損害保険会社における
巨大自然災害のリスク管理
永 森 満
■アブストラクト
地球温暖化による気候変動や東日本大震災を受けて,家計部門および企業 部門とも,近年,自然災害リスクを保険等により縮小・回避したいとする社 会ニーズが高まっている。
一方,自然災害リスクは保険商品化することが困難な側面を持つことから,
リスク管理手法としては,定量的なリスク量(VaR)計測の他,ストレス テストとの併用が有効とされており,経営陣主導による厳格なリスク評価と 対応策実施が求められている。なお,複雑化する自然災害リスクの評価・管 理手法を高度化していくには,今後一層,産官学の連携が必要となろう。
ERM
の観点からも,巨大自然災害をはじめとした リスク管理態勢の強 化 と リスク対比でのリターン極大化(資本の効率的活用) の双方を実 現し,財務の健全性維持と企業価値の最大化を図ることが,損害保険会社の 重要な経営課題となっている。■キーワード
VaR,ストレステスト,ERM
1.はじめに
2011年は甚大な被害をもたらした巨大自然災害(東日本大震災,タイ洪水
*平成24年6月16日の日本保険学会関西部会特別報告会報告による。
/平成24年9月26日原稿受領。
等)が世界規模で多発した結果,全世界ベースの保険損害額は1,160億ドル
(約9兆円)となり,米国でハリケーン・カトリーナが発生した2005年に迫 る記録的な年となった(出典:スイス・リー シグマ調査 )。一方,わが国 の損害保険業界においては,主力の自動車保険の損害率が高い水準で推移す るなか,低金利,株価下落,円高進行など資産運用環境も長期低迷しており,
巨大自然災害の多発と合わせて,保険引受けおよび資産運用の両面において 厳しい経営環境が続いている。
経済活動のグローバル化・集積化が進むなか,損害保険会社を取り巻くリ スクも多様化・複雑化しており,ひとたび巨大自然災害が発生すれば巨額の 保険金支払に繋がる可能性が高まっている。保険事業の大前提である財務内 容の健全性を安定的に維持するためにも,東日本大震災やタイ洪水などを教 訓として, 巨大自然災害のリスク管理態勢 を一層強化していく必要性が 高まっている。
他方,損害保険会社のリスク管理態勢の今後のあり方としては,従来重視 してきた財務の健全性維持の目的に加えて,リスク保有を収益の源泉として 捉え,取るべきリスクは積極的に取ることで企業価値の最大化を目指す
ERM
(Enterprise Risk Management)態勢 に発展・高度化させていく ことが,喫緊の経営課題となっている。2.巨大自然災害と損害保険会社
⑴ 損害保険会社に期待される役割
損害保険会社は,国民生活・経済をバックアップする重要な公共インフラ として,発生の時期・規模の予測が困難な巨大自然災害に対しても,確実に 保険金支払いを行うという社会的使命を担っている。
地球温暖化による気候変動や東日本大震災を受けて,家計部門および企業 部門とも,近年,自然災害リスクを保険等により縮小・回避したいとする社 会ニーズが高まってきており,損害保険会社に期待される役割は以前にも増 して大きくなっている。
⑵ 自然災害リスクの特徴
顧客からの保険ニーズが高まる一方,そもそも自然災害リスクは以下の特 徴を有しており,保険商品化することが困難な側面を持つ。損害保険会社が,
自然災害リスクを対象とする保険ニーズに応える保険商品を提供するために は,商品設計上の工夫や適切なリスク・コントロールが不可欠である。
① 危険の集積 大数の法則 をベースとした引受が困難であ り,巨額の保険金支払となる可能性がある(地 域的な集積のみならず,事業中断リスクを被保 険利益とする 構外利益保険(CBI) を通じ た危険の集積などがある)
② 逆選択 加入者集団の偏り(リスクの高い契約者に保険 ニーズが偏るケースがある)
③ 広域災害 短期間での損害査定実務の困難性
④ その他留意事項 長期保険に内在する予期せぬ自然災害増加リス ク,インフレ・消費増税リスク
3.損害保険会社における自己資本管理(一例)
⑴ リスク量:99.5%VaR とは
自然災害リスクを含めて,損害保険会社が抱える各種リスクを評価する共 通の尺度として リスク量 がある。リスク量の計測手法としては,VaR や
TVaR(CTE
とも呼ばれ,損失額がVaR
以上となることを条件とした 損失額の条件付期待値)などがあるが,ここでは最も一般的に用いられてい るVaR
について述べる。定義:VaR(Value at Risk)とは,一定の 信頼水準 と 保有期間 のもとでポートフォリオに生じる 最悪の損失 。
説明:たとえば,今後1年間(=保有期間)の保険金支払額を想定する場 合,99.5%(=信頼水準)は起こりえないが,0.5%の確率(200年 に1回)では,生じるかもしれない 最悪の損失 はいくらかを算
出するものであり,それを 99.5%VaR のリスク量と呼ぶ。め ったに起きないが,一旦起きると巨額の損失額となる巨大自然災害 は,リスク量が最も大きなリスク・カテゴリーのひとつである。な お,VaRの信頼水準は任意に設定可能であり,他にも95%(20年 に1回),99.9%(1000年に1回),99.95%(2000年に1回)など が目的別に用いられている。
⑵ リスク量の計測
損害保険会社は,保険引受リスク,資産運用リスク(市場リスク,信用リ スクなど)といった リスク・カテゴリー ごとに,一般的に保有期間1年 として統一的な尺度でリスク量を計測し, 分散効果 (※)を考慮のうえ統合 することで会社全体の リスク量 を算出している。
(※) 分散効果 とは
複数のリスクを保有する場合,(正の)相関の強い複数のリスクを保有 すると リスク集中 が生じるが,相関の弱いリスクを組み合わせること によって 分散効果 を得ることができる。 正の相関が強い とは一方
のリスクが発生する可能性が高い場合に,もう一方のリスクも発生する可 能性も高くなるという関係である。どのくらいの相関があるかを表す指標 として, 相関係数 という指標がある。完全な相関がある場合の相関係 数は1でありリスク量は単純合算となり,全く相関がない場合の相関係数 は0である。また, 全く相関がない訳ではないが,完全な相関がある訳 でもない。 (0<相関係数<1)こともある。以下は,相関係数が 0
0.25 1 の場合を分散共分散法により統合した計算例である(リスク 統合の手法としては,他にコピュラ関数を用いる手法等がある)。
なお,大規模なリスクが発現した場合には,分散効果が効かない可能性 がある点に留意する必要がある。例えば,大地震が発生したときには,株 価や債券価格が下落する確率も上昇し,保険引受リスクと資産運用リスク 間の相関関係が想定よりも強くなる可能性がある。
統合リスク量の計算式:
( 億円) +( 億円) + × . × 億円 × 億円 = . 億円 統合リスク量の計算式: 億円 + 億円 = 億円
⑶ 自己資本管理
損害保険会社は,リスク量と自己資本(経済価値ベース)を比較する自己 資本管理を適切に行うことにより,財務の健全性を確保するとともに企業価 値の最大化を目指している。
本年9月に金融庁が公表した 主要な保険会社を対象とした
ERM
ヒアリ ング結果 によれば,保険会社の自己資本管理手法としては, リスク量が 所定のリスク許容値を超過すると見込まれる場合,リスク削減策や資本増強 策を検討し,超過状態の解消を図る 時価純資産と統合リスク量の差額の 状況を確認し,予め設定したアラームポイントを上回るように管理 など各 社独自の枠組みを構築している。これは保険会社には銀行のような業界標準 的なリスク管理手法が存在しないこともあり,リスク管理ツールや管理方法 が多様であると報告されている。4.自然災害リスクの評価モデル(一例)
⑴ 地震リスクの評価モデル
過去実際に発生した関東大震災を始めとした様々な地震(想定震源域に基 づく仮想地震を含む)を①震源地,②規模を想定して多数発生(モンテカル ロシミュレーション)させ,③各地点の地震動を評価のうえ保有する地震保 険エクスポージャーに基づき④地震動と損害額の関係をモデル化して確率論 的な地震被害予想を行う。
統合リスク量の計算式: ( 億円) +( 億円) = . 億円
⑵ 台風リスクの評価モデル
過去実際に襲来した伊勢湾台風を始めとした様々な台風(仮想の台風を含 む)を①発生点・経路,②規模,③風速を想定して多数発生(モンテカルロ シミュレーション)させ,保有する火災保険エクスポージャーに基づき④風 速と損害額の関係をモデル化して確率論的な台風被害予想を行う。
5.VaR 算出において考慮すべき事項
⑴ VaR の限界
VaR
やリスク評価モデルは,統一的な尺度で損害保険会社の保有するリ スク量を計測する手法として極めて重要かつ有用なツールであるが,次のよ うな限界が存在することを十分に認識する必要がある。①
VaR
は,過去の観測期間に捉えきれなかったストレス事象に備えるこ とが困難であり,また観測期間では捉えられていない環境変化が起きると,将来の予想損失を過少評価する可能性がある。
② 自然災害リスクの評価モデルは,気象学,風工学,地震学,地震考古学,
地質学,流体力学などの広範な科学的知見に基づいて,コンピューター上 に先端のモデリング技術を用いて設計・構築されており,近年,大きく発 展した分野である。一方,東日本大震災の震源域や津波被害(震源からの 距離や地形を考慮した津波高と被害規模等)について,評価モデルに十分 に反映されていなかったことは大きな教訓であり,今後の更なる精緻化・
高度化に向けて多くの課題が存在する。
③ 近年,株式市場の崩壊や巨大自然災害のような極端にまれな頻度でおこ る異常事態が,ファットテール(極端な値をとるサンプル数が多く,裾野 は正規分布よりも広い)の特徴を有する ベキ分布 に従うのではないか との学術研究が注目を浴びている。仮に巨大自然災害が ベキ分布 に従 うとした場合,その発生確率は,正規分布やモンテカルロシミュレーショ ンに基づいて算出されている現在の発生確率より大きい可能性がある。
⑵ VaR 算出における留意点等
損害保険会社が,VaRや評価モデルの 現在の限界点 を超えるべく,
更なる精緻化・高度化を目指して最大限努力することは当然であるが,それ でもなお 限界そのものは依然として存在する との謙虚な基本姿勢を忘れ てはならない。なお,限界を示す事例としては,東日本大震災の他,2008年
のサブプライム問題において全世界で巨額の損失を招いた
CDO(資産担保
証券)が挙げられる。CDOは,金融工学モデルとVaR
に基づいて住宅ロ ーンリスクを加工した金融商品であり,保険と資産運用の違いがあるため直 接の比較はできないものの,その教訓は保険分野でも活かされるべきであろ う。以下にVaR
算出における留意点を列挙してみた。① ブラックボックス化しない。VaRの算出過程や評価モデルのリスク構 造を特定の専門化を除いて理解できない場合,様々な環境変化をタイムリ ーに反映してリスクプロファイルの改善を図ることや,定期的なバックテ ストやモデル検証を適切に行うことが困難となる。
② 信頼水準やリスク許容度に適切な安全余裕(バッファー)を見込む。
VaR
のある程度の計測誤りを見越して,より厳しい信頼水準を採用した り,会社として許容できるリスク量に一定係数(例えば0.9)を乗じてウォーニング(警戒)・ポイント として管理する等。
③ 複数の評価モデルを併用する。自社開発の評価モデルに加えて,社外専 門会社や損害保険料率算出機構の評価モデルを併用することで,自社モデ ルの相対的な甘辛やその理由を評価・検証する。
④
VaR
および評価モデルのみに過度に依拠しない。ストレステスト(後 述6.)やその他定性的なリスク情報を総合的に判断のうえ,引受可否や リスクリミットの設定等,経営判断を行う。6.ストレステスト
⑴ ストレステストの概要
ストレステストとは,例外的であるが蓋然性のあるイベントが発生した場 合を想定し,経営に与える様々な潜在的影響を評価する手法である。このス トレステストは
VaR
の限界を補完するものとして,近年,巨大自然災害や 金融危機などに備えた対策を講じる手法として重要性が増している。ストレステストの実施に際しては,ヒストリカルシナリオ(過去の巨大自 然災害や最大損失事例)の他,先見的(forward looking)な仮想シナリオ
による分析が重要とされている。
⑵ 巨大自然災害を想定したストレステスト
例えば,巨大自然災害をストレスシナリオとした場合,ストレステストの 結果を踏まえて,損害保険会社が対応策の要否を検証すべき主な事項は次の とおり多岐にわたる。ただし,極めて極端なワーストシナリオに対して,コ スト度外視で全ての対応策を講じていたのでは経営そのものが成り立たない。
大切なのは,経営陣の主導のもと,想定したストレスシナリオの 蓋然 性・切迫度 及び リスク対応策の緊急度 並びに 費用対効果 を徹底的 に社内論議のうえ,その必要性の有無を共有化する
PDCA
の取り組みを部 門横断での全社的活動に繋げることである。① 財務健全性の維持・回復
・巨額の保険金支払いによる財務健全性の低下への対応
・保有株・債券等の市場価値下落による財務健全性の低下への対応
・出再会社の信用不安により再保険回収が困難となった場合への対応
・ソルベンシー比率低下および格下げへの対応
・危機時の資本増強策
・危機時のリスク削減策(再保険追加手配,引受制限,事業売却など)
② 事業継続性(BCP:business continuity plan)
・巨額の保険金支払いに備えた流動性確保
・社員・代理店およびその家族の安否確認と支援
・迅速な保険金支払体制の構築,損保業界の連携
・本社機能の維持,代替本社の確保
・顧客情報等を含む
IT
インフラの維持・再構築・通常業務(更改手続き,保険金支払)の継続
・財務健全性懸念,格下げ,自社株下落に伴う自社の信用不安への対応
・風評被害への対応
③ 破綻回避
・他社による救済・買収の申し入れ(候補先の事前選定)
・平時に策定する破綻処理計画(公的支援,ランオフ化,清算・解体等)
リビング・ウィル(生前遺言) (後述7参照)と呼ばれる。
⑶ ストレステストと ブラックスワン
ストレステストにおける仮想シナリオ(例外的だが蓋然性のある仮想事 象)の策定においては,リーマンショック,東日本大震災(原発事故を含 む)など,事後的に 想定外の事象 (ナシーム・ニコラス・タレブ著書の いわゆる ブラックスワン )と整理される重大事象を,如何にして事前に
想定内の事象 として認識・管理できるかも,重要な目的のひとつである。
この場合, 想像力 を働かせたシナリオを策定して 蓋然性 を見極め ることが求められるが,この難易度は相当に高い。荒唐無𥡴なシナリオ(例 えば宇宙人の襲来)では蓋然性があると言えず,誰でも思いつくシナリオで は蓋然性はあってもブラックスワンを見つけ出すことは出来ないであろう。
無論,ブラックスワンを事前に見つけ出すことは容易ではないが,仮に見 つけられないとしても,その過程で行われる全社横断的なリスクアセスメン トやシナリオ策定・対応策検討の取り組みが,確実にリスク管理態勢の強化 に繋がっていくと考える。
筆者の私見として,万が一,発生した場合に甚大な影響を与えると考えら れるリスク事象(必ずしもブラックスワンではない)を幾つか列挙してみた。
この他にも,ブラックスワンとして様々なリスクが考えられよう。
・南海トラフ巨大地震(いわゆる4連動地震)
・世界規模での巨大自然災害の頻発(地球温暖化の影響等)
・太陽風による地球規模の大規模停電(大規模な太陽風が発生した史実)
・小惑星衝突・隕石落下(ロシア等に巨大隕石が落下した史実)
・電磁波によるガン・脳腫瘍リスクの発現
・通信網や経済インフラを停止させる大規模サイバーテロの同時発生
・欧州危機の更なる深刻化とユーロ体制の崩壊
・急激な円安を伴うハイパーインフレ
・急激な円高による企業業績の悪化(株価下落)と国内産業の空洞化
・日本国債または米国債の暴落
・近隣諸国での有事
・新型インフルエンザ等によるパンデミック
これら仮想シナリオの策定の一助として,例えば世界経済フォーラムの グローバルリスク報告書 (2011年版)には, グローバル・ガバナンスの 欠如 規制コスト インフラ整備への過少投資 沿岸部の洪水 データ の不正利用 などが新興リスク(New risk)として取り上げられている。
社内の限られた知見のみでは ブラックスワン を予見することは困難であ り,外部知見から幅広くリスク情報を収集し,自社リスクとして波及する
ストレスシナリオ の設定に活用することが有益である。
⑷ ストレステストの更なる活用に向けて
ストレステストは
VaR
との併用が有効であり,ストレステストを用いた 議論に経営陣が自ら積極的に関与することが求められる。ただし,例えば 関東大震災を上回るマグニチュードの巨大地震 と言っ たシナリオは,めったに起こらない極端な事象であることから,想定したシ ナリオ下での結果を理解できても, 手触り感がない リスク対応策の切迫 度が判らない などの理由により,具体的な経営論議に繋がらない場合もあ る。その改善策として,経営陣による積極的な活用を促すためには,例えば 経営陣がシナリオ策定に参加 シナリオの蓋然性の有無に加えて,客観的 または主観的な発生確率を設定(VaRとの融合) または リバース・スト レス・テスト の実施等が有効との報告がある。
ここで挙げた リバース・ストレス・テスト とは,会社の存続可能性を 脅かす特定のストレステスト結果(例えば,規制上の最低自己資本比率を下 回る業務停止命令発令,流動性枯渇,支払不能,人的・施設損害による事業
継続不能 等)をまず仮想シナリオとして想定し,どのようなイベントが発 生すればそうした結果に陥るかを問うことで各事業分野の脆弱性を評価し,
潜在的な破綻要因やリスク間の相互作用を検証するために有用とされている。
7.保険会社に対する規制動向
⑴ 大手金融機関に対する規制強化およびグローバル化
2008年のリーマンショック後の世界的な金融危機では,シティーグループ や
AIG
などの大手金融機関が経営危機に陥り,最終的に公的資金で支援す ることになった。この反省を踏まえて,主要国などの金融監督当局は, 金 融機関が巨大すぎると国際的に影響力が大きすぎて潰せない(いわゆるToo big to fail
) という事態を防ぐために,国際的な巨大金融機関につ いては,一般の金融機関よりも厳しい自己資本規制等を課すことで合意した。その流れを受けて本年7月,保険監督者国際機構(IAIS)は,国際的に 活動する保険グループ (
IAIG) の監督のための共通の枠組み ( ComFrame
) の2012年版ドラフトを公表した。ComFrameは,グローバルな相互連関性 が高まる金融市場にあって金融システムの安定および保険契約者の保護のた めには,クロスボーダーで活動する複雑な保険グループの監督において,監 督者は多国間で効率的に協調及び協力する能力が必要であるとしている。一方,米国の連邦預金保険公社(FDIC)は,2010年,米国の銀行持株会 社傘下の銀行を対象として自ら秩序だって整理・解体することを想定した破 綻処理計画(リビング・ウィル:生前遺言)の策定を求める金融規制改革法
(ドッド・フランク法)を制定し,本年7月,バンクオブ・アメリカや
JP
モ ルガンなど大手金融機関9社が始めて破綻処理計画概要を公表し 納税者負 担や金融システムへの大きな影響なしに破綻処理が機能する と主張してい る(各社は金融当局に数千ページにわたる破綻処理計画を提出しているとの こと)。なお,最終的な破綻処理計画の提出は約125社になるとされている。平時において自ら破綻処理計画を策定しておくことは, 究極のストレ ス・シナリオ とも言えるかもしれないが,これまでのゴーイング・コンサ
ーン(継続企業)を前提とした通常のリスク管理では射程圏外であった。但 し,リーマンショックによって
AIG
が破綻した事実に鑑みれば,将来的に 同様の破綻処理計画の策定が国際的に活動する保険グループ(IAIG)にも 求められる可能性があり,その場合,わが国のメガ損保も対象に含まれるか もしれない。⑵ EUソルベンシーⅡの動向
EU
ソルベンシーⅡは,欧州の保険契約者保護を目的として,EU域内の 保険会社に対して統一的な規制・監督を行うことを目的として検討が進めら れている。EUソルベンシーⅡは,先行する銀行業界のバーゼル規制との整 合性を重視しており,新しい資本要件・リスク算定(第一の柱),ガバナン ス・ORSA報告書(第二の柱),報告基準(第三の柱)の三つの柱から構成 されている。導入時期については,進行中の欧州危機等の影響から2014年1 月以降となる可能性が高まっている。わが国の保険会社にとっても,EUソルベンシーⅡの影響は,EU域内に グループ会社を持つ場合に適用対象となるだけではない。金融規制のグロー バル化の流れのなか,金融庁も現在のソルベンシー規制の見直しを検討して おり,2015年度から適用される可能性が高いと言われていることから,規制 見直しを先取りした形での対応が求められている。
⑶ 巨大自然災害のリスク管理に与える影響
大手金融機関に対する国際的な規制の強化・統一化の動きが強まるなか,
損害保険会社にとって最大のリスク要因のひとつと言える巨大自然災害リス クに関しては,今後より一層,リスク管理の強化とリスクに見合った自己資 本手当を求められる可能性がある。
例えば,EUソルベンシーⅡの他,導入が検討されている国際会計基準
(IFRS)においては,保険負債を経済価値ベースで評価することが基本とさ れている。この仕組みのなかでは,巨大自然災害のような保険金支払いの発
生頻度と支払金額のボラティリティが高い保険商品については,リスクマー ジンとして追加的な自己資本が求められる可能が高いと言われている。現時 点で自然災害リスクの取り扱いについての詳細は未定であるが,求められる 自己資本(=算出されるリスク量)次第では,商品設計,料率設定およびア ンダーライティングにも大きな影響を与えかねない。
なお,これらの規制強化は,保険会社のリスク管理と経営戦略を一体化さ せ,ERM態勢の構築・強化を促すことを目的としていることから, 保険業 界と規制当局の目指すゴールは同じである との認識を共有化することが重 要である。あらゆる規制強化を警戒して原則反対の姿勢を示すのではなく,
国内外の規制当局と十分なコミュニケーションを取り,わが国の損保業界と して あるべき・目指すべき
ERM
態勢 の観点から,適切に意見表明や議 論参加を行っていく必要がある。8.巨大自然災害のリスク対応策
⑴ 残存リスクおよびリスク対応策の評価
既存のリスク対応策の有効性は,①固有リスクと②残存リスクの双方に着 目して評価する必要がある。
① 固有リスク :リスク対応策を実施していない状況下でのリスク
② 残存リスク :リスク対応策では低減できずに残っているリスク 残存リスク が十分に低減できていれば,現在の対応策は有効であり,
特に強化する必要はない。一方, 残存リスク が許容できる水準を上回っ ている場合,対応策の追加・代替を検討する必要がある。
なお,経営レベルで議論すべき複数の重大リスクを視覚的に比較・検証す る手法として, リスクマトリクス が各種文献等で紹介されている。リス クマトリクスの活用例としては,縦軸を リスク顕在化時の損害額(または 影響度) ,横軸を リスク顕在化の確率 として各種リスク(可能であれば 固有リスクと残存リスクの双方)を一覧形式で表記し,リスク対応策の有効 性・追加要否・優先度などが全社横断的に論じられる。
⑵ 自然災害に関するリスクヘッジ手法
わが国の損害保険会社の多くは,国内の自然災害リスクのうち特に台風リ スクと地震リスクについて,固有リスク(グロスのリスク量)にリスク対応 策(リスクヘッジ策)を講じて,許容できる水準まで残存リスク(ネットの リスク量)を低減させている。
自然災害に関する主なリスクヘッジ手法は以下のとおりであり,具体的に は,再保険出再を中心とした複数の手法を組み合わせてリスク削減を行い,
巨大自然災害が発生した場合においても,財務の健全性を維持できるように 管理している。
① 再保険出再
主として比例再保険(任意再保険と特約再保険)と超過損害額再保険特約 を併用している。ただし,近年の自然災害の多発により,国際再保険市場に おける自然災害リスクに関する再保険料が高騰するとともに,元受会社の出 再ニーズが高まる一方,再保険会社の受再余力には限りがあることから,十 分な再保険キャパシティが提供されない状況も一部で出てきている。
② 異常危険準備金
大きな災害など巨額な支払に備えて,損害保険会社が毎決算期に保険種類 ごとに収入保険料の一定割合を責任準備金の1つとして積立てる仕組み。十 分な積立額があれば,巨大自然災害に対する決算上の影響を大幅に低減でき るが,将来的に導入が予定されている
IFRS(国際会計基準)においては,
異常危険準備金および平衡準備金の負債計上が認められない可能性が高いこ とに留意が必要である。
③ キャットスワップ(キャットとは,Catastrophe=カタストロフィの 略)
リスク量が同等と合意できた自然災害リスクを再保険料の授受を行わずに リスク交換する再保険取引。わが国の損害保険会社が台風リスクや地震リス クを出再し,海外の自然災害リスク(米国ハリケーンリスク等)を受再する ケースが多い。
④ キャットボンド
自然災害(台風・洪水・地震など)が発生した場合には,投資家の償還元 本が減少する仕組みの債券。再保険キャパシティの不足を補う手段として発 行額が近年増加している。資本市場の巨大なキャパシティが活用できるとと もに,投資家サイドからみても株や債券などの金融商品とのリスク相関が低 く分散効果が期待できるとして認知度が高まっている。なお,損害保険会社 としての課題は,通常の再保険と比して相対的にコスト高になること,投資 家向けの説明資料(発行目論見書)の作成などに長期の準備期間と実務的負 荷を要すること,回収要件を震度・マグニチュードや評価モデル計測額とし た場合のベーシスリスク(実損額とキャットボンドからの回収額との間に乖 離が生じるリスク)が残ることなどがある。
⑤ 再保険プール
多数の保険会社が各自の引受けた保険契約の全部または一部をプールし,
それを個々の加盟会社の引受能力,実績等を考慮して,あらかじめ定められ た配分割合により加盟会社へ再配分する仕組み。
⑥ 政府再保険
家計地震保険等,政府が 再保険 という形で損害保険会社をバックアッ プする仕組み。
9.海外自然災害のリスク管理
⑴ 海外事業拡大と海外自然災害リスクの増加
わが国の損害保険会社の多くは,国内の損害保険市場が成熟化するなか,
M&A
や海外源泉リスクの受再等を通じて,高い成長が見込まれる海外保険 事業の拡大を図っている。海外保険事業の拡大に伴い,保険引受リスクポー トフォリオに占める海外自然災害リスクの増加が今後も予想される。⑵ 海外自然災害のリスク管理における主な検討事項
海外自然災害のリスク管理における主な検討事項は以下のとおりであり,
わが国の損害保険会社は,昨年のタイ洪水などを教訓とし,リスク管理態勢 の一層の強化を図っていく必要がある。
① 海外自然災害に関するリスクアペタイト(取るリスク取らないリスク)
およびリスクリミット(経営レベルで策定する最も重要な基本方針)
② 地域別・ペリル(補償対象リスク)別の集積リスク管理
③ 地域的に分散した自然災害ポートフォリオの構築
経済規模に応じて保険ニーズが生じることから,これまでの海外自然災 害リスクの保険市場は,米国の地震とハリケーン,欧州の強風,日本の地 震と台風等に偏っている。ただし,今後は中国やインドを初めとした新興 諸国の経済発展に伴い保険市場も拡大が予想されており,地域的に一層分 散した自然災害リスクのポートフォリオを目指すべきである。
④ 自然災害リスクに関する分析手法および評価モデルの高度化・精緻化
⑤ リスクに見合った商品設計,プライシング(料率設定),アンダーライ ティング(商品開発部門との連携)
⑥ 事業年度利益の下方変動性の検証
ある自然災害リスクの引受けが,200年に1度(99.5%VaR)のリスク 量増加が,長期的な財務健全性の観点から経営上許容できたとしても,5 年 に 1 度(80%VaR)や10年 に 1 度(90%VaR)の リ ス ク 量 増 加 が,
短・中期的な事業年度利益の下方変動要因(例えば 赤字確率 )を高め るものとして経営上許容できない可能性がある。
⑦ 海外自然災害リスクに関する
IR
ステークホルダー(自社株主,国内顧客,格付会社,アナリスト 等)
が,海外自然災害リスクの引受メリットとリスク管理の実態を十分に理解 できるための
IR
が重要である。仮に海外自然災害に関する巨額の保険金 支払が発生した場合,事後的な説明のみではステークホルダーの十分な理 解を得ることが難しくなる。⑶ 海外自然災害リスクの収益性
従来のリスク管理の面からは少し離れるが,ERMの視点から,海外自然 災害リスクの収益性に関して考察してみたい。
既述のとおり,わが国の損害保険会社の保険引受リスク量のうち,大部分 を国内の台風リスクと地震リスクが占めているため,国内の台風リスクと地 震リスクを補償対象とする追加的な保険引受けを行った場合に保険引受リス ク量が直接的に増加するのに対して,あらたな海外自然災害の引受けでは分 散効果分を控除できることから,全社ベースの統合したリスク量の増加額
(限界リスク寄与度)は相対的に小さくなることが期待される。
前述⑵のとおり,リスク管理上の課題は多いものの,分散効果のメリット を享受できる海外自然災害リスクの引受けは,損害保険会社がリスク対比リ ターンを向上させるための有力な方向性のひとつと言えよう。
10.おわりに
財務の健全性維持と企業価値の最大化を図る
ERM
の観点から, リスク 管理態勢の強化 と リスク対比でのリターン極大化(資本の効率的活用) の双方を実現することが,損害保険会社の経営にとって一層重要となってい る。特に 自然災害リスク については,保険料対比のリスク量が相対的に 大きいことから,厳格なリスク管理と合わせて,リスクに見合った相応の期 待リターンを確保できる引受ポートフォリオを構築することが,資本の効率 的活用に面からも極めて重要となっている。なお,世界規模で発生する様々な巨大自然災害に関して,リスク管理の理 論・手法および評価モデルの高度化・精緻化を特定の損害保険会社のみで成 し遂げることは極めて困難と言える。その実現には, 大学・研究機関での 自然災害に関する最先端の科学的知見やリスク管理理論 , 公的研究(中央 防災会議等)や公的サポート(家計地震保険における政府再保険等) ,そし て 民間の保険会社・評価モデル開発会社による実務的なリスク管理ノウハ ウ を融合した産官学の連携が一層重要となろう。
実際,わが国の大手損害保険会社の多くは,台風リスクや地震リスク等の 分析・評価に関して大学との共同研究を行っている。更に,これまでに培っ た自然災害リスクの管理ノウハウを活かして,顧客向けに自然災害に関する リスクマネジメントを支援するとともに,地球温暖化や気候変動問題をはじ めとする 地球環境問題 全般にも積極的に取り組んでいる。
巨大自然災害に対する社会的懸念と保険ニーズが高まるなか,国民生活・
経済に安心と安全を提供すべく,多方面での貢献を目指して行きたい。
(筆者は株式会社損害保険ジャパン勤務)
参考資料
・金融庁(2012)
ERM
ヒアリング結果について・あずさ監査法人編(2009)
ERM
で経営を変えるERM
で経営を変える リスク への戦略的な対応 日経BP
出版センター・松岡 順(2011) 損害保険会社社員のための
ERM
損保総研レポート 2011 年7月号 損害保険事業総合研究所・バーゼル銀行監督委員会(2009) 健全なストレス・テスト実務及びその監督の ための諸原則
・日本銀行(2009)
VaR
の活用と留意点 ワークショップ討議資料②VaRとスト レステスト・日本銀行(2010) ワークショップ:ストレステストの先進的な取組み
・羽原敬二(2012) 保険事業と
ERM:保険事業における ERM
システムの構築 と課題 保険学雑誌 第617号・世界経済フォーラム(2011) グローバルリスク報告書
・スイス再保険会社(2012) 調査:2011年の自然災害と人災 シグマ
・ナシーム・ニコラス・タレブ著,望月 衛訳(2009) ブラックスワン ダイヤ モンド社。