蔵外文献には宗義書︵喝§ミ言く喝息ミミごミミ慧鴇冒氾と呼ばれる文献類があり、その多くはインドにおける仏教 ① 四学派、すなわち毘婆沙師︵Ⅱ説一切有部︶、経量部、唯識派、中観派、および非仏教の哲学諸派の思想を﹁順次に﹂ 概説するという形式をとる。そのうち言サル宗義書﹂︵閉昌曾閏。頚昌廻息ミ言﹄、﹁大宗義書﹂卑息ミ言﹄S§§ ﹁チャンキャ宗義書﹂8国侭いざs喝息ミ言︾、﹃宗義宝環﹄?§菖言﹄§&§導愚侭胃等については翻訳・訳を含 ② め、多くの研究成果の蓄積がある。 本稿は、ゲ|ルク派四大学問寺の一つセラ僧院に所属するチェーパ学堂の講説︵ざミミ§︶を一五二年から一五四 ○年まで務められ、その学堂で用いられる教科書︵鳥§︶の著者として知られるジェッンチューキギェルッェン 駕胃§go匂壁ご題ミミき§︵里8︲勗措︶作の﹃宗義規定﹂?息ミ言ご冒蒼ぬき侭を取り上げ、本書より、毘婆 沙師章と経量部章とに対する和訳を試みるものである。なお本書は、先のジャムャンシェーパ爵言乳母§甥守さ員曾 ︵ぷあ山忍也の﹁大宗義書﹂、チャンキャ・ロルペードルジェ弓自侭幕旨ぎざ倉ご号q、含凶や3の﹃チャンキャ ③ 宗義言﹂に比すれば小編であり、仏教四学派の思想のみを扱う初学者向けの読み物であるが、ジェッン・チューキギ
ジェッン・チューキギェルッェン作﹁宗義規定﹄の和訳
はじめに
白館戒雲︵ツルティム・ケサン︶ 1G こんにち日本のチベット仏教学研究は、内容が充実した啓蒙言も上梓されるほど、長足の進歩を遂げた。しかしチ ベット仏教、ここではゲルク派の教義学に代表される仏教哲学を指すが、それが前提としている教義学的水準の全体 像については、未だ共有のものとはされていないようである。ここで﹃宗義規定﹂の試訳を行う目的のひとつに、チ ベット仏教哲学が前提とする教義学的水準とは、いかなるものであるかを示すことがある。 和訳については、セラ寺版を定本とし、インド・セラ寺新版を参照本とした。なお訳註については、いまは紙面の 次のようになる。 エルッェンが後のゲルク派に与えた思想的影響については、今後明らかにされる必要があるとはいえ、ゲルク派の宗 ④ 義書の﹁原型﹂となる文献であろうと筆者等は考えている。 いま彼の著作を、東北大学所蔵﹁西蔵撰述仏典目録﹂︵仙台、愚也に録されるものを対象として、内容分類すれば 宗義害Gご・ぎき尉魚︾ ﹃現観荘厳論﹂﹂︾登旨蒼昌ミ亀言訂圖に関するものG悪。ぎぎ②蔚賦伝辛へ里戸澤S冥旦s一雨一国貢蝉負戻ご団尉 E一団貢p角浬窟鐸角型団曽向鬮い①鬮興の忠企q陶助①砲口の忠己 ﹃未了義了義善説心髄﹂b曽侭侭旦噴雰言号菖冒侭営に関するもの︵ござぎぎ.畠s ﹃入中論註・密意解明﹂儲誉営亀包の§頚冒↓息閣ミに関するものGざ。ぎぎ︶.&竪
律司冒旨に関するものGgoざ言団も
﹃倶舎論﹂堅きミ言ご旨亀ざ胃に関するものG罫。ぎぎ.尉國 量営︲ミミミに関するもの︵§ぎぎざ尉削E¥局更Qq段④ ⑤ その他︵§ぎぎ澤︶鼠賦.団禽.団も。鎚巴関係上、特に必要なもののみに限っていることお許しいただきたい・ 砕量§§言・厨ご忌・・凰蔑目go函四○閨房目︲記﹄冒○冨虜自画記忌きぎ恩電、ミミごCOミ稔旦ざ息鴎﹀食︶自浄ミ︲ ざg言困鼻ミ侭欧国営ミNoOご○b崖、悶冒さ︾己、助慰℃?cミⅡごぎぎぎふ駅廻. 乏胃G悪ミ、s§擦畠さ電 ②宗義書に対する先行研究については、御牧克己﹁チベット語仏典概観﹂︵﹁チベットの言語と文化﹂冬樹社、一九八七︶三○ 三’三○七頁に詳しい。以下筆者が気付いた余の二・三のものを追加しておく。 松本史朗。爵︾§熟ご員冒常における中観理解﹂︵需日洞宗研究員研究生研究紀要﹄第十三号、一九八一・同字ベット 註 ①ここでの﹁順次に﹂という語の使川については、松本史朗﹁チベット仏教哲学﹄︵大蔵出版、一九九四︶三五’三六頁に述 べられる通りである。より詳しくは、ダライラマニ壮・ゲンドゥン・ギャムッォ菌鯛譽ミ噌園ミ善。ロ公爵山里里の﹁宗義大 海に入る船﹂?§曽言﹄︾噌凰ミ息ミ︾侭曾︾蒟司ミ烏営頚における記述を参照のこと︵弓ぎぎ号.閉認.尋§員畠麗︾慧.8 、I入〆0 10足﹂ 同﹁仏教綱要耆﹂︵﹃敦埠胡語文献﹄講座敦埋・第六巻一九八五。同﹃チベット仏教哲学﹄加筆補訂収録︶ ﹄ミ胃。固︾旨§ミミミ雷具鳶口園言冒営画自尽gぎみ.愚鬮︵ダラィラマニ世・ゲンドゥン・ギャムヅォ尉鯛暮薑 ︾亀S喜暮。の﹃宗義大海に入る船﹂Q︲息菖言さ廻国ミ墨。、菅恩亀筒曽、§言頚の英訳を含む︶ 御牧克己ヨロサル宗義書﹂唯識派章試訳⑩﹂合成田山仏教研究所紀要﹄第十一・特別号﹃仏教思想史論集﹄一九八八︶ 同皆喜ミミミミ圏畠。薑且苓忌§§,ミ員意尽曾ミミミ蒔囚。甥ミ喝息曽言︾璽葺○篇︵﹁京都大学文学部研究紀要﹂ 第三十一号、平成四年三月︶ 仏教哲学﹂加筆補訂収録︶ 同﹁吻目闇忌昌曾の園 旧︲|吻屋亀晦国司 加筆補訂収録︶ 開昌冷言曾批判について 弓日本西蔵学会会報﹄第二十八号、一九八二。同﹃チベット仏教哲学﹂ 3
㈲ 吉水千鶴子﹁ゲルク派による経量部学説理解仙二諦説﹂︵﹁成川山仏教研究所紀要﹄第二十一号、一九九八。﹁チャンキャ 宗義害﹄経量部章の部分訳︶ なお、ミミ亀迂凋ゞ囚。甥ミ喝息ご忌具恩員。﹄邑鬮出出︵御牧克己﹁チベットにおける宗義文献︵学説綱要耆︶の問題﹂ ﹁東洋学術研究﹂第二十一巻第二号︶には、イェ、ンエーデ尽き鴎吻冬︵九世紀初頭︶の﹃見解の区別﹂国感冒葦ご員曾弓など 前伝期に作成されたものをも含め計川十種の文献が﹁宗義書﹂として示されているが、ガワンペルデン掃侭号S喝号昌 尽曽画忍迅の﹁大宗義書添註﹄望、9鳶。ミミミ雰呉go匂︲需罵哺患§︲号ミ︲ミ曽呉團曽︲§、&胃員、。ご急。胃、、言冴旦号 ご崎、閏。向雰︲﹀罰︶言ご罵員ヌロミ貢邑闇など加えられるべきものがいくつかある。 ④本書および、﹁七十臺冒:冬ご昌画ざ。言言団§と﹁地道規定﹄爵冒冨ミ急営ぬき侭S鳶匿号画閏巴の三つは、まと めての、息。。冨幹頚ミ薑と呼ばれ、セルチェー学堂においては、初学者が学ぶべき教科耆に指定されている。 四﹁原型﹂というのは松本氏の表現︵同﹁チベットの仏教学について﹂一東洋学術研究﹂第二○巻第一号、一九八一、一四八 頁︶であるが、筆者等もそのように考えている。しかし、ゲンドゥン・ギャムッォの宗義書、およびソナムタクパ臣民曽営匂 晦愚甥曾画公認山馴ものそれS§震畠旧。匂§飼い忌昌こぎ畠震局摺所収︶との内容比較など行わねばならない基礎的研究が 本文献︵﹁悪見の闇の排除﹂国罫侭§↓ミミいもは、豊司ご§、︵ご蜀斡と呼ばれる二つの部分からなり、それぞれサキャ派の シャーキャチョクデンとコラムパによるツォンヵパ批判に対する返答を行うものである。そのうち後者は、その奥書にあるよ うに、ジェッンパ亡き後、その未完成なるもの︵§言筥、。︶を弟子デレクニマが補完したもの念言器。冨廻である。なお松 本前掲書の﹁チベット仏教史概説﹂には﹁ジェッン・チューキギェルッェンとその弟子デレクニマによる﹁悪見の闇の排除筐 残されている。 本文献︵﹁窯 問尽曽﹄.。.。︻§琶国 量部章の英訳を含む︶ H①垢斥岬、、.尚。︺lHmq 高田順仁﹁ジェッン・チューキギェルッェンの宗義書l無我l﹂︵﹁佛教学セミナー﹂第五十三号、邑曾﹄瞳︶も︲も 同ヨチャンキャ宗義書﹄経量部の説明試訳仰﹂︵﹁アルティ﹄第六号、Sg瞳︶.、︲閏︶ 餌号査曽烏・鼠、国胃冒冨の§慰呉ロ。曽喝§ご詫陣量。ミミ侭亀ミミ量ご§e・国胃§再匡ミミミ、・匂忌&硯営Q§、、.乏胃︶辱忌 ︻ざ冒言鯨冨ミミ侭欧堂侭ミミ・亀啓sR言忌ミョミミ陣言ミミミざ.罵昌ぎみ.乞閏.ニチャンキャ宗義書﹄経4
q ここで︵Ⅱ本書で︶宗義の規定を説明することに、定義︵ミ酎言言魯匙、分類a胃冒︶、分けられたそれぞれ[の学 派]の内容︵§善︶を説明すること[三つ]がある。 第一︵Ⅱ定義︶について、﹁三宝︵詮。喜蒼昔開曽量¥弓ミ§ミⅡ佛法僧︶を正しい帰依処︵§息畠曽こ§噌浄色として認 め、それより以外の帰依処を主張しない、宗義を語る人︵函§蝿凝ら﹂それが、仏教徒︵尋員貰い§頚侭曽吻曾︶の宗義
﹁﹄一
房lLa﹂I たてまつる。 ここで︵Ⅲ を語る人の定義である。 明することである 第二︵Ⅱ分類︶、それ︵Ⅱ仏教徒の宗義を語る人︶を分類すれば、毘婆沙師︵哩雨ミ四画言ミ質尽き欝昏︶、経呈部 ② ︵量ロ。鳥曾﹀幹震ミミき︶、唯心派︵幹蒼吻曾営曾︶、無自性論者︵得。守。忌覺ミミ宵︾︲ミミ胃Ⅱ中観派︶との四つがあり、 そのうち前二つは﹁外境実在論者二派﹂so言い蒼曽島如曾吻︶ともいう。 第三︵I内容を説明すること︶について、毘婆沙師の宗︵肩堕︶と経量部の宗と唯心派の宗と無自性論者の宗を説 とあるが、この記述から読者は、本書が文字どおり師弟の共同執筆であると理解してはならないこと注意しておく。チベット では、師弟が共同執筆するという習慣は見られない。 ⑥日本における最近のチベット学の研究と、その動向について詳しくは、ミミ農蒼§湧園ミミ騨重鳶員書こ§§ら認︲己題 望、Qミ爵ご﹃騨貿﹄鳥琶Q一言ミ騨震号吻倉︲幕廷。︾邑駅、福田洋一﹁日本のチベット学一○年﹂︵﹁仏教学﹄第三六号、一九九 四年一二月、田l㈲︶がある。[和訳]ジェッン・チューキギェルッェン作﹃宗義規定﹄
上師である救世者文殊 ミミミミ館。薑営§ミ号ミ尋旨高覗︶と本性を異にすることなき勝れた尊者方に礼拝しより毘婆沙師章と経量部章
5また[異なった見方から]事物を分類すれば、世俗諦︵ぎミ号。ご島§園ゞい§ご§園曾仮象の真実︶と勝義諦︵§嵩:ご 鳶琶曾﹀旨昌蒼ミ耳言旨冒.第一義の真実︶との二つがある。前者について、﹁壊されたり、あるいは知so︶で部分がそれ ぞれ取り除かれたりすれば、それ︵薗侭Ⅱ世俗諦︶を把握する知が[それ、世俗諦を]捨てる法として縁ぜられるも 第二について、それ︵Ⅱ毘婆沙師︶を分類すれば、カシュミーラ毘婆沙師︵丙言鳥胃ミ、.ごミ画言﹄旬ざ尋園︲ ③ ご§言画き︶、外国師︵暮啓碕曾︶、中部の毘婆沙師︵冒患5曹胃ざ贈ミ圏言︶の三つがある。 第三︵Ⅱ語義解釈︶について、なぜ毘婆沙師といわれるのかといえば、﹁大毘婆沙論﹄に従って宗義を語るので、 そのように呼ばれる。あるいはまた、三世[の法]︵きい唄置ミ︶を実体︵︾爵畠︾卦画還巳の種︵ごヘミ限昌鴎亀︶として語 ④ るので、﹁毘婆沙師﹂︵I説一切有部︶と呼ばれるからである。 第四︵Ⅱ対象の主張の仕方︶について、﹁効果的作用能力﹂︵号蕎辱員冒曾︶が事物︵s§息。︶の定義である。事物 と有︵苫§園︶と所知︵いざ§︺葡選画︶は同義︵号喜胃趣である。 それ︵I事物︶を分類すれば、常である事物と、無常である事物の二つがあり、そのうち前者は、たとえば、虚空 ︵昏吻ごミご畠曹曽蒼ミ言・Ⅱ幕§︶、択滅︵唾。き、冒画唄管い、ミ§ミ寒自︲鼠、。忌亀︶、非択滅︵物。ご笥胃侭吻菖墓瞥吋侭貰︺ §ミ爵ミ爵迂回︲尋。急愚︶である。後者は、たとえば、生じたるもの︵島へ息亀︶、作られるたるもの︵冒息・︶、無常︵ミ 翼晶曾・口鼠ご画Ⅱ刹那減︶である。 念号高唱1息.真実として成立し 沙[2a]師の定義である。 第一には、定義、分類、語義解釈︵侭ミミミ曾︶、対象︵廷具ご貫旨︶の主張の仕方、有対象︵員。§.ご貫冒︶の主張 の仕方、無我︵登侭ミ鼠薑ききご亀︶の主張の仕方、地と道︵旨ざ薑︶の規定を説明すること[の七つ]がある。 第一について、﹁自己認識︵ミ畠烏吻§白冨烏合ミミミミ§︶を主張せず、外境守ミミミ﹀ミミ凰言外界対象︶が諦成 ︵蔦冨噌息真実として成立しているもの︶であると主張する、小乗︵骨噌言§・言冒昌冒園︶の宗義を語る人﹂それが毘婆 6
の﹂それが世俗諦の定義であブ なぜなら、壺が[2b]槌直 らであり、毛織物の織り糸が︽ 捨てるものであるからである。 後者について、﹁壊されたり、あるいは知でそれぞれに取り除かれたとしても、それ︵、§函Ⅱ勝義諦︶を把握する知 が[それ、勝義諦を]捨てざる法として縁ぜられるもの﹂それが勝義諦の定義である。具体的実例は、たとえば方分 なき微細︵さ↑ざざ§、ざ。唄瞥。言蒼&Ⅱ極微曾ミミ§震︶、時分なき知︵吻胃旨きい曹向言営§、無為︵菩吻ミ亀冒堕﹄ §冒器§︶である。[以上は]﹃倶舎論﹂︵蚤bN具患迂忌§ミざ胃︶に、 壷や水のように、壊されたり、知︵g﹀尋愚貫き.覚︶で他のものが除かれたりすれば、それの知が生じないもの、 それが世俗有︵“ミ建蔑︲埠邑である。そうでなければ、勝義有︵曾愚言ミミ︲い§である。︵員諦,も と[世親尋旨胃忌§農は]お述べになられているからである。 したがって、[毘婆沙師は]三世[の法]を実体と主張し、なぜなら、壺は壷の過去時においても有り、壺の未来 時においても壷は有ると主張するからである。 第五・有対象の主張の仕方について、五穂の集まりに過ぎないもの︵墓ミ侭営§。噌冒ミ︶を人︵ぬ§四N侭冨舟§︶ の具体的実例とし、意識︵員質量§言い奇“ゞ言§。ご贄§園第六意識︶を人の具体的実例と主張する等があるからである。 知so︶には量︵ミミミ画﹀、S言曽亀確実な認識手段︶と量に非ざる知︵ミミミ冨豐g︶の二つがあり、そのうち前者 ︵I量︶には現量︵き§葛昌言豐暮員弓員︾、亀冒雰昌︶と比量︵骨曽慧号侭曾曹匂言ミミ、ミミ昌曽︶の二つがある。前者︵Ⅱ 現呈︶は、根含ミ昼急感官︶による現量︵患§ぬざご︾畠。高畠ミ︶と意による現量︵員曹ミ員。善吟ミ斡﹄雪§畠息曽冒曹︶と 琉伽行者の現量︵、ミ︶ごs曽侭。蓄昌ミ、廷。ぬミ︲噂亀曽曹︶との三つがあり、そのうち、根による現量であっても、[それ7 ⑤ それが世俗諦の定義である。具体的実例︵旨き§鞠迂︶は、 なら、壺が[2b]槌で壊されるならば、それ︵曽侭Ⅱ壺︶ あり、毛織物の織り糸がそれぞれに取り除かれるならば、 たとえば壺︵言昌曾瓶︶や毛織物︵胃ミ蕎言︶である。 を把握する知が[それ、壺を]捨てるものであるか それ︵Ⅱ毛織物︶を把握する知は[それ、毛織物を]
第六・無我を主張する仕方について、微細なる無我と微細なる人無我︵習侭漣侭噴喜餌ミミ葛愚営。︶は同義である と主張し、法無我︵&。いざ急鳥四ミ鼠号ミ蒼園︲言§劃言旨︶を認めない。なぜなら、こ[の学派]は、基体が成立している ならば︵鴨量四息冒︶、法我︵3。いざ魁であることによって遍充されていると認めるからである。 それら︵Ⅱ十八部派︶の中、犢子部厨ミミ、冨曾﹄罫冴§ご胃︶は、常であり、単一であり、独存であるものとし て空である人無我[のみ]を認め、自足的な実有として空である人無我を認めない。なぜなら、それ︵Ⅱ犢子部︶ は蘓と本性が一である︵函。趣、異である︵昔ミミ[瀧は]常である、無常であるとのいずれとも表現できない自足 的な実有である我を認めているのであるからである。 第七・地と道の規定には、所断︵§侭冒ゞ、園言§盲︶と、地と道の規定そのものを説明すること[二つ]がある。 第一︵I所断の説明︶について、障︵侭患曾ゞ、ごミミs︶には有染汚︵亀ミミ。畠:§﹄雲§︶と不染汚︵言苦言雷。侭胃ミ ミら昌曾︾画鴛§︶との障の二つがあると主張し、所知障︵堕胃錯患︺蔦葛︲§ミ§画︶という表現は[用いられ]ない。 [二つの障のうち、]前者は主として解脱︵昔巷亀﹄言。曹︶の獲得をこばみ、後者は主として一切智︵昔蒼:ミミ胃ご 旨﹄吟ミミ爵︲言この獲得をこばむものであるからである。前者の具体的実例は、たとえば、人は自足的な実有である と把握する分別︵§恩凰︶と、それに起因して生じた三毒︵§ぬ甥S言︶および[三毒の]種子︵旨言慧さ菩︶である。後 伽行者の現量との二つがある。 6 は]知︵墨、愚s︶[であること]によって遍充されていない。なぜなら、[有色である]眼根は現量であるからである。 ⑦ 琉伽行者の現量には、人無我︵笛言いN信明忌島函営息を現前に︵量員。善い謹言§︶証悟する琉伽行者の現量と、微細なる 無常︵暮曽gざ尋勘鳥曾Ⅱ刹那減︶を現前に証悟する琉伽行者の現量との二つがある。前者には、人が常であり、単 一であり、独存であるもの︵、鳥照侭昌信患園億。§︶として空である︵Ⅱ粗大なる人無我︶と証悟する琉伽行者の [3a]現量と、人が自足的な実有︵§品曇目言ごa、烏急ご息として空である︵Ⅱ微細なる人無我︶と証悟する琉 8
者[の具体的実例]は、たとえば、人は自足的な実有であると把握する分別の習気念侭昔噌ゞご劇§画︶と、それに起 因して生じた心の鹿悪︵唱昌言隠ミ§︾島員言言︶である。 第二・地と道の定立そのものの説明には、[まず]三乗の人[それぞれ]によって道が進められる仕方の相違があ る。すなわち、声聞︵ミ§誉吻︾§昌雷︶の種姓︵笥曾︾ぬ。§︶を有する者たちは、人は[3b]自足的な実有としての 空であると理解するその見解︵Ⅱ微細なる人無我︶を下の福徳資糧︵雰員薯§勇曹き。頚︾曾菖園︲旨き言昌︶と結びつけて、 [少なくとも]三生︵酎奇唄置ミ︶等をあいだ習熟して後、下の菩提︵冒畠・言胃言員侭震︶を獲得する。独覚︵昌侭 §ミ︾冒胃雷言島言︶の種姓を有する者たちは、それ︵Ⅱ声聞︶と同じその見解を中の福徳資糧と結びつけ、[少なく ⑧ とも]百[大]劫︵冒菖冨守曾園︶等のあいだ習熟して後、中の菩提︵冒侭・言守︾ざらを獲得する。菩薩︵冒侭罵言、 言曽匂目昌︶たちは、それと同じその見解を大の福徳資糧と結びつけ、[少なくとも]三大無数劫念いぎ鳥ご四︲§唄営鼠 頓忌営︶等のあいだ習熟して後、大の菩提を獲得するのであるからである。 彼らが資糧を積集する仕方に[も]相違がある。菩薩たちは、大の資糧道︵き◎唄奇ミS、§。︶までに、[少なくと も]三大無数劫等のあいだ資糧を積集して後、加行道・媛︵§S島ミミ§より無学道︵ミミ。冒亀ミ︶までを一座上 ⑨ ︵§ミ尋侭興趣において[大の菩提を]現前させる。独覚の種姓を有する者たちは、大の資糧道までに、[少なくと も]百大劫等のあいだ資糧を積集して後、加行道・暖より無学道までを一坐上において[中の菩提]現前させる。声 聞の種姓を有する者たちは、四つの有学道︵号冨画言︶それぞれの段階において資糧を積集し、聖道︵暮画嘱邑倉蒼Ⅱ見 ⑩ 道︶を獲てより後も、[最大]十四生有︵匂腎い、ミ胃急譽︶のあいだ、有学道において学ばねばならない者もあるから 挙坦︶老笹燵 で手めう包○ したがって、彼ら[毘婆沙師]は佛の色調を佛ではないと主張する。なぜなら、それは所断であるからである。そ れ︵Ⅱ佛の色葱︶は以前の、加行道にある菩薩の身である拠り所と同じ生に摂せられているものであるからである。 9
有余依浬梁のとき、有染汚な障はことごとく断じられているが、未だ断じられていない不染汚な障がある。無余依 浬梁のとき、それを対治︵晦昌、§。︶の力でもって断じられるのではないが、[もはや]それは無い。なぜなら、その とき、その拠り所である認識が途絶されているのであるからである。 実在論者︵含宮崎ミミミミ量は経の未了[義]・了[義]︵等§輌冨照里を分けるとき、[それが]声通りとして認 めうるか、認めえないかによって分け、外境実在論者の二つは大乗の[三]蔵は佛説︵いき閣蕾瞳畠曾黛員﹀︶であると は主張しない。なぜなら、毘婆沙師の大部分は、経であれば、了義︵薑鴨匂号言ゞ琶爵蔓言︶の経であることによって遍充 されていると認めているからである。 苦諦を所縁とする煩悩がことごL ているが、その相続今堕負目曽勵 は無余依浬梁の時、認識︵鳥曾︶ ︵舟愚胃。ミ貰員忌邑は阿羅漢の径
ざるあいだ、有余依急侭冒吻質
するからである。 [﹁加行道にある菩薩の身である拠り所と同じ生に摂せられているものである﹂こと︵Ⅱ§善暮曾証因︶は﹁佛では ない﹂こと︵Ⅱ頃ミミ所証︶によって]遍充されている。加行道にある菩薩の身であるその拠り所は、過去の業と煩 悩︵冒昌§︶によって[4a]引発された︵尊§唄貰鼻息旨︲︶穂であるからである。 彼[ら毘婆沙師]は受用身︵き§§&鳶。噌堕實自ミ貫昏︲言旨︶を認めず、最勝の変化身︵胃冨陥噴ミミ§Ⅱ釈尊︶ は無余依浬梁の時、認識︵鳥曾︶が途絶されていると主張する。聖者たる佛は苦と集︵い§館曾嵩︶をことごとく断じ ているが、その相続︵﹃堕員旨曽§画心身の連続︶に苦諦︵い§ぬ鳶嵩︶号詳言︲“&色があることと背反しない。なぜなら、 苦諦を所縁とする煩悩がことごとく断じられたとき、苦諦が断じられたと定めるからである。声聞・独覚の阿羅漢 ︵舟﹃:8ミ質ミ琴邑は阿羅漢の位︵館。尊き函I阿羅漢果︶を獲て後、[未だ]寿行言冨菩ご鼠ご鼠︲旨曽ざ︲園︶を捨て ざるあいだ、有余依︵琴侭§吻冒︶であり、寿行を捨てた以後、無余依浬梁︵琴侭言鼠魯菖圏畠§言馨息急︶であると 第二・経量部の宗の説明に、定義、分類、語義説明、対象の主張の仕方、有対象の主張の仕方、無我の主張の仕方、 l (地・道の規定の説明の七つ[がある]・ 第一︵Ⅱ定義︶について、﹁自己認識と外境の双方を認める、小乗の宗義を語る人﹂それが経量部の定義である。 経量部と譽嶮師︵、、§喜曾ゞ胃§島雷︶とは同義である。 第二、それ︵Ⅱ経量部︶を分類すれば、[4b]聖典に従う経量部︵冒頤晦回曽吟﹄冒侭廻量号愚曾︶と、道理に従う 経量部︵一曾曾ご菅︾ミ畠廻言号鳥曾︶の二つがある。前者は、たとえば﹁倶舎論﹂︵ミ祷冒曾昌烏員﹂喜忌ミミ幕§︶ に従う経量部であり、後者は、たとえば[ダルマキールティgミミ鼻ミ員の]﹁量七部書﹂︵ミミミ亀尋ミミ︶に従う 経量部である。 第三︵Ⅱ語義解釈︶について、なぜ﹁経量部﹂と云われるのかといえば、世尊︵守8蒼喜言答吻Ⅱ釈尊︶[所説]の経 に従って宗義を語るので﹁経量部﹂であり、一切諸法︵旨§曇胃営暮︶は害嚥を通して︵号堅侭。曽匂︶教示されている ⑪ と主張するので﹁譽嶮師﹂と呼ばれるからである。 第四︵Ⅱ対象の主張の仕方︶について、﹁量によって縁ぜられるもの﹂︵ミミミいき曾曾︶が有︵冒曾︶の定義で ある。それ︵Ⅱ有︶を分類すれば、世俗諦と勝義諦の二つがある。﹁勝義として効果的作用能力︵ミ﹃苛苛胃旨曽ミ昔︶ 3 のある法﹂︵§言ミミ曾氏§ごミミ息昌§吟︶それが勝義諦の定義である。勝義諦、諦成︵鳶§白四息曾真実として成 立しているもの︶、事物︵号四・愚。︶、作られたるもの、無常、有為︵蕃堕ごB﹀ぃミ島冒︶、実体︵武§︶、自相︵昌侭ミ堕言善﹄ 鞄ミミ冨言︶は同義である。﹁勝義として効果的作用能力のない法﹂︵号言竪ミ、ミ号言胃包菖言鳥、asらが世俗諦の定 義である。世俗諦、偽成︵、烏§曾司喝息曾虚偽として成立しているもの︶、常︵嵐侭曾ゞ嵩昼亀常住なもの︶、共相︵鈎曾 ⑬ ミ②言篝︺“ミミミミs冒首︶は同義である。 また[異なった見方から]有を分類すれば、否定︵烏侭曾.否定有︶と肯定︵垣,息曾肯定有︶の二つがある。﹁それ を把握する知によって、それの否定対象が除かれることを通して理解されるべきもの﹂︵昌畠静旦暮巴忌胃昌畠廻舟侭 11
また[異なった見方から]有を分類すれば、一︵瞬姓と異︵昔島もの二つがあり、さらに第一には、偽なる一 ︵竜骨震§葛閑芭と諦なる一︵ミミミ胃芭の二つがあり、そのうち前者は、たとえば所知︵い胃冒︶、共相である。 後者は、たとえば事[5a]物、無常である。第二である異にも、偽なる異と諦なる異の二つがあり、そのうち前者 は、たとえば壷である排除︵肩冒︶と柱である排除との二である。後者は、たとえば壺と柱の二である。したがって、 [経量部の宗によれば、]過去[法]と未来[法]の二つは常であり、現在[法]と事物は同義である。 第五・有対象の主張の仕方について、経量部には、穂の相続︵︾壇§︶を人の具体的実例と主張することと、[第六] 意識を人の具体的実例であると主張することの一一つがあり、そのうち前者は、たとえば﹃倶舎論﹂に従う経量部であ り、後者は、たとえば﹁量七部書﹂に従う経量部である。 ⑭ ﹁鮮明であり、知ること﹂︵ぬ亀恩肩烏曾︶が知︵9︶の定義である。知には量︵ミミ︾ミ﹄、§§ミ.確実な認識手段︶ と量に非ざる知︵ミミミ琶唱号︶の二つがある。 ﹁新たにして、欺かざる知﹂︵甥ミき§昏守§烏曾︶が量の定義である。量の定義の部分における﹁新たに﹂と ﹁欺かざる﹂︵§§営昌§ざ︶と﹁知﹂という三つが述べられることには必要がある。﹁新たに﹂ということによって 既定知︵号堂員匂琴らが量であることを除き、﹁欺かざる﹂ということによって推測︵員号堂さが量であることを除き、 である。 さるものからの反対︵貫曾︶、瓶を把握する分別︵§恩急︶における、瓶に非ざるものからの反対として顕現するもの とえば虚空、滅諦︵管輌尽篝﹀尋。暮農亀曽︶、空性︵急。侭ミ員冨薑旨慰︶である。後者の具体的実例は、たとえば事物に非 ある。前者には、絶対否定︵営ミ骨魁と相対否定︵冒昏舟らとの二つがあり、そのうち前者の具体的実例は、た ことなくして理解されるべきもの﹂︵昌言的蔦目菖習冒吻昌信廻舟侭ミミ園ミミミ侭。篝畠き損旨、§胃︶が肯定の定義で 曾冒ご艮噌謹畠、畔§胃冒匙が否定の定義である。﹁それを把握する認識によって、それの否定対象が除かれる '2
﹁知﹂ということによって有色なる根︵き§恩。的N震唄・昌曾︶が量であることを除くのであるからである。 量を分類すれば、現量︵ミ侭昌蔑言豐ミミご嵐、、昌亀質︶と比量︵斜:震号侭曾曹吻言ミミ︾§ミミミ︶の二つがある。 ⑮ ﹁分別を離れ︵言嘗蓄尋員言︶、非迷乱なる︵急寺§旨︶知﹂が知覚︵ミ侭。言いミ言︶の定義である。﹁分別を離れ、新たに、 欺かざる知﹂それが現量の定義である。 現量を分類すれば、自己認識なる現量︵昌畠、侭言ミ函。言吻震ミ豊暮員雪冒︶、根による現量︵患S侭宮ご冒唱高畠蒼豐ミミ ミ亀︶、意による現量︵堂ミ曹薯冒噌善曽量豐ミミ︾ミ︶、琉伽行者の現量︵ミミ﹄誉︾、昌侭。菖罵↑ミ唱酎言ミミ︶の四つがあり、 ﹁ただ内︵Ⅱ知︶にのみに向かい、能取︵瀞曽曾I幕﹄ミ言画言把握形象︶一方からなる、分別を離れ、[5b]新た にして、欺かざる知﹂念言言ミ喝雲。曽愚ざ。甥堕ざ侭鳶営曾旨言蛎ミミ。贈ミ旨ござい曾島畠守ミ§侭噌ミ§ミミ震冨ご碕 曾︶が第一︵Ⅱ自己認識なる現量︶の定義である。 ﹁それの不共なる増上縁である有色なる根に基づいて生じ、分別を離れ、新たにして、欺かざる知﹂が第二︵Ⅱ根 曽邑、立居脈 そのうち、 ﹁それ増上縁である止観双運の三昧に基ついて、微細なる無常、粗大なる[人無我]、微細なる人無我、[それら三 つの]いずれかを現前に証悟する智﹂が、第四︵Ⅱ琉伽行者の現量︶の定義である。玲伽行者の現量を分類すれば、 微細なる無常を現前に証悟する量と、粗大なる人無我を現前に証悟する量と、微細なる人無我を現前に証悟する量の 現量︶の定義である。 三つがある。 による現量︶の定義である。 ﹁それの不共なる増上縁である意根に基づいて生じ、分別を離れ、新たにして、欺かざる知﹂が第三︵Ⅱ意による ﹁それの拠り所である正しい証相︵§頚﹀菩智︶に基づいて生じた、新たしにて、欺かざる思念知﹂︵愚息函ご︲ミミ§蝿
[それが]周知に属する推理であれば、[それは]事物の力によって生じた推理によって遍充され、[それが]知覚 ︵蒼琶智善吻震ミ︶であっても、[それは]現量︵ミ忌噌︶員ミ冨豐冴言風営巳であることによって遍充されず、[6a][それ が]推理︵胃号亀であっても、[それは]比量︵静:震号侭、昌冴言匙ミs︶であることによって遍充されない。なぜな ら、色を把握する第二刹那の根の知覚︵浄愚侭曾曽噌菖昌量︶と、﹁声は無常である﹂と理解するを第二刹那の推理は 既定知であるからであって、[ダルモッタラ恩ミ言。ミミの]亭−デン﹂︵・望ミミ篝﹁量決着釈﹂︶に、﹁知覚と推理 の第一刹那の二つは量であるも、それに後続するものは、器亀品冨宵ミ員︵晦曽團器昔曽号§園︶なので、後者が量であ ⑬ ることは排されているのである。﹂とお述べになられているからである。 第二﹃新たにして、欺かざるもの﹂に非ざる知﹂が、量に非ざる知︵ミミ営量電忌一。︶の定義である。それを分類 すれば、既定知︵号員喋堕I写§碁、“︶、顛倒知︵一侭︲堕胃︶、疑︵尋、き§︶、推測︵廷ミ︽言。e、不確定顕現︵胃ミ飼奇冒 信関、ag︶の五つがある。 う証因によって、﹁声は無常である﹂と理解するを推理が第一︵I事物の力により生じた推理︶の具体的実例である。 号ら、信頼すべき[人のことばによる]推理︵建武、冒胃号らとの三つがあり、そのうち、﹁作られたるもの﹂とい 生じた推理︵暑い。:§画一菅号侭Ⅱ尋侭g、。§冒阿言甥曹弓曾︾§§ミ§、ミミ草ミミ︶、周知に属する推理︵喝§、昌慧堕 旨畠鳥函冒、§§き、息艮唄ミー暑営ミ§aき、ミ位それが比量の定義である。それを分類すれば、事物の力により ﹁分別の対象として有る﹂︵勲侭ビミ言ミミミを証因として、﹁﹃兎を持つ者﹂を﹁月﹂ということばで表現するに可 能なものである﹂と理解する推理が第二︵I周知に属する推理︶の具体的実例である。たとえば、三つの考察によっ
⑯⑰
て清浄な聖典を証因として、﹁布施によって財が[獲られ]、持戒によって楽が[得られる]﹂云々の聖典︵冒邑が、 それの所説内容を欺かないことを理解する推理が第三︵Ⅱ信頼すべき[人のことばによる]推理︶の具体的実例であ る C 14﹁既に理解されたことを理解する知﹂︵§頚獅ミミ。噌曾ご碕曾︶が第一︵Ⅱ既定知︶の定義である。 それには、有分別な既定知︵﹃月曾号這う盲︶、無分別な既定知︵§四曽鼠号首号冒︶の二つがあり、そのうち前者 は、たとえば青を把握する根による知覚︵浄園畠営信冒︶によって引かれ、生じた青いものを想起する想起知︵ミ冨 吾鴎︶であり、﹁声は無常である﹂と理解する第二刹那の推理である。後者は、たとえば色︵Ⅱ色形︶を把握する第二 刹那の根︵Ⅱ眼根︶による知覚である。 第二について、﹁顛倒して機能している知﹂守言嵩昌侭冒譽噴冒ご碕冒︶が顛倒知︵肩鳥吻︶の定義である。それ にも、有分別な顛倒知︵、員冒肩いぎ︶と無分別な顛倒知︵︾’員ミ、ミ。唱胃︶の二つがあり、そのうち前者は、たとえ ば﹁声は常である﹂と把握する分別であり、後者は、たとえば一つの月が二つの月︵き§喜営︶として顕現する根知 ︵き§闇胃︶であり、雪山が青いものとして顕現する根知である。 第三について、﹁それみずから自身で、二辺に疑う[/とまどう]心所﹂︵曽畠§胃曹吻ミ言、習旨曽鳶息畠畠萬 ご震亀が疑の定義である。それと相応する意識︵員曹ミ園ミいざ︶や、それの春属︵蕊&として生じた受︵ご§言、︶ [など五遍行の心所]は、それみずから自身で二辺に疑うものではない。なぜなら、それらは、その疑に起因して、 二辺に[6b]疑うものであるからである。 それには、当を得ている疑︵号薑箇ミ豐詩き。量︶と、当を得ていない疑︵§葵員電s豐詩go曽︶と、等分の疑 ︵・言唾昌。営息3号goミ︶との三つがあり、そのうち第一は、たとえば、声は無常であるのではないかと思う疑であ り、第二は、たとえば、声は常であるのではないかと思う疑であり、第三は、たとえば、声は無常であるのではない か、常であるのではないかと思う疑である。 第四について、﹁それの対象に思念することで欺く思念知であり、内容と.一致するもの﹂︵国言唱忌冨・きき冒昏言哉 ⑳ きき烏号言︾言薑︶それが、推測︵員号ご§の定義である。それには、証因︵﹃堕震ミ函言言︶なき推測、証因と背反する 15
︵管こs﹄ごミミざ︶推測、証因が不定なる︵営倉侭鼠負曽罵§︾§ミざ昌雷不確定なる︶推測、証因が不成なる︵ミ倉四き︾ 畠蔦盲︶推測、証因はあるが決定されていない推測の五つがあり、そのうちがたとえば﹁声は無常である﹂というこ とば︵信らのみに基づいて、﹁声は無常である﹂と把握する知が、第一︵I証因なき推測︶の具体的実例である。 なぜなら、﹁声は無常である﹂というその音声︵喧感︶は﹁声は無常である﹂との主張︵島営冒︶を述べているもので あるが、﹁声は無常である﹂との正しい証因を述べてはいないからである。 たとえば﹁効果的作用能力を欠いている﹂という証相に基づいて、﹁声は無常である﹂と把握する知が、第二︵Ⅱ 因と背反する推測︶の具体的実例である。なぜなら、﹁効果的作用能力を欠いている﹂は[主張の有法3.吻昌言である] ﹁声﹂と背反するものであるからである。 たとえば﹁所量︵鴇言邑ご園“営倉言§考量されるもの︶﹂という証相に基づいて、﹁声は無常である﹂と把握する知が、 第三︵Ⅱ因が不定なる推測︶の具体的実例である。なぜなら、﹁所量﹂は﹁声は無常である﹂と証明する不定因︵ミ亀 侭喝愚畠唱きき侭§吟。§︲冒震︶であるからである。 たとえば﹁眼識の所取﹂︵ご烏蜘冒曹鴨ミ侭冒︶という証相に基づいて、﹁声は無常である﹂と把握する知が第四 ︵Ⅱ因が不成なる推測︶の具体的実例である。なぜなら、﹁眼識の所取﹂は、﹁声は無常である﹂と証明する不成因︵ミ画 四︲息曾筒冒言暮曾・画尽赴言︲冒震︶であるからである。 たとえば﹁声は無常である﹂と量によって確定していない︵蒼亀琶照息昌Ⅱ理解していない︶人の[心]相続︵喧息 における﹁作られたるもの﹂を証相として、﹁声は無常である﹂と把握する知が第五︵Ⅱ証因はあるが決定されていない 推測︶の具体的実例である。なぜなら、﹁作られたるもの﹂は﹁声は無常である﹂と[7a]証明する正しい証因で あるも、その[前述した]ようなその人によって、その正しい証因は決定されていないものであるからである。 第五について、﹁それの対象が確定されていず︵Ⅱ理解されていず︶、鮮明にして顕現を有する、非迷乱なる知﹂ 16
︵首畠ビミ昔§照息§唄愚冒亀胃§蝿。§豊営倉葦曽忌昌烏曾︶それが不確定顕現なる知︵旨§唱含営倉善照息画ぎこの定義 である。それを分類すれば、それ︵罫。ミ畠Ⅱ不確定顕現︶となれる根による知覚、[同じく]意による知覚、自己認 識である知覚の三つがあり、そのうち第一は、たとえば眼︵Ⅱ眼識︶が美しい色にきわめて着している言信,旨 ・琴晶息亀︶ときの、声を把握する耳識である。第二は、たとえば凡夫の相続における色等の五つの対象︵号員言曽︶を把 握する意による知覚である。第三は、たとえば凡夫の相続における色等の五つの対象を把握する意による知覚を感受 第七・地と道の規定について、種姓を有する三者とも[その]資糧を積集するとき、有学道の四つの段階において 資糧を積集するのであるから、よって[経量部は]佛の色蘓は佛であると認めるのである。[それ以外]障︵§ミ§亀︶ の規定や[7b]地と道の進み方などは毘婆沙師と同じである。 師と同じである。 我であり、人が甫 量と比量である。 一般に︵§匙、有対象を分類すれば、生類︵堕胃堕言︶とことば︵薑噌廻と量の三つがある。有対象である量を分類 ⑳ すれば、量たる生類︵の胃堕冒ミミミ画︶、量たることば︵琶噌魁、量たる知との三つがあり、そのうち、第一は、たと えば教、王ブッダ︵§善曾吻§頚碕冒︶を指す。第二は、たとえば四諦︵蔦葛鳶この法輪を指す。第三は、たとえば現 する自己認識である 第六・無我の主張の仕方について、人が常であり、単一であり、独存であるものとして空であることが粗なる人無 @ であり、人が自足的な実有として空であることが細なる人無我であると主張し、法無我を認めないことは、毘婆沙 訳註 ①﹁宗義﹂含量言ミ亀︶の語義解釈について、ゲルク派の宗義書では、ダルマミトラロミミミミミの複註萌句﹂︺9哺忌忌員Ⅳ
き侭頚具、冒善ミ§園島における次の記述が引かれのが通例となっている。﹁宗義、すなわち道理と聖典とによる説示に自らの 主張が成立し︵畳腎︶、そして、それ以外に行くことがないので端︵ミミ︶である。﹂︵四息曾ごミ言﹄鳥、、曾冨§穏言員 電い、§言雰冒韓曾司昌琶晦四式蔓曾喝息曾ミ$冬忌湧毒、碁S︲首信.噂’ミ零舞*ミミ曾吻苫魯ミ琴§ミロミ・恥囹か曼負・爵員︲い、 一寺︲臼唱.ゞミ¥9’息﹃ミ言ゞ︾伽営&§暮司§函冨”ミミ園迂鼠、、q鈎鼠︽ゞ*巷昌●.尋員、旨い.無難*噂ミー啓鼠、噂。旨︶ ②仏教徒における宗義が四つであり、それ以上ではないことについて、次の記述が典拠として指摘される。﹁仏教徒には第川 [の乗]、第五[の宗義があること]は牟尼のお考えではなと︵い§闇碕冒の、ミ画蒔置曾島侭ご言噌曾畔言守、旦舟。篝噌曾 ミミミ﹃ミミ智乱言︾函習目、§骨自慰言算興口菖。.旨“P悶圏︾鈍冒、君○.唖閏Pg﹀誉印.○砕営Q、息司ミ言︾碕冒ご昌言、︲誉函、畠噂営 鼠凰冨唄、巳温もあ﹁インド仏教思想史﹂上巻、西蔵仏教文化協会、一九八八、一五六頁︶ ③ここで指摘される毘婆沙師三派のうち、シ言碕曾は﹁倶舎論﹂索引によれば、団員意軋§雷︵[真諦]外国諸師、尉寳国外 諸師、西国帥卵[玄英]外国︿諸﹀師、外方諸師︶、、画ご黒亀の訳語である。なお、、頁§胃︲︵[真諦]西方諸師、西国諸師 [玄英]西方諸川、西方師︶という呼称があり、それの蔵訳語は乏息、ごo頚曾である。どこ冨吻曾唇、守信電弓︲色盲という 呼称は、少なくとも同索引には認められない。﹃倶舎論﹄の粘語には、﹁迦混弥羅談理成我多依彼釈体法﹂︵大正蔵ざ.勗騎. 門国尉や&態.︵鵠豈○.尉軌幻麗埠員やきき“.﹂擬蜀員詐“巳..︻g量、、︲ご息寒割凰ざ︲苫蔑︲②登尋§、魯○ミ魯画]旨慧雷等き ﹄罫量奇ごミミとあり、﹃倶舎論﹄本頌のほとんどはカシュミーラ毘婆沙師の宗義に従ってまとめられたことが指摘される。 員言母曾と忌ミ§罵曹どき、侭吻ミミ胃については、ボーディバドラ団。急忌言、目︵一○世紀末’二世紀初︶作﹁智心髄 集註﹂急§sg︲園ミ旨胃員旨ミミミざミの以下の記述があることを注記しておく。駒o§馨言罫︲亀画局鼻罰冒畠司昌ミミRsQ︲ミ言冨︲ ↑急ミミ.︻ざら言辱、ご侭層吻ミミ冒噌畠号晦葛ミ嵩、幕言﹀奇吻晶吻曾冬吻ご冒辱目唄忌ミミご旨量脚迂愚:⋮、国ミ§畠ご型辱、守侭 ミミミ亀冨魯肩ミ菩吻ごミご畠蔚ざ⋮暮匙旨の、⋮:感冒言営、富旦曾奇迂ご目、亀。島侭尽冒曾恩腐ご亀ざ︲蒔曽信言乏息 暮苫噌汽言§ごミミ瞥畠曾蔦ごき︾愚言亀ミ:昌将言侭昌菖員器、:⋮ミミ島汽、鷺曽堕ミミ冒貫、砕騨§急言侭軍 ﹄ミュ貢曽昌冒冬Q昌曽冒薑冒号ミ鼠、§い、己鼠慰昌8A閾山口益﹁中観佛教論孜﹂山喜房佛耆林、畠典慧、隠︲陪巳 ︵鵠﹄号亀邑ごミミ︾白︲ござミミ暮画ご員司・・園、亀ご画ご鼻息ミ忌忌尋き−s︲量員ご乱迂営目箇←罫ミヨ、胃、亀ミマミー島︲ミロ登旨忌 菖ざ§§画尋言鼻画具員言曽ミミ吻冒ぎぎ冒国凰罫§宮電︵宇井伯壽﹃大乗佛典の研究﹄岩波書店、こ&、画︾畠夢管守侭言 ごミ冨冒ご曾ミ亀︵梶山雄一・御牧克己﹃経量部含冒ミミ蕊画︶研究﹄ら鼠、.今 I 18
④︹謁罰冒畠ミ畠ミ冨冒員旨︲ミ冒員言旨鼻壁貝侭昏吻曾§畠ご冒冒寝首ご瞳ミ寒昌ミミ侭、昌吻甥電ごミ侭ミ昌功曹辱、守晶冒 しミミ胃ざ嵩、9m琴晶言雰言赴曾忌§、3鴇言員§侭§言ご賞︺,き﹄昌言堕蓉s冬鳥、自白号器員。aご昌萸ミミ尋二別掲書 貰亀山鵠山口前掲書も.函堤言大毘婆沙論﹂︵大正蔵号.勗曲等︶の書名理、守侭言守暮員曾号琶宮︵冒暮桑建尋言園.本文 献では、哩恥守侭雰言ミョ鳥貝&§営○という呼称が用いられる︶のご心写侭冒の語義について、ターラナータ恩ミ葛ミ言 画則甲&“趣の﹁インド仏教史﹂、墨画媚ミ向き②﹄ご§館は、﹁詳しく﹂︵麹ミ言ミ︶の意であるとするa昌嘗§賃、.t荷毘 達磨文献における思想の展開﹄、西蔵仏教文化協会、己隠、函哩。なおここでの胃琴侭︵ご爵旨.種、特殊︶は、チベットの 仏教学では、﹁能遍に入る自の種類がある法﹂念ご息ご鼠§︾侭曾さ.。侭廻、噴き興曾。§巴:ざら︶と定義されるそれであり、 鈎曾︵類、普遍︶に対する用語である。急言については、後註⑬を参照。 ⑤ミミ§鴨迂に対して、筆者は﹁定義例﹂という訳語を用いたことがあるが︵﹃中観哲学の研究﹂I、、砧&首曽巴、それ は必ずしも適切ではない。なぜなら、ミ堕言言鴇迂は﹁定義が該当する所定義を示す基体となれるもの﹂︵ご冒言薑ミミ曹吻 静きい曽言ミミミいき薑与国ミ善§、旦鳴言堕ミ旨︶と定義され、したがって、所定義︵量暮。薑ご画.定義されるもの︶の実 例と解すべき用語であるからである。たとえば、壺の定義は﹁中央部が大きく膨らみ、端が少しすぼまっていて、水を運ぶた めの効果的作用を持ったもの﹂であり、その定義の所定義は﹁壺﹂であり、その実例は、たとえば金の壺である。これより、 ミ吻言惑鴇量に対しては、より適当と考えられる﹁具体的実例﹂という訳語を用いることとする。後註⑲をも参照のこと。 ⑥︵制陰門里員崔温鼎討.慮爲︽自訂ミーミ胃曽畠ミ薑尊幕昌己、宮尋s冨今吻暮、、§ミミミ、きき国、旨匂ミミ8群息曾ご§凰葛ミ戸訪 もs︽bき﹀も副︲刃.ざ詞ロミ曽崎ご国侭︶胤畔晶曾﹃ご亀曾ミミ量員葛画、一員畔ミ言冒旨詮脚苛︾ミペ彌慧娯員亀言守菖号番い言い誌、 曽畠廻菖旨;ご言碕喧侭豊噌︾︲葛s鼠菖ざ︾侭、なお、ここでの知︵暮鴎官︶とは、具体的には心心所法を指す。 ⑦曽畠胃吻ミ喜昌﹁現前に﹂と号習い“震﹁直接に﹂との違いについては次のように理解されるべきである。まず﹁現前に﹂理 解されるということは、分別なき知︵乱品昌さのみに限られる。一方﹁直接に﹂理解されるということは、知︵9︶に形象 ︵ミミョ官︶が現じ︵吻言さ画︶て理解されることをいい、また﹁間接に﹂理解されることとは、形象が現ぜずして理解される ことをいう。分別︵§恩亀︶、たとえば﹁あの山には火がある。煙があるから﹂云々とする推理︵骨号らにおいて、火の形 象が、知である推理に現じてしているので、火は直接に理解されているとする。また分別なき知︵斡晶曽邑においても、間 接に理解されるものがある。たとえば﹁無我﹂を現前に証悟している琉伽行者の現量における、﹁人が自足的な実有として空 1Q ユ ヅ
である﹂ことがそれである。 ⑧百大劫という規定については、﹁倶舎論﹄巻第十二﹁鱗角嶮独覚﹂︵大正蔵鬮員、ふき︶に言及されるが、爾伽師地論﹂巻 三十四﹁本地分中独覚地第十四﹂︵大正蔵弓酎量鬮属、冷却.。.ざ全蜀い§耳目學也にもほぼ同趣旨の記述がある。 ⑨Q小谷信千代享ベット倶舎学の研究﹂︵文栄堂、一九九五︶三一五頁︵量gミ鴎言烏ミミ延寒ミミ蒼幕。ざご圏旨員蒜噛む。 ⑩日小谷前掲書、一六○頁︵↓嵩g言い昌烏ミミ患置きミ︾§ぎぎ琴周旨員諒壁︶。なおここでは、天の生存七返︵ぎぎ雷駐曾 ミミ︶と人の生存七返︵曽芽、ミ曾尽ミ︶を併せて、﹁十叫生有﹂とする。したがって漢訳用語における﹁極七返﹂に同じ。 ⑪︵判罰冒農胃畠ミ言胃員旨︲ミ冒員ざミ悪ミ畠。今侭曾昏侭\も言魑曾蘭§的さ:曾員曾奇鳥吋曾ご言号罵ミミ冨侭言ミ︽ 冒一︲ざ、ざ昌冒・肩ぺごミ目計器島晦唱ご禺吻震誉函曾匂冒ども。の号冒爵ごミ侭鳴言善号鴎怠昌曾奇蔦言い貰い菖弓餅宮こ §言、§ごミミミ透前掲書、息思山口前掲書も恥8 ⑫具、、ミ言§§ミ昌訂﹄員、§曽雰急、ふ、“ミ畔言ご首のミ言ミミミゼミ鼎ミミミ旨、ミミミ目ミ、負ミミのS唇ミ胃ミ、。賀ミ薑尽 めごaミミミミ忌旨ミミミ営島蒼号言ごミミ園曾鷺畠ご鳥罫、号苫島営セミ曾豈苫這鴨言葛ミ雪苫、鳥息迄員曾鳥ご幕亀高ミ侭 偲冨ご富言菖ミミ雰冒3sすでに常冨唱o§園冒画喝甲畠もⅡ囚。四。吻守罵言旨﹃インド密教思想史﹂西蔵仏教文化協会、 暗侭も悶巴による指摘があるように、亀弾言ご首︲旨ミミ忌回に対する修飾語となるきる島営という語は梵文にはない︵量愚畠 喝息ご心白熱Sき、目9幕己言馴&︽出島も亀︲巴。﹁勝義[として]﹂という限定の必要については、タルマリンチェンロミ 営倉§&§は﹁言葉使いを明確にして︵そのように︶述べられた﹂︵墓崎碗ミ暮言惑冒、ごぎ息画︶とする︵﹃解脱道作明﹂ヨミー 奇ミ甥ミご具ごぎぎざ・盟包の亀信冒陣員習募尋迩寄、、OS園ご昌爵、静ミミ言息麗かぎ貝、色。詳しくは吉水千慨子﹁ゲル ク派による経量部学説理解川﹂︵﹁成田川仏教研究所紀要﹂第二十一号、愚麗︶臼︲魚貫也がある。 ⑬共相含曾ミミ§︶と類含曾普遍︶とは異なった教理用語である。共相であれば、それは常︵灘晶曾︶であることによっ て遍充されている。一方、類は一般には常であるが、類には常と無常︵ミミ侭曾︶とがある。たとえば、東の虚空の類であ る虚空は常であり、金の壺の類である壺は無常である。したがって、類について﹁佃物︵昌侭ミき§・きミ幕篭首︶に随伴し て実在しうる﹂︵吉水前掲論文︶とする解釈は、少なくともゲルク派の理解では不用である。 ⑭ここで知︵9︶の定義のうち、﹁知ること﹂︵自動訶︶によって、鮮明︵岨員冨﹀冒冒︶であると規定される根︵き§ぬ宮Ⅱ 有色なる根︶が知であることが除かれ、﹁鮮明であり﹂によって、有対象である、人︵醤侭凝らが除かれる。なおこの定義 2 (
中の︸碕曾は動詞であり、言﹃︲崎貰い言息へ侭曽ごミミ唄侭とある場合の︾︲崎曾は名詞である。その区別は発音の抑揚によって 示される。︻補遺︼ジャムヤムシェーパは、②冒曾に対して、﹁顕現し、物質に非ざるもの﹂︵唱邑こミミ喜言量︶という定義 を与える。そしてその根拠として、、詞昌、昌冒雷回︾あ旨号冬﹄急ぎ号侭鼠曹堂。昌侭ミミミ旧ミミご唱言吻弓息頚ミ獅琶畠 至︵吻言旨耳鼻群ミ§口言§旨&冨営尋尋旨ご§幕鼻員、︾が示される。そして、︾侭曾︵動詞︶の意味としては﹁対象が現じる こと︲一唇ミ3s.言︶、﹁顕現すること﹂︵旨ミ侭亙を指摘する。言9房恩ミミミ訂︶弓冨勗言もミム ⑮︵鍔暮ご息営§為吻会ミミ宮感冒曾昌曾嘗薑暮・きS冨亀さ︲コミミ蔦、戸隠局寄守噂園冒雷§忌暑ミミ・詮S富、愚冒涜§ミミ ⑯﹁三つの考察によって清浄な﹂とは、聖典が量であることの理由を示すものである。その三つについては、﹁量評釈﹄、宍目 匪3.耳言ミヘミミsも届に論じられるが、タルマリンチェンの註釈害﹁解脱道作明﹂によれば、次のように指摘される。﹁経験さ れる現前のもの︵言薑噌蕎巴ミ︶の説示において、知覚による害がないこと﹂、﹁経験される隠れているものs侭磐震舜 曾さ雰国︶の内容の説示において、事物の力より生じた二つの推量による害がないこと﹂、﹁経験されない事物であり、きわめ て隠れたものたる内容が説示された通りであると承認することについて、聖典に基づく推理によっても害されず、前後の語の 背反、直接・間接[のいずれの]背反によっても害されないこと﹂︵票ミーミ量鴨ミご鼠尋冒も、1。なお、このタルマリ ンチェンの註釈部分には既に研究論文︵﹁駒沢大学仏教学部研究紀要﹂館四十四号︶が与えられているが、、民尉閏心で説か れる、量となれる聖典の確認のための三つの条件を、先の三つと取り違えて瑚解されているようであるので、注意されたい。 ⑰﹁宝鬘論﹄記§昌昌貸云秀いき島慧員罫侭暮皇罫§︾蔑凰 ⑱ロ言、言。ミミ﹀、ミミミ凰凰鼠§一昌尋興口ざ心隠幻烏か℃函︲駒 ⑲これら量に非ざる五つの知に対する訳語については、﹃チベット論理学研究﹂第二巻、東洋文庫、一九九○の訳業を参考に した。なお量に非ざる五つの知については、既にゴク・ロデンシューラプ含扇甲旨この薑決着難処註﹄に言及される。 中国蔵学出版社、愚増も恥蝉冒愚︲凶.号吻菖暮員営亀ミ亀言一息員喜肩冒す至胃§哩亀ご国侭閣貰島畠、胃員曾ごミミ暮 昏言廻肩貰曹冒冒昌畠、萱包号竺員s侭葺苛暮。言ミQ営匂ミ:また同書には、芝き§ミ員言皇昌冒ゞミ碗言菖稠迂という 用語も頻用される。碕応同書、、目副官81、息望、旨・菖忌§鴨言島愚量冴言薑ミミ青ミ奪首胃胃曾島侭ご首琴旨与園 ︲坤已 再 奇②心眼“、邑斡凰○的、s︾気言晦量廷璋管震ぬい尉界・・ 闇へ誉嵩葛、 ワ 1 α 」
⑳推測を疑と異なった知として認めない、サキャ・パンディタによる推測の批判については、﹃チベット論理学研究﹂第二巻、塑 慰闇︲繋留︲忠を参照されたい。 ⑳器鴎曾ミミごミの使用例として、ジャヤーナンダ蜀葛琶口葛島の﹃人中論釈﹂ミミごミミざごミミミ尋貫口罵認昌員哺8が ⑳昌畠吻迂s耳言ミミ↓︲烏画こ員という用語は、ツォンヵパも用いるところであるが、﹃密意解明﹂の第四勝義発心の註釈部分 では、その第四地︵焔慧地︶での所断となれる我執︵菖飼幕営︶として、﹁個我、有情等は自足的な実有であると捉える粗大 なる人我執と人我所執と蒋界処を諦と思念する法我執﹂が指摘されるている︵闇雲ごミ舟。侭、盲﹃︲息唄ミミ ミ回鼻旨ミ鼻冒ミミ画貝賀国臼&︲④。この論述は、人が自足的な実有であると捉える我執が、帰謬派では、倶生の我執であ る理解されることの典拠となる。 ︵本稿の作成にあたっては、種智院大学講師・高田順仁氏の協力を得た。︶ 斗妬レフ幻0