序本拙稿は同じシリーズの三作目である︒第一作は 平成十一年八月︵口頭発表は平成十年十月︶﹁伊
勢物語二段階成立論続詔ー~口承文芸から書承文芸ヘー~」『富山大学人文学部紀要』第三十一号所収であり︵以下︑﹁続詔﹂と略すこともある︶︑第二作は
平成十二年八月︵口頭発表は平成十一年九月︶
﹁伊勢物語一二段階成立論続詔第二
I I
六つの批判
へ の 再 反 論 と 第 四 十 五 段 詳 述
﹂
﹃ 富 山 大 学
人文学部紀要﹄第三十三号所収である︵以下︑﹁続詔第二﹂と略すこともある︶︒本拙稿副題の﹁七つ目の批判﹂とは︑
平成九年三月渡辺泰宏氏﹁伊勢物語作者論序論ー
ー紀貫之作者説とその書名に関する試論ー̲﹂﹃學習院大學國語國文學會誌﹄
4
0号初出︵注
1 )
であり︑﹁六つの批判﹂が﹃伊勢物語の視界﹄でまとめられた後に公刊された︑非常に新しい論文である︒
ーまず︑渡辺泰宏氏は︑﹁三︑伊勢物語と貫之の用語﹂
の章では︑先行する山田清市氏﹁土佐H記と伊勢物語の
作者
﹂︵
注
2 )
の内容を紹介し︑﹁伊勢物語と土佐日記等の貫之作品に見る用語の共通性﹂の具体例を列挙している︒続いて︑﹁四︑伊勢物語と貫之の発想﹂の章では︑渡辺氏自身が見つけた発想の類似性の具体例を列挙し︑﹁伊勢物語と土佐日記とにおける類似する発想の面から両者の関係を考えて﹂居られる︒
例えば︑﹃土佐日記﹄の﹁諧諌﹂として︑
田 村 伊勢物語三段階成立論続詔第三
七 っ
H の批判への再反論と 自然描写詳述
俊
介
ー
いっぽう
﹃伊
勢物
語﹄
からは第六 •船路なれど、馬のはなむけす〈十二月二十二日〉•i文字をだに知らぬ者、しが足は十文字に踏みてぞあそ
ぶ
︿ 十 二 月 二 十 四 日
﹀
•海は荒るれども、心はすこし凪ぎぬ〈一月九日〉
を挙
げ︑
最初の例は︑﹁船﹂と﹁馬﹂という交通手段における相対する方法が対になっているが︑その﹁馬﹂が後半で﹁馬のはなむけ﹂にすりかえられている︒だからこそ﹁船路﹂でも﹁馬のはなむけ﹂といえるのであって︑そこに機智的な笑いが生じるのである︒
i一番目の例も同様で︑数の文字を示す﹁一文字﹂と
十文字﹂が対になるが︑後半の﹁+文字﹂は実際
の文字ではなく﹁足﹂を﹁+文字に踏む﹂のであっ
"J︑﹁一文字をだに知らぬ者﹂でもできるというの
である3三番目の例も︑海の天候において相対する﹁流る﹂と﹁凪ぐ﹂が対になっているが︑後半は海が凪ぐのではなく﹁心﹂が﹁凪ぐ﹂へとその表現がずらされているところにおかしみがあるといえる︒つまり︑これらはいずれも︑ある事項において対になる言薬があげられるのだが︑後半部のそれは何らかの形でその意味を変えて示されるという機智を含
んで
いる
︒
のような解説を加え︑ 心はそらにて 十九段の•野にありけど、
を挙
げ︑
これもやはり︑﹁野﹂と﹁空﹂という空間における相対する語が用いられつつ︑後半の﹁空﹂は実際には﹁うわのそら﹂の意にずらされるのである︒これまた︑土佐日記とまったく同質の発想であろう︒のような解説を加えて居られる
(2 44
ー245
頁 ︶ ︒
これらの例から私はむしろ逆に︑両作品の発想の違いを読み取るべきだと思う︒﹃伊勢物語﹄第六十九段は一
途で純粋な恋である︒昔男の状況を諧諌味を交じえて語るなどというのは論外であるが︑﹁対偶性﹂や﹁機智﹂
も語り手が意識的に狙った効果ではなく︑真実を正確に語ろうとつとめた結果︑おのずと生じたものなのではなかろうか︒これに対し︑﹃土佐日記﹄の三例の場合︑機智や諧誠味の狙いが見え見えである︒早い話︑第一例や
第二例の前半を削って・馬のはなむけす・足は十文字に踏みてぞあそぶだけに直しても達意という点からは差し障りがほとんど無いのに対し︑﹃伊勢物語﹄の場合︑前半の﹁野にありけど﹂も後半の﹁心はそらにて﹂も決して省くことができない表現なのである︒ 2
それにしても︑渡辺泰宏氏が﹃伊勢物語﹂の性質として取り挙げる一っ︱つ︑例えば
241
頁ーの﹁とぼけた
表現
﹂︑
243
頁2行目
1 1
ど採用の方法ーー﹂︵注 十一年卜月の「伊勢物語における万葉類歌—ーその典拠 1行目の掛詞︑加えて平成
3)
に於ける﹁女性和歌の二句切れ︑四句切れ︑二句︑四句切れ︐︳にしてもそうであるが︑本当に﹃伊勢﹄だけの傑出した方法なのかどうか︑士代文学と平安文学の全体を見渡した上で再検討する必咬があるだろう︵注
4)
︒
更に言えば︑山田清市氏の紀貫之作者説の論証の方法を評したあえて疑問を呈するとすれば︑次のような二つの可
能性を考えることができるであろう︒それは︑伊勢物語と貫之に共通する用語例はその一方から他方への影響があったためかもしれないということがその︱つである︒そして︑もう︱つには︑この伊勢物語と貰之とに共通する用語はこの時代に好んで用いられたものであって︑これは両者の関係を示すもので
はないかもしれないということがある︒従って︑このような可能件のある限り︑伊勢物語と貰之の関係については︑これとはまた別の方向からも考えなければならないということになるであろう︒
しいう文章は︑﹁用語例﹂﹁用語﹂とある箇所を﹁発想﹂ という語に置き換えさえすれば︑第四章︵第四節?︶の渡辺氏自身の論証に就いてもそのまま当てはまるのである ︒と述べて居られる︒ 2 平成十二年七月に上梓された﹃伊勢物語成立論﹄の﹁序章﹂に於いて︑渡辺泰宏氏は︑益田︵勝実︶氏の論によれば︑このような︑歌の詠まれた経緯を説明する︿歌語り﹀が︑その歌とともに平安朝の貴族集団の中で語られたのであり︑その語られた︿歌語り﹀に啓発されることによって︑また新たな︿歌語り﹀が創造され︑そこから﹁歌物語﹂が生まれたということになる︒このような説は︑﹁歌物語﹂の生成についての新たなる考え方をもたらしたわけであるが︑これはまた︑﹁歌物語﹂がそれほど短期間に成ったものではなく︑そしてその作者も︑誰とも知れぬ者を含む不特定多数であることを示すことともなった︒つまり︑この論は︑伊勢物語の成立時期とその作者をますますわからないものにしたともいえるのであり︑伊勢物語の成立研究も混迷を極めるものとなったのである︒
︵丸
カッ
コ内
は引
用者
︶
﹁この論﹂とは直接には益田勝実氏 3
の﹁︿歌語り﹀論﹂を指すのだろうが︑﹁伊勢物語の成立研究も滉迷を極める﹂原因となったという言い方は︑益田氏にいささか失礼であるように思われる︒口承文芸と掛承文芸と︑どちらが高度であるかランク付けをするのは我々研究者の領分を超えている︒我々はそのどちらであるのかをできる限り客観的に見極め︑その結論に基づいて作品ごとに方法論を樹立して行くべきである︒作者が﹁誰とも知れぬ者を含む不特定多数である﹂というのも︑その作者説に基づく場合全百余段の性格を一元的に
研究できなくなるだけの話であって︱つの立派な答えであり︑研究に﹁混迷﹂をもたらすものではない︒又︑﹁あとがき﹂では︑次のように述べて居られる︒近年︑﹁成立論﹂という書名はすっかりその姿を見せなくなってしまった︒これは︑現在の文学研究の状況をよく示していると思う︒それは︱つには︑文学作品の成立の問題に関する研究︑というよりはその材料が出つくしてしまったということにあるだ
ろう︒が︑もう一っとして︑まず近・現代文学研究が︑そして平安朝文学研究がいちはやくとりいれたテキスト論という研究方法の影響があるであろう︒このテキスト論とは︑ロラン・バルトの﹁作者の死﹂が発表された頃あたりから定着した考え方であるが︑作品︵テキスト︶はその作者の意図と離れて一 人歩きをするのであり︑作品はその作者と切りはなして考えるべきだとする方法である︒しかしながら︑少なくとも私が﹁平安朝文学﹂の一っである﹃源氏物語﹂に関して︑﹁成立論﹂︵論述の都合上︑本拙稿の本節に限っては︑﹁現行形態とは違う最初の形態を想定する論﹂という狭い意味で使いたい︶に基づいた研究を行っていないのは︑ここで述べられている﹁一つ﹂の理由とも︑﹁もう︱つ﹂の理由とも全く関係が無い︒成立論の論者が提出した中心論拠を︑平成三年五月「かの十六夜の女君ー|葵巻晩秋の新解釈|~」(注5)に於いて覆すことができたからである︒和辻哲郎氏の論や玉上琢禰氏の論と比較して︑青柳秋生氏の帯木グループ後記説や武田宗俊氏の玉蔓系後記説は逢かに説得力が強かった︒﹁主流の巻々に傍流の巻々を踏まえた記事が無い﹂という中心論拠を持っていたからである︒だからこそ︑外部徴証に恵まれなかったにもかかわらず︑武田氏の論文は︑発表された昭和二十五年以降数十年間活発な論議を呼び︑少なくとも完全な黙殺には遭わなかったのである︒しかしながら私は平成三年に︑主流の巻である﹁葵﹂に傍流の巻である﹁末摘花﹂の八月の出来事を指示した文があることを立証した︒そのため︑平成三年以降︑正確に言えば︑この論文を口頭発表した平成二年十月以降︑現行形態の﹃源氏物語﹂を前から順番に読み︑
‑ 4 ‑
有機的統
i体として捉える試みを続けて来た︒これに対して︑昭和四十三年﹃伊勢物語の研究︹研究篇︺﹂︵﹁︹研究篇︺﹄と略することもある︶に纏められた片桐洋一氏の成立論の︑﹃雅平本業平集﹄﹃在中将集︵両業平集とも呼ばれる︶という中心論拠は到底覆すことができない︒従って︑﹃伊勢物語﹄の場合︑幾段階かの成立過程を想定しなければならない︒特に両業平集編纂以前の所謂第二次•第一次章段と、編纂以後の第三次章段との違いは明らかにして行きたい︑というのがこのシリーズの立場である︒もっとも︑幾人かの論者は﹃雅平本業平集﹄も﹁在中将艇﹂も成立時期が十二世紀以降だと述べている︒その場合︑世紀で言えば十世紀を中心に起こった伊勢物語三段階成長を知るためには︑全く無力な資料だと言うことになってしまう︒しかしながら私は︑第一に第四十九段に立脚した考察に拠って︑第二には第四十五段に立脚した考察に拠って︑両業平集は﹃源氏物語﹄以前に編纂されていたという結
論を
出し
た︒
第一の考察は︑私家集の編者に限らず︑いやしくもインテリと呼ばれるような者なら︑﹁源氏見ざる歌詠みは
遺恨のことなり﹂と言われるくらいだから︑必ず﹃源氏
物語﹄を読んでいるはずだという事実を出発点とする
︵ 注 6 )
︒その﹃源氏物語﹂の﹁総角﹂で﹃伊紡物語﹄第四十九段が引用されている︒在五が物語描きて︑妹に琴教へたるところの︑﹁人
の結ばん﹂と言ひたるを見て︑・いかが思すらん︑すこし近く参り寄りたまひて︑匂宮﹁いにしへの人も︑さるべきほどは︑隔てなくこそならはしてはべりけれ︒いとうとうとしくのみもてなさせたまふこそ﹂と︑忍びて聞こえたまへば︑いかなる絵にかと思すに︑おし巻き寄せて︑御前にさし入れたまへるを︑うつぶして御覧ずる御髪のうちなびきてこぼれ出でたるかたそばばかり︑ほのかに見たてまつりたまふ
が飽かずめでたく︑すこしももの隔てたる人と思ひきこえましかばと思すに︑忍びがたくて︑若草のねみむものとは思はねどむすぼほれたる心地こそすれ御前なりつる人々は︑この宮をばことに恥ぢきこえて︑物の背後に隠れたり︒ことしもあれ︑うたてあやしと思せば︑ものものたまはず︒ことわりにて︑﹁うらなくものを﹂と言ひたる姫君も︑ざれて憎く思さる︒︵︹二六︺︶︵注
7)
紫式部の物語取りは﹁部分摂取﹂が原則であるが︑その例外がこの段の引用の姿勢と︑同じ﹃伊勢物語﹄の第四十五段の引用の姿勢である︒これに拠れば︑﹁在五﹂ 5
︵ 注 ll ) 5
9番は 若草を人の結ばむことをしぞ思ふ﹂︵注 と﹃後撰集﹂にこの歌︑即ち﹁うら若みねよげに見ゆる そも︑業平実作を疑わせる根拠となるはずの﹁古今集j そして妹に自分で言ったとしか解釈しようがない︒そも が﹁人の結ばん﹂の和歌を妹を見つめながら自分で作り︑
8)
は存在しない︵注
9 )
︒﹁古今六帖﹂︵九七六ー九八七︶には存在する︒しかし︑﹁なりひら﹂の和歌として存在するのだ
から︑両業平集の編者が仮に﹃古今六帖﹂を見ても︑業平実作の確信を強めこそすれ︑その逆の想定は絶対に導
かなかったはずである︒従って︑もし﹁源氏﹄以降に成立した歌集であれば︑この歌及びこの歌の返しとして妹が詠んだ﹁うらなくものを﹂の和歌を採らないはずがない︒ところが﹁雅平本業平集﹄﹁在中将集﹂は揃いも揃って第四十九段から採歌していない︒ということば︑背
理法に拠って︑両業平集は﹁源氏﹄以前の成立であるこ
と が 確 実 に な る の で あ る
︒
.
第二の考察もやはり背理法であるが︑どちらかと言えば︑和歌の部分よりも地の文の部分に重点を置いている︒
﹃在
中将
集﹄
︵注
lo)10
番は
夏の夜︑風すゞしうふきてほたるとびあがる行ほたる雲のうへまでいぬべくは秋風ふくとかりに
つげ
こせ
であり︑又︑﹃雅平本業平集﹄ みな月のあかつきがたに︑かぜのふきしをながめしほどに︑ほたるのわたりしかば
ゆくほたる雲のうへまでいぬべくはあきかぜふくとかりにつげこせである︒二つの歌集から窺い知られる第四十五段の最初の形態は︑夏嫌いの昔男が︑早く秋が来てほしいという願いを込めて︑・﹁秋風吹く﹂と天上の雁に伝えようとし
たという︑季節主題の物語であった︒これを第一次第四十五段と呼ぶ︒第一次第四十五段の和歌の部分は﹁ゆく螢雲のうへまで去ぬべくは秋風ふくと雁に告げこせ﹂という一首の独詠歌のみだった︑というのが私の直感的推
定である︒しかし︑第二首﹁暮れがたき夏の日ぐらしながむればそのこととなく物ぞ悲しき﹂も加えた独詠連作であった︑という想定も理論上は成り立つ︒並びあった二首のうち︑一首目のみを業平実作と見倣し︑二首目はこの段の主人公である業平が古歌など他人の歌を借用したと両業平集の編者が判断した︑或いは︑その他何らかの理由で二首目の和歌のみを切り捨てた︑というケースは極めて考えにくい︑という私の直感は﹁続詔第二﹂ー
8
l69頁からとすれば 洋一氏﹃伊勢物語の研究︹研究篇︺﹄のページ数を言う 5頁で述べたところとつながる推定であり︑又︑片桐
170
頁までが参考になる︵注1
2)
︒だから極めて可能性は低いのだが︑第一次第四十
‑ 6 ‑
五段は和歌が二首あったと仮定しよう︒重要なのはその後だ︒両業平集の完成後︑第四十五段は恋と死と哀傷とを主題とする十一行の長い物語︵本拙稿では︑集成本﹁伊納物語﹄の行詰めを基準にして分量を示すことにするつあくまで便宜的な処置であり︑おおよその目安に過ぎない︶︑即ち現行形態へと増益する︒この十一行の物語が幻巻の六月の段落にそっくりそのまま採られている
︵ 注 l3
くなっていること自体は構わない︒しかし︑内容上の問 だ︒量的な問題として︑物語の地の文より歌集詞書が短 なり一行なりに縮少してしまったということになるから てしまった︑地の文の部分だけを数えると︑七行を二行 ﹃雅平本業平集﹄は四行に︑﹃在中将集﹄は三行に縮少し 形態となった後であるとすれば︑その十一行の物語を れば︑言い換えれば︑第四十五段が増益し終わって現行 ﹃源氏﹄以前なのである︒もし﹃源氏﹄以後であるとす )︒ということは︑やはり両業平集の成立時期は
題として︑女の片思いと死という極めてショッキングな記述を削ぎ落として︑男の哀傷の背景になっていたに過
ぎない自然描写を残すというのは余りにも不自然なので
ある
は三十年を遥かに超える長い仮説生命を持っている︒氏 ての仮説であるが︑﹃拾遺集﹄に立脚した片桐氏の仮説 以上︑﹃源氏﹄に立脚した成立時期の特定は発表した ︒ 得 部例会の口頭発表に於いて︑貴重な根拠が提示され︑説 論証を行なっているが︑平成十三年四月の和歌文学会西 その成立時期は﹃拾遺集﹄以前である︑という背理法的 は︑両業平集の編者が﹃拾遺集﹄を見た形跡が無いから
力が
増し
た︒
﹃拾遺集﹄の成立時期は寛弘二年
(1 00
五︶から寛
弘四年までである︒いっぽう︑﹃源氏物語﹄は寛弘五年に前編の︑少なくとも一部の巻々が流布して居り︑宇治十帖まで揃ったのはその直後︑若しくはしばらく後と考
えられるから︑結局︑﹃拾遺集﹄以前であるということと﹁源氏﹄以前であるということはほとんど同値である︒このような時期に成立した両業平集︑特に﹁雅平本業平集﹄が︑﹃伊熱物語﹄第二次以前章段と第三次章段とを峻別する外部資料であるという事実は︑平成十三年夏現在動かしがたくなったと私は考えている︒﹁状況証拠﹂という言築︵﹃伊勢物語成立論﹄八頁︶は︑なるほど︑それ以前の長い年月の成立研究にはよくあてはまるかもしれないが︑両業平集は極めて具体的で確かな証拠なの
であ
る︒
では︑その第二次伊納物語とは如何なる形態か︒﹃︹研究篇︺﹄では﹃雅平本業平集﹄の典拠となった﹃伊勢物語﹄は最大限一・ニ•四•五•九•一O·―六•一七•一八•一
‑ 7
九・ニ五•三九•四0•四一•四二•四五•四六·四七•四八•五九•六六•六七·六八•六九・七六・(七七•七八•七九.)八0•八一•八ニ・八三•八四•八五•八六·八七•八八•九三・九四・九七•
IO
I·IO二•10三•10六•
10
七・
︱二
五
の五十段弱であったと明言されている(‑七二頁︑もとはアラビア数字︒三角印は︑論旨の単純化を図るため︑
今回は省略した︒︵︶を付したのは本来存在したが欠
脱したと考えられる段︶ため︑百二十五個の章段から成る現存本︵定家本系天福本をもって代表とする︶の半分以下の大きさであるという認識は学界全体に広く行き渡
った
t "
しかしながら︑その小さな﹃伊勢物語﹄の排列に就いては﹃︹研究篇︺﹄は明言していなかったし︑右の章段番号一覧は︑角川文庫﹃伊勢物語﹄解説など多くの二
次文献にも明記されて非常に有名になってしまったた
め︑﹁冒頭が第一段︑第一段の次が第二段︑第二段の次が第四段⁝⁝﹂という順番も少しは行き渡ってしまったのではなかろうか︒このような第二次伊勢物語であるならば︑冒頭よりやや後に貴種流離謂がある点やその他後述するような点に於いて曲がりなりにも
H
本古来の一代記的構成を取っているため︑その間に新しい章段を挿入したり章段を入れ換えたりしようという意欲は湧かなか った可能性が高い︒しかしながら︑﹃雅平本業平集﹄の典拠となった﹃伊勢物語﹄の排列が現存本の此抒と全く違っている点を明確にしたのが︑渡辺泰宏氏の高名な論文﹁在中将集・雅平本業平集考その性格と伊勢物語の成立に関する試論ー﹂︵注l4
)
である︒即ち︑現存本の第六十九段のような章段を冒頭に置き︑以下の段の前後のつながりに原則として脈絡が見い出せないような狩使本の章段排列である︒﹃伊勢物語﹄の古い形態は狩使本であったと考えるほうが題号の説明も遥かに容易である︒﹃竹取物語﹄︑﹃うつほ物語﹄そして﹃落窪物語﹄のように題号は︑それが作品全体の主題を言い表しているかどうかよりも︑冒頭
や冒頭近くの文章に由来していたのである︒﹃伊勢物語﹄の題号も︑やはり︑最初の話の舞台が伊勢であったことに由来するようである︒作品全体の中で最も重要秀逸な章段が第六十九段だから︑或いは︑﹁作者という暗号を解くためのキーワード﹂︵注
15 )
とする説は近代文学的なのではなかろうか︵注
16
ラエティに富んでいるという反論も予想される︒しかし えば﹃更級日記﹄を始めとして日本古典文学の題号はバ )︒もっとも︑日記で言
それは︑﹃源氏物語﹄五十四帖の巻名がバラエティに濱
んでいたことの影響を受けた結果であると私は思う︒
﹁空蝉﹂や﹁蛸蛉﹂は︑なるほど︑最後に種明かしをす
‑ 8
るという趣向の技巧的な命名だし︑﹁澪標﹂や﹁薄雲﹂︑﹁御法﹂︑﹁幻﹂もその巻の主題や最も重要秀逸な場面を見事に言いあてているが︑﹃源氏﹄以前の題号は︑もっと素朴に︑冒頭や冒頭近くに由来してつけられたのでは
なか
ろう
か︒
以上︑古い形態の﹃伊勢物語﹄の冒頭が第六十九段であって︑現存本の第一段ではないことを述べて来たのだが︑両段の冒頭の一文に着目しても裏付けられる︒物語
の冒
頭は
︑
︹時︺+︹主人公︵若しくはその親︶︺+︹存在の動詞︺+︹過去の助動詞︺という構文である︒第六十九段の冒頭は
むかし︑男ありけり︒その男︑伊勢の国に狩の使に行きけるに︑⁝⁝
と右の公式を踏まえているのに対し︑第一段の冒頭はむかし︑男︑うひかうぶりして︑平城の京︑春日の里にしるよしして︑狩に往にけり︒と右の公式を踏まえて居らず︑﹁いわば︿伊勢物語馴れ﹀﹂しているのである︵注
l7
と考える余地が残る︒しかし﹁昔︑男ありけり︒その男︑ 型の原文を作品全体の冒頭たるにふさわしく書き換えた たとしても︑それは﹁昔︑男︑うひかうぶりして⁝⁝﹂ 男ありけり︒その男︑うひかうぶりして:・⁝﹂型であっ )︒仮に第一段の冒頭が﹁昔︑ 狩使本伊勢物語の時期には冒頭以外の位置I て﹂型に書き換えたのかわからない︒やはりこの話は︑ に据える際に︑何故わざわざ﹁昔︑男︑うひかうぶりし うひかうぶりして﹂型の原文を︑章段を作品全体の冒頭
﹃雅
平本
業平集﹄約七十首の六一番から六二番にかけて採歌されているところから推すと、終盤近くの位置ー~にあった
にもかかわらず︑初冠本伊勢物語の作者が︑そのもとの文章の名残りを多く残しつつ︑冒頭に据えたのであろう︒もっとも︑冒頭の一文はもっとバラエティに富んでいるという反論も予想される︒しかしそれは︑﹃源氏物語﹂の五十三の巻々のほとんどがバラエティに富んでいたこ
との影響を受けた結果であると私は思う︒例えば﹃更級日記﹄や﹃とはずがたり﹄などの日記文学︑﹃狭衣﹄や﹃浜松中納言﹄などの物語文学が和歌や漢詩を踏まえつつ華麗に書き起こしているのは︑﹁末摘花﹂や﹁玉墓﹂の巻頭を先縦としたのだというように︒本来﹁巻頭﹂は﹁冒頭﹂と区別してもよさそうなものだが︑﹃源氏物語﹄の一巻一巻は質量ともに︱つの作品に相当する場合が少なくないので︑そうした区別は曖昧になったのだろう︒しかしながら﹃源氏﹄以前の時期には︑もっとオーソドックスに公式を踏まえた冒頭だったのではなかろうか︒いったい︑現在の国文学界は﹁上代/平安/中世﹂という政治史的な区分を用いて文学史も鳥鰍しようとする
︐
姿勢が余りにも強いため︑﹃伊勢物語﹄の研究も︑同じ﹁平安文学﹂である﹃源氏物語﹄に引きつけてなされることが多い︒今後はむしろ上代文学にもっと引きつけてなされるべきだと思う︵注
18
据えられた磐姫の四連首は巻一の巻頭歌より明らかに時 のではなかろうか︒いっぽう︑﹃万薬集﹄巻二の巻頭に 選定に当たって︑このような上代文学的発想を尊重した 通点を持つ︒第三次伊勢物語の作者兼編者も冒頭章段の うに︑男女が契りを結ぶ︑又は︑成功讀であるという共 話︑﹃古事記﹂冒頭は伊耶那岐伊耶那美の聖婚というよ 本霊異記﹄第一話は雄略天皇とその忠実な随身・栖軽の 聞かな名告らさね:・⁝﹂と求婚する長歌であり︑﹃日 を遊覧する雄略天皇がその岡で菜を摘む少女に﹁⁝⁝家 )︒﹃万築集﹄冒頭は郊外
代は古いが︑悲恋の色彩が濃い︒﹃日本霊異記﹄第二話﹁狐を妻として子を生ましめし縁﹂も男が最後には妻の死を悼む和歌を詠むことになる悲劇である︒男が一人身でない西の京の女と密通して物思いに沈む話︑男が最後には恋人の死を悼む和歌を詠むことになる芥川の話などが第二の位置に置かれる排列と対応しているだろう︒万菓類歌が利用されることも増えた︵注
l9
)
第三次伊勢物語生成の時期とは︑即ち︑書物として﹃万葉集﹄が読まれ︑尊重されるようになった時期なのである︒但し︑第二次以前の時期には﹃万薬集﹄的発想が薄か ったかと言うと︑そうは断定できない︒第二次伊勢物語が一代記的構成を取らなかった理由については︑もう︱つ別の観点から考えなくてはなるまい︒﹃古事記﹄編者にとっての伊耶那岐伊耶那美︑﹃万葉集﹄や﹃日本霊異記﹄の編者にとっての雄略天皇は﹁あなたなる世界﹂に住む人であり︑本人はもとよりその子孫とも交渉する可能性が無い︒増益を続けている﹃伊勢物語﹄にとっても︑在原業平が﹁あなたなる世界﹂の存在になってしまわない時期には︑まだ一代記を作りにくかったのではなかろうか︒文芸的能力︑構成力の欠如のためと単純に言い切ってしまえない︑ノンフィクション文学独特の複雑で微妙な問題が潜んでいたように思われるのであ
る︒
以上で本節を閉じるに当たって︑私見をもう一度まとめておくと︑所謂第二次伊勢物語から第三次への変貌は︑自由な排列の狩使本から一代記的構成の初冠本への変貌として把握できること︑そして渡辺泰宏氏のあの高名な
論文は成立論否定のために書かれたようであり︑又︑こ
の論文も収録された平成十二年﹃伊勢物語成立論﹄を
﹁序章﹂から﹁あとがき﹂まで一読してみても﹁一回的成立﹂の旗印を掲げているように見えるが︑研究史上今後何世紀にも亙って伝えられていく際には︑逆に成立論の徹底という意義付けがされるだろう︑ということであ
‑ 10 ‑
三十むかし︑男︑はつかなりける女のもとに る︒﹁後撰集の頃の伊勢物語は現存本と違っていた﹂ということを片桐氏は主として章段の数の面で明らかにした︒渡辺氏は段序の面である︒その頃の伊勢物語の段序が現存本とはなはだしく違っていたことを指摘したのは︑少なくとも︑しっかりした根拠に甚づいて論証したのは渡辺氏にして初めて成し遂げられた快挙である︒
3 第一次第二次章段では︑困難と知りつつも一途で純粋な恋愛をして︑我が身の破滅をも厭わない昔男の姿がよく描かれている︒第一次章段である第六十九段の伊勢斎
宮との恋愛︑同じく第一次の第四段第五段の高子︵たかいこ︶との恋愛が最も有名な例であろう︒第二次の第四
十段も親の反対という困難が立ちはだかった恋愛であ
り︑昔男は女が出て行ったために気絶する程の一途さで
ある
うな例外も無くは無いが︵注 こうした恋愛讀の再演とも考えられる第六十五段のよ ︒
20
白せずに︑又は︑行動に出ずに︑一人悩む昔男の姿があ の新しい傾向として︑困難な恋を困難と知って︑女に告 ︑第三次﹃伊勢物語﹄)
る ︒
逢ふことは玉の緒ばかりおもほえてつらき心のながく見ゆらむ
五十四むかし︑男︑つれなかりける女にいひやりける︒行きやらぬ夢路をたのむ袂には天つ空なる露やおくらむ
五十五むかし︑男︑思ひかけたる女のえ得まじうなりて
の世
に︑
思はずはありもすらめど言の築のをりふしごとにたのまるるかな
五十六
むかし︑男︑臥して思ひ︑起きて思ひ︑
りて
暮るれば露の宿りなりけり わが袖は草の庵にあらねども ︑
五十七むかし︑男︑人しれぬ物思ひけり︒
もと
に︑
思ひあま
つれなき人の
‑ 11 ‑
恋ひわびぬ海人の刈る藻に宿るてふ
われから身をもくだきつるかな
七十三
むかし︑そこにはありと聞けど︑消息をだにいふ
べくもあらぬ女のあたりを思ひける︒
目には見て手にはとられぬ月のうちの
桂の如き君にぞありける
八十九
むかし︑いやしからぬ男︑我よりは勝りたる人を
思ひかけて︑年へにける︒
人知れずわれ恋ひ死なばあぢきなく
何れの神になき名おほせむ
来つつかへれど︑ 九十二
むかし︑恋しさに︑だにえせでよめる︒
鷹べ漕ぐ棚なし小舟いくそたび
ゆきかへるらむ知る人もなみ
の八つの章段がまず例として挙げられる︒
三十四むかし︑男︑つれなかりける人のもとに︑ 女に消息を 言へばえに言はねば胸に騒がれて
心ひとつに嘆くころかな
おもなくて言へるなるべし︒
も加えることができるかもしれない︒もし恋愛謂として読むことができるならば︑
二十九
むかし︑東宮の女御の御方の花の賀に︑召しあづ
けられたりけるに︑
花に飽かぬ歎きはいつもせしかども
今日のこよひに似る時はなし
も加えたい︒このように︑集成本﹃伊勢物語﹄の行詰め
を一応の目安とすれば和歌二行︑地の文ほぼ一行の短小
な章段が第三次﹃伊勢物語﹄に於いて目立つことは︑既
に﹃︹研究篇︺﹄の指摘するところである︒片桐氏は︑
付加増益によって出来た章段が︑既に存したものに 比べて量的に短小なばかりか内容的にも二番煎じの 域を出ず︑従って文芸的にも劣ることは一読して誰 し も が 惑 ず る と こ ろ で あ ろ う
︒
︵ 注 21 )
と述べている︒確かに短小な章段の増加は第三次﹃伊勢﹄
作者︵たち︶の文芸的な力の無さ︑第二次以前の章段へ
の依存に起因していようが︑同時に︑男主人公の行動力
の無さをも示している︒即ち︑これらの段は︑在原業平の高子や伊勢斎宮との恋愛を表わしているのだが︑同時
‑ 12 ‑
に﹁高嶺の花﹂とあきらめてしまう業平の姿勢をも示しているのである︒あきらめてしまった業平が和歌の詠み手︑即ち︑章段の主人公となっているか不明だが︑二十六
むかし︑男︑﹁五條わたりなりける女をえ得ずなりにけること﹂と︑わびたりける人の返りごとに思ほえず袖にみなとの騒ぐかな唐土舟のよりしばかりにもその線に沿った章段であろう︒七十四むかし︑男︑女をいたううらみて︑
岩根ふみ重なる山にあらねども逢はぬ日おほく恋ひわたるかなは︑和歌の部分の﹁にあらねども﹂に疑問が持たれて居り︑塗籠本の﹁はへだてねど﹂のほうが善いとする説もあるようだが︑第五十六段の和歌の部分の﹁にあらねども﹂と同じ様に︑﹁否定のための否定﹂でなく﹁比喩のための否定﹂と考えたい︒男主人公は︑恋の困難をやや誇張ぎみに表現して︑﹁岩根ふみ重なる山﹂を越えて行
く時と同じくらい困難だと言っているのである︵注
2
2)
︒以上︑短小な章段をおよそ十一個挙げて来たが︑その大部分に就いて︑自虐のおかしみが感じられるときもあ る︒第二次以前のな
かろ
うか
︒
﹃伊
勢物
語﹄
には無かった面白さでは
4 前節は﹁一途で純粋な恋﹂︵第一次第二次︶から﹁広
V
女性に情けを垂れ︑多くの女性たちに讃仰される恋のヒーローとして描かれ︑みずから恋に苦しみ傷つくことがないという描き方﹂︵第三次︶へという︑片桐氏の見解を敷術したものである︒特に前半はそうであった︒本節では︑﹃︹研究篇︺﹄にも述べられていない新しい観点を導入したい︒季節観とその季節ごとの自然の描写である︒現在の物語文学研究は準拠論や王権論など政治的な争いの足取りを辿るものが主流となっているが︑日本独自の文化を知る上でこうした視点はまんざら捨てたものでもないだろう︒何故なら︑管見の及ぶ限り︑フランスのアンドレ・ジット等の例外があるので一概には言えないが︑ドイツ文学やロシア文学等のヨーロッパ文学︑これも一概には言えないが東京や大阪を舞台にした現代日本文学は自然描写が作品の全体像を形成する上でそれ程大きな役割を担っていないように思われるからであ
世の中に絶えて桜のなかりせば 在原業平の自然詠で最も有名なのは︑ る ︒
‑ 13 ‑
や
六十六 春の心はのどけからましである︒同じ﹁春﹂を歌題とする﹁霞たち木の芽も春の雪ふれば花なき里も花ぞ散りける﹂︵﹃古今集﹄9
番︶
は︑
紀貫之の歌風を代表すると言われるが︑語戯や知的技巧
で周囲の人間を感心させるのが創作動機になっているとまで思われるのに対し︑業平実作歌及び﹃伊勢物語﹄の中の幾つかの章段の自然詠は︑﹁春﹂や﹁秋﹂という季節と︑その季節の景物への切実な愛着が根底にある︒さて︑右の歌を冒頭に置いた第八十二段は︑七夕という年中行事を主題とした贈答歌︑西の山に隠れる月という秋ならではの︑かつ︑﹁十一日﹂という時期ならではの歌材の贈答歌も続けた長い段となっているが︑非常に季節観豊かである︒夏の自然美が欠けていてバランスが悪いのは次の第八十三段まで視野を広げても同じだが︑かえって業平の好みを反映していて面白いではないか︒業平は桜の散った次の季節が嫌いなのである︒このよう
な夏嫌いのイメージが︑少し後に︑第一次第四十五段を産んだのである︒いっぽう︑第八十七段の中の
はるる夜の星か河辺の螢かもわが住むかたの海人のた<火か むかし︑男︑津の国にしる所ありけるに︑あにおとと友達ひきゐて︑難波のかたに行きけり︒渚を見れば舟どものあるを見て︑
難波津をけさこそみつの浦ごとにこれやこの世をうみわたる舟これをあはれがりて︑人々かへりにけり︒六十七むかし︑男逍遥しに︑思ふどちかいつらねて︑和泉の国へ二月ばかりに行きけり︒河内の国︑生駒の山を見れば︑曇りみ晴れみ︑たちゐる雲やまず︒朝
より曇りて昼晴れたり︒雪いと白う木の末に降りたり︒それを見て︑かの行く人のなかにただ一人よみ
ける
六十八 花のはやしを憂しとなりけり きのふ今日雲のたちまひ隠ろふは ︒
むかし︑男︑和泉の国へ行きけり︒住吉の郡︑住吉の里︑住吉の浜をゆくに︑いとおもしろければ︑
おりゐつつゆく︒或る人︑﹁住吉の浜とよめ﹂とい
ふ ︒
雁鳴きて菊の花さく秋はあれど春のうみべに住吉の浜とよめりければ︑みな人々よまずなりにけり︒
‑ 14 ‑
の三連続章段︑更には︑東下り三河の国八橋での物語と角田河での物語との間に割り込むようにして増益された富士の山を見れば︑五月のつごもりに︑雪いとしろう降れり︒時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむなどは全て︑その土地独特の風景を歌材にしている︒特に第六十八段は︑美しい風景に感動しやすかった業平の性格を窺わせている︒このように季節観や自然の描写が大きな役割を担っているような章段は第一次第二次の中には︑他にもあろうが︑第三次章段の中には全く見られない︒例えば第九段東下りの物語の︑三河の国八橋での物語と富士の山の詠歌との間に割り込むようにして増益された宇津の山にいたりて︑⁝⁝京に︑その人の御もとにとて︑ふみ書きつく︒
駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけりも︑業平とその女性︵高子か︶との恋愛や別離にのみ作者読者の関心が向いていて︑宇津の山容の美しさに感動した自然詠とはとても見倣せない︒唯一の例外が
九十
一
むかし︑月日のゆくをさへ嘆く男︑三月つごもり がたにをしめども春のかぎりの今H
の日
の
夕暮にさへなりにけるかなであるが︑これとて︑副助詞﹁さへ﹂によって業平のか
なわぬ出世や恋の歎きのほうを読者の前に大きくクローズアップする結果になりかねないのである︒およそ五十段から成る第二次伊銹物語は自然描写︑零落した惟喬親王への忠誠︑友情︑親孝行などなど様々な面を浮かび上がらせて業平のバランス良い人間像を構築したが︑第三次章段の増益者は業平の恋愛にのみ興味を持って︑その恋愛の性格を充分踏まえた増益ばかりする︵このような偏りは両業平集の編纂者とは無関係であろう︒両業平集の編纂者が︑目の前にあった百二十五かそれに近い数の章段から成る伊勢物語の歌を採る際バランスを慮って自然詠は全部採り︑恋愛諄の章段は数が多過ぎると言って半分を捨てる︑というような踏み込んだ取捨選択をすることなどまさかあるまい︒︶︒この事実は
﹁芸術作品とその享受﹂という一般論を考える際にも極めて興味深いと思うのである︵注
23
)︒即ち享受者
は︑恋をする先人に感情移入し︑その先人に成り代わって相聞歌を詠んだり他の歌集の相聞歌を持って来たり︑或いは相聞でない歌にも恋の気持ちを潜ませたりするものだが︑どこそこの風景に感動したり月や花を愛でたり
‑ 15 ‑
する先人には成り代わらないのである︒レオナルド・ダ・ヴィンチのあの代表傑作がスケッチされる場合︑モナ・リザ抜きで自然描写が抄出されることは極めて少な
<
逆に︑今私の手もとにある小学館版﹃週間美術館﹄6︵平成十二年三月︶の表紙がそうであるように︑自然描写抜きでモナ・リザが抄出されるのは極く普通のことなのだ︒同書3
的であるらしい︒しかしながら︑専門家ならぬ我々の目 ンチ独特の手法が取り入れられていて︑それなりに画期 ﹁空気遠近法﹂という︑普通の遠近法とは違うダ・ヴィ 3ぺ︶ジに拠れば︑背景の山岳風景には
により強く焼きつくのはやはり微笑んでいる美女の肖像のほうであり︑ナポレオンが切り取った左右7センチの中に湖や岩肌の一部も含まれているとすれば︑芸術作品の中で﹁自然描写﹂の部分がいかに軽んぜられやすいか︑次代に受け継がれにくいかを物語っている︒ところで本節は︑私が初めて導入する新しい観点だと述べたが︑正確に言えば︑﹃︹研究篇︺﹂の第二篇︵八七頁以降︶で強調されていないだけであって︑第一篇で伊
藤博氏の論文が援用されている次のくだりなど貴重なヒ
ント
とな
った
︒
︵﹃万葉集﹄の︶三七八六の場合﹁春さらばかざしにせむとわがもひし桜の花は散りにけるかも﹂という 歌を︑単なる自然の詠とはとらずに﹁春が来たら結婚したいと自分が思っていた︑桜の花のように美しい彼女はこの世を去ってしまった﹂との意を隠したものとして︑︵和歌の作者とは違う増益者が︶﹁昔者有娘子
1︒字日桜児二
. . . . .
﹂という題詞をつけたと考えられるのである︒
(4 2
ー
4 3
頁︒但し︑丸括弧内は引用者︒又︑傍記は省いた︶歌の作者が純粋に自然を詠んでいるときでも享受者は単なる自然の詠とはとらずに何らかの恋の気持ちを隠し
たものとする傾向は︑所謂アルファベット章段を含む
﹁伊勢物語﹄の少なからぬ章段を研究する際にも︑又︑﹃伊勢物語﹂という作品全体の増益の過程を総合的に把握する際にも︑念頭に置いて然るべきであろう︒﹃伊勢
物語の研究︹研究篇︺﹄は︑やはり︑歌語り的文芸一般に関する鋭い考察であり︑世紀が改まっても二次文献三次文献の要約に拠らずに︑読み継がれて行って然るべき名著であると改めて思うのである︒
勅撰集︑﹃後撰集﹄︑﹃新勅撰集﹄の﹁撰︵せん︶﹂の字は︑右側上部は﹁巳﹂を二つ並べるのが正しい表記であるらしい︒‑比較的最近出版された︑明治書院版﹃日本古
注
‑ 16 ‑
典文学大事典jもそのような表記である︒しかしながら︑パソコンの機種のせいで︵或いは︑私の操作能力の欠如のせいで︶︑そのあたりを正確に表記できない︒諒とさ
れた
い︒
( 1 )
平成十二年に上梓された︑渡辺氏の単行本﹃伊勢物語成立論﹄にも︑若干の加筆修正を経て︑収録された︒引用はこの単行本に拠るC
( 2 )
昭和四十七年﹃伊納物語の成立と伝本の研究﹄第二篇第三章︑平成三年﹃伊勢物語成立論序説﹄第三篇
第四
篇等
︒ ( 3 )
﹃平安文学論究﹄第十四輯所収
( 4 )
﹁続詔第二﹂の補節でも触れた︒
( 5 )
﹃中
古文
学﹄
4
7号所収
( 6 )
﹃源氏物語﹄は発表当初から﹁かなり広い読者層﹂を得たという通説に従う︒有名なのは﹃更級日記﹄﹃狭衣物語﹄﹃浜松中納言物語﹄﹃堤中納言物語﹄などであるが︑﹃後拾遺集﹄も光源氏を意識していたこと︑清水好子氏﹃源氏物語論﹄︵昭和四一年︶第三章が論証している︒もっとも︑以上のように﹃源氏﹄の詞章を踏まえたり作中歌を本歌取りしている散文作品や歌集でなくとも︑その作者や詠者︵編者︶が﹃源氏﹄を読んでいなかったとは言えないであろう︒
( 7 )
﹃源氏物語﹂の引用は︑新編全集本に拠る︒
( 8 )
﹃伊勢物語﹂の引用は集成本に拠る︒
( 9 )
本論では譲歩してこのような言い方をしたが︑理論上はともかく現実問題として十世紀の私家集の編者が︑﹃古今集﹄や﹃後撰集﹄と照合して業平実作か否か検証したということは私には考えられない︒当時の文学作品に﹁著作権﹂という概念は無かったとよく言われる︒一定の量を持った日記や作り物語には作者の個性は強く存在すると私は思うが︑短詩型文学の場合︑個性を発揮することよりもその場の状況や相手の言葉に合わせることが大切であり︑﹁著作権﹂という概念は薄かったであろう︒従って︑当時の歌集の編集者は少なくとも現代の学者と比べて︑もとは誰が作った歌な
のかに関して正確を期していたとは思えない︒特に
﹃雅平本業平集﹄の編者は学者として歌集を編むと言うより︑私的な手控えを作るために目の前にある伊勢物語のほぼ全ての章段をダイジェストするという姿熱だったのではなかろうか︒ひょっとすると本文を充分注意して読まなかったと思われる第八十七段冒頭と第一段とからの採歌もメモ的性格を表しているし︑
和歌の後の﹁とていれつ﹂﹁さてのち︑このうたをいヘあるじきヽて﹂などの文言も物語のダイジェスト的な特徴である︒
‑ 17 ‑
(l o)
引用は︑昭和四十四年片桐洋一氏﹁伊勢物語の研究︹資料篇︺﹄に拠り︑昭和四十四年﹃私家集集抄一﹂
と照
合し
た︒
(l l)
引用は︑注
(1 0)
と同じく﹃︹資料篇︺﹂に拠り︑昭和四十四年﹁私家集集抄一﹄と照合︑平成十年﹃和歌文学大系﹂+八も参照した︒
(1
2)
片桐氏はここで﹁現在の研究者が︑業平作の和歌であるか他人の詠であるかを弁別し得るのは︑各種索引等によっている︒当時資料は多く︑編者の知識も豊富だったろうが︑それを学問的に操作して作者を考証するような態度があったとほ考えられない﹂という主旨のことを述べて居られる︒そして︑平安時代から
江戸の初期まで︑人々は伊勢物語の﹁昔男﹂の歌のすべてを在原業平作だと信じ切っていたことを実証するために︑第︱二段の﹁武蔵野はけふはなやきそ⁝⁝﹂︑
第八
七段
︵七
八段
とあ
るの
は誤
植で
あろ
う│
│'
田村
注︶
の﹁芦の屋の灘の盪やき⁝⁝﹂︑第六五段の﹁おもふにはしのぶることぞ⁝⁝﹂を始め︑第二九段以下八つの段の和歌も、「大鏡」や新古今集•新勅撰集において業平作とされていた事実を挙げている︒ところで︑第八
七段﹁むかし︑男︑津の国菟原の郡︑蓋屋の里にしる
よしして︑いきて住みけり︒昔の歌に鷹の屋の灘 の塩焼きいとまなみ黄楊の小櫛もささずきにけり
とよみけるぞ︑この里をよみける︒ここをなむ直屋の灘とはいひける︒この男︑なま宮仕へしければ︑それ
を便りにて︑⁝⁝﹂はちょうど第九段第一段落と同じく︑ストーリーの展開を急がず︑その土地の︵特に地名の︶説明に言葉を費やしているのであって︑﹁昔の歌﹂を業平がかつて詠んだ歌と解釈する余地は全く無い︒林克則氏﹁新古今集の撰集と典拠伊勢物語﹂︵平成十二年二月﹁国語と国文学﹂所収︶は︑しかし︑右のような解釈が古くから存在していたことを︑室町期の注釈書である曼殊院蔵﹁経厚講伊勢物語聞書﹂に﹁⁝⁝只業平ノ歌也﹂という記事があること︑﹁雅平本業平集﹄
が採歌していることを根拠に︑主張なさっている︒﹁新古今集﹂一五九0番が﹁業平﹂作としているのもそのためだとのことである︒私はまず第一に︑﹁経厚講伊勢物語聞書﹂が室町期の文献であるなら︑業平実作説の源流が鎌倉期の﹁新古今集﹄にある可能性が残ってしまうので︑今回の論文を読んだだけでは従いがたく思う︒又︑﹁雅平本業平集﹂は第一段の第二首の扱い︑第二段の和歌を採歌した五十五番の﹁この京にありしに﹂
という言葉遣いなど︑熟考すればやや不得要領と感じざるを得ないところがあり︑この歌の扱いについてもその線で考えるべきではないか︒
(1 3)
平成四年拙稿﹁盛夏の螢そのほか
I
幻巻のな‑,18 ‑
﹃富山大学人文学部紀要﹄ か の 勢 語
﹂
︑ ( 収 ︒ 14 )
﹃国語と国文学﹄昭和五十八年十二月号初出︒平成十二年﹃伊勢物語成立論﹄にも収録︒
(1 5)
本拙稿序節に記した﹁伊勢物語作者論序論﹂︒ニ
五一
頁参
照︒
(1 6)
本拙稿本論では︑﹁近代文学的﹂という言菓を︑十九世紀アメリカを舞台にした﹃
G o n e w i t h t h e w i n d
風と共に去りぬ﹂や二十世紀フランスの﹃
B o n j o u r t r i s t e s s e
悲し
みよこんにちは﹄︵フランソワーズ・サガン著︶を念頭に置きつつ︑用いている︒二つのタイトルはそれぞれの作品の主題をものの見事に言い表しているし︑しかも︑最後の場面に由来する言薬︑或いは︑最後のセンテンスであるから︑まさに﹁種明かし﹂﹁暗号を解く﹂と言った趣向の命名である︒
(1 7)
昭和六十二年片桐洋一氏﹃伊熱物語の新研究﹄第三篇第五章
(1 8)
例えば︑第九十八段で昔男が太政大臣に梅に雉子をつけて贈る場面︑梅が﹁造花﹂であるのは太政大臣への﹁毒﹂が含まれていて︑第九十六段の失恋に拠る﹁ストレス﹂の発散︑﹁八つ当たり﹂と読み解く説もある︵田口尚幸氏﹁すさみゆく昔男﹂﹃国語国文学報﹄ 第十八号所平成十三年三月号所収︒但し︑インターネット上でも公開されていて︑引用は後者に拠る︒田口氏のホームページアドレスは︑﹃平安文学論究﹄第十四輯所収の同氏の論文等に記されている︶が︑﹃万薬集﹄四二三一番i四二三二番︑造花の﹁なでしこ﹂を主題とした二首を読むと︑﹁造花﹂だから﹁にせもの﹂﹁見せかけ﹂と決めつけるのは現代的惑覚で︑古代文学に於いてはむしろ︑季節を分かずに咲く花は︑﹁変らぬわが心であることの表明﹂︵新大系︶であり強い敬意であるように思われてくる︒ともあれ︑第一次1第三次のいずれの時期であるかを問わず︑﹃伊勢物語﹄の研究にはもっと﹃万菓集﹄や万葉的発想が重んぜられて然るべきである︒(
19 )
例えば︑渡辺泰宏氏﹁伊勢物語における万薬類歌ーーその典拠と採用の方法ーー﹂︵﹃平安文学論究﹄第十四輯︶に列挙されている万葉類歌はほとんどが伊勢物語第三次章段やアルファベット章段に見られる︒同論文の﹁二︑﹂﹁三︑﹂には特に貴重な指摘が含まれて居り︑参照されたい︒
(2 0)
平成三年﹃伊勢物語成立論序説﹄︵山田清市氏︶
三三
i三四頁
(2 1)
二四一頁︒﹁量的に短小な﹂章段の例として︑第三段︑第六段︑第七段︑第八段︑第一︱段ーー第一五
段︑第七0段1第七十三段が挙げられている︒
‑ 19 ‑
(2 2)
﹁続詔第二﹂の第1節を参照されたい︒
(2 3)
一般に︑片桐氏の研究は﹁文学作品の享受﹂という問題に目を向けさせたところにも意義がある︑と
よく
言わ
れる
︒
‑ 20 ‑