責 任 の意 味 とその育 成
西 村 香 積 (責任の意味)・・・- 「責任がある」
「責任をとる」 というのは一般的にい って,「ある人の 行為や行為の結果がその人の自由な意志決定 による結果であること,あるいはあるとされ ること」である。 したが って責任 は行為 とその結果 にかかわるものである。議員が収賄行 為を し,それが議員 自身 による意識的な行為であると自分で認 めた場合 は責任をとること になるし,認 めな くて も社会がそのように認識 した場合,彼 に責任があるとい うことにな る。 たとえ, 自分 の行為の結果が, 自分の意図に反 した結果を生んだ として も責任 は生ず る。学校でのい じめがあ った場合,直接 い じめを行 った生徒 に責任 はあるが,教師,学校, 教育委員会 も責任を とらされることがある。教師や学校,教育委員会 はい じめを意図す る ことなどあ り得ないけれども, い じめの行為の結果 に対 して,それを予見で きなか ったと すれば,行為の結果を洞察す る能力が欠 けていたという理由で, い じめ行為の責任の一端 を彼 らに帰せ られることになる。 この ことについてはヘーゲル 「法哲学」のなかに,責任 が拡大す ることは不本意であろうが,結果の洞察が欠 けていたことは責任の根拠 となる, と述べた。「放火の場合 に火事 にな らなか ったとか,あるいは逆 に火が放火者 の思 った以 上 にひろがるとい うことがあ りうる。-- 『手か ら投 げ られた右 は悪魔の もの となる』 と いう古諺 はいみ じくもいった ものである。行為す る以上 は私 は不運 に自分 自身を委ねるの である。 したが って不運 は私 を襲 うひとつの法であ り,私 自身の意欲の実現である」(1) (義務の意味)-- 「義務がある」 というのは一般的にいって,「あ る人 が行 わなければ な らないこと, または行 ってはな らないこと」をさす。 たとえば,納税 とか,契約 は無断 で放棄 してはな らない,などをさす。義務 と責任の関係か らいえば,義務 とい うのは, ち し果たされなければ責任を問われ る行為であるか ら,納税の義務 を怠れば,納税を 「意識 的に自分の行為 に しない」 という意味で責任を問われることになる。納税を希望す る人間 などいないか ら,納税をは じめか ら自分の責任 と考え 「意識的な自由意志による選択行為」 にす る人 はいないだろ うが,動機 はともあれ,行為の結果 として納税 されていれば, 「意 識的行為」
とみなされ,責任を問われないだけの話である。生徒 は義務教育 においては就 学 の義務 により学校 に通学す る。 しか し,本当に責任を もって, 自覚 して通学 しているか どうかは別であって,責任 は人間の内部 にまでは立 ち入 らない。 ・義務でない行為 までが義務 とみなされ,責任を問われ ることがある。.たとえば漢字 テス 1 -17-トで満点を とることが義務づけられ,責任 とされる場合がある。 これは正 しくない。 漢字 テス トで
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点をとることは親の期待ではあって も,親や社会か らか強制 され る義 務ではない。生徒が数学や理科の学習が苦手で理解が遅れている場合で も,それはその生 徒の個人的学力の差,個性甲差であり,大器晩成型の人間 もいる.だか ら成績が悪いといっ て道徳的責任を問われることはない。それは個々の生徒 に課せ られる義務で も責任で もな い。 ところが現実をみると,それとは逆 に,競争原理のなかに生徒 は投 げ出され,競争 に 勝っ ことが個 々の生徒 に必然性をもって迫 る義務 とな り,責任の重圧が容赦な く生徒 にか か って くる。 これは立場の逆転である。 これでは生徒が学校教育を忌避するようになるの も偶然ではない。 (責任の語源について)--次に責任の本質を考察するために,責任の語源的意味を考察 してみよう。責任の語源的意味を古代か ら現代 までの文献で研究 してきたホルによると,(
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従来か ら,古代ギ リシャでは,責任 という言葉 自身の存在が希薄であったといわれてき た。 その理由としては,奴隷制度を根幹 としていた古代 ギ リシャでは,元来奴隷 に自由が ないか ら,責任を負わされることもな く責任を自覚す ることもなか ったので,それに関連 す る言語の存在 もまた希薄であった, と一般 に主張 されている。(b)ホルによればそれは歴 史的事実 に反す るという。「本質的に自由ではない奴隷, ア リス トテ レスが生 きた道具 と 名づけた奴隷 は, 自分 に対す る責任を自分が負 うのではな く,主人が担 っているのだが, そ ういう奴隷で も責任を問われている事実がある」 という。 (C)だか らホルは, 自由がな く て も責任を問われるのだか ら,「自由は責任の前提条件である」 とか 「自由は責任 の尺度 である」 という規定 もあや しくなって しまうと, いっている。 しか しホルの主張 も少 し考 えてみれば正 しくないのであって,奴隷 といえども強制 された仕事 において,たとえば石 臼を回す作業 をする場合に,気合いを入れて回すか,怠 けて回すかは,たとえ主人の鞭の 下での作業で も,結局 は奴隷の内面的な自由意志 が選択す る問題 であるか ら, そ こで は 「自由は責任の条件である」 という規定が,不完全な形ではあるが存在 しているといえ る のである。責任 という言語の存在が希薄であるという条件 は,奴隷の責任が不完全である という条件か らきているものと考えることが最 も正 しいといえる。 ホルによれば,責任 という範噂が思想のなかに入 ってきたのは1
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世紀のことであって, スチュアー ト・ミルの 「自由論」
とかペイ ンの「
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」(
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のなかであるというO彼 は,1
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年のグ リムの 「ドイツ語辞典」および1
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年のアーデル ングとカンプによる 「フランス語語源辞典」を引用 しなが ら, ドイツ語の責任(
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は,他のそれに相当するヨーロッパの言語 と同 じく, その発生 はそんなに昔 の ことではない, と指摘 している。 この辞書 には,Ve
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という言葉 は出ている が,その場合,、
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(正当化す る) という意味で用い られていると述べ, ドイツ語の責任 「Verantwortung」は他の ヨーロッパ言語での責任に対応 しなが ら,近世 に おいて発生 してきた ものだと述べている。 また, ムズ ドィバーエフは責任 という言葉を, 西欧の言語 において語源学的に調査 し,たとえばロシア語の場合
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年の 「アルファベッ ト式 ロシアアカデ ミー辞書」 において,責任の意味は 「あるものに対す る責任 における」 義務 とされてお り, ダー リの 「生 きた大 ロシア語解釈辞典」(
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によると,責任 は 「何かに対 し何かで もって応える義務,何かについて答えを出す義務」 であるとい う。 ム ズ ドィバーエフは結論 として,個々のニュアンスは別 として,主な ヨーロッパ言語の 「責 任」 という言葉の意味 は一致する, という。たとえば,Responsibility(責任)がrespo-nse(返答)か らでているように,VerantwortungもAntwortか らでている。 ロシア請 のア トヴィーツゲィェンノスチも 「返答」を表す意味の語であるか ら, ほとんどの場合, 責任 という言葉の意味 は 「何かについて答える責任」であることがわかる。 このようにど の言語の場合で も責任の意味は同 じであって 「ある行動 に対 して応答 しなければな らない 場合に」責任が生ず る。親が病気である場合,子供が介護をす ることが社会的に必然性を もっているとすれば, そ うす ることは子供の義務であり責任 として自覚的な自己の行為 と しなければな らない。福祉が発達すれば子の責任でな くなる。だか ら,責任行為の内容 も 歴史的に変化す るといえる。無人島のなかで孤独でいる人間には義務 も責任 もあり得ない。 また自分の利益や関心だけを追及 している人間には,責任概念 は無用の長物である。だか ら,応答す る責任 とは,人間関係があって こそはじめて生 じて くるのである。 (ア リス トテ レスの責任論)--彼のニコマコス倫理学 においては,倫理学 と政治学 は行 動の学問 と呼ばれ, 自分の行動 に対 し責任を もっ人間,行為の自由選択 に関連す る学問で あるとされる。 この場合の人間 というのは,古代ギ リシャの奴隷ではな く自由民や貴族の ことを対象 に している。周知のように彼 は奴隷を人間にいれていないか らである。 彼 は責任 と社会的義務が関連 していることを理解 し, この問題の解決を実践的関係 (道 徳や政治)の面 に移 してる。 ア リス トテ レスの原点 は,人間は行為を決定する自由があり, その場合においてのみ責任が生ずるという考えである。人間に関係す ることにだけ責任が 生ず る。「たとえば宇宙 について,あるいは対角線 とその一辺が通約 しえない とい うこと についてひとは思案をめ ぐらさない」 (4),それは月 との距離などの事柄 は人間によって決 め られる問題ではないか らである。人間が世界中のこ とを決定す るのではな くて,人間が 決定できるのは 「われわれの力によって生起す るかぎりの ことであって, いっ も同 じ仕方 で生起するとはか ぎらないものについて,われわれは思案をめ ぐらす のであ る(5)。 人 間 が知 らないうちに行 った行為 に責任 はあるか, もし行動 に自由がないとした ら責任 はある か, という問いに答えるために, ア リス トテ レスは本位 と不本意の行動の研究をお こなっ た。彼 は, 自分の本当の意志か ら行 う本意の行動 と,そ うでない不本意の行動に関連 して, 1
責任を合理的に説明をす る。「強制 による行為 と無知のゆえの行為 が不本意 な行為であ る か ら,本意か らの行為 とは,その始 まりが行為するひと自身の うちにあ り,かつ,行為を 構成す る状況をそのひとが知 っている場合の ことである」 (6)本意の行動 については理解で きるが,不本意の強制 された行動 とは何を意味す るのだろうか。 ア リス トテ レスは,そ う い う行動の ことを,行動の原因が外部 にある場合であると規定 している。 「た とえば, 港 上 の風 とか権力を もっているもののために,人間がどこかへ行 き着 くという場合である」 しか し人生 においては,あれ これの行動が本意であるか不本意であるかを規定するのは非 常 に難 しい, と彼 はいう。「たとえば, 自分の親や子 に対す る支配権を もっている暴君が, ある者 に破廉恥な行為を行 うことを命 じ, これをすれば,親や子が救われ, しなければ, 殺 されるというような場合に,それをす るのがはた して不本意な行為であるのか,それ と も本意か らの行為であるのか」(7)嵐の時に,財産を船の外 に投 げ出す際にも同様なことが 起 きる。だれだって自分の財産を自分の意志で投 げるものはいないけれども, 自分や残 っ た ものを救助するためとあれば,理性的な人間は投棄す ることは当然である」 ここで述べ たような行動をみた場合,一見 したところ,行為の選択で もある し, 自分の意志で行為を しているように見えるか ら,本意的行為であって行動 には責任があるように見える。 しか し,嵐 とか暴君が存在 しなければ,投棄 とか破廉恥な行為 もお こなわれなか ったのである か ら, それは強制 された行為,不本意行動である。 このように同一の行為で も,ある場合 には本意行動,ある場合には不本意的行為 とみなされる。 ア リス トテ レスは無知で行われ た行為 には責任がないが,意識的に選択 された無知 は不本意行動ではな く,道徳的退廃の 源であるといっている。 そのような無知 は 「罰 に価する」 し,その場合責任をとらなければな らない。教育の発 達 した国々では,人々には認識的義務 (教養)があ り,その義務 を自分の責任 とす るよう 求 め られる。つまり一定の市民的教養を身 につけることが人々の責任 となる。人間には, 知 ることができるし, いや知 らなければな らない事柄がある。 そ ういう事柄を知 らないか らといって行為すれば責任問題が生ず る。「彼 にはみずか ら酔 っ払 わないでいるだけの力 があった。 ところが酔 っ払 ったのが無知の原因 となった
」
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「立法家 は,そのひと自身知 ら なか った場合で も,そ して,そのひと自身 に無知の責めがあると考え られる場合には, こ れに懲罰を加えるのである」 (8)法律を知 らないか ら責任 もないということにはな らない。 法律を知 ることは義務なのである。「知 ることは当然であ り,難 しい ことで はない, とい う規定のために無知 は罰せ られるが,それ と同 じことは,無知 は人間か ら生ずるか ら,無 知 は不注意 によって起 きる, という場合にもいえる。
」 (9)無知 による結果,生 ず る行動 を ア リス トテ レスは考察 し,「人間は善 い道徳的な観念を形成することがで きる, だか ら自 分の行 う行為 には責任がある。」結局, 自分 の行動 の結果 につ いて人 間 は予見す る責任 (認識的責任)があ り,予見す る場合 には,無知か ら生 じた行動の結果 に自分 の責任 があると主張 しているのである。 (近代思想 と責任)-- このように,古代の哲学 に目をむけたが,それはすでに古代の哲 学において,社会的責任の本質や特性などについて科学的な解明が一貫 して行われてきた ことを示すためである。 ところが,産業や技術の発達 によって,人間が自己の行動を自分で選択できる可能性が 飛躍的に増大す るにつれて,責任の問題を 「決定論 と非決定論」の立場か ら,すなわち人 間の意志の自由をめ ぐって解決 しようという理論が現われる。 したが って,近代思想の場 合,意志の自由と責任の問題 は 「決定論 と自由意志論」の二律背反か ら出発する。 (a) カン トの場合--・カン トは,近代への移行の時代 に生 きた思想家 として,決定論 と自 由意志論の間の論争を検討 した
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年代 とその後の批判期 との考え方 には明確な違 い がみ られるが,彼 は就職論文 といわれる 「形而上学的認識の第-原理」のなかで,架空 の人物であるティティウスを決定論者, カイウスを自由意志論者 という想定の もとで二 人 に討論 させている。5
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年代 においては彼 自身 は決定論者の立場をとっていたので,同 時代のクルージウスなどの, 自由選択があるか らこそ責任を もっ ことができるという主 張にはな じまなか った。 自由のない因果律が人間の世界 も支配 しているか ら,本当は人 間の行為 には決定論が貫かれているが,ただ,因果律が人間の行為 において働 く時,そ れは必ず人間の欲望 とか意志 という精神を通 して現象するので,そこに人間が自由に選 択で きる余地が生ず る。 したが って,人間の行為 は決定論では律 しきれない, というの が,1
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年代の彼の考えであった。批判期になってか らは,英知界 と自然界の区別,英 知界での実践理性の自由が強調 される。その立場か ら,人格の自由を根拠 に して責任を 論 じる。 たとえば,他人か ら脅迫 されていやいやなが ら家の掃除を したとして もその結 果 について責任を問 うことはできない。だか ら責任を問われるということは自分が自由 な人格であるということを認め られていることである。 自由な人格を もっている限 り, 行為 はその人格の意志決定の結果によるものと考え られ,責任 はその人格に帰せ られる のである。責任があるということは人格があるということ,つまり自由な理性的存在者 であることを意味 している。人格 は責任の存在根拠であると彼 は指摘 している。 (b) スチュアー ト・ミルの場合--責任概念に関 して 「自由論」のなかで理論的に考察 し 責任が社会的条件の もとで発生す ることを述べている。警官が単 に酔 っぱ らっているか らといって処罰 されるべ きでない。だが警官が公務中に酔 っぱ らっているな ら,処罰 さ れて当然である。「要するに,個人 に対 してか,あるいは公衆 に対 して, 明確 な損害 ま たは明確な損害の危険が存在する場合には,問題 は自由の領域か ら除かれ」 る。 このよ うに 「自己のみにかかわる行為」 と他の人にかかわる行為 とは明確 に異 な り, 「他 の人 ・または人々に対す る明白な,指定することので きる義務 に違反するようになるな らば, ヽ--本来の意味における道徳的非難を うけな くてはな らない」。親 といえ ど も 「家族 に 対する道義的責任を引 き受 けていなが ら,同 じ原因によって,彼 らを扶養 した り教育 し た りす ることがで きな くなった りす るな らば,彼 らが非難 されるのは当然であ り, また 処罰を うけることも当然であろう」(10)このように責任 と社会性の関係を述べるとともに, ヘーゲルが責任をSchuld(罪)の概念 と関連 させて考 えたよ うに, 彼 も罪 とか非難 に 対す る責任を特 に強調 した。 (C) サル トルの場合・・・-現代では 「決定論 と自由意志論」の対立 は次第に顕著 になってき ている。人間の絶対的な責任 は,「われわれの自由の結果の単なる論理的な要求である」 (サル トル) このように,人間の行為選択の自由を絶対化す る考 え方 が実存主義 の土台 になっている。 これはいわば典型的な意志の自由論である。 そうなると,責任を問 う意 味 も無 くなって くるのではないだろうか。すべて自分で決定 した行為が正 しいのであれ ば,道徳的規範の存在 も無用 になって しまい, どのような行為を行 って もそれは責任あ る行為 ということになって しまう。 その点 についてすでに私 は,詳細に批判をおこない, 極端にいえば,サル トルの意思決定の絶対化を進めてい くと,たとえば高校生などの援 助交際容認論 にまで行 きつ く恐れがあるという危幌を表明 しておいた。
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個体発達の分析か らみた場合--児童か ら大人への人間の成長 に応 じてどのように責 任意識が発達するのかについて ピアジェなどの考えをみよう。先に見たように,狼 に育 て られた人間は人間 としての人格が形成 されない。だか ら責任意識の形成の決定的要因 は人間社会であり, また人格が形成 されて くる歴史 にある。 したが って,個体の発達の なかでの責任の形成 も結局 はその土台 に歴史が存在 していることがわかる。 しか しなが ら,社会を土台 とした個人の人格形成をみる場合,責任が形成 されるそれぞれの段階は その人の人格の発達の程度 と関連 している。つまり, 自立 した社会的責任の自覚を もつ 人格 は,個体が一定の発達段階にな らないと形成 されないが,幼時期か ら成長す るにつ れての責任の形成 は, ピアジェの認識の発生学的研究 にみることがで きる。 ピアジェの 結論 は,道徳的意識の発達 は,子供が直接 に社会的経験を獲得 した結果ではな く,彼 ら が周囲の社会や他の人々と,積極的に能動的関わ りを もっていくなかで行われる, とい うことであった。 ピアジェは子供の発達を基本的に二つの段階に分 けた。そのひとっは客観的責任の段 階, もう一つは主観的責任の段階である。客観的責任の段階 というのは,子供の責任の 発達を観察す る際に,子供が与えた損害の大 きさと結 び付 けてみる場合に現われる。そ の例 としてあげ られているのは, ジョンは自分の部屋で遊んでいて, ご飯ですよと食堂 に呼ばれ,彼 は食堂の ドアをあけた。 そのとたんに, ドアの裏側 に並べ られていた茶碗 を1
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個割 って しまう。 もちろん うっか りして,そこに茶碗があるなんて分か らなか った か らだという、ことはだれにもわかる。 もう一方でヘ ンリーは,母親がいない留守 に許可な しにジャムを戸棚か ら取 り出そ うとして茶碗を
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個割 って しまった。 どちらの責任が 重 くみ られたか というと,普通な らヘ ンリーの方の責任がより大 きく問われるのだが, 子供たちの判断では,1
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個を割 ったジョンの方である。それは7
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才 くらいまでの子 供の場合, より多 くの茶碗を割 った具体的な結果が問題 とされるのであ り,多 く割 った 子供 は親のいうことを聞かない子供だと思われるか らである。すなわちどうして割 った か という行動の動機を問題 にす るのではな く,現実の損害の大 きさが問題 となる。 この 責任の段階を ピアジェは客観的責任 (客観的道徳性) と名づける。 それに対 して,主観 的な意図を重視する考えを主観的責任 (主観的道徳性) とした。(12)これを歴史的な発 達段階でみた場合,客観的責任を重 く見 るということは, タリオ ン (応報 の原則), つ まり 「目には目を,歯 には歯を」の原則 に忠実であるということを意味する。歴史上で のタ リオ ンの原則 は,近代以前,それ も原始社会,氏族社会 に基本的に見 られる責任の 原則である。 次 に,主観的責任 とはなにか というと,たとえば子供 には12-3才 ころまで に主観 的 責任が形成 されるといわれる。今度 は行為の結果ではな く動機が問題 にされる。 うっか りして偶然に茶碗を割 ったのか,故意 に割 ったのか, ということが問題になる。子供の 個人的発達の面か らみれば,責任の認識が結果か ら動機へ と移行することは,道徳的現 実主義か ら自律的道徳や社会的意義の理解への移行を意味すると, ピアジェはいう。(13) 客観か ら主観的責任への移行 は段階的に行 なわれ,子供 は7,8才ですでに集団的な習 慣が生 まれて集団の相互依存の意識が生 まれ,仲間の間の規律の統一に関心を持 ち始め るという。 そ うなると責任 も,集団の規律 に対する侵害 という意味でまだ感覚的ではあ るけれども認識 されるようになる。その場合,規律 に対 して もある程度の自覚 した理解 ができて くると考え られる。 コールバーグの場合,責任意識の発達を6
段階に分 けた.彼 は,道徳的デ ィレンマを 設定 して実験 し,その研究を通 じて子供の道徳的発達の段階を考察 した。たとえば,盗 んではいけないという道徳律 と人の生命を救助 しなければな らないという道徳律のジレ ンマを設定す る。ハ ンスの妻が癌で死 に顔 しているが薬があまりにも高価す ぎるので, ハ ンスはその薬を盗 まなければな らないがどうするか,の矛盾である。道徳的 自覚以前 の子供であれば,即物的にものを見 るので盗 って叱 られるので悪いと考える。道徳的自 律の意識が高 まって きている子供 は,生命の救助.も大切だが,法の遵守の方が大事であ ると判断す る. このような分析を基礎 に してコールバーグは,責任 についての図式を作 成する。つまり,社会的な責任を自覚す る人格の形成 は,子供たちが集団のなかで,特 に遊びの過程などで,現実にぶつか り, 自分な りに理解 した り実践 した りす るなかで行 われるということ。子供 は大人か ら多 くの表象や道徳的判断を受 けとり, 自分の価値判 '断 として認識 してい くことである。 このような客観的責任か ら主観的責任への移行 は, 「-2
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-歴史的にみれば,集団か ら個人責任への移行を現わ している。 個体の発達や社会の発展が進むにつれて,人間は道徳規範や規律 を次第 に自覚 して く る。 それは個人の行動が集団のなかで形成 されることを示 しているとともに,集団の規 律 によって責任意識の発達が行われていることも示 している。 ピアジェや コールバーグ が指摘す るように,責任あるいは道徳的 自律性の形成が一定の個人の発達段階とっながっ ていることは基本的な事実である。■ (e)責任論の出発点 は人格か社会か ?・-・・ア リス トテ レスに して も,実存主義の自由意志 論か らして も, いずれ も分析の出発点 は,行為の主体,つまり人格を出発点にしており, その道徳的,心理的な責任意識の分析が責任概念を理解す る基礎 になっている。 ところがそれ とは反対 に責任の問題を論ず る場合 に,社会や歴史を基本 に して責任の 本質を研究する立場がある。 たとえば, フォイエルバ ッハ論 にある人格の規定,人間的 本質 は,その現実性 においては,第- に,責任の問題の研究を具体的な実践面 に置 き, 具体的分析か ら抽象的分析を導 きだ してい く。第二 に,人間の責任 は客観的な社会の人 間関係を基礎 に して考察 しなければな らないと指摘す る。 その場合,たとえば政治活動 か ら政治の責任が,道徳的活動か ら道徳的責任が論 じられるというように,個々の分野 の人間関係だけに限定 されているだけで は,本当の責任概念の解明にな らないとする。 第三の特徴 は,従来の責任論の思想 は,個人の社会 に対す る責任だけが考察 され,逆 に 社会の個人 に対す る責任が十分 に考察 されていないということを指摘 している点である。 第四に,責任には,客観的な人間関係,すなわち経済的,政治的,法的,道徳的,宗教 的などの面での人間関係 としての責任, いわゆる公的立場か らくる人間の責任 と,個人 生活,すなわち社会の一員 としての行為主体 として,個性的な資質を もっている人格の 責任 とが区別が明瞭に区別 されなければな らないとす る9以上が,近代思想 にみ られる 主な責任論である。 責任発達の歴史 (責任概念の歴史的発生)・・・- これまでにみて きたように,責任概念の基礎 にあるのは, 責任が社会性,人間関係か ら発生 しているという本質 であ る。Antworten(応答す る) という責任を現す言葉が示すように,責任 は社会的義務 に応答す ること,すなわち義務を 自分の自覚的な行為 とせよ, という社会の要求 は,責任の本質をよく表現 している。つま り責任 は社会的な人間関係を土台に していることを意味す る。人間社会で生活す る以上, そ こには規則があ り,義務が課せ られる。各人 はその義務を果 たす責任を もつ ことが要求 される。責任 という概念があるか ら責任があるのではな く,社会生活があるか ら責任 は発 生す る。
それでは歴史的,具体的には義務 はどのように生 じ,責任に転化 してい くのだろうか。 社会生活 に含 まれている活動 は多種多様であるが,いちばん基礎的な ものは,毎 日の生計 を維持す るための仕事であろう。親が怠 けていれば生活 は苦 しくなる。仕事,労働,家族 の扶養 は生活の中心であり,親の義務,責任である。仕事や労働のなかでは,労働の種類 や特質 によって,人々には一定の決 まった仕事上の役割分担や仕事上の義務が課せ られる。 これ らの役割や義務 は,上司が任意 に,思 い付 きで考え出 した役割や義務ではな く,生産 業務の特質か ら必然的に定 まって くる役割や義務内容である。 たとえば,銀行での業務 に おいては,金融業務 に特有な役割分担があ り,各人の義務が存在する。それに伴 う責任業 務 も,部長や課長が主観的によって決め られるものではな く,仕事の性質か ら客観的に規 定 されて くるのである。 このように義務やそれを果たす責任は客観的な性格をもっている か ら,それ らの仕事を進める上での人間関係 もしたが って客観的関係 となる。社会での客 観的な人間関係を確立す るための規律や規範 は,固定化 されれば道徳 となる。だか ら道徳 は人間社会が発生 し,その維持発展が求め られると同時に出現 して くる。たとえば, よ く 知 られているようにセ ミョーノフが 「人類社会の形成」のなかで述べた 「ハ レム禁忌」 に よる原始的人類の群れの 「動物的個体主義の抑制」 は,人間が猿の社会 とは別の道を進む にあたって必要 とされた,最初の人類の道徳律だといわれる。 注 : (ハ レム禁忌 とは,猿の群れに見 られるように,雌を独 占するための雄同士の戦 い が激 しく展開され, この闘争で群れの雄が殺 されたり傷っけられたりして,結局 は群れの 団結 は破壊 され,進化の道 は閉ざされるが,類人猿 は原人 に移行する際に雌をひとりじめ に しようとす る雄の本能的な要求を,群れの利益のために抑制する必要があった.このルー ルを確立す るのに何十万年 もかか ったが,ルールは類人猿の意識 に 「- レムをつ くること を許 さない」 という道徳規律 として定着 し,不安定な群れの結合 は, より安定 した結合力 の強い原始人集団に転化 した。 これが 「ハ レム禁忌」である) 責任 も同様 に,客観的な人間関係を発展 させるために必要な規範のひとっ として,近代 社会 において形成 され概念化 されてきた道徳的規範である。 (責任の歴史 ・原始社会)・--責任意識 は歴史的にみてどのように発達 してきたのだろう か。 よ く原始社会の人々は, 自分が独立 した個人や人格であるという意識を全 くもってい ないといわれている。理論的に考えればこの規定は正 しいとも考えられる。原始社会の人々 は,物質的にも精神的にもきわめて低い発達段階にあり,最低の生活物資を自分たちで群 れをな して獲得,生産す る以上 に余裕 はなか ったので,氏族集団か ら独立 した個人が生 き てい くことは不可能であった。 したが って自立 した人格の存在 もな く,その意識 も存在 し なか ったといえる。 ムズ ドィバーエフによれば,「原始社会 において は, た とえ個 々ひ と が過失をおか したとして も,責任の主体 として認め られるのはただ共同体,氏族だけであ \
る。 この時代の個人 と共同体 との融合 は非常 に密接なので,個々の共同体の成員の行為は, 共同体全体の行為 として受 け止 め られる。」 また,「原始共同体の社会では人間の個人的責 任を知 らなか った。責任の主体 は共同体であ り,共同体 は成員たちに一定の行動を指示 し, それ らの行動を統制す る」のである。 (14) しか し, この規定 ははた して正 しいのだろ うか という疑問 も生 じている。 たとえば,集団で動物の狩 りをす るとき,弓を作 るもの,わな を しかけるものなどいて,それぞれ自分の役割を意識 し,全体の狩 りの成功のために意識 的に取 り組む ことは彼 らの義務 となるだろう。 いかに原始社会であって も,集団か ら自分 に与え られた仕事,すなわち義務を果たす ことが個人的責任 として求め られるのであろう し,それに対 し,意識的に関わることも当然である。その過程のなかで,個人間の役割, 義務の意識 に差別が認識 されて くることは容易に推察 される。 これが,個人 としての自覚 につながって くるのであろう。 それ と同時に,人類社会の発生 と同時に道徳が形成 されて くるのであるが,道徳 自体が本質的に個人 の意識的な努力,内面的な要求であるか ら,そ の意味で も独立 した個人,人格がたとえ萌芽的な意味で も存在 していることは疑えない事 実である。 したが って,義務の内面的な自覚である責任 もまた原始社会 にすでに存在 して いたといえよう。 このように して,集団で狩 りをするというような協業,すなわち単純な協業においては, 各人が 自分の個人的責任を意識す る初歩的段階の場であるか ら, この意識が成長 して くれ れば独立 した個人,人間の個人化の現象 も生 じて くるわけである。だか ら,責任意識 は, 集団的な労働において人々の共同行動が必要 とされる場合に生 じて くるもの, と規定で き る。逆 に,協業 において も,責任関係が発生 しない場合 もある。それは,たとえば奴隷労 働 によって ピラミッドを築 くときには,だれが石を牽引するか,だれがそれを削 るのか, だれが積み上 げるのか というように労働種類が分 けられ, それによって各人の役割がきま る。その場合,仕事 に参加する奴隷 ひとりひとりが, 自覚的に労働 に参加 していれば相互 責任の関係 は存在する。逆 に,奴隷が暴力 によって強制 され,無 自覚的に,否定的に仕事 に参加する場合には,労働分担の義務を果たそ うとす る意識性や自覚 は存在 しない し, し たが って責任関係 も存在 しない。 それでは, どうして原始社会 においては,人間の個人化 は存在 しない, とい う考え方が 成立 したのだろうか。 その理由は,実 は他の集団に対す る関係のなかで生ず る。原始共同体内部では,責任あ る個人,人格が存在 していて も,氏族がいったん他の氏族集団 と相対するときには,氏族 のなかの個人 はすべて消えて しまって,相対す る集団 と集団だけが存在することになる。 この点で興味のあるのが, グセイノフの指摘である。(15)彼 はこの問題 を, タ リオ ン発生 の過程 と関連 させて研究 している。 タ リオ ン,すなわち 「目には目を」 という氏族同士の 争 いなどにみ られる 「や られた ら同 じだけや りかえす」 という均等報復の原理 は次のよう
な事実か ら生ず る。つまり,隣接 しているがそれぞれ自立 した氏族集団同士が,種々の原 因で争 いをおこしたりして闘争す る関係 に入 り,攻撃を受 けた氏族が攻撃 に対 し仕返 しを するようになる。そこか らタリオ ンの原則が発生すると指摘 している。 この原則の もつ意 味は,ある氏族集団が受 けた損害 と同 じ損害を加えた氏族集団に与えることによって各民 族の間に勢力均衡の状態を維持す ることにある。 ここでは集団のなかの個人 は問題 にな ら ない。あるのは集団対集団だけである。個人 は集団の中に埋没 している。その埋没がある ために,受 けた攻撃 に見合 った仕返 しの行動が,社会的モラルとして神聖化 されるのであ る。たとえば, ネグロのベ レシュ族 は復習のために殺人者 自身を誘拐するのでな く,その 殺人者の息子を誘拐す る。そ して,殺 された ものと同 じ年令になるまで待っ という。 タ リ オンの原理でいえば, 自分の集団のだれかが行 った行為 は,皆が自分の行為 と同 じだと考 え,同 じ責任を負 うという義務の存在を認 めている。 この場合,大事なことは均等報復の 原則を守 るということである。 これについて 「家族,私有財産および国家の起源」 には次 のようにのべ られている。「氏族員 は,たがいに援助 し,保護 しあい, とくに族外者 の侵 害 にたいす る復讐に助力す る義務を負 っていた。各個人 は自分の安全については氏族 の保 護 にたよっていた し, またたよることがで きた。彼を侵害する者 は,全民族を侵害す る者 であった。 このことか ら,つまり氏族の血縁の紐帯 か ら,血 の復讐 の義務 が生 まれた。 --・氏族員が氏族以外の人間に殺 されたときは,殺 された者の氏族全体の血の復讐 の義務 を負 った
。
」(国民文庫12巻,p.112) タ リオ ンの原則,つまり均等報復 の原則 は, 原始社 会の社会的平等 という条件の もとでのみ,存在す る。その理由は簡単である。氏族社会内 部の階層分化,階級,財産,職業などによる人々の差異や格差が増大 して くると,集団 と して タリオ ンを維持す ることができな くなるか らである。つまりその場合,人々はお互 い に財産や身分が異なるので,たとえば身分の低 い者が受 けた攻撃を身分の高い者が肩代 り するはずがないか らである。集団内部が平等でな くなると,集団は均等報復を行なわな く なる。 このように,氏族集団内部では個人の責任が存在す るが,集団同士の関係では集団の責 任のみが存在 し,個人の責任 は集団のなかに埋没 して見えな くなる。 (封建社会の責任関係)-・-原始社会や奴隷制社会の責任構造 はすでに述べた通 りである が,封建社会の場合をみてみよう。封建社会の基本にあるのは領主 に対す る農奴の依存関 係である。他の関係 はこの基本的な関係 によって規定 される。農奴 と領主の間にみ られる 従属,奉仕,恩恵 (主従関係 と領主権),それに職業団体や共同体 のなかでの服従 と保護 は,すべての人々を階層制度のシステムのなかに取 り込んで しまう。封建社会では,すべ てが従属関係 にある。農奴,封建地主,家臣,領主,俗人,法王,すべてが従属関係のな かに組み込 まれている。形式的ではあったに して も,封建社会の家父長制道徳の場合には, ㌔ -27-身分の高 い者 と低 い者 の間に双務的な保護 と奉仕の義務 というものがあった,つ まり,農 奴 だけが封建領主 に対 して義務 を負担 しているのでな く,領主 に も農奴 を保護す る義務が あ った。 しか し実際には,身分が低 くなればなるほど, それだけ多 くの義務が課せ られ, 受 ける保護 も少 なか った。 日本の封建体制 も例外ではなか った。 封建社会の身分的秩序 を守 り, その統一性 を維持 し擁護 してい くために,思想的に も,礼 会や政治体制の上で も利用 されたのが宗教であ った。宗教 は,道徳,法律,政治などの思 想的基礎 をな している柱であ った。全人類 は天なる父 の僕であ り,神 に奉仕す る義務 を も つ。神 に奉仕す る義務 には,生産 や労働の義務 も含 まれていた。すべてが神か ら与 え られ た労働であ り仕事であ った。それが中世 の義務,責任観念 の特徴 である。 しか しなが ら, すでに述べたように,独立 した人格,集団 に埋没 しない個人でなければ責任を自覚す るこ とはで きない し, それが責任意識 の特徴である以上,聖職者 といえども,責任 ある人間で あろうとすれば,神 に身 を委ねた人間であ ってほな らないのである。 トマス ・アキナスは, その ことを強調 し,人間に一定 の自由があ り, 自分 の行為 に対 し自己選択の意識がある, つまり人間は責任ある人格であることを証明す るのは可能だ とい う。すなわち,彼 は世界 に悪がある以上,悪 の存在 の責任 は,世界の創造者 -神 に帰責 され ることになる。 しか し, その責任を神 に負わせず,人間に負わせ るために,神 は人間に一定 の自由,悪 を創造す る 自由を与えた, と説 いている。つ ま り, トマス ・アキナスは, そのよ うに説明す ることに よって,同時に責任 を果たす ことので きる個人,人格の存在 を証明 しているのであ る。 そ の点 について, グー レピッチは,次のよ うにいっている。「トマス ・アキナスはボエティゥ スにまでさかのぼ って,人格の規定 を考察 し明確 に している。人間の行動 の理性的資質や 自覚性 とな らべて, 自分 の行為 に対す る責任を人間の特質 としてあげている。神 によって 創造 された人間に, 自分 の行為への責任 という資質 を与 えることによって,人間は一方 に おいて宗教的な予知 の能力を備え るとともに, 自分で決定 し, 自分が行 なった行為 は自分 個人の行為である, とされ ることになる。」(21) このような中世社会での個人や責任意識の形成 は,奴隷制が基本的な社会制度であった 古代 にはみ られなか った ことである。 中世 において責任意識が形成 される原点 とな った も のは人 々の生活様式,特 に手工業および農業生産 にある。 中世封建社会 においては,個別性 としての生産者である小農や手工業者 たちは自分の仕 事 の目標や結果 に対 して責任 と権利 を もって関与で きた。 これについて, 「ドイ ツイデ オ ロギー」 のなかでは,資本主義的企業 と手工業者が対比 されて 「中世 の手工業者 たちの場 合 には専門の仕事 とその仕事上での腕前 とにたいす る関心がまだ存在 し, この関心 はある 種の偏狭な名人気質 にまで高 まることもあ りえた。 しか しまたそのために中世 の手工業者 はみな自分 の仕事 に うちこみ,仕事 にたい しては無頓着 な当世 の労働者 よりもず っと仕事 の鬼であ った。」、と指摘 されている。
当時,農業 とともに手工業生産が支配的な生産条件であったか ら,彼 らの手の動 きによ る熟練労働か ら生 まれた製品は完成品 として仕上げ られ,たとえ種々の生産工程の段階を 経たとして も,その場合,労働す る職人 は自分の労働の内容 に対 して無関心ではあ りえな か った。いわばひとりひとりが自己の作品に愛着を もっ芸術家に似ているといえる。手工 業のマイスターたちは, 自分の優れた製品を創造することによって, 自分の仕事 にたいす る自覚や品性を確信 していたのである。 農業生産において も,同様のことがいえる。だか ら封建社会か ら近代資本主義への転化 が進むにつれて,民族,国民,国家的統一などの形態を通 して社会的同一性が形成 されて くる。そ うなると神への奉仕 という形をとってきた社会的義務 は神の領域を離れて,市民 的,政治的,法的,生産的,道徳的義務等 として現象する。 (企業での個人責任 と国家での国民の責任)・・-・近世 において広範な統一 された国内市場 が創造 されたが,形成 された国内統一市場では,中世の狭い市場での消費者 と直接結びつ いた個人生産や注文生産の個別性の様式 とは異な り, 自分が属する工場や企業のために生 産する形態が生 まれた。そこでは生産者 は消費者 とは直接の人間関係 に入 らない。すなわ ち生産の様式 は個別性 (個人生産)か ら特殊性 (工場,企業生産)への生産様式に転化す ることになった。だか ら生産者 は,工場,企業,商社などの生産機能,社会的分業 システ ムを通 して,間接的に世の中のひとびとと結びっいていることになる。 そこで労働す る生 産者 自身 は, 自分が属する工場や企業 という生産組織のために,それ ら組織の利益の向上 のためにのみ生産をす る。 しか し社会全体,市場全体で行われている市場生産 (普遍性) をみればそこには自然 と生産 ・消費の調節が働 き (恐慌などを通 して),生産 ・消費 の均 衡が保たれるように機能 しているといえる。欲望の体系 としての市民社会では,生産 と流 過,消費の相互依存の普遍的な人間関係が成立 して くる。だが,個々の生産者や消費者は, そ ういう社会全体のために生産す るという意識がな く, したが って,社会的に対す る責任 意識 は存在 しない。彼 らにあるのは自分の欲望 (給料,身分の保証など)だけを満たそ う とす る特殊性の意識であり,基本的には社会全体か らは分裂 し,対立 しているのである。 「市民社会 は個人的私益を求める万人の万人に対す る戦場である」 (ヘーゲル ・法哲学289 節)個々の生産者 は, 自分の工場や会社 に対 して責任関係を もっているが,それは労働契 約の上の責任 として表現 されてお り,社会全体 に対 しては責任 はもっていない。 このよう に社会全体に対 して,だれ も普遍的な責任を もっていないということ,換言すれば生産が 無政府的に行われているというこ-とは社会の混乱を助長す る。不況による多 くの会社経営 者の自殺や リス トラ,失業率の増大,社会不安,犯罪の増大などが これである。本来,国 民 に対 し生活権を保証 し,国民 に国家に対する責任の意識を植えつけるという社会的責任 は国家,政府 にある。市民社会の分裂や混乱 に対 して国家 はそれを統制す る責任がある。 \
「特殊性 はそれだけとしては無軌道 に して節度のない ものであ り-・・・この混乱状態 はこれ を制御す る国家 によってのみ調和 に達することがで きる」 (同
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節)不況,倒産の苦 しみ を救えない日本の内閣は社会的無責任の レッテルを貼 られて も当然である。逆 に国家権力 が 「媒介の体系」 として十分 に機能すれば,無責任や無政府性 は克服 され,国民 は安心 し て暮 らす ことができ,国家 に対す る責任を自覚す る。国家勢力が上か ら抑圧す るだけの存 在で は国民の不満だけがの こり,国家社会 に対す る責任 は捨て去 られて しまう。国家権力 の理念を支えている国民の愛国心 こそが国家体制を維持 し機能 させ る力である。愛国心 は 信頼である。「力によって国家 は団結すると一般 には考え られているが, しか し国家 を維 持するものはひとえに,万人が有す る,秩序 という根本感情である」
(同268節)。今 の 日 本では国家への信頼 ・責任感が失われている。愛国心 を生むような政治であるためには, 国民各人の権利や生活を守 り,国民の生活を無政府性か ら守 るような国家的統制を行 うこ とによって,国家 はその社会的責任を果たさなければな らない。その時, は じめて国民 は 他の人間に対 して, 自分が働 く企業組織 に対 して, 自分が生 きている社会や国家に対 して 責任の意識を完成 させ るのである。「近代国家の本質 は,普遍的な ものが特殊性 (市民社 会)の完全な自由と, また個人の幸福 と結合せ しめ られていること, したが って家族や市 民社会の利益が国家 と連関せ しめ られていること-・・・にある」 (同260節) 責任のなかの三つの要素 (責任の三要素)・--主体活動や行動のなかの客観的責任関係の過程を研究す るために必 要 なことは,責任行動の構造を明 らかにす ることである。 第- に,責任のある行動を成功 させ る (たとえば契約を締結する責任) ために,適切な 方法,手段を知 らなければな らない (認識の責任)0 第二 に, これを認識 したな らば,今度 は目標 に向か って努力す る意志が必要である (意 志 の責任)0 第三 に,責任を果た したな らば,責任を もって果た した事業 を継続,発展 させる責任が 重要である。たとえば,契約を締結 したな らば,その契約を維持 し発展 させ る実践が必要 である (実践の責任)0 これ ら三つの,認識の責任,意志の責任,,実践の責任 によって責任概念が構成 されてい る。 ' (認識の責任)--責任行動を実現す るメカニズムに必要な要素であることはいうまで も ない。現実 に責任関係が存続する以上,主体 に負わされた義務 を遂行す るためにその内容 を知 り,理解 しなければな らない。 しか し,その場合,認識だけが問題なのではな く,章任行為を果たさんための方法の選択 も問題 になる。人間が行動す る以上, どのような行為 を選択す るかは,多 くは価値意識をともなう。価値意識を伴 うかどうかの基準 は,その行 為の社会性,普遍性である。 自分の利益だけを追及す る行為や有用性だけを求める行為 に は道徳的価値 はない。 したが って, このような基準からみた場合,認識の責任は重要であっ て,特 に会社 とか学校などの集団の意志を形成するときに果たす リーダーの認識 にはプロ としての認識的責任が必要である。正 しい判断のできない リーダーは失格であるか ら,敬 業上の知識 はもとより,普遍性 に対す る高度な倫理的判断が求め られる。 (意志の責任)--認識責任 と同時に重要な責任の要素 は,行為を実現 させ るための意志 の力である。 どのような行為であれ,人間の行為である以上,人間の意識で もって考え, 目標をたて,行為の結果を予測 し,実現 に向か って努力する行動である。その際,なにも しないで実現できる行為 は人間の意志的行為ではない。実現に対 して外部的な要素の抵抗, 内面的な心理的抵抗を克服 して こそ人間の行為 は成立す るか らである0 アノーフィンは, 自我 にふ くまれる意識的な意志行動の構造を分析 し (1) 求心的総合,つまり決定を行なうのに必要な意志行動の構造を分析 し
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行動 とその結果の予見す る機能の形成(
3
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行動の実践 と,実践 した際のその行動 に対する反応などの認識 (4)行動の結果を最初の目標 と比較検討 し, さらに行動を発展 させてい く機能 とした 。 (17) このようにみて くると,人間の意志 は,単 に外界の影響をうけるだけのいわば非決定性 の存在ではないことが明 らかになる。そうであれば人間には意識的な選択能力がな く,人 間の行動 は宿命的 ということにな り, 自分の行動 に責任を もっ ことはで きない。 コレーツカヤは,社会集団の意志の もつ 目標や内容 は,そのなかで行動 している人々の 意識 とは関係な く形成 される, といっている。 これは,すでに述べたように,責任をめ ぐ る人間関係 は,客観的関係である, ということを別の面か ら規定 した ものである。 社会問題のなかで生産 したり,取引を したりして行 く人々は客観的な仕事や労働の内容 をめ ぐって相互依存の関係 に入 っている。 したが って,かれ らの意識 に関係な くそ ういう 客観的な仕事の行動が形成 されるとすれば,責任関係 もまた客観的にな らざるを得ない。 その場合,責任行動の主体 はそのような責任関係の本質を しっか り理解 し,法的,道徳的, 政治的な立場か ら責任が果たせ るように意識的行動を行なわなければならない。たとえば, 会社企業を設立す る場合,その企業の社会的貢献 と経済的な基礎を予見 し,認識の責任を 確実 にもって こそ,意志の責任 も実現 されるのである。責任ある人々は企業や経済の客観 的な科学法則を しっか り認識 し,確実な責任の もとに現実の目的を定める能力 と, 自分の 行動や社会的 グループの行動 の もた らす社会的な結果を予見す る力が必要なのである。(実践の責任)・・-・このように,認識および意志の責任 によって実現 された行為 は,価値 のある行為であるか ら, この結果をさらに維持発展 させていかなければならない。その際, 特 に重要 なことは,経済的利益活動のように,客観的に規定 された社会的に有意義 な活動 であ り,社会の実際の利益や,社会の発展を目指 した活動 を維持発展 させるだけでな く, 報 われることのないボランティア活動のように,社会の規範 に従 って行なわれる普遍的行 為を実践することはもっと重要である-。 たとえば,人生 において,何一つ として違法な行 動 を行なわない人々がいたとして も,彼 らが社会や自分の子孫,老人たちに対 して,まっ た く責任ある行動を しないという場合 もあ り得 る。特 に,現在の銀行のように自己の利益 を公益 よりも優先 させ るような行動をとる人格 は,法的には問題 はないか もしれないが, 倫理的には無責任な行動をとっているといわざるを得ない。 責任意識を養 う教育 とは ? これまでの責任意識の発達 について語源的意味,思想家たちによる責任概念の解釈,責 任の歴史的発達などをみてきたが, ここで責任意識を育て高める教育 について考えていき た い。 責任 は,「ある人の行為や行為の結果がその人の自由な意志決定 による結果 であ るとき に生ず る」のであるが,人間が単独で自分のために仕事を している場合 にはいかなる責任 も問題 にされることはない。 たとえば, 自分の部屋をどんなに乱雑 に していて も,周囲の 人 に迷惑が及ばない限 りその責任を問われることはない。そのように責任 とは人間関係の なかで,特 に集団のなかで形成 されるといえる。 したが って,責任を育成する教育 は集団 を基礎 とした教育であることが前提である。 そ 羊で,集団教育 の理論を大成 したマカ レン コの責任意識育成の方法をみていきたい。 (責任を形成する教育)--(1) 具体的な目標の設定--・彼 は教育の目標を明確 に,具体 的にかかげることを基本 に置 く。 たとえば,「質実剛健
」
とか 「堅忍不抜」 とい うよ う な何か抽象的な観念的な教育 目標を掲げることに反対 し,教育の目標を定めるときには, その時点で社会か ら何が教育 に求め られているのかを明確 に して,それを目標 として設 定す ることが重要だ と考えた。「教育 の前 におかれている一般的な 目的 と個人的 目的 と はかな らず達成 さるべ き目的でな くてほな らない し, また,われわれは直接的な精力的 な行動をとお して,そのために努力 しな くてはな らない。」(
18)(
2
)
集団帰属意識・・・-次 に彼が教育のなかで大切だと考えたのは,生徒 自身が学校や学級 やクラブという集団 に所属 しているという集団帰属意識であ り,学級や学校が うまくい くということが 自分の幸福だと考えることので きるような集団意識の形成である。 そうなれば,その学校集団の規律 に従 うことが自分の幸せに通ず ることにな り, 自分を抑制 する力を もっ ことがで きる。 自分が排除され, イジメられるような集団に,彼が帰属意 識を もてないのは当然である。受験競争などの競争原理が集団帰属意識を妨 げている。 また,学校や学級で も,教師を含めて上下関係や差別がある場合,生徒 はその集団に疎 外感を もつ ことを指摘 されている。差別 された り,差別 されたと意識す ることは,学校 社会の関係か らの排除されることを意味す る。その点では教師 も学校,学級の一員なの であるか ら例外ではな く,生徒 と同 じ高 さにたって ものを考え,行動 しなければな らな い。つまり平等 に集団行動 に参加す ることが原則 となる。
(
3
)
生徒の目線 に立っ-- しか しなが ら,教師はやはり指導をする責任 もあ り,知識や経 験の上では生徒の上 に立たなければな らないのだか ら,学校や学級集団をひっぼ ってい くためには指導的任務を果たさなければな らない。 このように生徒の目線 にたって, し か も教師が生徒を指導する時に大事なことは,お前たちを教育 してやるのだと意図的に 感 じさせて しまうことはマイナスに作用するという。それはどのような意味かというと, 形式 はどうであろうと,実質 において一方 に 「生徒の集団」があり,他方 には 「教師の 集団」があるという状態の ことをいう。そ うではな くて,教師集団 も生徒の集団 もそこ には区別 はあるけれども,一つの平面上で発展 してい くことが重要である。 その点マカ レンコは徹底 してお り,教師 と生徒 という呼び方 に代えて 「年長の仲間」 と 「仲間」 と いう呼称を採用 している。「教育者が正式な監督者的機能か ら解放 されているときにだ け, は じめて,かれは,隊 と全被教育者たちとの完全な信頼を得 ることがで きるのであ り, また自分の しごとを しかるべ く遂行 してい くことができるのであ る」
「教育者 は, 自分の隊活動 において,管理者であってはな らない」(19) もちろん,事情 も体制 も異 な る現在の日本 において,そのような訓育の方法を直接的に持ち込む ことはで きないが, 管理主義がはびこる日本の学校教育 において,生徒集団 と教師集団の基本的な平等関係 の原理を回復す ることはやはり重要な指摘 として注 目すべきでないだろうか。 しか しな が ら,生徒 と教師が平等な立場 にたっ とした ら,生徒にどうや って命令で きるか, どう や って指導できるのだろうか。マカレンコは,それはただ-?の場合のみ,つまり集団 の名前でひとびとが行動す る時であると指摘す る。「集団的反応の形式 のなかで こそ, 集団は教育の客体であるだけでな く, また教育の主体である。なぜな らこの形式のなか で,集団は自己の利益の積極的な防衛を体験するか らである」(20)「集団にたい して責任 を感 じている場合,そ して,命令をあたえなが ら, 自分 は集団の意志を実行 しているの だということがわた しにわか っている場合に,生徒たちのあいだで, 自分の権限を集団 の権限 として行使す ることが巨大な転換をもた らす」(
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1)といって,集団の利益を代表す ることが教師にも生徒 にも大 きな指導力を与えることを述べている。だか ら,集団に対 lして責任を感ずる時, また集団の意志を自分が遂行 していることを知 るときに,教師間 -33-で も生徒 にも命令3-で きるし,任せることが3-できるし,行動を うなが し,責任を持たせ る ことがで きる。 しか し集団の名前で生徒が行動すれば,教師が生徒 に服従す ることがで きるといって も,そ ういうことは少な くとも今の日本では考え られない。実際, この こ とを通 じて強調 されていることは,常 に教師 も生活指導主任 も,生徒 も同 じ学校の仕事 に参加 しているのだか ら同等の参加者でなければな らないとし, しっか りした生徒の組 織や教育集団が創造 されるための条件であるということなのである0 (4)生徒 に責任を もたせること・・・-現在,生徒たちの多 くは学校 にも教師にも子供 たち同 士の間で も 「無関心
」
「あせ り」
「い らい ら」
「キ レル」気持 ちを もっていることが多い。 それに対 して学校側の管理組織や指導組織が管理主義的にな り,権力や命令でで もって 脅か したりすればどうなるかは多 くの学校の荒れの事実が証明 している。逆 に管理指導 組織が本当に生徒の利益 になるように作用すれば,その時には教師集団は生徒 にとって 受 け入れ られる集団に転化す る。 学校のなかで責任関係が形成 される場合,重要 なことは校長をは じめとす る学校指導 部が生徒の責任意識の形成 にどこまで積極的になれるかである。 もし,全生徒たちによっ て選出された生徒会の指導部があるときに,指導部の生徒たちがただ殻 に閉 じこもって 官僚的な上層部を代表 しているとした ら,大勢の生徒たちとは遊離 した存在 にな って し まう。生徒 に責任感を育成す る例 として,生徒総会の権限 とその権限に加わるときの責 任意識の形成があげ られている。生徒を退学処分 にす る権限を校長 はもっているけれど も,生徒の 「総会を経ないでその権利を行使 したことは決 してあ りません0・-・・総会 は 正 しい罰を課するために必要であるというよりも,む しろ,総会の各 メンバーが罰の決 定 にたい して自分 自身が責任を負 うていると思 うようにな らせ るために必要なのです。 まさに, この責任感の体験 は,集団のなかで育成 されることの もっとも困難な ものであ ります。 しか し,そのかわ り,それがいったん育て られた ら,それは奇跡をつ くりだす ものです。そ して, この責任感の体験 は,非常に精密で正確な活動をしていくことによっ て育成 されるのであ ります」(22)仕事 に対する責任が大 きければ大 きいほど, それだけ また彼 らは仕事を大 きな責任を もってや りとげる。責任を もたせ る動機 としては,一家 の主人であれば, 自分が家族を支えているのだ とか,教師であれば学級経営が成功す る もしないも自分の力量次第だ,などという重要性の認識 にかか っているが,特 に,普遍 性の高 い責任,すなわち社会 に対す る責任が感 じられているときには,責任感 も満足度 も大 きくなる。(
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)
責任育成の教育 は個人の自尊心の育成・-・・責任育成の教育 に必要 なのは,第- に,そ の学校や学級集団 と個人の利害が具体的に, 目に見える形で一致 していることである。 先生だけが学校を良 くしよう, と努力 して も肝心、の生徒がの って こないのは利益 に目が みえないか,理解 されていない場合である。 しか しこの理解 をさせ る教育指導 は,生徒指導部がそれを理解 して も,一般の生徒 にまで徹底 させ るのには困難が ともな う場合が 多 い。根気 のいる仕事である。「い って きかせてや って見せ-・・・」 とい うことわ ざが あ る くらいであ る。 た とえば喫煙が悪 い習慣であることをどうや って全校生徒 の ものにす るかを考 えただけで も困難 な ことであ ることがわか る。 このような学校規律 の遵守 が行 われ るには,生徒 の 自覚的な集団が 「あなたの側 に移 った とき,規律 を維持 したい とい う意識的 に望んでいる男子 や女子 の グループが, あなたがたのまわ りに組織 されてい く ときの ことであ ります」 (139) 第二 に,責任教育 は,責任関係 (人間関係) を生徒 が 自覚す ること, そのためには生 徒 に責任 を もたせ ること, そ してその基礎 には生徒 の人格 にたいす る尊敬 の意識が意識 的に も無意識的 に も存在 しなければな らない。人間 は完全 に自由な意志で もって行動 を 遂行す る時, 自分 の行動 に十分 な責任を もつ ものであると同時 に, 「規律 の基礎 とな る ものは理論 をぬ きに した要求であ ります。 わた しの教育経験 の本質を短 い公式で どんな 具合 に規定す ることがで きるか と, もしだれかにたずね られ るとすれば,わた しは,人 間にたいす るで きるだけの要求 と人間 にたいす るで きるだけの尊敬, とこたえ るであ り ま しょう」(135) 以上が責任育成教育 のメカニズムであ る。 註 (1)ヘ ーゲル 「法哲学」119節
(2) Holュ.J.;「Untersuclmngzum FreiheitundVerantwortungJ1980.S.23 (3) Mzduibaev.K :rPusihologiaOtbetstbernnostiJ1983.C.5
(4)岩波書店 :ア リス トテ レス全集13巻 1112a-23 (5) 同 上 1112b- 4 (6) 同 上 1111a-20 (7) 同 上 1110a- 5 (8) 同 上 1113b-30 (9) 同 上 1114a- 1 (10)岩波文庫 :ジ ョン ・スチュアー ト・ミル 「自由論」p.164-5 (ll) 「ぎょうせい
」
10号 :「サル トルの 自由へ の批判」 (12) リチ ャー ド・エヴ ァンス:「ジャン ・ピアジェ」:昭55.p.18 (13) 同 上 .p.20 (14)Mzduibaev.K :ibid.:C.27(15) Gseinov:A :rSochiarinayapriropdanrabstbennostiJ1974.C.68 (16) Gurebich:rKategoriisrednibekaboikriturui:1984.C.324J (17)Anofin.J.:rKibernitikaiintegratnayadeiterinosti:1966.C.3J
(18)明治図書 :マカ レンコ全集6巻 p.95 (19). 同 上 p.77,83
p.59 p.224 p.230 p.139 p.135 上 上 上 上 上 同 同 同 同 同 八 川 7 、m T J & 沌 7 人 7 わ mT .伶 r ¢ ¢ b mr \1ヽ\ /