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―合理性と非合理性をめぐって―

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「大妻比較文化の可能性」ギリシアにおけるオリエ ントとオクシデント : 合理性と非合理性をめぐっ て(<特集>大妻女子大学比較文化学部創設満10年記 念講演会)

著者名(日) 川島 重成

雑誌名 大妻比較文化 : 大妻女子大学比較文化学部紀要

巻 11

ページ 2‑10

発行年 2010

URL http://id.nii.ac.jp/1114/00000518/

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「大妻比較文化の可能性」

ギリシアにおけるオリエントとオクシデント

―合理性と非合理性をめぐって―

川 島 重 成

 私はこれまで西洋古典学、その中でも特にホメロスの叙事詩とギリシア悲劇を研究対象 にしてきましたが、この学問は紀元前3世紀のアレクサンドリアの図書館における文献学、

さらには紀元前4世紀のアリストテレスの『詩学』に始まるヨーロッパ最古の人文学の一 分野と言えるでしょう。この伝統は中世のヴィザンチン時代を通して主としてコンスタン ティノポリス(コンスタンティノープル)を中心に継承されていましたが、ルネサンス以来、

西ヨーロッパの先進諸国がその主要な役割を担うようになり、聖書その他のキリスト教文 献、ウェルギリウス他のラテン語文献とともに、ギリシア語古典文献こそが彼ら西ヨーロッ パ人の古典となり、さらにラテン語とともに古代ギリシア語の教育が、彼らの人文的教養

(フマニタス)の基礎であり、同時にその冠と見なされてきました。事実今日の古典ギリシ ア語、ラテン語の最も権威あるテキストの叢書や辞典はイギリスやドイツやフランスで刊 行されており、現在でも古典学研究とその教育はオックス・ブリッジやソルボンヌ、ハー ヴァードといった欧米諸大学がリーダーシップを握っているのであります。

 このような西洋における最も伝統的な古いディシプリンに携わってきた私が、比較文化 というきわめて新しい領域における研究と教育を標榜する本学部に迎えられて九年を過ご して今日に至ったのですが、そのために幸か不幸か私の狭い専門研究を比較文化という広 いパースペクティヴの中で位置づけざるをえなくなりました。本学部の教員は皆、多かれ 少なかれ、それぞれの仕方で同じような苦闘を強いられていると思うのですが、本日の私 の講演もそういう私なりの経験を踏まえたものであります。

 このシンポジウムの総タイトルは「大妻比較文化の可能性」ですが、それでは私の場合、

どのような比較文化研究が可能なのでしょうか。多分いちばん御期待に応えうるのはギリ シア文化と日本文化の比較でしょう。より具体的には、ギリシア悲劇と能を比較したり、

ギリシアと日本の聖域空間の比較などなどが典型的な比較研究のテーマとして浮び上って くるでしょう。私自身も過去に平家物語とホメロスの叙事詩『イーリアス』の死生観の比 較研究をしたことがあり、両者それぞれに「名こそ惜しけれ」という武士や英雄たち特有 の一見類似した生き方、死に方が描かれながら、『平家』と比較することで、私は『イーリ アス』には自死を選ぶ人間が一人も居ない事実に改めて驚きをもって気付かされ、その意 味を考えさせられたのでした。また例えば、日本の神話とギリシア神話の比較も興味深い

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テーマでしょう。両者には多神教を背景に持つ類似点も多い中で、一つ決定的な相違点を あげれば、『古事記』や『日本書記』では、日本の国土の成立が物語られるに際してまるで 朝鮮や中国という隣国など存在しないかのごとくその視野がごく閉鎖的であると感じざる をえないのに対して、ギリシア神話のパースペクティヴはいわゆるギリシア以外の世界に 広く開かれていたという事実があります。後のギリシア王家の始祖となる者たちは、ほと んど皆外国から到来してきた人物なのです。ギリシア神話・伝説はきわめて国際的で、異 文化蔑視など全く感じられません。ところがギリシア人も時を経て、次第に神話的よりも 哲学的に考えるようになると、なぜか閉鎖的に―ギリシア中心的に―なるという興味深い 事実が指摘されています。

 しかしこのような日本文化とギリシア文化を並置させるという典型的な比較研究とは別 の比較の方法もあるのではないでしょうか。それは私もその一人である伝統的な専門分野 の研究者が、あくまでもその個別研究を遂行しつつ、その研究方法の中に 比較 の視点を 自覚的に内在化させるというような場合です。そもそも私たちがあるものをそれと認識す るのは、そうでないものとのおのずからなる 比較 によってそうしているのです。その 比 較 をより方法論的自覚をもって遂行するのです。一つ例をあげますと20世紀のギリシ ア文化の代表的な研究の一つにE.R.Dodds,  ,  Berkeley  and  Los Angeles, 1951(邦訳、E・R・トッズ、『ギリシア人と非理性』、岩田靖夫、水野一訳、み すず書房、1972年)という名著があります。その中で、トッズはルース・ベネディクトの『菊 と刀』にヒントを得て、ホメロスの叙事詩に見られる最初期のギリシアは恥の文化であっ たが、紀元前6世紀ぐらいから次第に罪の文化へと変化していったと論じています。この ギリシア文化研究などは日本文化論に触発された典型的な比較文化的成果であると言える でしょう。

 さらに言えば、私たちがギリシア文化を論ずる場合、西洋人ではなく日本人であるから こそ、ギリシア文化の西洋人にはかえって見えにくくなっている側面を浮き彫りにすると いうことも期待できるのではないでしょうか。私はかつてアイスキュロスの悲劇『アガメ ムノン』のクリュタイメストラ像を論じた時に、その場に居たブルガリアの日本文学研究 者スメタナ女史から、西洋人には思いつかない解釈だとの批評を受けて驚いたことがあり ます。現代はいわゆるフェミニズム批評が盛んですが、その立場から論じる西洋人のギリ シア観は、往々にして男性中心的なポリス共同体の中で女性が社会的に抑圧されていた、

その反映を例えばギリシア悲劇の男女の関わりの中に見ようとします。かくしてギリシア はキリスト教とともにヨーロッパ文化の男性中心主義の元凶であると。しかし、私は―そ して私の研究サークルの仲間たち、特に2年前に大妻比較文化学会で招待講演をした平田 松吾氏がそうですが―ギリシア文化自体の中に、社会的に優位に立つ男性的なるものを批 判し相対化する女性的なるものが構造化されている、その意義を浮き彫りにしようとしま す。私の解釈では、今詳しく論じられませんが、アイスキュロスの悲劇『アガメムノン』は

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フェミニスト批評家が主張しようとする紀元前5世紀アテナイ民主政社会の女性蔑視の証 しではなく、むしろこれこそ世界最古のフェミニズム文学なのです。その際、日本文化の 中に豊かに存在している女性的なるものの伝統が私の中で自ずと一つの視点となって働 き、この解釈を促したということがあるかも知れないのです。前述のスメタナ女史の私の 講演に対するコメントも、彼女が逆にブルガリア女性でしかも日本文学研究者であったが ゆえになしえた評言であったと思うのです。今回この講演も不完全ながらこのような第二 の意味における比較文化的パースペクティヴを内在化させた私のギリシア観の一端をご紹 介する試みです。

 さて、話を元に戻しまして、ギリシア古典が西洋諸国においてまさに彼らの古典と見な されてきたことは、彼らのギリシア文化観に必然的に一つの片寄った帰結をもたらしたと 私は考えます。彼らが構築してきた従来のギリシア像の主流は、なんといっても合理主義・

理性主義の担い手としてのそれでありました。ギリシアはしばしば合理性・理性いわゆる ロゴス的なるものの代名詞ですらあったと言えるでしょう。確かにギリシアは哲学発祥の 地であり、学問のふるさとであり、その意味で理性すなわちロゴス誕生の地であります。

そのことの意義はいくら強調しても強調しすぎることはないでしょう。しかしギリシアは 決してそれで尽きないのです。そのことに私は、ギリシア訪問を何十回と繰り返している うちに―大妻比較文化学部に所属してからも毎春ギリシア・イタリア研修旅行を企画・実 施して来春で8回目になります―、次第に確信を持つに至りました。合理性・理性あるいは ロゴスの代名詞としてのギリシアは、ルネサンス以降西ヨーロッパにもたらされたギリシ ア古典文献の研究に依拠して構築された、その意味で西ヨーロッパ化された、端的にラテ ン化された、さらに言えばギリシアという元の風土から切り取られ、西ヨーロッパという 別の土地に移植されて新しく花開いた、つまり普遍的なるものとなったギリシアなのでは ないでしょうか。文献というものは、生きた言葉が文字によって固定され、そのことによっ て保存された限りのものです。生きた文化のうねり全体の中から表面に立ち現れたものに すぎません。文献に結晶したものだけではなく、ギリシア人の体の中に、彼らの内なる情 念(パトス)の中に、ギリシアのあの独特の風土と歴史の中に、そして彼らの生きた言語と 宗教と習俗の中に今も脈々と生きつづけているものには、合理性と理性ということでは包 摂することができないものがあるのです。

 私はギリシア以外にも、イタリアとトルコに行くことが比較的多いのですが、ギリシア の後で、例えばミラノにやってくれば、ギリシアは大都会アテネといえどもオリエント的 な雰囲気を濃厚に漂わせていたと改めて感じさせられます。逆にイスタンブールに行けば、

ギリシアはやはりオクシデント、西洋世界の一部であったのだと思わせられるのです。イ タリアは西地中海世界の東端に位置し、ギリシアは東地中海世界の西端にあって、アドリ ア海をはさんで両者は向いあっていますが、ローマ以北のイタリアとギリシアはずいぶん

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文化の違いを感じさせます。風土的にはギリシアと共通な要素はかつてMagna Graecia(大 ギリシア)と呼ばれた南イタリアとシチリア、そして東はトルコ(小アジア)のエーゲ海沿 岸、地中海沿岸に見られます。いずれもかつて古代ギリシア文化が豊かに展開した地域で す。すなわちギリシアが後にローマを経て、西洋オクシデント世界の精神的源泉となった ことは否定し難いとはいえ、このようなギリシア文化の広がりを見れば、ギリシアそれ自 体にオクシデント的のみならずオリエント的要素も内包されていたことは、約400年間と いうオスマン・トルコの支配を経験した今日のギリシアについて言えるだけではなく、古 代ギリシアについても妥当するのではないかと思うのです。

 その点に留意しつつつぎにギリシア史の大きな流れをいくつかの重要な時代に焦点を当 てて辿ってみましょう。ギリシアが東地中海世界に最初に独自の光彩を放って立ち現れて くるのは、クレタ島のミノア文化(盛期17〜 16世紀)においてでした。これと関連する一 つのギリシア神話があります。それはエウローペーの神話です。エウローペーはヨーロッ パの語源となった乙女の名前ですが、彼女はフェニキアのアゲーノール王の娘でした。詳 細は省きますが、彼女はシリアの海岸で近づいてきた白い牛と戯れているうちに、牛はエ ウローペーを背に乗せて海を渡り、クレタ島に連れて行きました。そこで牛は神ゼウスの 化身であったことが判り、この二人の交わりから、クレタの最初の王ミノスが誕生したと いうのです。すなわちクレタ島のミノア文化(ミノス文化)はヨーロッパ的なるものの最 初の現れですが、その背後にエウローペーの出自が指し示すオリエント的なもののあるこ とが暗示されているのです。そしてこのミノア文化を担った人たちはオリエントからの到 来者であったと推察されています。事実このミノア文化には、2世紀ほど遅れてギリシア に南下してきたギリシア語を話すアカイア人(ミュケナイ人)の文化(盛期14世紀)とは 明確に違うオリエント的な、そして女性的な特色が見られます。アカイア人たちが、例え ばミュケナイやティリュンスといったところに堅固な城壁を作り、きわめて戦士的・男性 的な文化を構築したと言えるのとは対照的に、クノッソス、フェストスなどのミノア王宮 は城壁も持たず、どこか開放的、女性的な趣きを感じさせるのです。この印象はクノッソ スの王宮のラビュリントス(迷宮)と呼ばれた配置の複雑さ、奥深さ、王宮の壁画に描かれ た色彩華やかなフレスコ画などから誰しも感じざるをえないものですが、その根底に後代 のギリシアのゼウスを中心とした天的なオリュンポス宗教とは違う、大地母神宗教を柱と する母権的宗教と称してよいものがあって、この文化の質を根源的に規定していたのでは ないかと考えられるのです。そしてこのミノア文化が、ミュケナイ文化とともに後のギリ シアの二つの基底文化となったと言えるでしょう。この二つの異質の要素が出会い、緊張 を孕みつつ、一つのギリシア文化に統合されていった場がまさにエーゲ海という特別の空 間だったのです。いや私はそれ以前にクレタ島のミノア文化そのものがオリエントのエー ゲ海化したものであり、他方ミュケナイ文化は印欧語族の原ギリシア人が北方からもたら

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したもののエーゲ海化であったと捉えることができるのではないかと考えています。

 次に取りあげたいギリシアとオリエントの交渉と確執の画期的な事跡は紀元前6世紀末 から5世紀初頭にかけて継起したペルシア戦争です、オリエントを統一したアケメネス朝 ペルシャからの政治的軍事的圧力を撥ね除けて、ギリシアは、特に民主政ポリスとして再 出発したばかりのアテナイは、いよいよその最盛期を迎えるのです。このペルシア戦争を

「高慢が破滅を生む」といういわば「盛者必衰」の歴史観をもって壮大なスケールで描き上 げたのが歴史家ヘロドトスですが、彼自身ペルシア帝国の支配圏に属する小アジア南部の ギリシア都市ハリカルナッソスに生まれたギリシア人でした。彼はアテナイを中心とする 小民族ギリシアがペルシア大帝国の侵略を撥ねのけるのを目のあたりにして、この歴史記 述を企てたのです。この勝利を機にギリシアにもE.M.サイードのいわゆる「オリエンタリ ズム」の萌芽が見られるのですが、ヘロドトスの書は偏狭な愛国心で一方的にギリシアを 称え、ペルシアを貶めているようなものではありません。その有名な序文には次のように 記されています。

本書はハリカルナッソス出身のヘロドトスが、人間界の出来事が時の移 ろうとともに忘れ去られ、ギリシア人や異邦人(バルバロイ)の果たし た偉大な驚嘆すべき事跡の数々―とりわけ両者がいかなる原因から戦い を交えるに至ったかの事情―も、やがて世の人に知られなくなるのを恐 れて、自ら研究調査したところを書き述べたものである。

(松平千秋訳)

 ここにありますように、彼はペルシア帝国の始源から書き起こしてその「偉大な驚嘆す べき」発展の歴史と、そして彼が実際に旅して見聞したと思われる帝国の広大な版図に属 する、北は黒海北岸から南はエジプト、東はペルシアの首都スーサ、さらにはキュプロス島、

シリア、パレスティナ、アフリカ北岸のキュレーネーに及ぶ地域の風物や習俗を、子ども のような好奇心をもって見つめ、記述していったのです。そして恐らく、今は勝利を謳歌し、

絶頂を極めている祖国ギリシアもやがてペルシア帝国と同じ破滅の運命をたどるであろう ことを暗示しているとさえ感じられるのです。そして約150年後、それはまさに事実となっ て現れました。

 紀元前338年、アテナイとテーバイのポリス連合軍はカイロネイアにおいて北方の新興 国マケドニアのフィリッポス2世とその王子アレクサンドロスに破れ、ギリシアはついに その輝かしいポリス共同体時代の終焉を迎えます。その結果、青年アレクサンドロスのマ ケドニア人・ギリシア人を率いてのいわゆる東方(ペルシア)遠征が敢行され、期せずして

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ギリシア文化とオリエント文化の融合が完成したのです。その時代と文化をヘレニズム時 代(ギリシア化の時代)、ヘレニズム文化と称しますが、この東方オリエント世界に広く行 き渡ったギリシア風文化の中心地は、もはやアテナイではなく、エジプトのプトレマイオ ス朝のアレクサンドリアでした(そのプトレマイオス朝最後の女王がかのクレオパトラで した)。そしてこの都に創設されたムーセイオン(ミューズの殿堂)の一部を占めたかの名 高い図書館にはギリシアの古典文献を中心に実に数十万のパピルスの巻物が収集され、ホ メロス研究等の、まさに私の専門である西洋古典文献学が創始されたのです。このヘレニ ズム文化の反響は広範囲に及び、やがて紀元1世紀後半になるとギリシア彫刻の技法と造 型思想に学んで、ガンダーラで仏像が制作され、その様式が西域から中国へ、さらに朝鮮 から日本へと伝わったのです。

 ここで特に注目しておきたいのは、ギリシア語がいわゆるコイネー・ギリシアとして東 方ヘレニズム世界全域に広く伝播した事実です。このコイネー・ギリシア語の普及は、オ リエントの一隅からギリシアに到来し後のギリシア文化を決定的に方向づけた新しい宗 教、キリスト教の出現とその進展のための基盤を提供したのです。すなわちイスラエルの 地でユダヤ教の改革運動として始まったナザレのイエスの教えは、結局はユダヤでは受け 入れられず、あたかも新しいぶどう酒は新しい革袋を要するの譬えのごとく、旧約聖書の ヘブライ語や当時のユダヤ人の日常語アラム語ではなく、ヘレニストと呼ばれたギリシ ア語を日常語とするユダヤ人である使徒パウロらにより、ギリシア語という新しい言語に よって小アジアからギリシア本土に至るギリシア語世界に伝えられたのです。このキリス ト教がなぜ、その誕生の地イスラエルではなく、また他のオリエント世界でもなく、主と してギリシア語世界に受け入れられたのか、この興味深い問いはまた別個の考察を必要と するでしょう。本日はその結果として新約聖書がギリシア語で記されたという事実に言及 するにとどめておきたいと思います。それは紀元前15世紀のミュケナイ文書(いわゆる線 文字B文書)に始まる長いギリシア語の歴史にとっても画期的な出来事でした。その後の 現代にいたるギリシア語の歴史はこの新約聖書のギリシア語抜きには決して語ることがで きません。そして言うまでもなく、それは思想的にはギリシア文化におけるいわゆるヘブ ライズム(ユダヤ・キリスト思潮)とヘレニズム(ギリシア思潮)の奇しき邂逅でした。そ してこの新しい流れはさらにローマに、すなわちラテン語世界に達し、いわゆる西ヨーロッ パ精神の基盤を形づくっていくことになります。しかし重要なことは―私たち日本人には ほとんど注目されることなく今日に至っていますが―、キリスト教はギリシアにおいては、

ラテン語によるローマ・カトリック教会ではなく、新約聖書原典の言語ギリシア語を用い るギリシア教会(ギリシア正教会・オーソドックス教会)として、つまり私たち日本人にも それなりになじみのあるカトリックとその流れを汲むプロテスタントの西方教会ではな い東方教会として、今もギリシア人の日常の営みに深く根づいて生きている事実です。こ

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の東方キリスト教はコンスタンティノポリスが1453年にオスマン・トルコの手に陥るまで は、ギリシアの中世であるヴィザンチン時代の文化そのものとほとんど一つに結びついて いました。それ以後はその中心を第三のローマと言われるモスクワに移したものの、西方 世界の政治経済共同体ともいうべきEUの一メンバーとなった今日でも、その中でギリシ アを特異な存在たらしめている当のものとして機能していると思われます。

 以上で東西文化の接点としてのギリシアの歴史の一部を粗描しましたが、ここでこれま での通時的紹介に代えて、ギリシア文化の特質に多少とも共時的な考察を加え、本講演の サブ・タイトルに掲げた「合理性と非合理性」をめぐる私のギリシア文化理解の一端を提 示したいと思います。

 このギリシア文化の特質に接近するために、ニーチェが問題の書『悲劇の誕生』でそれ までの西洋世界のギリシア理解において久しく忘却のかなたに追いやられていたのを甦ら せてくれたディオニュソスなる神に登場願うことにします。ディオニュソスはホメロスの 叙事詩『イーリアス』において生き生きとした活躍の場を与えられている、人間に近いい わゆるオリュンポスの神々には数えられない異質の神です。人間が慣れ親しんだものの彼 方から来訪する他なる神、しかし遠い神でありながら、人間に突如襲いかかりあまりにも 間近に迫り来る破壊の神でした。オリュンポスの神々をギリシア文化の晴朗な側面、いわ ばギリシアの透明な光のイメージで表象しうるとすれば、ディオニュソスはその光の背後 に広がる闇であり、陶酔を呼び覚ますことによって文化の装いを剥ぎとり、人間を原自然 に、秩序を混沌に返してしまう恐ろしい神でした。このディオニュソスは、ギリシアの文 化的世界の外縁に位置する北方のトラキア地方か、東方小アジアのトゥモロス山がその故 地であると信じられ、従来はホメロスの叙事詩成立以後前7世紀頃にギリシアにもたらさ れた新興の神と考えられてきました。しかし20世紀中頃、線文字Bで記されたミュケナイ 文書にこのディオニュソスの名が確認され、この神はすでにミュケナイ時代からギリシア 世界に存在した古い神であることが解ったのです。つまりオリエントからあるいはギリシ アの周辺の異邦世界から到来した、本来は非ギリシア的な新しい神と信じられていたディ オニュソスが、実はギリシアの中枢に位置する古い神であったことが判ったのです。ギリ シア人はこの古い恐ろしい神を文化の装いの中に包み込み、秩序の鎧の中に閉じ込めてそ の存在すら忘れ去っていたのです。その限りで、この神は彼らにとって遠い見知らぬ神だっ たわけです。この内なる古い神は時に文化の殻を突き破り、秩序に慣れたギリシア人を原 自然の混沌に返すことで、ある意味で外側から、その都度新しい神として立ち現れたと理 解することができるでしょう。

 このディオニュソスを非合理的なるもの、パトス的なるもの、他方オリュンポスの神々 を合理的なるもの、ロゴス的なものと置きかえればどうでしょうか。すでに述べたように、

私がギリシア訪問を繰り返し、現代のギリシア人と接することを重ねていくうちに次第に

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確信を深めていったのは、ギリシア文化にはオリエント風とさえ感じられるものが本質的 に存在するということでした。西ヨーロッパの美しい都市の整然としたたたずまいとは違 う大都会アテネの喧騒、疾走する自動車の無秩序ぶり、口角泡を飛ばして議論する人々の 気性の烈しさ、パトス―総じて非合理的なるものこそ、現代のみならず古代ギリシア人を も規定していた本性ではなかったでしょうか。すなわちディオニュソス的なるものこそが 彼らの本性だったのです。だからこそ彼らは合理的なもの、オリュンポス的なものを希求 したのです。古代ギリシア人は自らの自然性、本性に根ざす破壊的なるものの恐ろしさを 知るからこそ、それに理性と秩序の型を与え、パトスにロゴスを刻印することを求めたの でしょう。彼らはこのようにして理性(ロゴス)の発見者となったのです。人間は内側から も外側からも非人間的なるものに取り囲まれています。人間が人間であることは決して自 明なことではないのです。人間であるとはその意味で常に人間になることです。古代ギリ シア人はこのような意味での人間の発見者でした。古代ギリシア文学に謳われている人間 讃歌がいつも新鮮に響くのは、その発見の喜びに裏打ちされているからでしょう。そのよ うな発見的認識を伴わない合理主義、人間であることの不思議に感嘆することのない理性 主義は、干涸びた固定観念にすぎません。ディオニュソスはまさにそのようなものにこそ 襲いかかる破壊の神だったのです。

 最後にこの合理と非合理、理性と非理性、ロゴスとパトスの共存、緊張、調和、統合がギ リシア文化の顕著な特質だということを、ギリシア思想史上の最も有名な哲人ソクラテス の 哲 学 ・問答活動の中に―与えられた時間の許す限りでごく短く―跡づけておきたいと 思います。ソクラテスは何も書き残さなかったのですが、弟子のプラトンが書いたソクラ テスを主人公とする対話篇を通して知る限り、彼はまさに言論の人でした。彼のフィロソ フィアの活動は問答活動とも呼ばれましたが、彼は問答を通して、つまりロゴスによって 真理をどこまでも理性的に厳密に追求する人でした。それゆえに彼は人々に疎まれ、あら ぬ罪を着せられ、紀元前399年に毒杯を仰がされたのです。しかしこのロゴスの人ソクラ テスが、実はその根本において幼少の頃から ダイモニオン ( ダイモーン 〔神霊〕的な るもの)の経験、 ダイモーン の声を聞くという不思議な、神秘的な経験をしていたとい います。『ソクラテスの弁明』からその箇所(31c−d)を引用しておきましょう。

・・・私に現れてくる一種神的なもの、あるいはダイモーン的なるもの・・・

それは一種の声として現れてくるが、現れてくる時は、これから何でも 私がしようとすることを、しないようにいつも気を変らせるが、するよ うに勧めることはない。

(山本光雄訳)

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このようにダイモーンは彼にいつも否定的に現れたとソクラテスは言っています。つまり 彼はロゴスの人として、ロゴス的思考によって真理をどこまでも追究することをやめな かった。その主体性があってこそ、いわばその極限ではじめてダイモーンの否定に出会っ たということなのではないでしょうか。言い換えれば、彼のロゴス的な営みは決してロゴ スの内部に閉塞してしまわず、ロゴスを超える世界に開かれていたのです。彼の哲学的活 動はまた―これについてはもはや詳述する余裕はないのですが―デルフォイのアポロンの 神託という、非合理的・宗教的なものに規定されていたことが知られています。ソクラテ スの「無知の知」はデルフォイの警句「汝自らを知れ」をソクラテス流に解釈し直したもの と言えるでしょう。つまりソクラテスにおいてはダイモーンのしるしなり、デルフォイの 神託なりの非理性的、宗教的経験が逆に彼のロゴス的、理性的営みを支えていたと見るこ ともできるのではないでしょうか。ソクラテスはこのように合理と非合理、理性と非理性、

ロゴスとロゴスを超えるものの緊張関係の中を生きぬいた人間だったのです。そして私は このような宗教的なものと哲学的なもの、神的なものと人間的なもの、非理性的なものと 理性的なものの間の、互いに開かれた関係は、ソクラテスに限らず、ギリシア文化の最も 基本的な構造であると見ております。総じてギリシア文化はきわめて宗教的でありつつ、

同時に人間的だったのです。そしてこのことは、先に私がギリシア文化におけるオリエン トとオクシデントの出会い、折衡と対決、緊張とその超克、そして調和と統合の消息とし て跡づけたものと本質的に等しいと言えるのではないかと思います。

 私は以上のようなギリシア文化理解を確かに本比較文化学部に着任する以前から次第に 築き上げてきておりました。しかし本学部の一員になって以来、比較文化という枠組みの 中に自らの研究を位置付けることを意識的にせざるをえなくなり、とりわけ「地中海文明 とヨーロッパ」(比較文化研究1)そして「文化交流論」という講義を持たされたことにより、

より広い比較文化的パースペクティヴから自分の関心を以前にもまして積極的に見直すこ とを促されたと感じています。本日は時間の制限もありはなはだ粗雑な展開に終始せざる をえなかったのですが、日頃考えている私のギリシア文化理解の一端を御紹介できたこと を嬉しく思い、このような機会を与えられたことに心から感謝している次第です。

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