博士学位申請論文審査要旨
早稲田大学大学院社会科学研究科
申 請 者 氏 名 石井 滋
申 請 学 位 名 称
専 攻 ・ 研 究 指 導 政策科学論専攻 行政過程論研究指導
論 文 題 目 非官吏制度の研究
博士(学術)
戦前期日本における雇員・傭人・待遇官吏の成立および変遷 A Study of the System of National Non-Public Employees
Establishing and Transforming Process of Koin(High Class Employee), Younin(Low Class Employee) and Taigukanri(Ranking as an Official) in Japan before the Second World War
論 文 副 題
博士学位申請論文「非官吏制度の研究」審査要旨
1.本論文の目的と意義
本論文は、第二次世界大戦以前(以下「戦前期」と記する)の日本の行政機関における 非官吏制度の成立および変遷過程についての考察を通じて、実態に不明な点の多い非官吏 制度の体系的な把握を試みることを目的としている。そして、第一に非官吏の不安定な立 場の形成、第二に非官吏制度を巡る改革とその限界、という2点を主題とし、一次資料の 読解と解釈を通じて、実態の解明と検証が目指されている。
近年、「官製ワーキングプア」という言葉に象徴されるように、政府公共部門における非 正規職員をめぐる社会的問題の深刻化が指摘されている。こうした政府公共部門における 非正規職員は、戦前期の日本においても多数存在し、その起源は、本論文で明らかにされ たように、古くは明治維新直後の太政官制にまで遡るとされる。そして、時代の変化とと もに、「雇員」「傭人」「待遇官吏」などに分類され、それぞれに複雑多様な変遷を繰り返し ながら、行政府の最末端部分での業務を、幅広く担ってきていた。
しかしながら、従来日本における官僚制研究および公務員制度研究の分野で戦前期の制 度を扱う場合の研究対象は、その大半が正規の職員である官吏制度に限定されてきた。す なわち、それらの研究では、政府中枢部において行政府の意思決定と行政権の行使に直接 的な関わりをもつ、上級官僚集団(戦前期においては「高等文官」)の統治過程における諸 活動の部分に焦点が集中されていた。これに対し、非官吏制度については、雇用形態等に ついての教科書的な解説が、本論に対する「前置き」の形で記述されることはあるが、こ の分野に関する本格的な研究は、殆んど欠落したまま今日に至っているといっても過言で はない。本論文では、このような日本官僚制研究および行政史研究における巨大な空白部 分に視点が据えられている。そして、非官吏制度をめぐる歴史的な事実関係の解明と、そ こから導かれる仮説の検証を試みることにより、日本官僚制研究と行政史研究の新たな地 平を切り拓く可能性という学術的意義と、政府公共部門における非正規職員の処遇をめぐ る諸問題の解決のための歴史的事象の検証という実践的意義の両面において、極めて意欲 的かつ貴重な研究としての意義を有する。
2.本論文の構成
非官吏について、先行研究と課題を把握したうえで、明治から大正の時代にかけての雇 員・傭人・待遇官吏の各制度の成立と変遷過程を確認し、大正末期から昭和初期における 行政調査会の非官吏制度改革とその後の動向を検討する。具体的な構成は以下の通りであ る。
序章 はじめに
第1章 非官吏制度研究についての一考察 第1節 先行研究の確認
第2節 研究における課題とその克服のための視座 第2章 非官吏制度の成立過程と背景
第1節 雇員制度の成立過程 第2節 傭人制度の成立過程 第3節 待遇官吏制度の成立過程
第3章 非官吏を取り巻く環境の変化と制度の改変 第1節 雇員制度の改変
第2節 傭人制度の改変 第3節 待遇官吏制度の改変
第4章 行政調査会による非官吏制度改革と提言後の動向 第1節 行政調査会による非官吏制度改革
第2節 行政調査会の提言後の動向 終章 おわりに
参考文献
3.本論文の概要 序章 はじめに
序章では、非官吏制度研究の意義とその研究アプローチ方法について論じられる。
第1に、テーマ選定の理由が述べられ、問題提起が行われる。
近年の官製ワーキングプアの問題は、非常勤職員の処遇の課題を浮き彫りにした。その 処遇の見直しは今後も必要になるが、それは行政機関における当該職員の位置づけによっ て大きく変わる。そして、現在の常勤職員と非常勤職員の二重構造を連想させる戦前期の 官吏と非官吏の考察は、非常勤職員制度の将来の方向性を見るうえで参考になるばかりか、
重要な指針をも提供する。一方、戦前期の行政機関で大多数を占めた非官吏については先 行研究が少なく、その実態に不明な点が多いのが現状である。この非官吏制度の検討は、
①非官吏制度研究の停滞要因、②官吏制度との関連性、への示唆という意義を持つ。
第2に、仮説とアプローチ手法を述べ、考察手法が明らかにされる。
非官吏は官吏の仕事を支える役目を担ったが、それに伴い発生した「非官吏の位置づけ のあり方」と「仕事に見合う処遇」の問題に対する政府の対応が注目される。この状況を 踏まえ、本論文では、①非官吏の不安定な立場の形成、②非官吏制度を巡る改革とその限 界、という2つの仮説に基づき、考察される。さらに、①研究対象となる非官吏の範囲の 明確化、②非官吏制度の歴史的理解と学際的アプローチの採用、といった考察手法が説明 される。
第1章 非官吏制度研究についての一考察
第1章では、非官吏制度に関する先行研究が学問分野別に整理される。それにより、研 究の現状を確認し、今後の研究において求められる課題とその克服のための視座が示され る。
第1節では、本論文で取り上げる非官吏の範囲を明確化し、行政学、行政法学、労働経 済学、歴史学の各分野における先行研究がとりあげられ、研究の現状と到達点が検討され る。
まず、非官吏の範囲についての議論が俎上に上げられる。渡辺保男(1976)によると、
非官吏は雇員、傭人、嘱託とされるが、このうち嘱託は資料が制約され、実態の把握も困 難なため、対象外とする。また、杉村章三郎(1936)によると、待遇官吏は身分上官吏で なく、単にその待遇を受けるに止まるとされるので、官吏よりもむしろ非官吏に含めて考 察する必要がある。よって、雇員、傭人、待遇官吏が研究対象とされる。
そして、各分野の非官吏制度の先行研究は、以下のように示される。
行政学では、辻清明(1952)、足立忠夫(1978)等により雇員・傭人への言及がなされ た。その他、渡辺(1976)、西尾勝(1993)、西村美香(1999)、真渕勝(2009)、稲継裕 昭(2005)、川手摂(2006)等による研究が見られた。しかし、概要説明や限定された領 域での分析であり、非官吏に関する記述は少なかった。
行政法学では、戦前期において美濃部達吉(1910)、佐々木惣一(1922)、清水澄(1935)、
杉村章三郎(1936)による研究が見られたが、総じて個別の法解釈を重視した点で断片的 性格の強いものであった。一方、戦後期は田中二郎(1955)、塩野宏(1995)等による制 度の概要説明が中心であり、非官吏制度研究は停滞した。
労働経済学では、実証的性格の強い研究が早川征一郎(1994)によってなされたが、総 論的内容であった。その後、菅山真次(1992)、森建資(2005)、長島修(2008、2009)、
加藤智康(2009)による実証研究が見られた。ただし、個別のテーマに即した部分的な研 究が多く、非官吏制度の全体像を捉えるのには限界があった。
歴史学では、労働経済学と同様に実証研究がなされ、宮地正人(1973)、氏家康裕(2006)、
佐藤美弥(2011)による研究を挙げることができる。しかし、それを体系化して非官吏制 度に結びつけるまでには至らなかった。
待遇官吏については、戦前期の美濃部(1910)等による研究、および、戦後期の日本公 務員制度史研究会編(1989)、小早川光郎・天川晃・磯部力・森田朗・斎藤誠編(1999)
等による研究を挙げることができる。なお、その内容は限られた範囲の説明や事例分析で あり、さらなる研究が待たれる状況にあることが示される。
第2節では、第1節を踏まえて非官吏制度研究における課題が明らかにされる。
先行研究を総括すると、一方では官吏中心の制度分析や規範分析を重視する考え方が根 強いため、非官吏に対する研究の必要性が低くなる傾向がある。そして、他方では非官吏 への関心はあるものの、資料の制約から個別の研究課題に対する取り組みに終わる場合が 散見される。こうした研究の必要性や資料の制約といった問題から非官吏の実態調査が進 展を見せず、体系的理解が進まなかったと言える。
西尾勝(1983)、辻清明(1962)によると、非官吏制度研究を取り巻く環境の厳しさを 垣間見ることができる。その中で研究の質を高めるため、先行研究の歴史的理解と学際的 アプローチを行うことが求められる。
第2章 非官吏制度の成立過程と背景
第2章では、非官吏制度について、雇員、傭人、待遇官吏ごとにその成立過程が述べら れる。
第1節では、雇員制度成立の背景に焦点を当てた考察を行い、次の2つの仮説に基づい た検討が試みられる。すなわち、①「雇員」は明治初期の「雇」が他の職の仕事を吸収す ることにより形成されたこと、②「雇」は官吏の増加抑制手段であり、官吏に準じる者と して官吏を支える「雇員」という新たな階層となったこと、である。
まず、雇とそれに密接に関連する職(使部、仕丁)の変遷を調査することによりこれら の仮説が検証された。さらに、雇とドイツの考え方の両者が太政官時代に結びついた結果、
組織の中で制度上も耐え得る雇員制度が形成され、戦前期全体にわたって官吏制度を支え る基盤が築かれたことが明らかにされた。
第2節では、傭人制度の発生過程に重点を置き、次の2つの仮説をもとに検証が行われ る。すなわち、①傭人は明治時代の一定の職名が起源となっていること、②傭人制度は① の職名が整理されて形成されたもので、官吏を支える非官吏という新たな階層として成立 したこと、である。
そして、傭人制度は、①組織の末端を担う人材(雑用職、特定作業職)が不可欠であっ たこと、②職名の多様化と役割の重要性に伴う整理が必要であったこと(特に、陸海軍省、
官庁の現業部門)、という事情から、肉体労働者を中心とする職名を効率的に管理するため に明治時代に形成されたこと等が確認されている。
第 3 節では、待遇官吏制度の発生と定着化について、「待遇官吏とは行政機関の現場を 主に担った特定の職への優遇措置であった」という仮説に基づいた考察がなされる。
その結果、待遇官吏制度成立の諸要素について、先行研究に補足を加えて整理をする必 要があることが明らかにされた。すなわち、①国家が重要と判断する専門職として、国家 の仕事を担ったこと、②財政の国家以外(地方等)の負担、③国家への忠誠の見返りとし ての身分の付与、とすることが、より実態に近いということである。
第3章 非官吏を取り巻く環境の変化と制度の改変
第3章では、非官吏制度について、雇員、傭人、待遇官吏を取り巻く環境変化と制度の 改定状況が述べられる。
第1節では、雇員制度の定着化過程における実態と根拠の関係を調査することで、雇員 が官吏と非官吏の間でグレーゾーン化する過程が確認される。その際、「下級官吏(判任官)
の主な供給源となった雇員に対し、政府が『非官吏』と位置づけたことにより、雇員の曖 昧な立場が形成された」という仮説が設定される。
まず、雇員制度の成立後に変化した雇員の実態に対して、政府は制度見直しを迫られ、
その根底にあった根拠の転換も促された。また、雇員の処遇の決定は「非官吏」という身 分を重視する方向へとシフトされ、非官吏内部でも雇員と傭人の身分的固定化が進んだ。
さらに、政府と国民とで雇員に対する意識に乖離が生じ、雇員は官吏と非官吏の間の中途 半端な存在に置かれた。
第 2 節では、傭人制度の定着化以後について、処遇の観点から制度の改定を考察する。
なお、その主な処遇として給料、任用、公務災害補償制度を取り上げ、鉄道省、逓信省を 中心に分析する。そして、「傭人制度は民間と行政の両者間における処遇のバランスを考慮 しつつ、見直しがなされた」という仮説の立証が試みられる。
給料については、傭人の給料改定は官吏と非官吏の身分秩序の範囲内で行われた。任用 については、鉄道手や通信手という待遇官吏制度が非官吏の動機づけとして活用された。
公務災害補償制度については、傭人の職務の危険性等から早期に制度化されが、組織内で は、非官吏の制度は官吏に後れて整備されたことが判明される。
第 3 節では、待遇官吏制度の定着化以後の動向に注目し、「待遇官吏を取り巻く環境の 変化と制度の改変」に焦点が当てられる。その際、「待遇官吏制度は官吏と雇員・傭人の両 制度の狭間に立つ制度であったがゆえに、その存在意義を『職務の差別化』という形で強 く示す必要があった」という仮説が設定される。
待遇官吏は政府が重点を置く分野において、官吏や雇員・傭人とは別の専門職として、
その存在意義を示した。そして、時代の変遷と共に、そうした異なる分野の横断的な専門 職集団に対して、同一分野内の専門職の階層化という要素が追加されたことにより複合的 制度へと変貌したことが論証される。
第4章 行政調査会による非官吏制度改革と提言後の動向
第 4章では、非官吏制度について、大正 14 年から昭和 2年までの間に、広く行政上の 事務刷新問題を調査審議することを目的として設置された行政調査会による改革とその提 言後の動向が述べられる。
第1節では、雇員、傭人、待遇官吏について、行政調査会による非官吏制度改革という 観点から、「雇員・傭人の給与」、「待遇官吏制度」、「雇員扶助令」が検討の対象として取り 上げられる。これにより、行政調査会による提言は、当時の非官吏制度に関する課題への 抜本的解決には至らなかったことが検証される。
まず、「雇員・傭人の給与」については、両者を同じ非官吏の枠内で捉えつつも、身分よ りむしろ仕事内容を重視した見直しを行うという考え方が打ち出され、新たな処遇のあり 方が示されることになった。次に、「待遇官吏制度」については、対象となる待遇官吏に一 定の歯止めを設けるに止まり、行政機関における位置づけが見送られた。最後に、「雇員扶 助令」については、官吏、傭人との制度上のバランスからすれば制定は必然であったが、
それと同時に身分による処遇の考え方が依然として根強いことも示されていた。
第 2 節では、行政調査会による提言後の非官吏制度改革について、「雇員扶助令」、「待 遇官吏制度」、「恩給法の適用問題」、「雇員、傭人の給与規則制定問題」が取り上げられる。
そして、その進捗状況の確認を通じて改革の全体的特徴の把握を試み、非官吏制度改革に は限界があったことが示される。
非官吏制度改革は実行可能なものから段階的に行われたが、抜本的改革を要する実施困 難なものは後回しや見送りとなった。そして、非官吏の多い鉄道省や逓信省では、政府に よる全体的な改革を補完するための改革を余儀なくされた。官吏減俸問題では非官吏の声
を施策に反映できる仕組みの構築が、事態収束の差となって現れた。さらに、その問題を 通じて非官吏と民間労働者との立場の違いも見られた。その結果、官民の間でさまよう不 安定な立場にあった非官吏は、処遇面での官吏との格差の他、労働運動での民間労働者か らの疎外にも直面したことが明らかにされる。
終章 おわりに
終章では、本論文の到達点の整理と確認および今後の課題について述べられる。
まず、序章で挙げた2つの問題に対する筆者の回答が示される。第 1に、非官吏制度研 究が停滞した理由については、各学問分野の研究意欲や資料の問題もあるが、各分野の研 究の多くが法制度の解釈等に傾斜し実態の把握と分析に必ずしも結実していなかったこと、
また歴史的には外国の言説への依存傾向と個別的傾向の強い議論等があったことも背景に ある。第2に、非官吏制度と官吏制度との関係については、非官吏制度の成立および変遷 過程を通じて、官吏制度との密接な関連が窺われる。その主な論点としては、人件費削減 の観点からの活用とそれに伴う非官吏の処遇の問題の浮上、組織の補強機能としての業務 の代替化と組織の安定性の強化という役割、の2点が挙げられる。
次に、今後の課題として、第一に日本官僚制研究の研究対象から非官吏が除外された理 由、第二に研究対象となる非官吏の範囲の在り方、第三に戦前期の非官吏制度と戦後期の 公務員制度との関連性、についてさらなる考察を深める必要があると考えられる。
4.公聴会における質疑応答の概要
2016 年 1 月 8 日に行われた公聴会における主な質疑応答の概要は、以下のとおりであ る。(以下☆は審査員による質問、★は筆者による答弁)
☆本論文では嘱託が対象外とされているが、正規の官吏および雇員・傭人・待遇官吏と の対比で、嘱託の概数や割合をある程度示すことはできなかったのか。
★嘱託の範囲は極めて多岐にわたり、高位高官に等しいケースもあれば雇員・傭人に近 い仕事をした人々、専門職など多様であるとともに、日本帝国年鑑での資料として示され るのは昭和6年頃からであり、明治・大正期の資料を参照することも困難である。限られ た資料からは、当初は教員を中心に現れ、比較的専門性の強い暫定職が多かったのではな いかと推測できるが、あくまで推測に留まり、制度としての嘱託については、上記の理由 から本論文の研究対象領域からは除外せざるを得なかった。
(なお、この点については指導教員より、筆者が既に、嘱託について未確定の草稿を指導 教員に提出しており、この分野についても研究を進めてきていることが補足説明された)
☆行政の多様なニーズに対応するためには、法令などで自己完結的に固定された正規職 員の制度とは異なる非常勤人事というカテゴリーを作らざるを得ないのではないか、むし ろそうしたことを積極的に認めざるを得ないのではないか、という見解も本論文からの帰 結として言えるのではないか。
★常勤職員・非常勤職員を別制度として設定することはあって然るべきと思われる。し かし、別制度としても同じ仕事をしながら待遇が異なる制度とするには、そこに何らかの 理屈が必要で、戦前期はそれを「身分」という概念で説明することが通用したと考えられ る。近年の官製ワーキングプアの問題も、政策的対応が放置されればいつかまた「身分」
という問題にすりかえられる危険性をはらんでいると思われる。その意味で、今日的な問 題を考えるうえで、戦前期の非官吏制度の問題を参考にすべきである。
☆非官吏の労使関係上の位置づけとして、短期的な労働需要に対応するためのものと、
安価な労働力の確保という2つの側面が考えられるが、本論文では後者の側面が重視され ていると思われる。雇用自体は安定したものという前提に立って、給与や恩給についての 考察がなされているが、暫定的な職としての、非官吏の雇用保障・身分保障の不安定性と いう観点からの論証がやや不十分ではないか。
★雇員は、当初は寧ろ暫定的な性格が強かったといえる。それが次第に下級官吏の仕事 を代替してゆき、常勤型非常勤職といえるようになるのは、明治 20 年頃からである。し たがって、元々暫定的な性格の雇員が、次第に常勤職である判任官の仕事までも代替する ような制度となっていったことが問題であったと考えられる。ただし、雇員のなかで暫定 的な職であったものと常勤的であったものを、具体的に分類することは、現時点では資料 不足であり、今後の課題としたい。
☆戦前期における天皇制のもとでの官吏制度の特質として、叙勲(位階勲等)の問題が あるが、非官吏についてはどうなっていたのか。全く対象外とされていたのか、それとも 何らかのやりかたで叙勲の対象となっていたのか。
★叙勲そのものについては、本論文での考察の対象として欠落してしまったが、待遇官 吏については官費での処遇が定められていたので、その限りで官吏に準ずる形で叙勲を受 けていたと考えられる。雇員・傭人に関しては不明であるが、雇員については、太政官制 時代には退職にあたって国からの「賜金」が支給されていた。内閣制度になった後のこと は不明である。
☆本文の137ページの行政調査会による職種と職名の列挙の記述の部分では、例えば大 学付属病院における職種のなかには、カテゴリーとして括られている職種・職名と実際の 仕事内容とにズレがあると考えられるものもある。事例に即して確認する必要があるので はないか。
★職種と職名については、資料で判明できる範囲で、できる限り慎重に整理してきたつ もりであるが、なお完全に整理しきれてはいない。とくに勅令などに明記されていないも のについては、具体的事例を参照しなければならず、今後の課題としたい。
☆この研究の後に続けて、どのような研究を予定しているのか。
★前述のように、嘱託を主題とした研究を継続してゆきたい。すでに戦中期に司法省が
嘱託をめぐる問題に関する調査を実施し、それらの戦後改革期におけるGHQによる調査 文書との関わりについても論及した草稿を準備している。これらのことも含めて今後の考 察の対象とし、研究のさらなる精緻化を進めてゆきたい。
以上の質疑応答と並行して、審査員より以下のような助言や希望が述べられた。
*明治初期の官僚制が律令時代からの制度に由来する部分を継承していることに鑑み、
今後は、古来からの日本の官僚制の特質との関連性にも目を配った研究を期待したい。
*第2章で、使部・仕丁の雇への移行をめぐる大隈重信の提言が取り上げられているが、
最近早稲田大学の大学史資料センターで大隈重信宛の書簡を編纂した資料が公開されてお り、そのなかに使部・仕丁なみの報酬で正規の官吏が使われていることについての不満や 批判に言及しているものがある。今後の研究資料として活用してほしい。
*第4章で扱われた、減俸問題での鉄道省や逓信省の事例に見られるように、国家官僚 制のなかで、官吏と非官吏という本来的に異なる雇用関係を有するにも関わらず、国家と の帰属性を前提とするメンバーシップ型の組合的な組織化に非官吏が取り込まれていたこ とが本論文で明らかになったと思う、このように考えると、近年の官製ワーキングプアの ように非正規職員をめぐる問題は、そうした戦前期に見られたような官吏と非官吏とをメ ンバーシップ型の組織化へ組み込むという観点が失われたことに起因するのではないかと も考えられる。その意味で英文タイトルにつかわれているnon-public employeesという 表現は、ただちに変更する必要はないが、今後一考を要する。英語圏の人々からの理解と いう意味で、non-public servantsと表記することの適切性を考えてみてほしい。いずれ にせよ、英語表記ひとつでも、そこから広範な議論が展開される可能性があることを、今 後の研究において頭にいれておいてほしい。
5.総合評価
大学院社会科学研究科の規定する博士学位論文審査基準の各項目に基づく評価は、以下 のとおりである。
(1)着眼点、方法、内容、結論等におけるアイデア、独創性
冒頭の「本論文の目的と意義」で述べたとおり、政府公共部門における非正規職員の諸 問題の分析という問題意識から、日本における官僚制研究、行政史研究の巨大な空白部分 である「非官吏」に着目した点に、着眼点の独創性が認められる。そして、それらが体系 的な「制度」として形成される歴史的経緯の解明を通じて、「官吏制度」との接点と乖離を 明らかにしようとしている点で、本論文の着眼点とそれに基づく方法と内容等における独 創性を高く評価できる。
(2)論文テーマの設定の妥当性、重要性
戦前期の非官吏制度自体が、極めて多義的で複雑かつ曖昧な内容を有するまま展開され たことに鑑み、その起源にまで立ち戻り、明治維新直後の成立過程とその後の変遷を主題
とし、任用形態や職種、組織上の位置づけ、給与や恩給などの人事行政における主要な要 素を、できる限り具体的な事例に即して、考察の対象としていることは、行政史研究とし て妥当かつ重要な意義を有する。
(3)テーマに応じた論文構成の妥当性
第1章で各研究分野での先行研究の到達点と課題が整理され、それらを踏まえて非官吏 制度を構成する「雇員」「傭人」「待遇官吏」の各カテゴリーが、それぞれの起源から成立 及び変遷について時系列的に構成されている。一部に、時系列的記述が重複または前後す る部分もあるが、全体として、変化と問題点を理解しやすいように配慮されている。なお、
前述の質疑応答でも取り上げられているが、参照すべき資料も少なく仕事の内容も組織上 の位置づけも極めて多岐にわたり、制度として体系的に把握することが困難であった「嘱 託」を対象外としたこと、及び研究対象の時期を、官吏制度・非官吏制度の両方を通じて 異例の事態を迎える戦中期の前までに留めていることは、いずれもやむを得ざる妥当な判 断といえよう。
(4)先行研究のサーベイをふまえた専門分野における貢献度
行政学、行政法学、労働経済学、歴史学などの各分野の先行研究について、戦前期にま で遡って主要な文献の紹介と解釈がなされ、特に日本官僚制研究、行政史研究の分野では、
初めて「非官吏制度」を主題として取り上げた本格的研究の萌芽であり、その意味で学問 的貢献度は極めて高いと評価できる。
(5)データや資料に裏付けられた実証性
現存する一次資料をできる限り丹念に渉猟・分析し、さまざまな時系列的変化が、筆者 自身によって独自にグラフ化、図表化されて、非官吏制度における諸問題の量的・質的な 変化と変遷を理解しやすくする工夫がなされており、十分な実証性をもつ記述内容となっ ている。
(6)論旨展開における論証力、説得力
先行研究が極めて乏しいがゆえに、何らかの既存の理論やモデルを用いた論証の作業に は限界があり、また参照しうる資料が限定されているために一部に推測の域に留まる記述 があるものの、全体として、時系列的な変化とその因果関係を一次資料に基づいて推察す るという論証の作業が積み重ねられることによって、十分な説得力を有する内容となって いる。
(7)専門用語や概念の使い方における正確さ、妥当性、充分性
先行研究が豊富な「官吏制度」と異なり、「非官吏制度」については、先行研究において 明確に定義されていない用語や概念が散見される。また、公的資料のなかにも統一化され た公式用語が少なく、資料中の用語にも統一性が欠如している。こうした制約のなかで、
筆者はそれらを極めて慎重かつ丁寧に扱っているとともに、現代では人権や社会的差別に 関わるとされる用語についても、周到な配慮が払われている。
(8)引用の仕方、注のつけ方、資料の利用の仕方、文献リストの作り方における正確さ 等
いずれも適切に表記され、特段に問題はないと判断される。
(9)社会科学研究科の独自性から要請される学際性、実践性
およそ「政府公共部門における非正規職員の問題」という主題そのものが、行政学、労 働法学、労働政治学、労働経済学、社会政策学などの諸分野を横断する学際的な研究テー マである。加えて、本論文では明治維新以後の日本の近代化の諸側面をめぐる法制史、社 会史の分野との関わりが重視されている。本論文では、これらの分野における研究成果と 到達点が整理され、それらの知見に基づいた筆者の観点が、論文構成と内容に反映されて いる。それゆえ、政府公共部門における非正規職員の多様な問題点について歴史的展開を 踏まえた研究の今後の展開に対し、大きな実践的意義を有する。
(10)論文全体としての卓越性
以上のように、本論文は、上記9項目の審査基準の何れにおいても、十分な評価に耐え うる内容を有し、日本の官僚制研究、行政史研究の分野に新たな地平を拓く優れた卓越性 をもつ学術論文であると評価できる。
6.残された課題
本論文において残された課題としては、前述の概要および質疑応答でも触れられたよう に、主に以下の3点を挙げることができる。
第一に、本論文の内容と時系列的につながる戦中期と戦後改革期の非官吏制度の変遷と の関係である。特に、戦中期における大量の非正規職員の動員、終戦直後の官公労働運動 の激化のなかでの非正規職員のあり方、1940年代後半における国家公務員法および地方公 務員法などの制定過程において、非官吏制度をめぐる議論がどのように展開され、戦後日 本の公務員制度の設計と法制度の整備のなかにどのように収斂されていったのか、といっ た諸点を検討することは、本論文の主題とつながる重要な課題である。
第二に、比較研究による諸外国の事例への視野の拡大と、それに基づく何らかの理論的 アプローチの探求である。とりわけ、終身公務員制度を必ずしも前提としていないアメリ カ合衆国においては、すでに 1920 年代から人事行政に関わる多くの研究の蓄積がある。
それらの研究の蓄積を日本の行政機関における非正規職員の問題の分析視角に適用するこ とにどのような意義と限界があるかを明らかにすることも、本論文の内容の今後の発展に つながる重要な作業である。
第三に、上記2点も含めて、日本官僚制研究全体に占める本研究の位置づけの問題であ る。戦後日本における官僚制研究は、行政権の行使とそれに対する民主的統制との緊張関
係を基本的な価値前提とし、優れて規範的なアプローチに傾斜して展開されてきた。この ようなオーソドックスな研究の展開に対し、行政権の行使をその最末端部分において担っ てきた「非官吏制度」を主題とする本研究には、その焦点の拡散を防ぎつつ、従来の日本 官僚制研究の系譜において如何なる新たな視座設定をなし得るのかということが期待され る。しかし、それは筆者にとって最も重たい根源的な課題であろう。
以上の諸点は、飽くまでも将来にわたって筆者が取り組むべき長期的な課題を列挙した ものであり、現時点での本論文の完成度と学術的価値をいささかも損ねるものではない。
これらの課題への取り組みと成果を期待するに足る見識と力量を、筆者は十分に有してい ると確信できる。
7.結論
以上の所見と評価に鑑み、審査員一同は全員一致をもって、本論文の筆者が「博士(学 術)」の学位を受けるに値すると認める。
審査委員
主任審査員 早稲田大学社会科学総合学術院教授 辻 隆夫
審 査 員 早稲田大学社会科学総合学術院教授 博士(法学) 京都大学 島 善
審 査 員 早稲田大学社会科学総合学術院教授 清水 敏
審 査 員 早稲田大学社会科学総合学術院教授 篠田 徹
審 査 員 拓殖大学前教授 博士(政治学) 法政大学 岡田 彰