「エスニックなもの」をめぐって : 言語の問題を中心に
15
0
0
全文
(2) . 「エ ス ニ ッ ク な も の」 を め ぐ っ て 言語の問題を中心に --. 吉. 崎. 祥. 司. 二、 三の論者の所説を手がかりに, 「民族」 の問題における 「エスニ ックなもの」について考えて みることが小稿の主題 である。 ここ十余年来, 民族論において, エスニ ッ クなものへの理論的関心 がきわだっ てきているように 思 わ れる. 別 の と こ ろ で触 れ た こ と が あ る が . ,)一 方 では 北 米 を 中 心 に,「マイ ノ リ テ ィ」や「エ ス ニ ッ. ク・ グループ」 という概念でも十分に つかみきれない民族的諸問題・ 諸事象を総体として把握する ために, 多分に 多元主義的・分権主義的 ( 「多様性 への権利」 等) 傾斜をもった 「エスニシティ」 i ty) の 概 念 が提 起 さ (ethni c ,れ て, エ ス ニ ッ ク な も の の 認 識 の 深 化 が め ざさ れ て い る し, 他 方 で ソ. ビエトや東欧の社会主義諸国 では, 従来の 「ナーツィ ヤ」 (民族 Ha ) --「ナロー ドノスチ」 (民 H R u 族体 Ha )といった発展段階論的 民族把握に含まれる問題性の自覚の上に, 「エスニ ッ クな共 』 o H o c T b A. 同体」 (ethonischeGemeinschaft tni Ro6 1 czna な ど) uHocTb あ る い は grupae , 3THmecKa. の概 念に も. とづく 民族理論の研究が進展し, そこ でもエスニ ックなものの内容と性格が精力的に追求されてい る。. つまり, 一方 では, 帝国主義世界体制の展開が, これまで以上に激しい民族的=植民地的諸問題・ 諸矛盾を惹き起し (この点では社会主義国による他民族抑圧も, 遺憾ながら同工異曲のそしりを免 れ難い) て民族的抑圧をより多くの人々に意識させ, その抑圧に抵抗し克服するたたかいを生み出 しているといっ た現実が, 他方で, 社会主義においても, 内部的な民族問題の解決が予想外に長い 歴史的展望のもとで考えられなければならないばかり でなく そもそも問題の性 質なり本質なりを , 根本的にとらえ直してみる必要がありはしないかという反省がおそらくはもたらさ れているといっ た事情が, 人びとの生活と意識, 社会的諸営為の現実 である 「エスニックなもの」 の探求を余儀な く さ せ て い る の であ る。. さて, そこで 「エスニックなもの」 といっ ても, 当然ながら, その範囲は広く 内容は 多種多彩 , である。 板東宏氏によ って紹介されているポーラン ドのヴイアトル ( W i J t ) の見解によれば, a r . 「自分のもの」を「ひとのもの」から区別する意識に対応する「エスニックな集団」 ( rupaetniczna) g は,「④共通の祖先をも つことについての表象 ◎一定の土地との結びつき, ある地域に居住す るこ ’であると感じる意識 ⑭同一ないし類似の言語集団への帰属意識 ⑭共通の崇拝対象 と が‘ athome , , , 信仰をもつ集団の意識, ◎共通の英雄にたいする崇拝」 といっ た内容 ( 「自分のもの」 ) をもつもの として特徴づけられるが,2 )エスニッ クなものはたとえ ばこのような広がりで多様なものを含ん で い る。 53.
(3) . 吉. 崎. 祥. 司. 化の 我々の経験的表象から しても, 同族の意識や郷 土感情, 生活様式や習俗の 共通性, 言語や文 共有, 固有の民間信仰 (およ びそれに 規定さ れた世 界宗教) などはまさに自分たちのものと して, 個々の項目の 有無や 比重のちがいなどは別に しても,我々の社会的-- 精神的風土に 決定的ともみえ 「第一 る影響を 及ばしている。 そこでは, たとえば土地 - 地域すらももは やたんなる 自然的所与 ( ある 作され )ではなく,「エスニッ クな地域」 の自然」 )すなわちその 地域の住民によ ってあるいは耕 ,3 独得 いは改変さ れ, そこ で住民の生活と交渉がいと なまれる固有の 「郷土」 であり, 人々の内部に の感情を産み育てるようなものである. り う る が, し た が っ て, こ う し た 豊 富 な 内 容 を も つ エ ス ニ ッ ク な も の へ の ア プ ロ ー チ は 多様 であ. ずねてみ ここ では 「言語」 にかかわる若 干の問題に注目すること で, エスニ ッ クなものの性格をた 主 なも のに つ い る こ と と し た い。 と い う の も, エ ス ニ ッ ク な も の の 全 体 は も と よ り, い く つ か の 要 クなも て さ え 多少 と も 立 ち い っ て 考 え て み る 余 裕 が な い こ と も あ る が, な に よ り, 言 語 は エ ス ニ ッ. ののうち でも最も中心的なものとみなさ れるからである。 さま ざまな 「民族の 定義」 においてもこ れを欠く ものはないし, しかも, 言語はそこでしばしば決定的な地位を与えられている(もっとも, 言語は民族の決定的要因であるというように 絶対化しては ならないだろう。 ユ ダヤ人のように言 語 や地域の共有 を欠きながら, あるいはアイ ルラン ド人のよ うに 人口の四 分の三が英語という他民族 語を日常語と しながら, しかも強い民族意識によ っ て結ばれてい るという まことに意味深い事例も 占める言語の重要性は, 一般に固有の言語を 存在するのであるから) . しかし, エスニ ッ クなものに 重 もたない (もたなかっ た) 民族はない, という経験的事実による ばかりでは ない. むしろ, この 要性は, 後述のように, まさしく言語の本性, 人間にとっ ての言語の 基本的意義から生じるもので あ る.. ところで, 言語と民族のこのような連関を, 現実の民族問題- 人間の民族 的解放という 視点から, わが国で最も 精力的に論じておられるのが田中克彦氏である. 以下, まず, 言語学 プロ パーから民族理論 史, 民族史・誌, 民族政策にい たる広大な領域での多 岐にわたる田中 氏の問題提起のう ち, 行論に直接 関係する部分にかぎっ てとり あげてみる. 4年10 4号, 197 『思想』60 なお, ここ で参照する田中氏の論稿は, 「言語から見た民族と国家」( 75年5月) (同 611号, 19 , 月 -- 以下, 第1論文とする) , 「ソ連邦における民族理論の 展開」 , ) に 第 1 1論文とする 977年9月 -- 以下, 「国家語イ デオロギーと言語の規範」 (同, 639号, 1 , の よ う に 示 す. か ぎる こ と と し, 引 用 は, (田 中, 1, 0 0 ペ ー ジ),. 1 1. 言語と民族が深い 相互依存関係にあることはいうまでもないが, そう した連関をあえて (という のはそれなりの 意味づけがあるということだが) 捨象ないし回避して, 言語の普遍性に科学と して の存立基盤を見出そうとする近代言語学が成立した. 田中氏は,「民族とその 文化の形成の基礎に言 語を置いて考える」(田中, 1, 39 ペー ジ)ドイツの思想的系譜に深い共鳴を示しつつ, 人間相互の 問題, 共同体間の問題としての言語を重視する立場から, これを実質的に 軽視する 「ユニヴァーサ リスト」 たちの言語観を批判する. そ の要点は, 一口 でいえば, 言語はたんなる 道具ではないということ である. もし言語をたんな る伝達の道具, テクニ ッ クとするなら, 一つには, 一般の道具が言語的境界を超えての使用にたえ うるのに対し, それは 「異なる言語共同 体の中に移し入れられると, たちまち用をなさなく なる」 54.
(4) . 「エスニックなもの」 をめぐって. という点で, 二つには, それは 「それを用いて創り出した製作物すなわち文化とも ほとんど切り , 離せないという性質をもっている」 点で, 要するに 「移転不可能, 交換不可能 代替不可能」 とい , う意味で, 「通常の道具の観念から非常に遠い」 (同, 40ペー ジ) ものである 。 マルキストを含めて理論家たちが言語を道具であると説くとき, かれらはこのことの認識におい て致命的なミスを犯しているのであるが, 言語は, 民族にとっ てのいわば生活であり民族文化その も の であ り, ま た 思想を生み出し文化を創造するものとして たんなる伝達形式とみなすことがで , き な い も の で あ る, と さ れ る 。 田 中 氏に よ れ ば, こ の 点 に 関 して は, マ ル ク ス 主 義 理 論 史に お い て ス タ ー リ ン が カ ウ ツ キ ー を 発 展さ せ, とく に レ ー ニ ン を 越 え る 的 確 な 把 握 を な し え て い る 「ス タ ー リ ン が レ ー ニ ン の 水 準 を は る 。. かに抜いてす ぐれていたのは, ある民族の言語的な危機は, そのまま, その民族に所属する人間の 知的活動に破壊的に作用するというところにま で目がとどき, 言語を思考の単なる手段 乗りもの , とは考えていなかっ た点にある。」 (田中, 1 1 , 6ペー ジ) いいかえれば 「言語を単なる手段, 形式をこえた, 個人の精神形成にかかわるところの内面化さ れた問題としてとりあげたのは」 スターリンがは じめてであり, したがって そこ では 「母語」 に , よる教育が「精神的能力の発達に与える影響」 (田中, 1, 36ページ)という観点 で要求され また , 民族語の圧迫等が許すべからざることとして拒否される。 その典型は, スターリンの次の一節に求 められる。 「……言語の圧迫, 学校の縮小, その他の圧迫手段は, ブルジョアジー以上ではないとし ても, それにおとらず労働者をいか らせる。 このような状態は, 従属民族のプロレタリアートの精 神的能力が自由に発展するのをさまたげうるだけであ る 集会や演説会で母語をつかうことがゆる 。 されず, 学校が彼らにたいしてと ざされているとすれば, タタール人あるいはユ ダヤ人の労働者の 精神的才能の完全な発展などということを, ま じめに論じることはできない 」 ) 。4 したがってまた, 言語はユニ ヴァ ーサリストたちが自明視するように, 簡単にのりかえ可能なも の では な い。 大 い な る 犠 牲 な しに は, 決 し て の り か え 得 な い も の で あ る 。. そして じっさい, 人は「物質的窮乏が深まれば必ず決起するというわけ ではない」が しかし「母 , 語と引きかえに物 質的利益を手に入れること で満足」するようなどんな進歩的階級も存在しないし , 一般に 「ひとつの言語で結ばれたところの, 精神生活を共有する文化的世界 すなわち言語共同体 , の存立にとっての危機が感知されたとき,民族は直接間接に言語の防衛にたちあがるのである」(同 , 4 0 ページ) 。 この事情は非ヨーロ ッパ地域の政治闘争の一つの性格をつく っ ているし,そこでは言語 が政治的威力を発揮している. こうして, 「方言」 や国内諸民族語の圧迫の上に強行的に通用させられた 「国家語」 や, 従属的な あるいは弱小の民族語の抑圧の上で追求される 「世界語」 ないし 「世界共通語」 は ともに 母語 , , とそれにもとづく精神 的世界を否定する -- 少くとも現時点からの歴 史的パース ペ クティ ブにお いて は - - も の と い わ な け れ ば な ら な い だ ろ う。. 以上のような田中氏の見解に関しては, レーニンやスターリンなどの理論史的評価に首肯できな いところが少くなく (テキストeクリテークの問題も含めて) , 細部についての疑問も無しとしない が, しかしその積極的な主張は, 大筋において意味深くすぐれたもの であると思わ れる。 ただ, こ こでとりあげている三篇の論文に関してかぎり, 言語の本性の把握 が必ずしも体系だてて展開さ れ ていないせいか, 言語が民族にとってもつ意義が自明視されていたり, あるいは経験的事象により かかった論証に傾きすぎたきらいがあるように感じられ, 直観的り表象的にはともかく いまひと , つ理論的な説得性に不足しているように考えられる. 田中氏の主張を吟味し, 理解をより得やすくするためには, 尾関周二氏の貴重な労作 『言語と人 55.
(5) . 吉. 崎. 祥 司. 間』 5 )が有益である. 尾関氏は「言語的コミュ ニケーショ ンの人間的本性」を, 「もっ とも本源的には く共同化〉 を実現していく 活動 であり, しかも 〈対象化〉 を不可分 の契機としてふくんでいる, 人 間のも っ とも基礎的な活動の一つ である」(同書, 186 ペー ジ. 以下, 尾関, 00ペー ジのように表 記する) と規定する. 言語は, 本源的には 「〈共同化> をともなう 〈対象化活動〉」 である労働と不 可分の, 内的な仕方 で連関した, しかし独自の性質と領域をもつ人間 的活動である.. 1 1 1. 道具と言語との決定的なちがいは, 尾関氏によれば, まず 「前者は操作主体にとっ て外的存在で 70ペー あるのにたいし, 後者は, 極端な人工言語をの ぞけば, 内的存在であることである」(尾関,1 一般的・集団的表象と 意味 〉 一体であり 〈 は ジ) , , その . 「言語記号は記号素材と く意味〉 との統 して人間意識・精神に 深く内在している〉」 ものであって, ある特定の社会・集団を前提とするもの (同) し, 簡単にとり である (同) . 「道具を操作するようには言語記号 を操作することができない」 かえたり 「改善」 したり, あるいはその 「進歩」 について容易に 語りうるようなものではない. われわれも経験的印象と して抱いている言語=民族 語のこの固有性は,いわゆる「サピア=ウオ ー フの仮説」 に代表さ れる 「言語相対性論」 ないし 「言語相対主義」 の立場において, 「言語のちがい が, 人びとのものの見方, 考え方, さらにまた行動の仕方や 態度に決定的に影響している」 , 要する 主張とな ペー ) という明確な ( 同 1 ジ 」 3 7 〉 っ に 「言語のちがいが 〈文化 のちがいを規定している , てあらわれている。カントにおける対象の先験的構成という認識論を 基礎に,フンボルトやカ ッ シー ラーらが言語による対象の構成という原理を帰結させたこの種の立場は, 認識論的には重大な問題 が含まれており (つきつめれば言語の対象反映性が否定される) , 「異なった言語は根本的に異なっ た世界観をつくり出す」 (同) といっ たウォ ーフの極端な結論にいたっては, 「人間の意思疎通の絶 望をまねく」 (同, 147ペー ジ)ような明らかな誤謬に転 化するが, 「しかし, ゆるやかに理解された 言語相対性論 -- すなわち, 言語のちがいがわれわれの知覚・思考・態度等に一定の影響を及ぼす (決定するのではなく) という見解 -- は, 実験的にもある程度, すでに検証されている」 (同, 138-139 ペ ー ジ) も の であ り, ま た 種々 の 証 拠 か ら 認 め ら れ る も の であ る.. 田中氏に呼応してこのようにいうとき, われわれは前にも少し触れた, 言語の基本性格をめぐる 二つの対抗的潮流を眼前にしていることになる。 その二潮 流, 尾関氏がごく単純化して規定した「言 語=道具観」 と 「言語=民族精神観」 とは, それぞれともに積極的な側面と否定的な側面とを含ん でい る。. 「言語=道具観」 は, 言語の普遍性の 主張によ って思惟の普遍性を, つまり 人間の意思疎通 (コ ミュ ニケーショ ン) の広範な現実性と可能性を照らし出す. 思惟の普遍性, したがってそのもとに なる言語の普遍性がなければ, 人間は諸民族の隔壁内に封鎖され, 相互に人間として交渉しあうこ とが原理的に不可能と なるであろう. おそらく, 言語と民族との不可分 の連関をよく承知 しながら セミオロジーとしての 言語学を構想するソシュ ールや, 言語の 「表層構造」 の基底にその普遍性と しての 「深層構造」 を見出そうとするチョ ムスキーらの営みの背後には, そのような人間の普遍的 能力に関する思想がある, とひとまずいってよいだろう. さらに, 「言語=道具観」は, 言語の道具的に効率的で合理的な使用を問題にする点で, 各人が自 身の個性を表現するための手段として, 言語を道具的に使いこ なすという要求を反映したものであ り, またこれを支持するものである. 「近代以降, 言語を〈道具〉として見る見方が強く出てきたの 56.
(6) . 「エスニックなもの」 をめ ぐって. は, その背景に言語を反省の対象とし, それを対人関係において操作しうる能力が民衆レベル で増 加してきたことと無関係ではないであろう。 こういっ た言語能力の増大は, それ自体として見れば, その言語主体により普遍的な立場をもたらし, 個性の表現を可能にする前提条件を形成するという 意味で高く評価さえしうるであろう。」(同, 21 4ペー ジ)そうした能力は, さしあたりは巧妙に嘘を つく 能力 (言語の疎外) であるかもしれない。 そう であるとしても, その能力は, 本質的には言語 がもつ「対象化」の側面を示すものであり, 「みずから考えていることを自分なりに個性的な仕方で 自由に表現しうる能力, つまり 〈自分の言葉> をもっということ」 (同, 19 6ペー ジ) である。 じっ さい, 言語を道具としてみる見方は, 「言語と一体となった旧共同体の不合理な精神的力」(同,214 ページ) への没入状況から諸個人を解放するという積極的な作用によ って, 近代社会推進の-要因 と な っ た。 こ こ では, 「要 す る に, 言 語 的 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン に お け る 活 動 主 体 の 自 己確 証に は, 自. 分の考え, 思ったことを, 自分の意のままに (自由に, 個性的に, うまく) 語り, 書きえたさいに 生ずる満足感という側面もある」 こと, そして 「この点は言語表現の操作という技術的問題とも深 くかかわっている」 (同, 1 83ペー ジ)という奥行で, 「言語=道具観」をとらえておくことが必要な の であ る。. しかし, やはりこの立場の 「決定的な欠陥は, 言語の社会性あるいはコミュニケーショ ンの観点 を軽視すること」 (同, 146ペー ジ) であり, そこ では, 民族語とそれにもとづく文化の固有性 への 理解が行き届かず, もっ ぱら道具的な効率性が重視される結果, 言語ののりかえを安易に肯定する ような発想を許し, その点 での民族的抑圧を理論的に許容しかねないところにま でいきつくことに な る。. そうした誤りの基礎にあるのは, 言語はたんに普遍的な形式あるいは伝達手段 であるばかりでな く, より根本的に, それ自身が人間の社会的な存在性, 共同性を示すものとしての自己目的性, 価 値性 を も っ て い る と い う こ と の 無 理 解 であ る。 言 語 的 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン は, 「人 間 に と っ て た ん に. 手段 であるだけ でなく, それ自身自己目的的でもある」(同,177ペー ジ) . すなわち, 人間的な話し 合い, 語らいそれ自身, 人間的な交わりそれ自体が目的であり, その意味で 「自己確証」 であると 同時につねに 「相互確証」 であり (語らうよろこび, 心を通じ合う喜びと満足感) , そのようなもの として, ありのままにその重要性と価値が認められねばならないものである。 言語が人間にとっ てもつ意味は, 「人間が本性的に共同的, 社会的存在 (ゾオン o ポ リ テ ィ コ ン) であることを, その存在によって無条件に示していると同時に, その共同的存在を不断に現実化す る可能的な力をもつものである」 (この意味で, 「言語的コミュニケーショ ンの自己確証はく対象化〉 の論理をもふくんでいるが, そのもっとも固有の深い人間的本性は, それとは区別されたく共同化> の論理にあるというべきと思われる」同, 17 8-17 9 ペー ジ) 。 これが, 言語の疎外に蔽われた言語の 本質的性格であり, 「言語=道具観」 に欠落した認識である。. IV. 他方, 「言語=民族精神観」 は, 「言語=道具観」 において見失なわれがちな言語と 民族との不可 分な連関の把握に迫り,人間の生活と意識におけるエスニッ クなものの意義を指し示している点 で, 「言語=道具観」 の一面性を克服しうるものであるだろう しかも, 民族あるいは民族語という障 。 壁が人間の社会的 o 政治的命運を分け, 精神生活に決定的ともいえる影響力を行使しているのが現 実であるだけに, これらの問題連関を重視しない, あるいは回避した 「言語=道具観」 に対して, 57.
(7) . 吉 崎 祥. 「言語=民族精神観」 の 主張は相対 的に強調されてしかるべきもの でもあるように 思われる. 田中 氏の立論の仕方には, そのようなふしもうかがわれる. その点を考慮しながらも, しかし, すでに田中氏自身 が慎重であるように, 「言語=道具観」を全 面的に否定するのは (今みてきたように) 正しく ないし, また言語による民族のアイ デンティ ティ を絶対化して一面的に強調することも,「残存する前近代 的共同体と個人との関係を何 らかの意味で 是認していく, 非合理な神秘的な見方につ なが」(尾関, 214-215ページ)るものとして適当ではな い。 このことはとくに, 旧共同体的な文 化伝統を温存利用 しつつ, 「近代化」が強行されたわが国な どのばあいに 重要な問題 であって, 「民族精神」といっ た用語自体が一種の言語物神として機能しか ねない社会的風土においては, 「言語=民族精神観」へのア プローチは, ある種の強い緊張を要求さ れるものであるだろう。 その上で, だが, ネオ・フンボルト学派の ヴァイスゲルバーが強調し, 田中氏も支持を措しまな tersprache ) の 擁 護 は, わ れ わ れ に と っ て も 正 当 な も の と 思 わ れ る。 い 「母 語」 (Mut. 言語がたんなる 手段にとどまらず,それ自体自己目的でもあるようなコミュ ニケーショ ン機能と, 「〈対象化) を 言語の自由な使いこなしによる個性的な自己表 現機能とを本質的な契機としている ( ) とするなら, 人びとが相 互によりよく人間的に交わり, 語らいあうとと 」 ともなう 〈共同化活動〉 もに言語を意のままに使いこ なすことで, 自己を確証し, 相互に確証しあい, 楽しみと満足を得る ことは, 母語でなく して殆ど不可能 であることは 自明 である. 生まれによ っ て習得した言語によっ てはじめて, 人は自由に, 十分に意をつくすことができる形で語り, 書くことの可能性を獲得する だろう. 「自然」によら ない言語にはどこま でも, よそよそしさがつきまとう. 多くのばあい, 人は そこに「自分の言葉」を発見することは できない. その意味で, 「すべての人びとが気がねなく自分 15 ペー の母語を使えるこ と」が「言語的未来」の目標 である, という ヴァイスゲルバー の見解(同, 2 ジ) は 誤 っ て い な い.. したがっ てまた, 長期にわたる自然の融合がもたらすの ではない, 「世界(共通) 語」や 「国家語」 の強制は, 言語という精神 生活の中枢に向けられた人間抑圧として, 否定しなければならない (い うまでもなく, 世界語に対する民族語, 国家語に対する 方言という問題性は, 論理としては同一の -のにすぎない) 構造をもっており, 差異は相対的なも . そのようにいう とき, それではしかし, 母語は民族を隔絶する原理 としてはたらくのではないか. そこ では, 民族と民族, したがって人間相 互の交渉は絶望的に局限されているということに なるの だ ろ う か.. その点で, 田中氏も指摘するように, 言語のもつ二面性が自覚されなければならない. すなわち, 言語は, 文化を成立させる基礎 でありかつ人びとを媒介して集団 を形成するという役割において, 人間的活動の主要な形態の一 つであると同時に,「す でに ルソーがほのめかしているように, 人間社 1 会の最も差別的な原理をなし, 差別の根源をや どしてい」 (田中, 1 , 11 ペー ジ)る. そしてそれ故 にこそ, 諸民族語の 基底に貫通する言語の普遍性, ひいては 思惟の普遍性が強調されなければなら な か っ た の であ る.. それでは, あらためて, 諸民族の言語 的意思疎通はどのよう な仕方でおこなわれるべきなのであ ろう か.. 有力国家語 (民族語) の支配が従属 的国家語 (民族語) とその文化を, 一国規模 での言語的多数 者支配が言語的少数者とその 文化を抑圧している現状では, 既成の有力民族語ない し標準語 (有力 方言) が, 「世界語」 ないし 「国家語」 の位地につくことは, やはり認められるべきことではないだ ろう. バイリンガリ ズムについて も同様であって, 母語に併用される有力 語が (単一国家語所有の 58.
(8) . 「エスニ ックなもの」 をめ ぐって. 願望のもと で) 母語にとっ てかわろうとするか ぎり それは好ましから ざる役割をはたす , 。 有力言語支配 が貫徹するかにみえていたにもかかわらず 近年国際的に顕著な 民族語運動の高ま , りは, この困難な問題の解決方法の再吟味を要求しているといえよう もちろん 言語的抑圧に対 。 , するたたかいは, それだけとしておこなわれているのではない いいかえれば 「言語紛争」そのも 。 , のではなく, 「言語紛争」として現象す る抑圧と被抑圧の連関にこそ 事態の本質がみられるべきな , のでもあろう。6 )しかし同時に, 階級的抑圧あるいは民族的抑圧一般にと どまらない言語的-- 文化 的抑圧, 精神的危機 への抗議として, その種のたたかいが展開さ れていることも事実である そし 。 てそれは, 田中氏が紹介している 「社会主義の進歩的役割の一つは 大衆に多言語獲得の機会を与 , え, 次第に民族 語の分立に起因する言語的困難をとり除く ことができる 朝こ存する」(田中 1 34 , , ペー ジ) というカウツキーのみとおしに われわれが安住することを許さないも のであろう , 。 かく して, 諸民族の意思疎通は, 既存の諸言語から等距離をとっ た 効果的 で中立的な人工言語 , によるべき であろう か. その当否のにわかな判断は難かしいが,どのような解決方法 が最もふさわしいもの であるにせよ , 「やはりあるべき国際語とは, 諸民族にたいしそれぞれの母語を大切 にしいっそう発展させうると ともに, 国際的コミュ ニケーショ ンの手段として民族間の平等と民衆にと って習得容易という条件 が保障されるもの でなければならない」(尾関,2 20 ペー ジ) 。 というのも, われわれが人間存在のあ らゆる側面 で民主主義の立場に立とうとするかぎり 「民主主義の徹底化は すべての人があらゆる , , 差別をこえて言語的コミュニケーショ ンの真の主体として一人一 人登場することを要請するの であ ・(同 219 ペ ー ジ) か ら る」 ) , 。7. V. なお, 田中氏によるカウツキーやレーニン, スターリンの民族 - 言語論の評価について 筆者に , は今たちいった検討をおこなう 準備はないが, 次の二 戴こついてだけは述べておきたい 。 一つは, スターリンが民族と言語との深い内的関連を鋭く指摘していた という田中氏の相対的 , に高い評価に関する疑問である。 こ の 点でも, スターリン言語論のなかに, 田中氏とはむしろ対立するようなスターリン像を見出. す尾関氏の想定が参考になる。 尾関氏によれば, まず, 『言語学におけるマルクス主義について』 で「スターリンはくり返し 言 , 語とは要するに <基本的な単語のたくわえと文法構造〉 であり, 個人や集団のあいだの 〈交通の用 具, 手段> であることを強調」しているが, 前者についていえば, それはなにより 「言語を活動の , 視点からく言語行為〉としてとらえる観点」を捨象したもの, つまりいわば(ソシュールのランガー ジュにおける) パ ロール (言語行為) を捨象したラン グ (言語体系) の観点にとどまるものであり, 後 者に つ い て い え ば, 言 語 を「交 通 の 用 具」と し て と ら え る と き の ス タ ー リ ン は コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ,. ンの観点の重視にもかかわらず,「言語は, 上部構造と原則的にちがっているが, 生産用具たとえば 機械とはちがわない」 といった言明とてらし合わせればす ぐわかるように 「あまりに道具主義的」 であり (以上, 尾関, 203ペー ジ) , つきつめれば, 言語を 「主体と対象のあいだに挿入」 するとこ ろの「主体に外的な存在」 「 意識にと って外的なもの」とみなしていることになる(同,204ページ) , 。 しかもそればかり ではない。 言語の非階級性の説明にあたって, スターリンは 「言語」 の名に値 するのは 「全国民的言語」 だけ であって, 階級の影響を受けた「方言」 (ディ アレクト) や 「通用語」 59.
(9) . 吉. 崎. 祥. 司. (ジャ ル ゴン) はその名にまったく 値しないとする (同, 205 ペー ジ) . これらはいずれも, 田中氏がスターリンの理論的貢献にお ける中心的なものとみな した論点に抵 触するものである. もちろん, 田中氏はスタ ーリンの理論と実践を全体として評価し肯定している わけでなく, 各所でその誤りと平板で機械的な論理を批判されて もいる. 田中氏が, そういうスター リンのおそらくは数少い, しかもレーニンも 果たしえなかっ た部面 での理論 的寄与とされたまさに その点で, だが, 尾関氏は疑問を立てているの である.「スターリンの大国主義的な態度とさきの彼 の言語観 -- つまり, 言語を 〈道具〉 として, しかも 〈全国民的言語〉 たることを中心に考える言 語観とは, 案外深いつながりがあるかもしれないのである. ……いずれにして もたしかなのは, ス ターリンが言語・コミュ ニケーショ ンを人間性の根本にかかわらせて 考えていなかったことである. さもなければ, あのような言論抑圧と暴行を正当化することは不可能であろう」(同, 216ページ) . 一般に, 理論的著作においても不整合は ありうべきことである. 尾関氏も慎重に断定を避けてい るように, このばあい.の不整合も, スターリンの民族 - 言語論と 思想の全体的な考察によ って解決 されるべきもの であろう. ここでの問題は, あげ足とりのため でなく, こう した, 対象の全面 的考 察という点で, 田中氏の方法に 一面性がうかがわれはしないか, ということ である. こ の こ と は, カ ウ ツ キ ー や ス タ ー リ ン に 対 して 相 対 的 に 低 い 位 置 を 与 え ら れ る こ と に な っ た レ ー ニ ン の ば あ い, とく に あ て は ま り そ う で あ り, そ こ では レ ー ニ ン の 用 い た 概 念 が 必 ず し も 十分 には. 理解されていないように見受けられる. それが, 二つ目の問題 である. レーニンの民族論に, 年代的に相当はっきり画しうる段階 的な発展・修正があっ たことはよく知 られている. 田中氏のそのことへの 配慮がどこまで行き届いて いるのか, 時期を異にする諸著作 が 融通無凝に検討対象 とされているように 思われるのだが, その点はさておき,「一見すこぶる陳腐 で あるように見え」 るレーニンの 「言語は交通のため の最も重要な手段である」 というテーゼから, 「言語に伝達にまさる大きな役割を認めるたちばを排除する」もの, 「言語じたいは決して 目的その ものにはなり得ず, 手段にとどまるものだと言明してい る」 , 「それは言語を仮象と し, その背後に 人類共通の論理と 思考という実体をとっておくことを意味する」 , 「文化における言語の地位, 集団 いく 言語のより深い本質にきり込んで 形成における言語の役割というい ずれの面をと って見ても, 1 ための手がかりは 与えられていない」(田中, 1 , 10ペー ジ)等の結論を導き出すのは, あまりに性 急であるばかりでなく, おそらく誤り である. もちろん, 田中氏はこれらの帰 結をテーゼからの論理的推論として導き出したわけでなく, レー ニンの 「民族自決論」 , 「世界語主義」 などの政策的見地に関する解釈 を媒介さ , 「階級利益優先論」 せているが, 問題は, 陳腐であるとされたテ ーゼの中の 「交通」 という概念のマルクス主義理論史 における意 味が必ず しも的確に把握されてい ないため,レーニンの民族 - 言語政策に対する田中氏 の批判的評価が, 先入見, いわば思い込みと して原理的レベ ルの問題の 理解をも規定してしまっ た 点にあるように思われる. いうまでもなく, 初期のマルクス らにおいて, 「生産力」の概念と並んで歴史=世界把握の基軸と ) は, 経済的および習俗や民族的なものを 『ドイツ・イ デオロギー』 してつかまれた 「交通」 概念 ( 含む社会的諸領域から, 法や政治, さらに宗教や芸術等精神文化の全体にいたる, すなわち最広義 における 生活と活動の全般にわたる 「人間的交渉」 とそれにもとづく 人間の人格的形 成可能性とを 内容として指示するもの であっ て, たんなる形式や伝達を意味するものではいささかもない. マル クス主義にお ける 「交通」 概念はこの文脈でと らえられるべきものであっ て, さきのテーゼにおい ては, 言語がそのような「交通」(人間の全面的交渉とそれに もとづく自己形成=相互形成の可能性) 「交通」 の最重要手段とみなされているの である。 つまり, レーニンのテーゼにおける規定の仕 方 ( 60.
(10) . 「エスニックなもの」 をめぐって. 概念の使用) 自体が, 田中氏の帰結とは逆に, また 「交通」 という言葉を 「陳腐」 ととりかねない 常識を裏切っ て, ことがらの本質を原理的に表現しているといえるのである。 しかもなお, レーニンの民族政策の「誤り」が指摘さ れなければならないというのなら, むしろ, テーゼにおける正当な原理的立場にもかかわらず, なぜ民族政策に おいて 「誤った」 諸命題が提起 されるのか, というように問題が立てられるべき であろう. その場面ではじめて, 田中氏の批判す るレーニンの 「諸民族の接近と融合」 というテーゼや, 強力な 「社会主義的中央集権国 家」 を介す る人間的解放という観点, などの悩ましくも困難にみちた諸問題の性格 がもっ と的確に把握される のであるまいか. その意味で, 原理的な問題と( 「人類の前史」規模から当面する解放の課題ま での) 長短の 「過渡期」 にかかわる問題との癒着, レベ ルの異なる諸問題等の混同ないし短絡, いささか 一面的な論 断などは, かえっ て田中氏の立論の説得性を弱めるものになっているように 思われる 。 ともあれ, ここで田中氏に対置した疑問も, 相互に対象に即した十分な吟味が必要とされること がらである. 田中氏の大きな貢献の一つであるオーストリアもマルクス主義の再検討を含め, マル クス, エンゲルらの古 典家たちからレーニン, スターリンその他の著作家たちにいたる民族理論史 のあらためての検討は, たしかに今日の重要な共同の課題の一つであるだろう。. VI. さて, こうして, 人間の共同性を媒介し(相互確証) , 自己実現の力と享受とを生みだす(自己確 証) 言語は, 現実には, 母語=民族語として, 「エスニ ックなもの」 の一部としてあらわれている 。 人類史の現段階は (そして今後とも, おそらく自然の過程が諸民族語の融合を達するまでの長大な 時間にわたって) , 言語を民族語から解放す る条件を, おそらく, まだつくりだしていない. その意味で, 言語はエスニ ッ クなものの主な内容の一つであり, しかも, 思惟をつう じてその産 物の総体に決定的な影響を及ぼすものとして, 基礎的な位置を占め るものである。 そもそも, われ われは「実践的な現実意識」 , 「思想の直接的現実態」 (マルクス)としての言語, 一般に民族語にお いて日常的な生活を営み, 相互の交渉と知的経験を蓄積している. この世界は, 他のエスニ ッ クな諸契機と併せて, 人びとによ って独自の価値づけを与えられなが ら, 不断にエスニ ックな自覚を生み出している。 しかも, 本質的に共同体志向を基礎にしたこのエ スニ ッ ク なも の は, エ ス ニ ッ ク な 共 通 性 と い う そ れ だ け の コ ミ ュ ニ ケー シ ョ ン 性 に よ っ て, 分 裂 し. た人間集団を横断してある紐帯をつくり出すことができる. そこに, 幻想の共同体としての国家へ の帰属をうながし, ナショ ナリ ズムという歴史的現象の大衆心理的基盤を醸成する構造が生み出さ れることにもなる. そうした傾向は, 民族的危機や民族的苦難が感じられるときに, ひときわ強め られるのであろう。 このエスニッ クなものが, その生きた姿と独自性, 固有の価値において発展し, しかも諸民族が その民族的障壁を越えて人間として全面的に交渉しあうことを保障するための道筋は, どこにつけ られるべきなのか. 言語においては, それは, 母語とそれにもとづく文化を発展させつつ, 国際的 交流の言語的条件をどう発見していくか, という方向で予測がつけられた.8 )そのような予測をエス ニ ッ ク な も の の 他 の 諸 領 域, そ し て エ ス ニ ッ ク な も の の 全 体 に 関 し て 明 ら か に し て い く こ と が, し. たがって次の課題となるであろう. そう考えるとき, われわれは, わが国の思想史になじみ深い「風 土」 の 問 題, あ る い は 「ナ シ ョ ナ ル な も の」 の 問 題 の 前 に 立 っ て い る こ と に な る .. たとえば和辻倫理学をただちに想起させるこの問題連関にとりかかる前に, しかし, ここで一つ 61.
(11) . 吉. 崎. 祥. 司. の限定を付す必要があるように 思 わ れ る. つ ま り, エ ス ニ ッ ク な も の で あ れナ シ ョ ナ ル な も の であ れ, その種のものが不当に拡大さ れたりつまづきの石となることの ないようにするために, それら を 「ナショ ナリ ズム」 と区別 しておく必要がありは しないかということ である. この点 での格 好の反照素材を提供 しているの が, 尾崎彦遡氏の著作 『反 〈ナ ショ ナリ ズムの時 代〉 』9 )の第二章 「ナショ ナリ ズムにおける 〈風土〉 の役割」 である。 この論文は, かの 「民族は母体 であり, 階級は主体 である」 というテーゼで知られる 『民族と階級』 の著者高島善哉 氏のナショナ リズム論批判として書か れたものであるが, 高島氏が依拠するのが和辻 「風土論」 であるのに対 し, 尾崎氏は和辻倫理学の批判者としての梅本克己の論稿 「国家・民族・階級・個人」 , 。 }からいくつかの 見地をうけ つ ぎつつ, 独自の反ナショ ナリ ズム論を展開 して, ナショ ナルなものとナショナリ ズム のいわば境界を画定されている. なお, エスニックなものと,,ナショナルなものあるいは 「風土」 とはもちろん 必ずしも同義 では ない. たとえば, ナショナルなものが国家や国民そ して民族という連想で近代 的なものおよびその 諸側面という連関を予 想させるとすれば, 必ずしも民族国家ないし国民国家といっ た歴史社会的限 定をともなわないエスニ ッ クなものは, 歴史的にも論理的にも, またその内容の多様さにおいても より広い概念であるということも できよう. しかし, ここ での問題はまだそう した区別立てを必要 としないレベ ルにかかわるものでもあり,行論の都合上,それぞれをほぼ同義のものとして取り扱っ て い き た い.. I I V. 尾崎氏によれば, まず, 民族には 「社会的歴史的側面」 と 「自然的原生的側面」 とがあるが, こ の 「原生的.自然的契機」 を人間と自然との 「かかわりあい」 もしくは 「あいだがら」 という意味 での 「風土」 にもとめ, その不変性・永遠性にもとづいて民族を自然にな ぞらえた 「不動の存在」 とみなすのは誤り である. 人間の存在の仕方を 「かかわりあい」 や 「あいだがら」 においてとらえる立場は, しばしば指摘 されるように 「労働」 論を欠如させたもの であるが, さきの尾関氏もまた労働論抜きのコミニュ ニ ケ÷ ショ ン論だけ では人間の本性の把握を誤ること, ならびに言語の疎外の克服は労働の疎外から の解放に相即することを強調していた. そして, 労働の観点を欠くとき, 人間とその社会は活動性 において ではなく, 所与の自然的関係の中での受動性においてとらえられることになり, ナショ ナ ルなものが人間主体の原基とみなされてしまう, というのが尾崎氏の批判 である. このことの意味 は, たとえば前に触れた 「エスニ ッ クな地域」 について考えてみるとき, 具体性をもってくるだろ う. すなわち, 「地域」 は人間にとっ てたんなる自然では なく, エスニ ックな地域である. そして, 地域をたんなる自然から, そのように 「住民」 のものに変えた ものこそ, 原基的には, 労働にほか ならない. 労働が, 自然をたんなる所与性から具体的な対象性へともたらし, また他方ではそれを エスニ ッ クなものとうけとる感覚 を育てたのであり, かく して, 人間と社会と自然とが活動的な相 互関係において, 実践的なもの, 変革可能なものとしてとらえられるにい たるの である. ‘エ ス ニ ッ クなものあるいは風 土, またはナショ ナルなものが, あたかも自然になぞえられる不動の存在では なく, 人間的活動の対象である, というこの原理的把握は, たしかに重要なものであるにちがいな し、 .. その点で, 民族を「人間の基本的な存在形式」 (田中, 1, 24ペー ジ)とみなす田中氏も, 労働論 62.
(12) . 「エスニッ クなもの」 をめぐって. を媒介させることのないコミュ ニケーショ ン論的な立場にとどまるか ぎり,「民族が, 究極的な行為 (作業) 主体として歴史に参加する労働者個体の存在の社会的位地を確認する場となるかわりに, いわゆる現実主義者の唯一の 拠り どころともいうべき原生的な要因風土へ後方拡散される危険をと もなう」 (尾崎, 32ペー ジ) という批判に向い合わなければならないだろう。 も っ と も, だ か ら と い っ て, 尾 崎 氏 に お い て, 原 生 的 e 自然的契機が端的に否定されるのではな い(同, 4 2ペー ジ) 。 氏によれば, ナショ ナル(民族) は厳とした歴史的実在であり, ナショ ナリ ズ ムという上屋をはずしてみれば, 「風土」 を骨格とした 「〈ナショ ナル〉 は, いわば隣保的感情, 郷 土精神などという住民の全生活から流れ出る単なる (非イ デオロギーとしての) 存在そのものとし 1 て, ナショナリ ズムから離脱し, 文字通り風土に閉息すろ くバンと祭> の共同体とな」 る (同, 4 ペー ジ) ようなもの, あるいは 「郷 土的文化の枠の中」 にあるもの, または労働者個 人の 「お国ぶ り」 (同, 42ペー ジ) などである。 エ スニ ッ ク な も の と して の 言 語 に つ い て 考 え て き た わ れ わ れ に と っ て, こ こ に 叙 述 さ れ た ナ シ ョ. ナルなものないし風土的なものは, あまりに牧歌的でありすぎよう。 ナショ ナルな制限をもっとは いえ, 基本的に 人間本性に根 ざすエスニ ックなものはもっと底深い生きたものであり, それゆえに また威力をも具えたものである。 そのことが正当にとらえられなければ, ナショナルなものを真に ナ シ ョ ナ リ ズ ム か ら 区別 す る こ と も, ま た ナ シ ョ ナ ル な も の を 洗 い 出 す こ と で 「ナ シ ョ ナ リ ズ ム の. 克服」 をはかることも容易ではないだろう。 その点t こ疑問を残しつつも, ともあれ, 尾崎氏が, そのような風土, ないしナショ ナルなものが じつはナショ ナリ ズムによっ て労働者から疎外されていた ものであり, したがって労働者の解放と はかつて 「幻想としてしか」 もてなかっ た風土, 祖国をあらためてよ びも どすこと でもあり, そこ で 「回 夏された祖国は, ナショ ナリ ズムを再び醸成することのない人間の普遍的文化の多様な豊富 さの証となる, そういう 〈祖国〉 であ」 (同) るとされるのはきわめて正 しい。 と こ ろ でしか し, す でに 示 唆 さ れ て い る が, 尾 崎 氏 に あ っ て, そ う し た ナ シ ョ ナ ル な も の の 延 長. 上にナショナリ ズムがとらえられてはならない。 「ナショナリズムは自然的り原生的要因を拒絶する 0ページ)の であって, 「ナショ ナリズ 歴史的社会的な, カテ ゴリーとしてはじめて定立する」 (同, 5 ムが民族の母 体性を確認しうるのは, 近代国家」 (絶対主義国家から国民国家にいたる過程)におい 7 ページ) てだけであり(同, 4 , 市民社会の資本主義的展開にもとづく階級分裂(ナショ ナルな統一 性ないし未分離の解体) とその敵対的発展以降は, ナショナリ ズムは 「ナショナルなもの一般の反 映ではなくて, 常に国家への要求, 維持あるいは回復という強力な権力意志によ って上から統卒さ ブ れる」 (同, 4 0 ペー ジ) 。 すなわち, ナショ ナリ ズムは「国民国家形成の ルジョ ア的, 特殊イ デオ ロギーでありそれ故にこそ, 国家の論理を支える頑強な支柱として, 自然的・原生的なナショナル 2 ページ) のである。 今少しいえば, 「民族意識が主権の概 な要素でもっ て……武装さ れる」 (同, 3 念と結びつくことによ って, 現実の支配被支配搾取被搾取の本源的な敵対関係, 利害の相反性を隠 蔽するための道具として最大限にこの民族的心情, いわゆる自然り原生的な くナショ ナ ルなもの> が動員される」 (同, 40ペー ジ) 。 したがって, 「ナショ ナリ ズムは, それを顕現させるナショナルの, 自然になぞらえる原生的性格 から切り離して……, 国家への統合と支配を要求し, あるいは回復をめ ざすイ デオロギーとして把 握することが必要 であ」(同, 39ペー ジ) る。 それゆえまた, ナショ ナリズムの 「前向き, 後向き」 が問題にされるとして も, その基準は「く風土〉にあるのでなくて, かかって主権概念をとりこんだ イ デオロギー(政治意識)主体の歴史的位置, 性格によ って規定される」 (同, 40ペー ジ)わけであ るから, ナショ ナリ ズムは, 国民主義的なそれ, 国家主義的なそれ, 民族主義的なそれ等々のさま 63.
(13) . 吉. 崎. 祥 司. ざまな現象形態をとるが, しかし根底において,「いずれにせよ国家を必然の対応と し, 国家に集約 されてその役割を行使し, あるいは完了する」(同, 39ペー ジ)ものとして, 歴史的限界をも つもの であ る.. そして, 国家というものが, ひっきょう 「戦争をしない国家はない」 というあり方で, 人間の未 来を封殺する原理であるかぎり, 最終的にそのような国家を結果する以上のものではないナショ ナ リ ズムは, 原理的に 克服されなければならない ものである. このような尾崎氏の見解に対しては, その原理的な把握の正当性を承認しつつも,(意識するとし ないとを問わず) 国家の克服に向っ ての長い過渡期をアクチュアルな現実として苦闘している立場 からは, 大いに異論のあるところであろう. すなわち, ナショナリ ズムをなべて国家を志向しそれ に帰結するものとする立場からは, 現実の民族問題と民族運動の意義 -- 民族的抑 圧という形を とっ ている階級的人間的抑圧とそれへのたたかい -- を結局は認識できないのではないか.そこで は, ナショ ナルなものの内容と性格が必ずしも十分に考えられないままに, ナショナリ ズムとの区 別が演輝的にいとも容易におこなわれている ために, ナショナリズム克服の意図にもかかわらず, 抽象的な否定として, かえっ てその克服を困難にしているのでは ないか. ここでの論理は, 現実の 過程,歴史的な特殊性や固有性がすべて普遍性に吸収され,過程が結果に短絡するような運 びになっ ているのではないか. そもそもナショ ナリ ズム論を国家論のレベ ルにのみ抽象することは, ことが らの全面的な考察という 点で一面化のそしりを免れないの ではないか, 等々. それらの諸 点を 留 保 し つ つ, し か し, イ ン タ ナ シ ョ ナ リ ズ ム は, ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 延 長 に, ナ シ ョ ナリ ズムの集合として置かれるのでは なく, むしろ 「ナショ ナリ ズムとは和解しがたいところにな りたつ対抗概念」 (同, 43 ペー ジ) であり, また間 - 国家的原理ではなく, ナシ. ヨ ナルな囲みから の離脱をはたした プロレタリア ートにおいて期待される 「人間の普遍的性格の自覚」 , 「古い共同体 に強制された対自然, 対他人との関係の狭い囲み」 の打破, 「開かれた人間的世界」 の展望 (同, 42 ペー ジ) という諸原理であるとする尾 崎氏の理解は, ナショ ナリ ズム論はもとより, ナショ ナルな ものないしエスニ ッ クなものの探求が陥いりやすい偏狭性や一面性への方法的反省の基準を示すも の と して 重 要 であ ろ う. エ スニ ッ ク な も の や ナ シ ョ ナ ル な も の の 考 察 は, そ の 内 部 に と どま る の で. はなく, つねにイ ンタナショナ ルなものに よって反照されていな け ればならないという こと であ る.. . ). V I I I さ て, こう し て, 「エ ス ニ ッ ク な も の」の 性 格 と 位 置 に つ い て の ひ と と お り の 了 解 が 得 ら れ た よ う. に思う. それ自体普遍的なものを内在させかつ発現もさせながら, しかも民族的な限界をもった形 態 で現象している言語は, 「エスニッ クなもの」の性格と位置を最もよく特徴づけているもののよう であ る.. しかし, 「母語」 が 「国 (家) 語」 と一体化していることにさしたる疑問も抱かれない社会的土壌 (もちろんその背景には伝統的な 「漢字文化」 支配ととくに明治以降の言語統制による 「国語」 制 定政策という歴史がある) のもと で, 言語は日本人にとっ て, 比較的対象化しにくいものであるの シクなも の」 についての吟味をすすめる必要がある かもしれない. その意味でも, 今少し 「エスニ・ } だろう. そのさい, たとえば和辻 「風土論」 で取り扱われた素材は, たしかに興味深いものである に ち力ゞい な い. 64.
(14) . 「エスニ ックなもの」 をめぐって. 註 1) 拙稿 「民族論ノート」(札幌唯物論研究会 『唯物論』 第29号所収) 参照。 小稿とは相補う関係にある . 2) 板東宏「歴史における民族の形成」( 『歴史学研究』 別冊特集 『歴史における民族の形成』 9 75年, , 青木書店, 1 所収) , 22ページ参照. なお, 田中氏が「ソ連邦における民族理論の展開」で紹介しているソビエトのトーカレフ (C ) の, エスニック共同体とは 「起源, 言語, 地域, 国家的帰属, 経済関係, 文化の制度, 宗教 r q lpBB .A.To (もしこの最後のものが残っているばあい) といったような社会的諸関係の共有のしかたのうち, 一つあるいは いくつかのものを基礎にしたところの人間の共同体である」 といった規定にも注目 (同, 1 3ページ) . 3) ソ ビエ トの ア ガエフ (A,r ) によ れ ば, 領 土や 地域 は た ん なる 地理 的 空 間 では なく, あ る エ スニ ッ クな .ArAEB. 自覚を介在させた 「エスニックな地域」( 3 T H “ q ed ( a RTeppHTOPHR) であ る とさ れる (田 中, 同 前, 14 ペ ー ジ) が, 後述するように, この観点は郷土感情 - 郷土愛といったパトリオティ ズムの基礎の解明に示唆を与えるばかり でなく, 地理的決定論的な 「風土論」 の哲学的基礎にくいこむ論理を内包するものだろう. 4) スターリン 「マルクス主義と民族問題」 5ページ, 全集版34 2ページ. , 邦訳, 国民文庫版6 5) 尾関周二 『言語と人間』(大月書店, 1 9 83年) . 6) この点で田中氏の 「階級闘争」 把握はやや粗雑であり, その分, 民族運動の意義が拡大されて評価されること になる. たとえば次の一節などは, 社会科学上の基本概念に関する田中氏の理解への疑問(前掲板東論文21ペー ジの評言など)を招くものであろう.「階級的利害が基本的には物質生活にかかわるだけであるのに反し, 民族的 利害は精神活動の全域, すなわち言語的不利益にかかわるという点において, 民族解放闘争のおおう範囲は広く ま た 深い」 (田 中, 1, 32 ペ ー ジ) .. 7) なお, 以上によって, 言語が民族の文化にとって積極的な意味をもつことを否定しようとする, ソビエトの-. 部 に み ら れ る よ う な 試 み は, 田 中 氏 の いう よ う に 正 しく な い こ と がわ か る た と え ばカ ル タ ハ チ ャ ン (C T , . .. KA ) は 「多様な言語のもたらす豊かさによって, 人類の力は増大するのではなく, 減少する」 とか 「言 TAxqAH 』 語は民族的感覚において, 決定的な役割を演ずるものではない」とするが(田中, 1 1 , 8ページ) , これらは, イ デオロギー的な背景は別として, 一方からいえば言語=道具観の立場から言語を主として伝達機能とのみみて , それ自体が目的であるような人間的交わりとしての言語的コミュニケーションの基本的性格を見落しているも のであり, 他方からいえば言語的=民族的障壁の克服を安易な仕方でしか考えていないことを示すものであろ う。 きわめて困難な課題であるが, 多様な言語は, それぞれにおいて豊かであり, 人びとの力を増すものである にもかかわらず, 民族的な狭さによって限界づけられており, そのかぎり人類の総体的な力を低下せしめるもの である, という基本的な立場から, 現実が強行している言語的強者による言語的少数者の抑圧に起因する民族語 の自然陶汰の過程を放置するのではない, 言語的コミュニケーションの国際化の方途が -- すべての人間の精 神的諸能力の発展と平和のために -- 探求されなければならない. 8) 「国家語」 的言語統制が最も厳しかったフランス (その経過はそれ自体興味ある諸問題を含む) をはじめとし て新たな高まりを見せている国際的な民族語運動は,したがって,言語をつうじる人間的抑圧の克服と エスニッ , クなものの発展的評価, そしてそれの世界への開放性という連関で位置づけられるべきであろう なお たとえ . , ば宮島喬 「現代国家と 〈相違への権利> 」(『世界』19 4年3月号所収) 参照. 8 9) 尾崎彦遡 『反 〈ナショナリズムの時代〉 』 74年) , 世界思想社, 19 . 1 0 ) 梅本克己 「国家・民族・階級・個人」( 『展望』1 9 6 6年10月号所収) . ) なお, 尾崎氏の他の主要な論点のうち,「ナショナリズムの克服の原点が, プロレタリアの階級的意識にあると 1 1 いう立場をとる限り, 国家の消滅が究極的なある日, 忽然として訪れるという期待を表わすのではなくて, 階級 的意識の発生と同時に, 行為としてその克服(消滅)の作業がともなわなければならない」( 31ペー ジ) , そこに こそインタナショナリズムがなりたつという指摘は, 国家を人間の共同の疎外態としてとらえながら, しかもそ こでの権力奪取をつうじる社会主義的諸関係の全面化という過程を経ることなしには 「人間的解放」 は現実化し ないだろうと考えるマルクス主義国家理論の基礎によこたわる重大な課題に触れている しかもこのことは, 現 . 実の社会主義における人間的-- 社会的活性化というアクチュアルな問題性において, いっそう深さをました重 要性 と して あ らわ れ ている だろう. しか し, そ れと て, も はや プ ロ レタ リア の 階 級 意 識に よ る ナ シ ョ ナ リ ズム 的. なものの拒否, 克服という抽象性のレベ ルで語りうることではないと思われる. 同様に, 尾崎氏のいまひとつの主要なテーマである「民族のタームにおいて, なぜ階級闘争がたたかわれるの か」 という問いかけについても, それは, 「階級的な要求が民族的な要求を通じてしか表現できない (あるいは, それにより最も効果的に表現される) 歴史的・社会的制約を反映したものであり, 民族的要求は階級的要求へと 65.
(15) . 吉. 崎. 祥. 司. 直接的に連続する」 , あるいは「民族的課題の達成は, 民主勢力の基本的(階級的)要求を満たすものではないが, それにもかかわらず, その要求への接近にとっては不可避の前提である」 , 民族的運動は「自らの中に, その廃棄 」( 49一50ページ)などとされるとき, 階級的運動と「 不可分に統一されている (否定)の要因を内包しており」 , 問題の根本的な, 巨視的な見とおしは全く正しいのだが, 民族的諸現象・諸事態の生きた現実にはたしてどこま で迫りうるのか(たんにそれ自体の把握のためにではなく, まさに人間の全面的な解放という観点から) , という 疑問を無しとしない. 第三世界研究のリーダーの一人である尾崎氏への疑問としては, およそ当を得ないもので あ る か もし れな い が.. ともあれ, 田中氏と尾崎氏の双方が, それぞれ反対の方向で, 一方に依拠し他方を十分に媒介しなかったとこ ろの 「階級的なもの」 と 「民族的なもの」 との関係を, より具体的に明確にしていくことが求められているだろ つ.. (本学助教授 岩見沢分校). 66.
(16)
関連したドキュメント
この 文書 はコンピューターによって 英語 から 自動的 に 翻訳 されているため、 言語 が 不明瞭 になる 可能性 があります。.. このドキュメントは、 元 のドキュメントに 比 べて
90年代に入ってから,クラブをめぐって新たな動きがみられるようになっている。それは,従来の
2021] .さらに対応するプログラミング言語も作
ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配
話者の発表態度 がプレゼンテー ションの内容を 説得的にしてお り、聴衆の反応 を見ながら自信 をもって伝えて
あれば、その逸脱に対しては N400 が惹起され、 ELAN や P600 は惹起しないと 考えられる。もし、シカの認可処理に統語的処理と意味的処理の両方が関わっ
歴史的にはニュージーランドの災害対応は自然災害から軍事目的のための Civil Defence 要素を含めたものに転換され、さらに自然災害対策に再度転換がなされるといった背景が
賠償請求が認められている︒ 強姦罪の改正をめぐる状況について顕著な変化はない︒