• 検索結果がありません。

雑誌名 評論・社会科学

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "雑誌名 評論・社会科学"

Copied!
26
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

勤評闘争下における愛媛県の教師たちの抵抗の源泉 : 職場の手記を手掛かりに

著者 岩月 真也

雑誌名 評論・社会科学

号 103

ページ 89‑113

発行年 2012‑11‑30

権利 同志社大学社会学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012931

(2)

要約:本稿では,政治闘争であったと言われる勤評闘争下における現場教師たちの抵抗の 源泉は何であったのかを,勤評闘争の発端である愛媛県下の現場教師たちの手記を中心的 な資料として検討している。

現場教師たちの手記を整理した結果,次のことが明らかになった。すなわち,現場教師 たちにとっての勤評闘争とは,政治闘争として捉えられていたのではない。むしろ,現場 教師たちから「差別昇給」と捉えられていた評価差による昇給差を職場に持ち込むことを 否とする思想が闘争の源泉となり,「差別昇給」排除の闘争であったことが明らかとなっ た。

同時に,教師たちの抵抗の源泉であった思想に対する理解の深化が必要になることを付 言した。

キーワード:勤評闘争,政治闘争,愛媛県,現場の手記,差別昇給

目次

1.問題の所在 1−1.問題意識 1−2.勤評闘争の経過 1−3.先行研究 1−4.分析の視角 2.愛媛県での勤評闘争

2−1.第一次愛媛勤評闘争:195611月〜19576

2−2.第二次愛媛勤評闘争:19571013日〜19571215 3.勤評闘争下の現場教師たちの抵抗の源泉

3−1.人間関係の連帯と分断 3−2.評価差による昇給への抵抗 3−3.親や住民との関係 4.結論

5.今後の研究課題

────────────

同志社大学大学院社会学研究科博士後期課程

2012912日受付,査読審査を経て20121017日掲載決定

論文

勤評闘争下における愛媛県の教師たちの 抵抗の源泉

──職場の手記を手掛かりに──

岩月真也

89

(3)

1.問題の所在

1−1.問題意識

本稿は1950年代後半の勤評闘争下における愛媛県の現場教師たちの勤評への抵抗の 源泉を探ろうとするものである。

2000年以降,教員評価制度の議論が活発化し,多くの自治体で導入されるに至って いる。また,評価と賃金とを結合させている自治体は一部に過ぎないものの,評価と賃 金との結合に関しては現在もなお議論され続けている。2000年以降の教員評価制度は,

現場教師たちからの強い抵抗を受けた。この抵抗は2000年以降の教員評価制度導入の 時期に初めて生じたものではない。1950年代後半に生じた勤評闘争が発端である。こ の頃にはすでに評価に対する教師たちからの抵抗が生じていたのである。

では,当時の教師たちは何故に抵抗していたのであろうか。この教師たちの抵抗の源 泉−換言すれば,教師たちの抵抗の動機−を探るべく,本稿では教師たちの抵抗の発端 となった1950年代後半の勤評闘争期に焦点を当てたい。教員評価制度の前史である勤 評闘争期に遡り,教師たちの抵抗を整理,分析することによって,現在の教師に対する 評価問題の解決の糸口を提示する。これが本稿の大きなねらいである。

まず,焦点を当てる勤評闘争期を検討する具体的な視角を設定したい。そのために は,勤評闘争の過程を振り返る必要があろう。その上で,勤評闘争に対して先行研究が どのような評価を下していたのかを整理してみたい。以下では,第一に勤評闘争の発端 から沈静化までの過程を提示し,第二に先行研究が勤評闘争をどのように評価してきた のかを検討する。

1−2.勤評闘争の経過

勤評闘争の発端は愛媛県であった。1956年11月,愛媛県では,県財政の赤字克服と いう理由から教師の昇給は7割の者に制限され,その昇給決定に勤務評定が使用される こととなった(愛媛県教員組合編集委員会1958 : 4−6)。その後,愛媛県で勤評問題が 深刻化するなか,文部省は教員の勤務評定を全国で実施する方針を決め,1957年12 月,都道府県教育長協議会により「教職員の勤務評定試案」が発表された。この発表を 受けて各県は1958年4月実施を目指して勤務評定の実施へと踏み切った(高橋1996 : 20)。これ以降,勤務評定をめぐる全国的な闘争が勃発することとなる。

1957年12月22日の第16回臨時大会において,日本教職員組合(以下,日教組と略 する)の小林委員長は次のような非常事態宣言を発した。「権力による教育の統制が,

型にはまった人間をつくりあげ,国民全体を大きな不幸におとしいれるものであること

勤評闘争下における愛媛県の教師たちの抵抗の源泉 90

(4)

は,われわれがあの悲惨な戦争をとおして,骨身に徹するまで思い知らされたことであ った。しかし,戦後十余年をへたこんにち,日本の教育は,ふたたび重大な局面にたた されている。……とくに勤務評定は,近来急速にすすめられてきた一連の反動文教政策 の仕上げをねらって打ち出されたものであることは,疑う余地がない。それは,権力を もって教師をたえず束ばくし,その自由を圧殺しようとするものである。また,それ は,教育の自主性をうばい,創意によるかっ達な教育実践をおさえ,教員組合活動を封 じ込めようとする陰険な意図を含むものである。……こんにちの状況こそ民主教育の非 常事態であることを認識し,覚悟を新たにし,ゆるがぬ団結と統一行動をもって,勤務 評定を阻止し,教育の権力支配を粉砕するため,ねばりづよく強力にたたかいぬくこと を宣言する」(日教組1967 : 347−348)。日教組にとっての勤評闘争は,権力による束 縛,自由の圧殺,自主性の奪取を阻止し,民主教育というものを守る闘争であったこと が伺える。この非常事態宣言以降も勤評闘争は激しさを増し,各地で一斉10割休暇闘 争が行われていた(1)

さらに,1958年9月14日,日教組と日本高等学校教職員組合(以下,日高教と略す る)は声明を出し,9月15日の統一行動突入への決意を表明した。「日教組,日高教は 平和と民主主義を守りぬくため,緊密な共闘をもって第一次行動の体制を固めてきた。

……われわれはあくまで教育の権力支配をねらう勤評を阻止し,反動的文教政策の撤回 をかちとるために全国50万の教師の怒りを結集し,いかなる弾圧をも排除し,既定方 針どおり九・一五全国統一行動をとり,断固たたかう」(日教組1967 : 394)。しかし,

「九・一五全国統一行動は大きく傾斜した。大多数が正午授業打ち切りに突入したのは,

北海道,岩手,山形,宮城,東京,群馬,新潟,京都,大阪,兵庫,和歌山,鳥取,広 島,愛媛,高知の17都道府県にとどまった」(日教組1967 : 395)。1958年10月14日,

15日,16日に第19回臨時大会が開かれた。ここで長谷川都教組委員長は次のように語 る。「九・一五闘争にあらわれた様相についてわれわれは謙虚に反省してみる必要があ る。……父母大衆は教師のたたかいにまだ警戒的であり,勤評が戦争につながると説い てもまだピンとこない。そんななかで組合員も勤評絶対反対のうけとめ方に当惑し,自 信をもって説得に当りえなかった」(日教組1967 : 397−398)。このように勤評闘争に対 する認識は,組合と父母との間でズレが生じていた。

1959年1月,勤評書を強奪された県が36あり,実施延期が山梨,提出拒否が高知,

福岡,規則未制定が北海道,神奈川,長野,京都,提出時期を引き延ばしているところ が大阪,兵庫,徳島であった(日教組1967 : 405)。しかしながら,様々な指摘を配慮 して,多くの都道府県の実際の勤務評定においては,「教職員の勤務評定試案」に盛り 込まれていた相対評価が削除された(高橋1996 : 23)。その後,大半の都道府県で勤務 評定の形骸化が進んでいくのであった。

勤評闘争下における愛媛県の教師たちの抵抗の源泉 91

(5)

1−3.先行研究

以上のような勤評闘争はどのように評価されていたのであろうか。1990年代に入り,

評価と賃金との結合を意図する教師に対する新しい評価制度が議論され始めたのに伴 い,「教師はどこまで評価できるのか」(佐藤・坂本1996 : 1)という観点から,かつて の勤評闘争を検討する必要が生じた。それゆえ,1990年代以降,社会問題にまで発展 した1950年代の勤評闘争の経緯や当時の争点を整理し,教師に対する評価のあり方に 示唆を与える研究がなされるようになった。また,教師を含めた公務員に対する人事管 理制度の構築という観点からも,かつての勤評闘争が扱われている。これら一連の研究 は,かつての勤評闘争を振り返り,そこから得られた教訓を教師に対する新しい評価制 度に活かす意義ある研究と言える。総じて,これら多くの先行研究は,勤評闘争とは政 治闘争であったと評価を下している。

高橋(1996)は「勤評の全国実施をめぐって大きな混乱がおこった第1の理由は,勤 評が政治的に利用されたことにある」(高橋1996 : 23)としている。坂本(1996)は

「当時の社会状況は技術革新による高度経済成長の前期にあって,経営全般の合理化が 要求されるとともに,産業構造の変化や急激な社会変化のおこった時期であった。ま た,大規模な労働争議などの労働運動と60年安保条約改定を迎えての反対運動等が頻 発し,政治的にも不安定な混乱した時期でもあった。これらをふまえて勤評論争(闘 争)を考えるならば,当時の社会的動向に影響を受けた現象としてみることも不可能で はない」(坂本1996 : 34)と見る。日教組の組合費によって運営されていた国民教育研 究所の所員であった深山氏は勤務評定を「校長に勤務評定権限をあたえることによっ て,職場の教職員にたいする『包括的な支配権』をあたえ,それによって,財界や自民 党の要求する反動的な教育の忠実なにない手にしようとするもの」(深山1972 : 62)と している。さらに若井(1996)は,この深山氏の勤務評定に対する見解を踏まえ,「こ のような勤務評定批判が多くの小・中学校等教職員の支持を得て,勤務評定の実施をめ ぐって,長期に及んで熾烈な反対運動が展開され,いくつかの紛争(事例)は,裁判

(い わ ゆ る『勤 評 裁 判』)に ま で 発 展 し た」(若 井1996 : 46)と 述 べ て い る。稲 継

(2006)においても,「教員勤評の問題は,当時の政治的対立軸(「政府・与党自民党」

対「日教組・野党」)が背景にある政治問題である」(稲継2006 : 133)と勤評闘争を見 ている。

一方,1990年代以前の研究においても,勤評闘争は政治問題として捉えられている。

教育の戦後史編集委員会(1986)は,「1950年代後半にくりひろげられた勤評をめぐっ ての保守・革新両陣営をあげての激突は,日本の教育史にとどまらず,戦後史に残る 大事件 といっていいだろう」(教育の戦後史編集委員会1986 : 87−88)と述べてい る。大田(1976)も,「政府・自民党は具体的かつ詳細に教育の官僚統制と日教組対策

勤評闘争下における愛媛県の教師たちの抵抗の源泉 92

(6)

をねらっていたのである」(大田1976 : 272)として,勤評闘争を政治闘争として捉え ている。五十嵐・伊ケ崎(1970)は自民党の「日教組対策の具体的方針」を検討し,や はり「勤評問題が『日教組対策』のひとつとして掲げられ,その線にそって強力に実施 されていったところに,この時期の教育行政上の重大事が政治的傾向を帯びたものであ った」(五十嵐・伊ケ崎1970 : 191)と論じている。

確かに,勤評闘争の経緯を眺めると,勤評闘争は政治闘争であったと言うことは可能 である。勤評闘争に対する日教組の運動には,「平和」,「自由」,「権力統制」,「反動教 育」,「戦争」,「民主主義」,「民主教育」といったタームが頻繁に登場する。勤評闘争が 政治闘争的性格を帯びていたのは事実である。勤評闘争の表面を見ると,文部省や政府 と日教組との熾烈な政治闘争に映る。しかし,これらの先行研究からは,勤評闘争下に おいて勤務評定に抵抗する現場教師たちの姿が詳細には見えてこない(2)。この闘争の内 部はどうであったのだろうか。現場の教師たちはどのように抵抗していたのだろうか。

また,どのような苦労を抱えていたのだろうか。現場の人間模様が見えてこないのであ る。

したがって,本稿ではこれまで十分に検討されることのなかった現場教師の視点か ら,勤評闘争を捉えようと試みるのである。この現場の教師たちの勤評への抵抗を捉え なくては,教師たちが何故に抵抗していたのかが分からない。また,勤評に抵抗する教 師たちの理解に到達することができない。

1−4.分析の視角

勤評闘争をめぐる先行研究の検討を通して,現場教師たちの勤評への抵抗が詳細に描 けていないということが明らかとなった。次に現場教師たちの抵抗を探るための分析視 角を設定したい。

第一に分析の対象は勤評闘争の発端となった愛媛県下の教師としたい。闘争の発端と いうことから,日教組の勤評闘争方針や60年安保闘争という外からの影響が,全国実 施後の他の都道府県よりも弱く,内からの勤評への抵抗を観察できると考えたからであ る。何よりも勤評闘争の発生地を探らねば,勤評への教師の抵抗の源泉には辿りつけな いであろう。

第二に現場教師の抵抗を整理し,分析するために,現場教師たちの声に焦点を当てた い。そこで,愛媛県教員組合編集委員会(以下,愛媛県教組編集委と略する)が編集し た『みんなで斗った64日』(3)を中心的な資料として利用する。これには勤評闘争下の多 くの現場教師たちの手記が掲載されている。この現場の手記を通して,現場教師たちの 勤評への抵抗の姿と抵抗の源泉を探っていきたい。なお,愛媛県下での勤評闘争の経過 については,愛媛県歴史教育者協議会(以下,愛媛県歴教協と略する)が編集した『愛

勤評闘争下における愛媛県の教師たちの抵抗の源泉 93

(7)

媛の勤評闘争』を中心的な資料とする。

なお,勤務評定を実施しようとする者たちの姿も描かねば,勤評闘争の半面しか見え てこないけれど,本稿では現場教師たちの視点からの検討に限定する。勤務評定の実施 者たちから見た勤評闘争は,次の機会に検討することとしたい。

本稿の構成は次の通りである。第2節で愛媛県での勤評闘争経緯を明らかにする。第 3節において,現場教師たちの勤評への抵抗の姿とその源泉を探る。第4節では結論を 述べ,今後の教師に対する評価をめぐる問題を解決するために糸口を提示したい。第5 節では今後の研究課題を記すこととする。

2.愛媛県での勤評闘争

本節では愛媛県での勤評闘争の経緯を第一次闘争と第二次闘争の二つの時期に区分し て見ていきたい。この二つの時期区分と後述する第二次闘争における4段階の区分につ いては,愛媛県歴教協(1973)による区分を踏襲した。第一次闘争は1956年11月か ら1957年6月までの時期である。この時期が勤評闘争の発端である。続く第二次闘争 は1957年10月13日から12月15日までの時期である。この時期が「みんなで斗った 64日」である。県教委はどのように勤評を推し進め,県教組はどのように抵抗してい たのだろうか。また,県教組からは,「民主教育」,「平和」,「自由」,「統制」,「戦争」

という言葉が発せられていたのだろうか。それでは,第一次闘争から見てみよう。

2−1.第一次愛媛勤評闘争:195611月〜1957年6

財政赤字を理由に昇給者は7割に制限されていた愛媛県において,1956年11月1 日,県教委は「1,昭和31年度以降の昇給昇格は勤務評定を参考として行う。2,勤務 評定の要項は教育長において作成する」と決定した。この決定に対して,県教組は「評 定強行」であり,「勤評が,単に昇給とむすびつけるだけでなく,民主的な教育の秩序

( マ マ )

を,何としても破かいするのだというねらいをもつものであるということを裏書してい る」として,11月11日より県庁前でハンストに突入する(愛媛県教組編集委1958 : 5−

6)。この段階の県教組は,勤評と昇給との結合及び民主的な教育秩序の破壊への警戒を 示していた。なお,県教委が発表した「勤務評定案」は,教師一人ひとりに対して,

(1)勤勉,(2)積極性,(3)責任感,(4)速度,(5)確実性,(6)注意力,(7)理解 力,(8)知識と技術,(9)規律,(10)協調性,(11)整理・整頓の11項目それぞれに

ABCDE評定を行ない,これをさらに甲乙丙丁戌の等級に格付けするものであった(日

教組1967 : 309−310)。「甲乙丙丁戌の等級に格付けする」とは相対評価を意味するもの

である。つまり,教師間に序列−差−を付けるということである。

勤評闘争下における愛媛県の教師たちの抵抗の源泉 94

(8)

勤評実施の決定を受けて,1956年11月18日,県教組は松山工業高校にて,県下小 中学校長(4)を約700名集めて,校長会を開催した。校長会は,勤務評定の作成を拒否す ることを決議し,次の宣言文を採択する。「私ども県下800の校長は,差別処遇を前提 とする勤務成績の評定については……この制度が教育の混乱と職場の民主的秩序を破壊 することを確認し,総意を以って,勤務評定は到底行ない得ないことを宣言する」(愛 媛県歴教協1973 : 6)。ここでは勤評が「差別処遇」及び「民主的秩序の破壊」と捉え られている。

県教組と県教委との交渉が1957年1月16日に行われた。県教組は「教育界の混乱を 考え,勤務評定実施について譲歩する。しかし,評定方法については,点数評定をや め,A・B・C標語評定とし,序列をつけない」という譲歩案を提示した。これに対し 県教委は「成績良好で昇給もれの教員にたいする予算面の努力はするが,評定方法は,

あらゆる角度から検討してみて最良の方法であるから,変更することはできない」と言 明した(愛媛県歴教協1973 : 7)。県教組は勤評実施には妥協したが,評定に差をつけ ることには反対している。結果,交渉は決裂することとなる。

交渉決裂後,県教委は1月28までに勤評を終えるよう地教委に要望する。その結果,

評定書提出期限日である1月28日に評定書を提出したのは,松山・温泉の2地区だけ であった。しかしながら,1月28日以降,地教委の圧力によって,435校が評定書を提 出した。さらに,1月31日には,宇和島市内21校の全校長が組合を脱退し,2月3日 には今治市24校の全校長が組合を脱退した。2月4日には,周桑郡(組合員447名)

を除く全地区(組合員数約1万2千名)の評定書が提出された。この危機に対して,県 教組は「現在までの斗争が校長や幹部斗争に終始していた」と反省し,「今後の全組合 員の統一行動により,総力をあげて勤務評定反対,昇給昇格の完全実施の斗争を行な う」方針を示した(愛媛県歴教協1973 : 7)。

1957年1月28日以降,多くの地区で評定書が提出されたものの,2月の県議会では,

昇給追加予算が計上され,9割以上の昇給が決定された。3月26日,約9割5分の者の 昇給が発令された。昇給もれは1分であった。なお,評定書の提出を最後まで拒んだ周 桑郡の教師たちには昇給がなされなかった(愛媛県歴教協1973 : 8)。

県教組は周桑郡および昇給もれになった者を中心とする法廷闘争に入る。一方,県教 委は評定書を提出していない周桑郡教組の校長に対して,懲戒処分の準備を進めてい た。そこに白石県議会議長の斡旋により,「(一)昭和32年度からの勤務評定について は再検討する。(二)校長の処分は撤回する。(三)周桑郡教組組合員に対する昇給は他 郡市並みにする」ということで,県教組は周桑郡の勤務評定書の提出を了承した。周桑 郡においては,周桑郡教組と周桑郡地教委との間で,「(一)不当転任はしない。(二)

昇給に関する差別はしない。(三)32年度からの評定は抜本的に検討する」ということ

勤評闘争下における愛媛県の教師たちの抵抗の源泉 95

(9)

で,勤務評定書の提出が協定されたのだった。しかし,提出された評定書の内容が約束 と異なるという理由で県教委及び周桑郡地教委は評定書をつきかえした。4月4日,周 桑郡内前校長34名の懲戒処分が決定され,減俸1割(4か月)の処分が発令された

(愛媛県歴教協1973 : 8)。評定書の提出拒否をした450人の周桑郡教師の昇給もまたス トップすることとなったのである。

1957年5月26日に開かれた県教組大会では,56年度勤務評定処理に関して,中央執 行委員会は,周桑郡の評定書提出を決定し,5月29日,周桑郡の評定書は県教委が要 求する内容で提出された(愛媛県歴教協1973 : 8)。周桑郡の評定書提出について県教 組は,「これ(評定書提出;引用者)は諸条件の引きかえの約束であったが,あっせん にあたる二県議より,評定提出の事実の上に立たねば,話しが出来ぬと迫られ,やむな くそれに服した点にあり,大衆行動を組まずに妥協に入ったことは非常な失敗であっ た」と語っている(愛媛県教組編集委1958 : 9)。6月18日,議会三派の立会のもとに 県教委と県教組との妥結がなされ,周桑郡の小中学校長に対する処分変更は行わないも のの,周桑郡の教師の昇給割合は7〜9割とされた。この妥協に関して県教組は次のよ うに語っている。「妥結に対する組合員の不満は甚だしくとくに法定斗争の取り下げに たいする不満は最も大きく,執行部にたいする批判はきびしく,組織として重大な危機 にあったことは否めない」(愛媛県教組編集委1958 : 9−10)。

以上,第一次愛媛勤評闘争の経緯であった。勤評による昇給の決定以降,愛媛県教組 は勤評の撤回や評定書提出拒否の闘争を繰り広げたけれど,最終的には,評定書が提出 され,勤評による昇給が実施された。とはいえ,当初昇給もれになっていた教師の昇給 実施は勝ち取っていた。勤評の発端となった第一次愛媛勤評闘争において,勤評への愛 媛県教組の抵抗は,勤評決定直後の1956年11月に叫ばれた「民主的な教育の秩序」や

「職場の民主的秩序」への抵抗という面もあろうが,「差別処遇」撤回への抵抗が前面に 出ていたのであった。

2−2.第二次愛媛勤評闘争:19571013日〜1957年12152−2−(a).第一段階:1957年1013日〜27日

第一次闘争以降も勤評をめぐる愛媛県教組の闘争は継続していた。1957年10月13 日,松山工業高校にて県下全校の職場代表者会議が開催された。ここから第二次勤評闘 争が始まる。この会議には約700名の代表者が参加し,県教組が提案した「1,校長だ けに負担をかけすぎた昨年の斗争を反省し,今年は全組合員による統一行動で斗う。2,

全国的な団結のなかで斗いを推進する」との闘争の基本方針が確認された(愛媛県歴教 協1973 : 10)。

職場代表者会議の3日後である10月16日,県教委は,昨年度と同じ要領で勤評を実

勤評闘争下における愛媛県の教師たちの抵抗の源泉 96

(10)

施し,評定書提出を条件として,1957年度4・7・10月の昇給を行うことを決定する。

この決定を受けて,県教組は10月20日の第56回中央委員会で,「56年度の評定要領

(点数・序列・割合による差別主義の評定要領)が改訂されない限り,評定書を提出し ない」(愛媛県歴教協1973 : 10)とする基本態度を決定した。続く,10月27日には,

松山で総決起大会が開催された。「愛媛県教育委員会は,……再度全国にさきがけて差 別主義の勤務評定を強行しようとしている。本大会は,子供の幸福のため,民主教育の 発展を妨害しようとする県教育委員会と対決して,徹底的に斗う決意を固める」(愛媛

県歴教協1973 : 11−12)との大会宣言がなされた。中央委員会での基本態度や総決起大

会での大会宣言に注目してみると,総決起大会では「民主教育」の妨害という言葉が出 てくるものの,両者に共通しているのは,勤評は「差別」であるとの捉え方であった。

2−2−(b).第二段階:1957年1028日〜11月9

総決起集会の翌日の10月28日,県教委は評定書の提出期限を11月9日と決定した。

この決定の翌日,県教組は各郡市校長代表者会議を開催し,「昨年度の評定要領が改め られない限り提出しない。県教組中斗の指令にしたがって行動する」(愛媛県歴教協 1973 : 12)との基本的態度を確認した。

ここで各郡市教組の闘争を見てみると,総決起大会以降,各地で闘争を繰り広げてい る。松山市教組では,28日に,組合員約60人が,市教委委員長・市教育長と長時間の 交渉を行った。新居浜市教組は,臨時大会で,「地教委との交渉を推進する」,「校長に たいして統一行動をとるように説得する」,「他郡市と同時でなければ昇給を受けな い」,「一,二郡市が評定書を提出するような気配がある場合は,一斉休暇をふくむ実力 行使でこれを阻止する」等を決定する。喜多郡教組では,31日の臨時大会で,「昇給し なくても文句は言わない」,「校長に圧力が加わったときは全組合員で守る」ということ を決定した。伊予郡教組では,教委との交渉をくりかえし,地教委への評定書提出期限 を11月2日から11月4日に延期させていた(愛媛県歴教協1973 : 12)。

結果,松山市,温泉郡,伊予郡の全校長と,越智郡の大多数と北宇和郡の一部の校長 とが評定書を提出したものの,多くの校長は,「勤務成績の評定は教育上支障がありま すので提出致しません」として,評定拒否の態度を堅持した。県教組が提出期限の9日 に確認した提出校は,県下768校中200校(松山市46・温泉郡55・越智郡57・伊予郡

37・北宇和郡広見町5)であった。県教組は,「勝利のうちに第二段階を乗り切った」

としている(愛媛県歴教協1973 : 15)。

2−2−(c).第三段階:11月10日〜11月30

1957年11月10日,今治西高校で,「差別評定反対・教育を守る全県下職場代表者大 会」が開催された。今後の基本闘争方針として,「県教委と地教委に攻撃を集中する」,

「斗争の基本を組合員の団結と意識統一におく」,「学校を包む地域共斗態勢を確立する」

勤評闘争下における愛媛県の教師たちの抵抗の源泉 97

(11)

(愛媛県歴教協1973 : 15−16)と決定した。また,11月15日には県教組第28回臨時大 会が開催され,当面の重点目標を「差別評定の撤回,給与切替えによる差額の即時支 給,従来の昇給内申による早急な完全昇給の獲得,年末手当二ヵ月分獲得,年度末手当 0.15ヵ月分獲得」におかれた。勤評闘争については,「勝利の道は父母大衆と手を結ぶ ことが基本である」と確認し,「地域居住者の組織をつくりつつ,父母に勤評斗争の意 義を明確にし,地域共斗態勢を完成する」という方針が打ち出された(愛媛県歴教協

1973 : 17)。この2つの大会では,勤評が「差別評定」と捉えられているのに加えて,

「地域共斗態勢」・「地域居住者」・「父母」という地域住民や父母が意識されている。こ の背景には県教組勤評闘争に対する地域住民や父母からの抵抗があった。この点は後述 する。

各地区では評定書奪還運動が展開されていた。伊予郡教組では,11月19日の地教委 交渉において,地教委に「現場の教師とよく話し合いたい。県教委から地教委に評定書 を返してもらうよう努力する」と言明させていた(愛媛県歴教協1973 : 17)。

11月25日,自民党県連は議会総会を開き,県教育委員長及び県教育長を交えて,次 のような政策を決定する。「勤評提出ずみの教員に対する昇給および特別昇給措置を,

早急に実施するよう,県教委に勧告する」,「勤評の提出期限を12月10日まで延期する ことを,県教委に申し入れ,評定書提出を促進する」,「延長した期限内にも未提出の教 員に対する昇給措置は,絶対に行なわない」(愛媛県歴教協1973 : 19)。自民党県連は,

この決定を県教委に申し入れ,その実施を促した。この自民党県連の政策に対して県教 組は,「自民党並びに県教委の態度は,教育の主体性を奪うものであり,教育問題であ る勤評問題を,政治問題に発展させるものである。……父母との共斗態勢確立に邁進す る」(愛媛県歴教協1973 : 19−20)との態度を表明した。ここでは政治闘争として勤評 闘争の一面が見て取れる。同時に「父母との共斗態勢確立」も表明されている。

このような自民党県連の政策により,数名の校長は評定書を提出したものの,11月30 日の評定書提出累計総数は204であった(愛媛県歴教協1973 : 19−20)。先の提出期限 までの評定書提出校は200校だったので,評定書を提出したのは4校に過ぎないという ことになる。

2−2−(d).第四段階:1957年121日〜15日

1957年12月1日,第2回教育を守る全県下職場代表者会が開催され,県下の評定書 未提出の校長と職場代表者が集まった。そこでは,「差別勤評は絶対に提出しない。……

提出期限である12月10日を突破することによって,要求貫徹を斗いとる」(愛媛県歴

教協1973 : 20)との基本的態度が確認された。一方,県教委は12月6日,「昭和32年

度の4・7・10月の臨時評定の提出については,昭和32年11月7日を期限として文書

・口頭・電話等あらゆる方法をもって提出方を命令したが,貴殿はこの命令にしたがわ

勤評闘争下における愛媛県の教師たちの抵抗の源泉 98

(12)

ず,校長としての職責を完遂しなかったことは,公務員としてまことに遺憾である。……

評定書の受理は12月10日限りとするから,了知されたい」と地教委に指令して校長あ ての業務命令を出した(愛媛県歴教協1973 : 22)。

しかし,校長たちは「順位はつけられね,点数はつけられぬ」と拒否していたため,

県教委は「評定書は全員同点同順位でもよいから提出せよ」と校長に働きかけた。この

「全員同点同順位でもよい」という県教委の戦術に校長の動揺がはじまった(日教組

1967 : 339)。さらに,12月10日,県教委は評定書を提出しないものは処分するとの発

表を行う(愛媛県歴教協1973 : 22)。その後,評定書が徐々に提出されていくなか,10 日の期限にも提出拒否の態度をつらぬく校長もいた。しかしながら,期限であった10 日が14日に延長され,その間,多くの校長が評定書を提出することとなった。

1957年12月11日,県教組中央斗争委員会は緊急戦術会議を開いた。日教組中央委 員長小林武らも参加したこの会議では,「今や愛媛の教育は,暴力化した外部の団体に 破壊されようとしている。われわれは,この段階で,教育現場を守るため,一時教師の 良心を殺しても,評定書を提出して事態を収拾しよう」(愛媛県歴教協1973 : 24)との 確認がなされるに至った。翌12日,県教組第29回臨時大会が開催された。中央斗争委 員会は,事態の収拾ために評定書の提出を提案し,「現在の態勢で斗いぬくべきである」

(愛媛県歴教協1973 : 24)という強い意見がありつつも,時間を延長した討議の結果,

評定書提出の提案が可決された。

県教組第29回臨時大会と並行して,県議会の社会党・中正クラブ議員による斡旋活 動がすすめられ,妥協的な県会議長の斡旋案を受諾するに至った。12月15日,県会議 長は,県教委に対して,「将来紛争を生じさせないために,次の措置を直ちに講ぜられ たい。県教委は,全国教育長協議会手引案,地教委・校長の意見を参考として,勤務評 定要領を立案し,(ロ)に定める諮問機関の審議の結果を尊重して,次回より実施する。

(ロ)諮問機関は,県教委の責任において設置する。但し,県教委は,知事および議会 三派の意見を参考として構成員の選任および員数を定める」とし,「今次紛争に関し処 分を行わない」とされた(愛媛県歴教協1973 : 24)。

以上が第二次愛媛勤評闘争である。第二次闘争では,自民党県連の政策という政治闘 争的側面を有しながらも,「差別昇給」への抵抗を中心に闘争が組まれていた。同時に,

地域住民や父母との共闘が盛んに叫ばれていた。

日教組の中央レベルでの勤評闘争は,「平和」,「戦争」,「民主主義」,「民主教育」,

「自由」,「統制」といった言葉が飛び交っていたのであるけれど,勤評闘争の発端であ る愛媛県教組の闘争には,「民主教育」という言葉が垣間見える程度であった。それよ りも,「差別処遇」や「差別昇給」という「差別」という言葉が頻繁に発せられている。

それほど「差別」ということが愛媛県レベルの闘争では重要な位置を占めていたと言え

勤評闘争下における愛媛県の教師たちの抵抗の源泉 99

(13)

る。愛媛県での勤評闘争には,勤評闘争は政治対立・政治闘争という図式が日教組の勤 評闘争ほど鮮明に当てはまるものではなかった。

本節では県教委対県教組という視点から勤評闘争を検討してきたが,現場レベルの視 点から勤評闘争を見てみるとどのように映るのであろうか。

3.勤評闘争下の現場教師たちの抵抗の源泉

本節では愛媛県の職場教師たちの手記を手掛かりに,視点を現場レベルに移して勤評 闘争を検討してみたい。勤評闘争下にある現場教師たちはどのように抵抗していたので あろうか。勤評への教師たちの抵抗の源泉とは何であったのか。また,闘争下の教師た ちの苦労とは何であったのか。

3−1.人間関係の連帯と分断

現場での勤評闘争は教師たちの人間関係を大きく変容させていた。闘争は教師たちを 連帯に導くこともあるが,分断させることもある。

3−1−(a).闘争を通じた連帯

勤評という「差別昇給」が現場教師たちに共通する抵抗の対象となり,現場教師たち が連帯していくケースが多数確認された。「差別昇給の発令が,職場をして,勤務評定 そのもののもつ不合理性,県教委の意図している実態をつかませ,職場の空気を強固な ものにしていった」(愛媛県教組編集委1958 : 136)。「昇給発令に落ちた先生もありま したが,この先生をわれわれ同僚があくまで守りぬくために,精神面だけではなくて,

組合を通じて実際に救済しなくてはいけないという結論を話し合い,地教委,人事院法 廷斗争までつきあげていく覚悟を新たにしました」(愛媛県教組編集委1958 : 63)。「差 別昇給発令で川中の職場に一人の犠牲者が出たが,これは,県教委のいう『成績の悪い 先生は一回昇給をストップして,勉強してもらい,成績がよくなったら昇給さす』とい う項に該当するとは思われない先生であると考えられた。その犠牲者の当人である先生 も気になさり,地教委に『どの点が悪いか』と追及しても的確に返答のもらえないとい う事実が,ますます職場の意思を昂め,不合理な勤評反対,このような犠牲者を出すな の合言葉で強力に押し進めた」(愛媛県教組編集委1958 : 136−137)。

闘争は教師間だけでなく,教師と校長との間にもまた連帯を生みだした。「われわれ は持てる力を充分出して斗った,その結果は提出ということに追いやられたけれども,

勤評のもつ職場混乱,仲間同志の反目などのねらいは,はねかえし,校長を中心にして おたがいに暖かい手を握り,暖かい言葉をかけあう職場となり,われわれの団結は強固 になった。職場の12名の組合員はよく語った。……12月14日の日までは県下の皆さ

勤評闘争下における愛媛県の教師たちの抵抗の源泉 100

(14)

んと足並をそろえて来れたことをおたがいに喜んでいるのです」(愛媛県教組編集委 1958 : 48)。「評定書提出をせまられつつある時分の職場における校長を中心として教頭 を中核としての全員意識の統一と団結は,他の職場に絶対ひけをとらないという自信に みちたものでした」(愛媛県教組編集委1958 : 63)。

評定書の提出を拒否する校長の苦労に共感した教師は校長との連帯を強めるのであ る。特に「差別昇給」に対して死力を尽くしたと教師たちが校長を評価した場合,その

(ママ)

傾向は強くなる。「校長さん方は地 教 組(5)と職員の間にはさまれて苦しい立場に立たさ れたわけである。……あらゆる苦しみを乗りこえて最後までともに斗って下さった校長 さん方に頭が下る」(愛媛県教組編集委1958 : 88−89)。12月14日の勤評第5次提出日,

「他郡市の提出した学校も相当あり,あるいは?の感もあったが,結論は同じと聞いて

『さすがは』と校長連の信念に大きな信頼を感じた」(愛媛県教組編集委1958 : 67)。

「沈痛な校長の報告には,校長の真情を知れば知るほど,胸をつまらされた。校長先生,

御苦労さんでした。よくがんばって下さいましたと,とりかこんで校長をいたわる職員 の胸のなかには,感謝,感激の気もちこそあれ,愚痴めいたものはなに一つなかった」

(愛媛県教組編集委1958 : 69)。「信義のために初心を貫いた本校校長先生に満腔の敬意 を表している。われわれは常に語り合った。『結果はどうなろうとも,後に尾はひくま い。』と,そのために,どんな些細なことでも腹蔵なく語り合い,討議した。そして,

われわれの心は大きく開け,融け,そして一つに固まっていった」(愛媛県教組編集委 1958 : 72)。

学校現場での勤評闘争は,「差別昇給」への抵抗という共通の目的を教師たちに付与 し,教師たちの人間関係を破壊するどころか,教師たちの連帯を強めさせていたのだっ た。

3−1−(b).闘争を通じた分断

現場教師たちに連帯が生まれることもあれば,分断されることもある。闘争は教師た ちの人間関係を破壊もするのである。「差別昇給」に本気で抵抗すればするほどその抵 抗に屈した者には厳しい。それは同僚間においても教師と校長間においても共通して言 える。

「われわれが苦しい斗いをして困難をしている際に,利敵行為をして涼しい顔をして いる組合員に対しては厳として一線を画すべきだ。なまはんかな温情は禁物だ」(愛媛 県教組編集委1958 : 64)。苦しい戦いであるゆえに生じる分断であろう。

12月10日の最終提出日に評定書を提出した校長に対する怒りと悲しみが綴られてい る。「いよいよ大詰めだ。提出日だ。……緊張した顔,顔,顔……『この段階に至って も,校長先生よ,あくまで反対してほしい,最悪の事態の場合はわれわれにいってもら いたい』と決まった。10時過,ああ,すべては終った。あの終戦勅語をきいた時より

勤評闘争下における愛媛県の教師たちの抵抗の源泉 101

(15)

も,感情がいらだつ。訴える,せめる,なじる…………校長の顔々々々。………語る者 はみな涙だ。『校長先生,どうして……』女の先生が涙声であとが途切れる」(愛媛県教 組編集委1958 : 61−62)。

ある教師は組合を脱退し早期に評定書を提出した校長に対する怒りを表している。ま た,評定書提出の背景には政治的意図を感じてもいた。「われわれの意識を昂める契機 となったものは何か。それは組合脱退校長の不信行為である。生徒の前で,真実を説

( マ マ )

き,信義を重んぜよと説く校長が,なぜ言を左右にしてわれわれを裏ぎり,評定書を提 出したのか。しかも提出校長未だ県下の二割という早い時期に提出したのか,われわれ はここに政治的な意図が含まれているように思われてならないのである」(愛媛県教組 編集委1958 : 64)。

次の手記は評定書を提出した校長の苦労への共感と反感とが入り混じった教師の手記 である。「あれほどの統一行動をとり団結したものが何故くずれたのであろう,皆,手 を取り合ってすすり泣きをする(なかには高く号泣するものもある)校長としても権力 に圧され意志に反する提出を強要されたのだろうが前日まで信頼していたわれわれは強 いショックを受けずにはいられなかった。(このため鼻血を出している方もあり)しか しどのような理由があれ重要な位置にある校長が何故動揺しだし規定通り斗へなかった のだろう,そのうえ県下の提出校が半数に満たない現状にありながら八幡浜の校長先生 のとった態度に一時的反感を覚えたものは私個人のみではなかったと思う。ただ,幸な かりし者の切実なる涙が頬をぬらすのみ各校の校長は職員の要求に依り提出の理由,心 境を涙ながらに述べる校長の苦しい立場を充分承知しながらも最後の斗いと教組全員が 提出書返還を願ったが校長は頑として受けつけ」なかった(愛媛県教組編集委1958 : 66)。

校長に退職を覚悟させられなかったと悔やむ教師の声もある。「退職覚悟の校長」へ の要求をするほどまでに評定書の提出に抵抗していたということである。「地教委の学 校長カンヅメ策によって,われわれは学校長を信頼する以外に仕方なかった。結果的に はその信頼はうらぎられたのであるけれども……。結果的に見れば学校長が一次評定者 としての立場上,提出されたのであるが,ものすごい圧力が校長にかかったことは勿論 である。……退職覚悟の学校長になるまでの後押しはまだまだ駄目だった」(愛媛県教 組編集委1958 : 70)。

評定書提出の怒りは校長にのみ向けられたものではなかった。組合執行部に対しても 向けられていたのであった。12月11日,「ああなんたることか。西条の全評定書が県 教委に提出されているではないか?職場は大さわぎになった。『ダラ幹』『組合無用』

『死んでも申訳がたたんぞォ』『バカヤロウ』。私も腹がにえくりかえる思いだった。……

私も執行部を責めた,執行部も泣きながらあやまった。私も泣いた」(愛媛県教組編集

勤評闘争下における愛媛県の教師たちの抵抗の源泉 102

(16)

委1958 : 58)。

一方,教委からの提出要求と教師たちからの提出拒否要求とに板挟みになり,ついに 評定書を提出した校長は,他の校長はもちろんのこと,教委までも責めることはできな

( マ マ )

かったという。「私は私の苦しかったことを思えば私より先きに提出した郡内N地区の 校長を,南予和郡市の校長を責めようとは思わない。11月9日をこえた校長いずれも

( マ マ )

同志である。11月9日いごに書いたのは書いたのではなくて書かされたのである。ま

た村長も教育委員長も教育長も教育委員長もなんで責められよう。つらい立場で私と同 じように苦しんだ人たちである」(愛媛県教組編集委1958 : 81)。

現場での闘争は,「差別昇給」への抵抗という共通の目的を現場教師たちに持たせる ことによって連帯を生みだし得るのだけれど,評定書の提出という行為は「差別昇給」

への抵抗に屈したと行為とみなされ,その者は裏切り者となる。主としてその裏切り者 の対象とされていたのは校長であった。それゆえ,現場教師たちと校長との連帯は分断 されてしまうのである。

3−1−(c).県教組の闘争方針と現場教師との距離

現場教師たちは,「差別昇給」への抵抗という県教組の闘争方針に対する共感を経て,

闘争していたわけではあるが,一面では闘争への疑問も持ち合わせていた。

斗争委員は次のような闘争への疑問に苦しんでいた。12月7日,「県教組から指令第 7号が届いた。『9日から11日まで職場泊り込みによる斗争態勢を確立せよ』というこ とだった。……『泊りこんだらどうして組織の強化になるんだろうか?』などと思っ た。こうした疑問にたいしてこうだという答えの出せない私がはがいかった」(愛媛県 教組編集委1958 : 55)。また,オルグへの不満をもらす教師もいた。「オルグは情勢を よく判断して弱い危険なところへ派遣するのが得策。県外オルグは自分の勉強に来るの で支援でも応援でもないから不要である」(愛媛県教組編集委1958 : 64)。

勤評闘争が妥協なき闘争に映っており,それに対する疑問も示す教師たちもいた。

「斗争であるのだから,どこかで妥協線を見出していくのが大事であるのに,その点,

( マ マ )

まずい面があつたのではなかろうか」(愛媛県教組編集委1958 : 138)。斗争指導と戦術 に関して,「一本調子で,いのしし的すぎた。もう少し柔軟であれ」との反省の声が上 がっている(愛媛県教組編集委1958 : 146)。

勤評闘争は教師たちが団結し,一丸となって行われたものではあるのだが,この闘争 の内部では,県教組の方針に共感しながら積極的に闘争に参加していた教師もいれば,

県教組の方針に疑問を抱きながら闘争に参加していた教師もいたのであった。

3−2.評価差による昇給への抵抗

教師たちの抵抗が強いが故に,勤評闘争は,学校現場に連帯を生み出しつつ,同時に

勤評闘争下における愛媛県の教師たちの抵抗の源泉 103

(17)

分断も生じさせていた。では,この勤評闘争下の現場教師たちの強い抵抗は何が源泉と なっていたのだろうか。

3−2−(a).「民主教育」への意識

中央レベルの闘争において,日教組は「平和」,「自由」,「民主主義」,「民主教育」,

「戦争」,「統制」,「反動教育」,という言葉を発して,勤評闘争を行なっていた。県レベ ルの愛媛県教組の闘争においては,日教組の言葉と重なるのは,「民主教育」を守る,

という言葉であった。しかし,現実には「差別昇給」,「差別処遇」の阻止という言葉を 中心とした闘争が繰り広げられていたのである。学校現場レベルでは「民主教育」とい う言葉が登場したのか。

「民主教育」という言葉はやはり発せられている。ただし,その言葉を発しているの は,組合の代表者たちであった。彼らは「民主教育」を守り抜く戦いとして勤評闘争を 位置付けていた。東宇和教員組合は次のように綴っている。「校長先生の立場も苦しか ろう。しかしそれにも増して考えねばならぬことは民主教育を守り抜くことが国家百年 の大計をたてる上に何より大切なことか」(愛媛県教組編集委1958 : 86)。西条教組書 記長の荒井行雄も次のように語っている。「勤評斗争は平和と真実を貫く民主教育を守 りぬくという運動であるとすれば,いつまでかかろうが,勤評のもつ意図が完全に粉砕 されるまで,長期にわたろうが,ねばり強く斗わなければならない」(愛媛県教組編集 委1958 : 130)。

愛媛県教組の「民主教育」を守るという勤評闘争の位置づけは,組合代表者には意識 されていた。しかしながら,組合代表者ではない現場教師たちには,そのような意識が 前面に出されることはなかったのである。この両者の勤評闘争に対する構え方にはズレ が見られるのである。では,現場教師たちの勤評闘争は,何に対する抵抗であったのだ ろうか。

3−2−(b).現場での抵抗の源泉

現場教師たちは教師間に「差」が生まれることをとにかく忌避していたのであった。

( マ マ )

ある教師は子どもたちに勤評闘争を次のように説明したと記している。「……エヒメ県

( マ マ ) ( マ マ )

の学校のお仕ごとをして下さるイン会のエイライ人たちが,学校の先生らにケンカやら そうとするから, そんなことはいやです といってきたんですよ。……えらい人らは,

学校のなかで,えらい先生や,あかん先生をつくるように,先生全部にお点をつけな さい と校長先生にいってきたのよ。……先生は,たれ先生にも負けないように一生懸 命やってるつもりですからね。そうでしょ。それにこの学校でも, 誰かを一番にして,

誰かを一番ビリにしなさい といってこられたら,校長先生困られるわね。だから先生 ら,みんなで, そんなことやめて下さい っておことわりしてきたのよ。わかってく れますか」(愛媛県教組編集委1958 : 132−133)。また,ある教師は保護者たちに勤評反

勤評闘争下における愛媛県の教師たちの抵抗の源泉 104

(18)

対の理由を次のように説明している。「私達は勤評に反対しているのではなくて,この いまの勤評では書けません。具体的に点数,序列,割合などを例にとり説明,この勤評 を改定してもらいたいのだと主張しました」(愛媛県教組編集委1958 : 49)。

ある教師もまた勤評を差別と捉え,評定書が提出された後も差別への闘いに向かおう とする。評定書を提出した校長の「どの顔を見ても戦い疲れた様子である。気の毒にと 思いながらも,平然と行われる差別の世のなかのことを考えると是非とも頑張り抜いて もらわなくてはと強い斗志が湧いてきた」(愛媛県教組編集委1958 : 84)。次の教師は 未熟な者と未熟でない者という差を忌避している。「遂に評定書提出の段階がやってき ましたが,われわれ職場としては結局この評定書は不合理なものであって,たとえ,誰 が落ちてもこれはその先生が未熟ではないという確認の上に立って斗いをおし進めなく てはいけないということを全員が認識しました」(愛媛県教組編集委1958 : 63−64)。

次の手記では「差別昇給」に反対していることが確認できる。評定自体は認めている けれど,勤評によって昇給を決めるのは差別だという思想が伺える。1957年10月10 日,「如何に地域での斗争を進めるかに話は集中する。……勤務評定完全反対斗争では なく,愛媛の場合,差別昇給のための反対であることを再確認して,対父兄の要領を 個々が会得し,6時半解散」した(愛媛県教組編集委1958 : 60)。「成績の悪い者を三割 つくるということが無茶なこと」(愛媛県教組編集委1958 : 135)である。差が生じな いように昇給はいらないという姿勢も伺える。12月8日,「第一回の泊り込みのさい,

(ママ)

誰からともなく,『昇給はいらん,昇給を考えとったら斗えん最後はそこえおちつくん

(ママ) (ママ)

じや』『そうだ,そうじや』こんな話がもち上がっていた」(愛媛県教組編集委1958 : 55

−56)。

なお,政治的視点での抵抗については,「自民党に教育を利用される」(愛媛県教組編

集委1958 : 145)という言葉がわずかに見られた程度であった。

このように現場教師たちは,教師間に評価差をつけ,さらにそれを昇給差とすること に忌避感を抱いていたのであった。評価差による昇給差は「差別昇給」と現場教師たち には捉えられ,それは現場教師たちには許されざるものだったのである。注目すべきこ とは,「差」をつけることを忌避する理由は皆無に等しかったということである。現場 教師たちからすれば,「差別昇給」は「こうこうこういう理由で駄目」なのではなく,

「差別昇給」は「駄目なものだから駄目」なものであった。これは理由ではなく,職場 に「差」を持ち込むことは駄目だという思想である(6)

3−2−(c).「差別昇給」を受けた教師たち

現場教師たちが忌避する「差別昇給」は教師に何をもたらしたのだろうか。「差別昇 給」を受けた教師たちの手記を検討してみよう。

次の手記には「差別昇給」を受けた悲しみが表れている。「差別昇給が理由なしに発

勤評闘争下における愛媛県の教師たちの抵抗の源泉 105

(19)

令されある女教師は室にとじこもり三日間親や同僚の慰撫にかかわらず泣きあかした」

(愛媛県教組編集委1958 : 10)。「一女教師は給与事務担当であったためその学校で自分 一人が落ちている昇給調書を泣き泣き作って,淋しく新たな職場へ転任して行った」

(愛媛県教組編集委1958 : 10)。「昇給からもれたのは,もれた同士でなければ話しが出 来なくなった。昇給した同僚の慰めは空々しいものにしか受けとれない,この落ちた者 の苦しみは,落ちたものでないとわからない」(愛媛県教組編集委1958 : 10)。

教師に正気を失わせることもある。「ある教師が昇給しなかったことがPTA幹部か らもれ子どもがそのことを知り,僕らの先生はボロ先生だ,だから授業をうけないと言 い出した。これにたいし,さなきだに自信を失っていた若い教師は怒りを発し授業を中 止するという事態までひき起した」(愛媛県教組編集委1958 : 11)。「ある教師は昇給か らもれ,自信喪失のあまり,精神に異常をおこすにいたった」(愛媛県教組編集委 1958 : 11)。

「差別昇給」により差をつけられた教師たちは,悲しみや苦しみを味わい,正気さえ も失ってしまうのであった。これほど「差別昇給」による差とは,教師にたちにとって 脅威であり,阻止すべきものだった。

3−3.親や住民との関係

現場教師たちは,「差別昇給」に対する闘争を繰り広げていたのであるが,その闘争 にはある障害が立ちはだかっていた。それは,児童・生徒の親や住民たちからの闘争に 対する理解を調達することの困難である。

3−3−(a).親や住民の声

勤評闘争を繰り広げる教師たちは,その闘争の説明に苦心していた。11月25日,

「姉の家が店屋なので,(勤評反対の;引用者)署名簿を置いて帰る」。11月28日,「署 名運動の趣旨が説明できなくて弱ったと姉から抗議をうける」(愛媛県教組編集委

1958 : 54)。松山で開催された全国PTA大会では,「父兄側から『先生方の反対する理

由はどのようなことか』の質問にたいして小中学校の二人の校長先生を始め他の職場の 先生たちが説明し,答えていった」(愛媛県教組編集委1958 : 140−141)。

闘争委員ですら次のような悩みを抱えていた。「このごろよく問題になるのは『日教

(ママ)

組と県教組との斗い方,考え方に相違があるのじやないか』ということ。『以前からも

(ママ)

勤務評定は行われていたのだから勤務評定は認めなければならないのじやない』という こと。『よい先生と悪い先生とがあるのだから,それに区別をするのはあたり前だとい うことにたいしてどう対処したらよいか』ということ。『外の官公署の職場でも実施さ れているのに教組だけが例外であってはいけない」などである(愛媛県教組編集委

(ママ)

1958 : 54−55)。またある教師は,「父母のなかからおこる素 材な声『良い先生とよくな

勤評闘争下における愛媛県の教師たちの抵抗の源泉 106

(20)

い先生はいますよ』『他の職域にも勤務評定はあるのに……』というのにたいして,果 たしてどれだけの先生が,自信をもって,勤評反対の理由を説明できたかと考える時,

( マ マ )

一まつの不安は感ずる」(愛媛県教組編集委1958 : 137)。

勤評闘争に反対する者を次のように語る教師もいる。反対闘争を「否定する人々の大

( マ マ )

多数はただ『生徒に甲乙をつける先生が今度自分たちが評定されることを反たいするの はおかしくどうしても納得出来ない』くらいで,内容もなにも理解していない単なる

『良い先生悪い先生の区別は必ずできるはずであるからいくら先生方とはいえ,評定は

( マ マ )

あっても良いことだ』といったてい度の評定賛成者であった」(愛媛県教組編集委 1958 : 140)。「感情的にものをいっているために,『勤務評定はしてよい。』という人が,

ほとんどだった」(愛媛県教組編集委1958 : 138)。ここには親や住民と教師たちの勤評 に対する思想の対立が表れている。親や住民たちは評価差による昇給差を是とする思想 をもち,教師たちは評価差による昇給差を否とする思想をもっている。それゆえ教師た ちの闘争に対する親や住民たちからの否定的見解が生じるのである。この親や住民たち の闘争に対する否定的見解を教師たちは感情的な見解として受け取っていたのであっ た。

このように親や地域住民からの勤評闘争への無理解に現場教師たちは苦闘していたの である。それゆえ,現場教師たちは様々な働きかけを行っていた。

3−3−(b).親や住民への働きかけ

現場教師たちは父母や地域住民の人々への勤評闘争の理解獲得に向けた活動の必要性 を強く感じている。11月23日,H先生が母親と女教師の会に出席した。「『勤務評定が なぜ悪いのですか,愛媛県の女の先生。生徒に自覚せよ自覚せよと言われると同時に,

自分を省みてはどうですの,私たちは勤評にむしろ賛成で教師の利己的な今度の斗争態 度は何かわりきれんものを感じます。』……と。片田舎の日焼した老夫婦は二千人の会 場で痛烈に勤評を論じ始められたのでした。……こんな報告を聞いた私たちは,如何に 父兄にたいする啓蒙活動が大切であるかを確認する」(愛媛県教組編集委1958 : 60−

61)。「父母,大衆への働きかけは,日常から地道にいっていなかったら,力にはならな

(ママ)

いということをしみじみ感ずる。その都 どでは,われわれの御都合主義を見すかされ て,本当の協力は得られないものである」(愛媛県教組編集委1958 : 137)。「教育実践 の充実より,父母の信頼をかちとることこそ,いままでやれていないところに欠陥あ り」(愛媛県教組編集委1958 : 146)。

働きかけによって勤評闘争の理解が得られる場合もある。「父兄達は勤評になぜ反対 しているかわからなかった」。しかし,「お話を聞いてよくわかりました」という父兄も いた(愛媛県教組編集委1958 : 49)。「署名もあまり気の進むものではないが心臓を強 くしていくと勤評以外に話がはずみ夜おそくなるとその家の人が『明日近所を回って上

勤評闘争下における愛媛県の教師たちの抵抗の源泉 107

(21)

げます』といってほっとしたり,あれこれ説明して『そんなことなら……』とわかって 気持ちよく書いてくれる人もあったが,頭から書いてくれない人もやっぱりあった」

(愛媛県教組編集委1958 : 67)。

また,親や住民の声を次のように分析する教師もいる。「『勤評によって教員に反省の 機会を与える』」や「『教員に努力させるためにはこのような刺激も必要である』」。この ような「保守側の宣伝は相当効果があったよ う で あ る」(愛 媛 県 教 組 編 集 委1958 : 135)。それゆえ,「一般の人は,新聞を信じるのだから,組合もできるかぎり気をつけ て,正しく報道してくれるように,もっていくことが大切であった」(愛媛県教組編集

委1958 : 138)と報道への働きかけも指摘されていた。

このように勤評闘争は周囲の人々にはなかなか理解されていなかった。それゆえ,そ の理解獲得のために,現場教師たちは苦労することとなる。この苦労は教師たちの説明 の不足や報道により生じる面もあろうが,苦労の本質は,現場教師たちの勤評への抵抗 の源泉である「差別昇給」への忌避という思想が理解されない点にある。

現場教師たちからすれば,勤評は評価差によって昇給差を生じさせるから反対なので ある。ここまでは勤評闘争を行なう説明としては成り立つ。しかし,次の段階になると 説明に窮することになる。それは,周囲の人々からの,どうして評価差によって昇給差 を生じさせてはいけないのか,という問いである。なぜなら,現場教師たちが評価差に よって昇給差を生じさせてはならないと抵抗するのは,特定の理由故ではなく,思想故 だからである。あえて,理由を説明するとすれば,評価差によって昇給差を生じさせる ことは駄目なことなので,評価差によって昇給差を生じさせることには反対だ,という ことになる。これでは周囲の人々の問いに答えたことにはならず,当然合意も得られな い。ここに勤評闘争下の現場教師たちの苦労もしくは限界があったのである。

4.結 論

以上,愛媛県の勤評闘争下の県教組の闘争と現場教師たちの闘争の姿を通して,現場 教師たちの抵抗の源泉を検討してきた。以下,明らかにしたことを整理する。

まず,日教組は勤評闘争を,「戦争」,「統制」を拒否し,「自由」,「平和」,「民主主 義」,「民主教育」を守るものであると位置づけ,政府・文部省と激しく対立していた。

この対立は先行研究が述べていたように,政治闘争であったと言える。しかし,勤評闘 争の県レベルの対立において,愛媛県教組は,「戦争」,「統制」を拒否し,「自由」,「平 和」,「民主主義」,「民主教育」を守る闘争というよりも,「民主教育」破壊の阻止を意 識しつつも,「差別昇給」の排除を中心とした闘争を展開していた。この愛媛県教組の 闘争では政治闘争的性質がやや薄くなる。さらに,愛媛県下の現場教師たちの勤評闘争

勤評闘争下における愛媛県の教師たちの抵抗の源泉 108

参照

関連したドキュメント

熊 EL-57m 本坑の6.8,,730mx1条 -0.3% 防波堤 -- ̄ --- -8.0% 80N 111. x2条 24m

(2006) .A comparative of peer and teacher feedback in a Chinese EFL writing class. ( 2001 ) .Interaction and feedback in mixed peer response

 TABLE I~Iv, Fig.2,3に今回検討した試料についての

一丁  報一 生餌縦  鯉D 薬欲,  U 学即ト  ㎞8 雑Z(  a-  鵠99

 中国では漢方の流布とは別に,古くから各地域でそれぞれ固有の生薬を開発し利用してきた.なかでも現在の四川

[r]

16)a)最内コルク層の径と根の径は各横切面で最大径とそれに直交する径の平均値を示す.また最内コルク層輪の

mentofintercostalmuscle,andl5%inthepatientswiththeinvolvementofribormore(parietal