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ハルスデルファーのドイツ語宗教詩に対する関心(葉賀明教授退官記念論文集)

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ハルスデルファーのドイツ語

宗教画に対する関心

 マルティーン・オーピッッ(Martin Opitz,1597−1639)がドイツ語による最 初の詩作入門書『ドイツ詩学書』(Buch von der Deutschen Poeterey. In welchem alle jhre eigenschafft vnd zuegehOr griandtlich erzehlet / vnd mit exempeln auBgeftthret

wird)を刊行したのは,1624年のことである。その後この本は版を重ね,

1641年には第5版を出し,更にその4年後の1645年にはハーンマン(Enoch

Hanmann,1621−1680)による注釈が付加された第6版が出ている。オーピッツ

のこの詩学書は更にその後も1690年まで版を重ねたが,それと平行してショツ

テリウス(Justus G. Schottelius,1612−1676),カエシゥス(Caesius;Philipp von Zesen,1619−1689)らのドイツ語による詩学書も刊行された。即ち,旧例シウ スの『ドイツ語によるヘリコーン山』(Deutscher Helicon)第一部は1640年に, 同第二部は1641年に,ショツテリウスの『ドイツ語韻律法』(Teutsche Vers− oder Reim−Kunst)は1645年に刊行されている。このようにドイツ語による詩

作入門書が既に市場に幾種類も出回っている状況下で,ハルスデルファー

(Georg Philipp Harsd6rffer,1607−1658)の同種類の詩作入門書『漏斗式詩学』 (Poetischer Trichter, Die Teutsche Dicht−und Reimkunst, ohne Behuf der lateinischen Sprache, in VI Stunden einzugiessen. Handlend:1. Von der Poeterey ins gemein, und Erfindung derselben lnhalt. II. von der teutscher Sprache Eigenschaft und FUglichkeit in den Gedichten. III. Von den Reirnen vfi derselben Beschaffenheit. IV. von den vornemsten Reimarten. V. von der Veranderung und Erfindung neuer Reimarten. VI. von der Gedichte Zierlichkeit, und derselben Fehlern C...)) (==

(2)

16 一宿 明教授退官記念論文集(彦根論叢 第251,252号)

第一部〕が1647年に,匿名で刊行された。その序文で著者は次のように述べて

いる。 「われわれ〔ドイツ人〕はヘブライ語,ギリシア語,ラテン語で作詩する方法を学ぶが, どうしてドイツ語でも作詩法を学び続け,少くともドィッ語で書かれた詩について判断 が下せるようになる迄それを続けようとしないのか。確かにドィッ語の詩を読んだり, 苦労してそれを真似たりすることは若者に可成りの勉強を強いるが,それは役に立つ。 それによって綺麗に喋ること,一つの事柄を沢山の言葉を駆使して印象深く言い表わす こと,正しく配列すること,それぞれの意図を間違いなく別の意図に結びつけることを 学ぶからである。そしてそのような知的練習によって,あらゆる所で(というのもラテ ン語は,周知のように,少数者しか知らないから),楽しみにつけ悲しみにつけ,愛想 よく,人に好かれるように振舞うことができるからである。事実,この様なドイツ語で        且) の技能は,今日,多くの宮廷と幾つかの大学で好評を博している。」

 民族の言葉である母国語を卑語,俗語,蔑語の段階からきちんとした体系を

もつ文学語に高めようという運動,教養ある人々が話題にするようなことすべ

てを容易に,明瞭に,上品に表現できる言語にしょうという運動は,ヨーロッパ では,イタリアから始まり,ドイツの隣国フランスではロンサール(Pierre de Ronsard,1525−1585)などの「プレイヤード派」の詩人達によって受継がれた。

しがし,他方では当時の詩人は学者であることを要求されていた。当時の大学

の詩学の教授がしばしば歴史学の教授を兼任していたのもこの為である。古代

の文化と教養を聴衆や読者に取次がねばならない,自分の学識を読者に伝えね

      2)

ばならないという考え方が詩人の間では支配的であった。プレイヤード派の一

人デュ・ベレー(Joachirn Du Bellay,1522−1560)は『フランス語の擁護と顕揚』 1) CGeorg Philipp Harsd6rffer) : Poetischer Trichter. NUrnberg, Teil 1 1647;Teil  II 1648;Teil III:Prob und Lob der Teutschen Wolredenheit, 1653;Neudruck  Teil 1−III : Darmstadt 1969, Teil 1, Vorrede, )(v, Abs. 9.  本書は以下では(PT.)と略記し,引用文末及び注の括弧内はその部数とページ数を  示す。但し,ページ数がない場合は)(i,)(iiなどの原文の表記法やAbs.1, Abs.3な  どで示す。   なお,この詩学入門書は成程「匿名」出版で実名はないが,代りに「いとも尊き結  実協会の漁る会員1著」と表紙に刷り込まれている。 2) Vgl. Ernst Robert Curtius:EuroPaische Literatur und lateinisches Mittelalter.  Bern 21954, S.210−213.

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       ハルスデルファーのドイツ語宗教詩に対する関心  17 (Deffence et illustration de la Z碗g粥加πρo‘sθ,1549)の中で次のように述べてい る。 「人々の手によって弘められ,入口に瞼炎されたいと思う者は,長い間自室に踏みとど まらねばならない。後世の記憶のうちに生きたいと思う者は,瀕死の人のように,何度 も大汗をかき,ぶるぶる震えねばならない。われらの機嫌とりの詩人たちが気儘に飲み, 食い,眠るのと同じ回数だけ,空腹と喉のかわきと長い徹夜に耐えねばならない。これ         らこそが人問によって書かれたものを天翔けさせる翼なのである。」

 大詩人になろうとする者には自分の好き勝手に飲んだり食べたりすることが

許されないとすれば,彼らは一般の人々と同じ食卓につき,彼らと語らいなが

ら食事を共にする機会など持てないのではないか。庶.民が眠っている時も徹夜

しなければならない詩人志望者は,一般の人々と接する機会を殆ど持てないの

ではないか。だとすれば,こんなに一般大衆と違った暮し方をしなければなら

ない詩人は果して一般大衆がふだん喋り,使用している母国語に精通すること

ができるだろうか。そのような一般人の俗語を使って格調高い詩を書くことが

できるだろうか。真の詩入が求めるのは遠いヘリコーン山に住むミューズの恩

寵であって,宮廷社会や大学などで人々に好かれることではない。だからハル

スデルファーもドイツ語で作詩することによって詩人としての不朽の名声が得

られるなどとは言っていない。では何の為に詩人志望の若いドィッ人にそれを

勧告するのか。それは,後述するように,彼らが神により近づける手段を作り

だす為である。彼は上述の引用箇所の後を更に次のように続けている。 「そうだ,仮にわれわれドイツ人をわれわれのドイツ語での詩作へ駆り立てるそれ以外 の理由がなくても,心からの熱烈な(hertzbranstig)信仰を呼び覚すことを目ざす宗教 詩(geistliche Lieder)はわれわれを十分それへ駆り立てるだろう。そして宗教詩は技 法上の正しい知識がなければ作れないのである。」(PT.1, Vorrede, Abs.9)

ここで強調されている「宗教詩」との関連において彼が1641年に匿名出版し

3) Yvonne Bellenger: La Pliiade (==ColL 〈Que sais−je?〉, Nr. 1745).  S. 15. Paris 1979,

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 18 葉賀 明教授退官記念論文集(彦根論叢 第251, 252号) 4︶ た『婦人談話遊戯』(Frauen2immer Gθψ吻ゆf8妨第一部に付録としてつけた 「ドイツ語の言語的加工とそれに従事している人達のための弁護状」(Schutz− schrift fu r die Teutsche SPracharbeit und derselben Bej7issene)の中の次のような見 解は見逃すことができない。 「一寸,次のことを思い出していただきたい。即ち,われわれの祖先の時代にドイツ語 が型に嵌められたこと並びにラテン語の強情な保護によって神の祝福を与える言葉が一 般民衆に全くわからなくなったこと,すべての教会の儀式,つまり,ミサ,告解,唱歌 (Gesang)などがラテン語で行なわれたためにこれらの儀式の参加者の頭の中はぼん       5) やりし,内心の熱烈な信仰は上辺だけの慰めのない教会儀式に変えられたことを。」

 ハルスデルファーの考えによれば,ドイツ人の心の中に神に対する熱烈な信

仰を呼び覚すためには,先ずドイツ語を従来の千篇一律的な型からはずして美

しく加工しなおすことが必要であり,第二に,詩人は一般のドイツ人にも理解

できる母国語で礼拝の際皆で歌える宗教詩や讃美歌を書かねばならないのであ

る。

 勿論,ドイツ語による宗教詩,即ち,礼拝で教区民が一緒に歌える,節に分

れた詩の作製は,既にルター(Martin Luther,1483−1546)によって始められて

いた。その後の代表的な宗教詩の詩人としては,ハルスデルファーが属してい

たルター派では,パウル・フレミング(Paul Flemming,1609−1640)とパウル・ ゲァハルト(Paul Gerhardt,1607−1676)を挙げることができる。前者は,オー

ピッツなどと同様に,近代ラテン語とドイツ語の両方で宗教詩を書いた。しか

し彼の生前,つまり,1640年以前に発表されたものは主として近代ラテン語の

宗教詩で,ドイツ語のそれは死後2年目の1642年目刊行,ハルスデルファーの

4) この『婦人談話遊戯』の匿名出版も,注1)の『漏斗式詩学』について述べたと同様,  実名の代りに,「いとも尊き結実協会の或る会員1著」と表紙に刷り込まれていた。 5) lrmgard Bottcher (Hrsg.) : (G. Ph. Harsd6rffer) : Frauenzimmer Gesp rtichspiele,  Teil 1−VIII. TUbingen : Niemeyer 1968−69 (= Deutsche Neudrucke. Reihe Barock.  13−20), Teil 1, S. 358f.   本書は以下では(FG.)と略記し,引用文末の括弧内はその部数と新版のページ数  を示す。

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      ハルスデルファーのドイツ語宗教詩に対する関心  19       6)

『漏斗式詩学』第一部刊行の5年前にすぎない。又後者の有名な宗教詩「草木

も人も眠りにおちて」(Necn ruhen alle吻Z4θγ)が初めて出版されたのは『漏斗 式詩学』第一部刊行と同年又は,その翌年の1648年にすぎない。

 さて,ハルスデルファーは,上述の如く『漏斗式詩学』第一部の序文でドイ

ツ語で宗教詩を作るためにもぜひドィッ人は母国語での作詩法を学ばねばなら

ないと述べた後,更に教会で歌われている宗教詩について次のような見解を述

べている。 「昔からラテン語で歌うやり方がわれわれの教会に残っている。これは若い学生のラテ ン語の練習のためである。しかし普通の人はドイツ語で歌う方がはるかに多くの利益を うける。それによってわれわれは,いわば,天使の後を追い,神により近づくからであ る。」(PT. L Vorrede Abs.10)

 彼は宗教詩を歌うことを単なる教会儀式の一部と考えず,それによって有翼

の天使たちの後を追って神により近づく手段と見徹しているのである。そして

その為には自分達が歌うことの内容がよくわかっていなければならず,従って

ドイツ語の宗教詩が書かれねばならない,というわけである。キリスト教の神

の使者である天使は人間に声として現出する。Th.ホッブズも指摘している

ように,創世紀21章11節で天使が天からアブラハムに向ってイサークを殺す手

       ?)

をとめるようにと呼び掛けた時,「そこには現出はなく声があった」だけであ

る。従って人間の方も同じ声によって天使に語りかければ,その天使を通じて

自分たちの願いが神に聞届けられる,と考えるのである。ダビデが神に対して

語りかけたものがダビデの歌,即ち,『詩篇』である。その意味で『詩篇』は

聖書の中でも人が神にどのような声:言葉で語りかけたか,祈ったか,歌った

かを示すものとして,ルターによって特に高く評価された。例えば,彼は自

分の独訳聖書の中の『詩篇』の前につけた序文の中で次のように述べている。 6) Vgl. Jbrg−Uirich Fechner: Faul Flemming. ln : Deutsche Dichter des IZ Jahr−  hunderts, hrsg. v. H. Steinhagen und B. von Wiese. Berlin 1984, S. 372. 7)ホッブズ著:『リヴァイアサン』水田国訳岩波文庫㊧67−68ページ。

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20 葉賀 明教授退宮記念論文集(彦根論叢 eg 251, 252号) 「『詩篇』はただ次の理由からだけでも貴重であり,好ましいものである。即ち,それ はキリストの死と復活について実にはっきりと約束していること,キリストの天国と全 キリスト教徒の状態と本質を描いて見せていることである。従って,これは小バイブル        ヒと呼んでもいいであろう。というのもその中では聖書全体において述べられていること すべてが極めて美しく,とても簡潔に表現され,素晴しい便覧又は手引きにつくられ, 仕上げられているからである。  私にはまるで聖霊自身が短いバイブルと全キリスト教徒或はすべての聖人の範例集を 次の目的の為に一つにするよう努力したように思える。つまり,バイブル全部を読めな い人は誰でもこのうすっぺらい小冊子の中に聖書のほぼ全体をまとめて読めるように,         8) という目的のために。」

 このように『詩篇』は彪大な聖書の便覧という実際的役割をも果していたの

で,その中の詩句は当時の人々に特に馴染み深かったのである。しかしハルス

デルファーは単に『詩篇』だけではなく,聖書の他の箇所にも注意を向けてい

る。例えば,「漏斗式詩学』第三部(1653)第1章の第3考察の中の第27節では

「聖書における表現法の相違」(PT. III,16)という小見出しで次のように述べ ている。 「聖書〔の表現法〕を考察してみよう。歴史篇(又はGeschicht−Erzehlungen)は簡 単な文章で述べられている。何故なら歴史家は真実に対してだけ義務があるから,もし 彼が多くの勝手に捏造してつけ加えた装飾的文章のそばにぐずぐず留まっていれば,そ れは彼を疑しいものにするからである。しかし人々の気持をかきたて,心を動かし,そ の中で希望又は恐れを起させねばならない時は,すべての雄弁家的,詩的素晴しさが詩 篇/ヨブ記/予言書/雅歌/とりわけ,12人の使徒の中で唯一人ガマリエル〔律法学 者〕の膝下で律法を勉強した聖パウロの書簡の中にあるのを見出す。」(PT. III,21f.)

 「予言書」とはイザヤ書,エレミや書,エゼキエル書,ダニエル書,ホセア

書,ヨエル書,アモス書,オバデや書,ヨナ書,ミカ書,ナホム書,ババクク

書,ゼパニや書,ハガイ書,思懸リや書,マラキ書をさし,「聖パウロの書簡」

とは新約聖書の中のローマ人への手紙,コリント人への手紙第1・第ff,ガラ

8) D. Martin Luther : Die gantze Heilige Schrt:fft/Deudsch 1545/Auffs new 2ugericht.  Unter Mitarbeit von Heinz Blanke, hrsg. von Hans Volz. MUnehen 1972, S. 964.   なお,本書は以下では(LH.)と略す。

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       ハルスデルファーのドイツ語宗教詩に対する関心  21 テヤ人への手紙,エペソ人への手紙,ピリピ人への手紙,コロサイ人への手紙,

テサロニケ人への手紙第1・第H,テモテへの手紙第1・第皿,テトスへの手

紙,ピレモンへの手紙をさす。

 又,1648年に刊行した『婦人談話遊戯』第七部の付録,即ち,ヒエロニムス

教父(Hieronymus,347−419)のレタムに宛てた書簡をフランス語から重訳して 紹介している部分では,レタム(Latarn)の娘パウラ(Paula)の教育に関連し て,聖書についての次のようなヒエロニムスの言葉を読むことができる。 「パウラは絹の着物や真珠の代りに聖書を愛すべきです。その中の敬神の実例,慰め, 教え,訓戒を愛すべきです。『詩篇』からは彼女は天使たちと一緒に歌うべきです。そ うすれば天使と同じようになるでしょう。『ソロモンの箴言』からは賢くなり,『ヨブ 記』からは忍耐強くなるべきです。『伝道の書』からは虚栄心を軽蔑すべきことを学び, 何よりも先ず,不変の天国での喜びを尊重することを学ぶべきです。『福音書』は彼女 の滑り落ちることのない記憶の中に留められるべきです。というのもそれらは彼女の霊 魂の花婿の生涯を扱っているからです。『使徒行伝』は彼女にとって未知であってはな りません。又,彼女は『予言書』を読むこともできます。そして予言者たちの主要な陳 述や救世主についての予言を暗記することができます。又,自分の独学のために聖書の それ以外の箇所をくまなく検べることもできます。こんなふうにしていれば彼女は作り 話を書いた本のことは簡単に忘れるでしょう。  19.最後に彼女は『雅歌』も読んでいいのです。それは彼女の考えが損はれないため です。つまり,彼女はキリスト教会との宗教的結婚炉殆ど肉体的な言葉で表現されてい ることがわかるでしょうから。」(FG. VII,630f.)

 ここでも『詩篇』を歌うことによってその人は天使と同じになると述べられ

ている。一般のドイツ人が神により近づく為の手段である宗教詩を作る為には

ドイツの詩人はドイツ語でそれが作れるように,ドイツ語による作詩法を学ば

ねばならない,と主張するハルスデルファーは『漏斗式詩学』第三部,第1章

の第3考察の先程引用した節のすぐ後の第28節に「宗教詩は聖書の言葉を借り

て語らねばならない」という小見出しをつけ,次のように説明している。 「従って説教や宗教詩においては〔…〕聖書の中以上により多く心を感動させる言葉や 表現方法を見出すことはできない。聖書の中のそれらは渇いている魂にたっぷりと恩寵

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22 葉賀 明教授退官記念論文集(彦根論叢i第251,252号) を飲ませ,それをふり注ぐ生(Leben)の言葉である。そしてこのような恩寵をそれぞ れの敬慶なキリスト教徒及び神の子らは自分自身の中で感じ,どんな苦しい時でも確i信 をもってそれを期待する。」(PT. III,22f.)        チ  エ ン  ト

 そして第29節は「宗教的寄せ集め三又はSpruchgedichteはどうして作る

か」という小見出しで,次のように説明されている。 「さて,幾人かの説教師は絶賛されている聖書の中のあちこちの言葉を結びつけて一つ の完全な話のように見せているし,ラテン人達はウェルギリウスの作品からの寄せ集め で一pの纒つた詩(Cento)をつくり出している。〔…〕 それらと同じように,それぞ れの押韻された一行が少くとも聖書からの言葉一つを含む寄せ集め詩もつくられてい る。ここで平和(Friede)についてのそのような聖書の中の言葉を集めた詩の例を挙げ たいと思う。 30。子である平和の神(a),平和の主{b)は平和の君(c)と呼ばれ,  その方自身が平和の敵なる/蛇の頭をふみくだき(d}/  われらの心{e}を平和と祝福で満たす(f)。  その方はわれらの足をみずからの平和(9)へ導く。    その方は平和の契約である/一致の絆㈲を,    昔のソロモン(i}のように,この時代に与えた。  御霊の甘い実(k)である愛は根を下し,  すべての恐怖をわれらとわれらの境界から追い払う(Dだろう。    オリーブ油が傷の痛みをやわらげる㈱ように,    平和も又やわらげる/戦争と不幸がわれらを打つ時は。  生き残った者たちは平和の種(n),  彼らは恩寵を知り,神の御名(o)をたたえる。    最:も美しい平和の実は正義(P),    それは安穏の到来と共に至る所で(q)明らかになり,  門の内に住む(r)。われらの小屋(s)の中にある平和は,  長く耕されていない畑に種をまくだろう(t)。    平和は海上にも陸上にも(U腱てられた。    今や神が,長くかかって(x)re得された平和をしっかりと立たせておかれんこと     を(y》。」(PT. III,23f.)  そして脚注の形で,引用文中の{a},(b〕,{c}などの聖書からの出典箇所が示さ れている。即ち,

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       ハルスデルファーのドイツ語宗教詩に対する関心  23        9) 「a.コロ3・15;b.llテサ3・15;c.イザ9・6;d.創3・15=e.ロマ15・13;f,        10) 詩29・11;9.イザ59・8;h.エペ4・3;i.1列4・24;k.ガラ5・21;1,詩38 ・4;m.イザ1・6;n.ゼカ8・12;o.詩105・2;p.ヘブ12・11;q.イザ66・

       11) 12)

12;r.ゼカ8・12;s.ヤコ5・24;t.1マカ14・8;u.1マカ8・22−23;x.エレ        13) 33・6;y.1皿マカ7・4」(PT. III,23f.)

以下,参考のために最初の3つの出典箇所の原文を,当時のドイツで一番広

<普及していたルターの1545年版独訳聖書から挙げておく。なお,ハルスデ

ルファーの詩の第一行の原文は>Der GOtt(a〕und Herr(b)deB Frieds/deB Sohn heiss t Frieden〃FUrst〔c)<である。 a.コロ3・15:Vnd der friede Gottes regiere in ewren hertzen/zu welchem jr auch       14)    beruffen seid/in einem Leibe/[...) b.皿テサ3・16:ER aber/der HErr des Friedes/gebe euch friede allenthalben 9) これはしH.では3章16節になっている。 10) これはしH.では5章122節になっている。参考までに詩の当該行の原文とLH・のガ   ラテア書5章21−22節の原文を挙げておく。  (詩) :Des Geistes sttsse Frucht(k)die Liebe wird bekleiben/  LH. :2iSauffen/Fressen/vnd der gleichen. Von welchem ich euch hab     zuuor gesagt/und sage noch zuuor/Das die solches thun/werden das     reich Gottes nicht erben. 22Die Frucht aber des Geistes ist/Liebe/     Freude (...) (S.2352f.) 11) これは16節の間違いと思われる。詩の原文とLH.の原文は以下の通りである。  (詩) =〔_〕die Gerechtigkeit(p)l     die mit erlangter Ruh erhellet weit ufi breit (q) I     Und in den Thoren wohnt (r) (...)  LH. : i6Das ists aber/das jr thun sollet/Rede einer mit dem andern warheit/     Vnd richtet recht/vnd schaffet Friede in ewren Thoren. (S.1658) 12) ヤコブ書面5章は20節までしかないので,これは「ヨブ5・24」の閤違いと思われ  る。詩の原文とLH.の原文は以下の通りである。  (詩) 1〔_〕Der Fried in unsern Htitten(s)  LH. : Vnd wirst erfaren/das denie Htitten friede hat (S.922) 13) マカベア書第三と第四はユダヤ教聖書外典にあり,LH・には第一と第二までしか独  訳されていない。 14) この箇所の新改訳聖書刊行旧訳〔『聖書新改訳』いのちのことば社(3刷昭45)〕  は次の通りである。   「キリストの平和が,あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあ  なたがたも召されて一体となったのです。〔…〕

(10)

24  葉賀 明教授退官記念論文集(彦根論叢 ee 251, 252号)       15)    vnd auff allerley weise. (...) c.イザ9・6:Den Vns ist ein K三nd geboren/ein son ist vns gegeben/welchs    Herrschafft ist auff seiner Schulder /Vnd er heisst /Wunderbar / Rat /Krafft /        16)    Helt/ ewig Vater / FriedfUrsL

 ハルスデルファーの『漏斗式詩学』第三部第1章の第3考察における宗教詩

に関する説明は更に続いている。即ち,第30節は「内容はそれと一致する表現

法で造り上げねばならない」という小見出しで,以下のように述べられている。 「同様に,次のことは疑う余地がない。即ち,宗教的な (geistlich)ことは宗教的な (geistlich)ことばによって,普通の(gemein)ことは普通の(gemein)ことばによ って,稀なことや深い意味のこもったことは稀なそして又激しいことばで表現されるべ きこと,そういうことに対しては普通の語り方は余りに弱すぎ,余りに無力であること である。平民は徒歩でいき,飾り気なしに,さっさと話す。これに反して貴族は偉ぶっ て速歩する馬に乗って進む。従って,又,服従するように生れついた前者は下男的な考え 方や言葉を用いる。一方,平民を命令するために自然からより多くの理性を授けられた 後者は,高度の意味内容を行儀のよい話し方で詳述することができる。」(PT. III,24f.)

 この「服従するように生れついた」平民とか「自然からより多くの理性を授

けられた」貴族という考え方はギリシア以来の伝統的なものである。例えば, アリストテレス(Aristoteles,384−322 v. Chr.)は『政治学』(Poiitica)の中で次 のように述べている。 「互に他なくしてはあり得ないものは,一対となるのが必然である。例えば男性と女性 とが出産のために一対となるが如きである(そしてこのことは人の選択から起るもので はなくて,他の動物や植物においてのように,自分のようなものを別に自分の後に遺そ うと欲することが生来のものだからである),また生来の支配者と被支配者とが両者の        ヂアノ イ ア  保全の為に一対になるが如きである。何故なれば心の働きによって予見することの出来 15) この箇所の新改訳聖書刊行会訳は次の通りである。   「どうか,平和の主ご自身が,どんなばあいにも,いつも,あなたがたに平和を与え  てくださいますように。〔…〕」 16) この箇所の新改訳聖書刊行会訳は次の通りである。   「ひとりのみどりごが,私たちのために生まれる。/ひとりの男の子が,私たちに与  えられる。/主権はその肩にあり,/その名は『不思議な助言者,力のある神,/永.  遠の父,平和の君』と呼ばれる。」

(11)

      ハルスデルファーのドイツ語宗教詩に対する関心  25 る者は生来の支配者,生来の主人であるが,肉体の労力によって他の人が予見したこと        17) を為すことの出来る者は被支配者であり,生来の奴隷であるからである。」  ここに述べられている「心の働き」(δtαVOtα)がノ・ルスデルファーの言う「理

性」にあたる。ハルスデルファー自身も『婦人談話遊戯』第七部の貴族の紋章

について論じた箇所で,貴族の存在に関連して,談話者の一人であるライムン

ト侍従(Rayrnund Discretin)に「神が人間の各身分(Stande)の間にもうけた

違いは,確かな理由なしには,誰もそれを破棄しようと思わないでしょう」

(FG. VII,154)と述べさせている。又6人の談話者の中で最も年長の宮廷人ヴ ェスパジァーン(Vespasian von Lustgau)には次のように話させている。 「私が本当の貴族と見倣すのは次のような人です。即ち,貴族の両親から生まれ,又, 貴族的な徳を備えている人です。富は貴族の飾りです。しかし必要不可欠のものではあ りません。良い両親から生まれた人は巨人の肩の上に坐っている小人のようなものです。 彼はその巨入が見れるものはすべて見ます。否,巨人が見るよりもはるかに遠く迄見ま す。というのも他の人よりもずっと高い所にもちあげられているからです。ロンサール  IS) の詩に,デウカリオン(Deucalion)とピュラ(Pyrrah)は様々な石を自分の後へ投げ た,そして高貴な石からは高貴な人間が生じ,悪い石からは賎民(P6velvolk)が生ま れた,とあります。」(FG. VII,156f.)  このデウカリオンとピュラのことはアポロドーロス(Apollodoros)の『ギリ シア神話』(Bibliotheke)では,前者が投げた石は男になり,後者の投げた石は     19) 女になった,としか述べられていない。ローマの詩人オ’ウィディゥス(Ovidius,        20) 40v. Chr. 一30 n. Chr. )の『変身物語』(Metamorphosのでも同じ内容である。従っ

てデウカリオンとピュラが投げた様々な石の中にダイヤモンドがあり,それか

ら高貴な人間,つまり,貴族が生れたというのはロンサールの独創である。

 ハルスデルファーの貴族観は彼の宗教詩技法論の中へも貴族と平民の区別を

17) アリストテレス著『政治学』山本光雄訳 岩波文庫 32−33ページ。 18) この詩はロンサールの『オード第五集』収録の「オード第九」のことである。Vgl.  Ronsard:(Euvres completes, hrsg. von G. Cohen, Bd. 1, S.612. 19) アポロド一算ス著『ギリシア神話』高津春野訳 岩波文庫 41−42ページ 参照。 20)オウィディウス著『変身物語』(上)中村善也訳 岩波文庫 29−30ペーージ参照。

(12)

26 葉賀明教授退官記念論文集(彦根論叢第251,252号)

持込み,それが彼の宗教詩の表現法に微妙な影響を及ぼしているのである。貴

族は「高度の意味内容を行儀よい話し方で詳述することができる」が,平民は

出来ない,というわけである。そして宗教詩の内容はまさしく「高度の意味内

容」であるから,その内容の高度さにふさわしく詩人は非平民的な言葉や表現

法で宗教詩を作りあげねばならない,というのである。『漏斗式詩学』第三部

の第2章「詩的表現集」の中の「詩人/詩学」の項でも彼は次のように述べて

いる。 「詩人の話し方は日常的言葉を蔑視する/彼の瞑想は庶民(P6vel)の虚栄から離され ていて,低い地上にしがみつかず/高く自由な空中をただよう。」(PT. III,377)

そして『漏斗式詩学』第三部,第1章の第3考察の前述の引用箇所の後は以下

のように続けられている。 「普通の使用から隔てられたそのような内容と表現法をとりわけ詩人は求める。それは 自分の詩を思いがけない驚きの気持よさと創案にふさわしい完成度をもってまざまざと 話す為である。丁度それは画家が自分の絵で非常に鮮かな色を使用しようと努力するの と同じである。こういう詩的な語り方がなければ,いくら詩行が押韻されていても詩に ならない。ホラチウス(Horatius,65−8 v. Chr)も同様の判定を下している。即ち,  『〔…〕君は詩が作れると言う人を,そして  私同様に,日常語により近いことばを使って詩を作る人を,  それだけで詩入と見倣さないだろう。  君は想像力のある人,より神的な感動をもつ人,  強く,鳴りひびく口で歌う人だけにこの名誉ある名を与えてよいだろう』(『説話・説  教』第一集 第4) と。」(PT. III,25)

 しかしハルスデルファーは『漏斗式詩学』の第一部では,前述のように,ド

イツの詩入は礼拝の際参加者一同が歌えるドイツ語の宗教詩を書くためにドイ

ツ語による詩作法を学ぶ必要がある,と主張していた。ところがそれから6年

後の1653年に刊行したこの第三部では,宗教詩を作ろうとする詩人に対しても

「普通の使用から隔てられた内容と表現法」,「詩的な語り方」を要求している

(13)

       ハルスデルファーのドイツ語宗教詩に対する関心  27

のである。だとすればこれは礼拝に参加する一般のドイツ人,とりわけ貴族の

生れでない人々には理解しにくいのではないだろうか。だとすれば,この要求

は明らかに6年前の要求と矛盾している。それとも変節なのか。或は又この6

年間にドイツ語の「言語的加工」が目覚ましい発展をとげた結果なのだろうか。

 それは兎に角,このようにドイツの詩人に対して相矛盾した要求を掲げるこ

の『漏斗式詩学』の匿名著者自身はどんなドイツ語宗教詩をつくったのだろう

か。先ず数量の点で調べてみると,1、B6ttcher, G. DUnnhaupt, W. TUmpel

などの調査によると,彼は生前に200篇以上のドイツ語宗教詩を,実名入り又

      2D は匿名で発表している。即ち,自分の宗教詩集『心を動かす日曜日のお祈り』 (Hert2bewegliche 1 Sonntagsandachten)の第一部(1649)と第二部(1652),匿名で 出版した教訓詩集『ナータンとヨータム』(Nathan und Jotham : Das ist(}eistliche und Weltliche Lehrgedichte)(第一部は1650年刊,第二部は1651年刊)の中で,更:に

彼がいつも協力して仕事をしていた友人で,詩人で,ニュルンベルクの聖ゼー

バルト教会の説教師で,多数の神学論文の執筆者で,作曲家で,彼の『漏斗式

      22) 詩学』第一部に推薦文を書いたディールヘル(Johann Michael Dilherr,1604− 1669)の以下の作品などにも(再収録を含めて)それらを発表している。(書名末 の括弧内はその発表篇数) 1. Gbttliche Liebesflame: Das ist, Christliche Andachten, Gebet und Seufftzer, Uber        23)  das K6nigliche Braut−1ied Salomonis〔…〕, Nttrnberg.1651.(二丁) 2. vreg 2ur Seligkeit. NUrnberg 1649. (4) 21) Vgl. 1. BOttcher : Der Na rnberger Georg PhiliPP Harsdo rffer. ln : Deutsche  Dichter des IZ Jhs., a.a.O., S. 322 ; Gerhard Ditnnhaupt : Bibliographisches Handbuch  der Barockliteratur, Teil II. Stuttgart 1981, S. 776−820; Albert Fischer/Wilhelm  TUmpel (Hrsg.) : Das deutsche evangelische Kirchenlied des 17. Jahrhunderts, Bd.  V. Gtitersloh 1911 : Neudruck Darmstadt 1964, S. 1−30. 22) これは第一部の「付録」の後にのせられている。なお,ディールヘルの名前及び彼  の作品名はこの『漏斗式詩学』の第一部でも,第二部でも,第三部でも言及されてい  る (Vgl. PT.1,96;II,44;III,40) 23)初版は1640年の刊行で,これはハルスデルファーとの共著である。又,4.に挙げ  た詩集はディールヘルの自作詩集ではなくて,彼が編集したもので,序文は彼が凹い  ている。

(14)

28  葉賀 明教授退官記念論文集(彦根論叢 第251,252号) 3.Freud/in Leid:lVrnd l Lebendiger Trost wider den 2eitlichen Ted, und wider  die Anfechtung im Absterben ungetauffter Kindlein. N“rnberg 1650. (1) 4.Freudenblick deB Ewigen Lebens, in acht Montags−Predigten ge2eigt. Narnberg  1652. (7) 5・ Der Jrdischen Menschen himmlische Engel−Freude, Das ist C. . . ) Gesang−BUchlein.  Nttrnberg 1653. (30) 6. llaaB−Prediger. Nttrnberg 1654. (1) 7・ Fortsetzung oder Ander Theil deB Hauspredigers. NUrnberg 1654. (1) 8・Christliche Morgen−und Abendopfer C...) samt einer Anweisung zu der Cate−  chismus−Lehre (...) Narnberg 1655. (8)  次にこれらのハルスデルファーのドィッ語宗教詩の内容を検討してみたい。

先ず,『心を動かす日曜日のお祈り』第二部,38ページに収められている「お

祈りの歌」(Andachts=Lied)をあげる。   お祈りの歌 く父なる御神にみ栄えあれ》のメロディーで       1.  開け,おお,弱き口よ, いと高き方をほめたたえて歌わんために, かくも多くの日と時間を 静かに過すことを汝に許す方のために。  我が神よ,若い時から 我が人生の歩みについてこられたあなた, どうか我にこの歌を成功させよ。       2.  一切の虚栄は去れ, 我が心が神を欲する時には。 時が与え,奪うもの, 世俗人が見せびらかすものは,去れ1  目に見えるものは,瞬く間に過ぎ去る。 見えないものは永久に存在し, それに我が魂はすがりつく。

(15)

ハルスデルファーのドイツ語宗教詩に対する関心  29       3.  我が神よ,心を熟知されるあなたは 心の言葉を理解される。 聖なる炎をたてて燃えるあなたは 我が霊を引き上げることができる。  されば,この沈黙の言葉を受諾されよ, その中で我が脈搏は除々に あなたと和合することを望んでいるのだから。       4.  あなたの中で,おお,万物の創造主よ, あなたの中で我らの生は生きる。 あなたは我らの肉体の中に 記念の循環を与えられた。  我らの心が動き, 我らの脈搏が我らの中で打つ毎に, あなたへの賛美が我らの中で生きねばならぬ。       5.  年端も行かぬ積は 母親の乳房にしがみつき, その中に自分の食物を見出して, 他の食物を欲しがらない。  そのように我が心も神を欲し, 常に神の意志にしがみつく, この世の荒野の中で。      6.  我が心は絶えず鼓動しながら 天の扉を叩く。 それが動いている時はいつも, 沈黙裡に,絶え聞なく歌っているのだ, 》おお,聖なる,聖なるあなた,神よ, おお,聖なるあなた,安息の日よ, 絶えずあなたの恵みを運び給え《と。

(16)

30 葉賀 明教授退官記念論文集(彦根論叢 rg 251, 252号)       7.  このいと高き神の誉れからは 世俗暴力も,侯爵領も, 飢えも,死も,苦悩も, 我らを引き離せないようであるべきだ。  聖なる,聖なる,聖なる方は, 我らが罪を避ける時, 我らの生の期限を延す。       8.  かくて,この稀有なるやり方で, 神の御名はあがめられる。 かくて,あの方をたたえるための祈りは, 信仰の種をふやす。  神は脈搏と心の祈りのことばを よく理解される霊, だからそれを承認される。       9.  彼方の,いと高き方の玉座の前で, 天使の群が鳴り響かせることを, 我が心も,弱い音で, その方をたたえる為に歌うことができる。  聖なる,聖なる,そして絶えず 我が魂の救いであり財宝であるもの, それは我に喜びをもたらすことができる。       10.  これに反して世俗人はあらゆる瞬間に おののき,多くの 悲哀のしるしを示す。彼は悪徳の罠を 避けようと考えないからだ。  昼も夜も彼は休みなしにすごす。 サタンは彼を地獄へ引っぱる。 そこには彼と似た人達が沢山いる。

(17)

ハルスデルファーのドイツ語宗教詩に対する関心  31       11.  お前たち,我が肉体の,おお,細き血管たちよ, 決して脈打つことをやめるな。 神はお前たちによって賛美されていなければならないのだ。 善い日々にも悪い日々にも。  死を免れない状態の中で, お前たちが我が生を印すものである度に, いつも》聖なる《と言え。      12.  この》聖なる,聖なる《は 臆病な唇をどもらせるが, それは夜の眠りの中でも 血管の中で沸き立たねばならぬ。  我が心は何千転万回と歌う, この》聖なる,聖なるくを,数えきれぬ程, いと高きお方のために。      13.  これによって我は神を目の前に持ち, そして罪を警戒する。 この言葉は我が心がさしだす供物, そして我に喜びを感じさせる。  我が生の聖なる終りには 我が霊は神の御手の中で        24) この言葉によって罪を赦されるだろう。」

 脈搏(Puls)は我らの心が神をほめたたえるために歌う言葉だ,というこの

宗教詩の構想は実にユニークである。従って,『漏斗式詩学』第三部,第2章

の「詩的表現集」の中の「脈搏」(Puls)の項でハルスデルファーは「生の血管 時計(DeB Lebens Aderuhr)はあらゆる瞬間に打っている。これについては『日 曜日のお祈り』第二部,第16丁の見事な歌(ein sch6nes Lied)を参照されたい」 24) Albert Fischer/Wilhelrn Tifmpel (Hrsg.) : Das dezatsche evangelische Kirchenlied  des IZ Jahrhunderts, Bd. 5., a.a.O., S. 18f.

(18)

 32 葉賀 明教授退官記念論文集(彦根論叢 第251, 252号) (PT. III.・381f.)とわざわざ言及しているのである。この言及から判断すると, 彼はこの詩の出来映えについて可成り自信があったと考えていいであろう。  又,この詩の「世俗人」(Weltling)や「世俗暴力」(Weltgewalt)などに窺え る詩人の複合語新造への意志,ドイツ語の「言語的加工」作業も見逃せない。

 もう一つ彼の宗教詩の特徴をよく示している作品を紹介しておく。それは

『漏斗式詩学』第一部(1647)で,様々な詩脚が混在する詩の見本として引用

され,次に1651年刊行の『ナータンとヨータム』第二部に載せられ,更にディ

ールヘルの「神の愛の炎』(1651年版)にも載せられた「甘い名前イエスを讃え る歌」(L。b・・Lied I Von dem sttssen Namen JEsu)である。表題の下に「〉我ら 心の底より歌わん《(Singen wir aus Hertzen Grunnd)のメロディーで」と注記 された後,それは次のように始まっている。       1. 愛らしいイエスよ,心からの歓喜よ, 神聖なる救世主よ,金色の太陽よ,  最高の支配者よ,最:も力強き神よ,  拷問と嘲笑をうけ, 進んで涙と血を流し, 万人の為に天の財宝を獲得されし方よ, 歌うための熱烈な勇気を与え給え!       2. 慈み深きイエスよ,アブラハムのすえよ,        25) 万町の主よ,万葉のヤハウェよ,慰めを与える名前よ,  魂の番人よ,医者よ,地獄にとってのペストよ,  永遠に存在する最初にして最後の老よ, 心の喜びよ,最も大切な客人よ, 我らを奴隷の苦役から解放し, 罪ある者に永遠の力を与える人よ1 25)この第2節第2行目の原文は以下の通りである。  >Zebaoth/Zemah, trostlidher Nam.〈

(19)

      ハルスデルファーのドイツ語宗教詩に対する関心  33       3. 恵み深きイエスよ,平和の主よ,救いよ, 信仰の基礎よ,我らの会堂建立の柱よ,  栄光ある主よ,思慮に富み,  不思議なる,英雄よ,生きている小径よ, あなたを愛する者はこの世を憎み, 富と金を空しいものと見倣し, かの天の幕屋を得ようと努力する。       4. 処女の子よ,真理よ,十分な力が あなたを通じて天より運ばれてくる。  あなたを熱烈に尊敬し,愛する者は  禍によって悲しまされることはない。 困窮を救う人よ,天のパンよ, 罪から救い給え,困窮を遠ざけ, 病人を慰め,死を死なしめよ1       5. 天から神の力を授け給え, 悲しめる者に喜びをもたらす力を。  あなたの味方に祝福と恵みを与え給え,  我らの罪行を奪い去り給え。 貧しき者たちの嘆願と請願をきき給え。 この心のこもった歌を天からきき給え, そして,主イエスよ,我らに平和をもたらし給え。」(PT.1.84f.)

 このように普通のではなくて,むしろ稀な,激しい,時には乱暴な言葉や表

       26)

現法を用いて,聖書の中の言い方や表現法に準拠して,イエスの名前を賛美す

るやり方こそ,聖書の中の言葉と表現法を,「神,即ち,聖霊によって記載さ

れ,神の僕たちによって記録され,われわれに伝えられた言葉と表現法」(PT.

III,22)と確信していたハルスデルファーに言わせれば,宗教詩の深遠な内容

ないし目的に全く相応しいものだったのである。 26) この詩にも(a}から(D迄記号がつけられていて,脚注にそれらの聖書からの出典箇所  が示されている。(Vgl. PT.1,85)

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