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『宗教研究』宗教学紀要(*64号)

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(1)

――目次――

記念講演:

宗教学講座25年の想出,姉崎正治,Masaharu ANEZAKI,pp.3-13.

研究発表:

1,

朝鮮の聖樹,赤松智城,Chizyō AKAMATSU,pp.17-22.

2,

露国最近の宗教政策,相原一郎介,Ichirōsuke AIHARA,pp.23-27.

3,

宗教現象における病的なもの,古野清人,Kiyoto FURUNO,pp.28-31.

4,

信心における怖れと憧れ,浜田本悠,Honyū HAMADA,pp.42-45.

5,

神話における死の起源と罪の意識,原田敏明,Toshiaki HARADA,pp.46-52.

6,

仏陀時代における十種教団について,羽溪了諦,Ryōtai HATANI,pp.53-62.

7,

人間性の限界外の宗教,久松真一,Shinichi HISAMATSU,pp.63-67.

8,

人格的実在と宗教の本質,帆足理一郎,Riichirō HOASHI,pp.68-76.

9,

所謂心霊研究に対する宗教学的批判,補永茂助,Mosuke HONAGA,pp.77-82.

10,

「天啓」の宗教学的考察,石橋智信,Tomonobu ISHIBASHI,pp.83-88.

11,

天台実相論々攷,石津照璽,Teruji ISHIDSU,pp.89-97.

12,

基督教における禁慾主義の起源,菅円吉,Enkichi KAN,pp.98-105.

13,

本邦生祠存在の事実,加藤玄智,Genchi KATŌ,pp.106-107.

14,

文珠普賢二菩薩の研究,加藤精神,Seishin KATŌ,pp.108-113.

15,

発生心理学より見たる宗教史の問題,城戸幡太郎,Bantarō KIDO,pp.114-118.

16,

神社宗教関係事項一二,備考 黒住教成立素因之一也,黒住宗武,Munetake KUROZUMI,pp.119-120.

17,

部派仏教における分別上座部の地位とその宗義の定め方,木村泰賢,Taiken KIMURA,pp.121-125.

18,

反抗児(?)イエス,基督教起源の唯物史観的考察についての反省,丸川仁夫,Hitoo

MARUKAWA,pp.126-131.

19,

宗教的神秘家における教義の問題,増谷文雄,Humio MASUTANI,pp.132-138.

20,

ヘーゲル哲学における宗教の地位,松原寛,Hiroshi MATSUBARA,pp.139-144.

21,

神人団体としての山の外者,松村武雄,Takeo MATSUMURA,pp.145-153.

22,

マルキシズム対シキシマノミチ,芸術的人生宗教としてのシキシマノミチの信に

立って Religiousersatz としてのマルキシズムに学術的批判を加ふ,蓑田胸喜,Kyōki

MATSUMURA,pp.154-166.

23,

専門学としての仏教学,宮本正尊,Shōson MIYAMOTO,pp.167-175.

24,

金剛頂経の成立時代,中井龍瑞,Ryūzui NAKAI,pp.176-183.

25,

宗教的情操の諸形態,西沢頼応,Raio NISHIZAWA,pp.184-194.

26,Heiliger Kanon

思想の完成と Talmud の成立,大畠清,Kiyoshi ŌHATA,pp.195-200.

27,

最近教育学説と宗教教育,大村桂巌,Keigan ŌMURA,pp.201-208.

28,

史的イエス再現の可能と方法,三枝義夫,Yoshio SAEGUSA,pp.209-214.

29,

邪悪の問題,桜井匡,Masashi SAKURAI,pp.215-220.

30,

日本児童の宗教意識の研究,選定児童群における基本研究の一部,関寛之,Hiroyuki SEKI,pp.221-230.

31,

仏身論における法身説と報身説,鈴木宗忠,Sōchū SUZUKI,pp.231-244.

32,

奈良朝三論宗衰因考,寺崎修一,Shūichi TERASAKI,pp.245-252.

33,

阿弥陀浄土の至幸なる荘厳とその社会的意義,津田敬武,Noritake TSUDA,pp.253-258.

(2)

34,

宗教的情操発達の研究に対する一疑義,上野隆誠,Ryūzyō UENO,pp.259-267.

35,

宗教的本能について,宇野円空,Enkū UNO,pp.268-273.

36,

仏説資料としての阿含経批判の標準,渡辺楳雄,Baiyū WATANABE,pp.274-281.

37,

燉煌出土稀覯古写本について,矢吹慶輝,Keiki YABUKI,pp.282-286.

38,

コントにおけるフェティシスムについて,赤松秀景,Shūkei AKAMATSU,pp.287-291.

祝賀会における祝辞:

祝辞,井上哲次郎,Tetsujirō INOUE,pp.295-304.

祝賀に対する感謝,姉崎正治,Masaharu ANEZAKI,pp.305-308.

記念会記事:

宗教学講座創設廿五年記念会の成立事情,pp.311-314.

記念会要項,pp.315-334.

記念事業,pp.335-342.

附記,pp.342-351.

Posted in 1931

(昭和6)年

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_

は し が き

本蕃は東京帝国大串宗教皐諦慮創設二十五年記念倉の諸事糞の紀要であるが、殊に記念宗教尊大食に放ける記 −念請演‘研究費表等をその中心記事とした。従って此度に鮎措されてあるものは、宗教嬰講座創設二十五年記念 倉の単なる記録で腋なく.茸に誕生以釆二十五年の我が国宗教皐の若々しき宰相の全貌であると言ふことが出来 る○ 第一編は、記念講演l研究蟄表、及び祝郎の一部に五って、その重文を載録せるものであつてl本書の約七分 の六を占め、嶺日を摘ぐること四十二、我が国宗教畢の一流畢徒を此虎に網証してをる。水雷の存在債悔も全く この一編にtりて存する。 第二鰯は、宗教畢講座創堅王立年記念倉の諸事業に関する要項を載録したものであるが、能ふかぎり簡単に 記して、全部の七分の一を占むるに止めた。 侍ほ、本紀宴の蓉行が記念宗教堕大倉以釆一年有飴の年月を要したことをお断りし耳ければならぬが.これは 研究蟄義春各位がその研究に封する嬰的慎重の結果であつたことをもつて諒とされたい。 研究空家者の中で岸本英夫氏は宗教番犬命直後渡米留堕せるためその原稿を得られなかった。故木村寮費氏の 原宿は雑誌﹁宗教研究﹂の木村寮費教授追悼眈に掲赦したものである。ともに諒とされたい。

昭和六年七月

し が せ

出 版 委 員 放

(8)

A

(9)

四年せ紀の年月も・単に時間の軽過として回顧すれば・眞に昨日の息がある。然しその間に担つたせ界の欒博

から−文化の間留−串界の拭蓬趨勢など・その外に自分一例の身の上を考へて見れば、誠に多事で且つ意義の深

いものがある。時間はそれ自身は垂戚の方式であると仮に容しても、それを充たす人事の‡質には、生命の波が

躍動して、そQ生命の経過としての年月は活きた流れといふべきである。

本蔓に、宗教串訴座が制度として設けられたのは明治拙八年で、即ち今から廿五年前であるがーそこに至るま

での挺巌には若干の曲折もあつたu我大串の初期には、明治維新以奔の気風が中々盛で.所謂る文明開化の見で

宗教なとは吹き沸はれた如く、文末洋の古風は絶て琶弊として顧みられなかつたりそれに封して多少とも芯典研

究を復活したのは.明治十年代の総長加雅弘之先生で、先づ古典科として和洋夢の辞習を復活し、吹で印度管掌と

いふ名目で悌教ヒ関する諦轟を始める様にせられた。即ち印度哲墜語義の最初の揺任者は腐坦山師であつた。そ

れにりゞいて井上哲次郎先生が東洋哲墜を請義せられたが、明治廿三年常堅から辞朝して軟投となられてから、

﹁東洋哲学比較宗教﹂といふ掛目としての誹義がつゞいた。此は西洋の拳界で、ビュルヌフ等の刺俄によつて

乗数串講座二十五年の粗目

宗教拳講座二十五年の想出

柿 崎 正 治

(10)

霹祭典ク、その重箪部分が印度の宗教にあつた為に・宗教の研警猫豊リス姦に留めサ、畢拝の宗警

比較するといふ拳凪が盛であつた、その影蛮と見るべきであらう。療に私が在畢前後数年問の束洋習拳講義は、

印度が主であつたので、印度拳が聖地較宗教であるかの軌があり、村壷精霊の俳教義義右併むで、拳

■ 生の問に刺戟を輿へ、その方に志す青も段々出奔て釆た。然しlその頃より前にもー昔時の文科大畢で、宗教の

研究を如何にすべきかといふ事が段々考慮に上少、その専門家を養成してはどう、かとの譲も非公式には出てゐた

といふ亭でーその儀締着としては大西就君が有力であーつたとの苓である。然しそれは色々の支障があって行はれ

す、後大西君が京都大拳の方から外国留畢に出る時−迭別の席上、元の拳長外山先生が、﹁放で大西君に封する自

分の借金を他人に辞して貰った様なものだ﹂と明言せられた。

そこで宗教の研究が如何になされるべきか、叉その畢名を如何にすべせかといふ鮎は問題のまゝにして、兎に

巧.その方面の単著を養成せうとの議は栂接してゐたといふ事であるり私が明治廿九年哲蓼科を卒発して大草院

に入るに雷つて研究題目を定めるについても、同様わ問題が出、宗教習拳といふのは大分方面が蓬ふし、宗教拳

といふ名車公に唱へるのはまだ疑があるといふので、研究題目は﹁宗教の蟄達﹂といふことに七軒。此の﹁蟄連﹂

といふ題名には、大分仮定設定のあつたことで、即ち宗教を直に天授紳膵とするのでなく、叉︼定の農教敦蝕と

して見るのでなく、匿史的にも心理的にも蟹連のあるもの、他の人事或は文化現象と同様に、進化の跡を研究す

べきものといふ意味であつた。但し、此以前にも宗教撃といふ名桁は世間になかつたのではなく、井上囲了氏は

哲皐館で宗教拳といふ辞義を陪き.、一粒の宗教蛤論といふ様な扮菜をして居られた。文名目は何といつたか、ユ 四 宗教拳講座二十五年の海山

(11)

−二てサヤ.ソの先進畢院で岸本髄武夫君が宗教嘗といふべき講義をしてゐた事もある。 そこで日分としては、如何なる研究にしても、叉汎く一般に宗教に亙るにしても、基本又は中心の丑固なもの を弊すると考へ︵此には大西君の勧詮が興って力ある︶、︼股の注意と共に中心を沸教に督きーその彿身駁にキク スト敦のキリスよ蘭を参照するに勉め、而して一般にほ宗教といふ取念のつかまへ虎の襲連に望息して進むだ。 かくて卒業後二年.文科大草で宗教拳の講義を開くに雷つては、その緒論として、宗教といふ取念のつかまへ虎 を五段の焚速としてー一年の問に講述した。即ち年来の階層であつた宗教拳といふ名辞が、兎に角公に大拳でも 用ひる様になつた浮で、講座の設立に克つこと七年であつた。続いて明治升二年功轟身命ぜられた時にも、宗敦 皐研究といふ事で、同じ名稲はそれと同時に抵本文三郎君が京都の方からの留笹沢追にも用ひられた。而して松

本君の蹄朝は自分より先であつたが、京都の文科大拳が開けたのは数年後の事であつた。東京の方では、自分の 膵朝後、壌算の関係や何かで、一時諦師となタ、文一年間講座なしの教授でるて、講座の出奔たのは掃朝後二年、 明治肝八年であつた。 さて講座開設と共に先づ講じ挺宗教拳聖和は、先に大挙院研究中に試み、大西君の勧めで早稲田専門畢校の紡 毛録に登載し、それを改訂して輿放した概論の濃系で、心理、倫理、吐合の三方而を主にした。時にその少し前 、 にゼームスの﹁宗教経験﹂やスターバクの﹁宗教心理﹂が出て、その刺戦が大きかつたので、心理としての宗教 、 革質を講ずるには、材料や問題綻多かつたが、その他は貧弱で、倫理方面には、沸教の道徳親とキリスト教の教 理観念を照合し、祀禽的には敦昏的満動と人難拳的材料とを参照した。その後概論には多少違った組紺倦系を試 宗教塾訴挺二十五年の想出 五

(12)

六 乗数奉辞庫二十五年の恵山 みたこともあるが.多くは成功しなかつた。此を今の畢界の進歩.後進諸君の概論が的確な醒系を具へてるるの に比べて回顧して見ると.賛に噺悦を覚える。 静養の内容と暫く牡れて、講座措任についての覚悟について一言する。自分の考では、十つの串間について大 串が請座を設けるのは、その事開について、例へて官はば一つの参謀本部又は軍令部を設けるのでなくて、一つ の気象基を設けるといふべきである。従って諦 叉その啓開が研究する事柄にウいて、指揮し命令すべきものでない。従って一つの講座数中心として一参政を作 るといふ様なやり方は、最も不昔である。気象姦としては.その串間の世界に於ける趨勢や進歩を観測するは勿 論、叉その串間の取扱ってゐる事柄それ白身の活きた蓬動傾向を観察し登録し、叉現在我国だけでなく、世界に 亙り古今に通じての観察研究をするのが義務であると息ふ。但しその中でも、時に應じて特殊の方面に研究を集 中するといふ亭は、救と力の限ある檜任着としては巳むを得ない帯であるが、全憤として云はゞ全般の駅測を日 醇とすべきである。 轟盤の蝕揚と共に∵串間の性質についても.概念や方法を規定して固守す牒のが串間の熊手だとは考へない。 勿論﹂専門の拳科として、.範囲輸廊を局限することは必要であわ.従つてその昔質に應じての概念や方法にも自 ら限界はある詳であるっ然し総ての人文科拳に専門分科はむつても、轄着人間人生を研究するのが目的であつて、 東簸て道徳、事術など、各員方面を異にするもの1、何れも人間の天性と生消との上に於ては潮締の断つべから ざるものがあ少、専門といふのは、つまり人間を多少異なる角度から取察する見地の別に外ならぬ。其故に研究

(13)

の上で範囲を限定しても、そこには常に人生全鰹と聯給する融通があるペく、限定の馬に人生を断片的に見撤し、

串間の分科を縄張範囲の様にする偏見に陥らぬことが必要と信ずる。科挙は材料と親祭鮎と方法に於ては専門的

であつても.人生といふ大日樟を見失はぬ様に警戒を聾する。而して一科の専門範囲で出奔上った概念でも、常

に人生の享賓と参照して、概念を訂正し叉発育携張するの餞裕ある濃度た必要とすろ。

講庭並に蓼問の性質について、右に述べたのと速ふ考が世に存在してゐる軍は、高森知してゐるが二重に角.

自分は始から此の考を以て宗教拳講座軒措任して今日に至ったので、今日でも此の考を訂正する必婆を認めない。

従って自分の研究に於ても、叉畢生の掃導に於ても、常に此の考を廠用し、苦行して釆たつもりであり、草は指

導といふ官業さへ、多少不適昔かと思ふ位で、指示すことはしても指固をした寄はない。平生の研究や演習に於

ても、卒業論文額臼の現先についても、出来るだけ畢生各自の自著を誘脅するを目的とし、問題をサゼストし、

材料や方面について相談に興ることはするが、こちらから指固し、指定することは原則としてしない。即ち卒兼

論文に於ても、畢生自身のエ夫を待ち、自ら問題を案出させ.而してそれについて批判し叉協議するを方針とし て釆た。何れの研究に於ても.自分で問題を輔へることが、畢間の第一着であ少、サゼスションはどこから得る

にしても、論題の要鮎雇員を自分で練少上げるのが、研究の要契であると考へる。教員は之が誘琴批評、

をしても、指定し美園をして一定の規模に入れるのはよくないと信ずる。講座が参謀本部でな・いといつたのは此

意味であ少、文革沢を作るといふ様な見地に反封するのも.同じ見地から出ることである。

此の如き考であるから、・今まで二十五年の間、百数十人の卒巣生は、その牢貴誌女に於ても、爾後の研究に於

宗教畢講座二十五年の想凹 七

(14)

乗数啓訴鴎二十末年の想出 ても、可なり多方面で各々その能を蟄拝してゐるのを見て、自分の恰とし誇とする。然し方面は違ひ方法や材料 も大に異なつても、聯紡は失はない様にしてほしいといふ事は常に心がけて釆た。此等の苛が遼く理想通りに行 かない鮎は勿論少なからすあるが、白身としては此の見地と目擦とは、之を見失はない様に勉め、講座姶任と自 分の研究の上に於て﹁汎く人生を、而して宗教の角度から﹂といふ考を茸現するを目的にして今日に及むだ次第

である。

眉分の考では、草間の拇蟄鮎叉基本として必要なことは、概念や方法論よ少も、研究の目標と着眼鮎とにあ る。而して宗教の研究が日韓とする所は、人間がどうして、叉どの様なエ合で超世の理想に動かされ.又その信 仰に活きて行くかといふ︼事に集中し得るやに思ふ。而して理想といひ信仰といふも、その様悪や内容は必して 一定不簗でなく、人生に於ける宗教の襲速、蓉達、叉生気活動は、つまり超世理想を欣求した跡であゎ、それを 諸種の端緒から蟄見し、所縁に求め、生汚の事情に聯結して、Zを生活の原動力︵敢て指導原理などとは云はぬ︶ とする様じ試みて発た脛過である。此の如く生きた生命の電動を目槙として、その動き方の耽腰や襲遽について. ︸ 手篭の駁撃材料の蒐集と共に、その間に幾分でも理路を尋ね、秩序を立てるのが宗教畢の着眼鮎だと見る。そ れ故に宗教拳といつて、別に抽象な理法を規則の如く定めるとか、榛準規範を定めて指導するといふ様な串間た ることを必然としない。 たことで、宗教拳と宗教史と二つを合せたといふよりも、二つの名稀に含む研究は、硬質分醸すべからざるもの と信じた鳥である。つま少汎い意味での宗教史は宗教拳の資質であ少、宗教畢は宗教史の整理だと概括し得や

(15)

ぅ。些毒の関係については偽ほ少し最後に憐れるが、二者互に照合し、補充すべき不鮭の聯錆に立つて ゐる

考へる。但し、その何れにしても、又その特殊の部門について専門の研究を要七各々専門家のあるべきことは

勿論の次第である。

此の見地は、二十五年に亙って大隈同じであるが、その間にも自分の興味として、主要問題として研究し

とには、多少の襲遽がある。即ち講痙に先っての開講から数年間は∴示教畢の輪廓を葺く為に概論の整理を主と

した。然しその間にでも一大西君の勧詮に基いて、基礎からしつか少といふ着眼によつ高教の顔泉といふ方に

力を注いだ∪ウパニシャドやギークーと共に、パーサ俳典の研究はその方針から出た事であ少、根本俳敦といふ

名稀も此の見地から出た考である。

然るに千冗百七、八年、カーン研究員としての世界放行中.痛切に現代文化の性質と蓬命といふ問題にぶつゝ

かゎ∴十飴年前外山先生の講義から知つたキγドの﹁理想の感動﹂といふ畢詮が思想の中に復汚して釆た。そこで

問題は、人間文化の欒遽の上に、京数的信仰文理想が如何なる働をするか、宗教とl般文化との相耳関係如何と

いふ方に傾注して、今日に至った。此の問題は、宗教理想の内容や満力といふ宗教それ白身の問題を含むが、今

までの着眼鮎は、此の内容といふも茎に浮動するものでなく、文化の潮流と闘聯するものといふ方に傾いてゐる

から、それから出敬する研究は、場合によつては文化史一般に吸収せられる廣のあることを目覚してゐる。先年

二三年つゞけたキリスト教史や現在一段の成るを告げつ1あるキリシタン俸道兜などに於ては、自分自らにも此

弱鮎のあるを自覚してゐる。然し自分としては、宗教的理想が、文化の運動を左右する内容麗力を見失はない棟

宗教畢講座二十五年の想出

(16)

一〇 宗教串訴座二十五年の想山 に努力はしてるる。要するに此方面の研究は、三十年前に、サバチエが、その﹁宗教哲峯﹂に註して﹁心理と匿 史との基本に立って﹂と記してゐる着眼鮎宅消きた文化の運動趨勢の上で研究したいといふ精神にある。 但し此の研究中には伺ほ一つ重大な問題を含蓄してゐる。それは一言で云はゞ人格といふ事にある。圃醍生活 の手篭又文化の一浩カとしての宗教は、社台の趨勢運動と共に動き、宗教は社食を動かすと共に一文社命に動か される、 1般に見ても、人物のカは必ゃしも社命的趨勢の結果や産物でない。特に宗教的人格に於ては、その信仰理想が、 或は耐寒の啓示として、或は剋世の理想、不思議の信仰、天輿の使命として、場合に依つては敢魯的趨勢と飛び 敗れ、或は之に反封した方向に表れて力を得ることが少なからすある。叉此の如き人格を組と仰ぐ信者の信念に っいて見ても、その人格が規驚を超越した所に瀧があり力があるとして、此の如き人格に敬する尊信膵伏が強い 感化を及ぼす鮎も少くない。此等の場合にも∵歴史家や社食単著は、それを敢含の大勢とか、時代の影響とかと して詮明もしやう.叉その詮明には粕旛に眞理もあらう。それにしても、同じ時勢の裏に生活しながら、その同 輩幾百千萬人の中に、特別の人格が特殊の信念を抱き、超世の力を蟄挿するといふこどは、一簡原辻的覇嘗であ って、単に時勢の産物として全部を片附けてしまふことの出奔ないものがある。且つ宗教的人格がその信念理想 を蜃揚する場合、その自覚に於ては、天輿の啓示とか、預言に臆するとか、又末釆萬年を支曝するとかいふ信念 に終え立つ辛がその力であつて、その剋世的確倍が特色になるのであるから、此を外部の事情等の産物として詮 明し去ることは.その人の自覚を無税する詩で、その信念の力を迎合する所以の這でない。兎に角、宗教の研究

(17)

に於て、人格の鰐動を環境によつて翫壊し解繹することも必要であるが、叉人格の生命を一つの原造的専茸、根 本的の力として認めることも必要で、宗教畢の研究には、常に此の二方面の聯祐や反應に着日すべきである。 此の如き意味に於て、自分の研究は、先づ、繹食の人格と、それに封する併徒の信仰に始ま少、聖徳太子、俸 敬大師、日蓮上人からアシジのフランシスなどに及むで今日に至少、今後倫着眼してゐる事もある。それと同時 に畢生達の研究に於ても、此の方面の着眼を奨励したことも多い。宗教のみならず、文化全般に亙っても、人格 のカといふ事は、今後とも研究の重要項目として一骨の豊富を加へやう。人格のカは革に仰性の問題でなく、云 はゞ世界魂の具性的表現である。而して此の方面と一般の趨勢との研究が弘く深く聯綿融合し得る様になつた 時、宗教歩も宗教史も新生面を開く時が来ると信する。 さぺ此までは、自分の着眼鮎を中心にして二十末年の経過を略叙して奔たが、最後に少しく義挙界の運動に 開聯して所見を極めて短く述べて見やう。 ● 十九世紀後年に於ける宗教拳は、所謂る言語勢浜と人鞠堕疲との封立を一特色としてゐたが、その末瀾に心理 的研究が起り始めて、爾後その範囲内でも亦層々の方面の蟄蓮があつたや哲畢の上で所謂る論珊輩派を以て自ら 任する人々は、宗教の心理的研究を柄して心理主義だとか、心珊畢鱒ノとか名をつけろが、そういふ畢放といふ 様な考は、結琴着眼鮎の異同であ少、瓦に封抗すべきでなく、互に補ふべきだと考へる。心理的研究と併むで 注目すべきは政令畢的又は民族皐的研究と、文一般に隆史的研究であつて、現在では 探さを加へて来た。 景教拳許座二十五年の想Ⅲ

(18)

一二 票数挙講座二十五年の想出 右に述べた四つの蔚限鮎叉研究方法は、在来の宗教研究、即ち一宗教の範囲で自家の宗義や京染を研究する方 面︵所謂る宗教哲皐もそれ以外に出てゐない︶になかつた事であるから、畢界の新開拓として注意を惹いたので ある。従って宗教単に於ても此等の着眼研究が重姿で、叉それで宗教塾生部を毒したといふ如き感あらしめたの も、理由のある事である。然し在来の宗義宗史研究も、新畢風の影響で、よほど客晩酌、即ち隆史的批評的にな って釆ねのは、締著の寄嘗で、キリスト教と俳敬とに於て、特に新着限の研究が行はれ∵それが積年集めて釆た 材料を活用して、結果の著しいものがある。従つて宗義の研究や所謂る宗教哲峯に於ても、単に概念竪蝕の皐と しては不満を感じ、客覿的の材料鮭変事茸をも、解繹思辣の内容に加へる傾向は重要な一勢力である。その方面 の着眼と研究とが倫ほ進めば、所謂る論理拳沢と心理畢波との封立といふ如き寄悪は、一骨高い総合的見地の中 に融合すべきもの、叉する日があると信ずる9 此等諸方面の研究が、宗教史︵各偶特殊なり叉一般の︶と分離すべからざる革も、諸方面の進歩と共に明にな bヽ此亦十九世紀以来の大勢といふべく、最近二三十年間に於けるその方面の書物だけでも可な少多く出た。而 してその結果は、何れも宗教信仰の生命が、諸の時代や諸の民族の間に如何に成長し、又は如何に盛衰の蓬を痙 湧かといふ貰相を益々活き′1と示し得るに至った。此等蜂皆宗教墾の内容を豊富にし、延いて巧現在並に将 来に亙る宗教の趨勢を軌察する光明となりつ1ある。宗教皐といひ宗教史といひ.名稲と鰐裁は異なつても、宗 教に現れた人顆の満生命を把握し叉清規して、我等の精紳的生命を富ます上に於ては.分離し碍ない畢の両輪で ある。将来の宗教皐は、一隊此の抱合に進むこと1信する。

(19)

顧れば、二十末年の諦塵措任で自分のなした事は、自分ながら不満㌢感ずる事が多く.而してその感は恐らく

自分自らが最も能く知つてゐる。然し叉、直接には指導感化を受けた師匠、世界拳界の先輩に封して負ふ所、そ

等を思へば、.感謝と共に欺菩の情に溢れ、繹食が成道の始に三世諸俳同一成邁といふ悦を醍験せられた心持の幾

れ等の教を後進の人言幾分かでも停達し簡た事、後進の人々が、各々自己の途を関取して進みつゝある事、此

分かを味ひ得るやに覚える。人生の拷相は時と共に担適する、その間に現れ動く社命的潮流や人格個性も勿論一

様でない。然し、人間が、自己生命の滋を探少雷て1此と結び附かうとし、そこに好托と共に蹄趣を求める心が

失せない限少、何等かの形文意昧での理想信仰が人の心に動く限わ∴此の如き宗教信仰の賓相を探求する串間研

究は、過去と現在と未来とに亙った意味があ少、叉研究すべき問題の寮きる時はなからう。

宗教既読嬢二十五年の想田

(20)

B

(21)

現在の朝鮮全道に五って、贋い意味で神聖成されてゐる樹木に就いて、今立には特や宗教民俗誌的な二三の観 察と調査とを簡単に述べて見たい。組じて横木は知らるる如く朝鮮の民族生活上甚だ重要なるものであつて、殊 に変額は現今も伺ほ朝鮮民間の信仰と儀絶との上に重大た二の役割をもつてゐるから、吾々は琴l︸朝鮮膏薬のl 民俗信仰に接し得ると共に.宗教畢上では所謂ぎー邑邑旨玩の︼顆をそこに最も明かに取ることができるのであ る。 大正八年朝鮮総督料金行の﹁朝鮮亘樹老樹名木誌﹂の中にも特に﹁所木﹂と云ふl部類が掲げられてゐかが、 これは恐らく現に﹁鬼軸木﹂又は﹁昔祀木﹂と諭科するものから命名されたので透らう。それで今野らくその名 ヽヽ︳ 木誌に伐て見るに、その所木の地政は九盲四十有飴であつて、これをその樹種より云へばけやきを最多として吹 ヽヽヽヽヽヽヽ︳ヽヽヽ ︳ヽヽヽヽヽヽ はえのき、やちだも︵楠︶.いてふ、えんじゆ、あかまつ、の階位で、その他は甚だ少ない。しかし故に摘出され た所謂紳木のみが決して朝鮮の聖樹の全部ではなくして、それ以外にも庶く紳監視されてゐる樹木はまた頼る多 いことを吾々は先づ注意しなければならぬ。蓋しその名木誌にも上記の紳木の外に更に僻ほ﹁名木﹂﹁堂山木﹂﹁亭

朝 鮮 の 聖 樹

朝鮮 の 空尉

赤 ∴松

智 城

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一入 勒鯵の 聖粛 千木﹂などの分目を皐げて、これに廃する多数の樹木努類別してゐるが、今此等に就いて第−に留意すべきは、 故にたゞ名木として掲げられたものの中にも貰は明かに蛍樹と認むべきものが少なくないことである。それは所 謂名木に関する﹁故寧停詮﹂としてそこに簡単に記載された調査を見ると、それには後段に路ぶる如き聖なる特 徴をも℡でるる樹木を見出し得るからであつて、かくしてその名木に就いて私の再調する所に依れば、その中に ヽ︳ヽヽヽヽヽヽ は貰に二百に連せんとする変樹を敦へることができる。而してその樹範から見た多寡は、けやき、いてふ、えん ヽヽヽヽヽヽヽヽ︳ じゆ、えのき、あかまつの順位で、その他には甚だ少ない。 次には﹁堂山木﹂に就いても略戊同様であつて、絶じてこの名を以て呼ばれる樹木には賢際にはまた後述する やうな特徴を有する聖樹として、普通の他の樹木からは慣別Lて尊重されてゐるものが多い。今かの名木誌に摘 ヽヽヽ ヽヽヽヽヽヽヽ 出された豊山木は絶、教育五十有飴であつて、その樹橿はやはりけやきに最も多く、次ではえの邑、あかまつの順 位で、その他は激減してるる。 第三には特に﹁孝子木﹂と通綱される一類の樹木があるが.それは文字過少に所謂革子の側にある木でもある のみならず、その樹下は度々里民の集包的饗宴︵e望邑On許邑︶と供儀︵○穿rどg芦d罠ユ哲e︶との揚朗とな ってゐて、従ってその樹木も敬重され、濫りにこれを伐採し傷害することを禁ぜられてるるものが少なくない。 ︳ヽ︳ ヽヽヽ ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 而してその樹種も名木誌に依ればけやきに最も多く、次であかまつ、やちだも、やなぎ炉、いてふの悼位となつ ヽヽヽ てゐる。それで︼般に聖樹はその樹撞から取れば明かにけやき︵枕︶が最高位を占め、全くその字義にふさはし い鬼神木としての特色をもつてゐるが、倫ほその樹拉上別に聖なる威力があると信ぜられてゐるものの中には、

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ヽ︳ 支那に於けると同様に椀樹があつて、殊にその東棟は敬重されてゐるやうであ少−またかの巫に於いても最も専 ヽヽヽ 重される木はけやきであると云はれてゐるタ さて主として名木誌に基き更にこれを再調して親祭した朝鮮の聖樹の一班は略凍上述の如くであるが、しかし その名木誌には伺ほ調査未完の所もあ少、且つ後にも述べるやうに、朝鮮にもまた必ずしも潮謂宜梯老樹名木な らすして然も絆著な程々の聖樹があるから.従って全偲としての里村の敷は固より前掲の数字を造かに超えるこ とは事賃である。然らば今夫等の聖樹はたとひ前述の如く如何なる名稲を以て各軸方に於いて呼ばれやうとも、 それは賃際に朝鮮民間の信仰と儀線上果して如何なる紳変な特質をもつてゐるか。香如何様にそれには変なる特 徴が賦興されてゐるか。その主要なるものを先づ下に摘記して見やう。 一、年々その枝葉の蟄生や繁茂の仕方と良否などに伐て拉々の蕾凶嗣稿を卜する方便となる木があつて、か1 る樹木は即ち紳占︵diま邑i旨︶の鳥めに締盟祝されてゐるものである。 二、その枝葉を伐採し又は樹幹を侵害し、或は濫にこれに解れることを禁ぜられ、若しこれを侵せば災妖があ ると信ぜられてゐる樹木が甚だ多いご︼れは云ふまでもなくtpbO邑t記法であつて、蝕ちそれはタブーの首 位としての梁樹である。 三、毎年定期的に例へば春秋に︼定の祭事をこれに行ふ樹木があつて、著しこれを怠れば災禍があると信ぜら れてゐる。或は不定期に座員特に願主の依頼に伐て巫がこれに巫祭を行ふこともあ少、また或る狸樹例へば城 良木に封しては、多くの人員が必ず一定の呪法的宗教的行軍をその前に行ふ習俗があーる。 朝鮮の 聖樹

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四、或る樹木は特殊の紳威紳零若くは紳怪の任所として畏敬され又は忌剋される。 五l昔は官憲から特に官醇を賠興された樹木があつた。 六、特定の空所や嗣堂の側にあつて、これに附属してゐるものとして紳聖成される樹木がある。 七、その樹陰を邑民の合宴と供犠の揚所とするから現に敬重される横木があつて、それ昼前述の串千木以外に

も少なくない。

今上掲の各項目は固より交錯した分類であつて、乃ち一の盈梯に如上の種々の特徴を併有してゐるものもある ことは勿論である。而して此等の艶樹に勤して殆ど共通した最も蹄著な且つ興味深い行事は、軍にこれに諸毎の 簡約厄除珠防禁紬等を結びかけ或はこれに供犠をさ1げる民俗であつて、然もか1る行事の動横は要するにあら ゆる意味に於いての除災招稀に外ならないのである。 さて第二には此等の聖樹をば特に碑名を附して呼ぷ場合がまた甚だ多いことを注意しなければならぬ。それで この紳名上から見た聖樹の重なる珪耕を拳ぐれば次の如きものがある。 が常に最も強い紳聖感の封象となつてゐるやうである。伺ほ巫木とは特に朝鮮に於いては私が主として巫堂や巫 一、城陸木、 二、山神木、 三、府君︵付根︶木、 四、大監木、 五、巫木、 此等に就いての詳詮は故には省略しなければならぬが.たゞ上記の各紳木の中では殊に城陸木と爽では山挿木 家の側にある特定の聖構をかく名けたのであつて、それは恰もかのシベリアに於ける潮謂哲ぎ宗旨昌bp已Rコに相應 ナる空輸の一軒と見撤すべき事由があるからである。但し巫は固より琶ちに紳璽瓦ハ着ではないから.かゝる巫赤 朝鮮 の二豊飼

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路畏朝鮮の還とその諒との関係漂にそれと耶蘇教徒との現在の関係に就いて言して警たい。一品

者の関係は改めて云ふ姜もなく最も親密であつて、例へば諾背旗蒜慧山梁乃至票に向つて軍票を

行ふてゐる。されば聖樹は多く雷信仰の封象でもあつて∵ての儀讐も薯に霊視警ものがあり、山軸農

いであらう。

.ケサトサツへ してやがて紳的なものでもあるから、その巫木をばかくこの部斯の中に故へることもそれは必ずしも不雷ではな

をば今上述の分日の中に認めるのは穏雷ではないかも知れない。しかし苑と霧堂とは容易に紳の禿り移ろ場所と

第三には受粉の形鋭から警、謂誓その形態上の分類㌢試みると、一−老大木、二・崎木曲木︵er各dl漫 遊木︵旨ge打eど吏岩︼紆22︶︵託︶二二、叢木、四−棟木t五−相生木二ハー陰木等が怒げられると思ふ。故にもそ の一々の詮明逢するが、吾桑後に掲げた陰木と皆の樹幹か若くは槙元に女陰状︵邑ユ▲旨m︶の穴が大きく

ぎてゐる老木で雪て、殊に樽見の所警これに行ふものが多品殊の樹を暫らく私がかく名けたのである。

︵註︶声J買首二宮二野呂m≡enW弓邑n邑10ぎ邑d旨ぎi琶−邑已芦ぎ告さぎ巳⋮乳ぎkl邑e∃d Rdi gざじ諷驚n邑邑tこ∽●J巳−童PHt” 苧笥○きざ三男磨ekeIま︰11ぎー与︻訂1・宣gi2J⋮きir山seJ2nノ1寮き︼︸nl昌i蚤︰要言空軒 缶 ●J已−串¢.串ご 冒き冒亡ヨg2訂︼−r訂芝5m琵二重声ゝg−才穿家ig⋮善一一i芸邑呈−芦−芦−−P=コ汁 朝鮮の 盈樹

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朝鮮の二茎樹 I 二こ の如きはその一通例であらう。然るに耶蘇教徒とい防係は貰に五に反日排斥の状態にあつて、例へば或る村落の 大城陸木が曾て耶蘇教徒に伐て伐り倒された蔑めに、今も倫ほ附近の多数の男民は同数徒に反感をもつてゐるや うた賛状む私も目撃してゐる。然もその盈樹は倒されてもその褒めに必ずしもその信仰は撲滅されないのであつ て、現に一たび倒された空相の躍れた枚祇から後に新しく訴え出た若木に封して、選民は今も厚い信仰と儀絶と を相横してるるやうな皮肉な常例さへもある。勿論低級な俗信は如何なるものでも通常に改められねばならない が.しかしその揚合にも亦た過ぎたる扶倫ほ及ばざるが如き誘を招かぬ用意が肝要であつて.私はこれを特にわ 、 が朝鮮に於いて痛感するのである。 最後に何ほ上述の聖樹に関する宗教箪上の捜括的意味や殊に朝鮮の賓例と他民族に於ける同類の葛茸とを比較 しての宗教史的考察などに就いても、故には全て省略に附することをJとわつて置く。

(27)

昨年四月モスコ一に開かれた第十四回生蕗ソビエット大倉に於て霹西竃共和国憲法第四條釦う﹁信教の自由及 両家と数台との分離﹂等に押して規定した條項が襲吏され、叉同月八日全戸シヤ中央執行肇貝合議長カリ・・エ ソ外二名の名を以て.宗教観恨に関する法律の蟄布を見た。一九一八年の革命憲法及び﹁国家及拳校と軟骨の分 離﹂に関する根本法の制定以来、丁度十二年にして潰された此変更は、幕閣宗教政策の第二親を劃するものであ る○ 第一期の宗教政策は消極と横磯との両方面を有した、消極的方面は帝政時代に於ける国家と数台との関係の清 算、即ち主としてオルソドックス国教脅に加へられたものであり.横樋的方面は反宗教宣熔の自由である。革命 政府成立以後謬園正教倉が導めた度耗及び憲法に依り保障された反宗教宜倦の所動は共に世餌周知の事である。 さて共和同意法袈由條は始め、 ﹁努働民衆三選ノ良心ノ自由ヲ保障スルタメ国家一致倉並二畢校一致合一ヲ分野ソ、叉宗教的及反宗教的宜偉ノ 自由ヲ全人民工認ム﹂とあつた。

露由最近の宗教改発

霹園最近の宗教改廃

相 原一郎 介

二三

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此の申最後の項日を﹁信教及ビ反宗教宣倖ノ自由ヲ人民二認ム﹂と改正した。 倍数の白山といふ文句はPシヤ革命の﹁スローガン﹂の一で他の﹁戟串の廃止﹂、﹁国家生活の平和的建設﹂.﹁労 働民衆に封する土地の交附﹂、﹁言論出版の自由﹂.﹁世界の七分ノlの土地に共産主義の建㌫﹂時のスP−ガンと ともに、欝帝国の住民の心む奪って共味方となし、殊に勤勉にして質暦なる生活と平和主議を串する、しかも懲 帝政時代には常に迫零された千五首萬人のセクタ∴/トの支持をうけ.民衆をしてより好きより明るい終末に封す る希望を抱いて新政府を短く信任させ、革命後引渋いた数年問の内乱餞鮭及び配分組絃の板木的蟹串に伴った混 乱と不安とによく堪へさせたのであつた。 ﹁信教の自由﹂望止態的近代囲家が封宗教関係を規定する原則の一である。併し乍ら﹁倍数の自由﹂の範幽及び 内容は客軌的に確発したものでなく、闊に依って典範固程度を異にする。上述の如く﹁ソ﹂政府は革命に掲げた ﹁スローガン﹂の手前之を憲法の中に入れたのである。元来敵命主義の主張は、民衆を融合的連帯以外、一切の瑞 絆から解放し、桐性の完全な自由を保障する寄を以て理想とするものであると思ふのでぁるが、 治は本来マルキシズムであり、﹁宗教は民衆の7へン也﹂との信條の上にたつて居る。宗教信仰そのものが唯物変 貌に即する科串的統合主義と和いれないのみならず、既成宗教は搾取階級の塊脇と堕し.一般民衆を奴隷化する 方便となつたものであるとする。殊にレーニンは革に晩成宗教祀曾のみならす人心の内奥に存する宗教性そのも のをも否定し態む苛を止めなかつた。宗教的迷信を打破し、民衆を精帥的に解放するを要すといふ事が、新政府 宗教政策の根本であるが、最初はそれが僅かに憲法苦節州債に﹁宗教的及反宗教的宜停の自由を並び認め﹂て、 蕗四股近の宗教政策

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少しく其鉾先を現はしたのみであつた。而して鱒宗教的運動に就ては共席貫綱間中に於て、反宗教運動は料皐的 宜停及解禁に依るの外、暴力を用ゐて妄に民衆の反感を貿ふべからざるを戒め、叉農の決議に於ても村落に於け る節度なき反宗教運動が、却て所期の目的に反するものである事を戒めて居た。 然るにも係らず、共産賞の反宗教運動は或は﹁無紳協倉﹂の組轍とな少、或は軟骨及セクタソトには十八才以 下の男女に殆と宗教教育を許さゞるに係らす、反宗教宣俸は自由であるといふ有様であるから、セクタソトは墟 々憲法第四催に於ける信教の自由を楯にとりて、其不雷を中央政府に抗議し文数朗した。その結果軟骨は不平の 搭醸する集合所となつた事は想像するにかたくない。か,る事情が蓮にPシヤ政府をして一歩をす1め、宗教壊 滅の旗轍を一暦鮮明ならしめた改正をほどこさしめた。 ′ さて宗教椚宜倖の自由が単に﹁信教の白山﹂とかへられたが、此﹁信教の白山﹂をソピエッ一法制は如何に僻 辞するかといふ寄は英司法人民委員倉が竣表した解繹に伐て略説卸する事ができる。英一郡む引川すると、﹃一般 に理解される所によれば宗教の白山とは理論上良心の白山と儀式の自由とを含んで居る。プルジョ7蓼者は﹁良 心の自由﹂は次の仲條を国民に認める軍に依り完全に保障されるといふ。 a、宗教選摺の自由、従て新教魂樹立の白山。 b、恐衰の日出、儀式執行の白山と説教の日由を含む。 ¢、私械及び公椎の行使が信仰の如何に閲しない軍。 d、無宗教の白山。 露園長近の宗教東京

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l宗教観憶新設の自由。 b、数台の組練及び管理の自由。 ¢、違法の目的を有せざる現存宗教観醍はすべて法律の前に平等なる事。 我が倭制望芸なる良心の一自由を規定してゐるが、それは客取的意味に於いて存ぜず、主親的意味に於てゞあ る﹁即ソビエット政府は国民が如何なるものを信じても又いかなるものを信ぜざるも妨げない。但英行焦が法律 及び他の観民の利益に違反する場合は此限でない﹄云々。 此解繹にょれば、寮法の新規定における﹁倍数自由﹂とは単に儀式及び詮数のみの謂で.印刷物に依る宣倖は 勿論、其他の宗教的活動は一切認められない。僻も儀式の執行に関心ても蔽格な法律が新に蟄布された。 六十八偉から成ゑ示教国債に関する新法律は、一九一八二・二三の同家及拳校と敦合弁離に関する板木法に淵 渡し、其施行細則及其後の法令が過渡期の規定にして、現時の要求に不適なる故、之に代らしめんとするため制 定されたものと見える。其内容の主なる鮎をあげる。 弟︼に一九一八年の根本法は凡ゆる名群の宗教祭祀連合に適用さるべきを定め、以て萄施行迭が通用範園を詳 細に定めたるも億且適用されぬものあるべきを防ぎ、人員の多少をとはす筍くも圃麓又は集囲を組擁する宗教的 癒合は凡て登記するに非ざれば何等の活動をなし得ない事としー且宗教園位、国情員及喪各種機関の樟成人員を 届出づるの義務があるとする。 霹団長近の乗数政党 同様に数台の自由は左の三要素から成る。

(31)

園膿の執行横闊の人員中個々の者を忌避するの権を留保し.叉許可を得て開かれた宗教大骨に其執行横閲の名 簿と共に大倉の賀料投出−1の義務を負はしめ、各方面より圏惜を監督するの途を開き、叉祭祀財産α管理及使用に 開戦する契約は之を締結するを得るも同契約は商巣的又はエ柴的目的を内容とするを得ざる戊のとし、契約の目 的を祭祀上の必要上最少限度たらしめ英経済的勢力を奪ひ、又何人も一つ以上の圃饅に所属することを禁じ、且 牧師の消動慣城を限定し、圃濃の満動を局部的たらしむると共に其取締を便にし、叉宗教的財産を宗教的要求の ● にても停止するを得る事とした。 の鰻丼堂は国家又は公共の為に必要なる時は何時にても閉鎖し得ペきものとし、好ましからぬ圏醍の活動を何時 らざる専籍を保管することを禁じ、園閻の活動を純然たゑ示教的にして且消極的のものとなし、最後に致命其他 満足以外の目的に任用する軍を禁じ、命員に封し物質的援助をなし辟蒙、教育−慈善事業を行ひ叉祭祀に必要な 以上は其要鮎にすぎない。之を詳詮せす只、テマショウ氏がワシヤの﹁国家と宗教﹂を述べたる文章の結語を 引用せん。日く﹁ソ﹂ロシヤには国家の庇護する一の宗教あり、之に封し一切爾詮の宗教は、せいぜい、認容され るのみ、併し或鮎にありては直接的に迫害されるものであると。 過激派共産主義は宗教なりとは〆ルサッヒ、フェリッブ・ミュラー.及テマショウ氏等の断ずる所也。然らば、 申せに於てマホメヤ▲ト教が先手にコーラン、右手に創を提げて全欧洲基密教幽を震撼したやう王今此新宗教国 家はあらゆるイェ ソザイツの宗教を否定し、代ふろに現世的利笈のいはゆるデースザイツの宗教を以てし、世界 の宗教に挑戦して居るものであるまいか。 感固最近の宗教或癒

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現代宗教心理串の餞喘− その時朔を主としてフランスに於ける神秘主義の精紳病鹿的研究にまで執るとすれ

ばーーでは、宗教現象は多少とも程度を典にして紳踵病東の映陥と同一硯されてゐたと断するも過言ではない。

シャル三畢次にても∵宗教の閑組は単なる錯覚着であ少l忘我晩魂者は紳挺疾患者であ㌣・また紳的要の激情は ヒステリに持しうるものであつたし宗教とは紳粁疾患曾訂0且の特稜の場合で、偶人的又は集合的の狂急に似

たものであつた。

サボの如き料率的客駁的方法を用ひて宗教現象を出来うるだけその全慣に立って蔽察した有能な心理単著が一

際は内密 ︵旨re功peCti昌︶を避け、宗教者−特に紳秘衆の 一正確な著述や諸倦記による記録の仔細な研究に

よつて彼の先拳によつては箪なる異常な逮素粛として看過されてゐた宗教者の内的生柄の中に豊鰯なる猫創性を

費見したことは偉大なる貢献ではあつた。しかし乍ら、リボの著作のうちにても紳秘的状想は度々ある拉の心的

障害と同一硯され、しかもこの同一硯が既に証明されたかの如くに取扱はれてゐろのは遺憾であつた。デュマが著

名な紳秘豪の紳的莞を分析し、彼種では愛の有機的感情は完全に快けてゐる、彼等揉大想像者︵雪S計im各日冒

宗教現条における病的なもの

宗教現象に於けろ病的なもの

吉 野 清 人

t , ニ八

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tif且であつて猪党者︵深戸讐完l且ではないことを葦謹し.りし、師リボの見解を修正した如き隼︼の一例である。更

にシャルコの愛弟子ジャネがキリスト教聖者の心的状態をヒステリ患者のそれと封配して、最近の著作に至るほ

ど両帝を同一硯しえざることを力詮してゐるのもその後の斯塾研究の正しき針路を物語るものである。

その後・トボを相星したと思はる1が窄料に於てはブロテスタソトを主に托川tたジェムズが﹃宗教紙験の諸

相﹄で、紳秘約諾教授験の暫革的詮明を不充分とし、聖者の紳秘鱒除は彼を高揚せしめるが﹂狂敗者の紳秘室義

は彼自らを衷威せしめることを指摘した︶ か1る傾向はドラクロアに於て繚も明快に看取される。彼は病的完敗現象に関しても深い理解と洞察とを弔し 大紳秘家は殆んどすべての例外的な心的生理的組緯を石する希t烙印づけらるゝ紳繹病糾的映隋を免れないこと を認めはしてもー彼等には生の創造的威力、構成的論理、茂際的拭売捌ち三日には天霊︷敬一艮が布寧しこれこ

そその本質であると主唱する。天稟たき退化布・型的砦萩的威力なき締結病者。敬虔篭ろ近隣者によつて無税さ

れた粘所柄東でれろ低級なる紳秘豪や郡二流言模倣呵紳秘豪は触りにも多い。湘なりり止宿の形思を見出しこれを

信仰花したろ創造者黎明肴の大紳秘豪はすつと稀である。彼等は円らの生理的心理的弟鮎を物ともせすして、豊

田な創造的鈍化の布仕する。神秘主義の砦義は彼等にこそ問ふべきものであると。個人的宗教経験を構成するも

のを何にもよして感情となし教義や犠祀の役割を比較的に看即したジェムズと興って、特に政義による恕鹸の推

帯を重要祓したドラクロアが偉大なる宗教者には通観したi−−te碧ct邑i2e が統制してゐることに力鮎を督いて るるのも注目すべきである。また彼が提唱する全く肉感性を剥がれた紳秘壕の所感的状態.魂の紳への合︼の耽 宗教現象における柄的なもの

(34)

三〇

宗教洩象における病的なもの

惣は彼の感化を醸る受け七ゐるバリュズィの聖フアン・デ・ラ・クルスの紳秘経験の研究に明瞭に詳述されてる ■

るところである。

斯くの如く、固有の心理畢者は宗教現象殊にその最も深い紳秘的現象の巾に食まれてゐる病的なもの︵mO邑d︶

の存在を超まないが、決して宗教現象療病的現象そのものとは宕倣さないやうになつてゐる。これに封して最近

の精紳病理皐者の見解は如何と云ふに、構成ある諸家は例へばエスナル︵A・Hem邑;袋顎CF。琵eニ庄ぎT ti訂eニこ:○−i♪−品eと共に、紳秘豪には病的な場合の頗る多いことを承認しっ1も.﹁これらの手篭からし

て紳秘的思考が単なる疾病の一形態にすぎぬと結論するのは不正確であり叉甚だしく誇張するものである﹂と断

定するであらうじ或は、⋮ヤル︵声呂笥rd甘夏1ヱ増設竜=ニeニrO邑袋menぎ研こ品∞︶の如きも、病理的

紳秘経験が存在してゐ竜にしても・それはあらゆる紳秘経験が異常であるとの謂にはならぬとして沓日の自己の

見地の非を告白してゐる。吾らはまたレネル・ラパスチソ夢Hぎ¢訂igl㌣F芸旨①の如き高名なる病理畢者も 赤かlる見地に立脚してゐることを知ってゐる。クルボン9弓b。nも既に病的意識が宗教的紳秘的意識のすべ てを占むるに非ざることをある誌上で強調し宅他方、フランス社命拳沢の見地を徹底せしめても.宗教感情は

決して病理的な偶蟄事ではなくして、普通心理拳の桝輿に應じて著しくも社台的紐帯女緊めるものである。

しかし、かく殆んど決定的とみゆる敢近の宗教心理に占むる病的なもの1限定された地位を反封に著しく瑛大

せんとするものに、元釆はシャルコに聾したアロイド笹沢がある。これはある宗教の黎展に納経病のそれに極め

て比較さるべき心理的蟄生を見出す。この笹沢の宗教現象に関する精紳分析的方法及び諸文献を詳細に叙しえな

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いが、概観的には可成り非掛率的であると云へる。仮にリビド詮が生物科嬰として客観由に考へられた心理拳の

唯一紆基底たりうるとしてもこの立脚稚からの鶴多た宗教現象究明の寄輿は期待し難い。しかし、この笹沢の影

響を多少とも豪つた語草者の所詮には傾恕すべきものが抄くない。エソクのぞヨe邑Onやブロイラーの邑i岩Q

の諸詮。

僻またデソマルクのシュウ︵芦切・浮ど票Re︼igiOロ賀dmO象dm邑已旨訂仇−出口箋sFtrこ昌一こ などは性本能 ㌦、食慾と等しく宗教生活を原始的本能.傾向と宕倣して、これが精所柄に於ては突如として劇列だ畿すること絹 者の密接な相互関係を示唆してゐる.

吾らは今後に於ても、資料としても或はまた方法としても宗数現象の心理塾的研究に精神柄珊塾的立撃γ垂姿

成してゆかねば点らない。例へば、クレッチマーの c宣。t首1葺窟と、邑1i邑1ヨiqtlGとの心的気質の分那.ブ ロイラ﹂及びベルグソン及びミンコクスキの影響に立つミンコウスキの邑i︰岩音賢①の研究、デュルケム及び

ベルグソソの両詮を巧妙に特化したブロソデルの﹁病的溝識﹂のそれ、或性三プレ塾涙の想偲の病理たる神話狂

︵m苫Om邑e︶の研究等ミしかしてまた、多幸なろ新分野を開拓せるこれらの研究ほ何れも、その封象とする 精紳的病者は大部分は決して完全に葦在の感覚三芳コ∽d≠r置こenⅥde lpr堅it軋、⊥牢失ってゐろのではなく、普 通者とは多少とも興ってではあつても資産と接燭してゐることに浩自してゐるのも有用である︺︵先︶ 宗教現象における病的なもの

(36)

今日我国に唱へられてゐる宗教教育は、不幸にして未だ認むるに足る畢的粗雑も成して祈らず、奮わの黒にーも

入って居ると云ふ寄が出来ない。立準な苧こ成るの具賢規あるの日は抑々何科の寄であらうか。慨ふに、宗敏

教育は∵宗教的訓育と、宗教の教授とに、分けて考へられるが、此度では前者の意味、後者は其の補助に過ぎぬ。

而して其の日的虹、既に知らる1迫少発づ畢生を中心に、次第に一粒社脅人にも、療数的訓育を施し、陶冶の貰

を奉げ、国民各自が人格建設の根本動力としての宗教的信念宅人々の精神に刻み、常に殺虫心を抱いて、絶え

ず己が生命の浄化に望息する底の人物を蕃成し、能ふべくんば、信仰生汚にも入らしめむ.とするに外奉らぬ。

随って、之が徹底を期する鳥には、宗教の教授も悠なければなるまい。

在寮、我国の訓育は、修身料に於て徳目を授け、之と共に嘗践−鑑も勧め、以て、主として訓育む計り、陶冶㌢− 、行はんとはしたが、暦践の方面は、兎角に巧くゆかなかつた。殊に、箪校l二開流ない︵畢整式らぬもの、塾絞を卒 ったもの︶ 社命人一般の精紳方面は、全くの放任主義で今日に及んだ。只事に、忠孝の思想は、可なり能く徹底

し、日清日露の二役には、此の心を抱いて天晴敵を制した、と云ふべきであらう。共後せ昇天戟には、幸運にも

乗数々育の目的に鑑みて其の聖行如何を恕ふ

宗教々育の目的に鑑みて其の要衝如何を想ふ

藤 本 一.雄

三二

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正利を博し、五大強固たる実名の下に、物質文明は次第に繁盛に赴き、其の方面大麓に於ての成功はしたが、国 民精紳の取扱を忽にした結果と云ふべきであらう、不知不識の問、不撒底なる科挙萬能主義に隋入少、彼の俳国 の大数育家Alf邑冒邑−ねひがF.旨乱gn巨el−t呂pOi已d①5忘H訂tiOn己.︵一入九二︶を著比し、渇仰戦役彼の併 図改革策㌻諭すると共に、常時の科鍵萬能章革を試しめた︵1︺.夫と殆ど〓一状恐が、今日の我国にも出現して 居るかの感がある。典虚で今迄深く心付かなかつた国民一般の粍紳霧に、何とはなし一日ひ難い一粒の不足を感 じて釆たと云へる。釦、宗教的信念の快乏、と云へやう。 惟ふに、今迄の蓼校に於ける訓育上唯︼の接桝たる修身料は、夫を取扱ふべき人物を一般に殆ど現先せず、只教 科書を中心としての徳目譲列的詮話とも日ふべき方法のみに升を注ぎ、賛践の方を放りにも顧みさせなかつたの で、話を開く生徒が、徳目の記憶はするが、耳行は中々に伴は・ず、況んや前記の箪校に関係なき人々の持前修葺 は一億更不可能であつた。故に、国家の大葬に際しては、忠考一本の血を湧かせ、肉な踊らせても、平穏無頚の 折になると、人々多くは心の皆揚が定まられ、本能の命すろ饉、慾望の欲すりハ逗に従ってー私情に走少、自利に 捕へられ、和もすれば其の際限を知らなかつたのが、今日迄の飛国民中、放て大部分とは申したくないが、相嘗 大多数の有様、其の正直勤勉は、自己の悠の夫ではなかつたか。世良に於て、先づ小摘民に、次いでは、祀曾人 一般に、徳義嘗行の力を葦ふの必要を、留意しなければならなくなつた。日く忠恕手短、円く教化紐動︰H等々。 知行合一、言行一致、電鋳窮行、執れも鷲規の段になると、難中之雑無過斯︵包︺でl只宗教的信念の力のみが、 之を能くする、と日へる。此虚に嘗然頚を痙げたのが、宗教教育の間宙であつたと思はれる。釦ち宗教を、今迄 宗教々育の目的に鑑みて其の顎行如何を想ふ

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三伯

乗数々育の目的に鐙みT其の貴行如何を想ふ

の如きー一つの信仰箇條の轟守に動かぬ檜侶、信仰形式の器に過ぎぬ宗圏等の中にのみ莞せす、須く、革校数育

社命教化の上にも、之を取入れて、訓育の助、陶冶の郁と倍なければならぬ、と云ふ主張が起つた、と見てよか

らう。人に依っては、熱烈なる信仰が起らなければ宗教の償はないと云ふ理由で、此の聞置た否定する。けれど

も之は些か見常蓬ではあるまいか。前述の目的も亦、夫では無い筈。即ち教育希は、宗教家の代理となるべきで

はなく、国民全部が、宗教箪者或は宗教信者に成らたくとも、約て差支はない。革校は和庭迄も.宗教の宣侍所

であつてはならぬ。只、曹から悌へられてゐる、精紳的偉人の、智情意田浦にして、琵はしかつた大人格を範と

するに異議ある人は、恐らく一人も無いであらう。然れば、絶えず力を訟して、斯る人格者たらしめんとする、

一運動としての宗教教育でなければならぬ。その結果、信仰に入る人も生するであらう。此の目的に勤してに、

宗教的訓育の外に、宗教への正しい理解を輿へろ必妥があるから、特に蓼校に於ては、何等かの.方法に伏ろ完敬

の教授も、・問題とならねばならぬ。釦ち目下の懸案となつて尻る、各教科日の問に、可成的多ぐの宗教的題材を

入れ宗教上の智識を授け、信念吏誘畿せしめ、追究の指導を輿へる方法と、今一つは、蹟る深間税されては居る

が、宗教垂料の設置である。もし、国民に宗教的訓育を施すのみならば、猫立せる宗教単科は不要である、と諭

するにも、確に一両の眞型はある。けれども、徹底的の訓育には、智識として正確な理解を婚させ、信仰の低値

lをも知らしめ、時に愚な迷信を避けしめる苛も、勢ひ必要となつて郊る以上、此間越も無碍に見粟てる等は出奔

ぬ。知は行の瀬、理解こそ興味の本ではないか。

首t昏日訂逝いて七十飴年、琶詮主義が、入管の進歩に連れて益々必要となつて来た今日、故に無批判に

(39)

何物かを信じ、盲目的の信仰を抱く苓は、極力避けしめなければならぬ。須く厳正なる債億批判、認識的考察を 督然の要求と見なければならぬ。而も料率隆盛の年回に、理を雛えず、利に迷ふ虎.邪教迷信の容易に蓑へぬの は、国民精紳の指導上、何等かの紋陥があると見なければならぬ。即ち信念を萎はぬ人の心は、慾情の前には、飴 ■ わにも脆いものであらう。但.邪教迷信の害は、図法官憲の力が能く之を御する、と諭する畢徒もあるが、法の 裁きを待たすして、正邪を知るこそ、重富の事であらう。然らば、一般に智哉を輿ふる方瀧は、笹的教授の外に 無いではなからうか。而も亦、他科の間に於ける宗教的題材加入、若しくは、其の科を通じての宗教教授は、正 に一つの適法であ少.益々研究されなければならぬが、他科には夫々の目的があり、猫特の過程あるが故に、宗 教科は常に其の科に封しては従属的位皆にある。且吾人の醒鹸を以て顧るに、常任心に之を暫くも、他科の問に 之を説くは常に怠り防となり易い。 ると、之のみにては、宗教教育の織成は期待し得られぬ。如何にも、各方面の宗教教授、訓練を、担めて儀一す る中心単科上して掲立したものが、認められなければなるまい。但小峯校及中等峯校の初期に於ては、平易に授 けなければならぬから、曾て猫逸に行はれて好成績を奉げたと停へられ︵3︶、日下我国にても、期せずして一部 に論ぜられて居る、先づ童話に始り、宗教的偉人の俸記に及んで、其の問に宗教上の智識を授け 期、或は.高等小串校挙党迄に、国内の宗教一通りの教授を経り、中等畢校の筏周に於て、初歩の宗教拳概論に及 び、各宗の共通鮎を捕へて教授し、北ハ間能ふ限り.宗教的儀縫及形式方面にも接解せしめ、不知不識の問、敦埋 の大意を知nソ信念をも養ひ、能ふべくんば信仰にも入らしめるのは、正に一の方法であらう。斯′、する時は、却 票数々育の目的に鑑みて其の慣行如何を想ふ

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三六 禁教々宵の口的に任みて基の黒行如何を恕ふ って信仰モ得てた人までも、夫を枇呟される怖がある、と否定する人もあるが、行はなかったなら、如何なろ結 果が生するであらう。 人も知る我国の宗教情勢は、矢吹博士の所謂、宗教の帰聡何畳の翫があろから﹂研へ宗派の分割はあつても、 唯l冊の聖典に依りて、信仰の接鹿が定まる、諸外国の宗教教育とは、全く興った甚しい悶雉㌧ハ怨ずるであらう し、相雷以上の矛盾撞着も亦免れぬであらう。然しながら、夫を恐れて、必要な撃〟虚するは、寄鼓の牽生を恨 んで植樹を拒むの笑を招かう。此虎に於て、之が驚行には、我鴎のみが窮する、狽特の方法を考集しなければな らぬ。従って欧米諸国の例や.夫に関する雑誌書壇︵4︶は、宗教的訓育の参考にはなるとしても、我国の範とす る寄は出来ぬ。我国宗教教育上の一大難関は、此虎に存する。 殊に一大努力を要するは、宗教教授と宗教的訓育との連結統一、及び陶冶への適用如何の問題である。既に成 人した専間峯校の生徒の監督主示教箪校卒巣者に托すれば、宗教的訓育や陶冶モ計り得る、と考へる者ありとす れば、飴りにも単純と考へねばならぬ。頒く幼少の問よ少、怠らす教導し、華致し、敢て怠つてはたらぬ。宗教 教授、宗教的訓育、執れも小畢校に始まり、遅くも中等教育後期迄の、同心年齢を中心とした時代に、蓼校が中 心となり家庭配合が一致協力して、是非とも行はなければならぬ。此の閑に軽けられたものこそ二生不抜に、 人々の胸中に生きるであらう。斯くて、眞両日な、畏倒味のある、常に白・ト敬へて止まぬ人物と成1−得たならば、 其の外何の婆求があらう。但何程教へても受け容れぬ、化し雛い戎迷な考究干のある蔀は、到底免れ得ぬであら う。併陀にも拉婆の難あ少、大聖孔子亦、宰予の欺.原護の恨がある。司馬規公は、若干不敬父三通訓導不腋師

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之惰、父教師厳南無外、草間不成子之罪と喝破せられたが、至言と云はねばならぬ。 過去の宗教史上に見出される、軽々の弊害は、到底覆ひ隠せるものではない。A冨ヨ望ncIPi巧 の﹃言缶詰二島 R象g⋮昌の如き宗教の見方も、葡手を挙げて賛成はするが、之を以て二示教を否定する寄は出爽ぬ。故に宗教は 不用と断定する人は、些か早計に失するの輝はないか。誓へば、粗に滋養が無いと云って、米も同時に捨てるの 薪。人生必須の米も粗と共に食したならば、忽ち胃病に悩むであらう。と同じく之に嘗のあるは、取扱方に何等 かの誤があつたと見るペきであらう。迷信邪教で害毒を流さぬ限り、宗教有事論隼蓋し供しまねばならぬ。害 は宰、横位は慣値、自ら分明にする虚に.串間の働が認められやう。前記禦邑賢の望富C︼馬e村に見る、凄じい 弗の国電米利加にも、﹁最近益々宗教書の奇行を増し,八百塩に近い小説をも凌がんとする勢であり、どロdOn つ訂2誌のAg2qg音nには、日、て聖書の名句を掲げて、職を失って心に痛手を措ふ人々を慰めてゐる。﹂と新 聞子甘︶の語るのは、如何なる意味を持つであらうか。此度に人間の内心にー必然的に潜んで居る宗教心の現れ があり、やがて夫が理性、認識の要求となるのではないか。虚が前述以外にも、宗教無用論は隙く耳にする。又 ﹁衣食に等軟くものに、何の宗教ぞ。我等に先づバンを輿へよ、職を授けよ。﹂の叫びも切嘗なる聾でなければなら ぬ。然しながら之は、宗教た知らざる者の吸故に過ぎぬ。か1ろ人々をして、能く其の展償を知らしめたならば 恐らく之を菩ばぬもの虻あるまい。生命の意義を知りて生きん人生は、酔生夢死の裏に終る夫と一散りにも大な る相遷がある。宗教の破壊に力︰狂ぐ軍国の将来は、果して柴戟の濠想があらうか。宗教と教育を分離しキ彿因も 最近次第に.基接偶に相きつ1ある︵−7︶ と云ふではないか。然らば、之なくして活き縛る蔓を主張する人々の 琴数々習の〓的に鑑みて其の雄和如何を想ふ

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