し ょう。 方 便 化 生 の 往 生は 非 常 意 識 で も って 領 解 す べ き も ので あろ うけ れ ど も 、 真 実 報 土 の 往 生は 日 常 の精 神生 活 、 この 日常 の 精 神 生 活 と い う と こ ろ に 往 生 があ る。 それを「心す で に 常に 浄 土 に 居 す」 とお おせられるので あ る 、 と 理 解し て 差 支えな い と思 います。 (中略 ) われ われの信心の生 活 、 仏 法 の 生 活 、ほ ん と う の 喜 び の生 活、 明るい生 活、そ れ を往生 と いう。 だから、 ここ か ら ど こ かへ行く というようなもの ではな い のでし よ う。 常 に 身 は 娑 婆 世 界 に居 る け れ ど も 、 心 は 娑婆 世界 を超 越し てお る。 往は 超 越 を あ ら わ す 。 この 身 は 煩 悩 の 身 で あ りま す る か ら し て 、 こ の 娑 婆 世 界 に お る 。 娑婆世界 にお っ て も、心はちゃ ん と 超 越 し て 、そうし て 心 は浄土 に 居るのである。 心が常に光の世界 に躍動 し ている、そういう生活 を往生浄土 と いう のである 」 ( 曽我選集 第 9 巻 275 ~ 6) と述べ て い る 。

(18)

浄土往生 とは、明らかにこ の現 生 の 心に おい て 成 立するもの で 、信 心 の 生活、仏法の生活を、往生 という と主張する わ け で あ る 。 また 上 田 義 文 も 、 そ の 論 考 「 親 鸞の 往 生 の 思 想 」 に お いて 、 「こ の 経 文 の 「 即 得 往 生」は、 正定 聚の 位 に つ く こ と を意味し て い る の で あ っ て 、滅度を証することを意 味して い るの ではないという こ と は 、 こ の 解 釈のいうと お り で ある、し か し こ こ で 注 目 す べきことは、正 定聚の 位 に さ だま る こ とを「仏が経の中 で 、 即 ち 往生 を 得 とのたま へり」 と、親鸞が考 え て いた という 事 実 で あ る 。 往生とは 此土 に命終し て彼 土 に 生れること、或いは滅 度を 証する こ とで あると い う見 解に 立 つ かぎ り、 正 定聚の位に つ く こ とを 「往 生 を う」とは 言 わ れ ない。 しか し現 に仏は 経 のこ の箇処で 正定 聚の位に つ く こ と を 「 即 ち 往生を う」と 「のたまふ 」 て い る。 この事実 を親鸞 は 見逃がさなかった。 正 定 聚の位についた こ とは、 信 心 を 得た こと で あ っ て 、そ れは往生 する (減度 を 証 す る) ことに定ま る こ と で あ る が、 この正 定 聚の位につ く こ と が、 ま た 、仏 によ っ て 「往生 を う」 と言 われてい るという ことを 親鸞は鋭 く 注 意した。

(19)

滅 度 を証 する ことのほ かに、正 定 聚 の 位 にさ だま る こ とも 亦「往生 す る 」と 言 わ れ得る こ とを、 こ の経 の 文に よっ て 親 鸞は 知 っ た 。 経文 の「即得往生」を 親鸞は そ の ま ま素直に受け 取っ て 、 正定聚の位に つく こと も亦「往生をう 」 と言っ てよ い と 考 え る 。 (中略 ) 滅度 を証 す る ことだ け でなく 、 正定 聚の位につく ことをも 「往 生を う」 と言う 思 想 は 、非 常 に 重 要な、浄土 教 思想 史 に お け る画期 的 な 、 思想 を顕 わ し て お り、あ る 意味 では親鸞 の思想 の 核 心 が こ こに顕 われて い ると も言える。 現生に お い て 、生きて い る まま で 「 往生をうる」と い う こ とは、 イ ンドから 中国を経 て 、 日 本 の法然 に 至 るま で、未だ か っ て言 わ れ な か った こと で あ る。 それ を親 鸞 は あえて 言 おうと す るので あ る 。 親鸞 には、そ れを敢 え て 言 わねばな らない何ものかがあ っ た と 見ねばな らない。 そ の 何も のか は、彼が臨終の 立 場 を 捨 て て平生 の 立 場 に立 った こと と 結 びつい て お り 、そ れはまた正 定 聚 の信心が、真如一実 と 言 わ れ て い る ことや 、 必至 滅度が涅槃 で あ る とい うこととも結びつい て いるの で あ る」 ( 親 鸞 教 学 第 13 号)

(20)

と 明 かし て 、 親鸞 はこの即得往生 を 解 す るについ て 、 現生 におい て もま た 往 生をう る ことを認め て いた と 語っ て い る 。 以上 、親鸞における 即 得往生の解釈をめぐっ て 、 伝 統 教 学 および今日に お け る親鸞理解につい て 、 それ はあくま で も 来世死後 に往生 を う る ことに定ま る ことを意味す る も の で あ っ て 、 直 ち に現生 で 往生 を う る ことをあ ら わ すも の で はない と す る 見解 と、そ れ は文 意の如く、直 ち に 現世に お い て 往生をうることを意 味 す る も ので ある と す る 見 解 の 、両 説 が あ る こ と を 見 て き た が 、 次 いで 親 鸞 の 原 意 趣 に つ いて 考 察 す る こ とと す る 。 ▲ - -- - -- - -- - -- - -- - -- - -- ---三 親鸞 におけ る 現世 往生の主 張 -- - -- - -- - -- - -- - -- - -- - --1、即得往生の意義 -- - -- - -- - -- - -- - -- - -- - -- -親鸞 が、 この 第十 八頭 成 就 文 の 即 得 往 生 の語 に つ い て 注 解 し て い る 文 は 二種 あ る 。

(21)

そのひと つは 『一念多 念文 意』 に お ける もの で 、 次の 如く で あ る 。 「 即 得 往 生と いふ は 、 即 は す な わ ち と い ふ 、 と き を へ ず 日 お も へ だ て ぬ な り 。 ま た 即 は つ くと いふ 、 そ の くら いにさだまり つくといふこ とばなり。得は うべき こと をえ たり とい ふ、真実 信心をう れば、 す な わ ち 無碍光仏の御ここ ろのう ち に摂取し て 、 す て たま はざるなり。 摂はおさめたま ふ 、取はむかへとるとまふ すなり。お さ め と りたま ふ と き 、 す な わ ち 、 とき日おもへだ て ず正 定 聚 のく らいにつ きさだま るを、往生 をう とはのたま へ る な り」 そ し て 、 いま ひと つは 『唯信鈔文意 』( 専 修 寺 蔵 真蹟 本)の 次 の 文 で あ る 。 「即得往生 は、信心をう れ ば すな わち 往生すとい ふ 、すな わ ち往 生 す とい ふは、不退転に住するをい ふ 、 不退転に住すと い ふは、すな わ ち正定聚のくらいにさ だま るとのた まふ御のりなり。 これを即得往生 と は まふ す な り 」 はじめの 『一 念多 念文意』の文 は、 即得往 生 の 語 を 説 明す るにつ い て、ま ず 即 の 字を注解 し て 、そ れ は 即時 と し て 極 め て 速い 時間を意 味するこ とと 、 ま た 即 就として 位に定 ま り つ くと いう意 味 が あ る こ とを示 し 、 次に 得の字を 注解し て 、それは うる べき 目的を 、 すで に し て え たと いうこ と を意 味すると 明 か し て い る。 そし て そ ういう即 得の字解 をう け て 、 真 実の 信心をう るな らば、即 時に如来 の大悲の心 に 摂取されるが、 またそ れ と同時に、正 定聚の位につ き 定 ま る のであっ て 、 その ことを指し て 、 釈 尊は往 生 を う ると申し て

(22)

いられる 、と 説 い て い るので あ る 。 その 点か らすると 、親鸞はここで は 、即 得往生を説 明 するに つ い て 、結論的には「 正 定聚 のくらいに つ き さだ まるを 往 生を う」るこ と だ と 理 解し て い たこ と が 知られるわけで あ る。 の ち の『唯信鈔文意』の 文 は、 こ の 即得往生の語を説明するについ て 、 それは信心をうるならば、すなわ ち往 生 す る と い う こ と が で き る 。 す な わち 往生すとは 、 不退転位に住す る と い うことで、不退転位に住するとは 、 す な わ ち 正 定 聚の位に定 まる と い うこ と を 示 さ れ た 教 書 で あ る 。 この ことを即 得往 生 と い う の で あ る 、 と 明 か す の で あ る。 その点からする と 、 親 鸞 は ここでは、即得往生 を 説明 する に つ い て 、「 信心をう れば すな はち 往生 す」るの で あ っ て 、 そ のことを不退転位に住し 、 正定聚の位に定 ま ると もいうが 、 こ のこと を 即得往生と も いうと 、 領解 して い た こ と が う か が わ れ る の で あ る 。 ただし、 こ の 『唯信鈔文 意 』 の 文につい ては、別本の 『真 宗法 要 本 』によ る と、その即得往生 とは、 不 退 転の位に住することと 正 定 聚 の 位に定 ま ることのほかに 、 さ らに 「 成 等正覚 と も い へり」 と 明かし て いる 。 ここではこの 等正覚、すな わち 等覚を成じ て 弥勒菩薩 と 同 じ位に至 るという ことを附加して 、「 こ れを即得

(23)

往生 とい ふ な り」と説 い て い る の で あ る 。 また 別に 伝承 さ れ た奥 書を 異に す る 『 光 徳 寺 本 』 に よ る と 、 「 即 得 往生は 信 心を うれば す なわち 往 生すと い ふ 、 住不退転は正 定聚の く ら い にさ だまると のたま ふ御 の りなり、 これを即得往生 と はまうすなり」 ( 親鸞 聖人全集 ・ 和文篇 193) とあっ て 、 こ こ で は即 得往 生 と は、 信 心 をう れば すな わち往 生 す る とい う こ と で あ る 。 住不 退転とは 、 正 定 聚 の位に 定 まるこ と を 説 か れ た 教 書 で ある 。 これ を即 得往生 と も い う の で あ る と 、 ま ことに簡明 に 語 っ てい る。 ここ で は きわ め て 明快に、即得往生とは す な わち 往生するこ と 、住不退 転とは 正 定聚に入るこ とで 、その ことを即得 往 生 と はいう と 、説明し て い るの で あ る。 この『 光 徳 寺 本 』 の 文 につ い て は、 充分に注 目 す べ き で あ ろう 。 以 上 の『一念多念文意』 お よび『唯信鈔文意』に お け る、即 得 往 生 につい て の親鸞 の 注解 の文を、 その 文言にしたがっ て 忠実に読むなら ば 、 そ こではきわ め て 明 確に、現世今生にお け る往 生 を 語っ て い るとい わ な けれ ばな ら な い で あろ う。

(24)

伝統教 学 の 主 流 に お い ては、 こ れ ら の 文 言を 、そ れ は 「往生 を う る 」 こ とでは な く 、 来 世 死後 に「往生 を う る こと に 定 ま る 」 こ とを意味すると解釈するの で あ るが、それが文言に忠実 で な く 、 ま っ た く 誤 ま っ た 読み 方で あるこ と は 、 文に し た がうかぎ り 明 白で ある 。 そのほかに親鸞は、この 即 得 往 生の 語を用いると ころがあ るが、 そ の ひ とつ は『愚禿 鈔』に、 「 本 願を 信 受 するは前念命終なり。即 ち 正定聚の 数に 入る ・文、 即 得 往 生は 後念即 生 なり 。即の時に 必 定 に入る、また必 定菩薩 と 名づくなり・文」 と明かすもの で あ る。 この文 の 中 の 「信 受本 願即 得 往 生 」 と は 、 第 十 八 願 成 就文を要約した も の で 、上に 引 いた『唯信鈔文意』 の「即得往生は信心 を うればすな わ ち 往 生すとい ふ」に 相 当す る 語 で あ る。 また 「前念 命 終 後 念 即 生」 とは 、善 導の 『 往生礼 讃偈 』の 前序の 文 で (5 ) 、その原意は 、浄土 に 往生する様 相に つい て 、臨終捨命におい て 、前の念に現身娑婆の生命 を 終 え て 、後の念に浄土に化生すること を語っ たもの で あ る 。 また「即 ち 正定聚の数に入る」とは、曇鸞の『往生論註』 の 冒頭に、

(25)

「仏力 住 持し て 即 ち 大 乗正定の聚に入る」 と明 かす 文に よる もので 、 親鸞はこ の文を 、 『行文類 』 に 「 入 正定 聚の数」と 取 意 引 用して い る 。 また「即 の 時に必 定 に入 る」とは、龍 樹の『十 住毘婆沙論』の『易行品』 に、 「 人 能 く 是 の 仏の 無量 力 功 徳 を 念 ず れ ば 、 則 の 時 に 必 定 に 入 る 」 ( 大正 26 ノ 43a) と説 く文に 基 づ く もので 、 親 鸞 はこ の文を 『 行 文 類』に 引 用して い る 。 また「 また必定 菩薩と名づ く なり」とは 、 同じく『十住毘婆沙論』の『地相品』 ( 大正 26 の 26b 以下 ) にお い て 、初地の 菩薩を「必定 菩薩 」 と 呼 ぶ こ と に基づ く もの で 、 親鸞は そ れ に 関 す る 文 を 、 『行文類』に 引用 するとこ ろ で ある。 かく し て こ の 文 は 、 善 導 の 「 前 念 命 終 後 念即 生 」 の文 を 、 ま っ た く 現 生 の 出 来 事 とし て解釈 し 、 そ れ を 本 願値遇の信 の 一 念 に対 応せしめ て 語 る も の で 、 本 願 を 信 受 す るとき、信 益 同 時 とし て 現 世 に おい て 往 生 の 勝益 を う る が 、その こ とは 、 前 念 命 終 後 念 即 生と いう構造を も つもので あって 、 その信益 同時を、 あ え て 分解し て いえば、本願信 受 と は 、前念にこ の 迷妄の生 命を 終る こ と で あ り、 即得 往生とは 、そのこ とに 即 して 、 後 念 に 新 し い 如 来の 生命 に 生 まれ るこ とで ある と明かすもの で あ っ て 、しかもその ことが、正 定 聚 の数に入 り、必 定 の位に入 る こ と で あ っ て 、 そ の 信心の人 は、ま た 必 定 菩薩 とも呼 ば れ る 、 と いう ことを 説いた も の で あ る 。

(26)

その点、 親鸞はここで も、 信心の利益と し て 、 現 世に お け る 即 得 往 生を 語り、 ま たその信 心の人に つい て 、 正定 聚、 必定 菩 薩 と 明 か し て い るこ と が 知 ら れ る わ け で あ る 。 そして 親 鸞はい ま ひと つ、同じ『愚禿鈔』に、大乗仏 教 、 頓教につい て 、難行、聖道教 と 、 易 行、浄土 教を分別し、 「一に は 竪 超 、即 身是仏即 身 成 仏等 の証果 な り。 二に は 横 超、選択本願真実報土即得往生な り 」 と 明 か し てい る が 、 こ こに も 即 得 往 生 の 語 が 用 い ら れ てい る の であ る 。 ここ で い う竪超、横超とは 、親鸞の、いわ ゆ る二双四重の教判 に お い て 明かされる 分類用 語 で 、竪とは 聖 道、 自力教を、横とは浄土、 他 力教を意味し、またそ の超とは出に対す るもの で 、速かに成仏をうる頓教 を意味し て い る。 その即身是 仏 、即身 成 仏とは、法然の『往生大要鈔』 に 説 く如く、即身是仏とは禅宗を指し 、 即 身 成仏と は 真 言宗、天台宗、華厳宗など の 教 法を 指し て い る (6 ) 。 また その選択本願とは、阿弥 陀 仏 の 第十八願を意味し、真実報土 と は 、 真実浄土の こ とで 、次下 に 明かす とこ ろの方 便 化生に対する もの で あ ろう。

(27)

即得 往生 とは、す で に 上に見 た と こ ろの、同じ『愚禿鈔』に おい て用 い ら れる語 と し て 、現生に お け る信 心の利益としての 正 定 聚、不退転位の益を意味すること は 明らかで ある。 かく し て 、 こ の 文 は 、 大乗仏教 にお い て 速 か に成仏し うる 頓教 につい て 、聖道教 と浄土教 の 二 種 が あ る こ とを 示し、聖道、自 力 な る 頓教とは 、即身是仏を説 く ところ の 禅宗、即身成仏を説 く とこ ろの真 言 宗、天 台宗 、華厳宗などの仏道 で あ り 、浄土、他力なる頓教 とは、阿 弥陀 仏の第十八願と 真 実浄土を説い て、こ の現身に、直 ちに往生をうる とこ ろの仏道 で あ ることを明かすもの で あ ろ う。 それは聖 道 教が、即身是仏、即身成仏 と し て 、現 世 即 身にお け る証果 を 語 る もの に 対 応 し て、浄土真 宗 に お け る信心の利益に つ い て 、現世今身に おける 即 得往生を説いたものと思われる。 ここ にもまた、親鸞が信心の利 益 と し て 、現世に お け る 往 生を 語っ て い ること が 知られるわけで あ る。 ▲ -- - -- - -- - -- - -- - -- - -- ---2、必得往生と摂 得往 生の意義 - -- - -- - -- - -- - -- - -- -

(28)

--親 鸞 は ま た、こ の 即得往生 に 相 似 す る 語 とし て 、 「心得往生」と か 、 「 摂得往生」と いう語を用いて いる こと も注意す べきで あ る。 その心得往生とは 、善導の『観経疏玄義 分』の、 「南 無 と 言う は、即 ち 是れ帰命な り 、また是 れ発願廻向の義なり、阿弥 陀 仏 と 言 う は 、即 ち 是 れその行な り。 斯 の 義 を もっ て の 故に、必ず往生を得る」 という文に基づい て 、 親鸞が『行文類』のい わ ゆ る六字釈 におい て 、 「必 得往生 と 言う は、不 退 の 位に至 る こ とを獲 る ことを彰 わすなり 。経 は 即 得と言 へ り 」 と明か す も の で あ る。 「必 ず往生を得る」と 訓むべき文を単 語 化 し て 「 必得往生」と いうわけで あ る。 こ の 必得往生 とは、その釈にも明らかな如く、不退転 位に 至る こ と を意味するもの で あるが、それを親 鸞 はあ え て 必 得 往 生 とい う語 を も っ て あ ら わし 、 不 退 転 位に 至ることが 、 現世に お ける 往生の意味をも有し てい る こ と を 示 し て い る 。

(29)

親鸞は そ れに 続い て 「 経には即得 と 言へり」と い っ て いるが、それ は 明 らかに、第 十 八願成就文の即得往 生を 指して い るわ け で ある 。 そ の 点、親 鸞 は 、 この必得往生 と即 得往生 と は、ま っ たく 同じ 意趣 をあ ら わ す語 で あ る と 領 解 し て いた こ とが 明 ら か に 知 ら れ る の で あ る 。 親鸞 が、正定聚、不退転位に住 す る ことを、必得往生 と い っ て 、往生を現世今生に お い て 語っ て い ること は、 ここにも明 確 に う かが われる わ け で あ る 。 ま た 親鸞 は 、 摂 得 往生 という こ とも語 っ て い るが、 そ れは善導の 『 観念法 門 』 の 摂 生 増上縁の釈 に おい て 、 「願力摂し て 往生 を得し む 、 故 に摂生 増 上縁と名ずく 」 と説か れ る 文 を、 『尊号真像銘文』に引い て 、 「ひ ごろかの心光に摂 護せられ まいら せ たる ゆへに 、 金剛心 を え た る 人 は 、 正定 聚に 住する ゆ へに 、臨終 の と き に あら ず 、 か ね て 尋 常 の とき より 、 つ ねに 摂 護 して すて た ま は ざ れ ば 摂 得 往 生 と ま ふ す 也」 と釈 す 文 に見ら れ る も の で あ る 。 ここでも「摂 し て 往生を得しむ」と訓むべき文を単 語 化 し 「摂得往生」というの で あ る。

(30)

こ の 摂得往生もまた、正定聚に住 す る こ と を 意 味 するもの で あ るが、親鸞はそれ をあえ て 単語化し て 摂 得 往生 とい う語を造成し、正定聚に住す る ことが、まさ しく現生 にお ける往生 の意 味をも っ てい る こ とを示 して い る の で あ る 。 ここ にもまた、上の必得往 生 の 語 と 同じように、親鸞が、正定聚 、 不退転位に 至 ることを、現世に お け る 往生 とし て 捉 え て いること が 明 らかに指摘 で きるの で あ る 。 以上 にお い て 、 親 鸞 は 、 第 十 八 願成 就 文 の 「 即 得 往生 」の語 を 、そ れ が 正 定 聚 、 不退 転 位 に住 す る こと を 意 味 す ると 領解 するこ と に よ って 、こ の 現 世 今 生に お い て も 、 往 生 ― ―浄 土 往 生と い う こと が、 語ら れ う る と 明 か し てい る こ と が 知 ら れ る の で あ っ て、 親 鸞 は、 多く は浄 土 教 の 伝 統 を 継承 し て 、 浄 土 往 生 を 来 世死 後の利益とし て 語 りな が ら も、また時とし て は、上に見た如 く に、それを明確に、現世今生に お け る 信心の利益とし て も語っ て い る の で ある。 この よ う に 、 親 鸞 が 、 現 世 に お い て 往 生 を 語 った とい う こ と は 、 長 い 浄 土 教 の教 理史 上 に お い て は 画 期 的 なこ と で あ っ て 、 充 分 に 注 目 す べ き こ と で あ ろ う 。 そして ま た親鸞が、 こ の よ う に 浄土往生 につい て 、来世死後 に おい て う ると ころの往生 と 、現世今生 に お い て う る と こ ろの往生 の、現 当 二種 の往生 を 語 っ た と いう ことは、 その 往生 につい て 、ま ったく矛 盾す る 二種の理解があったという ことでは なく、 た とえその 使用 例は少ないとして も、いま ま で に 語 られること のな か っ た 現 世 往 生 の 思想 を 、 新 し く 主 張 し た と いう ことの 意 義 は 重 大 であ っ て 、そ の 意 味 に お い ては、

(31)

親鸞にお ける浄土往生 の思想 と は、ま さ しく この現世 往生の理解が 基 軸 をなすもの で あったというべき で あろ う。 親 鸞 に お い て は、 信心に よ って 、こ の 現 世に おいて 往 生 を うれ ばこ そ、確 か に 来 世 死 後に 往生 をうるこ と がで き る ので あ っ て 、 現 世 に 往 生 を え な い か ぎ り 、 死 後 の 往 生 は 成 立 し な か っ た わ け で あ る 。 こ の ような親 鸞に おける 現 世 往 生の理 解 は 、 当時の門 弟、信者 た ち に も 、 ま た 当 然に 、浄 土真宗の信 心 領解の内景 と し て 、受容され、伝 播 、 流 布し て い った で あ ろう ことは充分に想像 される わ け で あ る が、そ れが新 し い 独 特な理解 で あ った と こ ろ、さま ざ ま な誤 解も生 じ たよう で あ る 。 すなわち 、藤 原有房 が 、親 鸞没 後まもない永仁三年 (1295) の頃 、書 写山 に詣 でて知 り あ っ た僧 侶 の 談 話 に よ せ て 、 歌道 につ い て 論 じ た 随 筆 の 『 野 守鏡 』 に よ る と、 専修 念仏 をめぐる 三種 の誤 謬 を あ げ る に つ い て 、 「 正 (聖 か・筆者)道、専 修の同じか ら ざる義 は 、この 生 にて 正(聖か)道 は 証 を え む と 思 ひ 、浄土にて 専修 は さ と ら む と 思 ふ 。然 るに此頃、も はら即得往生 と か やの義をた て て 、 即身に成仏すといへ り 。既 に 宗 の 大 意 をやぶり て、正 ( 聖か)道 門 に い る にあ らず や。その あ や ま り の三な り 」 ( 群書類聚巻第 484 ・ 経 済雑誌社刊 。 第 18 輯雑 部 552 頁 ) と伝える如く に、親鸞 の没後ま も な く し て 、 そ の 即 得 往生 の教 説が 誤っ て 理 解 さ れ、聖 道 教 に お け る即 身 成仏の 思 想 と 重 層 し、そ れ と同一 視 し て 語 ら れる 面 も あったよう で あ る (7) 。

(32)

この文 に い う 専修 念仏 の 徒 が 、 直 ち に親鸞 の 門弟 、 信 者を意味する と い いうる根拠は ないと し て も 、当時 の浄土教 にお い て 、現世 に 即 得 往 生 を語 った のは、 ひ とり親鸞 のみ で あ った ところ、そ れ は明らかに親鸞 の教 書 を 奉じ る 人 々を 指すもの で あ ると思わ れ る ので ある。 そ の ことはまた、親鸞が新 しく 主張 したと こ ろの如来 と等 し と いう信心領解が、誤っ て受容され、 「信 心よ ろ こ ぶ人を、 如来とひと し と同 行達ののたま ふは 自力なり 、 真 言にかたよ り たりと 申 候なる 人 」( 末 燈鈔 ) があっ て 、それが聖道 教 、 真言宗に傾斜した理解 で あ ると批 判 された こ とにも、重ね て 推 察する こ とが で きるところ で あ る 。 その 点から す る な らば、こ の即 得往生の思 想 は 、 すで に 当 時の浄 土 念 仏 の 人 々 の あいだに 、 弘 く流布して いた ことが知ら れ て く るの で あ る。 ▲

(33)

-- - -- - -- - -- - -- - -- - -- ---四 親鸞 におけ る 現 世 往生 の思想 的 背景 -- - - -- - -- - -- - -- - -- - -- - --1、 龍樹に お け る 現 生 不 退 と 生 如来家 の 思 想 - - -- - -- - -- - -- - -- - -- -親 鸞 に お けるこ の ような 現 世往生の思想は、す で に見た如く 、 第十八願成就文に 対する 独 自な領解 に 基 づい て主張 さ れ た も の で あ るが、 そ の よ うな領解 の成立 は 、 何 よ り も、 親鸞 自身 の信心体験の内実 とし て 、 必然的 に 醸 成 され て い った とい わざるをえないとしても。 また他面、そのような領解を 生 成せしめ た思 想的背 景 も推定されて くるの で ある。 そのことに つ い て 、親鸞 は 何 ら 具 体 的に物語るとこ ろ はないが、龍 樹 の 『十住毘婆沙論』が明かすとこ ろ の、現生 にお ける入 初 地 、 入 不 退 転 地 の 思想 は、 親鸞 にお ける現 世 往 生 の領 解 と 、 深 い と ころ では通 底 す る発想 で あ る よう に思 われる。 すなわち 、 親 鸞は 、 こ の龍樹を浄土教の祖 師 、 先 達の 一人とし て 景 仰するとこ ろ で あ るが 、 龍 樹は その 『十 住毘 婆沙論』の『入初地 品 』 に おい て 、 現世にあっ て 初地、不退転 地に入る道を明かし、その不退転 地 に 入るこ と は 、

(34)

「初地を得お わるを如来 の 家 に 生ま ると名づく 」 ( 大正 26 ノ 26a) と説 い て お り 、親鸞も こ の 文を『行文類』に引用する とこ ろ で あるが、 ここで 「 如来の家に生 ま る 」 ( 生如 来 家 ) と は、ま た そ の ま ま 浄土 に往生 す るこ とを 意味 す る とも 理解 できる で あ ろ う 。 とすれば、 こ の文は、 ま さ しく現世今生 にお ける浄土往生 を明 かしたもの で あ る ともいいう る の で あ る 。 事実、親鸞 は 、 こ の龍樹 に お け る現生不退 の 思想 に 深 く注 目し て お り、 す で に上に見た如く、 『行文類』 に おけ る 善 導 の 『観 経疏 玄義 分』 の 文 に 基 づ く 、 い わ ゆ る 六 字 釈 に お いて は 、 「必得往生 と 言う は、不 退 の位に至 る こ とを獲る ことを彰 わ す なり。経には即得 と言へり、釈 に は 必 定 と 云へり」 と語 り、 必 得 往 生 の こ と を 不 退 転 位 に入 る こ と で あ る と明 か す につ い て 、 経 典 ( 第十 八 願 成就 文) では 「 即 得( 往生) 」 と い い 、 釈(十住毘婆沙論) で は「必定」と いうわけで あ るが、 こ のことからすれば、この 初 地、不 退 転地 、必定 と いう ことは、またそのまま第十 八 願 成就文の即得往生に 重 層するもの で あ っ て 、 親 鸞に おいて は 、こ の現 生に おけ る 初 地 、 必定と は 、 明 ら か に 現 世に おけ る 往 生の 意 味 を 含 む も のと 理解さ れて い た こ と が う か が わ れ る の で あ る。 また親鸞は 、 その『愚 禿 鈔 』 に おい て も 、す で に 上に 見た如くに 、 こ の 即 得 往 生 を 注 釈するに つい て 、 『十 住毘婆沙論』によっ て 「必 定に入 る 」「 必 定 菩 薩と名ずく 」と明かす わ け で あ る が、 ここ で も また親鸞 は、 龍樹の現生 に お け る入必 定 、必 定菩 薩 と いう ことが、 現世 にお ける往生 の意 味を もつ と領解 し て い た こ と

(35)

が明らかに知られて く るので あ る。 その意味におい て は、親鸞 にお ける現 世 往生 の思想に 先行し、その背 景 と な ったも の として、 こ の 龍樹の 『 十 住毘婆 沙 論 』 にお ける現生 不退 と「如来 の家 に生 ま る 」 ( 生如 来 家 ) と い う 思想 が注 目 さ れ て く る の で ある 。 ▲ -- - -- - -- - -- - -- - -- - -- ---2、法然に お ける 現生 不退と決定 往 生の思 想 - -- - -- - -- - -- - -- - -- - --親鸞に お け る 現 世 往生の思想の成立背景 とし て 、 いまひと つ注目されるものに、法然に お け る 現生不退 の思想がある。 法然にお ける 浄土思想とは、す で に 上にも指摘した如くに、 「 ま づ こ の 娑 婆 界をいとひす てて 、いそ ぎ て か の極 楽 浄 土 に むま れ て 、かのく ににし て 仏道 を行 ずる」 ( 往生 大要 鈔) という浄土往生 の 行道 を明かすも の

(36)

で 、 その浄土 とは「不退 の 国」 (逆修 説 法 ・ その他) であっ て 、来世死後 に 、 こ の不退 の 浄土 に 往 生し 、さ らにここにして、 仏道を修習し て成仏 を 目指 すも の で あっ た。 その意 味 にお い て は、浄土の救済は 、すべ て 来世死後 に 獲 得される ものの如くに理解されるので あ る が 、 法然 は ま た『選択集』の讃歎念仏章に、 「凡そ五種 の 嘉 誉 を流 え二尊の影 護 を 蒙 る、 此 れ は是 れ現 益な り。ま た 浄土 に 往 生 し て乃至 成 仏す、此 れ は 是 れ当益な り。 ( 中 略) 念 仏 は此 の如きらの現当二 世 始終の両益 あ り 。 まさ に知 るベ し」 ( 法 然全集 338 ) と明 かし て 、 浄土の救 済 に は現益当益の二種の利益がある と い い、その現益とは、釈迦、弥陀二等の護念 を 蒙 るこ とで あり 、 そ の 当 益と は、 往生と 成 仏の 証果を う るこ とで あると い う の で あ る 。 そし て ま たその『阿弥陀経 釈 』 によれば、その現益に つい て 、 「若し善男 子 善 女 人あり て 、是の諸仏の所説の名 およ び 経 名を聞く者は、是れ諸善男子善女人 、 皆 一切諸 仏のために 共 に 護 念せられ、皆 阿耨多 羅 三藐三菩提を 退せざるを得る」 「 此 れらの六方諸仏の名を 聞 け ば、各 護 念と 不退と 菩 提の益を得 る なり。護念とは 彼 の諸仏の名を聞く 人 は 、 即 ち 諸仏護念の益 を得 るな り。云々 。不退転とは 云々 。 此 れ 現 身 の 利 益 な り 」 「 若 し人 此 の 弥陀の名を聞けば、皆護 念 を蒙 って 菩 提 を 退 転せざるの益を得 る な り 。 護 念 とは、喩は魚子

(37)

の魚 母に念ぜらるる が 故に摂 養 増長する が如し、行者もまた爾なり。 諸 仏の護念を 蒙 る が 故に信根 堅固増 長を得るなり。不退とは 、 諸仏の護念力に 由 って信根 堅固増 長 を得る が 故に、 菩 提の 果 に おい て ま た不退 を得 るな り。 以上の二は 是れは 現益なり」 「経名とは 、 即 ち 此の阿弥陀経の名なり 。 此 の経の名 を聞く に 、 仏 名を聞く如く三 益 有 る な り 。 三 益とは 、 一 に 護 念 、二には不退、 三 は得菩提なり。一 に護 念とは、此 の 経名 を聞く に 依 っ て 六 方恒沙の諸仏各 之 を 護念す。云々。二は 不 退 と は 、 此 の経を聞くに 依っ て 現 に 不 退転 を得るな り」 「発 願 利 益 を 挙 げ て往 生 を 勤め る と は 、 利 益 に付 い て 三 有 り 。 一 は 不 退 、 二 は往 生、三 は 菩 提 な り 、 此 の 中には 護 念を 略す 。云々 。 一には 現 に 不 退転を 得 るとは 、 至誠心を 以って 往 生の 大願を 発 する 者は 、 菩 提 にお い て 不退 の 益 を得 る」 ( 法然全集 140 ~ 1) など と説い て 、六方諸仏の名と 『阿 弥 陀 経 』 の名を聞く こ と 、 また至誠 心 をもって 往 生 の 大願を 発 すもの は、各 々 現 世 にお い て 諸仏よ り 護 念 さ れ 、不退転 の益 をう る こ とが できる と い う の で あ る 。 この こ と は、上 に 見 た ところの浄土 を「不退の国」と捉え る理解からすると、ま ったく矛盾 す る 思 想 で あ って 、それ が 果し て 法 然自身の浄土教領解を 正し く伝えて い る のか、ど うか、いささか疑問も生 じ ない で はないが、 こ の『阿弥陀 経 釈 』 は、す で に法然の門弟 で あ る覚 明房長西の『浄土依憑経論章疏目録』 に も 記録 され (8) 、 ま た 法 然 滅 後 六 十二 年に して 編集 され た『 漢 語 燈録 』に も 収 載 さ れて お り 、大橋 俊 雄に よれ ば、 法然に お ける思想の展開に つ い ては、 天 台的浄土教思想受容期、浄土 教 思想確立期、選択本願念仏思 想確 立期の三期の時代があっ て 、 こ の『阿弥 陀経釈』 は 、 そ の 浄土教思想 確 立 期 の時代、文治六年 (1190)

(38)

法然五十八歳の頃に撰 述 さ れた もの で あ ろうと い われるとこ ろ で あ る (9) 。 そ の 点 か ら す れば、 こ のよ う な 理解 もま た 、 法然 の浄 土教 思想 と見 るべ き で あ ろ う か 。 とすれば、法然が この よ う に、聞名、聞経、発願などによ って、 こ の現世今身に おい て 、 諸仏の護念 を う け 、 不 退 転の益を うると説 く こ とは 、明ら か に 親 鸞に 先行して 、 法 然に おい て 、 すで に 現 生正定 聚 、現 生 不退の思想が形成され て い た と い わ ねばならない わけで 、 こ の こと は 、 浄土教思想の展開史に おい ては充 分に 注目され るべ きと こ ろ で あ る 。 そし て ま た、 こ の ことからすれば、法 然 におい て も 、 第 十 八願成就文に お け る「 即 ち 往 生 を得 て 不 退転 に 住 せん」と い う 文の 解釈に お いて は 、 その 即得 往 生 と は 、 当 然に 現 世 に お け る 利 益 と し て 解 釈せ ざる を えない こ ととなり、法然 に お い ては、そのような思想 や解釈 は 明 瞭 にはうかが わ れない と し て も、可 能 的 領解 とし ては、 こ の即得 往生 を現世 の 利益 とす る発想が生ま れえ た と も い い う る こ ととな る で あ ろう。 事 実 、法 然 は 、こ の第 十八願成 就文を 、『 選 択集 』の 本願章には 引 用するとこ ろ で あ る (10) 。 た し か に 法然 は、そ の 『つ ね に 御せ られける御詞』 の 中 で は、自 己 の信 心体験 の 内 景 を表 白し て、 「源 空 は す で に 得 た る 心地 に て 念仏 は申 すなり」 ( 法 然 全 集 495 )

(39)

と語 り 、 ま た 『十 二問答 』 で は 、 「ふ か く 信じて 心 念 口 称 に も の う か ら ず 、 す で に 往 生 し た るこ こ ち して 、 た ゆ ま ざ る もの は 、 自 然 に 三 心 を具 足する な り 」 (法 然全 集 640 ) とも 明かす と ころ で あ る。 法然に お い て は 、 専 修 念仏の正 業 を 成弁し て 往生決定せる ものは 、 こ の 現身の ま まに も、す で に 往 生をえ たる心 地 に安 住す る こ と が で き ると 領解されて い たので あ る 。 事実 、そ の 『 三 昧 発 得 記』 によ れば、法然自 身 に あ っ て は 、そ の念仏相続 に お い て、しばし ば 見 仏 体験 を えて い た こ と が 知 ら れ るわ けで ある (11) 。 そのこ と からすれば、法然がそ の往生決定の境地に お い て 、現身に正定聚、不退転位への安住を 語 り、さ らには ま た往 生 獲 得 の 心境を語った こと も、また 当然のことで あろうと うかが わ れるわけで あ る。 そ の 点 、 法 然 におい て は、往生 という語に つ い て の理解に、伝 統的解 釈 とし ての「捨此 往 彼 蓮 華 化 生 」 ( 往 生要集釈 ・ 法然全集 17) という如 き、来世死後 に他界彼 岸 な る 浄 土 に 化 生 す る という 彼 土往 生 の 理解 のほ か に 、 いま ひと つ、 そのような彼土往生が 、 す で に 現世に お い て 決定すると い う意味をあらわ す とこ ろの 「 決 定往生 」 ( 往生要集詮要 ・ 法然全集 8 ・ その他 ) と い う語を、きわ め て しばしば用い て い ることは 注意されるべ きで ある 。

(40)

こ の 決定往生 とは、現世今身 に お い て 、 す で にし て 往 生が確かに決 定 す るというほ ど の意味 で あろうが、 その ことが 決 定往生 と いう語 を も っ て明かさ れ、 ま た この用語 が し ばし ば使 用さ れると こ ろ、そ れ は上に 見た とこ ろ の 、親鸞 に お け る即得往生 、 必得往生 、摂 得往生 と 同じく、独立した 往生 の 概 念 を 含む語 で あ った ように も 思わ れて くる ので ある 。 か く して 、 あ えて いうなら ば、 法然に お け る 往生と い う用 語をめ ぐ る 理 解には 、 来世 死後と し て の 彼土 往 生と 、 現 世 今 生に お け る決 定 往 生と の 二 側面 が あ っ た と い い う る の で は な い かと も推 察さ れ る こ と で あ る 。 その意味におい て は、親鸞 にお ける即 得 往生 の思想は 、こ の 法 然に おけ る 現 生 不 退 の 思 想 、さ ら に は ま た この 決定 往生の思 想の継 承展開と し て 、 醸 成 さ れ て い ったもの で あ ると もいいうるで あ ろ う。 そのことに つ い て は、親鸞が 元 久二 年 (12 05) 三十五 歳 の 時、法 然 の 『選 択集 』 の 見 写 と、 そ の 真 影 を図 画 するこ と が許され た こ とを記念し、その 教導の恩徳を感 謝 し て 、 「 是れ決定 往生 の 徴 なり」と 、 『 教行証 文 類』の後跋に 書 い ていること も 充分に留意されるとこ ろで ある。 ▲

(41)

-- - -- - -- - -- - -- - -- - -- ---3、証 空 におけ る 即 便 往生(証得往生)の思想 -- - - -- - -- - -- - -- - -- - -- - --また法然の門下 で ある 証空 (1177 ~ 1247) の往 生 思 想 に つ い ても 注 意 さ れ る と ころ で あ る 。 証空は、法然よりも 四 十四歳若く 、 親鸞よりも四歳下 で、 建久元年 (1190) 、法然 五 十 八 歳 の 時 に そ の 門に 入った。 証 空 十四歳の時の こと で あ る。 親鸞 は建仁元年 (12 01) 、 法 然 六 十九 歳の時に入 門したから 、証 空よりも後輩 という こ とにな る 。 証 空 は 、 『選択集密要決 』 に 、 「華厳宗とは、浄土家に立つ る 所の即便 往生 に留ま り て、当 得 往生 を解 せ ざ るな り」 ( 西全 2 ノ 195 上 ) と述 べ、また『当 麻曼荼羅注 』 に、 「 即 便往 生 は 安 心 、 当 得 往 生は 所 期 なり 」 ( 西全 2 ノ 145 下 )

(42)

と明かし、 『 観 経 定善義他筆 鈔 』 に は、 「此 世とは 即 便往生を いひ 、後生とは 当 得 往 生を いふ なり」 ( 西全 5 ノ 46 上 ) と説き、また『観経散善要 義釈観 門 義 鈔 』には、 「今、十 六観の次 第を思う に、次 第 に 相 続し て 仮 依より真依 に 移り、真 依よ り仮 正 に 入 る 。仮正より真正 に 入 る心 地、皆 一 人の 始終の観なり。そ の 意を 思う に、 一観の 中 に 若 有衆 生の外に 復有三 種 衆 生 有るべか ら ず 。 若 有衆 生を ば即 便 往 生と 説き 、 復 有 三 種衆 生をば 当 得 往 生と 説 く 。 即 便 往 生は 先づ 弘願 を思わ え て 説く。弘願に乗じぬ れ ば 時 節の久近を論ぜず。即 ち 生 ずる故 な り。当得往生 は観門の意なり。観 門 は必ず 弘願に乗 じ 生 ずべき 故 に 当 得と 説く なり 」 ( 西全 3 ノ 134 下 ) と明かす如くに、 往 生に、即便往生 と 当得往生の二種を 語 っ ているの で あ る。 その 即 便 往 生 とは「証得往生 を 即便 と曰う」 (観経 定 善 義 他筆 鈔・西 全 五 の 四六上) という 如 く、 それを証 得往 生 と もいうが、それは上に引く文に 、「 弘願に 乗 じ ぬ れ ば 時節の久近を論ぜず、即 ち 生ず る 故 なり 」と 明か す如く、現身平生に、 弘願に 帰 入するこ とに よって 、 即時に 仏 の 救 済を 証得するこ と を い い、 ま た そ の当 得往生 と は、 やが て 得 るところの 捨 此往彼蓮華 化 生 と し て の来世死後な る 彼 土往生 を いう。 即便 往生 とは、心性の往生 とし て、 現 身 に お ける如来の摂取を意味し、当得往生 とは 、 捨 命後の往生 と し て、来 世 死 後 に お け る 如 来 の 摂 取 を 意 味 す る とも い い う る こ と であ る 。

(43)

証空が、 こ の ように往 生を二 種 に 分 別したのは 、 『 観 門義 草案 』に、 「已に仏 願 に 相応し ぬ れ ば 、た ちど ころ に往生 を 証 得 し て 、三 心既 具無 行不 成正因 の 故 に 。復有 三 種 衆 生 当得往生の正行具足すれば、一生 の 終 り に九品の業あらはる」 ( 西全 4 ノ 218 下 ) と述 べ、ま た 『 観 経 玄 義分 他筆 鈔』 に、 「問うて 曰く、 是 れ未来得生の者なり、何ぞ極楽の聖 衆に 挙ぐ るや。答 え て 曰く、是れ正因 正 行 有 り。正 因の 謂に て 三 心を発 す 位、即 ち 往生なり。往生即 ち 是 れ仏 体 な り。仍 て 証得往生の人を以 て 極 楽 の 聖聚に 挙 ぐ る な り。 此の上に 正行 の謂にて 已得 生、未得 生の 不同を 証 す る なり。 此 の面は 彼 に 生 じ て 聖衆と成 る べき 故に 此を挙 ぐ ると い へ り」 ( 西全 4 ノ 291 下 ) と説く 如 く に 、 三 心 具 足 な る正 因 に つ い ての 往生 と九 品 差 別 の 正 行 に 基 づく と こ ろの往 生 を 語 る こ と に よ るもので 、 正 因往 生 に つい て 、 現世に お ける即便往生 を 明 かし、その上 で 、 さらによりよき上 品 の 往生を めざ し て 励むとこ ろの 正行往生に つ い て 、 当 得往生を説 い て い るわけで ある 。 そし てこの即便往生 と 当 得 往生と の 両 者 の関 係 は 、の ちに顕意 (12 3 9 ~ 1304) がその『浄土 宗要集』に、 「当得 を 願う 故に 即便往生す、即便生の故に必 ず 当に生ずべきなり」 ( 大正 83 ノ 445b)

(44)

という如く に 、 即 便 往 生 を う る と こ ろ に 、 必 然 に 当 得 往生 が成 就し、 当 得往生 を 願う と こ ろ、 ま た 必然 に、 即 便 往 生 が成 立す る も ので あって 、 両者 は つ いには 、 相 即 不 離 なる 関係 を も って い る と 見 るべ きで あろ う (12) 。 しかしなが ら 、証 空 が このよう に、 ことに現身今生 に おい て 往 生 を 理解した という こ とは、やは り 法 然 の 現生 不退、決定 往 生の思想に依拠する も のと も思わ れ る が 、浄土 教 理史に お ける特殊なる発想と し て充 分 に注 目す べ き で あ ろう。 証空に お けるこ れ らの著書の述 作 年 時は 、親鸞に お け る『教行証文類』 の構 想 、 執 筆 の 年 時と 、おおよ そ重なると推定さ れ る が、親鸞に お ける 即得往生の思想と、 こ の証空に お け る 即 便往生、ない し証得往生 の思想の間には、何らの交渉、関係があったと も 考えられない。 しかしなが ら 、法然 門 下 の 念 仏 思想 におい て 、 こ のよう に よく相似 した 現世往生 の思想が同時期に生 成 し てい っ た という こ と は 、 き わめ て興 味 あ る こ と で あ る 。 と も あれ、親 鸞に おける 現 世往生の思 想 に先 行す る思 想と して 、 龍 樹の『十 住毘 婆沙論 』 に お ける 現生 不退の思想、 およびそれに つい て 「 如来の家に 生 まる 」 と いう表現があることは 注意 さ れ るが 、 こ とには 、 す で に法然に おい て も 、現 生 不 退の思想が見られ、また現身における往生獲得の心境を語りうる「決 定 往 生 」 の 思 想 が あ っ た こ と は 注 目 さ れ る と ころ で あ っ て 、 親 鸞 に お け る現 世往 生 の 領 解 は、 この法 然 にお け る 往 生思 想の延長線上に お い て 、そ の発展 、 深 化 と し て 生 成し て い ったも の に ほ かな らなかったと もいい うる ようで あ る 。

(45)

▲ - -- - -- - -- - -- - -- - -- - -- ---五 親 鸞 における現世往生の論理 -- - -- - -- - -- - -- - -- - -- - --1、親鸞 にお ける信心の意義 -- - -- - -- - -- - -- - -- - -- - -- -こ の ように親鸞が、現世におい て 往 生を語 る につい て は、それに先行 す るとこ ろ の龍樹の仏道理解、さ ら に は ま た 、 法然の現生不退の領解や決 定往 生の 思 想 が注目されるが、親鸞 が 、 か か る現 世往生を主張し た根 本的 な 理 由 は 、何よりもまず、親鸞自身に お ける信 心 理 解 に 基 づ く もので あ った こ と を思 う べ きで あ ろう。 親鸞における 信心とは 、すでに 別 に 論 考 し た 如く (13) 、 「 信知 」と し て の覚醒 体 験で あり、 また「 真心」と し て の真実 と の 値 遇 体 験を意味するもの で あ った。その 信 知としての覚醒体験 と は、親鸞が、

(46)

「みたの ち か ひはちえに て ましますゆへに、 しん する こころのい て く る は、 ちえのお こるとしるべし 」 ( 正 像末 和 讃 ・ 親鸞 聖人全集和讃 篇 1 45) と 説 く と ころ に 明 ら か であ っ て 、 ひ た す ら な る 称 名 念 仏 に お い て、 ま た 本 願 の 聞 思 に お い て、 新 し く 如 来 廻向の信心の智慧を見開い て ゆ く こ と で ある。 こ の 信知の心眼に おい て 、 現実の自己自身の存在の相につい て 徹底して覚醒せしめられ て ゆくの で あ る 。 それは 自 身 は 罪業 深 重 にし て 流 転輪廻 は て し な く 、 永 劫に出離しえずと信知し、また同 時 に、如来 はかか る煩 悩具足 の 自 己 の た め に 、 曠 劫 以 来 に 大 悲 の 願 心 を もっ て招喚し、摂取したもう と 信知す る の で あ る 。 教法との出遇いに おい て、 自 己 の無明にめざめること であ り 、 ま た そ の 無 明 を 無 明 と 自 覚 す る と い う 態 に おい て 、 たしかなる浄 土 の 明知 を獲得し て ゆ く こ とで ある。 す な わち 、 罪 業の信知と大悲の信知、無明の自覚 と 明 知の獲得、その両者が 逆 対 応的に、 即 一 し て 成立す ると こ ろ の 覚 醒 体 験を い う わ け で あ る 。 また親鸞に お ける信心が、真心としての 真実 との値遇体験 で あ るとは、親 鸞 が そ の 信 心を、しばしば 、「真 心」 (信 文類 ) と い い 、「 ま こ との 心」 ( 尊 号真 像銘 文) と も い う と こ ろ に 明 ら か で あ っ て、本 願 念 仏 の行道 におい て 、まっ た く 主 体的に、究竟な る 真実 と出遇い、そ の 自 己における現 成を体験する ことをいう 。

参照

関連したドキュメント

(一)  家庭において  イ  ノートの整理をする    ロ  研究発表などの草稿を書く  ハ  調査・研究の結果 を書く  ニ  雑誌・書物の読後感や批評を書く 

金沢大学における共通中国語 A(1 年次学生を主な対象とする)の授業は 2022 年現在、凡 そ

(5) 子世帯 小学生以下の子ども(胎児を含む。)とその親を含む世帯員で構成され る世帯のことをいう。. (6) 親世帯

    

手話の世界 手話のイメージ、必要性などを始めに学生に質問した。

[r]

[r]

レーネンは続ける。オランダにおける沢山の反対論はその宗教的確信に