長野大学紀要 第13巻第4号 309-321頁 1992
N・ルーマンのコミュニケーション概念をめぐって
On N.Luhmann's Concept of Communication
1 は じめ に 現代社会 をとらえ うる社会理論 は、いかなる道 筋において構築 されなければな らないのか。 この 問いの解明 をみずか らの課題 として引 き受け、現 代社会 にかんす る社会理論の構築に向けて精力的 に取 り組んでいる人物 としてN・ルーマ ンと
J・
--バマー スの名 をあげることには、誰 しも異論 はないことと思 われ る。い うまで もな く、ルーマ ンと--バマー スとは、その依拠す る理論的方法 において も異なっているし、現実認識のあ り方に ついて もその方向性 を大 きく異に している。だが、 そ うしたスタンスの違いに もかかわ らず、 コ ミュ ニケー ション-の着 目とい う点においては、ルー マ ンと--バマース とのあいだに重要 な共通性 を みいだすこ とができる。 ウエーバー =パー ソンズ 流のこれ までの行為概念はいわば社会性 を欠いた ものであ り、 この行為概念か ら出発す るか ぎり現 代社会 をとらえ うる社会理論は構築 しえない。 こ の基本認識 をルーマ ンと--バマース とは共有 し ている。 しか も、ウェーバーやパー ソンズが陥 っ たこうした陸路 を避けるためには、行為か らでは な くコ ミュニケーションか ら出発すべ きだ とい う こと、 こうした共通 した提案 を、かれ らはそれぞ れのパースペ クティヴか らおこなっている。そ う してみ ると、ルーマ ンも--バマース も、社会理 論の 「コミュニケー ション理論的転回」 を提唱 し ている とい うことができる。 社会理論の コ ミュニケー ション理論的転回を提 唱す るとい うこの点においては、ルーマンと--バマー ス とは まさしく一致 しているOだが、 じっ さいにこの転 回をどのような道筋においてお しす すめ るか とい う局面になると、かれ らは別々の方 向に進むこ とになる。そ うだ とす ると、社会理論 の コ ミュニケー ション理論的転回をめ ぐるルーマ永 井
彰
Akira Nagal
ンと--バマース との共通点 と相違点 を明 らかに す るこ とこそが、現代社会にかんす る社会理論の あ り方 を考察す るうえで、重要 な論点 となるにち がいない。 ここでは、ルーマンと--バマースの それぞれがめ ざす道筋について詳細に検討す るこ とはで きないけれ ども、 さしあた りその要点だけ を確認 してお くことにす ると、 まず--バマース は、 目的合理的行為 を範型 としたウェーバー =パ ー ソンズ流の行為概念にたい して コ ミュニケー シ ョン行為 の概念 を提唱 し、あ くまで も行為理論の 枠内で コ ミュニケー シ ョン理論的転 回をお しすす め ようとしている。 この点において--バマース は、社会理論た りうる行為理論の構築 をめ ざして いるというこ とに注 目してお こ う川。それにたい してル-マ ンは、 自己準拠的システム理論の視角 か ら行為 とコミュニケー ションとのかか わ りを根 底か ら洗いなお し、 コ ミュニケー ション過程 こそ が社会 システムの基底的な過程 であるこ とを明 ら かに しようとしている(2)。社会理論の コ ミュニケ ー シ ョン理論的転回にみ られるこうした方向性の 違いこそが、ルーマンと--バマース との もっと も重要 な理論的係争点の-つであるとい うことが で きる。 いわゆる--バマース-ルーマ ン論争 を よ り実質的な もの として展開させ るためには、 こ うした対立点 をそれぞれの理論に内在 して十分 に 解明 してお く必要があるように思われ る(3)a そ うした課題意識か ら、本稿 ではそのための第 一歩 として、ルーマンの コミュニケー シ ョン概念 につ いて検討す ることに したい。 この検 討 をつ う じて、社会理論の コ ミュニケー ション理論的転 回 は どの ようになされるべ きかの問いにたい し、ル ーマ ンが どのように答 えようとしてい るのか を明 らかにす ることに しよう(4)0 ところで、ルーマンは コミュニケー シ ョン過程 - 85-310 長野大学紀要 第13巻第 4号 1992 こそが社会 システムの基底的な過程であると主張 している(5)。その意味において、社会 システムを構 成す る最終的要素は行為 ではな くコミュニケー シ ョンであ るとみ るペ きだ とい うことになる。ルー マ ンは、社会 システムの最終的要素 を行為 とす る か コ ミュニケー ション とす るかはその社会理論 に とって基本的な選択 であることを強調 し、 こうし た選択 こそが、それに もとづ いて構築 され る理論 のスタイル を決定的に特徴づけることになると指 摘 してい る(6)。この文脈 においてルーマ ンは、社会 システムの もっ とも基底的な過程が コミュニケー ション過程であるとのべ てい るのであ り、そうし た ところか らここでのルーマンの主張は、いわば 「行為か らコミュニケー ション-」 とい うテーゼ としていいあらわす こ とがで きる。ただ、 この表 現は誤解 を招 きかねない もので もあるので、後の 論点 を先取 りしてここで若干の補足 をおこなって お くことに したい。 とい うの も、ルーマンは行為 概念その ものを無用の もの として社会 システム理 論か ら放逐 して しまっているのでは決 してないか らである。 ここでルーマ ンが反対 しているのは、 行為 なるものをまず出発点に設定 し、そうした行 為 のなかの特別 なケー スが社会的行為 として取 り あげ られ、そ うした社会的行為が組み立て られて 社会が構成 され るとす る考 え方だ といえよう。つ まりルーマ ンが批判 しているのは、社会性 とい う ものを行為 の特殊 なケー スや行為 の特定の部分 と して とらえる考 え方 なのであ り、 こうした考 え方 に依拠す るか ぎり社会性 とい うものは適切 に とら えられない とルーマ ンはみているのである(7)。行 為 なるものを出発点 にお くこうした考 え方 を否定 す るところにここでのルーマ ンのね らいがみいだ されるのであ り、社会理論のなかか ら行為概念 を 追放 しよ うとしてい るわけでは決 してない。後に み るように、社会 システムを行為 システム として とらえる見方は一面的 ではあるけれ ども、決 して 誤 りとはいえない、 と もルーマ ンはのべ ている(8)。 む しろルーマンの力点 は、社会学のなかで通用 し て きたウェーバー -パー ソンズ流の行為概念 を問 いなおす ところにあ る とみなければならないので あ り、ルーマンは、 そ うした根底的な問いなお し をふ まえて、行為 とコ ミュニケー ション とのかか わ りに新 たな視角か ら考察 を加 えていこ うとして いるとい うこ とがで きる。 そ うした確認 をまずおこなった うえで、「行為か らコ ミュニケー ション-」 とい うテーゼに立 ちか えってみ ると、 このテーゼが成立 しうるためには、 コ ミュニケー ションその ものが個々の行為 には還 元 されえない とい うことが示 されなければな らな いO とい うの も、 コ ミュニケー シ ョンもまた伝達 とい う一種 の行為 にほかな らない とか、 コ ミュニ ケー ション過程は行為の連鎖 として とらえ られ る のだ とかいった常識的なコミュニケー ション把握 に とどまるか ぎり、いまあげたテーゼは結局の と ころ 「行為か ら行為へ」 とい う トー トロジーに陥 って しまい、無意味な もの とならざるをえないか らである。 したが って、ルーマ ンの主張が有意味 なもの となるためには、 コ ミュニケー シ ョンとは 他者に何 ご とか を伝達す ることだ とす る素朴なコ ミュニケー シ ョン観か らの訣別が不可欠 となる。 この点において、ルーマ ンの コ ミュニケー ション 概念は、 コ ミュニケー シ ョン観その ものの転換 を め ざしているとい うことがで きる。 そこで まず、ルーマ ンの コ ミュニケー ション概 念の基本的な論理構造 を検討 し、 コ ミュニケー シ ョンは個々の行為 には還元 されえない独 自の リア リティであるとす るルーマンの論理 を確認す るこ とに しよう(第 2節)。ついで、そ うしたコ ミュニ ケ」 ション概念か らす ると、行為 とコ ミュニケー ションとのかかわ りは どのように とらえなおされ るのか を検討す るこ とに したい(第3節)。 そ して 最後に、--バマー スの コ ミュニケー ション行為 概念 と対比 させ るこ とによってルーマンの コ ミュ ニケー ション概念の特徴 をうきぼ りに し、--バ マース-ルーマ ン論争 とのかかわ りにおいて今後 検討 され るべ き論点について、確認 してお くこと に しよう (第
4
節)0 2 コ ミュニケ ー シ ョンの概念 ルーマンの基本的な考 え方か らすれば、社会 シ ステムは行為 か ら構成 され るのではな くコ ミュニ ケー ションか ら構成 されているのだ とい う。 こう したルーマ ンの見解が首肯性 を有す るためには、 コ ミュニケー ションが行為 には還元 されえない独 自の リア リティであることが示 されなければなら ない。 とい うの も、 コミュニケー ションとは伝達永井彰 N・ルーマンのコミュニケーション概念をめぐって 行為 のことであるとか コミュニケー ションは行為 の連鎖にはかならない とかいった通常の コ ミュニ ケー シ ョン把握に もとづ くか ぎり、 コミュニケー シ ョンは結局の ところ行為へ と還元 されて しまう ことにな り、社会 システムは行為か らではな くコ ミュニケー シ ョンか ら構成 され るとす るルーマ ン の主張が、無意味な もの と化 して しまいかねない か らである。 そ うしてみると、 まず第
1
に、 コミ ュニケーシ ョン概念 を解明 して、 コミュニケー シ ョンが行為 には還元されえないことを示す ことが 不可欠 となるし、第2には、そうしたコ ミュニケ ー ション概念の解明によって開示 された見地か ら、 コ ミュニケー ションと行為 との関係が とらえなお されなければならないことになる。 ところで、ルーマ ンが コ ミュニケー ション概念 を解明 してい くにあたって まず批判の対象 として 取 りあげているのが、 コ ミュニケー シ ョンを 「移 伝 (Ubertragung)」とい うメタファーにおいて と らえる考 え方、すなわちコ ミュニケー ションとは 送 り手 か ら受 け手へ とニ ュー ス な い しは情 報 (Information)を移転 させ るこ とだ とす る考 え 方である。 ルーマ ンか らすれば、 この移転 という メタファーが用い られれば、 コミュニケー シ ョン が一塩 の物体 のや りとりのように とらえられて し まい、 コ ミュニケー ションを実体論的に歪めて と らえて しまうことにつなが る。それゆえ、 このメ タファーは コ ミュニケー ションの現実相 を把握す るには まった く役 に立たないのだ とい う(9)。 じっ さいの ところこうした移転のメタファーは、 コミ ュニケー シ ョンを把握す るさいにご くふつ うに用 い られているのだけれ ども、ルーマンか らすれば、 こうしたいわば常識的なコ ミュニケー ション観 こ そが問いなお されなければならないのである。 ルーマ ンによれば、移転 メタファーに もとづ く コ ミュニケー ション把握には、次のような難点が みいだされ る。 まず第1
に、 このメタファーにし たがえば、送 り手が何 ものか を引 き渡 し、その何 ものか を受 け手が受け取 るとい う印象が与えられ る。 しか し、 このことか らしてすでに事実には合 致 していない。 とい うの も、送 り手は何 もの も失 ってはお らず、その意味においては何 も手放 して はいないか らである(10)。た しかに物体 を譲 り渡す ばあいには、送 り手は何 らかの物体 をじっさいに 311 失い、 その物体が受け手へ と移転す るこ とになる。 だが、 そ うしたばあい とは違 っで 情報 を伝達す る ばあいには、送 り手はそのことによ り、何 も失 っ てはいない。情報はた しかに受け手- と伝 えられ るが、 そのことによって送 り手はその情報 を失 う わけでは決 してな く、送 り手はその情報 を保持 し っづ けている。 第2
に、移転の メタファーに したがえば、 コ ミ ュニ ケー シ ョンの根 幹 は移転 の行為 で あ り伝達 (Mitteilung)であることになる。 しか しなが ら、 ルーマ ンによれば、伝達 とい うものは コ ミュニケ ー シ ョンの一部にす ぎない。ルーマ ンか らすれば、 伝達 は何 らかの選択の提起以上の何 もので もあ り えない。 こうした提起が受け止め られ この刺激が 処理 されては じめて、 コ ミュニケー ションは成立 す るのだ とい う(ll)。 第3に、移転 とい うメタファーは移転 されるも のの同一性 を誇張 している。 このメタファーが用 いられ ると、移転 される情報が送 り手 と受け手の 両者に とってあたか も同一であるかの ように惑 わ されて しまう。 もちろん同一であるとい うことも あ りうるのだけれ ども、 そうした同一性があらか じめ保証 されているわけでは決 してない。ある情 報が送 り手 と受け手の両者に とって同一 だ とい う ばあい、その同一-性はコ ミュニケー シ ョン過程の なかでは じめて構成 され るのであ り、 ある情報が 送 り手 と受け手の双方に とって きわめて異なった もの を意味 しているとい う事態 も考 え られ うるこ とを忘れてはならない。移転 とい うメタファーは、 こ うした事態 を覆 い隠 して しまうこ とにつ なが る(12)0 第 4に、移転 というメタファーに したがえば、 コ ミュニケー ションとは、送 り手が受 け手に何 も のか を伝達す る二極的過程であるとい うことにな る。 しか し、 コミュニケー ションを送 り手 と受け 手か らなる二極的過程 として とらえるこ とそれ じ た い が疑 わ しい こ とで あ る、 とルー マ ンは い う(13)。後 の議 論 を先取 りして いえば、 ルーマ ン は、情報、伝達お よび理解(Verstehen)か らなる 三極 的過程 として コミュニケー ションを とらえる べ きことを主張 している。そ うしたルー マンじし んの コ ミュニケー ション把握については、す ぐこ の後 で検討す ることに しよう。 ともあれ ルーマ ン - 87-312 長野大学紀要 第13巻第 4号 1992 によれば、移転 メタファーに もとづ くコ ミュニケ ー シ ョン把握には、いまのべ た四つの問題点がは らまれているのであ り、それゆえこうした常識的 なコ ミュニケー シ ョン観か ら離れ、 コ ミュニケー ションとい うター ミノロジー それ じたいを作 りか えなければな らないのだ とい う。 それでは、ルーマン じしんは コ ミュニケー シ ョ ンをいったい どの ように とらえようとしているの だろ うか。 まずは じめにルーマ ンは、かれ じしん の意味概念 を前提に しなが ら、 コ ミュニケー ショ ンとい うものがつねに選択的な出来事 であるとい う点 を強調す る。ルーマ ンによれば、 コミュニケ ー シ ョンは、その ときどきの じっさいの指示の地 平のなかか ら何 ごとか を選びだ し、それ以外の も の を無視 しているのであ り、そ うしてみ ると、 コ ミュニケー ション とはこうした選択の処理のこ と にほかならないのだ とい う(14)。ルーマ ンの表現 を 引用すれば、「コミュニケー ションのなかで現実化 され る選択は、それ じたいの地平 を構成 してい る。 よ り詳 しくい うなら、そ うした選択は、そ うした 選択が選んでいるものをすでに選択 として、す な わち情報 として構成 している
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「そ うした選択が 伝達す るものは選 びだされているばか りでな く、 そ うした もの じたいすでに選 びだ Lであ り、それ ゆえに伝達 される」(15)のである。この表現にみ ら れ るルーマ ンの考 え方 を敷宿 していえば、送 り手 による 「伝達」や受け手による 「理解」が世界の なかか らの選択であるのはい うまで もないが、そ ればか りでな く伝達 され るものそれ じたい もまた 一つの選択 なのであ り、だか らこそ 「情報」 とし て伝達 され るのだ とい うこ とになる。 しか もそ う した情報それ じたいの選択性は、送 り手の伝達 に も受け手の理解 に も還元 されえない。だか らこそ、 コ ミュニケー ションは二極の選択過程ではな く三 極の選択過程 とみなされなければならないのだ と い う(16)。そうしてみるとルーマ ンは、情報それ じ たいの選択性 とい うものに着 日し、それが送 り手 による伝達や受け手による理解 には還元で きない とい うことを指摘す ることによって、移転 メタフ ァーに もとづ く実体論的な コ ミュニケー ション把 握か らすでに一歩抜け出 してい るとい うことがで きよう。 ただ しそのさい、 コ ミュニケー シ ョンが たんに三つの選択か らなるで きごとだ とい うので はな く、伝達、情報および理解 とい う三つの選択 の綜合か らなる創発的なできごとであることが示 されなければならない。 とい うの も、 このことが 示 されなければ、 コ ミュテケ- シ ョンもまたい く つかの選択の組みあわせ だ とい うにす ぎず、 コ ミ ュニケー ションその ものの論理構造が十分 に解明 された とはいえないか らである。 た しかに コミュ ニケー シ ョンが個々の行為 に還元 しきれないこと は指摘 されたけれ ども、 ここでの記述ではたんに、 情報 それ じたいの選択性が伝達や理解の選択性 と 並置 されているにす ぎない。 もしルーマ ンの主張 がそ うしたレヴェルでの指摘 に とどまるとい うの であれば、従来の コ ミュニケー シ ョン把握か ら完 全に脱却 しえた とはいい きれないだろう。 い うまで もな くルーマ ンのね らいは、かれ じし んの 自己準拠的 システム理論の視角か ら、 コミュ ニケー シ ョンを根底的に とらえなおす ところにあ るとみなければならない。そこでルーマ ンの論述 に したがいなが ら、かれの コ ミュニケー ション把 握についてさらに検討 を深めてい くことに したい。 ルーマ ンによれば、 コミュニケー ション過程が成 立 しうる条件 を考 えてみ ると、次 の三つの条件が あげ られ るとい う(17)。まず第1に、情報 それ じた いが選択性 を有 しているとい うこ とである。い う まで もな くコ ミュニケー ションは、 コ ミュニケー トす ることそれ じたいを目的 としておこなわれ る ばあい もあ りうるし、誰か といあわせている時に 沈黙 している気 まず さを避け、ただ空白を埋め る ためにおこなわれ ることも考 えられ る. た しかに これ らのばあい、伝達 されているこ とが らを取 り あげてみ ると、ニュース としての価値は低 い と考 えられ る。 しか しそ うであって も、情報 としての 選択性 は存在 しているので あ り、 そ うした選択性 がなければ コ ミュニケー ション過程 は成立 しえな い。第2には、情報 を伝達す るとい う行動 を誰か が選択 しなければならない とい うことがあげ られ る。その さい、そ うした行動 は意図的であるばあ い もあ りうるし、意図的ではないばあい も考 えら れ うる。そ して第3には、理解 とい う選択は、情 報 とその伝達 との区別に依拠す ることがで きる、 とい うこ とである。ルーマンによれば、 この第3 の点 こそが コ ミュニケー ションの成立に とって決 定的に重要である。永井彰 N・ルーマンのコミュニケーション概念をめぐって ルーマンによれば、伝達 とい う選択 とそうした 伝達 による情報 とい う選択 とをコ ミュニケー ショ ンの受け手が区別す ることがで き、 この二つの選 択の差異を受け手 じしんが取 り扱 うこ とがで きる とい うことによってのみ、 コ ミェニケ- ションは 成立 しうるのだ とい う(18)。まず さしあたってこの 差異は、送 り手にたいす る受け手の観察のなかに みいだされ る。 そ うした観察によって受け手は、 送 り手による伝達行動 その もの とそ うした伝達行 動によって伝達 され るもの とを区別す ることがで きるO他方、 このよ うに受け手によって観察 され ていることを送 り手 じしんが知 っているばあい、 送 り手は情報 と伝達行動 との差異 を受け入れ、 こ うした差異 を利用 して コ ミュニケー ション過程 を 多少 な りとも上首尾に コン トロール しようとす る。 そ うしてみ ると、送 り手は、受け手による理解 を 予期 し,そ うした理解 を利用 して伝達 をおこなっ ているわけであ り、 さらには理解が成立す るこ と によって コ ミュニケー ションはは じめて コ ミュニ ケー ションた りうるとい うことか らして、 コ ミュ ニケー ションは、時間的にみていわば後の時点か ら、 コ ミュニケー シ ョン過程の時間の経過 とは逆 向 きに可能 とされていることに もなる。 こうした ルーマンの把握に もとづけば、 コミュニケー シ ョ ンの成立に とって理解 というものが不可欠の要 因 をな しているとい うことになる。 こうした分析か らルーマンは、 コミュニケー シ ョンは 自己準拠的 な過
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としてのみ 可能 であるとす るテーゼ を導 きだす(19)0 コ ミュニケー ションが 自己準拠的にのみ可能だ とい うのは、いかなる事態のことを意味 している のだろうか。ルーマ ンによれば、相互行為参与者 のあいだで コ ミュニケー ションが次々 と引 き続い ておこなわれているばあい、あるコミュニケー シ ョンにおいては、先行す るコミュニケーションが 理解 されているか どうか とい うことも、あわせて 吟味 されている。 コ ミュニケー ション過程のなか でのあるコ ミュニケー ションについて取 りあげて み ると、送 り手は、先行す るコミュニケー ション の理解 に依拠 しているとい うことを示すためにこ の コ ミュニケー ションを利用 しているし、受 け手 は、先行す るコ ミュニケー ションを相手が理解 し ているか どうか を観察す るためにこの コ ミュニケ 313 - シ ョンを利用 している。そうしてみると、接続 してお こなわれるコ ミュニケー ションは、それ じ たい コ ミュニケー シ ョンであるばか りでな く、先 行す るコ ミュニケー シ ョンが理解 されているか ど うか を確認す るテス トで もあるo い うまで もな く、 そ うしたテス トによって理解 されていない とい う ことが判明す るばあい もあ りうるわけだが、その ような結果は、 コ ミュニケー ションにつ いての コ ミュニケー ションすなわち再帰的 コミュニケー シ ョンが引 きおこされ るきっかけ となっている。 と もあれ、 コ ミュニケー ションが理解 されているか どうかは、それに接続す る行動においては じめて 点検 され うる(20)。 こうした分析 に したが うな ら、 個々の コ ミュニケー ションは、それに引 き続いて おこなわれ るコ ミュニケー ションとの接続連関に おいて理解が可能であるとい うことや、そ うした 接続連関のなかで理解が点検 され るとい うことを つ うじて、保証 されているのである(21)。ルーマ ン はこうした分析 をふ まえて、 コミュニケー シ ョン 過程が基底的 自己準拠(
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の過程 であるこ とに注意 をうながす。ルーマ ンに よれば、ある過程は諸要素か ら成 り立たなければ ならないのだが、その諸要素が、その同一の過程 における他 の諸要素 を取 り入れ ることに よって当 の諸要素 それ じたい と関連 しているとい うばあい、 そこには基底的 自己準拠が成 り立 って い る とい う(22)。ルーマンは、理解 というものを手かか りに して コミュニケー ションを検討す るこ とによって、 コ ミュニケー シ ョン過程 においてはまさ しくこう した基底的 自己準拠が成 り立っている とす る。 コ ミュニケー シ ョンが基底的 自己準拠の過程で あるとい うことを明 らかにす ることに よっては じ めて、移転 メタファーに もとづ く実体論 的なコ ミ ュニケー ション把握は完全に払拭 され た とい うこ とができる。 コミュニケー ションの受 け手は、情 報 と伝達の差異 を考慮に入れて理解 をお こな う。 他方、 コ ミュニケー ションの送 り手は、受け手が 情報 と伝達の差異 を考慮 に入れるであろ うとい う ことを予期 して、伝達 をおこなう。 まさ しくこう した一連の過程のなかでは じめて、 コ ミュニケー ションは コミュニケー シ ョンた りうる(23)。ルーマ ンにいわせれば、 コミュニケー ションは こうした 一連の過程のなかで とらえられ ることに よっての - 89-314 長野大学紀要 第13巻第4号 1992 み分析 され うるのであって、そ うした過程のなか か ら伝達行動や理解だけ を切 り杜 して取 りだす と い うことじたい、無意味だ とい うことになるだろ うOふつ うコ ミュニケー ションを取 りあげ るばあ い、 まず送 り手による伝達があ り、それにたい し て受け手による理解があるといったように考 えら れて しまいがちであ り、つ まりは伝達 と理解の両 者 を別々に導入 した うえでそれ らを関係づ け ると いった発想法が とられて しまうことになる。 しか し、ルーマンの コ ミュニケー ション把握において は、 こうした考 え方 それ じたいが否定 されている。 こうしてみるとルーマ ンは、個々の行為が組み立 て られて コミュニケー ションが構成 されるとす る 考 え方その ものを否定 しているのであ り、 コミュ ニケー シ ョンは コ ミュニケー ション過程のなかで のみ分析 され うるとい う視点 を明示化 していると いえよう。
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コ ミュニケ ー シ ョン と行為 ルーマ ンによれば、 コ ミュニケー シ ョン とは伝 達、情報および理解か らなる創発的なで きごとで あ り、 コ ミュニケー ション過程は 自己準拠的な過 程 であるとい う。ルーマ ンはこのことを論拠 とし て、 コ ミュニケー ションを個々の行為 に還元す る ことはで きない とい うこ とを主張 している。ルー マ ンはこうした手順 をふむ ことに よって、 コ ミュ ニケー シ ョンとい うものの把握にかん して、一つ の新 しいパースペ クティヴを開示 しているとい う こ とがで きる。 そ うしてみ ると次に、 このパースペ クティヴか らす ると、 コミュニケー ション と行為 とのかかわ りが どの ように とらえなおされ るのかが、問われ ることになる。 もしか りに行為概念は社会 システ ム理論に とって無用の存在 と化 しているとい う見 解 をルーマ ンが支持 しているとい うのであれば、 コ ミュニケー ションは個々の行為 には還元 されえ ない とい うことを示すだけで十分 であ り、 コ ミュ ニケー シ ョン と行為 とのかかわ りが どうとらえら れ るかについては問 う必要のないことだ とい うこ ともできるだろう。だが、ルーマンによれば、 コ ミュニケー ションばか りでな く行為 もまた、社会 システムの再生産 に とって不 可欠の要素 だ とい う(24)。そ うだ とすれば、 コ ミュニケー ションと行 為 とのかかわ りが新 たな見地か らどのように とら えなおされ るのか こそが、明 らかにされなければ ならない。ルーマ ンか らすれば、 こうした問いを 立てそれについて考察す るこ とは、社会 システム に とってそれ以上分解す ることので きない最終的 要素はコ ミュニケー ションなのか それ とも行為 な のかの問いにこたえることに直結 してお り、 さら には社会 システムの諸要素はいかに して構成 され るのかの問い を解 明す るこ とに もつ なが って い る(25)。そこでここでは、こうした問いにかんす る ルーマンの思考の道筋 をた どり、 コミュニケー シ ョンと行為 とのかかわ りについて検討 をすすめて い くことに したい。 さてルーマ ンは、 コ ミュニケー ションと行為 と のかかわ りを考察 してい くにあたって、確認 して お くべ き論点 を列挙 しそれ らをひ とつひ とつ検討 してい くとい う手順 をふんでいる。そこでわれわ れ もルーマンに したがってこれ らの論点 を順 をお って検討 し、ルーマ ンの議論につ いて理解 を深め ることに したい。 まず第1
にルーマンは、 この論 議の出発点 として確認 しておかなければならない 論点 として、次のこ とをあげてい る。すなわち、 コ ミュニケー シ ョンを行為 として とらえることは で きない し、 コ ミュニケー ション過程 を行為 の連 鎖 として とらえるこ とはで きない、 というこ とで ある(26)。すでにこれ までの検討で明 らかにされて いるとお り、ルーマ ンか らすれば、 コ ミュニケー ションを伝達の行為 とみなす ことはで きないので あ り、 コ ミュニケー シ ョンは伝達、情報お よび理 解 とい う三つの選択の綜合 にはか な らない。 コ ミ ュニケー ション過程 を伝達以上の何 ものか とみな さなければ、 コ ミュニケー ション過程 を完全に把 握す ることはできない。 コ ミュニケー ションとい うものにはつねに、伝達の選択性 ばか りでな く、 伝達 され るものすなわち情報それ じたいの選択性 や、理解の選択性 も含 まれている。 コ ミュニケー ションとは、 こうした三つの選択性か らなる統一 体 にほかな らないのだが、この統一体 を可能な ら しめているのはこの三つの選択性のあいだの差異 なのであ り、 この差異こそが、 コ ミュニケー ショ ンを成 り立たせ ているのだ とい う(27)0 そ うした出発点 を確認 した うえで、第2
にルー マ ンは、社会 システムを諸要素へ と分解す るとい永井彰 N・ルーマンのコミュニケーション概念をめぐって う問題 を取 りあげ、社会 システムの諸要素-の分 解に コミュニケー ションが どのようにかかわって い るのか を主題 として い る(28)。ルー マ ンに よれ ば、社会 システムは コミュニケー シ ョンによって 構成 されているのだが、そ うした社会 システムに おいて、社会 システムを諸要素へ と分解す る手段 としてはコ ミュニケー ションしか用いることがで きないのだ とい う。 た とえばある陳述 とい うもの を取 りあげてみると、その意味連関 をた どり、 よ り小 さな意味の統一体 を形成 させ、分解 をさらに すすめてい くことができる。 しか し、 このことは まさしくコ ミュニケー ションをとお してのみ可能 なのだ とい う。 こうしてルーマンは、社会 システ ムの諸要素への分解 は コミュニケー ションをとお してのみ可能だ とい うことを指摘す るのだが、 こ の ことに関連 して、社会 システムに とってみれば コ ミュニケー ションとい う構成水準 を下回ること はで きない とい うこ とをつけ くわえている。 た し かに コ ミュニケー ションは、 さまざまな必要にお うじて引 き起 こされ うる分解のために利用す るこ とがで きる。 それでは、そ うした コ ミュニケー シ ョンによって、 コ ミュニケー ションそれ じたいを 分解す ることはできるのだろうか。すでにみた と お り、 コ ミュニケー ションは伝達、情報お よび理 解 とい う三つの選択の綜合 にほかならないのだが、 コ ミュニケー ションのこうした統一体形成の形式 が放棄 されて しまえば、 コ ミュニケー ションのオ ペ レー ションその ものが終了 して しまうこ とにな る。 こうしてみると、何 らかの 目的のために コミ ュニケー ションをよ り細かな要素へ と分解す るこ とはた しかにできるけれ ども、そ うした分解 をお こなって しまえば、 コ ミュニケー ションは もはや コ ミュニケー ションとして存立 しえない。 コ ミュ ニケー シ ョンのオペ レー ションを継続 させ るため には、 コ ミュニケー ションを分解す ることはで き ず、 コ ミュニケー ションとい う構成水準 を下 回る こ とはで きない とい うわけである。 さらに第3にルーマ ンは、 これ まで検討 して き た論議の重要 な帰結 として、次の点 を指摘 してい る。す なわち、 コ ミュニケー ションは直接 には観 察 され えないのであ り、ただ推定 され うるだけだ とい うのである(29)。この点にかん していえば、コ ミュニケー シ ョンは自己準拠的にのみ成立す るこ
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とがで き、そ うした自己準拠的過程のなかでコ ミ ュニケー ションの 自己点検がおこなわれ るとす る 論点が、想起 されなければならない。すでにみた とお り、 コミュニケー ションの受け手による理解 は、送 り手による伝達 と情報それ じたい との差異 を識別 しうることに もとづ いてお り、送 り手は、 そ うした受け手の理解 を予期 して伝達 をおこなっ てい る。 したがって、 コ ミュニケー ションその も のを考 えてみたばあい、 コ ミュニケー シ ョンはこ れ ら三つの選択の綜合 として しか存立 しえないの だが、 その過程のなかで コミュニケー ションの送 り手 と受け手 とが どの ように行動 しているのか を 検討 してみ ると、 コミュニケー ションの受け手は、 送 り手 による伝達 を伝達行為 として受け とめ、そ うした行為 のなかか ら、受け手 じしんがそれ以前 に送 り手にたい してお こなった伝達が理解 されて いるか どうか を読み とろうとしている。 そ うして み ると、 じっさいに観察 され うるのは伝達 とい う 行為 だけなのであ り、 コ ミュニケー ションが理解 されているか どうか も、そ うした伝達行為のなか か ら読み とるほかない。 こうした観察に もとづ く ことに よってのみ、 コミュニケー ションは運行 し うるというわけである。ルーマンにいわせれば、 コ ミュニケー ション ・システムを観察す ることが で きた り、あるいはコ ミュニケー ション ・システ ムがそれ じしんを観察す ることができるためには、 コミュニケー ション ・システムは行為 システム と して示 され なければ な らない、 とい うこ とにな る(30)0 さらにルーマンは第4
に、 コミュニケー ション と行為 との関係について、次のような指摘 をおこ なっている。すでにみた とお り、 コ ミュニケー シ ョンは伝達、情報および理解 とい う三つ の選択の 綜合 としてのみ成 り立 っている。 コミュニケー シ ョンをこのように とらえるか ぎり、 コ ミュニケー ションはそ うした複数の選択のあいだの対称的な 関係 としてのみおさえられる。伝達、情報および 理解 とい う三つの選択は、それぞれ他 の選択のい かんに依拠 しあってお り、それゆえコ ミュニケー ションそれ じたいのなかには、送 り手 に よる伝達 か ら受け手による理解- といった コミュニケー シ ョンの流れなどとい うものはみいだされ ない。 コ ミュニケー ションとい う事象のなかか ら行為 とい - 91-316 長野大学紀要 第13巻第4号 1992 うもの を読み とろうとす るばあいには じめて、 コ ミュニケー ションが非対称的な もの とみなされ る のであ り、送 り手に よる伝達か ら受け手による理 解へ といった方向性が コミュニケー ションのなか に読み とられ ることになる(31)0 コ ミュニケー ションが対称的であるとい う事実 は、先にのべ た移転 の メタファーによって覆い隠 されてい る。 そ うした メタファーに もとづけば、 コ ミュニケー ションは送 り手か ら受け手へ と向け られ る非対称的な関係 としてのみ とらえられ るこ とになるか らだ。 しか し、ルーマ ンによれば、伝 達、情報および理解 とい う三種類の選択のそれぞ れが他の選択 を方向づ けるこ とがで き、 しか もそ うした方向づけが一方 的にではな くつねに相互的 になされている。だか らこそ コ ミュニケー ション それ じたいは対称的 な もの として とらえられなけ ればならない というの である。はた して何が理解 され うるのか とい う点 は、た しかに コ ミュニケー ションの成立に とって きわめて重要であ り、 この 点 こそが コ ミュニケー ションに とっての陸路 をな しているとい うこともできる。そ うしてみ ると、 理解が うま く達成 され るどうかは不確かだ といわ ざるをえないのだが、理解が うま く達成 されてい ない とみ られ るばあいには、ふたたび新たな情報 が重要 にな り、 ただ ちに伝達の必要が生 じること になる。 このように コ ミュニケー ションにおいて は、伝達、情報および理 解 とい う三つの選択が密 接に絡みあっている。 いずれか一つの選択が特別 に重要でその選択が他 の選択 を方向づ けている、 とい うことにはならないのだ とい う。 これ まで検討 して きたルーマ ンの見解に したが えば、 コ ミュニケー シ ョンは行為か ら組み立て ら れているのでは決 して ないけれ ども、 コ ミュニケ ー ションその ものは観察 されえず、 じっさいに観 察 され うるのは行為 だけであ り、 しか もこうした 観察はコ ミュニケー シ ョンが運行す るために も不 可欠だ とい うこ とにな る。そ うしてみ ると、 コ ミ ュニケー シ ョンの運行 のために も行為 とい うもの が構成 されなければ な らない、 とい うことになるO ところでルーマンは、行為 の構成 とい うことに かん して、次の二つ の点 を指摘 している。 まず第
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に行為 とい うもの は、ちょうど情報 と伝達 との 区別に対応 して、二つ の相異なるコンテキス トの なかで社会的に構成 されているとい う。すなわち、 一つには情報 ないしは コ ミュニケー ションのテー マ として構成 されているのであ り、 もう一つには、 伝達 行 為 と して構成 され て い る とい うの で あ る(32)。それ じたいは コミュニケー ションではない 行為 とい うもの も、た しかに存在す る。 コミュニ ケー ションは、そ うした行為 をもっぱ ら情報 とし てのみ取 り扱 うにす ぎない。 コ ミュニ ケー シ ョ ン ・システムは、行為 について コ ミュニケー トす るこ とができるし、 もちろんそれ以外のことが ら にかん して もコミュニケー トす ることがで きる。 ともあれ この ように して、行為 は コ ミュニケー シ ョンのテーマない しは情報 として構成 される。他 方において、 コ ミュニケー ション ・システムは、 伝達す ることそれ じたいを行為 として把握 しなけ ればならない。伝達す ることそれ じたいを行為 と して把握す ることよってのみ コ ミュニケー ション は進行 しうるのであ り、その意味において行為 は、 コミュニケー ション ・システムが 自己再生産す る ために不可欠の構成要素 となっているのだ とい う。 こうした文脈においてルーマ ンは、 コ ミュニケー ション ・システムが行為 システム として把握 され るとい うことは きわめて一面的なのだけれ ども、 決 して誤 りではない、 とのべてい る(33)。社会 シス テムはそのシステムそれ じたいのなかで、その当 のシステムそれ じたいについての描写 をおこない、 社会 システムの過程 を進行 させ た り、社会 システ ムの再生産 を制御 した りしている。社会 システム のこうした 自己観察(Selbstbeobachtung)や 自己 描写 (Selbstbeschreibung)がお こなわれ るため に、 コ ミュニケー ションの対称性が非対称化す る ことにな る。つ ま り、そ うした 自己観察ない しは 自己描写の 目的のために、 コミュニケー ションの なかに行為 とい うものが読み とられ ることにな り、 それによって伝達す る人か ら伝達 される人へ とい った コ ミュニケー ションの流れが想定 され ること になる。社会 システムが再生産 され るためには、 より単純化 され、分か りやすい 自己描写が必要 と され るのであ り、そのばあいには コ ミュニケー シ ョンではな く行為 が社会 システムの最終的要素 と して役立つ ことになる(34)0 ところで、行為 の構成 とい うこ とにかんす る第 2の点 としてルーマンが指摘 して いるのは、それ永井彰 N・ルーマンのコミュニケーション概念をめぐって ぞれの行為は帰属 (Zurechnung)の過程によって 構成 され るとい うことである。つ まり、行為 とい うものが成立 してい るのは、ある選択がそれぞれ のシステムに、すなわち何 らかの心理 システムや 社会 システムに帰属 され ることによってだ とい う のである(35)。ルーマ ンは、ここでの行為概念の要 点 として、次の二つの点 をあげている。すなわち、 まず第1には、選択が システムの環境にではな く 当のシステムそれ じたいに関係づけ られていると い うこ とであ り、第2には、 このことに もとづ き、 さらなるコ ミュニケー シ ョンに とっての受け手や さらなる行為 の とっての接続点が確定 されている、 とい うことである(36)0 ルーマンか らすれば、あるで きごとを行為 とし て確定 させ るということにはすでに、何 らかの単 純化 ない しは複合性の縮減が必要 とされている。 われわれの 日常生活においては、行為 を個々の具 体的な人間に帰属 させ るとい うことが通常おこな われている。 しか し、それは まさしく先人見には かな らない。ルーマンにいわせれば、もっぱ ら個々 の具体的な人間にのみ行為 を帰属 させ ることがで きるというのは、非現実的な想定にほかならない。 とい うの も、 じっさいの ところ行為 は、個々の人 間の過去によっては完全 に決定 されえないのであ り、たいていのばあい行為の選択は、そのおかれ ている状況に よって左右 されているか らだ とい う。 しか しそれに もかかわ らず、 日常世界においては、 行為 は諸個人に帰属 されている。ルーマ ンによれ ば、 こ うした非現実的な想定がなされているのは、 複合性 の縮減が必要 だ ということによって しか説 明できない とい う(37)。 さて ここで、これ まで検討 して きたルーマ ンの 見解 をふ まえて、社会 システムの最終的な要素は 何 か とい う問いに立 ちか えってみ ることに しよう。 ルーマ ンか らす ると、社会 システムの基底的過程 はあ くまで もコ ミュニケー ション過程 であ り、そ の意味 において、 コミュニケー ションこそが社会 システムを構成す る要素 とされなければならない。 他方、 そ うしたコミュニケー ション過程 をコン ト ロール しうるために も社会 システムは 自己観察な い し自己記述 を不可欠 としてお り、そのためには 行為 を社会 システムの要素 として利用 しなければ な らない。 ルーマンにいわせれば、 コ ミュニケ-317 ションは社会 システムの 自己構成の基礎的な統一 体 であ り、行為 は社会 システムの 自己観察 と自己 描写の基礎的な統一体 なのだ とい う(38)。ルーマ ン か らすれば、 こうした意味あいにおいては、社会 システムを行為 システム として とらえるこ とは一 面的ではあれ誤 りとはいえない。だが、社会 シス テムが行為システムであると表現す るばあい、 と りたてて断 らないか ぎりは、行為 という基礎的な 要素が まず実在 し、そ うした要素が組み立て られ て社会 システムが構成 され るとす る思考法 を前提 として しまうことにな りかねない。ルーマ ンが拒 否 しようとしているのはまさしくこうした思考法 なのであ り、 この点だけは決 して見誤ってはなら ない。
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むすぴ にか えて これ までみて きた とお り、 まずルーマ ンは、 コ ミュニケー シ ョン過程は基底的 自己準拠の過程 と してのみ存立 しうるとし、 コ ミュニケー ションを 個 々の行為 には還元 しえないことを示 している。 さらにルーマンは、そ うした見地か ら、社会 シス テムを行為システム として とらえることは誤 りと はいえない としなが らも、個々の行為が まず実在 しそ うした行為が組み立て られて社会が形成 され るとい う見方については徹底的に否定 している。 こうしてルーマンは、社会 システム を構成す る要 素 として コ ミュニケー シ ョンを考 えるべ きことを 主張 している。 これまでの検討によってわれわれは、 ルーマ ン の コ ミュニケー ション概念の基本的特徴 を明 らか に しようとして きた。い うまで もな くこれだけの 検討では、ルーマ ンの コ ミュニケー ション理論の 全容 について解明 しえた とは とて もいいがたい。 コ ミュニケー ション とい う多彩 な リア リティにか んす るルーマ ンの洞察 はさらに広が りと深 まりを みせ ているのだが、そ うした洞察については、 こ の小稿 では取 りあげることができなか った。 また コ ミュニケー ションの理論 をよ り実質的 な社会理 論のなかで生か してい くためには コミュニケー シ ョン ・メディアの理論 を展開させ るこ とが不可欠 なのだが、ルーマ ンが展開 しようとして いるコ ミ ュニケー ション ・メディアの理論がいか なるもの であるのかについて も、 ここではまった く検討す - 93-318 長野大学紀要 第13巻第4号 1992 るこ とがで きなか った。 コ ミュニケー ションにか んす るルーマ ンの洞察 をその細部に までわたって 検討す る作業については、別の機会 にこころみ る こ とに したい。 ともあれここでは、 これ までの検 討 をふ まえ、ルーマ ンの コ ミュニケー ション概念 にみ られ るい くつかの重要 な特徴について指摘 し てお くに とどめたい。ただ しそのさい、ハ-バマ ー スの コ ミュニケー シ ョン行為概念 との対比 を視 野 に入 れ つ つ、論 をす す め て い くこ とに した い(39)。 もちろん、ルーマ ンの コ ミュニケー ション 概念 と--パマースの コ ミュニケー ション行為概 念はそれぞれの社会理論の構成 を左右す る重要 な 概念であ り、それ らを比較検討す るとい う課題は 別稿 にゆず らなければならない(40)。ここではあ く まで も、ルーマ ンの コ ミュニケー シ ョン概念の特 徴 をきわだたせ るとい う目的のために、--バマ ースの コ ミュニケー ション行為概念に論及す るこ とに しよう。 さてまず第
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に、ルーマ ンの コミュニケー ショ ン概念の最大の特徴 としてあげ られ るのが、送 り 手か ら受け手-の情報の流れ といった実体論的な コ ミュニケー ション概念か らの離脱 を徹底的にお しすすめているとい う点である。ルーマンは、移 転 メタファーに もとづ くコ ミュニケー ション把握 をその根底か ら否定 し、 コ ミュニケー ション過程 は基底的 自己準拠の過程 としてのみ存立 しうるこ とを示 している。 まさしくこの点にこそルーマ ン の コ ミュニケー ション概念の核心がみいだされ る のであ り、 この点において、--バマースの コ ミ ュニケー ション行為概念 とその論理構造 を大 きく 異に しているといえよう。 とい うの も--バマー スは、あ くまで も自我の行為 と他我の行為 はいか に して接続 され うるか とい う水準で問題 を立てて いるか らである(41)。そ うしてみ ると、ルーマンの 観点か らすれば、--バマースの コ ミュニケー シ ョン行為概念が どれほ どウェーバー =パー ソンズ 流の社会性 を欠いた行為概念 を突破 し、社会的行 為 の理論化に成功 していると評価 しうるものであ った として も、行為概念 を出発点 とし、そ うした 行為が組み立て られて社会が形成 されているとす る発想法が保持 されつづ けているとい うその一点 において、ウェーバー =パー ソンズ流の行為概念 と同 じ地平に とどまっているとい うことになるだ ろう(42)。この点にかん しては、ルーマン と--バ マー スのそれぞれの コ ミュニケー ション観の根幹 にかかわる論点だけに、 より慎重に検討 をおこな わなければならない。 ただ し、--バマースの コ ミュニケー ション行為概念のなかに前提 とされて いるコ ミュニケー ション観 を実体論的な ものだ と 安易にかたづ けて しまうとすれば、それは公平 な 評価だ とはいえないだろう0--バマース昼、複 数の行為者問で言語行為が営 まれ る状況 を念頭 に おいて コ ミュニケー シ ョン行為 の概念 を構想 して お り、少な くとも移転 メタファー に もとづ くコ ミ ュニケー ション把握 をこえた地平 で コ ミュニケー ションの理論化 をはかっているとみ ることがで き るか らである。む しろ、 コミュニケー ションをど う理論化す るのかの問題 こそが社会理論の構成の あ り方 を左右す る重大 な問題であ ることをルーマ ンも--バマース もともに認識 しなが ら、それ を どのような方途でな しとげ るべ きか とい う点にお いて両者が対立 しているとみなければならない。 ルーマ ンが 自己準拠的 システム理論の立場か ら理 論化 をすすめ るのにたい し、--バマースは言語 行為論 を手がか りとしなが ら、あ くまで も行為理 論 を出発点 とすべ きことを主張す る。 こうしてみ ると、 この論点は、ルーマ ンと--バマースのそ れぞれが構想す る社会理論の全体像 と関連づ けな が ら検討 してい く必要があるだろ う。 第2
に、ルーマ ンの コ ミュニケー ション概念に おいては、 コ ミュニケー ションはあ くまで も伝達、 情報お よび理解 とい う三つの選択の綜合 としての み とらえられ るのであって、 コ ミュニケー ション の受容や拒否は、 コ ミュニケー シ ョンとい うで き ごとの一部ではない とされている。ルーマ ンか ら すれば、 3-ミュニケー ションの受容や拒否は、 コ ミュニケー シ ョンに接続す る行為 なのであ る(43)0 この点において も、ハ-バマースの コミュニケー ション行為 とその発想法 を異に している。--バ マー スの コミュニケー ション行為 においては、話 し手が妥当性要求 (Geltungsanspruch)を呈示 し それ を聞 き手が承認 した り批判 した りす ることが 重要 な契機 とされている。つ ま り、 コ ミュニケー ション行為概念においては、話 し手が呈示 した妥 当性要求 を聞 き手が承認す るか批判す るか とい っ た一連の局面において分析がおこなわれているわ永井彰 N・ルーマンのコミュニケーション概念をめぐって けである(44)。 さらに第3の点 として、--バマースの コ ミュ ニケー ション行為概念 と比較 してみ ると、再帰的 コ ミュニケー ションにかんす る位置づけに大 きな 違 いがみ られ る。ルーマンの コ ミュニケー シ ョン 概念においては、理解が達成 されていないことが コ ミュニケー ション過程のなかで読み とられ るば あい、理解 を達成す るために コ ミュニケー シ ョン にかんす るコ ミュニケー ションをおこな うとい う こ とが想定 されているOルーマンにおいては、基 本的には もっぱ ら理解のレヴェルでの再帰的 コミ ュニケー シ ョンが念頭 におかれて い る とい えよ う(45)Oこれにたい して--バマー スの コ ミュニケ ー シ ョン行為 においては、そこで呈示 されている 妥当性要求が話 し手 と聞 き手の両者によって相
互
承認 されないばあいに、 コ ミュニケー ション行為 の レヴェルか ら討議の レヴェルへ と移行す ること が想定 されている。つ ま り、 コ ミュニケー ション 行為 においては、潜在的にであれ真理性や正当性 や誠実性の要求が掲げ られているのであ り、そう した要求に異議が さしはさまれたばあい、そ うし た要求の妥当性その ものを主題 とした討議がおこ なわれ るとい うわけである。 さらにいえば、討議 へ のそ うした移行が潜在的にはいつで も可能だ と い う点 こそが、 コ ミュニケー ション行為が成立 し うるための重要 な条件 とされている。そ うしてみ ると、--バマースの理論構成においてはそ うし た再帰的 コ ミュニケー ションが重要 な位置 をしめ ているといえるのであ り、ルーマ ンの理論構成に おいて再帰的 コミュニケー ションがそ うした特別 な位置づ け を与えられていないの と比べて きわめ て対照的であ る(46)。 ルーマ ンとハ-バマースの コ ミュニケー ション 観 の類似点 と相違点 を見定め る作業 は、 さらに稿 をあ らためて続けなければならないけれ ども、 こ こでは第4の点 として、重要 な論点 をもう一つだ け指摘 してお くことに しよう.すなわち、ルーマ ンは コ ミュニケー ションを考 える前提 としてダブ ル・コンティンジェンシー(doppelteKontingenz) の問題 を重視 している、 とい うことである(47)。ダ ブル ・コンティンジェンシーの関係にある自我 と 他我 は、それぞれ相手 をいわばフナラック ・ボ ック ス とみな している.ルーマ ンの観点か らすれば、 319 こ うしたダブル ・コンティンジェンシーの関係 こ そが 自我 一他我関係の原点であ り、そ うした関係 にある諸個人のあいだでいかに して コ ミュニケー シ ョンがおこなわれ るのかこそが問題にされなけ れば な らない(48)。 これ にたい して--バ マー ス は、 ダブル ・コンティンジェンシーの関係 を自我 一他我関係の原点であるとす る想定 それ じたい を 受 け入れてはいない(49)。 したが って この点 こそ が、ルーマンとハ-バマースの コ ミュニケー シ ョ ン観のそれぞれを特徴づける決定的な相違点だ と い うこ とがで きるだろう。 しか もこの点 には、た んに コ ミュニケー ション観の違いに とどまらず、 その根底に位置す る人間観や言語観の違 いがあ ら われているとみなければならない。 そ うしてみ る と、ルーマン と--バマースのそれぞれの人間観 や 言語観 と関連づけて、それぞれの コ ミュニケー シ ョン理論についての検討 を深めてい くことが必 要 となるだろう(50)0 ともあれ、 コミュニケー ション概念 をどのよう に設定す るのかによって 「社会理論の コ ミュニケ ー シ ョン理論的転回」 をどの ような方向に向けて すすめてい くかが左右 されることになるか らには、 コ ミュニケー ション概念は重な りあ う次の二つの レヴユルで検討 されなければならないだろう。す なわち、 まず第1
には、それぞれの コ ミュニケー ション概念が コミュニケーションの現実相 をどれ ほ ど理論化で きているのか とい う水準であ り、第 2には、そ うしたコミュニケー ション概念が社会 理論 の基礎概念 として どれほ ど有効 なのか とい う 水準である。 ここで強調 してお きたいのは、ルー マ ンや--バマースの コ ミュニケー シ ョン把握 を 検討す るにあたっては、いまのべ た第2の水準で の検討 を忘れてはならない とい うことである。ル ーマ ンのばあいで も--バマースのばあいで も、 コ ミュニケー ション概念は社会理論の構成のあ り 方 を大 きく方向づけている。 そ うしてみ ると、そ れぞれの社会理論に とってコ ミュニケー ション概 念がいかなる役割 をはた しているのか を確定 した うえで、社会理論の基礎概念 としてそれ ぞれの コ ミュニケー シ ョン概念は どれほど適切 なのかが検 討 されなければならない。現代社会にかんす る社 会理論の構築 に とっていかなるコ ミュニ ケーショ ン概念が適切 なのか とい う観点か らルーマンとハ - 95-320 長野大学紀要 第13巻第4号 1992 - バマー スの コ ミュニ ケー シ ョン概 念 につ いて検 討 を深 め、 さ らにはそれ らを比較 して い くとい っ た作業 が不 可 欠 だ とい え よ う。 (なが い あ きら 講師) (1992. 1. 8受理) 妊 (1)J.Habermas,Theon.e des kommunikatiuen Handelns,Bd.I,Frankfurtam Main,1981,S.369 -452.藤沢他訳 Fコ ミュニケー シ ョン的行為 の理 論1 (中)、未来社、1986年、 7-93頁O
(2) N.Luhmann,SozialeSysteme,Frankfurtam Main,1984,S.19ト241.(以下SSと略記)。
(3)いわゆ る--バマー ス-ルーマ ンの論争 の内容 については、1971年に F社会の理論か、それ とも社 会工学か』とい う表題の書物 として刊行 されている
(J.HabermasundN.Luhmann,Theoyieder GesellschaftoderSozialtechnologie-Was leistet dieSystemfonchungPFrankfurtam Main,1971. 佐藤 ・山口 ・藤沢訳 F批判理論 とシステム理論---バーマ ス -ルーマ ン論争l (上)、 (下)、木鐸社、 1984年、1987年)。しか しこの書物 を読むか ぎり、両 者 ともきわめて誠実 に論議 しよ うとしてい るに も かかわらず、論争 としてみるとすれ ちがいに終わっ ているとい う印象を抱か ざるをえない。この ように 論争がかみあわない ままであった とい う原 因の一 つ としては、その当時はまだ、ルーマ ン も--バマ ー ス もみずか らの社会理論 を練 りあげてい く途上 にあった とい う事情 をあげておか なければな らな い。それか らおよそ10年のちの1981年に--バマー スが rコ ミュニケー ション行為 の理論』 を公刊 し、 それに引 きつづ いて1984年にはルーマ ンが F社会 シ ステム』を公刊 した。 この2冊の大著はそれぞれの 理論的主著 とで もい うべ き書物であ り、これ らの著 作によってわれわれは、ルーマ ンとハ-パマースそ れ ぞれの社会理論 の基本的枠組 につ いて系統的 に 知 ることがで きるようになった。そ うしてみ ると、 ようや くこの段階になっては じめて、-ーパマー ス ・ルーマ ン論争が実質的に くりひろげ られ る準備が 整 った ともいえよう。 もし現 時点 において--バマー ス -ルー マ ン論 争がおこなわれ るとしたら、その焦点の一つ となる のが コ ミュニケー ションの概念だ と考 え られ る。な おルーマ ンじしん も、1988年に来 日したさいのイン タヴューの なか で--バマー ス -ルーマ ン論争 に ついて言及 し、もしいま--バマー ス =ルーマン論 争 を くりひろげ る とした らコ ミュニケー シ ョン概 念がそ うした理論的係争点になるにちが いない と い う趣 旨の発言をおこなっている (河上倫逸編 F社 会 システム論 と法の歴史 と現在』未来社、1991年、 328-330頁)0 (4)本稿では、 F社会 システム1の第4章 「コ ミュニケ ー ションと行為」に依拠 して、ルーマ ンの コ ミュニ ケー シ ョン概念 につ いて検討 をすすめてい くこ と にす る。 (5) SS,S.192. (6) SS,S.192. (7) ルーマ ンは、まさしくこの観点か らウェーバーや パー ソンズの行為概念 を問題視 してい る (Vgl.S S,S.191,240.)0 (8) SS,S.227. (9) SS,S.193. (川) SS, S.193. (ll)SS,S.193f. (12) SS, S.194. (13) SS,S.194. (14) SS,S.194.なおここでルーマ ンは、こうした 指示 の地平 は コ ミュニ ケー シ ョンそれ じたいに よ っては じめて構成 された ものだ とのべ ている。つ ま り、あらか じめ指示の地平が与え られ、そのなかか らあるもの を選択す る とい うふ うに考 えてはな ら ない とい うのである。 (15) SS,S.194. (16) SS,S.194. (17) SS,S.195. (18) SS,S.198. (19) SS,S.198. 伽) SS,S.198. 位l) SS,S.199. 位2) SS,S.199. C23) ただ し、送 り手の側に伝達 しよ うとす る意図はな くて もコ ミュニ ケー シ ョンは成立 しうるばあいが ある。つ まり、情報 と伝達 との差異 を受け手の側で 観察す ることに成功 したばあいは、コ ミュニケー シ ョンが成立 したこ とになる。そ うしてみると、送 り 手の側で、受け手の理解 を予期 して伝達 をおこなわ
永井彰 N・ルーマンのコミュニケーション概念をめ ぐって な くて もコ ミュニ ケー シ ョンは成立 しうる とい う こ とになる。 したが って、送 り手の側の予期 は コ ミ ュニケー シ ョンが成立す るため の必要不 可 欠の要 因ではない (Vgl.SS,S.208f.)。 CZ4) SS,S.233. 位5) SS.S.225. 位6) SS,S.225. 的 SS,S.225f. 但8) SS,S_226. 09) SS,S.226. 8の SS,S.226. 81) SS,S.226. C32) SS,S.227. 鮎)SS,S.227. 84) SS,S.227f. 85) SS,S.228. ¢6) SS,S.228. 67) SS,S.229. 88) SS,S.241.
¢9) J.Habermas,Theonle des kommunikatiuen Handelns,I,S.369-452,邦訳 (中)、 7-93頁o (40)なお、--バマ- スの社会理論 において コ ミュニ ケー シ ョン行為 概 念が いか な る役割 をはた してい るのかにつ いては、拙稿 「コ ミュニケー シ ョン行為 理論の戦略的課題
」
F社会学研究』第53号、東北社会 学研究会、1988年、 を参照 されたい。(41)J.Habermas,"Erlauterugenzum Begriffdes kommunikativenHandelns",inVo7Studienund Eygb'nzungenBum Theon'edeskommunikatiz)en Handelns,Frankfurtam Main,1984,S.571.
(42) じじつ ルーマ ンは、ウェーバーやパー ソンズの行 為 概念のあ り方 を問題視 したその文脈 において、社 会 システムは行為 か ら成 り立つ のか それ ともコ ミ ュニケー シ ョンか ら成 り立つ のかの問いにたい し、 コ ミュニ ケー シ ョン行為 に焦点 をあわせ るこ とに よって単 純 にかつ性急 に こたえ よ うとす る誘惑 に うちかつ こ とを学 ば なければ な らない とのべ てい る (SS,S.192.)。 そ うしてみ るとルーマ ンは、 -ーバマースの名前 をあげていない とはいえ、ハ-321 バ マー スの コ ミュニ ケー シ ョン行為 の概 念 をウェ ーバーや パー ソンズの行為 概念 の延長線上 に位 置 づ け、批判 してい るとみ ることがで きる。 (43) SS,S.203f. (44)
J
.
Haberm as, Theon'e des kommunikatiuen Handelns,Ⅰ,S.397-410.邦訳 (中)、34-46頁。 (45) SS,S.199. (46) い うまで もな くわれわれは、再帰的 コ ミュニケー シ ョンが ルーマ ンの コ ミュニケー シ ョン理 論 にお いて十分 に取 りあっか われていないな ど と主張 し てい るのではない。む しろ、現実生活のなかで営 ま れ る多彩 な再 帰 的 コ ミュニ ケー シ ョンを扱 い うる 理論的可能性 を、ルーマ ンの コ ミュニケー シ ョン理 論 の なか に求 め るこ と もで き る よ うに思 わ れ る (Vgl.SS,S.210f.)。 ただここでは、次のこ と を指摘 しているにす ぎない。す なわ ち、--バマー スの理論構成 においては 「討議」 とい う再 帰的 コ ミ ュニ ケー シ ョンが特別 な位 置づ け を与 え られて い るのだが、ルーマ ン理論において再帰的 コ ミュニケ ー シ ョンはそ うした位置 を占めていない、とい うこ とである。 (㈹ Vgl.SS,S.148-190. (48) ダブル ・コンティンジェンシーの問題 と関連づ け てルーマ ンの コ ミュニ ケー シ ョン理論 を検 討 して いる論考 として、次の もの を参照。佐久 間政広 「社 会 システムの オー トポイエ シス とコ ミュニ ケー シ ョン」F社会学研究j第56号、東北社会学研究会、1990 年。 (49) 中岡成文氏 もまた、 ダブル ・コンティンジェンシ ー の状況 が--バ マー スの視 野の外 に あ る と指 摘 している(
「コ ミュニケー シ ョンの戦略」
『現代哲学 の冒険 14浮遊す る意味』岩波書店、1990年、96-97 頁)。 (50) - -バ マー スの側 か らのルーマ ン理 論 へ の コメ ン トとしては、 さ しあた り次の もの を参 照 され た い。J.Habermas,DerPhilosophischeDよsku7Sder Modeme,Frankfurtam Main,1985,S.4261445.三 島他訳 F近代 の哲学的デ ィスクルス』 II、岩波書 店、1990年、627-652頁。