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フィヒテ哲学と仏教 - 実在性理解を中心として -

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Academic year: 2021

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(1)フィヒテ哲学と仏教 一実在性理解を中心として-. 阿部典子. F i c h t e sP h i l o s o p h i eundBuddhismus 一. -uberd i eRealitat-. NorikoABE. 1. はじめに 西洋哲学は古代ギリシアのタレス(前 624頃 -546頃)から始まる、と言わ. 22) れる。これは、同じくギリシアの哲学者であるアリストテレス(前 384-3 が提唱して以来、哲学史上の定説となっている。タレスが哲学の祖と位置づけ られるのは、一つには、万物の根源は何であるかという問題をたてたこと、一 つには、その問いに答えるため、対象即ち自然を観察し合理的思考によって統 一的見解を導き出そうとしたこと、にあるとされる。以来、世界全体の基本原 理を探求するという問題設定、および、それに答えるために合理的思考に則る という手法は、現代に至るまでの哲学の大きな特徴となっている。特にその合 理的手法はロゴスと呼ばれ、古代ギリシア時代から問題解決に欠くべからざる ものとされている O 古代ギリシアで哲学が隆盛を極めていた同じ頃、北インドでは仏教の開祖で あるゴータマ・ブッダ(紀元前 5-4世紀頃)がその教えを説き始めていた。 近畿大学工学部生物化学工学科. Departmento fB i o t e c h n o l o g yandChemistry , S c h o o lo fE n g i n e e r i n g,KinkiU n i v e r s i t y.

(2) 2. 阿部典子. 仏教という言葉は「ブッダの教え j という意味であり、近代に入ってからは世 界宗教としてキリスト教やイスラム教と並ぶ位置づけがなされている。しかし、 宗教として位置づけられる仏教には、同じ宗教であるキリスト教やイスラム教 そしてその他の多くの宗教に見出されるような神は存在しない。人間を超越し た絶対神あるいは創造神への無条件の信仰は仏教にはない。ゴータマ・ブッダ 即ち釈尊が説かれたのは、生の本質は苦であり、その苦から脱する理論と実践 方法であった。そして苦に捉われなくなった時、人は悟りを得て覚者となる。 したがって、仏教とは覚者となることを理想とし、そのために真理を探究して いく釈尊の教えである。 本論では、哲学の歴史の中からドイツ観念論のフィヒテ哲学と、仏教の数あ る立場の中から唯識思想、を中心として、両者の比較を試みてみたい。哲学問の 比較でもなく、また宗教聞の比較でもなく、フィヒテ哲学と仏教の唯識思想、と の比較を試みるのは、両者ともに自我の在り方を論理的かっその根源に至るま で詳細に分析しようと試みているからであり、そのため西洋的思想と東洋的思 想そして哲学と宗教という相違にもかかわらず、両立場の探求の成果におのず から共通項が出てくるように思われるからである。仏教に関しては一般的な理 解にとどまるが、以下でそれぞれの立場の特徴と自我に関する実在性の捉え方 を確認してみたい。. 2. 西洋哲学的特徴と宗教的特徴 2- 1 フィヒテ哲学における宗教的特徴 宗教が、自然や人聞を超えたものやそのようなものに関する教えを信じ、そ れに帰依することであるならば、フィヒテ哲学は宗教とは一線を画しなければ ならない。しかし西洋哲学の多くは宗教あるいは宗教性との深いかかわりを持 つ。特に中世の西洋哲学はキリスト教哲学であり、それ以降の哲学もほとんど がキリスト教との関係を抜きにしては論じることができない。フィヒテ. ( 1 7 6 21 8 1 4 ) が生きたドイツの社会においてもキリスト教の教義は生活の基 ・. 盤となっており、また、キリスト教に反する思想は弾圧を受けた。しかもフィ ヒテを含むドイツ観念論哲学では、絶対性あるいは絶対者ということが中心テ ーマのーっとなっているため神という表現が用いられることも多く、そこに宗 教性を読み取ることは容易であるともいえる。そこでここでは、フィヒテに無 神論の嫌疑がかけられたいわゆる「無神論論争 J の時期を中心として、フィヒ テ哲学における宗教的特徴を確認してみたい。 フィヒテ哲学は経験の根拠を論理的に明らかにしようとするところに成立し. 794年 か た。それゆえフィヒテ哲学は哲学の伝統に正しく則っており、また、 1.

(3) フィヒテ哲学と仏教一実在性理解を中心として. 3. らイェーナ大学で哲学の講義を担当したフィヒテの下には、学生のみならず当 時の有名人たちも多く聴講にやってきたのである。当時フィヒテは『哲学雑誌』 の編集員を務めていたが、 1 7 9 8年夏、フィヒテの同僚のフォルベルクがその雑 誌に「宗教概念の発展」という論文を投稿してきた。この論文が誤解の可能性 を秘めていると判断したフィヒテは、注釈の意味も含めた「神の世界統治に対 するわれわれの信仰の根拠について J 0 , 58 . 3 4 7 f f . ) 1) を巻頭論文とし、続い てフォルベルクの論文を掲載して『哲学雑誌』を発行したのである。 このフィヒテ論文の中心をなす主張は「生きて働く道徳的秩序がそれ自身神 である J 0, 58 . 3 5 4 ) という点に存する。信仰とは道徳的世界秩序が存在する と信じることであり、世界において道徳的秩序という原理が働いていることに 神そのものをみるのである。そして我々には「ほかの神を把握することはでき ない J ( i b i d . ) と考えられた。生きて働く道徳的世界秩序が神であるというこ の主張が無神論として物議を醸し出したのである。フィヒテは神がし 1ないと述 べてはいない。無神論の嫌疑は神がいないという主張に対してではなく、働い ている秩序を神とした点にかけられたのである。当然のことではあるが、当時 のキリスト教の神理解とは異なるとして無神論の嫌疑がかけられたのである。 生きて働く道徳的秩序を神とする見方は、それまでに出版されていたフィヒ テの著作における哲学的立場の宗教的表現であるともいえる。フィヒテは 1 7 9 4 年の『全知識学の基礎』において、絶対我を「自我は根源的に端的にそれ自身 の存在を定立する J ( 1, 28 . 3 2 4 ) として第一原則に掲げ、絶対我を自己定立の 働きそのものにみた。そしてさらに、絶対我のこの在り方を、有限な自我つま り日常的な人間の実践的活動の理念として位置づけた。自我が障害となるもの を克服し、いわば自我の領域を広げていくとき、その活動が目指しているもの すなわち理念は、自我本来の自由な在り方としての絶対我の自己定立の活動で あるとされたのである。そして経験界は克服される障害として初めて意味を持 ち、自我の具体的な実践的活動の場を提供することになるのである。 フィヒテは自由が可能である領域を道徳的世界に認めた。道徳的秩序とは、 自然の秩序のように現に必然的に存在するものではなく、あるべき世界の秩序 に他ならない。それは人聞が実現していく当為の世界であり人間の自由によっ てのみ可能になる世界である o その意味において、道徳的秩序とは人間の活動 の目標とされると同時に、その活動を動かす原動力として活動の根底に位置す る。しかもカントの立場を継承するフィヒテにおいては、真に道徳的な行為と はただ自己自身においてのみ基礎付けられ、他の何者からも強制されない絶対 的な行為に他ならない。フィヒテが「生きて働く道徳的秩序」と捉えていたの は、人間の活動の結果できあがった道徳的秩序としての「秩序づけられた秩序 j ではなく、人間の活動そのものを導く原動力としての秩序すなわち「秩序づけ.

(4) 4. 阿部典子. る秩序」である。今ここにいる具体的な一人の人問、一個の自我の活動を可能 にしまたその活動の正しい方向性を示すものとして絶対我が挙げられ、別の観 点から、神としての道徳的秩序が挙げられたといえる。 ところが、絶対我や生きて働く道徳的秩序は人間の日常的意識には現れてこ ない。通常の意識には現れないものを意識するためにフィヒテが示す方法の一. 1 , 4 8.216/217) である。フィヒテが哲学者に対して最初に つが「知的直観 J ( 要求することの一つに、外的質料的対象から目を転じて、自己自身の内部でそ の対象に関係している働きを見るようにするという要求がある。これは、いわ ば意識の方向転換である。そうすることによって自らの働きについての直接的 な意識を得ることができるという。フイヒテはこれを直観と呼ぶ。しかもここ でみられているものは、動き続けている働きそのものである。静止的存在では なく、生きて動き続けるものであり、生命と呼ばれることがふさわしいもので ある。これがフィヒテ哲学の出発点でありかっ土台となる。フィヒテにとって はこの点を押さえることから哲学が始まるのである。 フィヒテの指示にしたがって意識の方向転換を実際に行なわない限り、フィ ヒテ哲学の出発点は意識にはのぼってこない。日常的意識にとってはフィヒテ 哲学の出発点は現実的なものではなく、むしろ非現実的なあるいは現実を超え たものとして理解されざるを得ない。したがって日常的意識にとってフィヒテ 哲学は宗教的信仰と同様の超越性という外観をとって現れてくるといえる。 さらに、意識の方向転換を行ない得たとしても、その時明らかになる意識の 事実は、当面、個人的あるいは主観的なものに過ぎない。この意識の事実に基 づくことによってフィヒテ哲学の課題の一つである経験の根拠が論理的に明ら かにされるという結果をまって、初めて意識の事実が客観的妥当性を獲得する のである. O. もちろんフィヒテ哲学はその課題を成し遂げているが、その出発点. を個人的内的意識経験と見る限りにおいて、これは客観的な学としての性質よ りも、むしろ個人的な信あるいは宗教的な色合いを強く持つといわざるをえな いだろう。 当時無神論の嫌疑をかけられたフィヒテ哲学ではあるが、以上の宗教的特徴 は容易に指摘されうる。また逆に、広義における宗教的特徴が容易に見て取れ るが故に、それがキリスト教的ではないとして無神論の嫌疑がかけられたとも いえるであろう。. 2-2 唯識思想における哲学的特徴 哲学が経験界を観察し合理的思考によって経験界に対する統一的見解を導き 出そうとする学問であるならば、多くの宗教は哲学的一側面を兼ね備えている.

(5) フイヒテ哲学と仏教一実在性理解を中心として. 5. といえる。しかしながら哲学がその土台においても合理的ないし論理的であろ うとするのに対して、基本的に宗教は合理性や論理性を要求するものではない。 むしろ、人間の理解を超え不合理であるが故に信仰の対象になる場合も多いと 思われる。仏教の場合においては、その出発点は釈尊みずからが得られた悟り の内容である。その悟りの内容を理解するには遥か遠く及ばないのではあるが、 その教えを信じ帰依するところに仏教が成立し、そのために宗教の位置づけが なされるといえるであろう。また各人がみずから同じ悟りを得、覚者となるた めに仏教に帰依するのであろうし、そうであるならば、現在のところは仏教の 出発点が客観的に証明され対象的に指摘されうるというものではないために、 仏教の基本は釈尊の教えへの信であるといえる。 しかしながら、釈尊が得られた悟りの内容すなわちその教えは論理的あるい は具体的な表現において示されていく。そこでは論理的な納得が得られるよう に論が進められていくのである。その中心的教えのひとつに四諦(したい) 2) とまとめられたものがある。これは釈尊が初めてその悟りの内容を説かれた初 転法輪(しょてんぼうりん)の際の教えであり、苦集滅道の四種の真理が述べ られている. O. 我々の生存は「苦」であること、「集 j においては苦の原因が渇愛. であること、そしてそれを「滅」することが可能であり、具体的な方法は「道 j であることが示される。 仏教では人間が生存することは本質的に苦であると捉えられ、そして同時に その原因とそれを乗り越える方法が示される。苦である原因は人間の持つ渇愛、 すなわち対象への強い執着にあるとされる. O. その執着が無くなった時つまり対. 象に捉われなくなった時に、苦を乗り越えることが可能になる。これは苦が無 くなることではない。そうでなく、苦に捉われなくなること、苦を苦として苦 しまなくなる境地であるとされる。 そのような境地に至るために、理論的理解を得る方法と実践的な行を行なう 方法とが示される。特にその理論的説明は西洋中世のスコラ哲学と並ぶほどに 撤密であるといえる。対象への執着は対象の本質を知らないがゆえに誤って持 ってしまうものと考えられ、その誤りを正すために対象の本質を解き明かして いくのである。その際の基本的な姿勢は、対象はそもそも実体と呼べるような ものではなく、我々の心が作り出したものにすぎない、という唯心論の立場で ある。一般に対象の世界つまり日常生活において手に触れ目で見ることのでき る世界は、この自分という人間の外部にそれ自体で何らかの価値を持って存在 するもの、と理解される。そのような世界の中で、それぞれの人聞が様々なも のとの関係を持ちながら生存を続けている. O. しかし仏教ではこのような一般的. 理解がそもそも「無明 j すなわち真相を知らない無知によるとされる。そこで 対象界の正しい理解を論理的に明らかにし、そのことによって「空」を理解し.

(6) 6. 阿部典子. て悟りに到達しようとする教えが成立してくるのである。これが唯識思想であ る 。 唯識思想、が初めて説かれた経典は、紀元 300年前後に成立した『解深密教(げ じんみつきょう d である。そこでは、「一切法(し、っさいほう)Jの「無自性(む じしょう)Jすなわちすべてのものごとにはそれ自体で存在する本質はないとい うこと、一般的意識の奥に「阿頼耶識(あらやしき)J と呼ばれる深層意識が あるということ、一切はただ心の現われにすぎないということ、が説かれてい る。これを北インド出身の無着(むじゃく) (395-470頃)及びその弟である 世親(せしん) (400-480頃)が完成していった。世親の代表作『唯識三十煩 (ゆいしきさんじゅうじゅ)Jlでは、唯識という考え方の論証が行なわれるが、 いわゆる意識の在り方を、仏教の伝統的な「眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、 意識」に「未那識(まなしき)Jと「阿頼耶識」を加えた八識に分類して説明し、 前六識に対応するものとして経験界のものごとを説明している。経験界のもの とどはそれ自体で成立しているものではなく、前六識によっていわば生み出さ れたものであり、「生み出された」という真相に至らない場合に、経験界のもの ごとはそれ自体で存在するとみなされることが示される。 唯識思想、において経験界の成立が説明されるのは、経験界のものごとはそれ 自体で成立する実体ではないということの理解によって執着を去るためである。 しかしながら、そこに展開される経験界の説明は、阿頼耶識という根本的な原 理に基づいて、自己自身と経験界の在り方を論理的に解説する方法をとってお り、哲学の特徴をはっきり示しているといえる。. 3. 実在性理解 3- 1 フィヒテ哲学における実在性 フィヒテ哲学の出発的は前述のように、意識の方向転換を行なう自我である o フィヒテのいう自我とは、自覚という働きを続けている活動体であり、活動す るという点に存在の真の意味を見出そうとしている。初期のフィヒテ哲学にお いては、そのような自我の働きが明らかにされ、それが同時に経験界の説明と もなるのである。 フィヒテにおいて、今ここにいる具体的な自我の実在性は、それに対応する 非我と全体的な実在性を分け合って成立しているとみられる。経験界において 自我と非我とはそれぞれ有限な存在として、相互関係において成立しているこ とが示されるのである。そこで明らかにされる自我の活動は、非我を認識する という理論の側面における活動と、自我自身に対立している非我の在り方をい わば自我化していく実践的領域の活動とに分けられる. O.

(7) フィヒテ哲学と仏教一実在性理解を中心として. 7. 理論的領域では、自我は非我の在り方を認識するため、非我の経験的存在が 先立ち、それを自我が受身的に知るという構造になる。しかし、認識主体とし ての自我の積極的活動がない限りは、客観としての非我の在り方も可能とはな らない。また、知るという形式における非我の自我化ともいえる。実践的領域 においては、非我の自我化はより明確に示される。フィヒテにおいて非我とは 自我の働きに抵抗して立つものであり、その抵抗を克服して理想的な状態へと 進んでいくところが自我の実践的活動とされる。その際の理想的状態が絶対我 と名づけられた自由な自我の自己定立の活動である。 これらの自我の活動は、自我の実在性拡大の方向に進む。経験的自我にとっ て絶対我は無限の理念であり、したがって現実には到達不可能なのではあるが、 絶対我は全実在性を占める存在と位置づけられる。フィヒテ初期の哲学におい ては自我の絶対性を認め、そのような在り方をする自我は絶対我と呼ばれてい るが、自我という言葉は非我と相関関係にあることを示す名称であるため、そ もそも絶対我という名称は形容矛盾ともいえる。実際、中期以降のフィヒテ哲 学において絶対我の絶対性が強調されるに伴い、絶対的な存在は絶対者と呼ば れるようになり、絶対的なものに直面する場面で自我としての実在性が絶対者 に取って代わられる事態が説明される。これは、自我が自己の活動を追い求め 続け、その極点にまで推し進められた時に聞かれる領域であり、自我が本来持 つ有限性の自覚と、その自覚に伴う絶対性への飛躍であり、したがって自我と いう名称に相応しいものでなくなることである。フィヒテはこれを自我性の「滅 却 C V e r n i c h t u n g )J と名づける。 フィヒテにおいて自我を捨てることは目的ではない。自我本来の活動を自由 に遂行することが目的であり、そのような活動に自我の本質はある。しかし、 その自我の活動を推し進めた時に、フィヒテは自我本来の有限性という限界に 行き着いたように思われる。自由な活動を理念に掲げて活動していく有限な自 我にとって、一方ではその活動は無限に拡大を続けていけるものである。しか し、他方でその構造が理論的に明らかになった時には、その無限な拡大そのも のをも含む別次元の領域が開かれてきたといえる。それが絶対性そのものへの 飛躍であろう。もちろんその時には、フィヒテ的な自我の構造において自我の 意識は成立しないが故に、フィヒテは絶対者の生命をただ「生きる」という表 現をする。しかしながら、フィヒテ哲学の基本であった自我の自覚的構造も他 方で要求される。その両者の聞を揺れ動くところに、自我と呼ばれる在り方が 保たれうるのである。.

(8) 8. 阿部典子. 3-2 唯識思想における実在性 仏教で求められるのは、苦を脱することである。それは苦そのものが無くな ることではなく、苦を苦として実体化しない捉え方において可能であるとされ る。仏教においてはどんなものも固定的実体的に理解されることはなく、全て は変化の相の中において捉えられる。また、それ自体で自立的に理解されるも のはひとつもなく、或るものは他のものとの相互関係のなかにおいてのみ理解 される。このような捉え方が「空 Jである。したがって、「空J とは何もなし、か らつぼの状態を指しているのではなく、永続的ないし自立的なものはなにもな いということを示している言葉である。 経験界の様々な事物や出来事が変化の中にあるということは、実際に経験界 を見てみるならば、日常的な理解においても受け入れられる見方であるともい える。しかし一般には、様々な変化を担うなにか固定的なものがあり、あるい は何か変わらない価値があるように思い、そのためにひとつひとつの事柄に拘 り執着を持っていくのである。ここに苦が生じる。変化の流れのなかにあるこ とが物事の真の姿であるならば、全ては変化していき、また、或るものが他と の関係性の中でのみあるならば、その或るものは様々な他との関係において異 なる側面を示すことになる。そのことを受け入れられない時に、変化や多様が 苦となるのである。 変わらない何かあるいは永続的な何かがあると想定することは、日常的な理 解においてのみならず哲学的理解においてもよく行なわれる。フィヒテ哲学に おいては、固定的物的な存在は死せる物として、それをいわば生み出す働きの もとでのみ可能であるとされ、それ自体の存在性は否定されるのであるが、し かし、働きそのものに絶対性を求め、絶対的働きに真の実在性を見ようとする。 固定的実体ではなく、働きという動きのある事態を捉えようとするフィヒテ哲 学ではあるが、働きそのものには変わらないものを見ようとするのである。 仏教では、変化を担う基体としての固定的な実在性を考えることはない。変 化は現れすなわち現象の変化ではなく、そのもの自体の変化であり、変化にと もなってものの在り方そのものがかわっていくと理解される。これは無常観で ある。西洋ではこのような世界観を持つ哲学は決して多いとは言えない。西洋 哲学においてはほとんどの立場が或る変わらない実体を認め、その実体が変化 の相を担うと考えるのである。つまり、固定的な一つの土台あるいは視点を定 め、そこから初めて多様が多様として捉えられると考えるのである。仏教にお いては、このように視点を定めることは執着に繋がるとされる。もちろんこれ は不確実で不安定な見方を薦めるものではない。固定的絶対的な視点を定めな いところにかえって物事のありのままの姿を捉える智慧が可能になると考え照.

(9) フィヒテ哲学と仏教一実在性理解を中心として. 9. れているのである。. 4. フィヒテ哲学と唯識思想 フィヒテ哲学は経験界を明らかにする視点として自我を定め、絶対的存在と しての自我を明らかにしたが、絶対性としての自我を求めていく段階において 自我の本質的有限性に行き着くことになる。自我性を拡大し続けたフィヒテ哲 学ではあるが、その頂点において自我性の全面的否定を行なうことによっての み自我存在の根拠を明らかにする道が聞かれることになった。これは、論理的 に理論上の探求を推し進めた結果、論理そのものが可能になる場として絶対性 の領域を推論したとも考えられるが、フィヒテ自身はこの絶対性の領域に我々 が関わる方法は、それを「生きる」ことであると言う。そもそも絶対というあ りかたは論理を超えた領域に可能であると考えられ、そこへの関わり方は論理 ではなく生というより根源的な次元を捉えなすことによって可能であることが 示されるようになる. O. フィヒテ哲学には理論的領域の著作としての『知識学』. と並んで、『道徳論の体系~ ( 1798) や『浄福な生活への指教あるいは宗教諭』 (1 806) に始まり、『人間の使命~ (1 800) 、『学者の使命~ ( 1811) など実践的. な著作も多い。そこに示されている人間の生き方は、一人の人間として現実の 世界で経験界の多様と関わりながらもその多様に捉われず、自分の一個の生命 を全体性のなかでひとつの「使命 J を担うものとして捉えて生きていく姿であ る。これは、理論的著作で言われる絶対性を生きる生き方の具体例と理解され るだろう。 一方仏教では、そもそもの出発点から我も含めたあらゆる存在は「空」とし て示され、経験界の中に絶対的な特殊点が認められることはない。しかしこの 真理を理解することができず、そこに苦が生じる。したがって苦を乗り越える ために、真理に基づく生き方の実践が勧められるのである。 フィヒテ哲学と仏教とは正反対ともいえる点から出発している。しかし、フ イヒテ哲学でも仏教の唯識思想でも自我の在り方を中心として経験界の構造が 明らかにされる。これは観念論あるいは唯心論の立場での解明であり、そこで 明らかにされた自我と現象との基本的な関係は両者とも同じ構造において示さ れたといえる。そして、フィヒテ哲学における絶対性を生きる生き方と仏教に おける苦を逃れる生き方とが、自我と現象との正しい理解に基づいて説かれる ならば、その方向性はおのずと似かよってくるものと思われる。フィヒテの実 践哲学と仏教の「道 J の具体的展開の比較検討によって、また両者の類似点が 出てくることが予想される. O. 経験界における物事の関係を同様の立場で説明する両者ではあるが、その出.

(10) 1 0. 阿部典子. 発点、の相違がそれぞれの領域を哲学と宗教とに分けているといえるだろう。両 者の出発点は論理性と直観性との相違ともいえる。哲学ではロゴスに代表され る論理が最も重要視されるが、仏教においては論理の分析作用は「分別」であ り、分けて捉える理解の場面に働くものである。そして「分別 J よりも、全体 的理解の場面に働く「智慧」がより重視される。これは西洋哲学的に言えば直 観である。これら論理性と直観性との比較検討も、またフィヒテ哲学と仏教と の関係を明らかにする一側面となることが予想され、さらに西洋的なものの見 方と東洋的なそれとの関係をも明らかになることが期待される。 注. 1 )J . G . F i c h t e Gesamtausgabed e rB a y e r i s c h e nAkademied e r r i e d r i c hFrommannV e r l a g からの引用。引用ペー W i s s e n s c h a f t e n,F ジ数は本文中に記す。 2)仏教の基本用語に関しては、『岩波哲学・思想辞典』及び『岩波仏教辞典』 を参照した。.

(11)

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