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ドキュメント内 「段階性」をめぐって (ページ 37-41)

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場合には病的表現をもふくんで,あらゆる段階における,その表現の向痔酌存 在の可能性を前提としており,それは,一口でいえば,一種の「段階的同一1生」

の思想を特徴的に示したものということができよう。それは発達の段階が直線 的系列化においてとらえられていないなによりのあらわれである。

 しかし,ここで問題なのは,エリクソンの「段階性」を示す対態度一対感情 が内容ではなく,形式としては,共同体と文化のあり方の普遍性において提示

されていることであり,しかも,それらの段階の構造化が,いずれにしても,

青年期の危機をとおして,猶予的にせよ実現されうるとしている点である。そ こには,もちろん,歴史的にみて,青年が,新しく「同一化」しようとする,

またはし得る新しい世界の統一性への幻想はみられない。というのは,この段 階では「同一性」は必ず「同一性拡散」とするどい対立を示しているからであ る。にもかかわらず,エリクソンは,この段階でいわば自我機能としての「同 一性」が最終的には実現されうるという立場にたっている。そして,彼は,そ れを可能にするものとしての,その「同一化」の段階的経過の決定的重要性を 指摘する。ことばをかえていえば,青年期の「同一性拡散」をとどめ,克服す

るのは,それまでに形成された,安定した「同一化」作用なのである。

 この図式には,だから,彼の治療的一教育的態度がこめられている。しかし,

それだけに,その「段階的同一性」の思想には,市民社会における普遍的な共 同体と文化のあり方の一般的提示が強く見られるように思われるのである。

 だからこそ,私たちは,さきにみたように,私たち自身が仮設的に示した「段 階的同一性」の考えを,まさに,今日の市民社会の矛盾の深化のなかで,その 矛盾を止場する方向性をもってリアルに展開・発展させる必要性を,土リクソ ンの仕事から逆に批判的にとりださねばならないのではないか。ここにこそ,

真に「個性」の展開を可能にする社会的関係を,思春期以後の教育実践の課題       かなめとして追求する要があるのではあるまいか。

 それは,一口にいえば,一般的な理想像にかわる具体的な個性像の追求を,

思春期以後における教育実践が,その「同一化」作用の組織化において必須と しなければならないということである。

 現代の子どもたちは,かって,子どもをとらえた理想像による間接的「同一

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化」作用を分解させ,子ども同士の「同一化」作用の激しい矛盾のなかに生き ている。そして,それを主導しているのは,「競争原理」という,きわめて抽 象化されたモデルに「同一化」しようとする際にあらわれる激しい矛盾である。

その時,「抽象化されたモデル」とは,実際は,ある意味で,「外在的モデル」

の喪失を意味している。つまり,競争のなかで子どもをつき動かしているのは,

一人ひとりの子どもの裏側にかくされている,そして,子どもを疎外している 抽象的な力なのであり,しかも具体的な眼の前の相手としてはそれは,牽引一 反揆のするどい矛盾としてしかあらわれないものである。だから,それは,従 来みられたような熱狂的間接的「同一化」  たとえば,年上の友人,教師,

スポーツ選手,映画や小説の主人公などにたいする  さえも,さめたものと する傾向をはらんでいる。ロベール・ラプラーヌらはこうした「熱狂的同一化」

は,実は自我の自己愛的な投射にすぎないとして,これを「偽同一化」と呼ん だことがあるが1),現代ではこのような「偽同一化」でさえも,目の前にあら われる相手との「同一化」作用の矛盾の克服へと転化されることは困難である。

現代の熱狂的な「偽同一化」は自我の「自己愛的な投射」というよりも,おそ らく不安定からの一時的逃避の型をとっており,その際,「熱狂」と「不安定」

とはメダルの表と裏とを示している。現代の思春期における直接的「同一化」

作用の矛盾の激しさは,間接的「同一化」作用の熱狂ではやわらげられないほ ど深刻である。だから,「偽同一化」は,次つぎとファッション化された姿を 追いながら,今日では,どこかさめたところがあるし,現代の切実な矛盾とど

こかかけ離れた所があるように思われる。

1)ローベル・ラプラーヌ,ドゥニーズ・ラプラーヌ,ジェロー・ラファルグ『思春 期』文庫クセジュ,白水社,1972年,149ページ。(Robert et Lenise Laplane,

G6raud Lasfargues;La pubert6 (Collection Que sais−Je?N.1447)

 しかし,思春期の「同一化」作用における「段階的同一性」は,このような なかで,一つの未来像の可能性をさし示している。それは,前エディプス的関 係,兄弟関係,役割あそび的関係,ルール遊び的仲間関係,学習的仲間関係,

親友関係,さらには異性との恋愛関係などによる多様に屈折した「同一化」作

用の段階を,いわば,遷延した思春期一青年期において,もう一度価値あるも のとして経験一再経験する契機をこの時期の多くの子ども同士の関係のなか に,多かれ少かれ生みだしているということであろう。それはまさに大衆的思 春期の葛藤と呼ばれるのにふさわしい。ミッチャーリッヒのいう「瞬間的人格」

像は,その内面に,このような発達の「段階的同一性」への契機をふくむこと によって,それが示す「瞬間的人格」のなかに発達の「時間性」を自覚する対 自的人間像を潜在的にひそませているのではあるまいか。

 それは,発達の長期の過程において,子どもがたどる「同一化」作用の段階 のひとつひとつを子ども同士が価値あるものとして自覚するような教育作用を

どうつくりだすかという課題としてまさにあらわれているものであろう。だか ら,このような人間関係の再構成においては,あらゆる段階における「同一化」

作用の特徴がすでに過ぎ去ったものとしてではなく,つねに現実に叫びさまさ れるものとなる。そして,それが,発達における直線的系列化とそれへの還元 主義的理解とそれに基づく方策にかわる新しい教育実践の質一各人の「個性」

を,各発達段階の類型的モデルを通過した機械的「集合」としてではなく,発 達の「段階的同一性」をもった具体的人格の結合から生まれる真の「個性」と するところの教育実践の質の潜在可能性を私たちに予想させる。

 すでに前記論文「『同一化』作用の矛盾について」の(4)で述べたように,そ れは,「個性化」=「類型化」一「画一化」を転倒させる関係を,教育文化活 動のなかで,どのようにつくりだすかという課題としてなによりも提起される ものであろう。現代における思春期の「段階的同一性」の現実は,こうした教 育実践構築のための発達論的前提を示しているのではあるまいか。

      (1984年9月19日,第一次稿)

      (1986年10月26日,若干加筆)

ドキュメント内 「段階性」をめぐって (ページ 37-41)

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