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日本佛教學協會年報 第11号 005田島隆純「慈覚大師の真の誕生地に就て」

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ω

良の誕生地に就て

i¥ 序守口・二の誕生地 大師の誕生・幼時・出家 壬生町の誕生地 壬生の誕生地に閲する記録文書 壬生は誕生地に非ず 下津原の民の誕生地 誕生・幼時・出家に閲する口碑及び丈書 誕生地に関する文献 下津原誕生地を傍詮すべき事貨 結 誇 四 七 六 五 十 九

序言・二の誕生地

1 慈姐寛大師は日本悌敦史の上に宜に貢要な位置を占めてゐる。俸教大師開宗の後を承けて口本天台を大成され、 台 察 の 組 で あ り 、 大 師 が 建 江 し に 常 行 一 一 一 昧 堂 の 念 悌 修 行 が 本 邦 に 於 け る 浄 土 教 興 隆 の 基 と な っ ? に 。 宜 に 現 在 繁 栄 慈 血 賀 大 仰 の 由 民 の 誕 生 地 に 就 て ブL

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日 本 偽 数 挙 協 舎 年 報 ︵ 第 十 一 年 ︶ :-JL 四 2 してゐる各宗に関係してゐる大恩人で、其の功績徳行は日本文化史上永劫に朽ちない。 大師の俸を記する諸舎に、大師は下野同都賀郡の産で姓は壬生氏とある。然るに現在栃木鯨下都賀郡に慈費大 師の誕生遺跡と栴するものが二筒所ある。其の一は壬生町の宅生寺といふ天台宗の寺であわ、他の一は岩舟村大 字下津原で、異言宗豊山波高卒寺が管到してゐる小堂地であって、此雨者の間約六里の距離がある。此のごの中 執れが異の誕生地であるかは本記此地かの郷土史家の間に決定して居ない。下野史談曾密主宰してゐる田代議口 吉氏は︶年来の研鍛冶纏めて魅大な栃木牒出向ぞ著述しつ?あるが、昭和十二一年九月賞行しに其第十一巻史蹟名勝 編中、慈姐寛大師誕生地の項に﹁岩舟村大字下津原なりと、或はヱ L 生町壬生寺なりと、雨詑あわて何れとも定設な く、確定的に論かることは出来ぬ、第三荷の判断に委するのみ﹂と記してゐる。 此の二の誕生地の中、壬生町の方は後に詳述するが如く其常初より天台宗と関係があり、先年日光山の保護の 下に復興され天台一家の認めてゐる所らしい。然るに一ケ下津原の誕生地は天台宗とは全く開係なく、先年時を 同うして復興されれのも字門の信徒の意力に依つにのであっ亡。後持は復興と言つでも一間四方の小紫と碑と石 の 記 念 塔 そ 建 て に に 過 ぎ な い 。 そ れ 以 前 は 山 の 麓 の 、 水 く 狐 狸 の 棲 山 本 に 任 し て ゐ に 草 原 の 中 に 、 高 さ 一 一 − 尺 粍 の 卵 拭 け 型の浸字の古砕と麿湯の井と俸ふる小池があっしにのみである。之に反して壬坐町の誕生地は復興前と雛も既に小 古以来誕生所としての鰐裁がよ波に終って居。、 札つ地珂的にも恵まれてゐる。削ち日光街道の傍にあるにめに 勝 率 の 一 祉 参 や は じ め と し 交 通 頗 繁 で あ っ し に 所 か ら 恐 ら く 背 よ り 附 に 知 ら れ て ゐ わ い こ と よ 必 ふ 。 現 花 も 東 武 宇 都 符 線 壬 牛 騨 に は ﹁ 慈 蹴 寛 大 師 誕 生 地 干 土 中 A 寺へ八丁しといふ丈惜の案内慨があり、年間阿の大護摩には数千の参詣人あり、 毎月の例護摩にも多数の信者が集るといふ盛況で、 大師の徳の偉大そ物語ってゐる υ 父壬生背到の中にも大師は

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壬 生 産 一 で あ る こ と が 唄 は れ 、 慈 蹴 寛 大 師 と い ふ 盆 踊 の 唄 が あ っ て ﹁ 壬 生 で 生 れ 仁 大 師 様 ﹂ の 信 仰 を 鼓 吹 し て ゐ る 。 其等の唄は何れも近年の作であるが兎に角土地の人は民の誕生地と信じてゐるのみならホ地方的にも責俸されて ゐる。一方下津原の誕住地は山里の寒村にあるため年一回里人が些々やかな大師祭そ行ふ花けで憐り此に知られ てゐないが其土地の人々は其慮が呉の誕生地なりと確信してゐる。 然らば天台宗ではその勃れを誕生地として認めてゐるかといふに壬生町のかにしてゐるらしい。何となれば大 正二年慈賢大師一千五十年御遠忌に際し記念として誕生所に新にに壬生寺と栴する一寺ぞ建立し、父天台宗務臨 文 書 課 護 一 併 四 明 峰 山 霞 御 遠 忌 記 念 競 の ﹁ 慈 一 資 大 師 し の 中 に ﹁ 大 師 は 御 名 冶 困 仁 と 巾 し 、 ド 野 同 都 賀 郡 二 鴨 郷 下 津 一 服 ︵ 今 は 壬 生 町 と い ふ 所 ︶ に 於 て 延 暦 十 三 年 に 御 生 れ な さ れ に の で あ る ﹂ と 記 し 、 父 同 誌 中 他 の 所 で は ﹁ 一 一 昨 同 郷 下 津 服 、 人 1 の壬生町に生れ九﹂と記してゐる。下津原と壬生とは前記の如く約六里の距離にある。此の記述は下津原の誕生 地そ肯定してゐるやうに見えるが事宮は壬生町としてゐるのである。何となれば今日迄下津原の誕生地は天台宗 と 何 等 ・ 交 渉 は な い か ら で あ る 。 此 慮 に 一 一 一 鴨 郷 下 津 原 と 記 し た の は 恐 ら く は 吉 田 東 伍 氏 の 大 日 本 地 名 静 香 に 依 つ に も の で あ ら 、 7 0 山首時地方天台宗寺院の主唱の壬生の誕生地復興の事から宗門前局も一建に下津原と壬生とは同地異 名と信じて調査しなかっにものと見える。慈費大師の閉幕 4 で 奥 羽 の

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利立石寺に於ては同寺の E 貨物なる慈壁大師 所持日聞の説明にゐ師は下野同壬生一郷の出生しなめと解説してゐるさフである o 兎に角下津原の誕生地は世に儲 り知られてゐない。地方に於て之ぞ知る者は何れが莫の誕生地であるか不審を抱いてゐる。事賢明治四十四年下 3 津原の遺跡に建碑する際、端なくも一期者の聞に誕生地の莫跡宇ひを起し日光山沿始めとし天台宗関係者が壬生冶 支持した矯に壬生に凱歌唱があがっに。小規模ながらも下津原の方が先に復興されてゐたことが前記の如

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御遠忌 慈費大師の震の誕生地に就て 九 五

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日 本 係 数 且 平 協 含 年 報 ︵ 第 十 一 年 ︶ 九 六 4 仁際して壬生誕生地に一ナ寺建立さる込間接の機縁冶つくつにことよ芯はれる。何れにせよ大師の榔里仁二箇所 の誕生地があって、大師生誕後千百五十年に垂んとする今日向郷人に依って深く信仰されてゐることは大師の徳 の如何に偉大なるかそ物語るものである。人 1 余は其の二の誕生地の中執れが呉跡たるかぞ其の地理的現賦・口碑・ 文書等に依って考へて見たいと思ふ。 註 ① 栃 木 牒 史 巻 十 一 ・ 三 八 七 頁 。 ① 大 正 二 年 十 月 後 行 ・ 四 明 品 開 霞 第 三 百 二 十 七 務 。 ① 同 誌 三 頁 及 び 二 十 一 頁 。 ④山寺村伊津三右衛門氏通信による。 大 師 の 誕 生 ・ 幼 時 ・ 出 家 誕生地の真跡沿考読するにめには先づ大師の俸記中誕生・幼時・出家に闘することを知らねばならぬ。大師の 俸 記 は 二 一 代 貫 録 ・ 慈 胞 寛 大 削 俸 ・ 一 冗 亨 稗 廿 一 晶 子 に 詳 か で あ る が 此 中 モ 代 資 録 の 記 事 が 最 も 古 い も の で あ る 。 此 の 貫 録 は清和天皇の天安二年より腸成天皇の御代、光孝天皇崩御に a 塗 る 一 一 会 代 三 十 年 間 ︵ 西 紀 八 王 八 l 八 八 七 ︶ の 事 蹟 を 録 し に 勅 撰 の 同 史 で あ る 。 本 ・ 史 は 宇 多 天 山 県 の 寛 千 四 年 ︵ 八 九 二 ︶ 五 月 源 能 有 ・ 藤 卒 時 九 了 菅 原 遁 賓 等 に 勅 し て 撰 ば し め にものであるが、寛千九年︵八九七︶六月能有が捷じ、突いで七月天皇が譲位せられたので一時編纂中絶し、醍醐天 皇 が 時 俳 せ ら れ て 其 業 そ 種 、 か し め ら れ 延 喜 一 克 年 ︵ 九 O 一 ︶ 八 月 撰 上 せ ら れ た の で あ る 。 此 の 一 一 一 代 貫 録 在 八 貞 観 六 年 ︵ 八 六 四 ︶ 正 月 の 項 に ﹁ 十 向 日 延 暦 寺 座 主 、 俸 賊 大 法 一 帥 位 同 仁 卒 ﹂ と あ わ 究 い で 俸 記 を 誌 し て ゐ る 。 郎 ち 大 師 の 入 寂は清和天皇御治世の初の頃であるから、此に載せられてゐる大師俸は少くとも此の園史編纂が中絶されに前に

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成ったものであらう。恐らく勅撲の命が下って聞も無く記されたものと見てよからう。斯くする時は三代貫録所 載 の 俸 記 は 、 大 師 入 滅 後 二 十 八 九 年 頃 に 主 か れ 一 ∼ も の で あ る 。 央 に 叡 品 開 ・ ぃ へ 一 川 侍 中 の 慈 費 太 一 附 俸 は 寛 一 小 入 選 親 王 の 撲 に か 込 る も の で 、 親 王 が 延 長 五 年 ︵ 九 二 七 ﹀ 同 月 十 日 寂 せ ら れ 、 其 の 臨 終 の 際 第 一 王 子 た る 掠 英 明 に ﹁ 速 か に 大 師 の 博 や 完 成 し て 法 性 房 傘 立 の 依 喝 十 ぞ 由 来 せ よ ﹂ と 泣 − T H せ ら れたによって英明が冷補完成したのであると云ふことであり、其の第二の賊文によって本俸の年究と年代に五年 ① の相違があるとのことである。何れにせよ此の慈費大師俸なるものは大師の滅後五十年前後に成つにものである。 元 亨 耀 主 に 去 っ て は 更 に 大 師 の 滅 後 四 百 五 十 年 前 後 に 成 つ に も の で 、 大 睦 前 二 在 日 の 記 事 や そ 踏 識 し 七 も の で あ る 。 今 三 代 賓 録 の 大 師 俸 中 誕 生 ・ 幼 時 ・ 出 家 ま で 冶 抄 出 し よ う ︵ 原 漢 文 ︶ 0 園 仁 俗 姓 は 壬 生 氏 、 下 野 同 都 賀 郡 の 人 な り 。 産 時 に 官 っ て 紫 雲 あ り 、 骨 井 、 の 家 の 上 に 見 は る 、 家 人 は 見 る こ と 無 し 。 時 に 俗 あ り 、 名 ぞ 虞 智 と 日 ふ 。 園 人 庚 智 菩 薩 と 競 す 。 底 知 日 雲 気 丸 信 観 望 し て 乃 ち 倍 越 壬 中 一 氏 の 家 よ り 起 る 冶 知 る 。 甚立はて之冶奇しみ秘して言は歩。其の父母ぞ誠めて者く愛養ぞ能くせしむ。久しふて園仁究沿喪ふ。母に随 って育長し、年九歳に甫んで庚智菩薩に付託す。闇仁幼にして警俊、風貌漉推なり。其兄外典ぞ以て之に敬ふ。 然れども猫心に悌遣や慕ふ。告で終戒に登 h り誓ひて観世音終身探し得、心に甚立歓喜す。港に俗香港拠って椛論 ぞ受墜す。俄にして諸部に遁渉し大白を領悟す。夢に一人の大徳を見る。顔色清朗として長六七尺、印ち其建に 就て謄仰鵡奔す。大徳映。ぞ含み頂ぞ摩で語話す。傍に人ありて問ふて云はく、汝大徳そ知るや否やと。答へて 云はく、知ら?と。傍の人云はく此は是れ叡山の大師なりと。大同の末年縁に随て京に入り、適 z 叡山に登りて 5 最澄大師に謁親す。顔貌ぞ暗視するに一に昔の夢の加し。最澄大岡一晩ぞ含んで諾話すること夢に見し所の如し。 慈盛大師の国民の誕生地に就て 九 七

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日 本 偽 敬 拳 協 舎 年 報 ︵ 第 十 一 年 ︶ 九 八 6 績 に 自 ら 之 ぞ 知 れ ど 人 に 向 っ て 設 か 示 。 園 仁 時 に 十 五 な り 純 一 玄 々 。 寛卒入遁親王撰の慈畳大師俸は之よりも幾多の新事項が増補されてゐる。其の増補されてゐる事柄が誕生地の昆 跡 考 誼 に 必 要 で あ る 故 に 、 前 掲 三 代 賓 録 所 載 に 相 官 す る も の ミ 前 牟 そ 抄 出 し よ う ︵ 原 漢 文 ︶ 。 慈血寛大師講は園仁、俗姓は壬生、下野園都賀郡の人なり。其の先は崇紳天皇第一の皇子豊城入彦、天皇の勅に 随ひ行いて東国そ治む。其の苗商に及んで建に郷入と矯れ h り。延暦十三年大師誕生す。是の日紫雲屋上ぞ覆ふ 家人見る者なし。時に同じき郡の大慈寺に借あり、名冶庚智と日ふ。是れ唐借響、異和尚第三代の弟子なり。徳 行該博にして戒定具足し、己ぞ鹿、ヲして他を利す。岡人庚智菩薩と競す。庚智経行の究で遥かに紫雲 h q 望 ん で 謂らく、嘉気非常なり、必中所醸あるべしと。使ち雲根所起の慮沿尋ねしに是れ檀越壬生氏の家なり。之を訪 問するに家婦見 t q 産むと云ふ。庚知日中心に濁り悦んで其の鮮を告け示。乃ち其の父母在誠めて日く、見もし器 無くんば必歩我に奥ふべしと。爾後敷ミ教梅 t q 加へて苦しみ養顧せしむ。大師幼にして究身喪ふ。年九歳に及 んで其兄に従って経号事ぶ。是に於て阿母前語ぞ慌しむが震に庚智に付属、旬。 郎ち三代賓錯に無くして新しく増補されにものは、−大師の組先を記し、 2 誕 生 の 年 そ 出 し 、 3 大慈寺の名 φ倍 率 け 、 4 庚 智 の 如 何 な る 入 な る か を 蓮 ベ 、 5 庚智の室に投歩る迄の経緯ぞ詳説してゐることである。 語①偽書解説大僻典第四谷=二一頁、四位向徳晋氏解説参照。 ①闘史大系第四谷・一四四頁 ①叡岳四大師停記・慈且寛大師停・初了。

壬生町の誕生地

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壬 生 町 の 誕 生 地 下

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守は、干上生町冶貫く日光街道の町端れのお側にある。入口の堀に石の太鼓橋があり街遁に 面して文久二−年建江の﹁慈雌寛大師誕生地﹂と彫ん百七尺粍の石標がある。街道より見ゆる山門には大師降誕の瑞 に 同 む ﹁ 紫 雲 山 し の 額 が あ の 、 仕 八 の 山 門 を く ゾ っ て 一 帆 六 尺 梶 の 敷 A F れ が 絹 き 正 而 に 間 口 一 一 一 間 奥 行 二 問 、 俗 に 赤 堂 と 稽 す る 班 麗 な 大 師 堂 が あ る 。 必 一 一 の 正 一 両 に 近 く は 陸 軍 大 勝 鮫 島 男 爵 炉 内 の ﹁ 大 一 帥 金 剛 し の 彫 額 、 堂 内 に は ﹁ 下 野 や 壬 生 の み 寺 の う ぷ の 井 の 清 き 水 に て 月 と や い と ら ん し 等 の 諸 額 が 掲 け ら れ て ゐ る 。 此 の 大 一 剛 山 家 は 貞 一 享 二 一 年 二 六 八 六 ︶ 十 二 月 二 十 七 H H 光 山 輪 王 寺 二 附 解 脱 院 . 同 開 . 大 鼠 親 王 の 御 願 に よ り で −

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城 主 二 J 浦 安 岐 守 同 県 究 家 頼 に 命 じ て 建 立 せ ら れ た も の で あ る こ と は 其 の 棟 札 に 記 し て あ る 。 一 向 し て 現 庇 の 堂 宇 は 文 久 二 年 ︵ 一 八 六 二 ﹀ 大 師 の 一 千 年 御 忌 に 際 し て 輪 王 寺 一 品 准 一 一 一 后 熱 性 法 親 王 の 御 願 に 依 っ て 再 建

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れたものであることも別の陳札によって明らかである。管一には大 師 の 像 を 安 置 し て ゐ る が 厳 重 に 二 重 に 鍵 が か け ら れ 一 小 常 は 開 扉 さ れ な い 。 大師堂の西隣に庵湯の井がある。瓦葺の井口座、幅六寸長問尺四方の石の井桁及ひ井筒悉く完備して井桁の正面 に ﹁ 慈 臨 寛 大 師 誕 生 浴 井 ﹂ 、 側 面 に ﹁ 奉 寄 附 井 屋 放 井 筒 ・ 日 光 山 惣 衆 徒 中 ・ 貞 享 二 一 年 十 一 月 日 ﹂ と 彫 し で あ る 。 印 ち 大師堂創立と同時に寄港されたものである。大師堂の束郎ち向って右に間口八間奥行五聞の本堂があり不動明王 を本章としてゐる。此の本堂は東京上野寛永寺に夜つに替動感寮ぞ大正五年此地に移しにものである。境内には ① 大師堂建立の奉行たりし壬生城主三浦安岐守が信奉奉安した六地賦章を嗣る堂がある。これは昔時毎月二十四日 城主が代参冶遣はしにとのことである。叉庭に周国一丈五尺儲の公孫樹の老大木があり、これは大師が産血ぞ流 7 しに所に植ゑにものと寺で説明してゐる。一元来宮地一帯在俗に御里といひ従来大師堂・井戸・地購堂があった古 けで堂地に過ぎなかっーにが、大師一千五十年の御忌ぞ機とし大正二年四月二十五日報恩曾ぞ組織し、日光山門跡 慈農大附の由民の誕生地に就て ブL ブし

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日 本 偽 致 血 中 協 曾 年 報 ︵ 第 十 一 年 ︶

OO 8 彦坂謡照争怖を棉裁とし下館町極楽寺三田村智俊・稲葉村圃宗寺中里徳譲の雨師を専任理事とし、常時の壬生町長 大山嘉七氏。必舎長とし多数信者霊力によって復興し、前記善勧撃寮を移して本堂とし大正五年五月五日一寺建立 ① の許可そ得、同年十一月十二日壬生寺第一世として樋口厚観師が住職となつにものである。之を記念する震に大師 堂と本堂との聞に﹁慈費大師一千五十年記念・紫雲山壬牛.寺創立碑・日光山門主大僧正彦坂謹照書﹂の碑がある。 壬生寺印施の慈畳大師略俸附記に依るo下都賀郡誌︵昭和九年下都賀郡教育合議行︶に依れば松平右京大夫の建立とあ り o 大夫は輝貞と一 X ぴ 一 万 球 四 年 ︵ 一 六 九 一 ︶ 壬 生 城 主 と な る o 下都賀郡誌上・人文編第四章枇寺及宗教壬生町寺院参照。 言王 ① ① 四 壬 生 の 誕 生 地 に 闘 す る 記 録 女 主 此の壬生寺所在の地が慈由党大師生誕奮跡なること在ぶしに記錯は少ない。其の誕生地たるの根本的資料は、貞 享二一年十一月口光輪王寺官え鼠親王が始めて大師誕生地なりとして大師堂を建立しに時、棟札の呉へ慈海俗一止に 命 じ て 誌 さ し め に 堂 建 立 の 由 来 記 で あ る 。 其 の 全 文 は 市 川 の 如 く で あ る 。 野之下州都賀郡壬生城主之東北有慈費大師維桑之替跡。其居人稽日御里、斉葬之中有小井、古老捕時云、大師降 誕 時 汲 此 井 水 矯 浴 湯 突 。 雄 愉 九 百 之 旧 民 霜 、 其 井 不 汲 其 水 帰 場 、 蓋 日 記 一 奇 也 。 貞 享 − 一 一 年 丙 寅 秋 九 月 、 大 王 犬 同 県 赴 日光山之日、遁過此地、一見慨念、夫賛同者五日宗之守城也。顕也、密也、流宅季位、宮日記削之腕能也。誕跡荒 駿 吾 輩 乙 事 也 。 於 是 、 命 子 城 主 二 一 浦 宣 岐 守 直 究 、 城 主 大 悦 、 立 、 地 四 半 一 界 畔 、 捨 矯 究 匝 。 亦 降 鈎 命 離 遺 影 像 、 管建廟堂、政麗殊特也 o 且移飯塚騨之華林寺於影堂側、永令供香落語。将来賛成大モ御願東叡山之闇衆効力、 或 市 計 附 華 官 、 或 寄 附 輔 幡 一 背 器 遁 H A 、其数向多難以 H 税 率 也 。 聞 い 即 日 光 山 之 汗 一 白 川 心 五 八 周 同 築 行 矯 ⋮ 的 。 亦 川 沿 川 一 幹

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上架高様、以庇之、凡所蛍有之物不け備足突。時呼若微泉井、何頭大一士照臨。若非大王誰矯此管構乎。恭 惟大王者是壁一帥之再駕願力而来者鰍。仰巽悲水法施。終日月而無窮。斯幅越敷輿乾坤而永大也。 貞 一 手 丙 寅 仲 冬 下 榊 伏 厳 命 僧 正 慈 栴 謹 記 印ち此の記録に於て誕生地中いるの典操は﹁其の居入構して御旦と H ふ 。 北 川 奔 の 小 に 小 井 あ り 、 ・ 十 日 老 体 へ て 一 石 は く 大 師 降 誕 の 時 此 の 井 そ 汲 ん で 浴 湯 と 錦 せ り と ﹂ の か ︿ で あ る 。 ① 父黒川家の古文書中に左の如き一節がある。 慈 壁 大 師 延 暦 十 二 一 年 秒 間 所 叢 林 寺 に て 御 誕 生 越 川 以 山 北 性 院 豪 林 寺 に て 誕 生 、 年 貢 地 問 反 十 三 歩 、 境 内 田 畑 不 残 分 寺中大師堂には地藤亮水井あり。古笠林寺は飯塚に移 h り 、 跡 は 地 の み 残 れ る 身 貞 一 手 三 年 十 一 月 唯 心 官 堂 場 そ 御 遣 管せられしと。上新町は誕生地なり云々。 然れ

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も此の文書はきして古いものではない。何となれば現壬生寺所在地一帯は昔匂上ノ原と稽したので、上 新町と呼ばるミ仁至つ七のは壬生町が登蓮して以後のことである。且つ此の文書に説りがある。﹁宮所墓林寺にて 誕生:・:::肇林寺は飯塚に移り跡は地のみ残れる沿貞享三年十一月唯心宵堂場を御遣管せられしと L の記事は前 掲大師堂棟札の記録と一致しない。事査は A 1 の桑村飯塚の台林寺は大師堂の棟札記載の如く大師堂建立に際し ﹁飯探騨の肇林寺を影堂の側に移して永く香華沿供せし﹂めたもので其後再び飯塚に移つにものである。然る所以 は台林寺の寺歴によれば報恩山理性院と競し、貞享三年寅年十一月東叡山第四世解脱院官天足親王開基とあるに 徴して大師堂建立と年月在同うすることからも知り得る。のみなら十台林寺は元来壬生寺の地に衣つにのでない 9 こ と は 、 同 寺 は 寛 文 十 三 年 ︵ 一 六 六 一 ニ ﹂ 俗 信 一 怖 の 創 立 す る 所 で 、 其 四 月 家 制 公 日 光 に 御 成 に 付 直 米 寄 進 の 御 令 旨 が あ 怒 且 克 大 闘 の 震 の 誕 生 地 に 就 て

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日 本 悌 数 拳 協 合 年 報 ︵ 第 十 一 年 ︶

10 h り院競は其時賜つにのであるといふことからしでも明らかである。 一 止 徳 二 年 ︵ 一 七 一 二 ︶ 鳥 居 忠 英 が 壬 生 城 主 と し て入封した時壬生名主より先出しれ壬生町明細帳には、台林寺が壬生に在って大師堂沿守護してゐち︸とを記し ④ てゐる治以て、此時は台林寺は未

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飯塚に移されてゐなかっ仁故黒川家の交舎なるものは其れ以後のものでなけ ればならぬ。何れにせよ此すへきは後世のもので且つ信そ措くに足りないものである。因みに此の女書を載せに栃 木牒史には台林寺の山披並に院披− v必起忌山北性院としてあるが報恩山理性院と文書にあるの在字形の似大るより 謀 議 し た も の と 思 ふ 。 註 ① 田 代 詩 一 吉 一 者 栃 木 勝 夫 巻 十 一 ・ コ 一 八 七 頁 。 ① 吉 田 東 伍 大 日 本 地 名 僻 書 コ 一 四 七 五 頁 o ③下都賀郡誌上・桑村寺院の項参照。 ④向上壬生町寺院の項参照。

五壬生は誕生地じ非十

以上記せし如く壬生の誕生地は其の始め日光山輪王寺門跡第一一批天民親王に依って大師御影堂が創立され、大 師の一千年御忌に際しては輪王寺第十二世議性法親王によって其堂再建され、一史に大師の千五十年の御忌記念に は同じく輪王寺門跡彦坂議照削によって壬広寺ケ創立せられに。斯くの如く日光山の保護の下に今日に及んでゐ る 事 置 か ら 、 叉 産 湯 井 等 が 完 備 し 、 更 に ・ ぃ 八 一 川 の 姓 は 壬 生 氏 で あ る 等 の 諸 貼 か ら 見 れ ば 如 何 に も 主 主 寺 の 地 が 晶 の 誕生地であるやうに忠はしめるが、事官は之に反するのである。 壬 牛 一 が 誕 生 地 に 非 ざ る 第 一 の 瑚 山 と し て は 、 故 山 由 寛 大 師 の 姓 の 壬 生 氏 と

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町 の 名 稽 の 山 来 す る 宅 生 氏 と は 止 へ の

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か ふ 家系に於て根本的に異りがあることである。元来壬生町は膏名は上ノ原と云ひ専らで生と唱へるやうになったの は 寛 正 二 一 年 ︵ 一 四 六 二 ︶ 十 月 壬 生 筑 後 守 胤 業 が 京 都 よ り 此 地 に 来 っ て 始 め て 主 生 城 を 築 品 川 \ 壬 生 氏 が 住 す る に 依 つ ① て地名守主生と都し?にのである。下野岡誌に掲けに宅生系闘には﹁垂仁天皇後胤・小槻宿禰今雄仲間商壬生官務牒 流

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胤業︵筑後守彦五郎︶交正二年乙丑卒法名箱雲遁鑑披常禦寺一とあって、此ので生氏は乗仁天皇の皇子於知別 章の後胤小槻宿禰今雄朝臣の末孫である。然るに大師は日本合紀第五容崇紳天皇間十八年の傑に﹁以ニ豊域命司令 y 三 一 米 国 4 日 記 L L 毛野君、下毛野五芝始組也﹂とある民の蓮孫で、姓氏録︵軌別一日︶に﹁下毛野朝臣。崇紳天皇皇 子、豊城入彦命之後、日本紀合。上毛野朝臣、下毛野朝臣、同組。豊城入彦命五位孫・多奇波世君之後也﹂云々 と あ る に 一 致 し 、 井 、 の 姓 の 壬 牛 一 氏 は 印 ち 崇 神 天 皇 の 第 J 皇 子 豊 城 入 彦 命 の 後 五 同 壬 生 部 会 よ り 山 山 て ゐ る の で あ る 。 − 一 ① 下 野 岡 誌 の 著 者 河 野 守 弘 は 千 七 生 城 主 の 家 系 ぞ 突 の 如 く 論 じ て ゐ る 。 宇 都 宮 興 麿 記 に 、 壬 生 鹿 沼 の 雨 城 主 千 七 生 上 締 介 義 雄 は 下 線 守 綱 雄 の 子 に て 初 名 産 五 郎 氏 勝 と 一 五 ひ 、 立 九 先 組 は 崇 神天皇の息子豊城入彦命の後背壬生部公より出、高粗筑後守胤業雷同に下向し、宇都宮正綱に従って壬生の城 沿 築 き 日 正 に 住 す : : ・ : : と 記 し し に り 。 さ れ ど 先 組 。 ぞ 壬 生 部 公 よ り 山 山 に る 一 五 は 非 な り J O 主生義雄が家は壬生官務の 鹿流にて稲城主生公より出でし家なり。姓氏録に稲城壬生会は垂仁天皇の皇子於知別命の後也とありて小槻臣 ト フ ノ ラ ラ と 同 姓 な り 。 ま に 官 務 の 事 は 職 原 抄 に 、 史 八 人 左 右 大 史 各 ミ 二 人 、 中 古 以 来 小 槻 宿 禰 矯 二 出 丸 一 行 コ 官 中 事 − 謂 エ 之 テ ユ ズ 一 一 ハ ク ラ ラ ス ト 官 務 − 多 五 位 也 其 儲 彼 一 族 及 門 徒 等 依 ニ 器 量 − 任 v之凡官務者大政官交書悉知 v 桶 要 之 重 職 也 小 槻 氏 栴 ニ 禰 家 − 宿 禰 儀 也 と あ り 。 11 印ち壬生の壬生氏は崇神天皇の皇子豊城入彦命の後背なる壬生部会とは全く異る旨を力説してゐる。更に周囲 慈盛大師の民の誕生地に就て

O 三

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日 本 偽 数 血 中 協 ム 官 官 年 報 ︵ 第 十 一 年 ︶

O 四 12 誌巻六大悲寺の項に﹁今大慈寺より一里品開南の方下津原村と云所に慈費大師の誕生し給ふ褒跡あり﹂として其慮 が具の誕生地なる所以そ記し、壬生は誕生地に非ずることに就て突の如く述べてゐ配。 ことに今の壬生は寛正年中、京都の壬生官務の鹿子、壬生彦五郎胤業と云入来りて居住せしより壬生と唱へし 所にて以前は上原と云所なればさにあらぎること明かなわ。さて大師の姓氏は姓氏録に壬生部公崇神天皇皇子 豊 城 入 彦 仇 後 也 と あ り 、 則 ち 目 心 な り 、 ま た 壬 生 彦 五 郎 胤 業 と 一 E は 稲 城 壬 生 公 の 末 葉 に て 、 重 仁 天 由 利 皇 子 於 知 別 命後也とあればもと別姓なわ。 剖ち大師の姓は姓氏録の壬生部公よわ出でにもので壬生町の壬生氏とは全然系− v d 異にしてゐるのみならす、卒 安朝初期に生れた人が室町時代に出来に壬生町で生れたとするが如きは時代錯誤であると思ふ。 第二の理由としては壬生沿誕生地とすることは地理的より見て不合理である。大師の初師大慈寺の庚智は大師 誕生の時紫雲の瑞在見て雲根や尋ね行きしに檀越の壬生氏の宅であつにと俸に記してある.か、大慈寺所在の下都 賀郡小野寺村から壬生町は約六旦蝕距ってゐるのみなら示、主同小野寺村に沿うて太平山晃石山等千百尺から千 四百尺の連山が吃立してゐるので其の瑞群沿見ることが不可能である。且つ大持品寸は小野寺揮の入にあるので南 ︷ 局 後 ︸ 方古け聞けてゐる。更に小野寺沓記には成符が南方に嘗って紫雲の韓くか︸見ーにと記してゐる。下津原の誕生地は 大慈寺より南方指呼の間に眺められるが、壬生町は肝風の如き山々や隔て土東北方に在る。 第三一の珂山は壬生が誕生地なわと詮する文献が無い。僚かじ大師堂の棟札の長の記録と黒川家の古文書戸いけ であるが後背の前中るに足らぬことは前述の如くである。唯一の史料である前者と慨も草蒋の中に古井あって一 古老が大師の産湯の井と倖へると・一日つ仁と記してあるむけで械めて薄弱である。昭和六年臨令により郡下小事校

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① 長。ぞ調査委員として資料治蒐集して編纂されに下都賀郡誌の主生町の報告の中にも壬生の慈費大師堂は﹁大師の 誕生地なるの綾故在以て世時の日光御門跡より二一捕命岐守に托して建立せられ仁るものなのと云ふ。其れ以前は 何等記録なく判明せ今﹂とある。 壬生に誕生地が出来大因由、な察するに、恐らく棟札所記の如く天反親子.か日光へ赴く途上主生通池の際、親王 は大師は都賀郡の産であり姓は壬生氏なることみ︸連想して誕生地は何所にありやと下問され、下間在受けに者は 土 地 の 人 と し て 誕 生 所 そ 存 ぜ ぬ と は 不 面 目 で あ る の で 調 資 し ー に 所 幸 に 古 井 が あ っ ↑ い の で 、 十 日 老 の 云 は く と し て 言 上しにのであらう。而して組削生誕の地が斯く荒腐してゐるは吾徒の事として早建御影堂在建立されにのが此地 に誕生善跡の生れに所以ではあるまいか。岩舟遜の十日老は例併一使下向の時壬生通過の際誕生地そ問はれ好い加減 のこと伝言上しにことが壬生誕生地の起元であると俸へてゐる。此の口碑は例桁伎ではなくて輪モ寺の宮とすれ ば余の想像と一致する ο 何となれば正保三年二六四六︶より毎年京都から下向しわい例併伎は佐野沿椛て都賀郡に 入り現在の栃木市から合戦場・金崎・鹿沼身経て日光へ赴いにので壬生ケ通ってゐないからである。 更に下野闘の交通費蓮史の上から見ても壬生に大師の誕生地の生れ六ことは決して偶然ではなく余の想像沿裏 書することが出来ゃう。江戸占化起粘として奥州街道の修理の成つにのは徳川家康が慶長八年︵二ハO三︶に江戸に 幕 府 を 聞 い て か ら で あ る 。 降 っ て 二 代 将 軍 秀 忠 の 代 に 元 和 一 一 一 年 ︵ 一 六 一 七 ︶ 日 光 に 徳 川 氏 の 廟 が 建 て ら れ に に 件 っ て日光毎日的とする道路の改造修築が起句、奥州街道沿基貼として二の日光参道が成つに。一は日光東街道と云 ひ宇都宮から奥州街道より分岐して日光に歪め之そ一名御成街道と一五ふ。一は日光西街道と一五ひ、前述の蓋林寺 のある桑村から奥州街道より分岐し壬生そ経て鹿沼に去り更に今市に出て御成街道と合しにのである。一克和八年 13 慈慶大師の虞の誕生地に就て

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日 本 偽 救 挙 協 命 百 年 報 ︵ 第 十 一 年 ︶

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︵一六二二︶より始れる終軍の枇参は往路は御成街道に依つにが剖路は西街道郎ち壬生街に依ること冶例としに。 ① され乞御三家並に幕府の重臣は往復共壬生街遺伝通過しにといふ。何れにせよ壬生街道は日光へ斜めに遁中るの で近遁であるにめ官時相常賑つにことが祭せられる。斯様な理由で貞享三年二六八六︶天草親王が主生街道そ通 過せられた時に忽然として誕生地が現はれ、爾来 A 1 日に至るまで日光山輪王寺の保護の下にあることは決して偶 然ではないのである。之冶要するに壬生の誕生地は大師の姓の壬生氏に附曾して大師誕生の延暦十三年︵七九四︶冶 去 る 八 百 九 十 二 年 後 の 貞 享 一 二 年 ︵ 一 七 二 ハ ︶ に 生 れ に の で あ る と 思 ふ 。 語 ① ① ① ④ ① @ 下野間誌巻十・古城盛衰・十三了。 同 上 十 四 了 。 向上谷六・偽間信房・六了。 大慈寺所蔵の古文書。奥書に﹁賓暦拾四甲申年正月吉辰小野寺山大慈寺書之﹂とあり、下掲﹁慈餐大師澄錫之事﹂参照。 昭和九年下都賀郡教育合議行。 下都賀郡誌下・人女編第十三章総論参照。 .品ー ,\

下津原の異の誕生地

然らば昆の誕生地は下都賀郡山石舟村大字下津原で、嗣毛線岩舟騨の西南方−也一里、東武日光線静和騨より西方 み か も 一 旦 像 、 二 一 高 山 の 麓 に あ る o r判例幣使街道より一丁半程細道を入つに所で、街道の入口には﹁天台二組慈費大師 誕生霊蹟之遁﹂と彫ん古布さ七尺耗の御影石の標杭がある。地形的に一五へば日光足尾の蓮山の績きが重品目南に延 び て 聞 東 一 小 野 に 浸 し に 地 勅 で 、 卒 野 の 中 に 突 ん と 一 一 問 一 峰 横 つ て ゐ る の が 二 一 義 山 ︵ 誠 一 ヰ 紅 ︶ 一 ぃ 其 の 東 北 の 麓 に 誕 生 の

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湾 跡 と 幼 少 時 の 蓮 跡 が 収 始 的 の ま ミ 歴 然 と 残 っ て ゐ る 。 誕 民 奮 蹟 は 長 者 壬 生 氏 の 同 県 敷 跡 と 博 へ 現 代 七 十 一 一 坪 終 臨 死 大 師 誕 生 地 と し 官 有 地 と な っ て 肘 り ‘ 間 口 奥 行 各 一 間 の 小 堂 、 其 の れ に い 日 刊 さ 一 丈 五 尺 程 の 柏 資 保 印 問

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一 に 似 た 記 念 塔、左に天台座主山岡観液視下築額、十間保文雄博士撰文の記念碑、其仰の前の松樹の下に周園一一間穫の清泉があ り と ゆ 佐 藤 − 湯 の 井 と 惇 へ て ゐ る 。 此 地 よ り 南 六 じ 丁 の 同 じ 山 麓 に お 岡 山 賓 瞳 院 尚 一 小 寺 と 帯 す る 新 諸 民 吉 宗 幽 宮 山 波 に 局 す る 寺 が あ り 其 の 誕 生 省 門 跡 は 同 寺 の 境 外 仰 堂 と し て 特 岬 目 さ れ て ゐ る 。 悌 山 h A と稽しても側めて粗末なものである が 其 の 小 堂 内 に は 幾 百 年 か 風 雨 に 曝 さ れ た 高 さ 一 三 尺 山 刊 の 卵 塔 型 の 浸 字 の 古 碑 と 強 骨 大 師 幼 時 の 御 影 冶 彫 ん 、 に 碑 が 安置してある。従来は浸字の古僻と産湯の池花け作しにのであるが尚一小寺院代高原遁照師及び同寺栂徒有志が護 越 し 地 方 在 勧 化 し て 明 治 四 十 四 年 現 ・ 伎 の 如 く 復 興 し に の で あ る 。 更に大師は抑年九歳まで高一小寺に育ったと俸へ同寺の境内にトヘ師の行の井、及び面相智水と栴する二の古井現 存し、叉誕生所と高卒寺に遇する小径の傍で同寺所有の山林中に大師加持の蕎命智水といふ小池がある。 七 誕 生 ・ 幼 時 ・ 出 家 じ 闘 す る 口 碑 及 び 文 書 前蓮のた師の御尖長者犀敷跡・蕨湯の井・高卒寺に御年九成まで居られしこと・行の井で幼少の折修行せられ し こ と ・ 面 相 智 水 に 自 ら の 姿 −

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映されしこと・誕生時の紫雲の瑞・康智和向の寺ね来られしこと・早く父冶喪ひ 母の手に育ちしこと・大慈寺へ入寺・比叡へ登山のこと等は現に此の地方の人々の口碑に委しく偉へてゐる。僻 村の人蓮が昔一冗亨蒋舎の如きもの冶漬ん古とは一信じられない。たとひ讃ん行ことや許すにせよ大師の俸に記され てゐない素朴な幾多のことを俸へてゐる此の口碑の事賓は異の誕生地なることを物語るものであらうと思ふ。殊 15 慈盛大師の良の誕生地に就て

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16 日 本 偽 数 且 平 協 ム E H年 報 ︵ 第 十 一 年 ︶ に現在高卒寺及ひ誕生所一帯の坪名ぞ豚都と稽してゐるが、これは大師の産湯の盟に因由すると口碑に俸へてゐ

O 八 る。最近余は下津原の一冗名主であった荘内家鈴木一一朗氏所戒の古文書中より盟詫・寄命智水・面相押水の由来冶記 非 、 に 智 麿 六 年 ︵ 一 七 五 六 ︶ に 記 し に も の で あ る 。 高 一 小 寺 の 刊 持 が 年 古 る に 従 っ て 口 碑 の 失せんことや慮って誌しにものであらう o 先 つ 手 洗 詫 の 由 来 主 し に も の を 出 三 官 時 主 ヨ ι

一下野岡安蘇郡手洗需の山来は仁王十代崇神天皇第一之皇子豊城入彦傘孫壬生氏の宝東岡下向の刻延暦年中此 地にで紫雲護謹一子誕生す。印ち此池にて・売湯し給ひ品川川寺にて歳長今、依之此水守斥湯に用輩は諸願成就・息 災延命の利盆有と古へより申俸なり。然るに大師濁古加持水二ク所布。一には毒命智水、感病悉除寄命長遠の しにごの文書守護見しに。 法池なり。ごには面相智水、若年の御時此池にて自ら相ぞうつし、直筆の御影在全日寝し仁まひ︿ 1 古寺に有童形 大師給借是なり。然て十五歳の御時比叡山へ登右御影丸信常寺に残誼去也 資暦六年子七月 野

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童 形 大 一 帥 の 締 像 は 此 の 記 録 の 如 く に 判 明 に U H M . 小 寺 の 什 賓 と し て 秘 蔵 さ れ て ゐ る 。 此 実 像 の 事 は 究 に 由 本 ぐ る 文 書 に 委 し い 故 に 後 に 述 ぶ る こ と に し よ う 。 遊 に 一 − 一 一 一 H しなければならねことは大師は都賀郡の産であるに此の文書に 下野岡安蘇郡とあり、父山支蘇山林一卜佐野とあることは不合理に見えることに就てゾある。 此の下津原は都賀郡 と安蘇郡との境界にあるので古来此地ぞ配すろ領主の綿∼革によって戎時は安蘇郡となり時に都賀郡となつにので ある。而して常時は佐野の庄であっ仁故に安蘇郡と記し佐野とふれ M いである υ 山氏蘇山林ドとあるは此建一帯の山の ① 綿栴を安蘇山といひ来ってゐるによる ο 兎 に 品 川 下 津 間 は 延 喜 兵 部 式 下 野 同 騨 応 に あ る ﹂ 一 色 鴨 と あ り 倭 名 類 莱 紗 じ 都

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賀 郡

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ド に そ 一 嶋 騨 家 ︵ 均 一 制 一 一 一 ︶ と あ る 所 で あ る か ら た 師 生 誕 淀 川 は 現 化 の 如 く 部 賀 郡 で あ っ た こ と は 明 ら か で あ る 。 ォ ー に 而 相 知 H 水 並 に 大 一 附 童 形 の 白 去 像 の 山 市 氷 在 記 し に 丈 庄 は 、 惜しむべまことに前乍の一枚が散逸してゐる。震 に 大 . 附 が 子 や 沈 、 ? に と い ふ 謹 池 と 十 へ 一 川 の 加 持 水 の 、 ︸ と が 初 め に 記 さ れ て あ る が 民 の 太 一 帥 と は 弘 法 か 博 殺 か 来 七 何 人 冶 指 す か 知 る 山 . か 川 県 い 。 : 服 し 一 耐 冷 得 る 事 の 徳 あ ら ん と 依 っ て 遠 近 つ い と ひ 集 り て そ の 利 盆 を 得 る 事 す く な か ら 十 と な ん 。 大 . 附 が t r 為 、 洗ひにもふを初の名として終に手洗水と呼べ h り 0 ま に 外 に 加 持 水 あ の 、 毒 命 水 と 班 す 、 形 一 一 − 鮎 の こ と し 、 大 師 むかいにまはく、此水密服せんもの能寿命長久を得んとな

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。愛に人王拾代泉州天皇第一皇子県域入彦控の後 胤 壬 生 氏 の 長 者 あ わ 、 延 腎 十 一 一 一 年 一 子 ぞ 誕 生 し 山 い も ふ に 種 々 寵 瑞 あ り し 中 に 、 御 尖 長 者 の 夢 に 党 借 紫 雲 に 乗 し 来て昔けにもふにまかせて子洗水冷以て初段湯とす。これより時の人初生盟の池と稽せり。此御児習は守して 筆を能くし塞くに妙なりて壌ば示して書ゆが︸漬みにもふ。その後御年九歳のとき、しばらくまどろみにもうに池 のほとりに大きさ車輸の如き青蓮任あり、上に月輪あっておのづから童子守迎ふるが如し、童子月輪に入って 合掌して住す。時に宅中に珪ありていはく汝蓮かに出家得度し諸の衆生の苦情ぞ救ふベし、生 H け終って夢豊め ぬ。よってみづからその池水に御顔の影ぞ浮べて夢中の御形ち冶童去にまへわ O 此池冶さして則面相智水と競 す。御白書の御露 A 1に寺に習って奇賓とす。出家ましまして後についに慈壁大師大勇金剛と申ーにてまつりしは 是なり。縁由の要ぞ取って通ることしかの。 17 下津原村 内 岡 山 2J リ ’ 一 ‘ オ-.;2 慈制強大師の民の誕生地に就て 0 -fL

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日 本 偽 教 挙 協 合 同 年 報 ︵ 第 十 一 年 ︶ 一 一 O 18 賓暦六年子八月 今高卒寺に蔵する大師童形の御影のお札は.此の文書の記述と全く一致し稚児姿の大師が蓮華の上の月輸の中 に合掌して居られる。同寺に其れの二種があるが其中古品川、御影は紙質から推しても相官古代のもので御姿にも自 ら襟冶正さしむる程の難有さがある。他の一は近代のもので該古御影の複刻である。此の両相智水は本堂裏の池 の傍にあお直径二一尺蝕の井で、叉其の池の中に大師の行の井と俸ふる井がある。此の井じ闘する記録はないが大 師が出家まで同寺に育つ七幼時常に悌砂時し此の井水や浴びて修行しにと俸へてゐる。寺の附近の水質は冬 h q 除 くの外は常に濁ってゐるので、此雨井は濁れる池の中と傍にあるに拘はらホ四季清澄であるのが一奇とされてゐ る。叉誕生醤跡にある本件、湯の井と此の文書に設かれである寄命智水も亦常に清測で、以上の四池水は如何なる子 越 の 時 に も 制 る ミ こ と 無 く 常 に 掬 し 得 る 割 何 度 に 満 ち て ゐ る 。 −

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湯の井に就ては此水ぞ以て眼 t q 洗ふ時は眼病癒ゆ るといふが如き種々の信仰がある。寿命知 H 水は周国弓間轄の細長き池で A 1 向 文 書 に あ る が 如 く 二 信 鈷 の 形 に 見 え 、 土地の人は難有い水で決して目しではならぬと畏れてゐる。若し此水を雑用に使はぱ必十件ありと信じ敬せぎる 者 の 耐 告 う け わ い 例 が 近 年 も 一 一 一 一 の 例 が あ る け さ て 此 の 寄 命 知 日 水 は 手 洗 作 山 来 記 に よ れ ば 予 洗 水 と 同 一 の 如 く 見 ゆ るが、面相智水の山・米記によれば予洗水以外のやうに記されてゐる。されど此の水を服する者は存命長久冶得る と功徳ぞ述べて突に大師の誕生の産湯のことぞ記してゐる前後の闘係からして此の二水は同一のもので無からう かと思ふ。大師の産湯に何等闘係無いものとすれば脊命智水が此虚に記される筈はないと思ふ。現に村人は誕生 着 目 跡 の 産 湯 の 池 と 寄 命 科 水 の 中 何 れ を 近 く 見 て ゐ る か と い ふ に 後 背 伝 一 日 膚 問 題 池 と し て 畏 敬 し て ゐ る 。 此 等 の 掛 か ら見て余は誕生奮跡にある所謂産湯の池としてあるものは宅生氏邸宅の井戸であって、それよ

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五町在距てに

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蕎命智水こそ鼻の産湯の池であらうと忠ふ。 註i ① 下野園誌谷一・七了に﹁一ユ嶋隣家は一ニ鴨の談にて今の下禄原村と一五所なりo兵部式に三鴨隣とみえ、また蔦葉集に、美 可母乃夜出酬とあるも同所なり﹂ o 吉田来任地名際女百三四五六頁下津原の項の下に﹁蓋古の三鴨騨にあたる﹂ 0 八 誕 生 地 じ 闘 す る 文 献 み か も 大師の誕生奮跡は一一一議山の麓にあることは前に述べにが、これは南葉集東歌下野同相聞歌として﹁下野ぬみ こ な p b u − − ヤ は こ に け かもの山の小楢加す其美し娘ろは誰が気かもにむしと詠まれてゐる山である。叉高卒寺の南方数町に一一一鴨の閥祉 と俸ふる所がある。此の下津原は倭名類衆妙にゴ一鴨騨家とあり、延喜兵部式の下野同騨馬の項に三鴨とある所で あることは河野守弘の下野同誌巻一郷名存躍の項或は古田東伍の大日本地名臨書の一一一鴨郷・下津原の項ぞ見れば ① 明らかである。以て中古時代に於ける交通の要衝であつにことを知り得る。叉此の附一辺に古墳の多く存すること からま高の如品目豪族の住んでゐにことも察し得るのである。大師が入寺しに小野寺は大慈寺との地倒的方一聞か ら見ても、下津原と大慈寺は一一虫館の距離にあわ、古来下津原は小野寺十郷若しくは七榔の一であっ大。故に壬 生氏は大師俸に記す訟如く大慈寺の檀越であつにことも額かれる。叉大慈寺から南方一日に見ゆる所であるから 康管和備が誕生の紫雲の瑞冶見て尋ね来つにことも不自然でない。大慈寺所蔵の小野寺奮記に 慈胞寛大師御誕生所は美香保山麓にて閥川謹也。近所下津原といふ所有り。此山根に御原揚の池有。日記を今御盟 水 窪 と い ふ 。 19 とある。これは﹁慈費大師御誕生並御母公墳墓﹂の項の誕生に闘する部分である。美香保山とは﹁みかも出﹂の説 慈畳大師の民の誕生地に就て

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日本偽救挙協曾年報︵第十一年︶ 20 で あ る J 関川は現に誕生遺跡の西方十館町の所を仰れてゐる o 昔 は 下 津 一 服 は 関 川 の 窪 ま で 行 っ て 居 っ た こ と は 現 に昔の境界跡が残って居ることによっても知られる。叉小野寺葺記につ慈組寛大師艦傍之事?一と題し宍の如く記し て ゐ る 。 一 、 仁 王 五 十 代 相 武 天 皇 の 御 宇 延 暦 十 三 甲 皮 年 度 目 別 刊 菩 権 大 慈 寺 住 居 の 時 南 方 に あ に り て 紫 雲 譲 く を 専 行 に 安 蘇 山林下関屋に至。て見れば異香葉して男子誕屯す。是は人王十代崇柿天皇の皇子豊城入彦親王束闘に鎮下り給 ふ其末葉壬生氏人也。成智師弟の契約ありて九歳にで剃髪十五歳の御時大同三年に山門へ登山あのて傍教大師 長慌の附弟となり国仁と琉す。承和五年入唐し同十四年に蹄朝あの。仁寄一万年御年五十八歳にて大慈寺に住し、 奇術元年六十一歳の時叡山二一代座主と成、四代安恵も闇仁同門同年に大慈寺より移り貞樹六年同仁は七十一歳 にて同寂す。誼強風克大師と一克亨雑書・問犬師録誌等に是あり。岡仁産時の瑞雲呉香の故に此時よりして美香保 が闘として下野の第一の名所也 石踏まぬ阿曾の河原に行まくれて 美香保が崎にけふや泊らん 印ち一両方に方って紫雲ぞ見たとある以上京北方に泊る壬生町が誕定所で無いことが明らかである。・安蘇山林ド の 闘 屋 と は 一 一 . 鴨 の 関 屋 で あ る 。 此 溢 一 般 の 山 々 や 一 週 郁 し て 安 蘇 山 と 言 つ に こ と は 前 述 し 仁 。 回 出 動 作 い 信 挫 の 私 来 百 ④ 因縁集容之七には 慈 胞 寛 大 航 俗 姓 ﹂ 一 一 生 氏 、 下 野 山 附 観 質 成 人 也 、 明 日 刊 一 脚 部 ノ とある。都加部をミカヲと振偲名してゐる。兎に角高記の問屋に男子が誕生しにといふこと\問守の子であるこ

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と J が一致する。誕生地の近くに聞社がある事宜からして此等の記事が或は昆沿俸へてゐることにらう。突に奮起 & か も の 終 り に あ る 大 川 の 誕 生 の 時 の 瑞 雲 と 呉 香 禁 じ 七 、 ︶ と に よ っ て 其 以 来 二 一 鴨 の 聞 が 美 香 保 が 闘 と な っ に と の 、 ︶ と で ① あ る が 、 ﹁ み か も ﹂ が ﹁ み か ほ ﹂ と 説 。 、 闘 が 崎 と 説 っ て 一 一 − 香 保 崎 と な つ に と 下 野 同 誌 の 蒋 梓 川 好 守 弘 が 説 い て ゐ ヲ A か も み か も か も 三 ひ ら る 。 元 来 二 一 義 山 或 は 二 一 鴨 ノ 闘 の ﹁ み か も ﹂ と は 同 県 民 の 義 で 延 喜 内 蔵 安 式 に ﹁ 目 民 十 枚 、 下 野 同 所 準 ﹂ と あ る 如 く 此 地 ① は古へ好き毛の敷物の産地であつに故に此の名を得てるのである。何れにせよ誕生地の港は二 i 脅 山 ハ 騨 ︶ 、 美 香 保 あ そ の 崎 ︵ 閥 ︶ と し て 古 ’ 米 下 野 の 歌 枕 と し て 有 名 で あ る 。 終 り の ﹁ 石 踏 ま ぬ ・ 安 蘇 の 河 原 に 行 き 暮 れ て 一 一 − 香 保 の 崎 に け ふ やとまらむ﹂の歌は新千載集に出づる蓮生法師のものである。石踏まぬあその河原とは高葉集に﹁下野ぬあその 川原ゆ石ふますそらゆとぎぬよ恋心のれ﹂と詠まれてゐるもので今佐野の

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流れてゐる秋山哨のことである o 更に古書中の記事今徴すれば順徳天皇御著の八雲御抄巻五・名所部・闘の項の見出しの下には みかほの開山也。みかほの山は古名所、但在常陪園鰍 o H 疋 は 慈 血 寛 大 師 誕 生 所 也 。 未 詠 歌 賊 ③ とある。叉烏山光成卿の日光山紀行には 春風冶楠におほはぬ諸人のうらみ Jに込へよみよし野の花。あくる日は館林冷御中宿りにで佐野に着かせ給ふ。 ・ : : : : 廿 九 日 に な れ ば 佐 野 を 一 旦 ば か り 行 き て 盟 窪 と 云 ふ 所 あ り 、 慈 蝿 寛 大 師 庵 湯 治 み に も ふ 故 と か や 、 岩 舶 の 地 誠 一 瞬 路 左 に 立 し に せ 給 ふ 隠 れ な き 魔 所 に ぞ あ り け る 。 と記してある。日光への例幣使街道の右側に誕生地がある故に岩舶の地蔵薩時左に立たせ給ふと記したので、こ れが有名な岩舶の地繭傘で誕生遺跡は茶々にゐ奇巌聾ゆる霊場君舶山と相封してゐる。 21 以上拳け七文献の中小野寺奮記は大慈寺に閲する古記録で、其奥につ資暦拾問甲申年︵一七六四︶正月吉辰小野山 慈魔大師の由民の誕生地に就て

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日 本 偽 数 挙 協 合 年 報 ︵ 第 十 一 年 ︶ 一 一 四 者一日之﹂とあり、前掲の盟窪の由来記・面相智水の由来記より六年後のものである。八雲御抄は順徳天皇 の御治世中︵西和三二

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一一三一︶の御著であり、私来百因縁集は正嘉一万年︵一二五六︶に成つにものであり、日光 山紀行は元和年中︵一六一五

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一六二三︶に成つにものである。然るに壬庄が誕生地としての最も古い記録は大師堂 が建立の時の棟札の貞享三年三六八六︶であるから八雲御抄以下の三書は壬生に誕生地が現はるゐ以前のもので あり、殊に八雲御抄の如きは壬生の記録よりも四百六十五年以上も古いことは最も控意そ要する。 22 大慈寺 E王 ① ① 七 設 ① 参 照 。 吉 田 東 伍 大 日 本 地 名 僻 章 一 三 四 五 四 頁 。 叉 大 慈 寺 古 文 書 に 一 式 は く ﹁ 小 野 寺 津 七 郷 、 後 に 村 を 分 ち て 古 郷 十 郷 と な る o 一 一 一 谷 ・ 上 岡 ・ 下 岡 ・ 古 江 ・ 新 里 ・ 駒 場 ・ 下 津 原 ・ 昼 岡 ・ 鷲 巣 ・ 小 野 寺 な り ﹂ 。 下 野 園 誌 ︵ 大 正 五 年 複 刻 版 ︶ 倉 一 ・ 十 八 丁 安 蘇 郡 之 国 に 関 川 に 近 く 下 津 原 と あ り o 大 日 本 偽 教 会 書 一 四 入 品 川 一 一 一 二 頁 。 下 野 図 誌 巻 ニ ・ 名 所 勝 地 ・ 十 八 丁 に 、 ﹁ 三 義 山 ︵ 騨 ︶ 0 都 賀 郡 に あ り o 兵 部 式 に 三 鴨 騨 と あ る も 比 所 な り 。 和 名 抄 に も あ p o 山 頂 ま で 七 八 町 許 の 登 り な り o 東 北 面 は 下 葎 原 と 一 五 、 ・ : ・ : : 古 へ は 一 ニ 鴨 の 郷 な り 。 さ て 後 に 一 ニ 香 保 崎 、 と あ る も 比 所 に て ミ カ ホ は ミ カ モ の 詑 な り ﹂ 0 同 誌 巻 一 ・ 五 丁 及 び 巻 十 ニ ・ 三 十 了 参 照 。 列 聖 一 全 集 本 ・ 御 撰 集 第 二 巻 四 八 一 一 員 。 或 は 下 野 図 誌 巻 六 ・ 六 了 。 帝 図 画 書 館 本 一 二 四 ・ 九 銃 ・ 六 了 表 。 或 は 大 日 本 地 名 僻 筈 ・ 三 四 五 六 頁 参 照 。 ① ④ ① ① ⑦ ① 九下津原誕生地ぞ傍謹すべき事資 更に岩舟村下津原が異の誕生地たることの動かすべからざる事賢は附近に大師の母の墳墓か現存してゐること である。叉此事が小野寺奮記にも記されてゐる。印ち前掲の﹁諮費大師御誕生並御吋公墳墓﹂の項の後学じ

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御町公の廟は上岡村賞相院境内に日記有、今におゐて道俗 U 4 v q 信 仰 す 。 御 川 公 は 賢 相 院 殿 尼 公 ム ー 一 斑 す 。 安 に 名 審 の 石 橋 あ り 。 此 橋 の 主 に 歌 彫 付 あ り 。 昨 秋 原 を か 、 ぎ わ け 比 れ ば 費 太 一 附 阿 字 の れ 屋 じ 、 ︶ け 火 L J て 原 文 に は 和 歌 沿 括 管 ト ヘ 一 附 と あ る が 山 . 小 寺 に 一 サ 比 さ れ 六 も の に は 軍 に 蹴 寛 大 師 と な っ て ゐ る 。 此 の 上 岡 は 下 津 原 よ り 一 辺 一 旦 の 所 に あ わ 賢 相 院 は 八 ー は 駿 寺 ? と な っ て ゐ る が 尚 一 小 寺 の 末 寺 で あ っ て 、 誕生地と大諮寺の中間の小山の下に あ る 。 其の墳某は質相院前の小高い畑の中にあって同無阿鋪陀仰と刻ん古自然石がある。 他に二本の碑があるが 誕生醤跡にある碑と同様の年代のものらしく文字が讃み符ない。 M入大強寺の他の記録には﹁小野寺津の上岡村と 云 所 に 大 師 姉 の 古 墳 あ り ﹂ ’ と あ る が 之 の 所 衣 は 判 明 し な い 。 叉下津原が誌の誕生地たることや間接に説明し得ることは、大師の建組が此地方に住してゐにといふ史賓であ ① る。之に就て大日本地名静香の下津原の項の下に吉田東伍氏は吠の如く述べてゐる。 ① 按、此地方に茂呂氏あることは下なる下宮の文書に合考すベし。叉蒋書に闘仁の家系は豊城入彦命に出づと云 ひ、闘史・姓氏録に合考すれば謂ゆる毛野公にして賓は御諸別命︵豊城入彦の孫︶ぞ蓮組とす。然らば此地名を 茂呂といふも御諸別の名代にあら十や。国仁の此地に出でしは最思考すべき所と錯す。 現在のお舟村大字静は昔茂呂宿主言へる所で︿ 1 此の小字に茂呂といふ地名がある。下津原より十町寝距ってゐ る 。 叉 現 に 山 石 舟 村 に 茂 呂 姓 が あ る 。 23 一 証 ① 地 名 僻 書 ・ 三 四 五 六 頁 。 慈魔大師の民の誕生地に就て 一 一 五

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日 本 偽 数 挙 協 合 同 年 報 ︵ 第 十 一 年 ︶ 一 一 六 24 @ 向 上 ・ コ 一 四 五 八 頁 。

O

五 日 414 ” ” 要するに壬生の誕生地に関しての文献は今日まで護見され歩、又文書記録の確置なるものは無い。のみならす 大 師 の 壬 生 氏 と 主 牛 一 城 主 の 組 先 の 壬 生 氏 と は 系 国 ぞ 異 じ し 、 A 1 の壬生町が壬生と呼ばる込に至つにのは、大師の 誕生より進か後世に壬生馬か京都より来りて築城してからのことである。而して貞享三年に大師の姓の壬生氏に 附曾して誕生地なるもの現はれ、爾来日光山の保護の下にあっしに矯め誕生地なりと一般に信じられてゐ七のであ ら う と 田 山 ふ 。 一方下津原の誕生地は誕生・幼時・出家に閲する種々の遺跡の現存すると同時に、口碑・文書・文献に徴し、且 つ大諮寺との地略的闘係よ h り見る等何れの方面からするも呉の誕生地にること沿誼するに充分であると信するの である。特に一言附記しにいことは大師出家の動機沿物語る面相智水の由来記の文書の如、ぎは決して無陪のもの でないといふことである。何となれば大師の俸起を諌む者は何人も大師の生涯は常に夢と現宜とが交錯されてゐ るといふことに誠付くであらう。それに記す所によれば誕生一の際の種々の謹瑞の中に御尖の夢に究借紫雲に乗じ 来 っ て 手 洗 水 ゆ 倍 以 て 所 湯 と せ よ と 止 ロ け 仁 と あ る が 、 一 一 − 代 宜 錯 ・ 大 師 俸 ・ 元 亨 料 品 仁 川 等 に は 紫 雲 捜 謎 と あ り て 究 借 が とに乗じて来にとはない。これは誕阜地に惇へ・米つにものであって批に知られてゐない新事官である。事・官斯く あっ七であらうが精巻物沿見るが如き高僧の降誕に相・艇はしい憶説である。それは父君に闘し穴ことであるが、 その後御年九成の時しばらくまどろみ給ふに云々の川きに至つては夢と現賓とが交錯する大師停の第一頁となる

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ベぎもので之亦誕生地のみに侍ってゐることである。兎に角斯かる夢の俸前こそ熱費大師の場合には淘に自然の ものであって斯かることそ億へてゐることが郎ち民の誕阜地七るそな設するに蝕りあること込思ふのである。 以上郷土史に関する研究に就ては余は全く門外漢であるが雨誕生地現肢の事官を茶色とし、地方榔土史家の未亡 ① 断 定 h q 下 さ ざ る も の に 封 し て 意 見 そ 辿 ベ ム い も の で あ る 。 向 山 治 敬 論 議 第 十 六 班 に 慈 費 大 師 誕 作 心 地 に 闘 し て 以 上 記 し に 以 外 の 比 一 一 末 の 意 見 そ 述 べ て お い に 。 註 ① 大 正 大 率 良 一 白 血 中 研 究 室 議 行 。 25 慈農大師の民の誕生地に就て 一 一 七

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