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意識と時間 Consciousness and Time 星野 徹

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(1)

『埼玉大学紀要(教養学部)』第

54

巻第

1

号、2018

意識と時間

Consciousness and Time

星野 徹*

Toru HOSHINO

本論では時間意識と時間の形而上学の関係を検討する。前半部分では時間が流れるという感覚は、

自己は瞬間ごとに全体が余すとところなく存在する三次元的存在者であると誤認するところから生 じた幻想であるとする説を検討する。後半部分では、裸形の時間意識からどのようにして移動する 現在という

A

理論的時間像が生成してくるのかたどる。時間の流れの概念には実体の存在が前提さ れなければならないこと、A理論的時間像は現在主義的世界像と永久主義的世界像の重ね合わせに よって生じたものであることが明らかにされる。

キーワード:不動の現在、現象、実体

私たちの意識は刻々と変化する。音楽を聴けば聞こえてくる音は次々と入れ替わり、浜辺に打ち 寄せる波を見れば波の模様はめまぐるしく変化する。また、様々な言葉が心をよぎり、過去の思い 出が浮かんでは消えて行く。ジェイムズは『心理学原理』の時間知覚に関する章でこうした意識の あり方を滝にかかる虹にたとえている。

見かけの現在の内容は常に流れの中にある。前方から姿を現した出来事は素早く後方へと消えて行 く。そして、それぞれの出来事は移動するにつれて時間的距離を「まだまだ」あるいは「まだ」か ら「過ぎ去ったばかり」あるいは「過ぎ去った」へと変化させる。その間、直観される持続である 見かけの現在(specious present)は、滝にかかる虹のように、その中を流れ行く出来事によって性質 を変化させられることなく不動のまま立ち止まっている(James, 1890/1950, p.630)

ジェイムズによれば時間意識の源泉は変化の知覚にあるのであり、時間の流れを知覚するとは、未 来からやってきた出来事が現在を通り抜けて過去へと消えて行くことを知覚することなのである。

ジェイムズは「虹」と「滝を流れ落ちる水」を時間意識の最小単位である見かけの現在と意識内 容の比喩として用いているが、これを主体と世界の関係についての比喩として解釈することもでき るだろう。出来事は未来の方角から私に近づいてきて私と出会い、そして過去の方角へ遠ざかって 行く。不動の私を様々な出来事が横切って行くのである。私が出来事の中を前へ進んで行くとみな しても同じことである。順番に並んだ出来事を横切って私は未来へと進んで行くのである。私を現 在と重ね合わせれば、現在という時点を未来からやってくる出来事が順番に通り抜けて過去へと過 ぎて行く、あるいは、現在という時点が順番に並んだ出来事の上を未来の方向へ進んで行くという 世界像が出来上がるだろう。

しかし、果たしてこの比喩は適切だろうか。意識は、そして、世界はジェイムズが考えたような あり方をしているだろうか。

ほしの・とおる、埼玉大学大学院人文社会科学研究科教授、哲学

(2)

1 自己と世界

未来の出来事は徐々に近づいてきて、やがてそれを自分が体験することになるということに疑い の余地はないとほとんどの人は考えていることだろう。たとえば、歯医者の待合室で自分の名前が 呼ばれるのを今か今かと待ち受けている状況を想像してみよう。「前の人が呼ばれて診察室に入って からすでにかなりの時間が経ったような気がするが、自分の順番はまだだろうか」などと考えてい るうちにも時間は過ぎ、とうとう自分の名前が呼ばれ、「ついに来たか」と覚悟を決める、といった 類いのことは誰もが経験しているはずである。また、つまらない授業にうんざりしている学生は、

時計を見つめながら、長針が授業の終了時刻にあたる位置に到達するのを待っているかもしれない。

退屈な講義もいつかは終わるのである。

こうした日常的体験が世界と自己のあり方を正確に写し取っているとすれば、世界には現在とい う特別な時点があるということになるだろうし、また、出来事は未来から現在へ、現在から過去へ と時間的位置を移動して行くということになるだろう。そして、人は現在において出来事と出会う ということになるだろう。

しかし、現在という特別な時点が存在し、現在はその時間位置を変えて行くとするいわゆる

A

論的時間像には幾つかの深刻な問題があることが知られている。その一つは次のようなものである。

現在という時点が私たちの存在とは独立に客観的に存在するとすれば、どのようにして私たちは 私たちがいる時点が現在であると知ることができるのだろうか。カエサルは「今私はルビコンを渡 ろうとしている」と思うかもしれないし、大谷翔平は「自分は今大リーグの初マウンドに向かおう としている」と思うかもしれない。そして私は「私は今時間について考えている」と思っている。

三者の判断のうち正しいのはどれだろうか。「それはもちろん私の判断だ」と言いたくなる。しかし、

カエサルがルビコン川を渡る時も、大谷翔平の大リーグ初登板の時も、私が時間について考える時 も等しく存在していて、それに加えてさらに現在という特別な時点が私の意識と独立に存在してい るとすれば、他ならぬ私が時間について考えている時が現在であると私はどうして言えるのだろう か。カエサルにも大谷翔平にも、自分がいる時点こそ本当の現在なのだと主張する権利があるので はないだろうか。

「過去も未来も存在せず、あるのは現在だけだと考えればこうした疑問が生じることはなくなる」

と現在主義者と呼ばれる人たちは主張する。現在主義によればカエサルがルビコンを渡る時も、大 谷翔平の大リーグ初登板の時ももう存在しないのである。したがって、「私は今時間について考えて いる」という判断は正しい判断なのである。私が存在していて時間について考えているということ に疑いの余地はないからであり、それゆえ、時間について考えているこの時が現在であることにも 疑いの余地はないからである1。しかし、果たして現在主義によるこのような解答は疑問に答えるこ とができているだろうか。

現在という特権的な時点の存在をめぐる疑問の背景には次のような思いがあるように思われる。

1

たとえばBourne(2006)は、なぜ私がいる時点が現在であると知ることができるかという問題を「現在問題present problem」

と名付け、現在主義がこの問題を解決できると主張している。

(3)

無限の時間の中で無数の人々が「今~だ」というような今に関する意識を持っていることだろう。

現在が客観的に実在する世界の特性ならば、そのほとんどは誤りであるはずである。現在であるの は無限の時間のほんの一点だけだからである。そうした無数の人々の中で私だけが正しいとすれば それはとても不思議なことではないだろうか。この疑問は次のように言い換えることもできるだろ う。無数の人々のうち、ほんの一握りの人だけが過去でも未来でもなく現在に存在するという特権 を享受していて、その幸福な少数者の中に自分が含まれるとすればやはり不思議なことではないだ ろうか。こうした感覚は、A理論の中でも、過去・現在・未来はいずれも存在しているものの、現 在だけが特別なあり方をしていると考えるスポットライト説や、時間の流れとともに世界の存在者 の総量は増え続け、増え続ける世界の最先端が現在であると考える成長ブロック説を受入れた場合 には次のような問いとして現れることだろう。すなわち、無数の存在者の中でなぜ自分たちだけが 現在というスポットライトを浴びているのだろうか。あるいは、無数の存在者の中でなぜ自分たち だけが世界の最先端にいるのだろうか。

現在主義を採用したとしても事情は変わらない。現在主義によれば存在するのは現在だけなのだ から、今についての意識が存在していれば、それは現在において生じていることになるのは当たり 前のことであるだろう。しかし、ではなぜ他でもなく私が存在という特権を享受しているのだろう か。プラトンや西郷隆盛やシャンシャンの子供などなど無数の人や動物や人工物を差し置いてなぜ この私が存在しているのだろうか。結局、スポットライト説や成長ブロック説に突きつけられた問 いが現在主義においては姿を変えて現れているだけであるように思われる。

私と私の同時代人だけがスポットライトを浴び、あるいは世界の最先端に位置し、あるいは存在 を享受するのはなぜだろうか。スポットライト説や成長ブロック説の場合は、このような問いにさ らに次のような問いも加わる。私のいる時点は常に今であったように思われる。私が

1990

年にいた 時には

1990

年が今であり、私が

2000

年にいた時には

2000

年が今であった。スポットライト説や成 長ブロック説が正しいとすればこれはほとんど考えられないことである。私は生まれてからずっと スポットライトを浴び続け、あるいは、常に世界の最先端に位置し続けていることになるからであ る。そのような特権的な位置にいるのは世界中でおそらく私だけである。なぜ私だけがこのような 特別なあり方をしているのだろうか。

時制の実在を否定する

B論者ならば A

理論の抱えるこうした問題に対して以下のように答えるこ とができる。世界には客観的な現在などというものは存在せず、「今」や「現在」は発話の時点を指 す指標詞(indexical)だとみなせば、こうした問いが生じることもなくなるだろう。私がいる場所がこ こであるように、私がいる時点が今であるということになるからである。だから私はいつも今にい るのである。そして、プラトンにとってはプラトンのいる時点が、西郷隆盛にとっては西郷隆盛の いる時点が今なのである。

こうして、今という特別な時点も、今より前の時間としての過去も、今より後の時間としての未 来も実在せず、時間を構成するのは出来事間の前後関係だけだと考える

B

理論は、今と私の関係を 巡る問題に簡潔な答えを与えてくれる。しかし他方で、B 理論が描く世界には常識に著しく反する ところがある。B理論によれば、私たちが未来の出来事に近づきつつある、あるいは未来の出来事

(4)

が私たちに到来するという日常的な感覚が、また、現在の出来事がやがて過去へと退き、徐々に私 たちから遠ざかって行くという日常的な感覚が、一種の錯覚であるということになってしまうから である。というのも、ジェイムズが指摘するように、出来事が近づいて来るとは、その出来事が現 在の時点に徐々に近づくということであり、出来事が遠ざかるとは、その出来事が現在の時点から 徐々に遠ざかるということでなければならないはずだからである。

出来事は未来から現在に到来し過去へと去るということ、したがって時間が流れるということが 錯覚だとすれば、B 理論は錯覚の由来についてどのように説明することができるだろうか。ヴェル マンの説を検討してみよう。

ヴェルマンは、時間が流れるとは幻想(illusion)であり、この幻想は各時間点において自己が全体と して存在していると考えるところから生じてくるものであると述べている。

未来が何かに近づき、過去がその何かから遠ざかるような何かとは、それが何であれ、異なっ た時間点において同一性が損なわれることなく存在することができるようなものでなければなら ない。そして、我々はそのようなもの――あるいはそのようなものの少なくとも一つの幻想――

を耐続する自己(enduring self)の内に見いだしたのである。・・・時間の中の継起する各時点において 私全体が存在しており、それゆえ、出来事に対して私全体が動いているのである。私が時間の中 を動くと、未来の出来事は私に近づき、過去の出来事は私から遠ざかる。時間が私を通り過ぎる

(pass)という意味において、時間は真に経過する(pass)のである(Velleman, 2015, p. 186)。

物や人はどの瞬間にもその全体が余すところなく現れているとする三次元主義は、物や人が持続 的に存在するとはその全体が時空の中を進んで行くということであると主張する。ヴェルマンによ れば、実際には時空上に延び広がって存在している人を、三次元主義的に、その全体が時間の中を 未来へ向かって進んで行くものと誤解するところから時間が流れるという幻想が生まれてくるので ある2

確かに、私全体が未来へと動いて行くと考えれば出来事は未来から現在、現在から過去へと時間 位置を変えているように思われることだろうし、時間が流れているように思われることだろう。特 に、私は常に現在というスポットライトを浴びながら存在していると考えたくなるのは、私が未来 へ進むことと現在という時点が未来へ進むことを重ね合わせてしまうからであろう。

では、私はヴェルマンが言うように、時空の中に延び広がって存在する四次元的な存在者なのだ ろうか。そして、私が四次元的存在者であると認めれば、時間が流れるという感覚を幻想と見なす ことができるようになるだろうか。

私ではなく私の人生ならば時間の中に延び広がっていると言うことができる。時間について考え ているのは私の人生の一コマであり、食事をするのは私の人生の別の一コマである。私の人生とは こうした私の体験の集積であり、考えたり食べたりといった個々の体験は私の人生の部分、すなわ

2

三次元主義的な対象が持続的に存在するときその対象は

endure

すると言われ、四次元的な対象が持続的に存在するときそ の対象は

perdure

すると言われる。

endure

perdure

に関しては

Sider(2001)の訳者に従って、それぞれ「耐続する」

「延続」

するという語を当てることにする。

(5)

ち時間部分である。では、私も私の人生と同じように時間の中に延び広がって存在しているのだろ うか。私が存在しなければ私の人生も存在しないのであるから、私も私の人生と同じような四次元 的存在者であるとみなされるべきなのだろうか。唯物論的に私とは脳を含む私の身体のことである としておこう。私の身体は耐続しているのだろうか、延続しているのだろうか。

私は、物は実体であり、実体は三次元的存在であると考えている。したがって、この私も三次元 的であると考えている。そして、私が三次元的で私の人生が四次元的であるということに矛盾はな いとも考えている3。しかし、とりあえず、ここでヴェルマンが言うように私は時間上に延び広がる 四次元的存在であると仮定することにしよう。すると、各時点において私の脳は特定の状態にあり、

その特定の脳状態には特定の意識状態が伴うことになるだろう。時刻

t

1には意識状態

a

が、時刻

t

2

には意識状態

b

が、t3には

c

が・・・というように。a, b, c・・・が外界の知覚である場合は、それぞれの 意識状態に外界の状態

a

, b

, c

・・・が対応することだろう。

B

理論的世界においても出来事間の前後関 係は実在することになるので、世界の中では

a

の次には

b

が、

b

の次には

c

が生じるということにな り、それに応じて私の意識状態は

a

から

b

へ、そして

c

へと変遷して行くことになるだろう。私と 世界がこうした関係にあると考えれば、時間が流れるという感覚は払拭されるだろうか。

私が四次元的存在であるとすれば、私の意識状態が

a, b, c

と変化するとき、それぞれの意識を持 つのは全体としての私ではなく、それぞれ時刻

t

1

, t

2

, t

3における私の時間部分であるということに なるだろう。すると、私の意識が

a, b, c

と変化すると言われるとき、実際に生じているのは私の時 間部分の継起に伴う意識状態の継起ということになるだろう。こうした事態において、たとえば

c

が何かに近づきつつあるなどということはあり得ないことになるだろう。c が近づきつつある何か といったようなものは存在しないからである。

c

t

1における私の時間部分にも、

t

2における私の時 間部分にも近づいてはいない。

t

1

t

3の時間間隔も

t

2

t

3の時間間隔も変わらぬままである。また、

a, b, c

が外界の状態

a

, b

, c

を表象するとすれば、同じように

c

である時間が何かに近づきつつある

ということもないことになるだろう。外界においてもやはり単に様々な出来事が時間軸上に並んで いるだけということになるだろう。

しかし、こうした四次元主義的説明を聞かされた人には次のような疑念が湧いてくるのではない だろうか。

私が時間の中に延び広がって存在しているのならば、私の意識も同じように時間の中に延び広が っているはずである。意識が時間の中に延び広がっているとはいっても

a, b, c, d, e・・・といった意識

内容が同時に存在しているわけではないだろう。同時に存在しているとすればそれらは一挙に現前 しているはずであるが、そのようなことは生じていない。それらは同時にではなく継起的に現前す るのである。それでは、時間の中に延び広がった意識の内容が継起的に現前するとはどのようなこ とだろうか。それは時間の中に延び広がった意識を順番に私が意識化するということではないのだ ろうか。私が意識内容を順番に照らし出すことによって、照らし出された意識内容が私に現前する のではないだろうか。

しかし、こう考えてしまっては元の木阿弥である。スポットライトが場所を変えて出現したこと

3

詳しくは星野(2013, 2014)を参照されたい。

(6)

になるからである。世界の出来事を順番に照らし出すスポットライトが、今度は意識の内容を順番 に照らし出しているのである。そして、スポットライトの進む先の意識部分はスポットライトに徐々 に近づき、スポットライトが通過した意識部分はスポットライトから徐々に遠ざかるということに なるだろう。その時々の意識内容と外界の状態が一対一に対応しているとすれば、結局、世界の出 来事の上をスポットライトが順番に照らし出しているということになるだろう。

四次元主義者はこうした疑問に対して次のように答えることができるかもしれない。意識は脳状 態によって実現されると仮定しよう。私の時間部分同士の間には因果関係が成立していて、後続の 時間部分のあり方は先立つ時間部分のあり方に影響を受けている。脳状態もそうである。後続の脳 状態は先立つ脳状態によって影響を受ける。したがって、私の後続の時間部分に宿る意識は、先立 つ私の時間部分の意識内容の一部を引き継ぐことになるのである。t2における私の時間部分の意識 内容には

t

1における私の時間部分の意識内容が何らかの形――おそらくは短期記憶か何か――で含 まれており、t3における私の時間部分の意識内容には

t

2における私の時間部分の意識内容が、さら には、t2における私の時間部分の意識内容を通して

t

1における私の時間部分の意識内容が含まれて いることだろう。このように、時間部分間で意識内容が引き継がれることから流れの意識が生じて 来るのであるが、一つの意識が継続して存在しているわけではない。一つの意識が存在していると いう考え自体が幻想なのである。流れの意識があるのは確かだとしても、それに対応するような一 つの意識の流れがあるわけではないのである。

意識の生成メカニズムは実際に上述のようなものなのかもしれない。それでもやはり時間が流れ るという思いはなかなか消えないだろう。歯医者の待合室で順番を待っている最中に隣に居合わせ た四次元主義者に上のような話を聞かされたとすれば、「しばらくすれば私の名前を内容とする聴覚 意識が生成するということなのだろうか」などと考えることだろう。自分の名前が呼ばれた時には

「これだ、今意識が生成したところだ」という思いが浮かぶかもしれない。それとともに「でもや はり時間は流れているのではないだろうか。まだ先のことだと思っていた私の順番が今やって来た のだから」と怪しむことだろう。しかし、ヴェルマンによれば、こうした思いは名前が呼ばれるの が聞こえた時の意識主体と四次元主義者の話を聞いていた時の意識主体が数的に同一であると思い 込んでしまったところから来る誤解である。四次元主義によれば四次元主義の話を聞かされていた 時の人物と名前が呼ばれた時の人物は、いかに類似していようと異なる時間部分であり、別個の主 体である。したがって、私の名前を呼ばれる時間が私に近づきつつあるなどということはないので ある。

私が未来の出来事に向かって歩んで行く、あるいは、未来の出来事が私に向かって近づいてくる という感覚が錯覚であるのは何も人が時間の中に延び広がって存在している場合だけではない。人 の同一性は身体の同一性であり、身体の同一性にとって身体のどの部分も本質的であると考えた場 合も同じである。人の身体を構成する物質は代謝によって刻々と入れ替わる。待合室に入った時の 身体と診察室に入る時の身体は異なった身体であり、したがって、診察室に数的に同一の人がずっ と座り続けているわけではない。名前を呼ばれる瞬間が刻々と近づいてくるような人など存在しな いのである。

(7)

時間を通じて数的に同一のままであり続ける意識の主体といったものが存在しないとすれば、未 来の出来事が自分に近づいてくるという感覚は確かに幻想であることになるだろう。それでは、時 間の流れも幻想であるということになるのだろうか。出来事が私に近づいたり私から遠ざかったり することはないとしても、時間が流れることは可能ではないだろうか。世界に始まりがあり、世界 に終わりがあるとすれば、世界の始まりは遙か彼方に遠ざかりつつあり、世界の終わりは遙か未来 から近づきつつあるのではないだろうか。世界に私がいなかったとしても、世界の終わりは近づい ているのではないだろうか。あるいは、世界は終末に向かって進んでいるのではないだろうか。

この問題について考える前に、時間概念がどのようにして生まれてくるのか検討しておきたい。

2 意識の流れと時間の流れ

私の目の前を車が横切り、エンジン音が遠ざかり、排気ガスのにおいとアスファルトの熱気が立 ちこめている。私はこのような外界の状態をいつも知覚している。私には車が横切るのが見え、エ ンジン音が聞こえ、排気ガスの臭いとアスファルトの熱気を感じている。こうした知覚体験によっ て私は刻々と変化する外界のあり方についての情報を得ている。ここで、知覚体験から外界に関す る判断を差し引いてみよう。世界についての判断をいわば括弧に入れるのである。すると、現れて くるのは知覚の主体としての私のあり方が刻々と変容する有様である。私の視覚体験や聴覚体験は 時々刻々と移り変わって行く。

ところで、ヒュームが「自己」と呼ばれるものを探しだそうとしてみても、見いだすことができ るのは絶えざる変化と運動の中にある様々な知覚の束だけであると述べたことはよく知られている。

しかし、絶えず変化する知覚の束にあって、変化せずにとどまり続けるようなものは何もないのだ ろうか。変化するとは何かが変化することであり、変化があるためには変化を通じて同一のままに とどまり続ける変化の基体のようなものがなければならないのではないだろうか。

ヒュームは精神を知覚が入れ替わり立ち替わり現れる舞台にたとえた後で、すぐに訂正する。ヒ ュームによれば精神を構成するのは継起する知覚だけであって、知覚が演じられる場所についての いかなる観念も私たちは持つことがないからである。こうして、ヒュームの描く知覚体験からは、

変容する知覚の背後で知覚を支える不動の基体のようなものの存在は完全に排除されることになる のである(Hume, 1739-1740/2007, p. 165)。

外界に存在する物の概念も自己の概念も持つことのない人間をヒューム的人間と呼ぶことにしよ う。ヒューム的人間が持ちうる時間概念はどのようなものだろうか。

知覚の変化に法則性が見いだせないものと仮定しよう。視覚も聴覚も触覚も何もかもが無秩序に 刻々と変容するのである。たとえば、

a, b, c, d, e, f・・・と聴覚が変容するとしよう。視覚でも触覚でも

同じことではあるが、聴覚は視覚や触覚に比べて物との結びつきが希薄であるように感じられるの で、ヒューム的人間の時間意識のありかたを想像するには聴覚をモデルとするのが良いだろう。ヒ ューム的人間は

d

の音が聞こえたときに、dは未来から徐々に近づいてきて、今出現したところだ と考えるだろうか。また、e, f・・・は近づきつつあると考えるだろうか。もちろんそのようなことは

(8)

ない。音の生起に規則性が見いだされない聴覚世界において、未来の音を予期することなどできよ うはずがないからである。突然、ある音が出現し、そして消え去るのである。しかし、消え去った 音が遠ざかりつつあるという感覚を持つことはヒューム的人間にもできることだろう。長期記憶の 機能も短期記憶の機能も持ち合わせているので、彼には

a, b, c

は過ぎ去り、かつ、遠ざかりつつあ ると実感することができるだろう。そして、それとともに

a, b, c

が生起する時点という概念を獲得 することもできるだろう。

a, b, c

が遠ざかりつつあるならば、それらはどこかから遠ざかりつつある のでなければならないだろう。そのどこかを「現在」と呼ぶことにするとすれば、

a, b, c

が生起した 時点が現在という時点から遠ざかりつつあることとして、

a, b, c

が遠ざかりつつあるという感覚を説 明することができるからである。また、

a, b, c, d

の間の順序と間隔の認識を通して、ヒューム的人間 は、出来事間の前後関係と時間の長さの概念を持つことができるだろう。それでは、ヒューム的人 間は通常の人間と同じような時間概念を持っていると言って良いだろうか。

ヒューム的人間の現在と現代の哲学者が考える現在が全く同じというわけではないことは明らか である。たとえば、A理論によれば、現在という特別の時点は、意識主体とは独立に客観的に実在 するものである。過去や未来という時制も同様である。一方

B

理論によれば、時制は実在する特性 ではない。現在とは発話者のいる時点を指すに過ぎない。ヒューム的人間にはこうした

A

理論と

B

理論の対立を理解することができないだろう。ヒューム的人間は自己の概念も自己と独立に客観的 に存在する世界という概念も持っていないからである。しかし、それでもヒューム的人間は客観的 現在という概念を持つことはできるのではないだろうかと思われるかもしれない。果たしてそうだ ろうか。

現在が客観的な実在的特性であるとは、無数の時点のうち一つだけが現在という特性を持つとい うことである。

2018

年が現在であるとは、

2018

年が現在という特性を持つということである。する と、たとえば

2000

年が現在である時や

3000

年が現在である時があることになり、さらに、「2018 年ではなく

2000

年や

3000

年が現在であることも可能だっただろうか」という問いが意味のある問 いであるということになる。では、ヒューム的人間は

d

を聞きながら、「今は

d

だが

b

が現在である 時もあった」と考えることができるだろうか。また、「別の時点が現在であることはありえただろう か」という問いを理解することができるだろうか。

ヒューム的人間は、dを聞きながら「今

d

とは違う種類の音が生じていることもありえたのでは ないだろうか」と想定してみることはできるだろう。「もう少し高い音や小さい音が今生じていたか もしれない」と想像してみるのである。では、「今

d

ではなく

b

の音が生じていることはありえただ ろうか」と考えてみることはできるだろうか。また、「bの音が生じていた時点が今であることはあ りえただろうか」と考えてみることはできるだろうか。ヒューム的人間にとって、今

b

が生じてい ることの想定と、bが生じている時点が今であることの想定に違いはあるだろうか。

a, b, c, d, e・・・は、ヒューム的世界において、物の性質でもなければ聴覚主体の様態でもない。

物も自己もヒューム的世界には存在しないからである。

a, b, c, d, e

は現象であると言いたくなるかも しれないが、現象とは言っても、それは何かの現れといった意味での現象でもなく、何かに対する 現れといった意味での現象でもない。ただそれだけがあるような純粋の現象である。a, b, c, d, e・・・

(9)

が純粋な現象であるような世界において、今

b

が生じていることと、bが生じている時点が今であ ることを区別することはできるだろうか。区別することができるとすれば、今

d

ではなく

b

が生じ ることや、bが生じた時点が今であることはありうることになるのだろうか。

ヒューム的人間に反して、一方には知覚主体が、他方には外の世界に音源があるとみなすとすれ ば、音は主体と音源によってそれぞれ個別化することができるようになる。たとえば、お寺の鐘の 音を二人並んで聞いている場合、二人は同じ鐘の音を聞いていると言うことができる。二人の聴覚 体験は同じ鐘の一撞きによって生じているからである。しかし、二人の聴覚体験はいくら似ていて も数的には別個の体験である。聴覚主体が二つあるからである。

こうして、常識的世界観に従えば、「あの音がもう少し大きく聞こえれば良かったのに」などと思 ってみることができる。同じ音がもう少し大きく聞こることもありえたはずだと考えることができ るのは、私たちが音を音源によって個別化しているからである。私が音源にもう少し近いところに いれば、あの音はより大きく聞こえていたかもしれないのである。あるいはまた、「私の耳がもう少 し敏感だったならばやはりあの音はもう少し大きく聞こえていたかもしれない」と考えてみること もできるだろう。音源が同じであれば、聴覚主体である私の耳の状態によって音の聞こえ方が違っ ていても数的に同一の音が聞こえていると言うことができるのである。さらに、同じあの音がもう 少し後に聞こえていたかもしれないと想定してみることさえできる。音源からより遠い位置にいた とすれば、あの音は実際に聞こえてきた時刻よりもわずかばかり後の時刻に聞こえていたことだろ う。

それに対して、音源の存在も聴覚主体の存在も受入れないヒューム的人間にとって、音は、音の 高さや大きさや音色などの音の性質と音の時間位置によって個別化される他はない。そして、音

b

の時間位置を、たとえば「a

c

の間に位置する音」のように、他の音との関係によって確定するこ とはできない。そのためにはすでに

a

c

の時間位置が確定していなければならないからである。

ヒューム的人間は、結局のところ、現在との時間的距離によって

b

の時間位置を確定することにな るのである。それゆえ、b が現在生じるといったことは不可能である。現在から一定の距離を持っ た過去の時点に生じたということが

b

の本質的特性の一つであるからである。bが現在生じている ことを想定しようとしても実際には

b

と質的に同一の、しかし、数的には異なった音が生じている こと想定することができるだけである。では、b が生じている時点が今であることの可能性に関し てはどうだろうか。

b

が現在生じることと

b

が生じている時点が現在であることの違いは、人や物の場合には明白で ある。私たちは「徳川家康が現在存在することは可能だろうか」と思いを巡らすことができるし、

「徳川家康の時代が現在であることはありうるだろうか」と考えてみることができる。この二つは 違った事態の想定であることは明らかである。「徳川家康が現在存在することは可能だろうか」と考 えるとき、私たちは、16世紀に生まれたあの徳川家康が

20

世紀に生まれ、2018年に存在している ということはありうることだろうかと考えているのである。一方「徳川家康の時代が現在であるこ とはありうるだろうか」という問いは、たとえば、関ヶ原の戦いが起きた

1600

年が現在であること は可能であるだろうか、といった類いの問いである。もちろん、徳川家康の本質には

16

世紀生まれ

(10)

であることが含まれているかもしれないし、現在という特権的時間など存在しないのかもしれない。

徳川家康が

2018

年に存在することは形而上学的に不可能であるかもしれないし、1600年が現在で あるという想定は結局のところはナンセンスであるのかもしれない。しかし、それでも私たちは二 つの問いの違いを理解することができる。それは、徳川家康が人であり、人や物は時間位置以外の 特性によって個別化することができるように思われるからである。そしてそのようにして個別化さ れた徳川家康について、「彼が現在存在することはありえただろうか」と問うことができるのである。

心的実体や物的実体の存在を認めないヒューム的人間は、常識的世界観を持つ人間とは違って、

b

が現在生じていると想定してみることはできないかもしれないが、それでも、bが生じている 時点は現在でもありえたと想定してみることならばできるのではないだろうか。それができれば、

現在という特権的な時点が、a, b, c, d, e・・・といった現象の系列の上を順番に移動して行くという

A

理論的な現在概念を持つことができるということになるのではないだろうか。しかし、ヒューム的 人間はこうした現在概念を獲得することはできないのではないかと思われる。

b

が生じていた時点が現在であると想定するとは、

b

を思い浮かべながら「あれが生じていた時点 が現在である」と思ってみることである。これは、小学校の入学式の時点が現在であると想定する とは、小学校の入学式を思い浮かべながら「あの時点が現在である」と思ってみることと同じであ る。そして、後者の想定が可能であれば前者の想定も可能であるはずだと思われるかもしれない。

ところで、小学校の入学式を思い浮かべながらあの時点が現在であると思ってみるとは、小学一年 生の時の自分に視点を移し入れて「現在、私は小学一年生で、周りには小学一年生の子供たちがい て、担任の先生が紹介されて、小学校の校歌を聞かされている」等などと思ってみることである。

私が生まれる前の時代、たとえば、関ヶ原の戦いの時点が現在であると想定するとは、関ヶ原の戦 いが行われている時代の日本に視点を移して「現在、世界ではワールドカップではなく関ヶ原の戦 いが戦われている」と思ってみることである。では、b が生じていた時点が現在であると想定する とはいったい何をすることなのだろうか。

小学校の入学式の時点が現在であると想定することや関ヶ原の戦いの時点が現在であると想定す ることが可能であるのに対して、個体としての音

b

が生じている時点が現在であると想定すること はヒューム的人間にとっては不可能ではないかと思われる。まず思い浮かぶ理由は次のようなもの である。

人や物の場合とは違って、小学校の入学式や関ヶ原の戦いのような出来事の個別化には時間の要 素が欠かせない。関ヶ原の戦いとは特定の時間位置、すなわち

1600

年という時点を占める戦いのこ となのである。その点で音と関ヶ原の戦いに違いはない。しかし、ヒューム的世界における音

b

時間位置が現在という特権的な時点との距離によって決定されるものであるのに対して、常識的な 世界観に従えば、関ヶ原の戦いの時間位置は現在という特定の時点との距離によってではなく、他 の時点との関係によって、いわば公共的な仕方で決定される。世界には他者たちが存在していて、

他者たちには同一の出来事が様々な時間的距離の下に眺められている、と普通は考えられている。

1700

年に存在した人には関ヶ原の戦いは

100

年前の出来事として、

1900

年に存在して人には

300

前の出来事として、そして

2018

年に存在している私には

418

年前の出来事として現れる。こうして

(11)

現在の位置が相対化されるのである。関ヶ原の戦いが生じている時点が現在であるという想定が可 能であるのはそのためである。

しかしながら、ヒューム的世界における音の時間位置が現在との距離によって決定される他ない のは、あるいは、別の言い方をすれば、ヒューム的世界において現在が絶対的な位置を持つのは、

ヒューム的世界に他者がいないからであるというのは表層的な理由に過ぎない。現在を相対化する のに他者の存在が不可欠である訳ではない。不可欠なのは他者ではなく実体の存在である。それが 実体であれば、他者でも自己でも、あるいは世界でもかまわない。ヒューム的世界には自己も他者 も世界も存在しないゆえ、ヒューム的人間は

A

理論的な現在概念を持つことができないのである。

たとえば、ヒューム的人間を、実体としての自己という概念を持つ人間と比較してみよう。

ヒューム的世界に意識の主体としての自己を加えてみよう。外界に存在する物という概念は持た ないものの、意識の主体としての自己の概念は持つような人間を「バークリー的人間」と呼ぶこと にしよう。バークリー的人間にとって音

a, b, c, d, e・・・は、聴覚主体としての自己の様態である。自

己は時間の経過を通して持続的に存在しながら、そのあり方を

a, b, c, d, e

と変えて行くのである。

しかし、それぞれの音の個別化の原理に関してはヒューム的人間とバークリー的人間の間に違いは ないように思われる。それぞれの音は音の性質と時間位置によって個別化されるのである。すると、

バークリー的人間はヒューム的人間と同様、b が生じた時点が現在であるような可能性について思 いを巡らしてみることができないということになるのだろうか。

バークリー的人間にとって、

b

が生じた時点とは自己が

b

という状態にあった時点のことであり、

b

が生じた時点が現在であるとは自己が

b

という状態であった時が現在であるということである。b が生じた時点が現在であったと想像するとき、バークリー的人間は

b

という状態にあった時の自分 に視点を移し入れているのである。そしてこれは、現在自分が

b

という状態にいることを想像する こととは異なることである。

ヒューム的人間にとって、bが生じた時点が現在であることの想定は

b

が現在生じていることの 想定と同じことであり、結局、b と質的の同一の、しかし、数的には別個の音が現在生じているこ との想定になってしまう。二つの事態を区別しようとしても、できることは

b

と同じ種類の音をた だ思い浮かべることだけである。それに対して、バークリー的人間は二つの想定を明確に区別する ことができる。それは、バークリー的世界において音

b

は、実体としての自己にいわば錨を下ろし ているからである。bが過去の私に錨を下ろしているがゆえに、私は

b

が生じていた時点の自分に 視点を移動させてみることもできるのであり、また、現在の自分に

b

と同じような音が生じる様子 を想像してみることもできるのである。一方、現象しかないヒューム的世界では、視点を移動させ るべき地点がそもそも存在しないのである。

ただし、バークリー的人間による二つの想定が異なった想定であるとは言っても、現在自分が

b

という状態にあることを想像する場合と、自分が

b

という状態にあった時点が現在であることを想 像する場合では想像の内容が異なるわけではない。次の例と比較してみよう。

友人が初日の出を見るために富士山に登頂しているとしよう。家にいる私は、友人に替わって私 が行けば良かった、と友人をうらやんでいるとしよう。私は「今頃彼にはどのような光景が見えて

(12)

いるのだろう」と友人に見えているであろう風景を想像することができる。また、「私が富士山に登 頂したならば今頃私にはどのような光景が見えているだろう」と私に見えていたかもしれない風景 を想像することもできる。こうして、私は友人に見えている風景を想像することと、私に見えてい たかもしれない風景を想像することを明確に区別することができるにもかかわらず、二つの想像内 容は全く同じである。富士山頂から見える初日の出を想像しているだけである。二つは、想像内容 は同じでも想像内容の帰属先が異なるのである。前者の場合は想像された風景は友人に現れている ものとして想定され、後者の場合は同じ風景が私に現れているものとして想定されているのである。

同じように、主体としての自己が持続的に存在していることを認めるバークリー的人間は、b 思い浮かべながら「これがあの時の私に生じていたのだ」と考えてみることができるし、また「こ れと同じようなものが現在の私に生じていたかもしれない」と考えてみることもできるのである。

過去の自己に視点を移すことによって、バークリー的人間は、

a, b, c

が現在であった時の状態をそ れぞれ想定してみることができる。そして、現在の時点が

a, b, c, d

と移動するという

A

理論的現在 概念を持つことができるようになる。現在が

a, b, c, d

と移動する様をジェイムズのように不動の現 在を出来事が通過して行くと表現することもできるだろう。

a, b, c, d

は自己の様態でもあるので、同 じ事態を、バークリー的人間は、自己が

a, b, c, d

と変容しながら時間の中を前進して行くこととし て表象するかもしれない。

A

理論的な現在概念を持つために必要とされるのは必ずしも自己の概念に限られるわけではない。

自己の代わりに世界でも大丈夫である。存在するのは世界という一つの実体だけであると考えてい る人間をスピノザ的人間と呼ぶことにしよう。スピノザ的人間にとっては自己も物も存在しない。

一つの世界だけが存在し、その世界において様々な性質が例化するのである。a, b, c, d, e・・・はスピ ノザ的人間にとっては世界の様態であることになる。

バークリー的人間とスピノザ的人間は同じような時間概念を持つことになるだろう。バークリー 的人間にとっての自己がスピノザ的人間においては世界になるだけである。a, b, c, d, e・・・は持続的 に存在する自己にではなく、持続的に存在する世界に錨を下ろすことになるだろう。そして、世界 の各時点に視点を移すことによって、a

b

が世界に出現していた状況を想定してみることができ ることだろう。

a, b, c

が現在を通過して行くことは、スピノザ的人間にとっては、時間の流れととも に、世界が

a, b, c

とあり方を変容させながら存在し続けることに他ならないということになるだろ う。

もちろん自己も世界も両方存在すると考えることもできる。さらに世界の中には自己以外にも無 数の人や物が存在していると考えることもできる。一つの世界が存在していて、その中に私を含む 無数の実体が存在していると考えている人をデカルト的人間と呼ぶことにしよう。

私は世界の中に存在する無数の実体の内の一つであり、私の知覚は世界のあり方を映し出してし ているとすれば、デカルト的人間の時間概念はバークリー的人間の時間概念とスピノザ的人間の時 間概念を合体させたようなものになることだろう。デカルト的人間は、時間の流れを、出来事が不 動の現在を通過することとしても、自己が変容しながら前進することとしても、また、世界が変容 しながら前進することとしても表象することができる。さらに、自己の知覚的あり方が世界のあり

(13)

方を映し出しているのであるから、自己が変容しながら前進するとは、デカルト的人間にとって、

自己が世界の中の出来事と出会いながら前進を続けて行くことを意味することになるだろう。こう して、ヴェルマンが批判した時間像が形成されることになるのである。

さらに、デカルト的人間は自分がいない世界について思いをはせることができる。私は世界の中 の一存在者に過ぎず、世界は私抜きでも存在することができるとデカルト的人間は考えることがで きるからである。すると、私のいない世界にも現在がありうることになり、世界には私が生まれる 以前にも私の死後にも現在という特別な時点があることになる。時間が流れるとは自己が出来事の 系列の中を前進することに他ならないとすれば、時間の流れと自己の存在は不可分であることにな るが、デカルト的人間はより拡張された時間概念を持つことができるのである。

それでは、世界を唯一の実体と考えるスピノザ的人間や、自己と独立に一つの世界が存在すると 考えるデカルト的人間にとって世界そのものは始原から遠ざかり終末に向かって進んでいるのだろ うか。世界が終末に向かっているとは正確にはどのようなことを意味するのだろうか。

同一の自己が存在し続けるとする考えは誤りかもしれない。したがって、過去の出来事が私から 遠ざかり、未来の出来事が私に近づいてくるという感覚は実は幻想かもしれない。しかし、同一の 世界が存在し続けているという信念が誤りであるとは思えない。たとえば、ある時点を境に一つの 世界が別の世界に入れ替わったなどという想定は世界という概念からして不可能である。世界とは 何であれ存在する物すべてがそこにおいて生起するところのものであり、何かが何かと入れ替わる ならば、一つの世界において二つが入れ替わるのでなければならないのである。

世界で継起する出来事の系列に最初と最後があるとしよう。最初の出来事と最後の出来事がある とするのである。出来事の継起を追って行くならばやがて最後の出来事に行き着くだろう。世界に 終わりがあって、世界はその終わりに近づきつつあるとは、正確には出来事の系列には終わりがあ って、最後の出来事に刻々近づいているということを意味するのだろう。それでは何が最後の出来 事に近づいているのだろう。世界自体だろうか。世界において出来事が継起するのであるから、世 界自体が最後の出来事に近づくことはありえない。世界が最後の出来事が生じる時点に近づくとい うのならば、出来事間の前後関係としての時間の外に、世界がその中を進んで行くような別の時間 がなければならないことになるだろう。そして、二つの世界がある時点を境に入れ替わるといった 事態も想定できることになってしまうだろう。これは世界という概念に反することである。最後の 出来事に近づくものが何かあるとすれば、それは今という時点であるほかはない。世界が時間の中 を未来へ向かって歩み続けるわけではないのである。

同じことはベークリー的人間にとっての自己についても言えるように思われる。バークリー的人 間の状態は刻々と変化する。バークリー的人間に終末があるとは、状態の系列に終わりがあるとい うことである。時間の経過とともに最後の状態が近づいてくることだろう。しかし、自己が最後の 状態に近づいているわけではない。自己とは状態の生起を可能にするところのものであるからであ る。やはり、最後の状態に近づきつつあるのは今以外にはない。バークリー的人間の自己は、カン トの自己自体がそうであるように、時間の外部にあるのでなければならないのである。したがって、

バークリー的人間の自己は変容しながら時間の中を前進して行くという先のたとえは正確さを欠い

(14)

ていたのである。

ところが、デカルト的人間の自己となるとだいぶ話は違ってくる。デカルト的自己には終末があ る。自己は世界の中の一存在者であり、それゆえ、時間の中に、時間に浸されながら存在する存在 者であるからである。

さて、それでは、時間は本当に流れているのだろうか。出来事が未来からやってきて、現在を通 過し、過去へと退いて行くという時間像は事態を正確に捉えているだろうか。

ここで、ヒューム的人間の時間概念を思い出してみよう。ヒューム的人間には音が入れ替わり立 ち替わり現れる、とは言っても、音は自己に現れるわけでもなければ、自己以外のどこかに現れる わけでもない。ヒューム的世界にはそこにおいて音が生じるような意識の舞台のようなものも世界 の舞台のようなものも存在しない。ヒューム的人間から記憶を取り去ってしまおう。記憶なきヒュ ーム的人間を前ヒューム的人間と呼ぶことにしよう。前ヒューム的人間の意識にあるのは音の継起 だけである。時間意識から夾雑物を取り去った後に姿を現すのは、前ヒューム的人間の持つ時間像 のようなものであるはずである。

ここには、ジェイムズが滝にかかる虹にたとえた不動の現在さえ登場してこない。不動の現在は 現象の基体としての自己や世界のような存在を思い起こさせてしまうからである。前ヒューム的世 界では現象が生じては消えて行くだけである。前ヒューム的人間のこうした時間像は現在主義によ く似ているように思われるかもしれない。これを、不動の現在なき現在主義と呼ぶこともできるだ ろう。

現象の生成消滅だけが存在するような前ヒューム的人間の時間像に自己や世界といった実体の存 在を付加することによって、現在が出来事上を移動する、あるいは、不動の現在を出来事が通過す るという

A

理論的時間像が生み出される。さらに、自己を世界の中の一存在者とみなす視点が加わ ることによって、自己が未来へ向けて出来事の中を前進するという時間像が完成する。

不動の現在なき現在主義的時間像から

A

理論的時間概念が生じてくるためには、時間外の視点を 仮想することが必要である。現在の視点を離れて、出来事の系列を鳥瞰的な視点から、永遠の相の 下に眺めることができるのでなければならない。その上で、鳥瞰的に眺められた時点の一つを現在 という特別な時点であるとみなすのである。世界や持続的に存在する自己の想定がそうした視点を 持つことを可能にしてくれる。時間の流れという概念は、現在主義的な観点に、それぞれの時点は 等しく平等に存在すると主張する永久主義的な観点が重ね合わせられることによって生み出された ものであると考えられるだろう。

それでは、現在主義と永久主義という相容れないはずの観点の重ね合わせの産物であるゆえ、時 間の流れとは幻想であると言うべきなのだろうか。それとも、時間の流れは幻想であると考えるの は、世界にはそれ自体としてのあり方がなければならないという思い込みに由来するある種の偏見 なのだろうか。とりあえず、判断は保留しておきたい。

(15)

文献表

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Velleman, J. D. (2006), “So It Goes” in Velleman (2015) Velleman, J. D. (2015), Beyond Price, Open Book Publishers.

星野 徹 (2013)、「持続と同一性」『埼玉大学紀要 教養学部』第49巻(第1号)

星野 徹 (2014)、「存在することと無から生じること」『埼玉大学紀要』第49巻(第2号)

参照

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