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「同一化」
作用の
試論的一考察
「段階性」をめぐって
坂 元 忠 芳
はじめに
私は,さきに,「『同一化』作用の矛盾について」(『人文学報』184号,1986 年3月)という論文のなかで,自己が他者に「同一化」するとはどういうこと
かをとらえなおすことから出発して,それが近代市民社会において,どのよう な基本的矛盾をかかえ,それらがどのような諸相をもって展開され,どのよう な危機的様相をはらんでくるか,その論理のいくつかについて論じた。それは,
現代日本における人格の「同一化」作用の危機についての考察の前提となる部 分を主な内容としていた。
そこで,本論文では,前記論文に引きつづくものとして,さきのような矛盾 をふくんだ「同一化」作用が,市民社会的関係の矛盾の深化のなかで,どのよ うな発展段階をとおるか,ということについて若干の考察を進めたいと思う。
ここでも,私が行なおうとするのは,現代日本の子ども・青年の「同一化」作 用の危機の分析に必要な限りでの枠組みをさぐることであることをさいしょに おことわりしておきたい。
さて,さきの論文でも述べたように,「同一化」作用の「段階性」の考察は,
個人及び集団が,近代市民社会において,残存する自然共同体的関係から,市 民社会的関係へ移行する複雑な過程のなかで,「同一化」作用の質の変化が,
どのような発展の節をとるか,とりわけ,それが市民社会的関係の矛盾の深化 のもとで,どのように動くかということである。
つまり,家族,親戚など,自然共同体的関係が多かれ少なかれ保持されてい る集団から,保育所,幼稚園,学校,会社,政党,労働・経済・文化団体など,
市民社会的関係が次第に中心に位置ついてくる集団のなかに,個人が移行して いく過程で,どのような質の異なる「同一化」作用を「内在化」させていくか,
また,それらの牽引と反擬,緊張と弛緩,解体と再編成,崩壊と再生は,どの ように力動的に動いてゆくか,ということである。
ところで,市民社会的関係の矛盾の深化のもとでは,自然共同体的関係を保 持している集団もまた,変質する。それは,家族や親戚もその例外ではない。
例えば,ヘーゲルのいう家族の教育的機能の「二つの使命」1)もまた,市民社 会的関係の矛盾の深化のもとでは,新しい内部矛盾をひきおこすことが予想さ れる。そこで以下,本論では家族の人間関係から,仲間集団の関係をとおって
「同一化」作用の「段階性」がどのように基本的に変化してくるかを考察し,
最後に思春期における「同一化」作用の「段階的同一性」の今日的問題の切口 に言及してみたい。
1)拙稿「『同一化』作用の矛盾について」『人文学報』184号(1986年3月),13−14
ページ。Hegel, Grundlinien der Philosophie des Rechts, Felix Meiner Verlag, S.158.
ヘーゲル『法の哲学』藤野渉,赤沢正敏訳『iH堺の名著』44,中央公論社,402ペー
ジ。
(1)母親役の「複数化」と「同一・化」作用
まず,家族のなかの母親役の変化に注目することからはじめよう。
「母親役をになう人」(the mothering one)の分化と多様化は,市民社会的 関係の矛盾の深化のなかで,どのような子どもの「同一化」作用の基本的変化 を引きおこすのだろうか。自然共同体的関係が多分に残されている市民社会の もとでは,「母親役をになう人」は,母親だけでなく,彼女とともに居住する 祖母,伯叔母,姉,または近隣…に住む養母などであり,子どもは,これらの人 びととの関係をとおして,もっとも緊密な「同一化」作用の,微妙な色合いの 異同を経騒する。そして,こうした人びとの自然的関係の色合いによって,「同 一化」作用は比較的自然的様相を保持することができる。もっとも,「母親役 ポジンヨンをになう人」の,いずれ家族外へと独立していく,その位置によって,自然
3 共同体的関係のなかにも異質な関係要素が導入されないわけにはいかないのだ
が。
もともと「母親役をになう人」は,サリヴァンの示唆するように,子どもが 全面的に依存する,ある漠然とした実像から,次第に子ども自身を引き離す最 初の対象となるものであり,それは,彼が母親の乳首について象徴的に説明し ているように,「ある程度思い通りになるもの」(the relatively managiable)と
「全く自分から独立したもの」(the wholly independent)という,対立する「現 実構造」をもっている1)。つまり,「母親役をになう人」は,いつまでも,子 どもと「一体化」しているわけにはいかないので,両者の関係は,次第に「一 体化」一「分離」の過程をたどる。そして,それは自然共同体的関係のなかに,
市民社会的関係が入りこむ程度にしたがって,「同一化」作用にいくつかの「段 階性」を刻印することを予想させる。
1)サリヴァン『現代精神医学の概念』中井久夫,山口隆訳,みすず書房,1967年,
47ページ。(H,S. Sullivan, Conceptins of modern psychiatry,1940,1953)
ところで,市民社会の発展のもとでは,多少とも残されている自然共同体的 関係のなかに,はやくから市民社会的関係の矛盾が浸入してくるので,「母親 役をになう人」は,この「一体化」一「分離」の過程を,かってのように,い わば,「自然的」にはたすことができない。極端な場合には,彼女は,子ども を機械的に,市民社会的関係のなかに投げ込んでしまうか,また逆に,それを 本能的におそれて,いつまでも「母子一体化」のなかに閉じこめてしまう。「同 一化」作用におけるこの「分極化」は,「母親役をになう人」の現実構造がは
らむアンビバレンッ 子どもにとって「満足感の源泉」であると同時に,「不 安と安全の喪失の源泉」でもある を象徴的に示している1)。
1)サリヴァン,前掲書,48ページ。
その場合,「母親役をになう人」ということばは,まさに現代的意味をもっ ている。近代社会においては,いわゆる近代家族の成立によって,かつての自 然共同体的関係のなかの「複数の母親たち」は,核家族の成立とともに「一人
の母親」へと次第にその位置をゆずらざるをえなかったが,現代においては,
「一人の母親」は全く別の形で,複数の「母親役をになう人」のなかに位置せ ざるをえなくなってくる。すなわち,「母親」は,ものの商品化と社会関係の「物 化」一「物象化」の普遍化のなかで,また,それに関連し対抗してさまざまに
もたらされる公共的関係のなかで,自らもその関係の一部となり,自己の役割 の一部を,商品の機能や,企業化された施設や,さまざまな性格をもった公共 化された施設へとゆだねて,自らをいわば「一人の母親」から「母親役をにな
う人びと」の一人へと変貌せざるをえなくなっている。
これを心理学的にみれば,近年の「母一子関係」論の研究が明らかにしてい るように1),従来の母一子関係の「一体化」一「分離」過程に,新しい矛盾と,
したがって新しい「段階性」を生みだす可能性をつくりだしている。すなわち,
現代における「母親役をになう人」の「分化」と「多様化」は,現実には,家 庭崩壊や,またそれとも関連して公・私にわたるさまざまな施設での乳児の生 活が示しているように,「母性剥奪」(maternal deprivation)のような否定的 な現象をともないながら,他方で,多くの治療的一教育的努力が示しているよ うに,従来の「母一子関係」に代る複数の構造的な子どもへの働らきを生みだ すことにもなっている。そして,そのなかで,共同化一社会化されたのぞまし い「デイ・ケア」の実践が,決して,従来の「母一子関係」に敵対するもので はなく,相互が補完的関係にあることが次第に明らかにされつつある。
1)最近の母子関係論については,布施晶子,清水民子,橋本宏子編『双書現代家族 の危機と再生,囮現代家族と子育て』(青木書店,1986年)のなかの「V母子関係 論の検討」(清水民子,鈴木佐喜子)を参照。
アタツチメント
その一例を,子どもの愛着行動にとってみると,現代においては,それは,
母親との関係においてのみ,その独自性が発達するのではなく,母親に代る保 育者との関係においても発達すること,そして,異なる状況での,それらの発 達の比較研究は,愛着行動が「いくつかの異なる特徴をふくむ構成物」(ラター)
であることを明らかにしつつある1)。つまり,愛着行動は,対象に近づき,接 触を保持しようとする子どもの一種の行動型ではあるが,子どもは接触する当
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の人物に常にこのような行動型を不変的に示すのではなく,ある人に対しては,
接触しない場合でも,情動的な関係を保持し,時に,愛着行動を選択的に行う ことができるというのである。これは,「選択的愛着」として,むしろ時空を こえて,他者とある関係を保とうとする,発達した姿を示しており2),ラター ボンドによれば愛着行動とは区別される「絆」である3)。
1)この点については,鈴木佐喜子「今日の母子関係論の動向と到達点一子育てと 仕事,保育の問題を中心に一」『現代社会における発達と教育研究報告集』第1 集1984年3月,日本教育学会「現代社会における発達と教育」研究委員会,1・−15 ページを参照。
2)同上。
3)マイケル・ラター『続母親剥奪理論の功罪』北見芳雄,佐藤紀子,辻祥子訳,誠 信書房,1984年,22ページ。(Michael Rutter, Maternal deprivation reassesed,
second revised edition,1981.
この場合,「絆」は,愛着行動が,現象的におこなわれていない場合でも,
継続的に,「選択的愛着」が形成されていることを示しており,「母親役をにな う人」の「分化」と「多様化」とは,結果として,子どもの「同一化」作用に おける発達段階に,新らしい微妙な質を生みだす可能性を予想させる。そして,
そのことが,子どもの「同一化」作用における「自然的なもの」と「社会的な もの」との分極化に橋架する新らしい可能性を与えるように思われる。
ところで,このような理論的・実践的追求は,子どもの「同一化」作用を,
いわば「相対化」するように働らき,従来までの双数的母一子関係においての みとらえられてきた,この時期の「同一化」作用の発達段階を,異なる量と質 を含んだ多数的関係一愛着一絆関係の「層構造」として再構成する可能性を おそらく与えている。そしてそれは精神分析でいう「前エディプス期」の再検 討をもおそらくせまることに違いない。
「前エディプス期」の概念は,一般に父親が母親の心理野に入りこんでくる 場合でも,実際には,彼が「エディプス的三角形」を形づくるような「競争者」
として,この時期には,母一子関係のなかに入ってこないという考え方にたっ ており1),この考え方によれば,この時期には,子どもの母親への「執着」は,
きわめて顕著にあらわれるとされる2)。双数的な母一子関係だけで育てられた セパレ−シヨン
子どもは,この時期,「分離」にたいして,いちじるしい否定反応を示す。
しかし,「デイ・ケア」の実践によって,「選択的愛着」を適切に形成された子 どもは,その「一体化」一「分離」過程で,するどい「不安」をむしろ示さな いことになるかも知れない。そして,こうした子どもは父親との関係で決定的 な欲求不満をもつ母親とのあいだの「前エディプス期」の「執着」がはらむ不 安定に比べてはるかに安定した「一体化」一「分離」過程のダイナミズムを経 験するかも知れない。この意味では,安定した「同一化」の段階を微細にふむ ことは,人間の発達に肯定的な影響をもつことが予想される。しかし,この問 題は,「デイ・ケア」と「在宅・ケア」との比較の資料がまだ充分でないこと からも,今のところ簡単に結論づけることはできない。そればかりでなく,こ のことは人間の発達にとってより本質的な問題性を残している。というのは,
多数の「母親役をになう人」との子どもの「選択的愛着」の形成は,子どもの
「一体化」一「分離」過程の「層構造化」と同時に,その「相対化」を促進す ることによって,いわば,子どもの「自己還帰」の対象と方向と力とを分散,
希薄化させ,人間の本質としての「受苦」を平担化させ,かつまた,潜在化さ れた特定の対象への切実な欲動を病的に強めないとは断定できないと考えられ るからである。人間の本質は,苦悩や葛藤からの解放であることは,おそらく 間違いないとしても,それは同時に,人間的な苦悩や葛藤を新らしく選択して いくことでもある。その意味では,人間は苦悩と葛藤の「和らぎ」に根源的な 問いを投げかける。たしかに,もっとも早い時期の子どもの「一体化」一「分 離」が,新らしい発達の段階区分をつけ加え,「分離」からくる不自然な苦悩 と葛藤を或る意味で「和らげ」ることはおそらく間違いないことだろう。しか し,苦悩と葛藤が,人間的発達に,終局的につねにマイナスに働くかどうかは,
深い洞察と観察を要請される課題である。もちろん,この時期の「一体化」一
「分離」過程の病理的な苦悩と葛藤をかるがるしく扱ってならないことはいう までもない。このことは,後でもふれるように,第一の「分離」一「個体化」
(M・マーラー)で問題をかかえている「登校拒否児」が「馬鹿さわぎ」に象 徴されるような,第二の「分離」一「個体化」のプロセスに入っていくことが
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非常に難しいといわれていることからも想像される3)。が,それでもなお,こ の時期の子どもの「一体化」一「分離」過程の苦悩と葛藤が,その後の「個性」
の形成に決定的な刻印を与える可能性をもつと仮定できるならば,この時期の
「同一化」の「層構造」の核となるべき部分とそれ以外の部分との関係を,苦 悩と葛藤の質の面からいっそう綿密に研究する必要があろう。
1)ラプランシューポンタリス『精神分析用語辞典』村上仁監訳,みすず書房,1977 年,「前エディプス期」の項参照。(Vocabulaire de la pcychanalyse Par Jean La−
planche et J.−B. Pontalis 5e 6dition, P.U.F.,1976)
2)同上。
3)この点についてはは,田中孝彦「横湯報告についてのコメント」『現代社会にお ける発達と教育研究報告集 第1集』1984年3.月,日本教育学会「現代社会におけ る発達と教育」研究委員会,2−32ページ参照。
そのことは,総じて,人間発達における「段階性」とは何かという,より根 源的な問いをあらためて私たちにに投げかける。これまでみたことからも想像 されるように,人間発達の「段階性」とは,一口に言って,社会的にしか生き られない特殊な「未熟性」をもって生まれてくる人間が,この世で経験する「受 苦」と,その人間的のりこえの性質による段階区分の性質である。だが,この
「段階性」は,最初の「同一化」過程の「階層化」が示すように,かっての自 然共同体的関係が,市民社会的関係によってとりかえられ,色どられる程度の,
矛盾の解決の仕方によって決定されてくるものであり,それ故,結局は,かっ ての人間の「自然性」のなかに,いわば,「社会=人工性」が浸入してくる程 度によって,人間自然の変更自身を自己決定していく,その選択性の性質に外 ならない。その場合,「段階性」には,その選択性を可能にする人間の「自然
=生物学的なもの」の刻印が強く押されているとしても,「段階性」の区分を,
より微細に自覚させるのは,そのような「自然=生物学的なもの」の「自己変 更」をせまる社会的発展の矛盾 新らしい「選択性」を強くせまる「社会的 なもの」のインパクトである。だから,発達の「段階性」を最終的に決定する 要因が,社会的発展の矛盾なのだと,ふつう言う時,私たちは単純にそう言う ことはできない。つまり,社会的発展の矛盾は,人間の「自然性」の「社会化」
をせまるのであるが,それは,人間の「自然性」を社会化し,それらを,第二,
第三の「自然性」として,「選択的」に作りだしていくということを意味して
いる1)。
1)ここでは「自然性」と「社会性」は,より一般的な意味で使われている。以下の 記述でも,前記拙稿「『同一化』作用の矛盾について」で使用した「自然的なもの」
「社会的なもの」の概念とここでの使用が混在していることに注意されたい。
「同一化」作用の最初の「階層化」についていえば,「母親役をになう人」
の「複数化」は,近代家族における,いわば,「自然的」母親役1)を,もう一 度「社会化」することによって,その「同一化」作用の段階を微細にする可能 性をおそらくつくりだしている。それは,現代社会の発展が,必然的につくり だした社会の発展的「選択」である。しかし,母親役の「社会化」が,かつて の「自然的」母親役がはたした役割に代るべき「同一化」作用の新らしい構造 を,新らしい発達段階の第二の自然としてつくりだしうるかどうかは,その可 能性と同時に,そこでつくられるべき第二の自然の性質を一層深く吟味するこ となしには不可能だろう。それは,もともと,近代家族における「母性」の一 見「自然性」とみえるものが,社会的に選択されてきたことをみても明らかで ある。現代の複数の「母親役をになう人」と子どもとの「同一化」作用の「層 構造」は,かつての自然共同体的関係における「複数の母親」の「自然性」が つくりだしたそれとは全く性質の異なる,いってみれば歴史上かってない「実 験」的性質を含んでおり,それは,いってみれば,箪彰歯な苞答Aをもつ「母 性」の近代性2)にたいする多彩的な「母性」の色合いの創造といってよいもの かも知れない。だが,人間的自然はどんなに社会化され,それが第二の自然と なっても,類としての人間の「生物学的」自然性を破壊することはできない。
そして,あらゆる苦悩と葛藤の選択も,この人間的自然の根源的性質との対置 でおこなわれる。その時,苦悩と葛藤の選択は,はたして,この時期の「同一 化」作用の「段階性」に,相対的にせよ,一義的に確定できる新らしい区分の 法則性をつくりだしうるものなのだろうか。それとも,発達の「段階性」のじ ぐざぐの道すじは,新らしい第二の自然の社会的選択の性質にしたがって,ま
9 さに選択的に動きうるものだろうか。そして,そのような不安定性をはらんだ 選択こそが,もっとも早い人生のこの時期においても,より人間的だと考える
ことができるのだろうか。これは未来の「母性」が子どもにかす,新らしい人 間的苦悩と葛藤の問題として,依然として未知の問題であろう。
1)ここで「自然的」というのは,市民社会にとって「自然的」という意味であって,
それ以前の社会の母親にくらべれば近代家族の母親は「自然的なもの」を脱してく るのはいうまでもない。
2)「母性」にさまざまな性質の可能性があることについては検討する必要がある。
単彩的な色合いをもつ「母性」の近代性とはとりわけ我が子にのみ特殊にそそがれ る近代人としての母性の愛情のあり方をさしている。
(2)エディプス・コンプレックスをめぐって 父親像の喪失
さて,「同一化」作用の矛盾の深化が,その「段階性」に与える影響は,い わゆる「エディプス的三角形」に象徴される葛藤と,その後のその「変形」に
どのように具体的に映し出されるのだろうか。
エディプス・コンプレックスは,精神分析でいわれるように,子どもが,両 親にたいして,愛と嫉妬,崇拝と憎悪などのするどい苦悩にみちた「両価的葛 藤」を体験することをさしていうが,それは,象徴的には,子どもが,母一父 一子という三角形的構造のなかで,最初に体験する,もっとも身近かな,自然
と法=掟の関係の対立意識である。それは,だから,あくまで,自然共同体的 関係を多分に保持した家庭関係のなかでの体験ではあるが,やはり,子どもが 社会のなかで,継続的に体験する「両価的葛藤」の原型であり続ける。すなわ ち,子どもがそこで体験する愛と崇拝,嫉妬と憎悪などの感情葛藤は,多かれ 少かれ,自然的関係が,法=掟関係とするどく対立し,そのなかで両極化しあ うものであって,とどのつまりは,自然共同体的関係から市民社会的関係へと 子どもが移行するなかで増幅されつつ,一身に刻み込まれていく感情である。
だが,この「両価的葛藤」の内容は,もっとも「自然的」な「母性」の変化に 比して,それ以上に,「父性」の変化の影響を受けざるを得ないかどうかが問
題となろう。というのは,そこでは,法・=掟の象徴としてあらわれる「父性」
と子どもとの関係が,より自然的な「母性」との関係に対立する形であらわれ るのかどうかが問題となるからである。ところで,近代市民社会におけるこの
「両価的葛藤」は,一般的には,「父権社会」の集中的表現である「家父長的 家族関係」をある意味で強化するが,同時に,それを弱め,遂には崩壊させて
しまうような,するどい矛盾をはらんで進行する。
「家父長的家族関係」のなかでの父親の子どもに対する「支配要求」は,な によりも,彼を中心とした家族労働のきびしさをとおしておこなわれる「しつ け」=訓練に具体化されるが,市民社会的関係のなかでも,それは持続され,
そこでの,「同一化」作用は,しばしば経験的な,前近代的「魔術的思考」を ともないながらも,「父性」がつくりだす強い「超自我」と結びついて,子ど もの「世界了解」と「自己了解」の「調整器」としてこれまで長く維持されて きた1)。そして,独立生産者の生活の困難の増大によって,このような「父性」
の役割は容易になくならないどころか,或る場合には,逆に強化されることも おそらくあり得た。そのことは初期の市民社会の発展のなかで,例えばアメリ
フロンテイア・スピリッ
ト
カにおける「西部開拓者魂」のなかにおそらく典型的に見られるところであ
ろう2)。
1)A.ミッチャーリッヒ『父親なき社会』小見山実訳,新泉社,1972年,157ページ。
(A.Mitscherlich, Auf dem weg zur vaterlosen gessellschaft,1970)
2)もちろんここで忘れてならないことは,アメリカ社会における父権的な法=掟の きびしさが,たとえば,ローラ・インガルス・ワイルダーの一連の自伝小説(『大
草原の小さな家』その他)にみられるように,父親にしたがい,同時に自然的関係 を家族に保持する母親のやさしさを内につつみ込んでいたことを忘れてはなるま い。さらにそのことが,部分的にせよ,インディアン征服にみられるような,はげ しい排他的攻撃性を外にむかって発揮していたことも否定してはならないだろう。
だが,資本主義的発展にともなう,市民社会的関係の矛盾の深化は,このよ うな「父親像」を徐々に,そして最後には急激に変化させていった。
A・ミッチャーリッヒが述べているように,機械による大量生産と複雑化し た集団管理と結びついた分業の発展,住居と労働場所との分離,自立生産者か
11 ら消費的な被傭者の立場への変化は,父親の権威の空虚化と父親の家庭内およ び家族外での威信の失墜をたえず促進した1)。それは,従来の父一子関係によ る「同一化」作用を二つの面で「相対化」するように働いたと考えられる。ひ
とつには,従来まで「父親」に集中的に保持されていた,そして部分的に「魔 術的思考」とも結びついていた家父長的法=掟を,「批判的な洞察」をとおして,
より合理化し,一般化し,「分散化」して,家族の成員相互の掟=関係へとひ ろげていったこと。もうひとつは,すでに述べたように,企業化され,または さまざまな形で公共化された保育・養育施設の発展によって,子どもをもっと も早くから市民社会的法=掟のなかにみちびき入れることをとおして,家族に おける法=掟関係をさらに「相対化」し,「一般化」していったことである。
こうして,子どもは早くから,かっての自然共同体的関係とは異質の,市民社 会的関係一近隣,保育施設,学校などでの,他者の「まなざし」にさらされる 関係へと入っていく。こうして従来の「父親役」に象徴される法=掟関係は,
子どもをめぐって相互に定位し合う「凝視集団」のそれへと転化していったの
である。2)
1)傍点筆者,A・ミッチャーリヒ,前掲書,159ページ。
2)同上,161ページ。
しかし,このことは,「母親役」の「複数化」とは異質の内容を子どもの「同 一化」作用に与えないわけにはいかない。
「母親役」の「複数化」は,その性質からして,すでにのべたように,子ど もの「一体化」一「分離」過程に冷たい法=掟関係とは対立する,微細な発達 段階性の現代的色合いを与える可能性をおそらくつくるだろう。
だが,「父親役」の「複数化」は,これとは異なる性質をもつことが予想さ れる。もともと「父性」は,近代社会以前と以後とを問わず,ある意味で,一 般的な法=掟関係を代表するものとしてあらわれたという性格をもっている。
「父性」の「相対化」はだから,市民社会的関係のもとでは,その一般的性格 が,より普遍的になっていることをまずは意味しよう。もちろん様ざまな色合 いに満ちた「父性」のあらわれは,現実には存在する。だが,それは,自然共
同体的関係の保持やその切断のもとで,彼がまわりの女性への切実な愛情のあ かしとして身につけていく男性的「やさしさ」や,画一的・類型的「同一化」
との闘いの徹底のなかでつくられる「個性」の生活史的色合いを,家庭での関 係のなかに映し出しているものである。だから「父性」の「個性化」について
いうならば,ひとまず,「父性」の「相対化」「一般化」「普遍化」が,かって 保持した家父長的色合いを徹底的に払拭していく否定的過程を見つめねばなら
ない。それは「母性」の「抽象化」の否定的側面を見つめねばならないのと同 様ではあるが,「父性」の場合,そこにおそらく,おのずから性格を異にした
あらわれを見ることができよう。母親役の「複数化」は,もともと「画一化」
=「類型化」された法=掟の支配にたいする拒否と抵抗とを必然的に含むとい う側面をもっている。「父権社会」において,女性はつねに被支配的・従属的 位置におかれてきたから,この拒否と抵抗の性質は,市民社会的関係の矛盾の 深化のもとでは,必然的に強まらざるをえないと考えられる。
だが,「父親役」の「複数化」が,より肯定的な意味をもって,子どもの「同 一化」作用に影響を与える問題については,きびしい考察を加えなければなら
ない。
その場合,「父性」の「相対化」は,さきにみた二重の要因によって,エディ プス・コンプレックスをとおして,子どものなかにつくりだされる「超自我」
の弱まりとしてまずは現象することが予想される。それは,おそらくエディプ ス的関係における「両価的葛藤」の内的緊張の希薄化へとつながるに違いない。
それは自我形成にむける切実さの,いわば原型的弱体化,そしてその内的緊張 の先のばしであろう。
「父性」の「相対化」は,この段階では,その意味で,この段階では,「母性」
の場合に比べて,「愛」と「嫉妬」の人間的形成を弱めるという形であらわれ るだろう。
ふつうエディプス的関係における「両価的葛藤」は,子どものなかに異性の 親に対する「愛」の感情と,同性の親に対する「嫉妬」の感情のするどい対立 としてあらわれる。しかし,両親の愛情にもとつく子どもへの対応は,そうし た感情葛藤を克服する子どもの心的エネルギーの備給を増大し,一見否定的に
13
見える「嫉妬」の感情にも人間的な色合いを与える。この人間的色合いは,女 の児の場合には,母親に対する彼女の自然的関係をとおしての「嫉妬」の「和
らぎ」に,また男の児の場合には,母親に対する愛の感情のいっそうの強化を とおしての,父親による「超自我」との一時的和解に,また父親以外による,
「超自我」との比較をとおしての父親による「超自我」の「相対化」一「弱化」
に,その特徴を見ることができよう。エディプス的関係における「両価的葛藤」
は,「愛」と「嫉妬」の感情の緊張の大きさにもかかわらず,それを人間的に 統制する働きが,家庭のなかに存在する場合には,その後の葛藤克服にたいし
て重要な発達の段階を形づくることが予想されるのである。
ところが,「父親役」の「複数化」と「父性」の「相対化」は,このような,
人間的感情葛藤の発生自身を,ある意味では疎外しながら,別の意味では,す でに述べたように,子どもたちをめぐって相互に定位しあう「凝視集団」のな かへ彼らをはやくから投げ入れ,いわば,社会的掟を直接的に子どもたちにぶ つけてしまうことになりかねない。つまり,子どもは,葛藤克服のエネルギー の大きな備給を充分経験しないまま,「競争社会」における「安全感」(security feeling)の動揺へと早くから追いやられることになりかねないのである。それ
は,より具体的にいえば,「父が社会のさまざまの権威によって多数になり,
補われ,置きかえられ,またさまざまの禁制がひろがる」ことを意味し,また その結果,「攻撃的な衝動とその目標」がひろがり,それとともに,「社会の側
に,防禦を強化しようとする欲求,つまり,罪悪感を強化しようとする欲求」
が発達してくること1),そして,それらが,子どもをはやくからとらえ,子ど もがそうした関係のなかでいっそう「不安定」になっていくことを,おそらく 意味している。ところで,そのことは,異性にたいする強い愛の感情を基礎に
した同性に対する,いわば原型的「嫉妬」感情の刻印の薄さによって,子ども が,「同一化」作用のこの時期での段階をたどることをさまたげ,その代りに,
「父親像」のいわば「喪失」によって,いきなり,競争社会での,はげしい「羨 望」感情へと子どもが投げこまれることを意味する。後で述べるように,「羨望」
感情は,「嫉妬」感情とちがって,「競争社会」の掟によって直接的に換起され る感情だと考えられる。このように「父親像」の「喪失」は,この面での子ど
もの「同一化」作用の原動力の弱体化と,その矛盾の激化を同時にはらんでい ることを予想させるが,この予想は,人間における「嫉妬」と「羨望」の感情 の力動性の違いを明らかにすることによっていっそう明らかとなるだろう。
1)ヘルベルト・マルクーゼ『エロス的文明』南 博訳,紀伊国屋書店,1958年,69
−70ページ。(Herbert Marcuse, Eros and Civilization, Beacon Press,1955)
そこで,まず,人間におけるもっとも基礎的な「愛」と「嫉妬」の感情の力 動的形成におけるエディプス的葛藤の位置と意味を考えることから,この問題 を考察してみよう。そのためには,少し時期がさかのぼるが,「愛」と「嫉妬」
の感晴の葛藤の発生からみてみなければならない。
(3)前エディプス期における「同一化」作用 「同情」と「嫉妬」をめぐって
人間における「愛」と「嫉妬」の感情葛藤は,エディプス期にはじめて起る のではない。もともとこの感情葛藤は,三才以前の子どもの自我意識形成の途 上であらわれる「対感情」 「同情」(sympathie)と「嫉妬」(jalousie)に その起源をもっている。
H・ワロンは,「同情」と「嫉妬」が,子どもが自己の概念をまだつくって いない段階ですでにあらわれ,むしろ,それらが自他未分化の段階への「退行」
としておこることを「観照」(contemplation)と「誇示」(parade)という「一 対性」の行為=態度から説明している1)。
1)H.Wallon, Les origines du caractさre cnez 1 enfant,1932, P.U.F,, P.257.
(H・ワロン『児童における性格の起源』久保田正人訳,明治図書,1965年,225ペー
ジ。)
一般に「観照」とは,人がある情動的な状態でまわりを「見つめている」こ と,「誇示」とは,まわりから,いちじるしい注意をひこうと自分を「見せて いる」ことを指す。その場合,「同情」とは,ワロンが,なでられている雌犬
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をみながら,いかにも自分がなでられているかのように満足の表情と身振りを 見せている雄犬の例を挙げて説明しているように,「見せている」ものにたい する「見つめているもの」の「同一化」=「同一視」の状態である。そこには,
すでに,たんに「見つめている」だけでなく,もう一方で「見せたい」という 行為の感情が他者の「見せている」ことへの「同一化」=「同一視」として,
分極化しながら統一されている。「同情」とは,だから,たんなる他者の行為 の「観照」ではなく,自己の「誇示」を前提とした感情である。そして,「嫉妬」
とは,ワロンが,それまで,なでられて満足していた雌犬が,愛撫を雄犬へと 移したとたん,その雄犬にとびかかっていく例で説明しているように,他者へ の「観照」が自己の「誇示」とするどく対立して,「同情」のときのように,
分極化した行為を内面で調和的に統一できず,対の一方である「観照」の行為 へと「退行」しようとして,経験する状態である。ワロンは,「嫉妬はいろい アフエクテイブ
ろ複雑な現われ方をするが,本質的には情緒的状況にかかわる者が,
:箱プ1宿摘レ態度を感じる,そういう段階への退行だ」と述べているが1),これは,
「同情」と「嫉妬」の感情の弁証法的開係と,その人間的本質をよくあらわし
ている。
1)H,Wallon, Op, cit., P.260,ワロン,前掲書,228ページ。ただし訳語は若干あら ためてある。
つまり,「同情」一「嫉妬」は,子どもの「社交的な感受性」が発達してく る時期に,「見ること」=「観照」と「見せること」=「誇示」という,受動 性と能動性をもった二つの相補的態度への両極化があらわれることを前提とし て,この二つの極が,単に相補的で,かつ別々の個体においてだけでなく,一 人の人間のなかに統合されてあらわれることによって,新しい感情の対立がひ
きおこされることを示している。
このことを,もう少しワロンにしたがってくわしく考察すれば,次のように なるだろう。
まず,子どもの「混清的な社交性」(sociabilit6 syncr6tique)の段階での「見 ること」と「見せること」との未分化は,「見ること」と「見せること」との
分化,そのような役割の「一致」と「対立」という事態へ移行する。この場合,
前者は,相対する子どもの「許容」(concession),「共感」(conpassion),「無 関心」(d6sint6ret)の諸相として,後者は,「専制」(despotisme),「競争」
(comp6tition, rivalit6)の諸相としてあらわれる1)。だが,このような「一致」
と「対立」はまだ相補的な態度をとる子どもの間の調和と闘争としてあらわれ るにすぎない。ところが,この調和と闘争は,子どもが各々の役割を自己のな かでともに経験することによって,子ども自身の内的なそれらへと転化してい く。この転化は,自己と他者との「混同」を一部必要としながらも,このよう な部分的混同のなかで,互いの役割を交換しながら,子どもが他者を自己のな かに同化していく過程を示している。例えば,子どもは,自分がふだんほしがっ たり,また,きらったりするものを,他者に与えたり,他者からうばいとって 遠ざけようとする。相手の子どももまた自分にたいして同じ行為をする。その 場合,このような態度の交換は,一種の対立を含んでいる。すなわち,自分が 欲しいものを相手に与える際に,相手も同じものを欲しいと思っているなら,
それは自然にむかえ入れられるが,反対に相手がそれをきらっているなら,そ れは拒否される。反対に自分がきらうものを,他者からうばって遠ざけようと する際,相手も同じものをきらっているなら,それは自然にむかえ入れられる が,相手がそれを欲しいと思っているなら,それは拒否される。だから,「同情」
は,こうした行為の交換による,自己と他者の「見ること」=「観照」と「見 せること」=「誇示」の対立の調和的止場を示し,「嫉妬」は両者のするどい 分裂を示すものとなる。「同情」では,相手にうけ入れられることによって,「見
る」ことと「見せる」こととが調和し,自己の内面に安定が生みだされる。だ が,「嫉妬」では,「見る」ことと「見せる」こととの闘争がおこり,「見せる」
ことが決定的におさえられるので,内面で不安定=焦そうが生じる。子どもが この時期,たたいたり,たたかれたりするような「交代遊び」に代表される「役 割交換」に熱中するのは,状況の一方の側から,反対の側にかわるがわる移っ
てみて,対立した感情を体験するのにふけることを示している。こうして,子 どもは,「見ること」=「観照」という受動1生と「見せること」=「誇示」と いう能動性とを,調和と分裂をふくむ葛藤をとおして,ともに経験し,それに
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よってはじめて,自己を他者とは別のものとして意識するようになるのである。
1)H.Wallon, Op. cit., p,p.253−256,ワロン,前掲書,222−223ページ。
ワロンが「同情」と「嫉妬」の感情を,このような「相補的態度」の自己の 内面における止場と,新しい矛盾の発生として位置づけたのは,きわめて重要 であった。すなわち,ワロンは,「同情」の感情を,そうした葛藤をとおして その「相補的態度」の自己の内部における調和的止場として,他者とは別の「自 己」の意識,つまり自我の意識の形成の,おそらくより発達した段階として位 置づけていると考えられる。だが,にもかかわらず,そこには,かっての「相 補的態度」のするどい対立 「専制」と「競争」のなかでの「支配」,勝利 したものの「優越」と,支配され,敗北したものの「敬愛」,「同意」という感 情の対立から,「嫉妬」の感情へと「転化」する に象徴されるような「内 面化」がすでに存在していること,したがってそこでおこる一時的「退行」と しての「嫉妬」もまた,きわめて「人間的」意味をもっていることを見落して はなるまい。
ワロンのこのような感情発達論は,ヘーゲルが『精神現象学』のなかで示し た,あの「主奴関係」論一対人関係における主と奴の地位の対立とその対立 の各々の個体への内面化,そして主と奴の立場の逆転の力動性の弁証法一が まさに子どもの「自己意識」の個体発生の過程で,リアルに経験されることを 示している。
私たちは,ここから,次のような結論を比較的容易に引きだすことができる だろう。子どもは,前エディプス期にすでに,このような対立と闘争を経なけ れば,「自己意識」を発生させることができないということ,子どもは,子ど も同士の「相補的態度」一「一致」のなかでの「許容」「共感」「無関心」,「対 立」のなかでの「優越」「同意」など を内面化しながら,「同情」と「嫉妬」
の感情を交互に経験することなしには,「自己意識」を形成することはできな いということである。(だから,「勝利」と「優越」だけを,そして「嫉妬」な
き「同情」(それは形容矛盾である)を「経験」する子どもは,真の意味での「同 情」へと達しないのである。)
もっともここで,私たちは,「支配」と「被支配」,「勝利」と「敗北」,「優越」
と「同意」という対感情を,後に述べるような「競争社会」での,きわめて不 安定な状況におけるそれらとの直接的類比で考えてはならないだろう。これら の態度の基礎にある「競争」や「専制」は,ワロンがきわめてリアルな例を与 えているように,子ども同士の「おもちゃのとりあい」とか,「いばり合い」
のなかで,なによりも典型的にあらわれるものである。1)。
1)ここで「とり合い」及び「いばり合い」と訳されているものは,原文ではcon−
p6titionとdespotismeである。(この点については, Cf.,H. Wallon, Op, cit., p.p.254
−256.ワロン,前掲書,223−4ページ,参照。)
以上,やや遠まわりしたようだが,これらのことから,とりあえず仮説的に 結論づけられるのは,子どもはエディプス期以前にすでに「同一化」作用のき わめて重要な段階を経過するという事実一ワロンのいう感情対立が,ほとん
どすべて,同年令又は若干異なる年令の子どもたちの対人関係をとおして例示 されているように,この時期の「同一化」作用の「段階性」が,子ども同士の 関係から決定されているという事実である。
しかし,この事実の重要性は,さきの書物でワロンが引用しているビューラー 夫人の実験事例が,同年令もしくは,ややはなれた年令の子ども同士の関係に 限定されている,ということからだけくるのではない。子どもは両親の保護の もとにありながらも,その「同一化」を,具体化しうる範囲内で誰れに対して もおこない,その結果を自己の内面に刻み込んでいく。だから,子どもはワロ ンが例示していない両親=大人との「同一化」作用においても,同年令の子ど もにたいして有効だったのと同じ性質のものをおそらくわがものとしていくこ とが予想される。もちろん,両親との「同一化」を,同年令またはややはなれ た年令の子どもとのそれと全く同一視できないのはいうまでもない。例えば,
同年令の子ども同士では,ふだん欲しがったり,きらったりするものをめぐっ て対立がおこり,さきに述べたような「同情」と「嫉妬」との感情葛藤が発生
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する。しかし,両親との関係では,子どもは両親の教育的態度によって,欲求 を満足させることができたり,逆に欲求を禁止させられたりするので,子ども 同士の場合と同じような感情葛藤が日常不断に発生するとはいえない。子ども の欲求は,両親のコントロールのもとで即自的に満足させられたり,権威的に 禁止させれたりするので,ある場合には,「同情」と「嫉妬」との感情葛藤は 和わらげられるが,ある場合には,それがよりするどくあらわれることもおこ る。両親との関係では,「同情」と「嫉妬」との感情葛藤は,子どもの「自然性」
を,考慮の度合いがことなる「社会性」のなかに,その時どきにより深く浸入 させるということがいえるだろう。だから,子どもは,ある場合には,両親と の関係によってつくりだされる「同一化」作用にたいして,同年令またはやや はなれた年令の子ども同士の「同一化」作用を対置させ,即自的欲求の満足や 欲求の権威的禁止による「同一化」作用にたいして,ある種の抵抗をさえおこ すことがありうる。
このことは,子どもの「同一化」作用の「段階性」が,すでにこの時期にお いて,母親役と父親役の「複数化」の現実と,同年令またはややはなれた年令 の子どもとの関係との拮抗のなかでおこること,したがって両者を同時に考慮
しないでは論じられないことを示している。
ワロンのさきの考察が,私たちに示している重要な事実は,なによりも,こ の段階の子どもの「自己意識」の発達が,すでに「相対化」された多数の人間 関係のなかでおこなわれるということ,したがって同年令またはややはなれた 年令の子どもたちとの関係と切りはなされた母一父一子どもの三角関係だけで
「同一化」作用を論じることはできない,ということである。
もっとも,ワロンの考察が,次の事実,すなわち,人間の「自己意識」の形 成が,個体発生の過程で,多数の同年令またはややはなれた年令の子どもたち
との関係なしには,十分におこなわれないという,歴史的事実の証明の基礎に なりうるかどうかは,なお検討が必要である。だが,近代家族における母一父 一子どもの三角形的関係だけが,「同一化」作用のもっとも初期段階を形づく
るのではないということ,このような三角形的関係は,歴史的に見れば,子ど も「自己意識」の形成においては,特殊な位置を占めていることは,おそらく
否定できないものと思われる。だから,もしも,子どもが,このような関係だ けで,人生のもっとも初期の段階を過すとすれば,一人っ子の場合のように,
両親が「保護者」と同時に,同年令または,ややはなれた年令の子どもの役割 をともにになわなければならないだろう。
そこで,あらためて,こうした文脈のなかで,「母親役」の「複数化」の問 題を考えてみると,もし,それが,前エディプス期における子どもの「一体化」
一「分離」過程で,ワロンのいう「相補的態度」の対立を,ごく自然な形でつ くりだすならば,この時期の子どもの「同一化」作用の「段階性」にきわめて 人間的な色合いを与えることになることが予想される。また,それは,子ども が感じとる退行的感情としての「嫉妬」にたいしても有効に働らくに違いない。
だが,「父親役」の「複数化」,その実質的な「喪失」は,これとは異なるす るどい矛盾を「同一化」作用に与えることになるかも知れない。
すでに述べたように,父親役の実質的な「喪失」は,子どもへの「掟」=「法」
が親子の自然的な交流ぬきに,いきなり子どもをとらえることを意味している。
したがって,それは子どもが同年令またはややはなれた年令の子ども同士の「相 補的態度」の対立と交換とを充分経ることなく,日常的支配の一方的作用 例えば,最近の子育ての商品化,とりわけその機械化=自動化にあらわれてい
るような のなかに投げ入れられ,きわめて早い時期から,「見せ」「行わせ る」精緻な自動的システムのなかにいつも置かれることを意味する。そこでは,
子どもへの「掟」=「法」が技術化された子育ての「管理的システム」と一体 化してあらわれるために,子どもは,つねにそうしたシステムにたいする無意 識的な「同意」と「服従」を強いられることになる。というよりも,そうした システムは,もともと「権威」や「支配」に対立して,相補的に生まれる「同 意」や「服従」の感情さえも欠いた自動的態度を子どもにとらせ,自己意識の 形成の原動力を弱化させてしまうことを予想させる。そして,管理化され,シ ステム化された,ものへの受動的適応と人への交流願望との間を子どもはする どく切りさかれ,後者がみたされない場合には,前者にかかわる人びとにたい するはげしい攻撃性をも示し,また,そうした人びとさえも見えない場合には,
「とりとめのない不安」のなかで退行感情の対象を求めてさまようことになる
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かも知れない。
これは,おそらく,「同一化」における,もっとも初期の「段階性」の喪失 現象なのではないかと思われる。
「父親役」は,ふつう精神分析でいわれるように,社会的な「掟」=「法」
シンボル
が,ことば=象徴として発せられるところに求められるが,「父親役」の喪失は,
このような「掟」=「法」 が,もっとも早い時期から,その「人間的自然性」
を失い,「物化」一「物象化」された管理システムによって代行されること,
またはいちじるしくそうした管理システムの影響化におかれることを意味す る。だから,そこでは,「掟」=「法」を表現する表象やことばさえも,「物化」
一「物象化」された管理システムのなかに,抽象的にくみこまれ,子どものな かに浸入してくるために,それらは,子どものもっとも原初的な退行的感情と するどく分極化しながらも,その周辺をたわむれることになる。つまり,子ど もは,その後の発達のスプリング・ボードとなる「嫉妬」などの退行感情地点 さえも失って,「同情」へと進みでる力動性を弱めてしまうのである。
もっとも,以上述べたことは,「母一子関係論」の最近の発展に比べて,「父 一子関係論」の研究がまだ十分に進んでいないことによって,あくまでも仮説
の域を出ていない。しかし,最近の「父性」研究が明らかにしているように,
「父一子関係」は,エディプス期においても,子どもの欲求のあらわれに適切 に応える場合には,「母一子関係」とある意味で変わらぬ側面を持ち,「父一子 関係」が,従来,精神分析で言われてきたように,エディプス期になってはじ めてその独自の意味をあらわすのではないこと,さらに,その役割も純粋に象 徴的役割だけをもつのではないことなどが,仮設的にいわれていることから,
さらに検討する必要がある1)。
1)Cf., M. Ameann_Gainatti, G. Badolato, S. Cudin重, La Paternit6;Nouvelles perspec−
tives de la recherche, Enfance No.2, 1984.
つまり,「父親役」の「複数化」と同じように,「父性」のもつ独自の役割を 明らかにすることによって,その内容を変えていくこと,そして,それが子ど
もの「同一化」作用に独自の「段階性」を付与することが予想されるのである。
この課題は今後に残されている。
(4)仲間集団での「同一化」作用
さて,子どもは,エディプス期以後の対人関係のなかで,どのような「同一 化」作用の新しい葛藤を,市民社会的関係の矛盾の深化をとおして経験するの
だろうか。さきに述べたように,エディプス的関係における葛藤のいわば解消 が,子どもに「相補的態度」の葛藤を経験させないばかりか,「嫉妬」のよう な退行感情さえも,充分に経験させないならば,それはその後に子どもが入り 込む,市民社会的関係のなかで,「同一化」作用にどのような刻印を押すのだ
ろうか。
ここで,結論を先どりしていうならば,にもかかわらず,子どもは,市民社 会的関係のなかで,早晩,ある意味で「同情」一「嫉妬」の関係のなかに投げ 入れられないわけにはいかないということである。それも,感情の安定をもた らすような種類のそれではなくて,つねに揺れ動き,無限に不安定が続くよう な種類のそれのなかにである。
というのは,「嫉妬」の感情は,スタンダールやプルーストなど,多くの近 現代小説が見事に表現しているように,市民社会的関係のなかでは,多かれ少
なかれ,そういう性質をもってあらわれるからである。
市民社会的関係のなかでの「嫉妬」は,欲望の敵対のもと,「同情」できな い自己を無限にさいなみつづける苦しみの感情である。だが市民社会的関係の 矛盾の深化のなかでは,「嫉妬」の感情は,「同情」という「相補的態度」への 移行を失って,しばしば「宙づり」にされる。それは,子どもが,その後の人 間関係のなかで,対感情を同一人物同士で交換することを,時に不可能にする
までに困難にする。
一口でいえば,市民社会的関係の矛盾の深化は,子どもが家庭を離れて入り 込む,地域や学校での「仲間集団」(peers;compeers)における対立する役割 の同一人物間の交換を不可能にしたり,きわめて困難にするように働らくこと
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が予想される。このことは,子どもをめぐる「仲間集団」の変化と深くかかわっ ている。それは,一口でいえば,自然的関係要素を多分に含んだ幼児的な「役 割遊び」集団の崩壊と,それに代る近代的・合理的「ルール遊び」集団の成立,
さらには,そこでの集団関係の形式化・抽象化と「学校化」における成績競争 による「仲間集団」の全般的弱体化などによって特徴づけられる。このことは,
例えば,「ごっこ遊び」の要素を多分に含んだ伝承遊びが,子どものなかに対 感情や対態度を柔軟に交換する機会を多く含んでいたのにたいして,近代ス
ポーッを中心とした「ルール遊び」や近代学校での学習が,子どもの部分的な 能力を量化させ,その尺度にしたがって,子どもたちを互いに競争させる要素 を必然的にもって登場してくることに象徴される。もっとも,ここで忘れてな らないことは,市民社会における「仲間集団」での競争が,もともと新しい「同 一化」作用の発生をうながしているということである。それは,「ルール遊び」
に象徴されるように,「仲間集団」が合理的なルールをとおして結びあわされ ていることと関係している。G・H・ミードが述べているように,このルール は,子どもの遊びにおける役割が,ひとつの役割から別の役割へと連結してい るような幼児の「ごっこ遊び」でのそれと違って,子どもの遊びにおける役割 を組織化させ,ある合理的な全体へと統合させる。例えば,ゲームは,ミード がいうように,組織化された人格が生まれてくる状況を説明してくれる。子ど もはゲームのルールにしたがって自己のポジションをとるが,同時に,他者の 態度をもそれによって採用し,その態度をとおして共通の目標との連関で,彼 の行なおうとすることを決定する。これがルール遊び集団が、ごっこ遊び集団 にたいする優位性である1)。
1)G.H. Mead, Mind Self and Society from the Standpoint of a social Behaviorist,1934,
The University of Chicago Press, p.159,(ミード『精神,自我,社会』稲葉三千男,
滝沢正樹,中野収訳,青木書店,1972年,170ページ。)
ミードによれば,ルール集団のもつこの組織性は,子どもの「同一化」作用 に新しい矛盾,すなわち,個人のなかに他人の態度の組織化されたセットとし
ミ− ミ− アイ
ての「me」と,そのような「me」にたいする生物体の反応としての「1」との