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日本語教師のアドボカシー ―アメリカの高校教師の事例をもとに―

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研究論文

研究論文

日本語教師のアドボカシー

―アメリカの高校教師の事例をもとに―

片山 恵

要 旨

日本語教育においてアドボカシーは、対外的な推進活動としてその方法や活動事 例に関心を集めてきた。しかし、アドボカシーは個人の置かれた状況の中で行われ るものであり、その状況は多様で個別的である。本稿では

JFL

環境にあるアメリ カの中等教育の文脈で、高校生に日本語を教える教師の意識に着目しながらインタ ビュー調査を実施し、アドボカシーという活動をより明らかにすることを試みた。

分析の結果、教師のアドボカシーは学習者の言語学習機会の維持や教師の教育理念 の実現のために行われていたことがわかった。また、その活動は教室の内と外が連 関していることを理解した上で日本語教育実践に関わる全てを対象に行われてい た。そして、アドボカシーは教師の教育理念が表出される活動であり、教育理念と 教育理念が表出された活動の往還を教師自身が意識化することが重要であること が示唆された。

キーワード

アドボカシー 教育理念

JFL

環境 言語教育 外国語教育

1

.はじめに

本稿は、アドボカシー(

advocacy

)の主体を日本語教育現場の教師とし、その教師のア ドボカシーの総体を描くものである。

これまで日本語教育におけるアドボカシーは、「どこ」の「だれ」に「何」をすることで

「どのような効果があるか」という日本語教育推進のための政策として、その方法やさまざ まな活動の事例が取り上げられてきた(例えば、

Haxhi 2003

、磯山渡邊

2012

Tohsaku 2012

、千馬・中島

2016

)。この背景には、海外の日本語教育、とりわけ

JFL

環境におけ る日本語教育の存続や継続の問題がある。しかし、日本語教育のアドボカシーを短絡的に

「学習者の獲得」や「プログラムの継続」などを目的とした政治的

、、、

な推進活動として捉える だけでは不十分である。なぜなら、日本語教育の対象である学習者に直接関わる教師は、

「学習者の獲得」や「プログラムの継続」のためだけに日本語教育を行っているとは考えら 論文の種類(研究論文・展望論文・研究ノート)は入力してください。

(2)

れないからだ。アドボカシーは個人の置かれた状況の中で行われるものであり、その状況 は多様で個別的である。したがって、日本語教師のアドボカシーは日本語教師個人の文脈 の中でその個人的背景や状況とともに総体的に捉えられる必要がある。

本稿では、

1

人の日本語教師のアドボカシーを深く掘り下げて分析することによってア ドボカシーという活動をより明らかにする。そして、そこから見えてきたことをもとに、

今後の日本語教育におけるアドボカシーの展開に向けた示唆を提示することを目的とする。

2

.アドボカシーをどのように捉えるか

アドボカシーという概念は

1960

年代のアメリカで生まれ、市民からなされる政策提言 全般をさす意味で使われている(山本

1995

)。そして現在でもアドボカシーは「自分の主 張したいことや擁護・推進したいことについて、そのメッセージや信念が出来るだけ多く の人々に伝わるように繰り返し説明しようと努めることによって、協力者や理解者を増や し、目標の実現化につなげる」(磯山渡邊

2012: 1

)こととして、アメリカで根付いている。

では、日本国内と日本語教育の文脈でアドボカシーはどのように捉えられているか。

2.1 日本におけるアドボカシー

日本で「アドボカシー」という言葉はあまり聞きなれない言葉である。「アドボカシー

advocacy

)」を辞書1で引くと、「主張。弁護。特に、権利擁護の主張。」と明記されてい る。より一般的に、アドボカシーとは、権利を主張できる人が、権利などを主張できない 人に代わって、権利に関わる相手に主張することだと捉えられる。日本アドボカシー協会2 は、アドボカシーについて次のように説明している。

アドボカシー(advocacy)は、元々は「擁護」や「支持」「唱道」などを意味する言葉でした。

やがて、「政策提言」や「権利擁護」など、特定の政策を実現するために社会的な働きかけを行 う活動を示すようになりました。また、「政府や自治体に対して影響をもたらし、公共政策の形 成及び変容を促すことで、社会的弱者、マイノリティー等の権利擁護、代弁の他、その運動や政 策提言、特定の問題に対する様々な社会問題などへの対処を目的とした活動」とも定義されます。

つまり、アドボカシーは多様な意味で捉えられるが、何らかの問題に対する「社会的な 働きかけ」であるということがわかる。では、日本でアドボカシーはどのような分野で扱 われているだろうか。「アドボカシー」という語を国立情報学研究所のウェブサイトである

CiNii

で検索すると、圧倒的に医療・福祉分野の論文が目立つ。そこではどのようにアド

ボカシーが使われているか。

例えば、看護におけるアドボカシーでは、自ら自己の権利を十分に行使することのでき ない患者に代わり、看護師が代弁すること(竹村

2006

)や、患者の意思決定を援護するこ と(中村・白鳥

2016

)とされている。介護用語集3では、「自己の権利を表明することが 困難な寝たきりの高齢者や、認知症の高齢者、障がい者の権利擁護やニーズ表明を支援し 代弁すること」とされている。つまり、日本ではアドボカシーは、「社会的弱者、マイノリ

(3)

ティー等の権利擁護、代弁」として捉えられることが多いと考えられる。

また、日本語で「政策提言」と訳される(例えば、春山・赤松

2015

、青木

2015

、坂本

2012

)ことから、

NPO

や企業など特定の団体の利益を実現するような法律をつくらせる ための実践的な活動とイメージすることも多いであろう。日本アドボカシー協会によると、

アドボカシーの活動は上記「権利擁護」や「政策提言」の他に、政治学の文脈では、政治 家や公務員に働きかけ、法律や政治的決定に影響を与えようとする「ロビイング活動」が ある。また、経営学の文脈では、企業が顧客との長期的な信頼関係を築くため顧客を支援 する「アドボカシー・マーケティング」(アーバン

2006

)があるとされている。

以上のように、アドボカシーの訳語は多様で、個々の訳語に相当する多様な活動を含む。

アドボカシーが複合的な活動となっているため、アドボカシーの概念や定義はそれぞれの 領域によって異なるものであるといえる。

2.2 日本語教育におけるアドボカシー

日本語教育の領域ではアドボカシーはどのように扱われているだろうか。日本語教育に おけるアドボカシーに関する論文や文献は非常に少ない。また、日本語教育学会(

2005

) の『新版日本語教育事典』にも「アドボカシー」という語は扱われていない。日本語教育 におけるアドボカシーは、アドボカシーの文化が根付いているアメリカから始まった(磯 山渡邊

2012

)。その背景にはアメリカ国内で日本語を教える教育機関の減少がある。

80

年 代からの日本語ブームによる学生数の増加から、

90

年代の日本のバブル経済崩壊による学 生数の減少という流れにより、日本語教育の中でアドボカシーという言葉が広まりはじめ た。その後、主に海外の日本語教育の中で注目されてきた。では、その日本語教育の領域 でアドボカシーの定義はどのようにされているか。

磯山渡邊(

2012

)は

Haxhi

2003

)の外国語教育におけるアドボカシーを援用し、「外 国語教育に対する理解者・支援者を増やし、外国語プログラムの運営を発展、継続してい くための推進活動」(

p.3

)であると定義した。そして、アメリカにおける日本語教育を取 り巻く現状から、日本語教育におけるアドボカシーの必要性を主張した。

Haxhi

2003

) は教師が置かれている状況や環境はそれぞれ異なるため、その状況に応じたアドボカシー を行う必要があるとした上で、アドボカシーの

6

つの領域(学生、保護者、同僚、経営陣、

教育委員会、コミュニティ)を示し、その領域に対する具体的な活動例を提案した。

政策関係者が行ったアドボカシーの事例としては、オーストラリア、タスマニア州で行 われた千馬・中島(

2016

)がある。日本語教育を活性化することを目的に行われたこの初 中等教育機関での学習者、保護者、教師、学校長へ向けられたイベントでは、学習者への ポジティブな学習体験の提供が前提となり、それぞれのアドボカシーが達成できたという。

そして、「学習者はもちろんのこと、校長や保護者と常に対面している日本語教師自身が優 秀なアドボケーターである必要」(

p.85

)があると述べ、アドボカシーは日々の実践を行う 教師にこそ必要なことだと主張した。

また、荻野・河井(

2017

)はニュージーランドの日本語学習者減少の現状から、外国語 教師が連携して行う外国語教育の位置づけ向上のためのアドボカシーと、大学間、中等教 育機関と大学間、さらに産業界というように、縦と横のネットワークを形成して連携を強

(4)

めていける日本語教育の活動の必要性を指摘する。

さらに、

2011

年から始まった、公益社団法人日本語教育学会に設けられている日本語教 育グローバルネットワークが推進する

J-GAP

事業4に掲げられている目的の

1

つには、日 本語教師のアドボカシー力を増大させることがうたわれている。「アーティキュレーション は日本語教育の推進活動、いわゆるアドボカシー活動なくしては達成できない」(

So2016:

7

)とし、アーティキュレーションを達成するために不可欠なものとしてアドボカシーが 位置づけられている。

Tohsaku

2012

)は、アドボカシーを構成する

3

つの要素を「

Vision

(ビジョン)」「

Value

(価値)」「

Visibility

(可視性)」とし、グローバル時代の日本語教育の新たな視点としてア ドボカシーの重要性を述べた。

Tohsaku

2012

)は、教師のビジョンが日本語教育のアド ボカシーの基盤であるとし、ビジョン抜きにアドボカシーは成立しないと主張する。また、

外国語教育に価値を加える必要性を強調する。さらに、文法や語彙の知識、機能的なスキ ルや能力の他に、学習者が

21

世紀を生きていくために必要な能力を例に挙げ、社会や他 者とつながる実践を提案する。それらを日本語クラスに組み込むことで外国語としての価 値が高まるという。その上で、可視性を高めることがアドボカシーの目標であるとした。

以上の先行研究から、日本語教育においてアドボカシーは社会の中で日本語教育の価値 を高めていくことができるものであり、教育現場の基盤を支える重要なものであることが わかる。そして、日本語教師個人がアドボカシーを行うことの重要性も主張されている。

しかし、これまでの日本語教育におけるアドボカシーは、対外的な政治活動として教室の 外で行われることに主眼がおかれている。また、

Haxhi

2003

)と

Tohsaku

2012

)はア ドボカシーの概念に触れてはいるが、活動の背景にある教師の意識との関係の具体性に欠 けている。つまり、アドボカシーは個人的な活動でもあるにかかわらず、個人の主体的背 景までを捉える試みがなされてこなかったことが指摘できる。

そこで本稿では、日本語教師のアドボカシーを学校現場で行われている総括的な活動と して位置付け、教師の日々の日本語教育実践が行われる教室の中と教室の外での活動の連 続性や、それらの具体的な活動と教師の意識に着目する。その事例としてアメリカの高校 で日本語を教える教師のアドボカシーを明らかにし、今後の日本語教育におけるアドボカ シーについての議論に向けた示唆を提示する。

3

.研究の手続き

3.1 研究対象地域の概要

研究対象地域はアメリカ中西部の

Z

州である。白人

91.3%

、ヒスパニック・ラテン系

4.9%

、 黒人・アフリカ系

2.9%

、アジア系

1.7%

という人口比率5で、公用語は英語である。この ように、人口の

9

割以上が白人で構成され、生活の中で日本人と接触することも稀で、日 本語の「切実性」(神吉他

2015

)がないといえる地域である。

Z

州の日本語プログラムは

1980

年代後半から始まった。

Z

州では大学進学希望者は最低

2

年間の外国語科目を履修しなければならない。そのため、高校

1

2

年生のときに多くの 学生が外国語科目を履修する。

A

高校には

5

つの外国語科目が選択科目として存在してお

(5)

り、授業は月曜から金曜まで毎日

1

コマ(

55

分)ある。一番人気があるのはスペイン語で あり、教師数も多い。

1 A

高校の外国語教師数と外国語クラス数(

2016

9

月時点)

スペイン語 フランス語 日本語 ドイツ語 中国語 合計

教 師 数 5 2 1 1 1 10

クラス数 30 9 5 5 4 53

3.2 研究協力者

研究協力者は

A

高校で

2000

年代から日本語プログラムに関わってきた教師

Pete

(仮名)

である。

Pete

はアメリカの東海岸で生まれ育ち、大学卒業後、地元の高校で英語教師とな り

3

年間勤務する。その後、

1980

年代後半に

JET

プログラム6の英語教師として日本の 中部地方の公立高校へ派遣される。

1

年間の赴任後、一旦アメリカに帰るが、翌年日本へ 戻り関東地方で語学学校の英語教師として

2

年間働く。その後アメリカの大学院で英文学 の修士課程に在籍しながら、高校で日本語を教える。修士号を取得した後、再び日本へ行 き、関東地方の私立の中高一貫校と大学の非常勤英語講師として

6

年間働く。合計

9

年間 の日本での生活後、アメリカへ帰国し、

A

高校の日本語教師として現在に至る。同地区の 日本語プログラムにおけるカリキュラム編成や同高校の外国語学科の学科長も務めている。

3.3 調査・分析方法

日本語教師のアドボカシーを教師の行動や活動の背景にある考えや目的に着目しながら 考察するため、また、その研究協力者の行動や活動、調査対象地域の日本語教育環境を分 析するためにフィールドワークを採用した。箕浦(

2009

)の「唯一無二の客観的世界なる ものがあるという前提はなく、どのような観点に立って眺めるかで、社会的現実はさまざ まな相貌を見せると考える」(

p.4

)解釈的アプローチを研究基盤とする立場をとる。本稿 における分析も解釈も、筆者から見て研究協力者がどのような世界に生きていているか、

つまり、筆者視点で構築された世界を描くことに主眼をおく。

本稿で用いるデータはインタビューデータと参与観察時のフィールドノーツであり、概 要は表

2

のとおりである。

2

データの概要

データの種類 日時 時間 場所

①インタビュー 2016/06/14 65 スカイプ

②インタビュー 2016/08/25 47 教室

③フィールドノーツ 2016/08/25 教室

④インタビュー 2016/08/27 77 Peteの自宅

⑤インタビュー 2016/08/30 67 教室

⑥フィールドノーツ 2016/08/30 教室

⑦フィールドノーツ 2016/09/07 教室 注:4章でのデータ引用の際は、「(データ①)」のように記す。

(6)

インタビューの記録は、携帯電話の録音機能を用いて協力者の同意のもと録音し、その 後文字化した。

Pete

はほぼ日本語で話したが、英語を使用したのは強調したい箇所や英語 の名称だけであったので、日本語に翻訳せずにそのまま文字化した。また、発話の内容は 変えずに、言い淀み、あいづち等は読みやすさを考慮し編集した。インタビュー中、筆者 は時折、質問やコメントを行ったが、なるべく語りを遮らないように留意した。文中の人 物は全て仮名を使用する。

4

Pete

のアドボカシー

本章では、アドボカシーの対象となる領域を、①学生、②保護者、③同僚、④経営者、

⑤コミュニティ、の

5

つに分類し具体的に記述する。その上で教師の語りから次の点を分 析する。(

1

)日本語教師はどのようなアドボカシーを行っているのか、(

2

)日本語教師は 何のためにアドボカシーを行っているのか。これら

2

点に対し、その行動や活動の背景や 目的に対応していく形で記述・解釈をしていく。記述・解釈にあたっては、データから活 動や実践の背景にある教師の考えを抽出する。

4.1 学生へのアドボカシー

Pete

の学生に対するアドボカシーはどのようなものか。はじめに、教室内での日本語教 育実践のうち筆者が参与観察したうちの【

Japanese 1

】と【

Japanese 3

】の

2

つの実践の 事例を分析する。次に【教室外の学生】に対するアドボカシーについて分析する。

Japanese 1

の場合】

A

高校の

Japanese 1

2

クラスある。筆者が参与観察をしたのは、そのうちの

1

クラ スである。そのクラスには学生が

32

名在籍しており、教室の全ての席が埋まる学生数で ある。

1

年生は高校に入学してまだ

2

週間目であったため、非常にエネルギッシュでフレッ シュな印象であった。観察時の授業内容は数字の

1

から

10

までの復習であった。

Peteは両手を開き、手を上下に動かし、日本語で「立ってください」と学生に指示をする。

学生たちは「これから何をするのだろうか」という面持ちで立ち上がる。Peteはストレッチを しながら日本語で10までをカウントしていく。学生たちはPeteの身体の動きを真似しながら、

Peteのあとに続いて日本語で数字をカウントする。3回ほどカウントしながら別のストレッチを したあとに、片手ずつ拳を前に出し、空手の型真似をしていく。それを見て学生も楽しそうに続 ける。それから、Pete は学生の中からボランティアを募り、合気道がいかに身を守るために有 効かということを学生に披露することを試みる。挑戦したい学生の数人から1人選び、クラスの 前でデモンストレーションを行った。「本気でパンチして」と無防備なPeteは言い、学生はPete に右ストレートを打とうとするが、Peteはその手首をひねり上げ学生は身動きが取れない状態 になる。Pete は全く力を入れている様子がないが、学生は無抵抗になっているため、クラスに ざわめきが起こる。ボランティアの学生が手首をつかまれているだけで、相変わらず身動きが取 れない状況に、見ている学生たちは半信半疑な様子である。その学生を席に戻し、「他に挑戦し

(7)

てみたい人は?」と問いかけると、最初より多くの学生の手が挙がる。Peteは新しいボランティ アをもう1人選び、同じようパンチをさせる。しかし、学生は1人目同様Peteに手首をつかま れ、動くことができなくなる。Pete は全く力を入れている様子はないのに、学生は痛そうに顔 を歪めている。その様子を見て他の学生たちが騒がしくなる。本当に技が効いているということ を信じた様子であった。学生たちから「なぜ力を入れなくてもいいのか」という質問を受け、Pete は合気道についての説明をし、Smart boardYoutubeを映し出した。プロフェッショナルに よる合気道のデモンストレーションの映像を2分ほど学生に見せた。学生たちはすっかり興味を 持った様子である。Peteは日本在住時に合気道を習っていたことのエピソードを話しはじめる。

学生たちはPeteの話を真剣に聞いている。 (データ⑦)

Pete

1

年生のうちから既習の日本語は意識して使用するようにしている。しかし、ま だ日本語を学び始めて

2

週目の

1

年生の授業で日本語だけの使用には限界がある。そのた め、身振り手振りを多用しながら実践を進めていた。また、身体を動かしながら数字の復 習をするのは、昼休み後の学生の眠気を吹き飛ばすための活動でもあった。さらに、学生 のボランティアを募ることで、学生の授業への参加意識と注目を集めている。この

Pete

の実践は、日本文化の合気道をテーマとしつつ、日本語の数字を教えることにもつなげて いる。

Pete

は日本滞在時、合気道を習っていた。学生に合気道について教えることは合気 道を学んできた

Pete

にとって経験を伝える行為である。学生にとって、

Pete

の話はリア ルなものであり、非常に興味をそそられる語りなのである。

違う国の変、じゃなくて、違う、とか。もうちょっと他の国のことわかるようになってほしい。

ほとんどの生徒はJ-POPとか、マンガとかに興味があって、でもそういう興味を使って、こう いうこともわかってほしいね。他の文化とか言葉がわかるようになったらね、もうちょっと人の、

その違う国の人の心とかわかるようになる。たぶん最初は、特に1年生はアニメとか漫画わかる のは単語と文法とかだけだと思っている。本当はもっともっと深いね。アニメとマンガを本当に わかるようになろうとしたら、文化も考え方も日本人の考え方もわからなきゃいけないね。いろ いろ入ってる。単語だけじゃないね。そういうことが一番僕には大事ね。 (データ②)

Pete

の「もうちょっと他の国のことわかるようになってほしい」という考えは、教室実 践で文化的な要素を取り入れることに表れる。また、「興味を使って、こういうこともわかっ てほしい」と、学生の興味や関心を利用しながら、学生に新しい世界、今いる自分たちと は異なる世界があることを紹介している。この実践の場合は合気道であった。

「他の文化とか言葉がわかるようになったらね、もうちょっと人の、その違う国の人の心 とかわかるようになる」とは、他者理解ができることであると解釈できる。また、日本語 を学ぶことは「単語と文法だけ」ではなく、「文化も考え方も日本人の考え方」も学ぶこと を主張する。その「単語と文法だけ」ではなく、「文化も考え方も日本人の考え方」を含め て日本語を教えることが

Pete

の日本語教育と捉えることができる。

(8)

Japanese 3

の場合】

Japanese 3

には

14

人の学生が在籍している。毎日

6

限目、つまり学校の最後の時間の 授業に設定されていた。

5

限目が終わり、休み時間になるとともに、

Japanese 3

の学生が 教室に入ってくる。

Pete

はすかさず教室に入っても帽子をかぶったままの学生に「

XX

さ ん、帽子」と真剣な眼差しで注意した。

Pete

の教室の中は、基本的なルールは「日本」の ルールに沿うのである。それは、

Pete

のこだわりでもある。日本語の教室の中に「日本」

らしい空間を作り出すことで、他のクラスと差別化し、学生に日本を味わわせるためだ。

授業は前回勉強した文型の確認を全体で行った。その後、

Pete

はプリントを学生に配布 した。しかし、

Pete

用のプリントが手元に余らなかったため、学生に尋ねる。以下は、そ の際の学生とのやりとりである。

Pete だれか先生のプリントを食べましたか?

学生全員: (大笑)

学生1 はい、わたしが食べました。 (データ⑦)

Pete

の問いかけである「だれか先生のプリントを食べましたか」は、非文とみなす日本 語教師もいると想像できる。しかし、

Pete

のキャラクターを活かし、その土地のセンスに 合わせて、学生が関心を持ち、おもしろく日本語を学ぶことができるような一文であった ことが、学生の反応から読み取れる。その後、授業は進み、例文を使用した会話の練習を ペアワークで行った。その際の授業の記録が以下である。

教科書に書かれてある会話を例に、ペアで会話の練習が始まった。その時、ある1人の学生が、

教科書を見たまま、会話の相手を見ずに話し始めた。その様子を見たPeteは会話を中断させた。

「ねぇ、話すときは話す相手を見て話すよね」と問いかける。そして、「こういうふうに」と、目 を見開き、眉毛を上下に動かし、両手で両頬を覆いアピールする。学生たちは大笑いする。

(データ⑦)

「人と話す時は相手の目を見て話す」。このことは日本語教育というよりも、学生に対す る一般教育事項である。

Pete

の日本語教育実践では教育全般のことも取り入れる。つまり

Pete

は、

Tohsaku

2012

)が日本語教育のあるべき姿として主張する「全人的教育」を行っ ている。彼は「日本語教師」でもあるが、「教育者」でもあるのだ。

Japanese 3

のクラスでも、

Pete

の教室実践には笑いが絶えない。このような教室実践 をしている

Pete

であるが、この実践にはどのような考えが背景にあるだろうか。以下は

Pete

の日本語教育実践についての語りである。

あと、自慢したくないけど、ある程度、僕はよく、「友達にこのクラスおもしろい」と言われ たとか、やっぱり弟とか妹がくる。別に珍しくないね。というと英語でword of mouthとかね。

評判。えーと、「日本語のクラスはおもしろい」とかね。ある程度ちょっと水商売しなきゃいけ ないね。(笑)。ある程度そういうことしなきゃいけないね。もし、AP7-Englishだとそういうこ

(9)

としなくていい。日本語の場合はできない。勉強しなきゃいけないけど、楽しく勉強しなきゃい

けないじゃない。評判作らなきゃいけない。 (データ①)

Pete

は教室での実践が教室の外に向けて評判になることを認識している。そして実践で は楽しいことも取り入れていかないといけないことを意識している。実際に日本語のクラ スに在籍していた学生の妹や弟がその実践の評判を姉や兄から聞いて、日本語を選択する ということは珍しいことではないという。

日本語教師としてアメリカの高校生に日本語を教えることについて、

Pete

はどのような 考えを持ちながら教室実践を行っているか。そこには、

Pete

の日本在住時の経験が大きな 影響を及ぼしている。

(日本語を教えることに対して)一番大切に思っていることは、JETのときに生まれた感じかな。

なんとなく。大学院の前。JETのときの僕の仕事はOne Shot。ということは、いつも違う学校 に行ってたね。Base Schoolはあったけど、だいたい1回行って、教えるより人間関係を作って いた感じだったね。1日で(英語を)教えることはできない。ということは、僕の目的は、人間 関係の仕事だった感じだね。日本人とアメリカ人とかね。中学生と高校生と英語とかね。アメリ

カ人とかね。なるべくいい印象に。 (データ④)

JET

プログラムに参加した経験はわずか

1

年間という短い期間であるが、

Pete

自身が

「一番大切に思っていることは、

JET

のときに生まれた感じ」と述べているように、その

1

年間に

Pete

の言語教育観の核となるものが形成されたとみなすことができる。英語教師 として、つまりことばを教えるものとして、

Pete

にとって何が重要なことなのかを捉えた と考えられる。赴任中は

1

つの高校だけではなく、近隣の中学校と高校を複数巡回したた め、「

1

日で(英語を)教えることはできない」状況であり、英語教師でありながら英語自 体を教えるというより人間関係を作る活動をしていた。英語教師であり、ことばを教える 自分の仕事を「人間関係の仕事」と表現するのは、多くの日本人とことばを通して関わる ことによって、人と人との関係を意識していたためだと考えられる。この人と人との関係 とことばの教育が、現在アメリカの高校生に日本語を教える

Pete

の言語教育観に深く根 ざしていると考えられる。

もともとの僕の考え、ビジョンとか、何ていう? ある程度ミッション、一番大事なこと。これ から日本語教えたいと思ったのは、アメリカ人の高校生と日本人の高校生が会って仲良くなるの は一番大事なこと。そういうことを増やして、戦争とかが少なくなるようにしようと思ってる。

もし、他の国に友達がいたら、相手の国、他の国の人と戦争したくないね。そういう考え方を増 やすように。違う国の変、じゃなくて、違う、とか。もうちょっと他の国のことわかるようになっ

てほしい。 (データ②)

Pete

には日本語教師として明確なビジョンがある。そのビジョンは日本語教師になるこ とを決めたときから変化していない。日本の高校生に英語を教えていたときに考えたこと

(10)

が、アメリカで日本語を教えることにつながっている。「アメリカ人の高校生と日本人の高 校生が会って仲良くなるのは一番大事なこと」という語りからは、高校生という世代を対 象に考えていることがわかる。日本語教師として

Pete

が過去に関わったのが日本人の高 校生であり、現在関わっているのがアメリカの高校生であるため、そのような意識が形成 されている。つまり、このような意識は個人的文脈の中で形成されると言える。また、「会っ て仲良くなる」ことを重視するため、日本の姉妹校との交流や日本旅行は

Pete

の日本語 プログラムにとって欠かすことのできないものであるといえる。さらに、

Pete

の日本語を 教える最も大きい目的は、「戦争とかが少なくなるように」という発言から、世界平和であ ると考えられる。

生徒に言うのは、なによりもね、20 年たって、日本語を覚えているかどうか、それは僕には関 係ない。でも、このクラスで習った大事なレッスンは、英語で“Different doesn’t mean strange or bad.” “Different is different.” “Different is good.” みんなはいろんな文化があって、“Try understand

the people who they are.”とかね、そういうことを考えて、外国語話すのは楽しいとか、そうい

うことを覚えてたらいいと思う。もし、漢字全て忘れてもね。 (データ②)

Different doesn’t mean strange or bad

」「

Different is different

」「

Different is good

」 は、他者の違いを知る、他者の違いを認めることである。

Pete

は日本語教育を通して、学 生に他者理解や異文化理解をする能力を身につけてほしいと思っている。そして、それは、

「日本語を覚えているかどうか」、つまり、言語そのものを学生が覚えるよりも大切なこと であり、

Pete

の教室における日本語教育実践で最も重要なものであるといえる。

このような言語教育観を持ちながら

Pete

は日々、学生に向かって教室実践を行ってい る。その

Pete

の言語教育観は学生からの影響も受けている。

Pete

Facebook

ユーザー であり、卒業した学生と

Facebook

でつながっている。

20

年前に日本語を教えていた学生 から、久しぶりにメッセージがあったそうだ。それは、彼が現在日本で生活していること、

そして

Pete

20

年前に日本語を教えてくれたことに対する感謝の意が述べられたもので あった。そのことを

Pete

Facebook

に新学期の自分自身の教師という仕事に対するモチ ベーションとして載せていた。その時の話を筆者に向けて語った。

この間、Facebook読んでくれた? それ読んで涙でたよ。20年前(彼に日本語を)教えてたよ。

もう15年日本に住んでいるからね。そして彼、今日本語すごくぺらぺらじゃない? でも、それ より、彼の人生はいいみたいね? 日本を気に入って15年間もう日本に住んでいる。だから本当

にそれは僕の目的。 (データ②)

Pete

は自分が日本語を教えた学生が日本語をうまく話せること以上に、その学生の人生 が日本語を通して良い方向へと進んでいることに対して喜んでいる。それがまさに

Pete

が日本語を教える目的なのである。つまり、学生が日本語を学び、その学びが学生の人生 に何らかの影響を与えることが、

Pete

の日本語を教える目的だと解釈できる。このように 卒業後の学生の現状を知ることや、卒業生から受けることばの

1

1

つが、

Pete

の言語教

(11)

育観をさらに強固にしていくのである。

また、

Pete

の教え子であり、

Pete

と筆者がチームティーチングをしていたときの学生 で、現在大学で日本語を履修しているわけではないが、日本が好きで毎年日本を訪れてい る学生についても以下のように語る。

この間(東京で)アイさんに会ったじゃない? それもすごい。(東京に)インターンに行って、

その前の年は×××さん(筆者)に会いに北海道まで行ったね。ほんとに。すごいね。

(データ②)

アイさんが高校で初めて日本語を勉強して、高校を卒業してからも日本のことを考え、

日本とつながりを持っていることに関し、

Pete

は喜びを露わにする。高校で日本語を勉強 したことをきっかけに、日本・日本語が現在の彼女の人生にも影響を与え続けていること が、

Pete

の日本語教師としてのやりがいになっていると解釈できる。

【教室外の学生の場合】

さらに、

Pete

の学生に向けてのアドボカシーは教室内に限らない。つまり、日本語を履 修している学生以外の学生に向けても、教室外で意識しながら活動を行っている。

Pete

は 日本語の授業以外に英語の授業も教えている。

今英語のクラスも教えてて、去年reading workshopというクラスを教えていて、1人がね、「日 本語(の授業)とりたい」と言っていたね。先生と一緒にクラスにとりたいって。もうちょっと アクティビティとか、生徒とコネをつくれば、全然マイナスにならないね。クラブとか。もし、

時間があったら、トラックとか、クロスカントリーとか、コーチとかならないけど、手伝いに行っ て、ボランティアアシスタントコーチなんかの仕事したら、他の人来る可能性がある。まだやっ

てないけど、そういうことちょっと考えてる。 (データ②)

高校教師は自分の担当する科目や部活動以外の学生と関わることが少ない。そのため、

自分の担当クラス以外の学生とつながりを持つには、学校のイベントや活動に参加しなけ ればならない。しかし、その英語のクラスで教えた際に、

Pete

の授業や人柄を気に入った 学生が、「日本語(の授業)とりたい」と言ったことで、他の学生が

Pete

のことを知れば、

日本語のクラスを履修する可能性があると感じたようだ。その手立てとして、クラブ活動 のアシスタントコーチなどになることもアドボカシーとなると考えている。

さらに、毎年

A

高校に短期留学で訪れる姉妹校の日本の高校生についても

A

高校の全校 集会で紹介する。

姉妹校が来る時も、それは広告になる感じ。例えば、学校の全員の前で、ソーラン節のダンスと

かしてて、それもアドボカシーの1つ。 (データ①)

全校集会で日本の高校生が日本の踊りや、歌を発表すること、また、訪問中には日本の

(12)

高校で着用している制服を身につけ、

A

高校で過ごすのだが、それも日本語を履修してい る学生以外の学生、そして、学校で働く教師たちに対して、日本語プログラムを印象づけ る

1

つの要因になっているといえる。

4.2 保護者へのアドボカシー

保護者に対するアドボカシーにはどのようなものがあるだろうか。学生が日本語授業の ことを家で話すことについて、以下のように語る。

たろうさん、覚えてる?黒人の男の子。日本旅行に行ったね。彼の弟は今年1年生。それはやっ ぱりたろうさんはすごく日本語気に入っていて、おばあさんと一緒に住んでるね、おばあさんも 僕たちよく話していたとか知っているね。だからそういうアドボカシーもあるね。 (データ②)

学生が教室での日本語の学びを自分にとって意味のあるものだと捉え、教師とよい関係 を築くことができていれば、その学生は家で家族に日本語の授業のことについて話す。そ れは間接的な保護者へのアドボカシーになる。つまり、教室での実践は、教室外への間接 的なアドボカシーとなる。この場合、学生の一番身近な存在である家族が対象になる。た ろうさんの場合は、保護者のみならず、兄弟にも影響を与えたことがわかる。その意味で も、日々の教室での実践はアドボカシーとして、非常に重要な位置を占めているといえる。

Pete

は教室実践が保護者や兄弟に伝わり、日本語プログラムに影響を与えることを理解し た上で、

4.1

で記述したような日本語教育実践を行っているのである。

さらに、

Pete

自身が今後意識してアドボケイトしていこうと考えている対象は保護者の ようだ。

アドボカシーというのは、もうちょっと親にアドボケイトしなきゃいけないね。親たちはお互い に話しているからね。親たちが、日本語をとってる親が知り合いに「日本語のプログラムがいい」

とか、「日本語を教えているのはいい」と言ったら、さらに入る可能性がある。 (データ①)

「親たちはお互いに話している」ことから、保護者同士のネットワークにおける評判は効 果的であると考えている。実際に、中等教育段階においては、学生が選択科目を決める際、

保護者の影響が大きい。学生がやりたいと思ったことも、親が反対すればできないことも あるし、保護者に外国語学習に対する理解がなければ、学生が外国語の学習を続けること は難しい。

4.3 同僚へのアドボカシー

外国語学科の学科長の

Pete

A

高校の全ての外国語プログラムを統括する。責任者と して、これらの外国語のプログラムが維持できることを意識せざるをえない立場である。

そのため、自分の担当する日本語プログラムのみではなく、他の言語のプログラムの維持 についても常に考えている。

現在、中国語のプログラムの学生数が少ないという。前年度まで中国語を担当していた

(13)

教師の評判はあまりよいものではなかったそうだ。そのため、新しい中国語の教師が来た が、まだその新しい教師の評判は学生や保護者などに伝わっていないことを

Pete

は認識 している。

今の中国語の先生はいい人で仲良い。今、彼のクラスの人数はものすごく少なくて、僕は本当に 手伝いたいね。彼と相談して、何すればいいか、とかね。Department chairとしてね、手伝っ てるね。(略)彼を支持したい。まあ、彼は仲良いね。いい人だからね。別に、嘘つきとかじゃ ないからね。中国語の場合は、前の先生の評判は悪くて、生徒は全然彼女のこと好きじゃなかっ た。今の先生のほうが、やっぱり楽しく教えてるけど、たぶんまだ、情報は流れてないかもしれ ない。だから、今年1年生6人しかいなくて。でも、来年増やさないとやばい。 (データ①)

新しい中国語教師と

Pete

の関係は良好なことがうかがえる。「彼は仲良いね。いい人だ からね」という語りから、教師同士の人間関係の良好さも協力したいという感情に作用し ていることがわかる。中国語プログラムの維持に関して「本当に手伝いたい」と思ってい る

Pete

は全米外国語教育協会(

ACTFL

)のカンファレンスで、その中国語教師と共同発 表をした。学校という地域コミュニティを越え、日本語コミュニティを越え、外国語とし て他の言語を交えたこのような活動も、最終的には

A

高校における外国語学科のアドボカ シーとなる。では、なぜ

Pete

はこのような行動をとるのか。学科長という立場上という こともあるが、そこには

Pete

の言語教育観が反映されている。下記は、日本語を教える ことについての語りである。

確かにもし、日本じゃなくて、中国かドイツに行って、同じように素晴らしい経験あったら、同 じようなことするかも。ドイツ語とか中国語を。たまたま日本語になったのは、たまたま日本に

行ったから。 (データ②)

Pete

は日本語自体を特別な外国語とみなしているわけではないことがわかる。

Pete

の 言語教育観は

4.1

でみたように、日本での英語教育経験に基づいており、日本語教師であ る前に高校教師であり、外国語教師なのである。そのため、自分の担当する

A

高校の日本 語プログラムだけを考えるのではなく、中国語のプログラム、ひいては、全ての外国語に かかわるプログラムのことを考えていると解釈できる。

さらに、ともに

A

高校で働く教師たちとの関わり方について

Pete

は次のように述べる。

僕の意見として、やっぱりあまり他の先生と話さない人もいるけど、やっぱりなるべく話したほ うがいいね。日本語だけじゃなくて。みんな一緒に同じ学校で教えてるし、なるべく仲間を作っ た方がいいじゃない。当たり前だと思うね。考えれば、ある人はね、全然社交的じゃなくて、そ の人は別に他の人と話さない人もいるけど、僕は、それは理解できない。他の人と話したり。こ の生徒について話すとかね。なんでもいいね。学校とかね。教え方とかね。いろいろなことなん でもわかるようになるね。みんな違う考え方あるからね。 (データ①)

(14)

Pete

は他の教師と話すことによって、「いろいろなことなんでもわかるようになる」と 考えている。「みんな違う考え方ある」という発言は、

Pete

が学生に日本語を教える目的 の裏にある「

Different doesn’t mean strange or bad

」「

Different is different

」(

p.10

)と いう考え方と同じである。また、「みんな一緒に同じ学校で教えてる」という発言からは、

学校組織の一員としての所属意識を持っていることがわかる。そして、「仲間を作った方が いい」という発言からは、仲間を作ることで、結果的に

Pete

の日本語プログラムの支持 者や協力者を得ることにつながると考えていることが読み取れる。

A

高校は日本に姉妹校がある。その姉妹校とは年に

1

度、交代で

2

週間程度の短期留学 を行っている。

2016

年は日本の姉妹校の学生が

A

高校を訪れた。滞在期間中は学生も引 率教師もホームステイをすることになっている。日本から引率で来た教師のホストをした 同僚教師と引率教師との関係を次のように語った。

この間(A高校に日本の)姉妹校来てたね。引率のひとりはクミコという体育の女の先生ね。彼 女は全然英語できなくて、ほとんどできないね。単語とかわかるけど。彼女が社会部のメリッサ の家に泊まったね。それで、彼女と仲良くなって、メリッサのパートナーが、よく日本に(出張 で)行くみたいね。今年、(メリッサとメリッサのパートナーは)2人で(日本へ)行って、メ リッサは日本に行ったことはなかったけどね、今年の夏休みに行ってすごく楽しかった。そして、

クミコさんと遊んで楽しかったみたい。Yes! 先生もいい経験があるからね。だからそれも大事。

留学は本当に大事だ。本当に人と接するのは大事だ。時間かかるとかね。でもそれはほんとにほ

んとに大事。 (データ②)

日本からきた日本人の引率の教師であるクミコは「全然英語できなく」、ホストであった メリッサも日本語が全くできない。しかし、それにもかかわらずクミコとメリッサとの関 係は非常によかった。そのため、メリッサはクミコという日本人のホストを引き受けたこ とをきっかけにのちに日本を訪れることになる。その訪日の際に、クミコとも再会を果た す。メリッサの訪日はクミコとの出会いがなければなかったかもしれない。このように教 師をも対象として人間関係を構築していくことが

Pete

にとっての日本語教育実践なので ある。つまり、きっかけを日本語とするが、その目的はことばを超えて人と人とがつなが りを持つことにあると解釈できる。

Pete

は日本に住んでいたときのことを振り返り、次のように語る。

日本語わからなくて、日本に行って、ものすごくいい経験だったじゃない。だからまあこれ(ア メリカで日本語を教えていること)は、ある程度日本人へのありがとうということ。恩返し。ア メリカ人が日本の素晴らしいところわかるようになったら、いいと思う。(略)本当にすごく楽 しくて。本当に最初の1年間からそういう考え方があって。その田舎の地元の人と接して、飲み 会とかしたり、山登ったり、いろいろ一緒にやって、仲良くなって。これはいいことね。僕は何 も日本語わからないのに、みんな親切にしてくれて、ある程度、そういう人はちょっとEnglish で。でも僕どんどん日本語話せるようになって、まだ、仲良くて、一緒にいろいろやってて、こ

れはいいこと。 (データ②)

(15)

つまり、

Pete

が日本で体験したこと「日本語わからなくて、日本に行って、ものすごく いい経験」を、他の教師たちにも体験してほしいと思っているのである。それは、

Pete

は 日本で自分が経験したことを素晴らしいと思っていると解釈できる。日本語プログラムを 通し、アメリカ人の教師と日本人の教師の関係性を築くことは

Pete

の人間性の表れと捉 えることができる。「

Yes!

先生もいい経験があるからね」という表現からは、

Pete

がアメ リカ人の教師と日本人の教師が関係を構築したことを心から喜んでいることが伝わってく る。同僚のアメリカ人教師は、日本人の教師と関係性を築くことで、日本という国を知り、

文化を知ることになる。それによって、同僚教師が日本について肯定的な感情を持つこと で、日本語プログラムの支持をすることにつながる。このような同僚教師も日本語プログ ラムに巻き込み、仲間とすることも

Pete

にとっての日本語教育実践の一部であると解釈 できる。

4.4 経営者へのアドボカシー

Pete

は自分が学校組織の一員であることを主張する。そのために、学校の運営に積極的 に協力する。

Pete

は学校で行うチャリティーイベントのリーダーをしている。また、

4.3

でも記述したが、外国語学科の学科長も引き受けている。学科長になることで、学校全体 の会議に出席し、経営者や他教科の学科長たちとのやりとりを頻繁に行うことが必要にな る。

ある程度、プログラムだけじゃなくて、自分がこの学校に大事な人、とするようにしたほうがい い。だから、委員会とかいろいろやってて。アクティビティとかね。ある日本語の教師はね、た だ日本語を教えて帰るという感じだね。で、それはよくない。ほんとに自分がこのスタッフの大 事なメンバー、ね。にすれば、特に校長先生とかね、支持してくれる。僕がもし、「何も興味な いから、帰る。」とかね、(校長先生は)「じゃあ、(日本語プログラム)カットしてもいいじゃな い?何もしてないからね。」それも大事だね。 (データ⑤)

「自分がこの学校に大事な人」「自分がこのスタッフの大事なメンバー」であるために、

Pete

は学校のアクティビティを率先し、責任のある外国語学科の学科長という役職を引き 受ける。「プログラムだけじゃなくて」という発言から、それは自分の日本語プログラムの ためだけではなく、その学校の運営に関わる

1

人の教師として引き受けていると解釈でき る。しかし、「校長先生とかね、支持してくれる」という語りからは、日本語教師として日 本語プログラムのことも考えていることがわかる。このように、ここには「高校教師」と

「日本語教師」としての二重の考えが含まれている。この一高校教師としての活動は結果と して、経営層や同僚教師の日本語プログラムに対する支持を得ることにつながっていると 推測できる。

4.5 コミュニティへのアドボカシー

学校の外の地域に対してはどのような活動を行っているか。

Pete

は、将来的に

A

高校 に入学してくると思われる小学生が在籍する近隣の小学校に出向き、外国語や日本の紹介

(16)

に取り組んでいる。

学校以外の人には、例えば、今年外国部、前やったことあるけどね、“World Languages”しよ うとしてるけどね。そういう話してる。でも、そんなにA高校でやってない。なるべく、まあ、

特に姉妹校が来る時、時間があれば、小学校とか中学校に行っているけど。それもね、どのくら い影響あるかわからないけどね。時間がなかなかないからね。行く時間がない。 (データ⑤)

外国語学科としての取り組みとしては、

A

高校の外国語学科の教師とともに、広報活動 を以前行ったことがあるそうだ。そしてこれからもそのような活動に取り組もうとしてい ることがわかる。ここで、他の外国語の教師たちとともに広報活動をすることにどのよう な意味があるだろうか。ここには必ずしも自分のプログラムを優位に立たせたい、または 優先させようという考えがないことがわかる。つまり、

Pete

にとって、日本語教育は多様 な外国語教育の中の

1

つであり、他の外国語教育と同等なことばの教育として捉えている ことから、このような取り組みを行っているといえる。さらに、外国語学科の学科長とし ての立場としての考えも混じりあっていると考えられる。

また、日本語科目としての取り組みとしては、年に

1

度日本から姉妹校が

A

高校に来た 際に必ず、小学校に姉妹校の学生と訪問し、日本人の高校生のソーラン節のダンスや、コ スプレファッション、日本の若者ファッションを披露するようにしている。その「効果が 日本語プログラムにどの程度効果的であるかはわからない」が、小学生が異なる国の、異 なる文化に触れ、異なる人と交流することのできる貴重な機会を提供しているといえる。

5

.日本語教師のアドボカシーとは何か

Pete

は教室内の学生に対し、自分の日本での経験や日本文化を伝えることで、学生が世 界を知り、他者理解や異文化理解ができるようになることを目指していた。このような日 本語教育実践に対する考えは、

Pete

の日本での経験から形成されていた。

Pete

は自分の 体験から日本語を学ぶことの「価値」(

Tohsaku2012

)を見出していた。よって、アドボ カシーとして生み出される日本語を学ぶことの「価値」は、教師の個人的経験から生み出 されるものであり個別性があるといえる。したがって、この「価値」は、教師の置かれて いる状況や対象者、これまでの固有の経験によるものであり、日本語教師個々人が日本語 教育に対する同じ「価値」を持つとはいえない。さらに、「世界を知ること」「異文化を理 解すること」「他者を理解すること」の中には、教育者として高校生という年代の学習者の

「人間形成」に関わることも意味した。つまり、日本語教育実践は教師の教育理念に基づい た学生の「全人的教育」のために行われていた。そして、その教育理念に基づく「全人的 教育」を目的とする日本語教育実践のために、その学生とつながる教室の外の、保護者、

経営者、同僚、コミュニティを理解し、日本語教育実践に対する評判を意識しながらアド ボカシーを行っていた。日本語教師の実践を「日本語教師自身の意味世界を、周囲に伝え 広める営み」であり、「既有の意味世界に基づく状況の意味づけと、状況への働きかけの、

一連の行為」(太田

2010: 327

)とするならば、日本語教師のアドボカシーは日本語教師の

(17)

実践の中に埋め込まれているものであることが示唆される。しかし、アドボカシーで重要 な点は、教師自身がそのことを自覚しているか、自覚していないかという点である。

以下、これまで検討してきた

Pete

のアドボカシーを図

1

に表し、矢印の示す内容を表

3

にまとめる。

1

日本語教師のアドボカシーの総体

3

日本語教師のアドボカシーの総体:図

1

の矢印の示す内容

1 日本語教育で行われる 教育実践・教授活動

日本語教育を通し、社会で生きるための学生の全人的教育を目的と する。日本語という言語の知識や技能の習得だけに捉われない。学 生の日本語学習の動機を高める工夫がされている。

2

日本語教育に影響を 及ぼす対象へ行われる 働きかけ

日本語教育の価値の向上とプログラムの維持・継続のための働きか け。その教師の行動は政治的な側面も含まれるが、それを含む教師 の教育理念が反映された活動である。

3 学生から教師が受ける 影響

教師が良いと考える生き方をしている学生の姿を見たり、教師が学 生の全人的教育を目的に行ってきた実践を学生に肯定的に認めら れたりすることで、教師としてのモチベーションが高まる。それに より教育理念が明確化され実践が更新されていく。

4 教室の外から教師が 受ける影響

教室外の人から日本語教育実践の肯定的な評価を得ることで教師 のモチベーションが高まる。また、教室外の人に日本語教育の価値 や教師の教育理念が伝わり、理解されることで、プログラムに対す る直接的サポートを受けたりする。

5 教師が関わる教室内と 教室外の相互作用

教室の日本語教育実践は学生から学生と繋がる人へ伝わっていく。

日本語教育実践が教室を越えて評判となることで、新たな日本語学 習者の獲得につながったり、教室実践が保護者や経営者からのサ ポートを受けたりする。

(18)

1

1

つの活動を見ると、その活動は教室の中と教室の外にそれぞれ分けられ、その活 動の目的や性質は別々のように見える。しかし、

1

人の教師の中では教室内の活動も教室 外の活動もつながっており、それらの別々に見える活動は矢印の

1

から

5

が表すように連 関している。つまり、全ての活動はつながり、関わり合っていることを意味する。よって、

日本語教師のアドボカシーとは、今後の自身の日本語教育実践に対し、自分の行動がどの ように影響していくのか意識しながら教室内外で行う一連の活動である。そしてそれは、

教室で行う日本語教育実践が教室の中からも外からも影響を受けることや、それらが相互 的に作用するという構造を教師が理解した上で行われるものである。

先行研究において、日本語教育のアドボカシーの定義は「外国語教育に対する理解者・

支援者を増やし、外国語プログラムの運営を発展、継続していくための推進活動」(磯山渡

2012: 3

)であった。しかし、アドボカシーの目的は「プログラムの発展、継続」では

あるが、「なぜプログラムを発展、継続させたいのか」というその先にあるものが教師のア ドボカシーには重要である。なぜならばそれがわからなければ、日本語教育に対する理解 者や支援者を説得し増やすことはできないからだ。これまでの日本語教育におけるアドボ カシーでは、「どこ」の「だれ」に「何」をするか、ということに焦点が当てられてきたが、

行為主体が考える「なぜ」ということが言及されてこなかった。そのために「

Why you teach Japanese and why your program should continue. These are the reasons you advocate.

」 と

Haxhi

2003: 1

)が述べるように、教師が常に「なぜ日本語を教えるのか」「なぜプロ グラムが継続すべきなのか」を考えることが必要となる。つまり、日本語教師のアドボカ シーは自分が行っていることは何なのかを考えることからはじまる。「なぜ」をなくして日 本語教師のアドボカシーは成り立たない。そして、その「なぜ」の答えは教師個人がもつ 教育理念にある。教育理念があることは自己の日本語教育において目指すところ、つまり

「ビジョン」(

Tohsaku2012

)があるということだ。「ビジョン」は次の日本語教育実践に つながる活動を明確にする。そして、教育理念を持ちながら活動していくことで、教師の 理念が更新されたり問い直され、また次の活動につながっていく。このような理念とその 理念から表出された活動の一連のサイクル全てが日本語教師のアドボカシーなのである。

6

.おわりに

現在、日本語教育はこれまで以上に日本社会の中で関心の目を向けられている。

2018

11

月に出入国管理及び難民認定法が改正されたことにより外国人受け入れに関する議 論が活発化し、外国人に対する日本語教育に関する制度も注目され、日本語教師の資格に ついて全国紙の朝刊一面8にも取り上げられた。改正前には日本語教育学会から法務大臣 へ「外国人受け入れの制度設計に関する意見書」が提出された。このように日本語教育に 関わる関係者が、政治的、経済的背景で動き、それを理由にした活動はまさにアドボカシー である。このようなアドボカシーは一時的な起爆剤として日本語教育業界に多大な影響を 与えるだろう。しかし、日本語教育のアドボカシーをこのような対外的な政治活動として 上の誰かが教室の外で行うものとして捉えるだけでは不十分である。なぜなら日本語教育 の主たる主体は日本語を学ぶ学習者とその学習者に日本語を教える現場の教師であるから

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