経営診断の社会性序説
竹内毅
〔所論のねらい〕
いま,日本の経済はバブルの後遺症に悩んでいる。かつての一時期に おいて,なぜこれほどの事態を招くような拝金主義的行為が横行したの だろうか。経営診断の無力を痛感せずにはおれない。しかし考えてみれ ば,診断が企業悪をチェックできなかったのは経営診断のみに帰せしむ べきことではなく,そこにはわが国社会の病弊が潜在している。こうし た問題意識を背景に,社会性を帯びた経営診断のあり方を序説的に考え ア こ 。
はじめに 1.基礎的諸問題
(1)
経営診断の問題意識
(2)I 経営」の意味
(3)I 営利」と「社会性」
(4)
I 非営利組織」
2.経営と社会
(1)
企業経営の「社会化」
(2)
経営の非経済的側面
(3)経営診断の役割
3.経営診断の基本的視点(1)
独立性の堅持
〔 要 項 〕
(2)
近代科学的合理性の見直し
(3)思想・文化的視点の導入
むすび
は じ め に
企業に社会的存在の意識があり,それに従って経営が行われておれば問題 はない。しかしながら事実はそうはなっていない。実例に枚挙のいとまがな いほど,企業の非社会的ないし反社会的行為が存在している。経営診断は,
本来,少なくとも論理的にはこうした企業の非社会性をチェックする機能と 力をもち,その逸脱行為を指摘しそれを是正せしめることができなければな らないはずである。ところが実際上,診断者は企業の 相談相手"ないし コ ンサルタンド'の立場に止まり,企業の行動を矯正するような社会的役割を 果たしているとはみられない。すなわち,批判はしても積極的に行動を是正 せしめるまでには至らず,結局,診断は単なる「評論」に終わっているとい える。
経営診断がそうした積極的役割を果たし得ないことについては二つの事情 が指摘されなければならない。その一つは,診断には体制的な裏打ちが与え られてはいないということである。つまり診断には,たとえば法的背景のも とに実施される「監査」や「検査」のような強制力が社会的に与えられてい るわけではない。いま一つは,診断ないし批判者における説得力の問題であ る。それは具体的には,経営診断が経済原則に括抗すべき社会的規範を自ら 確立するに至っていないことを意味している。すなわち,企業の非社会的行 為の源泉は,多くの場合,経済原則への 暴走"にあるとみられるが,それ を規制する歯止めをなすに足る説得力に欠けるということである。強制力が 与えられていないだけに,説得力がものをいうわけであるが,そのとおりに はなっていない。こうした事情の結果,経営診断は,いわば「効き目のない 口出し」をなすに止まり,社会的には無力といわざるをえなくなっている。
これが診断の社会性認識のスタートである。
体制的な側面については,
I中小企業基本法」ないし「中小企業指導法」
に基づく体制が問題視されなければならない。つまり,国が決めた「中小企
業診断制度」は経営診断にとっての唯一の法的裏打ちであるが,そこにある のは,中小企業助成の観点のみであり,中小企業に対して競争適応を助成す るという政策意図があるに過ぎない。たしかに,中小企業は競争劣性であり,
自助努力をする企業の不利を是正し,これを市場原理に適応できるようにす るという観点は正しい。しかし,それは 強い中小企業"が増加し,発展途 上国型中小企業からの脱皮を求められている現状において決して十分なもの とはいえないであろう。コンサルティングに過ぎぬ現行の中小企業診断制度 は,経営診断本来のあり方から見直されるべき時期にあるものと考えられる し中小企業に限定しない診断体制も必要になろう。しかしこの問題に関し ては小論では取り上げない。
以下で問題にするのは,経営診断が自らの社会的規範を確立しえていない という第二の側面である。この側面は,第一の側面,つまり法的規制力を強 化するための基盤となる重要課題であり,第一の側面を実現するための前提 をなすと考えられる。なおその場合,経営診断の主体をとくに専門の診断者 に限定する必要もない。評論家やジャーナリストはいうに及ばず,企業と利 害関係を有する諸主体(ステーク・ホルダー)をも含め,経営にかかわりを もつあらゆる階層(つまり経営にとっての「社会J ) は,多かれ少なかれ企 業に対して診断(ないし批判)者の立場に立つことになるからである。
昨今,数多い企業の非社会的ないし反社会的行為に対して,これらの人々
はさまざまな企業批判をするが,そうした場合に批判者自身の見解に疑問を
いだくことが少なくない。それぞれの立場から下される診断がエゴに満ちた
ものであったり,批判している者が批判される者と同様の立場にあったらや
はり非社会的な行動に及ぶのではと考えられたりするようなこともある。こ
れらに共通する問題は,診断ないし批判自身が正しい社会規範をもっていな
いということであろう。このことは,結局において診断が企業と同様の価値
規範しかもっていないということではないか。具体的に,われわれは経済原
則ないし市場原理以外の価値尺度を持ち合わせていないのではないのか。経
済原則に括抗する価値尺度を失った「経済人」に堕しているのではないかと いうことを問題にしたい。
1
.基礎的諸問題
(1 )
経営診断の問題意識
経営診断が,企業の非社会性ないし反社会性をチェックする機能と力をも っているかどうかによってその社会性が問われるとするならば,まず企業の 社会性について考えてみなければならない。今日,企業は社会の公器とされ,
またその経営資源は社会から寄託を受けたものとの考え方に立って,企業経 営は当然に社会的存在であるとされる。また,最近では経団連などわが国を 代表する経営者によっても,企業と社会の「共生」が強調され,
I共生」は まさに流行語化した感さえある。しかしながら,それらは抽象的な公式論な いしは 哲学"の域を出るものではなく,現実には,それによって企業の非 社会的・反社会的行動が後を断ったわけではない。
すなわち,企業の実態においては, 哲学"とは裏腹に,社会性とか共生 に対する知覚は希薄であるといわざるをえない。世間がどれほど企業を 悪 玉"としてその非社会性を追求しようとも,企業にとっては「競争に勝つ」
ことがすべてに先行する。とくに,中小企業などでは 締麗ごと"をいって はおれないという部分がある。社会性や共生をめぐるそうしたタテマエとホ ンネが共存するところに共生もないものである。そこでは哲学はついに哲学 に止まるのである。
ところが,経営診断が問題視しなければならないのはこの「落差」にほか
ならない。社会性は企業においては,研究者や評論家あるいは一部の経営者
が考えるほどには知覚されてはいないという現実をどう判断するのかという
ことである。ちなみに,診断は単なる評論とは異なる。評論は「全」を対象
とするが,診断は一般論ではすまされない「個」の問題である。公式論や哲
学は「全」には応えているかも知れないが,
I個」に応えているわけではな い。こうした状況で的確な診断を下すに際しては,まず,営利企業において 社会性がどのように位置づけられるかについて見ておく必要がある。
(2) I
経営」の意味
企業が営利によって営まれている限り,社会性が介在する余地は,少なく とも論理的には存在しない。非社会性さえ容認されるかも知れない。しかし ながら,
I儲けて何が悪い
?Jといえるのは,営利が社会性を阻害しない限 りでのことである。それは,企業の「経営」に営利のみを志向できないとい う一面のあることを示唆している。そこで,差し当たりの課題として,通常,
経済的問題,技術的問題,戦略的問題などのようにいわば皮相的に扱われる
「経営」という存在の本質について改めて考えてみなければならない。
たとえば,経営経済学の対象である経営と,経営管理論が扱う経営とは別 のものではないはずであるが,この共通項である経営が何であるかについて も,日常的には必ずしも明らかであるわけではない。経営は経済でも技術で も,管理でもない。それらはすべて経営が有する一つの側面に過ぎない。重 要なのは,
I経営が根本的に人間生活のためにある主体的な存在」という認 識、ある。
このように考えると,経営とは何をすることなのか,またそれは誰がする ことなのか, といったことが問われるであろう。これについては,
I経営」
は「事業」を行うが,それは「企業」によって行われるという一つの認識視 点がある。それによれば,企業とは,資本主義社会のもとにおいては基本的 に営利企業を指し,営利を動機として行動する機関ないし組織を意味する。
そして,
I企業」と「経営」との聞の関係が「誰が,何を」という筋立てで 説明される。
まず,事業は,日常的に人聞の社会生活に必要な商品または用役を継続的
反復的に提供する仕事であり,それは「非営利組織」の目的としてドラッカー
のいう「使命」に相当するものと考えられる。したがって,事業は本来社会 性を帯びたものであって,経営はこの事業を選択し決定し,新しい事業を創 造し育成する。すなわち,本来,事業経営は社会的な性格を帯びた事業の選 択・決定であり,創造・育成でなければない。つまり,事業には社会的必要 ないし要請に応えることが求められるので、あって,経営が事業にかかわる限 りにおいて,経営の概念はすでに社会性を内包していると考えることができ る。これが経営の社会性についての認識の基礎である。
(3) 1
営利」と「社会性」
ところで,事業経営には営利の対象になるものとそうでないものとがある。
一般に「非営利組織」と呼ばれるものにおいては,事業経営は使命によって 動機づけられ,事業の有する使命性が経営を動機づける(たとえば,組織化 されたボランティァ活動にその典型をみることができる)。しかしながら
.1営 利組織」という場合,事業経営は営利によって動機づけられた資本主義的企 業によって行われ,事業経営は反面において企業経営ということになる。こ の場合,企業経営とは.
1企業による経営」であり.
1企業が経営する」ので ある。
企業経営では,オーナー企業が営利主義的主体となり,客体としての事 業を営利の手段として経営にあたる。これに対して,事業経営にあっては,
客体としての事業は経営の対象ないし目的である。すなわち,事業は社会的 使命をもった客体で、あって,それは人間や社会のために実現されなければな らないものである。ところが,企業経営によってそれを実現しようとする場 合,企業は営利によって動機づけられるものであるから,たとえば,営利の 手段として適当な事業しか対象とはしないだろう。採算の合う事業のみが企 業経営の対象であって.
1企業は慈善事業をやっているのではない」という のはむしろ鉄則になっている。
しかも一般的には,この採算に合わない事業を実現するのが非営利組織で
あるとされ,それは特殊な形態のように考えられている。しかしながら,社 会の進化にともなって,事業に対する要請が複雑化し,多岐にわたるように なることを考えるならば,それはきわめて企業本位の思考といわなければな らない。初期資本主義においては,事業経営は企業経営であり,企業の営利 が即人間の利益ないし社会の福祉に直結するものとされた。しかしながら,
資本主義の成熟・進化にともなって,そのような関係は後退する傾向にあり,
企業の営利が社会の福祉や人間の利益に必ずしも直結せず,むしろそれを阻 害する事態すら起きている。こうした観点に立つならば,
r経営」は,資本 (企業)から分離した歴史的な存在として認識しなければならず,企業経営 といえども,採算を無視してでも行うべき事態に直面することは必至になる であろう。しかしだからといって,企業経営の採算や営利性を否定するこ ともまたできないのであって,ここに経営の社会性の関われる原点がある。
よくいわれる「資本と経営の分離
Jに即してみるならば,歴史的経緯とし て,企業はその地位を経営(者)に譲り,経営が事業の主体となる。すなわ ち,初期資本主義期においては,企業は事業に対する「意思主体」であると 同時に「行為主体」で、あったが,現代的な資本主義のもとでは,それは行為 主体の地位が経営に移り,
r企業者」による事業ではなく,
r経営者」による 事業が本命になってくる。それは(論理的には)企業と事業の経営による統 ーといわれ,成熟資本主義のもとでは,営利主義的事業運営は大幅に相対化 されざるをえなくなる。現実の問題として,従来の企業経営は事業経営に収 赦していくであろう。しかし,資本主義的企業を前提とする限り,営利主義 が全く否定されるわけではない。ただ,主体の変化につれて,営利主義のニ ュアンスは違ったものになってくるとみなければならない。)つまり,
r儲け
ることばかりを考えるわけにはいかない」経営が現実になってくる。
(4) r
非営利組織」
営利は,経済行為に要する費用がそれから取得される報酬よりも少なくて
すみ,行為者に余剰分が取得される限りでそれを動機づけるものである。)つ まり,
I儲けがなければ,どのような価値の高い事業でもやらない」という ことであって,長い間それは当然のこととされてきた。しかしながら,経済 効果をもたらす行為のすべてが営利によって動機づけられるわけではないよ うな時代になりつつあり,たとえば「非営利組織」といわれる存在がそれを 象徴している。
アメリカでは,政府でも企業でもない非営利セクターが確固たる分野を形 成していて,その数は全米で百万を超えるといわれている。大学,病院,教 会,環境保護団体や小規模な住民団体まで,非営利組織で働く職員の数は,
連邦政府と州政府の職員数を合計したものよりも多く,事業規模は
GNPの
7 %,計算方法によっては
15%にもなるという。それは「もう一つの公共」
とも呼ばれているが,公共的事業が非営利組織の制度によって進められると いうことは注目に値する。
そこでの経営動機は営利ではなく,前述のように「使命」とされる。経営 の社会性の議論では,こうした非営利組織の存在も視野の内に入れておく必 要があろう。これまで,われわれは財の生産やサービスの創出は企業が行い,
社会の統制は政府がするものと考えてきた。しかし現実には,非営利組織
(Non‑Profit Organization)や非政府組織
(Non‑Govemment Organization)が現れて,多元的な社会が進みつつあることを重視しなければならない。
NPO
に関していえば,たとえば,雇用は企業のみが造出するものではなく,
市場原理以外のシステムによってもそれは可能な時代になりつつある。)
NPOは経営の動機を「使命」に置く異質の組織であり,卑近なところで
は,先般の阪神淡路大震災時にみられたように,ボランティア活動がきわめ
て大きな社会的パワーをなしたのもその顕著な一例といえる。しかし,それ
はすでに散発的,窓意的なボランティア活動などに止まるものではなく,
I人
間変革機関」として所期の効果を上げるためのマネジメントを備えた存在と
なりつつあることに注目しなければならない。
われわれはここに,営利性を相対化して考え,事業と企業の統ーとして経 営を見直すに際して,
NPOの存在感を大きなものとして受容しなければな らないように考える。企業本位の「企業社会」はすでに過去のものになりつ つあるといえよう。
2 .経営と社会
(1 )
企業経営の「社会化」
「事業と企業の経営による主体的統一」)といっても,それは論理上のこと であって,現実には,一挙に事業と企業が経営によって統一されるわけでも なく,また,完全な企業経営,完全な事業経営の両極のみが存在するわけで もない。統一については過程が介在し,また両極の間にはさまざまなレベル の経営が存在する。儲けるためには何でもやり, [""営利追求こそ企業の社会 的責任」などとうそぶく企業がある反面,社会性意識が強くて逆に収益機会 を失うような企業もあるかも知れない。しかし,一方では社会性と営利を巧 みに両立させている企業も存在する。
このような,企業経営から事業経営への移行をかりに「経営の社会化」と 呼ぶならば,それは企業と事業の統ーのあり方ないし状況(程度)を指して いる。したがって,現実の企業における社会化はさまざまな態様を表すであ ろう。経営理論では統ーのあり方や状況が千差万別であることを説くだけで よいかも知れないが,経営診断では,千差万別の具体的な状況や,その依っ てくるところが問題にされなければならない。
経営の社会化の過程が企業によってさまざまであるのは,それぞれの企業
の特性にもとづくものであり,それには業種・業態,規模,収益性・生産性
の格差といった経済的諸要因もあるが,究極においては,歴史的要因(生い
立ちなどの歴史的基盤),パースナリティ要因(経営者の資質・性格などの
社会心理学的基盤),そして社会的要因(企業存在の社会的基盤)に帰着す
るものと考えられる。わけでも,企業が社会システムのサブ・システムであ ることからすれば,社会的要因が重要である。
われわれは,かつて高度経済成長期のさなか,最も非(反)社会的な企業 行動である公害を黙認していた。高度成長の終震以降, しだいに社会性が関 われるようになってはきたものの,依然として環境破壊は続いており,汚職,
談合,ひいては経済と市場原理による人間汚染の結末としての家族破壊,精 神荒廃などは一向に改善されてはいない。これらが改善されないのは,われ われが経済性以外の社会規範を持ち合わせていないことによるものである。
とくに国民の精神的荒廃は目に余るものがあるが,その根源は教育の荒廃と 無宗教に帰するものと考えられる。しかも,こうした状況は一朝一夕にして つくられたものではなく,戦後,いな明治維新以来の経済優先主義のなかで 固められたものだけに,その矯正は至難のことといわなければならない。企 業はまさにそうした状、況のなかに存在している。「企業悪」などといわれる が,その源泉がこうした社会基盤の上に醸成されたものであることを忘れて はなるまし、
(2)
経営の非経済的側面
企業の非社会的・反社会的行為の根源は,経営の非経済的側面が捨象され た結果ということができる。市場原理においては,企業は市場に還元される 要素に過ぎず,そこでは企業は市場の動きの指し示すままに行動する。また そこでは,企業存続の重要な基礎である人間・社会関係は行動原理の外に置 かれ,企業は,交換ないし売買以外の方法では財の授受をすることはない。
人間は「経済人」として強引に市場原理のなかに封じ込められる。しかし,
企業を構成しているのは人間であり,その共同体的側面においては,財の授 受は必ずしも売買のみによって行われるわけでもない。
資本主義経済では,収益性と生産性を維持するために拡大再生産に進まざ
るをえない。市場原理はそのための有効な行動原理として機能するが,それ
は(ポラニーによれば),市場メカニズムを産業や企業に噛み合わせるため に,労働(人間)と土地(自然)まで、も商品化してしまっ
744)経営に関して も,その社会性を公式論で問題にする限りでは市場原理は一貫性をもっ。し かしながら,拡大再生産は確実に自然の費消をともなう。そもそも市場原理 は,商品の無限性を前提にしており,したがって,労働も土地も暗黙のうち に無限の存在として考えられているのではないか。しかし,労働も土地も企 業にとっては経営資源であり,経営理論はその有限性の上にしか成立しえな いのではないか。
一方,バブル期にみられた企業悪は現在に至るまで尾をヲ│いているが,そ の現象の著しい特徴は経営行動の市場原理による 汚染"にある。それはつ とにヴェブレンによって指摘された成熟資本主義の「見せかけの富裕」現象 が,わが国においてもバブルとして現れたことを意味するものといえる。こ うした経営の市場原理による汚染現象は,要するに,企業が経済原則以外の 行動規範を喪失して,一種のアノミー状態に陥った社会病理といわざるをえ ない
16)高度に成熟した資本主義は,いつの間にか経営の非経済的側面をかき 消してしまい,それに対して括抗すべき規範をもたなくなった企業は,自ず から無規制状態のなかに置かれているのである。
しかしながら,断っておかなければならないが,ここでは市場原理が不要 だとか悪いとかいっているのではない。それは資本主義的企業の行動原理と して,また資源の配分原理として,きわめて優れた規範を提供してきたので あるが,同時にそれは機能過剰と汚染現象をももたらしたといわざるをえな い。そこで,問題になるのは,そうした 諸刃の剣"を企業がどのように使 いこなすかということである。アノミー状態というのは,使いこなす能力を 喪失した状態といわなければならないが,企業がそのような状態に陥るのは,
企業自身の側にその原因があるというよりは,社会の構成員である企業に対 して社会が求める適応様式に関係があるように思われる。
リースマンは,彼の『孤独なる群衆』のなかで,社会性格を「社会がそれ
を構成する諸個人からある程度の同調性を保証される仕方」であると定義し ているが,それはひとりひとりの個人の特性というよりも,むしろ社会の側 が個人に要求する周囲の世界への反応の様式とみられる。彼は人口統計学的 観点から,アメリカ社会を「高度成長潜在期 j ,
i過渡的成長期 j ,
i初期的減 退期」という三つの型に分類し,それぞれの社会性格が,
i伝統指向型 j ,
i内 部指向型 j ,
i他人指向型」へと移行するものとしている
;7)社会の構成員としての企業が,市場経済に適応するほかには自らの行動を 律する規範をもたないという状況は,企業自体の問題というより,社会が企 業をしてそのような事態に陥れているものとみるべきではないだろうか。わ が国の社会も, リースマンの分類になぞらえば,すでに他人指向型の性格へ 移行しつつあるものとみられるが,それはともかくとして,最近の動向から すると,自らの行動を律する信念や規範をもった人々は少なく,自分の周囲 の他人やマスコミを通じた他人のことが行動面で強く意識されているように 見える。自分の世話も十分にできないくせに,やたらと他人のことばかりが 気になるといった傾向を否定できない。
企業は,自らが意図するところに従って,企業経営から事業経営へ向けて 社会化すべきであるが,それには経済原則に括抗すべき強力な行動規範が求 められよう。共生や社会性論議が公式論に終わっているのは,要するに社会 自身が経済だけに動機づけられた無規制状態にあることの結果であり,生活 の豊かさが「有閑階級化」)し,誰もが経済以外の指針を求めようともしない 傾向が無規制状態を促進させている。その典型はさまざまなところに見られ るのであるが,わけでもキリスト教やイスラム教などのように生活文化を規 制するような宗教がわが国には存在しないこと,教育という人間形成行動ま でもが企業化されてしまい,偏差値なる奇妙な数量化によって人聞が画一化 されてしまっていることなどが指摘されなければならない。そのようなこと の結果として,経済一辺倒の行動に歯止めが効かなくなっているといえる。
これらは,詮ずるところ要素還元主義と数量的世界観
iこよって標梼される近
代科学の 副作用"といえよう。
(3)
経営診断の役割
以上のように,企業経営の事業経営への進化は,企業がその構成員として 自らの適応様式を確定できるような社会性格が先行することによってはじめ て可能になる。このようにいえば,
r悪いのは企業ではなくて社会だ」とい う印象を与えるかも知れないが,そうではなくて,
r社会」のなかに経営診 断主体の役割が埋め込まれているということである。
すなわち,企業に経済の原理・原則に措抗すべき社会規範を覚醒せしめ,
そのような適応様式をとらせるところに経営診断の社会的役割が存在する。
企業経営にとっては,経営の診断者は「社会」そのものでなければならない。
このことは,診断主体の側からいうならば,それは従来のように,
r経営」
主体と「診断」主体の線引きの陵味な経営診断ではいけないということを意 味する。そうであるならば,経営診断自体が価値の無規制状態に陥っては困 ることになる。社会の進化を的確に見据え,しかも個別企業の特性把握の上 に立って,確かな行動規範を企業に与えることができなければならない。
もっとも,これも現実に鑑みるならば理想に過ぎないといわれでも仕方が ないかも知れない。経営診断の社会的地位は現状では高くないからである。
また,わが国の社会は,よくいわれるように集団主義的傾向が強く,個人主 義が確立していないという側面がある。したがって,診断が独自の立場を確 保することは決して容易なことではない。つまりこれは,診断自体の社会的 適応様式を決定づけているすぐれて日本的な社会性格に起因している。その 枠のなかにいる限り,診断にはついに企業の非社会的行為を矯正することは できないだろう。欧米社会に見られるような,歴史的洗練を受けた個人主義 の基盤に立ち,自己牽制装置の完全な社会が実現しなければ診断の社会的コ ミットメントもまた期待できないところではある。
このような循環論的な状況を打開するためには,一方において経営診断の
社会的地位を高める法体制的措置が求められること,冒頭に述べたとおりで ある。弁護士や会計士に比較して,診断に社会的実践の少ない点は十分考慮 さるべき問題であろう。それは診断者の不勉強だけではなく,むしろ社会的 な体制が備わっていない点に問題があること前述のとおりである。診断の不 勉強の点に関しては,何よりも診断自体が自らのパラダイム転換を図ること が求められている。
3 .経営診断の基本的視点
経営が「企業経営」から「事業経営」へ収数し,社会性への要請が強まる なかで,診断者は,前述のように経営にとっては「社会」にほかならず,経 営に対して,その依拠すべき適応様式を与え,経営行為をチェックする役割 を担っている。経営診断の社会性とはこのことを指すものと考えなければな らない。このような観点に立つと,従来の経営診断には少なからず反省すべ き点があるように思われる。つまり,経営診断の領域においても,
r企業経 営」のレベルから脱却して,真に「事業経営」の診断に徹することのできる 力量が関われる次第である。
そのことは,具体的には,経営診断という行為が依って立つべき基本的な パラダイムについての再考を促している。パラダイムの概念は, トーマス・
クーンによるものであるが,それは多くの人びとに広く受入れられ定式化さ れている思考の枠組みを意味している。経営診断においても,概していえば,
これまでのそれは
cr経営診断学」の創設努力にもかかわらず)経済学や経 営学の既成パラダイムを大きく超えるものではなかったといわなければなら ない。
また,敢えて言うならば,企業の非社会的行為やバブル悪が横行したこと
について,診断に責任がなかったとは言い切れないであろう。これに対して
は,診断は経営行為を決定するものではないから,診断に責任があるわけで
はないという反論が予想される。しかしながら,正しいと,思って勧告したこ とが実行されないということは,診断の無力を示す以外の何物でもないので はないだろうか。
以下では,経営診断がこれまで依拠してきたパラダイムにつき,三つの角 度から展望を試みたい。そのーは独立性の堅持,第二は近代科学的合理性の 見直し,そして,第三は思想・文化的視点の導入である。
(1 )
独立性の堅持
経営診断主体が経営主体とは独立していることはいうまでもない。したが って,診断が独自の基準をもつべきことも,たとえば経営診断学の体系化の なかでも提起されているところである。しかしながら,実際に経営診断に当 たっている診断者の行為をみると,なお問題とすべき点は少なくない。すな わち,診断が経営から独立しているとはいいながら,実際問題としては,診 断者の独自の論理が堅持されず,結局において経営者の論理なり立場に傾い てしまうことさえもある。前述のように,診断が経営者の私的依頼にもとづ き,彼が負担する報酬の範囲で実施される限りこの唆昧さが残るのである。
とりわけ,
Iどうすれば利益を上げることができるか」といったレベルに 止まる診断すらあり,実際それは「診断」の名に値するものではなく単なる
「コンサルテイング」に過ぎないのであるが,診断行為が「経営の論理」に よって支配され,
I診断の論理」が唆味になるということは,診断が自らそ の社会性を放棄することにほかならない。
とはいえ,もし理念に則して診断主体が経営主体から独立したら,おそら
く多くのコンサルタントは失業するであろう。このような事情は,経営診断
学の 格調"にもかかわらず,診断の主体性が大きく疎外されていることに
よるものにほかならず,経営診断が社会性を自らのものにするために,まず
乗り越えなければならない困難な問題というべきであろう。このことが実現
されなければ,ついに経営を矯正する社会的機能を有する経営診断は存在し
えないことになるであろう。
つぎに,
I独自性」は経営に対してだけではなく,診断主体以外のあらゆ る主体(ステーク・ホルダー)に対するものをも含んでいることを忘れては ならない。これまで、の経営診断が社会性を帯び、ていなかった(と思うのだが) ことの理由は,診断が単に「対経営」ないし「経営者本位」の範囲に止まっ ていたことにあるといえる。診断の独自性を堅持する限り,そうした範囲に 止まる経営診断は容認されえない。経営(者)の利害を超え,あらゆる利害 関係者に対しでも妥当な勧告が行われなければならず,そのことが,結果と して経営を厳しくチェックすることになる。ましてや,特定の利害関係者を 意識するなどは論外であり,また,結果的に一方的な企業批判に与すること になるようなフシのある診断や批判も独立した行為基準に立つものとはいえ ない。
経営診断における独自基準の堅持に関連して,たとえば,われわれは経営 活動における機会主義的行為に関する判断尺度を持ち合わせているだろう か。機会主義的行動は,相手の弱みに乗じて策略をめぐらし,自己の利益を 追求する行動であり,優れて人間的な現象というべきであるが,それは資本 主義的競争の必然として記述されても,それがもっ社会的欠陥についてどう 判断するかはきわめて多元的な性格をもっ問題である。したがって,それは 経済学の論理の外側の課題として検討されなければならない性格を帯びてい る。言い換えれば,競争を経営の「健康維持」のための要件とみる経済学的 思考に対して,競争を社会病理的観点ないし社会適応性の観点からみるとい う異質の判断次元を必要としているように考える。俗にいう「下請いじめ」
や「談合」などの現象は,これを生理現象とみる限り,それらに対する批判 の根拠を得ることはできない。
経営診断という行為は,いわば「表の論理」ではなく「裏の論理」の上に
立って経営を見るのでなければ,その的確性を全うすることはできないので
ある。そうした試みのためにいま必要なことは,経営診断自身がこれまで妥
当としてきたパラダイムをひとまず御破算にしてみることではないだろう か 。
(2)
近代科学的合理性の見直し
経営診断は,経営の問題点を指摘してその改善を勧告する行為であり,医 学との比較がよく行われるように,それは科学的な行為である。また経営診 断は,企業経営の発展と,それを背景とした経営学の社会科学としての進歩 と機をーにして行われるようになり,とくにアメリカにおける経営管理論の 展開がそれを促進したといえる。わが国においても,第
2次大戦後,その流 入によって一段の進展を見せ,今日に至っている。しかしながら,これまで の経営診断は,もっぱら企業の成長・発展に貢献するという 大儀"のもと にあり,まさにその点に社会性が認められていた。
ところで,
17世紀以降における自然科学の発達は
20世紀に入って飛躍的な 展開を見せ,それが経済の発展と
20世紀型企業の興隆の基礎をなしたことは 改めて強調するまでもないであろう。こうした自然科学の進歩は,社会科学 一般に対しでもニュートン・デカルト的思考の影響を落とすところとなり,
「社会科学の自然科学化」ともいえる傾向が一般化した。その根底にあるの は,前にもふれたように,要素還元主義と数量的世界観である。ちなみに,
デカルトの「物体即延長
J(corpus sive extensa)の考え方は,物質から質 的な属性をすべて追放しただ「延長(広がり ) J だけをその本性とした。
それによって物質は同質的な幾何学的空間において同一視されたのである。
これまで,このような機械的な世界観が科学を支配して来たのであるが,
いわゆるデカルト的合理主義の欠陥は,要素還元主義のおもむくところ,分
析はあっても総合がないという傾向に走った点にある。最近の科学一般の状
況を見ると,それは,ほとんど「分析」と「細分化」によって占められてい
るといえる。西洋医学の急速な進歩にもみられるように,分析が人類に貢献
したことは大きく評価されなければならないだろう。しかし,人間の体をど
こまでも分解したとて,生命や心を完全に分解することはできないだろう。
かりにそれができたとしても,分解したものを集めて人聞が出来上がるもの でもない。西洋医学で治癒しなかった病気が,それと全く反対の方法をもっ 漢方医学によって治癒したという例もある。分析への重点指向は,要するに 分析したものを再合成しようとする意図にもとづくものである限り大いに問 題を含むものといわなければならない。
経営診断の領域においてもこうした傾向が見られ,それは企業成長への貢 献という大儀のためには有効に機能したといえる。しかしながら,経営診断 では,ほとんど完壁に近い分析が行われでも,それだけでは診断は成就しな い。診断は「分析」ではなく「総合」である。このことについては,
I個 」 は「全」を構成しでも,
I全」は「個」によって合成されるものではないと いうことが強調されてよいだろう。これはまさにデカルト的パラダイムの否 定である。「全」が「個」によって合成されるという考え方は,企業を市場 に還元される要素とみ,同質部分の同レベルでの結合体とみることに通じて いる。それはまさに「物体即延長」的企業観にほかならない。
しかし企業は「生体」であり,
I生命過程の階層的組織」)とみるのが妥 当である。合成出来ないということの意味は,
I全」を構成している多くの
「個」がそれぞれ組織の同一レベルで存在しているのではないということで
ある。たとえば,細胞は,ある有機体組織の一部であるが,その組織はある
器官の一部であり,またその器官はある器官系の一部である,といったふう
に一つの統一的な有機体を構成する諸要素は,実は同じ組織の同ーのレベ
ルにおいて存在しているのではない。この場合,階層的構造の低次のレベル
に位置する諸要素の活動については,物理・化学的説明が可能であり,低次
のレベルにある諸要素の物理・化学的性質は,より高次のレベルの諸要素の
発生と動きを条件づけたり,制限したりすることがありうる。しかし,高次
のレベルのプロセスがより低次のレベルのプロセスによって引き起こされた
り,またそれによってすべて説明しつくされたりすることはありえないので
ある。
部門診断や業務的決定に属するような診断領域においては,物理・化学的 説明が可能でも,理念や方針などの経営的決定ないし経営基本の診断領域に おいては,下位部分の診断結果を合成しでも有効な結論に達することはでき ない。それにもかかわらず,われわれは下位部分の診断結果を上位部分の診 断に機械的に総合しようとする傾向をもっている。そうした既成の診断パラ ダイムは,
I企業経営」レベルの診断にあっては,それほど問題にはならな かったが,
I事業経営」レベルの診断においては,慎重に見直されるべきこ
とといわなければならない。
(3)
思想・文化的視点の導入
経営がいかになければならないかという実践課題への「解」は,もはやデ カルト的合理主義や新古典派的思考からは導出することはできない。企業経 営レベルの診断においては既成の理論は有効に機能したが,事業経営は,前 述のとおり,社会的使命を基底とするから,企業が使命として知覚している ものが妥当性を有するか否かに答えるには,広く深い社会的洞察を必要とし よう。また,対象企業の経営行為が,現代の社会が要請している正しい適応 様式に叶うものであるかどうかについての判断も,すでに経済理論を超える 課題である。
これまでの経営診断では,思想や文化などを劃酌することはまずなかった が,それは診断が経済的機能体としての企業の側面のみを診ていたからでは ないだろうか。そこでは,市場原理や管理原則を 下敷き"にしておれば事 足りたかも知れない。しかし,事業経営の使命や,社会的適応様式が診断対 象になってくると,診断をめぐる周囲の状況とその変遷が視界に入っていな ければならない。
従来の経営診断では,それらはいわば与件として,比較静態的に考えられ
るに過ぎなかったが,それでは的確な診断はできない。上述のように,経営
を生命過程の階層構造とみる限り,高次レベルのプロセスはいわゆる新古典 派的手法のみをもってしては解明できない。思想や文化の動態についての認 識がなければ,それは判断できないと考える。このことはまた,分析結果を 総合するための新たなパラタイムの確立,また,診断の経営からの独立とい
った前出の諸問題とも密接な関係をもち,その土台となる課題である。
むすび
永年にわたって企業や企業集団の診断に携わってきた者として,自ら行っ た経営診断の不十分さを痛感することがある。小論はそうした反省の上に立 つものであった。しかしながら,反面において,他者の行為を厳正に診断す るということは,人間のなすことである限りそれほど簡単なことではない。
経済本位の行動基準が普遍化しているなかで,社会的観点からその病理性を 突いたとしても,それは容易には受容されえないであろう。社会性などと息 巻いてみても,所詮それは自慰に等しいという面がある。
この診断無力感は,結局において経営診断における社会的コミットメント の不足に起因している。それは,診断者の力量不足もあるが,より根本的に は,経済以外の社会規範がきわめて希薄であり,自己牽制機能が弱く,反対 ないし措抗的なものをも懐柔してしまうような集団主義,さらには非近代性 を今になお温存しているわが国社会の風土(というより病弊である)に根ざ している。診断者自身もまた,そうしたなかに埋もれ,自ら経済以外の規範 を持ち合わせていないという病弊に侵されているといわざるをえない。
キリスト教と個人主義によって訓練された欧米的社会に対して,わが国に は古来,稲作文化と儒教精神によって醸成されてきた好ましい社会規範があ った。それが戦後を境目として崩壊し果て,ひたすら経済に奉仕する診断以 外には経営に対して規制力を持つものがなくなった。経営診断の社会性は,
このような状況のままでは,いきおい理念ないし哲学の域を出ることができ
ないものといわざるをえない。こうした事態の改善は容易なことではないが,
少なくとも,経営診断主体のサイドでは,既成のパラダイムを一旦白紙に戻 して再検討する必要がある。
一方,具体的な課題として,いささか陳腐化のきらいのある「中小企業診 断制度」の再構築が望まれる。現行制度における「診断」は真の診断ではな く,コンサルティングであり,政策金融など中小企業政策実施上の行政手段 としての診断に止まっている。今やそれは経済発展を至上とした時代の 遺 物"の観をさえ呈している。現行の制度が不要というわけではないが,それ だけでは診断の社会性を裏打ちする制度としては不十分である。事業経営や 非営利組織が課題視される時代の経営診断との聞の落差が早晩検討されなけ ればなるまい。
( 注
1)企業を診る場合の指針として依拠せんとする経営学(管理論)には,人間の不在 を感じないではいられない。人間関係論は,企業の内部の管理技法としての意味をも っに過ぎない。経営管理は,経営が根本的に人間のための主体的存在であるという観 点に立っていなければならないが,一般の経営診断にこの観点がどれほど埋め込まれ ているだろうか。この点で,
C.1 . B
arnard (The Functions of the Executive,
1938.)とその邦訳者である山本安次郎教授の指摘(以下に所掲の諸著作)から多くの示唆を 与えられた。
( 注
2)日常的に,
r経営何々」とか「何々経営」のように簡単に用いている「経営」の概 念について,われわれは本当に理解しているのか。このことは経営戦略や経営理念,
経営方針などを扱う「経営基本診断」の実務局面でつねに遭遇する問題である。山本 教授は, r 経営」の本質 ( r 経営存在
J)を,それによる事業と企業の主体的統ーとし て認識され,それを「事業」と「企業」の統ーをはかる主体的形成作用において考え られている。そして,孟子の「経之営之
Jをなぞって,経営を事業経営と企業経営の 統ーを意味するとされる。
それは経営学の方法論の問題であろうが,診断という実践においても厳密に考えな
ければならない課題であって,それが軽視される結果,診断が暖昧なものとなる。
山本安次郎『経営学の基礎理論~,ミネルヴァ書房,昭和42年.
PP.28‑33山本安次郎・加藤勝康編著『経営学原論~,文真堂,
1982年(とくに第
2章「経営 存在論
J,第
4章「経営(体)構造とその発展
J)( 注
3)ドラッカー
(P.F. Drucker)は ,
1989年の論文で,
rガールスカウト,赤十字,町 の教会などの非営利組織がアメリカにおけるマネジメントのリーダーとなりつつあ る」とし,その雇用効果に言及している
(P.F.ドラッカー, w未来企業~,上田惇生・
佐々木美智男・田代正美訳,ダイヤモンド社,
1992年.所収)。
彼によれば,
r企業では,計画は収益からはじまるが非営利組織では,それは使命 からはじま」り,
r使命とその使命を果たすための要件からスタートするということ が,成功している非営利組織から企業が学ぶべき教訓である」といっている(向上書
P.250)。
また,
r非営利機関は,人と社会の変革を目的としている。したがって,まず取り 上げなければならないのは,いかなる使命を非営利機関は果たしうるか,いかなる使 命は果たしえないか,そして,その使命をどのように定めるかという問題である」と いう (P.F. ドラッカー『非営利組織~,上田惇生,田代正美訳,ダイヤモンド社, 1991年)。
( 注
4)山本安次郎,加藤勝康編,前掲書,
P.28.( 注
5)山本安次郎教授は,事業を企業,経営の両概念との関係で厳密に規定され,企業 は意思主体,経営は行為主体,これに対して事業は経営の客体としている。事業経営 の主体は近代に至るまで企業者であり,企業であり,事業経営は企業者経営ないし企 業経営であった。そこでは,意思主体と行為主体は企業のなかに包摂されているもの と考えられる。しかし,資本主義の進化にともなう近代的な企業者経営,企業経営か ら現代的な経営者経営,事業経営への変遷は,意思主体と行為主体の分離であった。
山本安次郎,加藤勝康編,前掲書,
PP.31‑34.山本安次郎『経営学の基礎理論~,ミネルヴァ書房,昭和42年.
か
『増補経営学要論~,
11,
1964年.
( 注
6)山本,加藤,前掲書,
P.28.(注7)石川晃弘ほか編, w社会学小辞典~,有斐閣,昭和52年.
( 注
8)内橋克人『共生の大地~,岩波書庖,
1995. PP.235‑236.( 注
9)内橋克人・奥村宏・佐高信編, Ii'企業社会のゆくえJ](日本社会原論
6),岩波書庖,
1994
年 。
( 注
10)P. F.ドラッカー,前掲書。
( 注1
1)注
2.参照。
( 注1
2)企業と企業の共生を妨げる要因は,市場が不完全にしか機能していなし、からであり,それを是正すれば競争と共生は併存しうるという考え方がある(佐和隆光『成熟 化社会の経済倫理J],岩波書店,
1993年)。しかしながら,複雑な企業の要因を経済の 論理の範囲で解明しようとする思考に対しては,経営診断という実践の立場からは疑 問を抱かざるをえない。
( 注
13)経済人類学
(KarlPolanyi)では,経済過程の制度化の住組みを「互酬
J,[ " " 再 配 分
J, および「交換
Jの三つに分け,市場経済における交換を相対化している。互酬は血縁
・地縁関係のなかに埋めこまれて,経済取引として単独で現れることはないが,たと えば通過儀礼のように対称的な集団間において行われる。再配分は,たとえば,伝統 的な農耕社会で,支配者と農民の間に行われる徴収・分配の関係である。このような 形態の経済過程は,現代の企業にも跡づけることは可能であり,すべてを交換の形態 に還元することは人間共同体の存在を否定するものである。
Karl Polanyi
,
The Great Transformation,
1957.吉沢英成ほか訳『大転換J],東洋経 済新報社,昭和
50年.
栗本慎一郎編著『経済人類学を学ぶJ],有斐閣,
1995年.
( 注
14)カール・ポランニー,玉野井芳郎・平野健一郎編訳『経済の文明史J],日本経済新 聞社,昭和
50年.
PP.28‑29.( 注
15)T. Veblen,小原敬士訳『有閑階級の理論J],岩波書店,昭和
36年.
( 注1
6)社会的な無規制状態は「アノミー」といわれている。この概念の創始者であるデ ュルケム
(E.Durkheim)によれば,それは社会規範がその機能の遂行に障害をきたし て,その結果,個人の欲求充足行動を適切に方向づけることができないような社会的 無規制状態として定義されている。
米川茂信『現代社会病理学J],学文社,
1991年.
大橋薫外編『社会病理学入門J],有斐閣,
1990年.
( 注
17)D.Riesman,
The Lonely Crowd ; A Study of changing American character,
1950.加藤秀俊訳『孤独な群衆~,みすず書房,
1964年.
( 注
18)ヴェブレン(前掲書)においては,有閑階級は非生産的職業に従事する上層階級 を意味している。そうした階層にあっては,勤労的な見栄ではなく金銭的な見栄が支 配的となり,仕事を愛好し効果なき労作を嫌忌する人間の傾向である「製作本能」が それによって汚染されるとする。彼はすでに
19世紀末にそうした資本主義文化の批判 を行ったが,その指摘は現代をも痛撃するものを含んでいる。
(注 19) 太田一広ほか編『経済思想史~,名古屋大学出版会,
1995年.
( 注
20)Thomas S. Kuhn,
The Structure of Scientific Revolutions,
1962.中山茂訳『科学革命の構造~,みすず書房,
1971年.
ある科学における科学的進歩は実り豊かな概念や問題設定や解決手続きを提供し,
比較的長期間にわたってそれ自身問題にされないような,一般に認知された中心的基 本モデルの存在に相当程度依存する。そのような基本モデルを,クーンは「パラダイ ム」と名づけている。なお,パラダイムは,つぎのような質的基準を満たさなければ ならない。
‑問題解決能力(発見的機能)
‑普遍性(多くの対象集合に対する関連性)
・正確性(一義的結果)
‑統合能力(教育的な体系化機能)
(ハンス・ラフェー/ボド・アベル編著『現代科学理論と経済学・経営学方法論~,
小島三郎監訳,税務経理協会,昭和
57年.より)
( 注
21)制度学派の流れを汲むウィリアムソンは,
r限定された合理性
J(bounded rationali‑ ty)と「機会主義
J(Opotunism)の概念を導入して,取引の人間的側面を解明した
(O.E.W