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自由論をめぐって

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Academic year: 2021

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(1)自由論をめぐって 川. Some. 村. Remarks. 仁. on. ■也*. ``Liberty". Jinya Kawamura. §1 自由とは何かに関連してだされている多くの見解には個々の個人は別として資本主義国 と社会主義国とではそのとらえる視点において顧著なちがいがあるように思われる。いま その代表的なものとして「自由」■という項目を二つの辞典にみてみる。一つは「哲学百科 Partridge執筆のもの,もう一つほ「哲学 辞典」 (1967年P. Edwards編集)のP.H. Kosing執筆のものである.パ 用語辞典」 (1974年G. KlausとM. Buhr編集)のA. ート.)ヂはこれまでヨーロッパにおいて個人主義,自由主義の中心的な概念であった自由 概念をとりあモず次のようにのべている. (1)自由であるということほ強制がないという考え 方があって,この立場をとるひとは,自由とは自分以外のひとから干渉されたり,強制さ れたりすることがないことであると考える。ひ、とがみずから目標をえらべるかぎりにおい て,またさまざまな選択肢のうちのどれかをえらびうるかぎりにおいて,あるいほ別ない い方をすれば,みずからが選えらばないことを他人の意志だとか,国家あるいはなんらか の権戒によって強制されない程度に応じて自由であるというのである.こうした自由を羊 from,消極的自由とよばれている。この消極的自由とはひ 「-・-からの自由」 freedom とりひとりがみずからのコースをえらぶときに強制をうけることのない行動領域をさして. いるのである。そしてここにも,さまざまなヴァリエーションがあって(a)強制がない ということが自由の必要にして充分な条件とするもの(b)他人による強制ばかりでな く,自然条件もわたくしたちの選択を制限したり,障害となるのであるから,そのような 障害となる自然条件をわたくしたの目標達成のため変更し,利用するようわたくしたちの 能力を増大させる認識などの発達も,自由を拡大することになる。. (c)さらに,わたくし. たちの行動を制限し強制するものが他人の意志であれ,自然の障害であれ,実行するため 「・=-をする自由があ の手段,能力がなければ自由にえらぶとはいえないのであるから, る」ということは「--をなしうる」,. 「-・-をする手艶能力をもっている」と等しいと. する立場がある。パートリッヂは,しかし,このような意味に解される自由には日常言語 *. 哲学・倫理学教室(Dept・. Pbilosopby).

(2) 20. 川. 村. 仁. 也. 使用法をゆがめるものだとして,自由の本質的で明確な機能というのほ,いかに行動する かという選択が他人によって強制されないということだと主張する。 「無料の学校がない 社会でほ,たとえ金が乏しいために子供を学校に送りだすだけの余裕がない労働者があっ てもかれほけって子供に教育をうけさせる自由を奪われているとはいえない(「自由の論 理」)とアロンほいっているのだが,. ′ミートリヂのいおうとしていることと同じである.. 自由とは強制がないことであるならここでいわれる強制とほ何かが明らかにされなけれ ■ば,自由の意味もまた明確にはならないo. 「いっばん的にいうなら自由とは欲求を実現す るのに障害がないことといえる」というラッセルの定義をとってみるに,たとえば全体主 義社会で-パートリッヂは社会主義社会をもふくめているもののようであるが一支配者が 書籍とかあるいほ一定の見解を規制したり,またそうした社会の教育者が青少年の気質や 精神をたくみに形ちづくるといったばあいほ,その社会のすべての市民ほ支配者の欲来し ていることを欲求するであろうし,そうしたとき慣習化されてきたのとはべつのえらび方 がありうるのだということに気づかないであろうし,あるいほ制限されていること自体に も気づかないであろう。こうした極端なばあいはともかくとして,社会にほ程度の差こそ あれ,このようなことはありうることなのである。このばあいにほふつうの意味での強制 がないし,不必要でさえあるのであるo強制がないことが自由の必要条件であるなら,こ のばあいの強制にほ(i)命令,禁止等の直接的なものと(u)えらぶことを決定しある いほそれに影響をあたえる諸条件をコントロールするという間接的なものとがある。 (2)もし自由がえらぶという個人の選択権利であるなら,えらぶ当のひとにほ選択肢が. 知られていなければならないであろうし,またかれは選択肢の性格を理解していなければ ならないことになるo選択肢が相互に比較較量され,批判がおこなわれなければならない。 そして教化だとか教育ほこのような選択する能力を増大させるであろうし,これに反し て,抑圧,歪曲,不正確なプロパガンダ等は選択能力を低下させ,自由を制限することに なるであろうo強制の有無を(1)の(a),(b)のみで考えるのでほ不充分である。自由はその積極 的な意味においてほ,みずからえらび,みずからのイニシャティヴにおいて行動するとい う活動あるいはプロセスであって,選択は強制されるやたちまち操作されることになるの であるoしかしここから自由の領域ほ選択肢の数に比例するといえるであろうか。選択肢 がどれはど多くあったとても,えらぶ選択肢があらかじめ排除されているのであれば自由 であるとはみとめられないであろう。ときには選択肢の領域と自由の領域とが相関的でほ あっても,一般的にいえば自由がそのために要求される個人的・社会的利益,生活様式, 行動様式を考慮したはうが有益である。ひとが自由について語り,自由を要求するとき, 他人による強制のあるなしでほなく,むしろ「--・のための自由」 由をいっているのである。. freedom. for積極的自 「自由とは欲求を実現するのに障害のないこと」という上述の. ラッセルの定義はすべての欲求のということでほなく,とりわけ道徳的,社会的に意義が あるとみとめられるある特定の利益の漠現-の障害の有無が要求されているのであって, したがって抽象的自由とほ,そのなかに特殊な一言論・思想の自由,結社の自由,所有 譲渡の自由,職業の自由等一語自由をふくむ集合にほかならないといえる..

(3) 21. 自由論をめく中って. 近年とりわけ強調されている「欠乏からの自由」,. 「恐怖からの自由」は消極的自由と. も,積極的自由ともちがっているようにみえる。こ土でほ,ひとびとが悪と考える感情, 情況から離脱するための政治的,経済的配置がもとめられているように思われる。そうし た意味であるならこれまでのべてきた自由とほ異っているようである。生活活動の重要な 領域での多彩な選択がいちぢるしく制現され,強制がおこなわれているなかでも欠乏,悲 怖からの自由が達成されうるという事実からいっても上述の自由とほ異る。しかしB[]の面 からみると,近代社会においてほ,多彩な形での操作はふつうわたくしたちが強制と考え るプロセスと同じくらい重要性をもってきている。ある社会において一振りの人間が,所 有,生産手段,教育制度,マス・メディアをコントロールし,市民がえらびうる領域をき わめて狭くしていることほ周知のとおりである。特権をもたないものほしばしば選ぶ手段 をもたないし,また,特権をもたないものの無力さを利用されて,かれらが実現しょうと のぞんでいることが,妨げられているのである。欠乏,恐怖,不安定からの自由が正当化 されるのほこの点にある。えらばれた目標を達成する手段がないことが,追求する自由が ないことと等しいとはいえないが,手段それ自体がコントロールされているばあいには事 情がちがう。欠乏,不安定が選択の手段,条件で不平等なコントロールがあるという状態 をのべているのであれば,欠乏,不安定からの自由ほ強制からの自由に属することになろ う。このばあい欠乏,不安定からの自由はみずからのイニシャティヴにもとづいて行為し うる条件となるのであり,このことは自由の積極的な面を意味している。 不平等な権力があれば享受する自由も不平等である。権力の不平等と自由の不平等のこ の関係は自由とデモクラシーの関係の一つである.デモクラシーをある社会のすべての成 人が,その社会の公共の設備についての決定にひとしく参加する政治的組織形態であると 個人的生活の重要な領域でとりうる選択肢の範 するなら,政治的参加の権利は,社会軌 囲,性格に大きな影響をおよぼす自由であるo政治的参加は自由の意味にふくまれる.そ して政治的活動の,またそれへの参加の権利ほそれにとどまらず,自由のより広いい構造 の一部を形成する。なぜなら,この自由が与えられ行使される領域はふつう社会生活の他 の領域でえられる自由の領域に大きく影響するからである。このことは社会が民主的であ れば,他の領域でより多くの自由があるということでほなく-デモクラシーがある領域. ではいちぢるしく強制的,制約的,不寛容であることがあるし,また特殊な自由の拡張が しばしば他の特殊な自由を制約することがありうるのだから-このような政治的自由が 発達した社会では,より複雑な自由の体系の一部をなしているということであり,政治的 自由とは個人の他の領域で確立される自由と関連しているということである。ミルが「個 性」, 「個人の自発性」, いる。. 「習俗の専制」等というばあい,ミルは積極的自由について語って. 「自由とは継続的自発性の能力である(G.. Wallas)も同様な趣旨であるが,これを. 一般化すことはできない.たとえばある宗教の信者にとってかれが要求する宗教的自由と. ほ,かれのもっている,そしてかっていちども疑おうとほしなかった信仰を,妨げられず に実践する自由なのであって,こうしたばあいかれの選択のプロセスについて語るわ捌こ ほいかない。ある社会の既成の慣習,慣行に無批判的にしたがうばあいも同じである。そ.

(4) 22. 川. 村. 仁. 也. うしたひとを習俗の奴隷というとき,そのひとかが自由をもたないというのは問題を無視 することになろう。一方支配者の望むままに欲求するよう管理されたひとは自由とはいえ ないoこうして自由は選択の可能性が存在するときにのみ存在する。そして選択の可能性 はたんに直接的な強制がないということだけでほなく,選択肢の特徴が認識されえなけれ ばならないということをも含意しているのである。いいかえれば,個人の情況がどのよう なものであれ,社会における個人の自由にほ多彩な条件が存在しているとき,その自由が 広汎にあるということであり,また権力が集中されていないで広く分配されているばあい に選択と創意の広い可能性が存在しているといえる。 エンゲルスは「反デュー7)ング論」 (第1篇第11章)で自由は必然性の洞察であるとの べているのだが,かれはデューリングの「現実哲学」が--ゲルの見解を極度に浅薄化し. ていると批判して次のようにのべている. 「--ゲルほ自由と必鮒生との関係を正しく説 明した最初の人であった.彼にとっては自由とほ必然性の洞察であるo. ・・・・・・必然性はそれ. が把撞されないかぎりにおいてのみ盲目である。. ---自由ほ自然の諸法則からの夢想のう. ちにあるのでほなくて,これらの法則の認識のうちに,しかも,それによって与えられる. 可能性,すなわち,それらの法則を特定の目的のために計画的に作用させる可能性のうち にあるのだ,このことほ外的自然の諸法則についても,人間そのものの肉体的および精神 的存在を規制する法則についてもあてほまる。. --・したがって,ある特定の諸問麿につい てのあるひとの判断がより自由であればあるほど,この判断の内容ほそれだけより大きな 必然性によって規定されていることにもなるわけである。これほ反して無知にもとづく不. 確実さほ,さまざまな矛盾した多くの判断の可能性のうちから外見上でほ随意に選択する ようにみえても,それはまさにそのことによってみずからの不自由を,すなわち,それが. まさに支配すべきほずの当の対象によって,みずから支配されていることを証明している のであるoだから自由とは必然性の認識にもとづいてわれわれ自身ならびに外的自然を支 配することであるoしたがってここから文化上の進歩は自由への歩みなのである」. (栗田. 訳)コ-ジングほエンゲルスのこの立場をひきついでマルクス・レーニン主義の自由概念 は人間の客観的法則性(必然性)との関係であり,必然性と自由との関係を弁証法開係と してとらえ,自由は客観的必然性の認識であり,社会的実践において認識された必然性を 意識的に適用し,人間の自然的,および社会的条件をますます支配しょうとするものと定 義し,自由とは人格的自由をもふくめた社会的カテゴ・)-であって,ヘーゲルのいうよう に「自らのうちに必然性をもたない自由・自由をもたないたんなる必然性ほいずれも抽象 的であり真ならざる規定であって,自由は本質的に具体的である」といわれるように具体 的・歴史的カテゴリーであるというのであるoエンゲルスのいう自由ほ栗田が指摘してい るように,われわれが行動するさいに自然および社会の環境的な諸条件を,その法則性の 認識を媒介として,支配して,行動の目的を支障なく達成することなのであるが,哲学史 上論ぜられてきた自由意志論ほ,エンゲルスの自由論とほ臭って,どのような目的をめぎ して意志決定を行なうかについての自由なのである。. (栗田賢三「マルクス主義と現代の.

(5) 23. 自由論をめぐって. 自由」. -. 「科学と思想」. No・. 15)栗田ほこのような意志の自由はその社会的条件を明かに. することによって答えられるのでほないかと想定し,さらにカントのいうような自律とい った倫理的自由ともよべる自由についてそれが感性的欲望によって拘束されないという意 味で自由の概念の一つの特殊な用法であってト般的について,自由ということほ強制, 拘束,障害がないことであるから---自由と価値とのあいだには必然的な関係はない」と のべているo. §2 ゎが国での近年の自由論をめぐっての論争は,藤井一行「社会主義における言論の自由 (同上No・ 16)栗田賢 No・ 6)同←マルクス主義と市民的自由」 の問題」 (「現代と思想」 (「現代 (同上),中野徹三「マルクス主義と人間の自由」 三「マルクス主義と現代の自由」 と思想」 No.. 想」 (「唯物論」 No. No.. (同No・. 20)・藤野渉「マルクス主義倫理与断 (「現代と思想」 5),藤井一行←民主義的中央集権制と思想の自由」. 19),栗田「自由と社会主義」. 26),同「芸術における社会的責任と真実と自由」. (「科学と思想」. Not. 23),等でおこ. なわれているが,以下においては価値の問題を中心に考えてみるoさきにひいた栗田の蘇 文について中野は「自由と価値のあいだにほ必然的関係ほないといわれるが,こういう栗 田の見解は,自由とはもっばら『強制がない』ことであるという氏の自由観にもとづいて いると思われる。しかし,まさに自由の意識が価値意識であるイデオロギーに属するが故 にこそ,人間はくり返し自由を価値化してきた,と考えるべきでほないであろうか」とし (「マルクス主義と人間の自由」)このこ て自由と価値の分離について疑問をだしているo とは栗田が自由をその社会的条件において明らかにしうるという氏の想定とも関連し,さ らにほコージングのいう具体的・歴史的カテゴリーとしての自由概念ともかかわりがある Asbが「マルクス. ようと思われるが,いま問題を倫理的価値にかぎって考えてみょうo (1)価値を記述的descriptiveととれば 主義と倫理学」でのべていることであるが, 「--ほよい」は自然的説明で,たとえば「その時計はよい→ということは,その時計が 正確で,じょうぷで,手ごろで,等々と等しいことになるoこれらの性質が観察可能であ 「よい」というのは物理的性質ではなく,わたくしたちが,そこからえる享 るとしても, 受,その使用の面から←よい」というのであって,ひとの目的がよしあしを区別するので ぁる。本質的によいといったものはないo. 「よいリンゴだ」というのは「リンゴ性」のな. にか化学的なテストを充分にみたしたからというのではなく,それが栄養があり,味がよ く,匂いがいいからよいのであって,誰かによって享受され,誰かの欲求を充足させるか らよいというのである。そうだとすると価値とは主観的なものであるのかoあるものがよ いということはある人によって,よいと欲求され,よいとみなされるにすぎないのであろ ぅか。より好むものがよりよいということになるのであろうかoこのように価値が主観的 に解されると,奇好なことになる。わたくしたちは欠乏しているから欲求するのであっ て,ときにほ一片の′<./がこの世でもっとも望まれさえする。さらに,よしあしについて. はさまぎまな意見のちがいがあって,あれこれと論ぜられるのであるが,こうした議論ほ.

(6) 24. 川. 村. 仁. 也. 噂好についてのくいちがいという点でのみ意味があるのである。. (2)そこで価値は対象にで も主体にでもなく・対象の性質と主体の感情の質とのあいだの因果関係にあるといわれ,. 価値とほ望ましい対象が欲求する主体におよぼす結果ということになる。この立場に立て ば,ものが評価する主体とかかわりなしに,いかにして価値をもちうるか,あるいはまた 満足をあたえるものが,もっとも欠乏しているとき,最大の価値を生ずるという不条理は なくなるo価値とほ対象のある観察可能な性質と,主体の側での認知しうる反応との関係 であるという自然主義的定式化がなされる.もののよさとは幸福,快であり,最大多数の 最大可能な幸福が最高善であるとするイギリス経験論の功利主義倫理学がまさにこの立場 であるoところでこの立場の難問は,同一のものが異った感じをなぜひきおこすのか, あるいは累積された満足がどうして不満足になるかを説明できないことである。そして, このような自然主義的説明でほ,もっとも倫理的とふつうにほとられている命題が消失し てしまうのであるoというのは最高善が最大多数の最大幸福であるなら,最高善を実現し てくれるものを選ぼねばならないoしかし「よい」の自然的説明ほこうした規範的な結論 を保証してくれないo記述的なものからほ記述的なものしかでてこないからである。価値 の自然的解釈というのほ「よい」という価値語をふくむ文を(記述文)事実文に還元して しまのであるo 「えらばねばならない」ほ記述文でほないのである。ムーアがいうように ここには自然主義的誤謬があるo (Principia Ethica, 1903) (3)記述文をもって経験の 全領域をカバーさせようとする哲学的努力は,すく小れて倫理的である用語を用いることを 否定するか,あるいほ,そうした用語を使うとき,わたくしたちの意味していると考えて いることを・じっさいは意味していないのである。功利主義者が論理的正当化なしに「よ い」を記述的な面から,説得,推奨のための価値語-と転移させることについて,ム-ア などの直観主義者たちはつよく批判したoかれらは「よい」ほ定義できないとして,記述 と価値との間の難問をさけようとしたのである。自然的でない性質「べき」はもののよさ をとらえるわれわれのうちに内在するというのである。しかしこのような直観能力がほた して,われわれにはあるのだろうか。あるのであれば「黄色いもの」,. 「円いもの」につい. てと同じように,. 「よいもの」についての一般的合意がなければならないであろう。物理 的性質についての意見のちがいほ・測定を正確にし,基準を共通にし,個人的感覚のづれ をテストするなどで解決できるのであろうoしかし「よい」について,目的への適合,快 を与える力といった基準に訴えることほできない○それほ「よい」を別の言葉で定義する ことになり,このことは直観主義と矛盾することになるからである。 「よい」というのは,. 「よさ」を附与すること,賞讃,推せんすることでである。 (1), (2)のように事実命題によって,賞讃,推せんがされるのではない。価値語にほ積極的な役割 があるoカントにおいて絶対的に善なるものほ善なる意志であり,いかなる感性の傾向性 にもかかわらず理性的原則にしたがって実践することであった.人間の意志ほこのような 傾向性をほなれる′ことができないのであるから,カントのばあい理性の指示ほ命令の形を とらざるをえないo価値は欲来されるもののなかにではなく選択さるべきものにむけられ る意志の特質なのであるoこの普追的な格率ほ過去において,ものが実践的に有用であっ.

(7) 25. 自由論をめぐって. たとか,幸福をもたらしたとかいう,わたくしたちの経験からひきだしてくるわ桝こはい かない。自然主義となってしまうからである。 中野はエンゲルスのいういう「自然の必然性」には「人間そのもの」もふくめられてい るが,. (i)狭く外的自然における必然性(法則性)に力点がおかれていて,自然の必然性. の認識がただちに人間の自由と一致しないこと(ii)法則性の認識それ自体としては,自 然支配の必要条件でほあっても,かならずしも充分条件ではなく,必然性と法則性の同一. 視は斥けなければならない。現実の人間の自由にとっては外界のなんなる認識と支配では なく,かれらの内的要求と価値の実現こそが問題であり(iu)さらに-1/ゲルスのこの定 義は社会的存在としての諸個人,諸階級等の諸問題を具体的に解明するうえでは無力であ るとして,価値論として展開されない自由論は人間的自由の解明にさいしては無力である としてここから栗田に異論をだしているである。栗田自身ほしかしさきに引用したよう に,エンデルスのいう自由が,行為の責任にむすびつくところの善をも悪をもなしうる自 由,すなわち従来哲学史上で論ぜられてきた自由論とほ異ることを認めながら,なお,社 会的条件を明かにすることによって,これらが解明されると考えているo藤井の指摘する ように「自然の必然性の認識が自由」ということのなかで,人間をもふくめて自然を考 materialの管理支配ということになれば,パート. A,ブ-ーリソのいうようにhuman. リッヂのいうとおり,人間の自由は大きく制限されることになるであろうo莱剛こよれば 資本主義社会における自由について,資本主義制度を成立させる不可欠の条件として,企 莱,営業,競争,財鼠身体等の自由が国家権力による干渉からの自由oあり,これと間 達して,住居の不可侵,移転,通信の自由,正当な裁判をうける権利(不当な処罰からの 自由),思想,良むの自由,言論,集会,結社の自由等の市民的自由,消極的自由が成立 したのであって,資本主義社会ほ自由な契約にもとづいて,べつに経済外的強制によら なくとも搾取される自由の社会である。したがって労働者にとっては,べつの意味での強 制があって,この強制ほ資本主義制度による不可週的な強制であるoところで社会主義社 会においてはこのような搾取からの自由があり,ここでの自由は労働,休息,教育をうけ る等の権利,婦人の平等,民族,人種にかかわらない市民の権利等が資本主義制度より, まさって確立される。しかしこのことは資本主義制度成立の必要条件であった諸自由のう ち,商品の生産,交換の自由,契約の自由,企業の自由,営業の自由,財産の自由等が制 限され,廃止されることによってはじめて可能となる。そこで,これらの自由いがいの市 「市民的自由,政治的自由は資本主義社 民的自由,政治的自由ほどうなるのか問われるo 会の必要条件として成立したものであり,資本主義社会が市民的自由,政治的自由の成立 の必要条件ではない。だから資本主義の市場経済と不可分に結びついている自由は社会主 義社会においては, --・当然廃棄されるか,制限されぎるをえないが,他の市民的,政治 (「マルクス主義におけ 的自由についてほ資本主義の消滅とともに消滅するとほいえない」 る自由と価値」. 1975. 47ペ-ジ)とし,国家権力となお残存する市民的自由,政治的自由. のかかわり方について論じている.自由を具体的・歴史的カデゴリ-としてとしてとして とらえようとすれば当然ともいえよう。と同時に具体性が必然性(法則性ではない)と自.

(8) 26. 川. 村. 仁. 也. 由との具体性であるなら,価値の問題ほやはり切り離しえないし,価値の問題をより根底 から考えていかねばならないであろうo.

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