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海事金融政策の行方についての考察

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海事金融政策の行方についての考察

海事金融政策の行方についての考察

松竹秀雄

目  次

Ⅰ 総説

Ⅲ 船舶の金融

Ⅲ 海運政策と金融

1. 明治以後の我国の海運政策 (1)商船・郵船規則から日本郵船まで (2)航海業保護法

(イ)航海奨励法・造船奨励法及び航路特定助成 (ロ)沿岸航権の確保

(ハ)遠洋航路補助及び郵便定期航路補助,その他の補助 2.列国の海運政策

Ⅳ 我国の今後の海運 1.国際海運秩序の変貌 2.我国海運再建整備の試行 3.海運自由の原則の行方と海事金融

Ⅰ 総  説

船舶の所有は,小型船時代は個人所有もあったと思われるが,古来,建造

に莫大な費用を要し,且つ危険性の多い事業とされてきたので,一般的には

個人企業は少く,特にやや大型化するに従い,殆ど複数人による所有となっ

た。複数人所有の経営形態のうち,株式会社組織の先駆をなすものに共有経

営がある。16世紀から17世紀にかけての大型船の殆どが共有され,しかもこ

(2)

の共有関係は常に

1

隻の船舶の共有として成立し,かりに数隻が同一の人々 に属していても,それぞれ別個の共有関係を形づくっていた。イギリスの慣 習に於ては,船舶の所有権は

64

の持分に分かれていた。初めは 1隻の持分を 二分して共有し,更に四分,十六分,三十二分して遂に六十四分となったも ので,共有者は

64

人のことがあり,それより少いこともあった。通常は

16

人 であったといわれるが

8

人又は

4

人のこともあった。

リューベックに於ける

1572

'"''1573

年の共有調査表によれば次の通りであ る 。

1572‑3

年の共有調査表 船 舶 ト ン 主

(ラステン) 船 舶 総 数

30 

31‑40  41‑50  51‑ 60  61‑70  71‑80  81‑90  91‑100  120‑130  150‑200  260 

11 

223  1  2 

B.  Hagedorn

, 

a

, 

a

, 

n

, 

1909

, 

S.  359

に記された参考 表

(r

大塚久雄著作集

J

1

巻 ,

157 

頁による)

この慣習は

19

世紀の中頃まではイギリス,オランダに於ては一般的慣例であ ったが,共有の組織は種々の不便が伴うので,これに代るものとして株式会 社が一般に利用されるようになった。

株式会社の起源は,船舶経営のギルドであったイギリス東インド会社

( 1

599

9

22

日発起)に求める説と,

1602

3

月に設立されたオランダ

東インド会社(正確には合同東インド会社)に求める説とがある。前者は

等額株式で、なかったが,

101

の持分

adventure

又は株

share

に分れ,将来の

増資を予想して,以後の出資最低額を

200

ポンドと定めたものの,出資払込

が不足したため,現実に払込を希望する者のみによる当座的な個別的会社企

業Li

mitedoint ‑stock

が副次的に設立され,イギリス東インド会社の名にお

(3)

海事金融政策の行方についての考察

いて東インド貿易を営み,第1航海商船隊の帰航と共に1回限りで清算する こととなった。その第1航海の出航後,第2航海が計画されたが,第1航海 の出資者に対する出資強制により,第1航海商船隊の成功的帰航後の1604 に第

2

航海企業は第1航海に合併の形で成立した。このようにして1612年の 8航海まで当座的性格の個別的企業制で行われ, 1613年に第1次合本 the First oint ‑stockとなって行ったが,エリザベス女王により15年を期限と

チャーター

して特許状を賦与せられた16001231日を以てカムパニー的外枠をもっ jointstock companyとしてのイギリス東インド会社成立とされている。

一方,オランダの方は, 1594年にアムステルダムグ、ループによる遠国会社 が設立され,数次の合併を経てオランダ東インド会社となって行ったが,オ ランダ東インド会社となる以前の幾つもの会社は,内容に於てイギリスと全 く同様の当座企業であって, 1602年の合同によって,株式 actieによる会社 となったものである。

東インド会社の名のもとに行動したということからすれば,株式会社の起 源はイギリス東インド会社がそうであったと見ることが出来ようし,また当 座企業でない株式による会社という内容からすれば,オランダ東インド会社 がその起源であるといってよいであろう。

海運業が独立の企業として行われるようになった一つの大きな原因は, 18  世紀初頭からの産業革命であった。 19世紀に入ると, 1807年にはフルトンの 蒸気船クラモン卜号がハドソンJIIを航行し, 1819年,米船サバンナ号は大 西洋横断最初の蒸気船であり, 1821年にはドーパーとカレー聞に定期航路が 開設され, 1834年,イギリスでロイズ船級協会が組織された。 1837年には 英人スミスがスクリュープロペラ船を造り,それ以後,スクリューの採用が 多くなった。 1844年には鉄造船グレイト・ブリテン号が大西洋を横断した。

1854年にはアメリカで二連成機関のブランドン号が就航し,イギリスで最初 の商船法が制定され, 1869年にはスエズ運河が開通し, 1914年にはパナマ 運河が完成して安定した大型・長距離航海の時代となって行った。

何れにせよ,所有と経営を分かつ株式会社が海運に於て始まった所以は,

船舶及びその航海が,航海術の未発達,海賊の危険などと共に,莫大な資金

(4)

の調達を要する事業であったことは論をまつまでもないことである。そして 産業革命の結果,先進地が工業圏となって開発途上地域をその市場となし,

一方,開発途上地域は小麦等の食糧・木材・石炭・鉱石等の原材料の供給国 として,生産・分業の関係が明確となってくるにつれ,先進地と開発途上地 域とを結ぶ航海が継続的・恒常的に行われるようになってきた。これに加え て

19

世紀中頃に海底電信が普及して海外情報が速かに把握されるようになっ た。このような状況のもとで海運経営上生じた重大な変化が定期航海Li

ner

であった。

定期航海が成立する要件は,一定の航路に,季節の如何に拘らず常に一定 量の貨物の流れが存在することであって,季節の如何に拘らず一定量の流れ をもち得る貨物は工業製品のみである。従って,工業が相当に発達し,その 輸出が盛んとなった後に定期船経営は成立し得たのである。そしてまた定期 船経営は,不定期船経営に比し,大きな資本を要するのが特徴であって,こ のことはまた掠奪貿易,特許会社及び先進諸国の工業発展等を経て,商業資 本が相当程度まで蓄積を行い得たということを示すものである。

海運経営の創設が 自己資本即ち企業家の元入資本によって行われること は一般の企業と海運業との問に何ら差異はない。その資本が

1

隻の船舶を

64

の持分に分け,またその後の株式会社によってひろく株式募集することは冒 頭に述べた通りであるが,海運業経営に於て自己資本のみを以て不足すると きは,他人資本の調達を図ることになる。この他人資本の調達の必要は事業 の拡張,即ち船舶の買入又は新たな建造であるが,運転資金の必要によって も生ずる。新株式発行による増資を投資家が欲しない場合の金融の方法は社 債発行によることがあり,借入金によることがある。社債発行は信用大なる 海運企業に於て行われ得るが,信用の乏しい中小企業に於ては行われ難い。

そして海運業に於ける他人資本の調達は主として船舶を担保とする所謂「船

舶金融

J

によって行われる。これが他種の企業の金融と異る点である。また

定期船経営には郵便逓送を含めて世界各国が何らかの海運補助を行なってい

る。これもまた他種企業と性質を異にしている。以下,金融及び海運政策に

ついて述べて行く。

(5)

海事金融政策の行方についての考察

なお,本稿は『金融革命と銀行経営j(桜井克彦・志津田氏治・立脇和夫 編著)法律文化社1986年刊の中の拙稿「海運の金融Jに大巾に加筆増補した

ものであることを付記する。

〔 注 〕

( 1 )   大塚久雄「株式会社発生史論

Jr

大塚久雄著作集第

1

J

岩波書庖,

1974

年 ,

156

頁 。

(2) 

小島昌太郎「海運要論

Jr

部門経済学

J

改造社,

1931

年 ,

96

頁 。

( 3 )   西島弥太郎「海法における若干の史的考察

Jr

神戸法学雑誌

J

2

巻第

2

号 ,

240

(4 ) 

大塚久雄,前掲吉,

328

頁以降

( 5 )   大塚久雄,前掲書,

443449

頁 。

( 6 )  

Clermont

号,戸田貞次郎『米国海運史要j大阪商船株式会社,

1939

年 ,

133

頁 ( 7 )   ロイズ船級協会,

Lloyd's Register of Shipping 

世界の船級協会のうち最も歴史が古く,組織も大きく,信用の絶大なイギリスの船級協 会 。

船主の要望により①船の船級を決定するほか ①船舶に関する諸種の検査・試験・鑑 定を行なっている。

海運業者・保険業者などの船舶利害関係人の便宜のため,毎年レジスターブックを発 行して,全世界の航洋鋼船の明細を発表し,またロイド造船規則を設定し,世界各国の 造船基準となっている。

( 8 )   イギリス商船法……

TheMerchant Shipping act of 1854.

このときから,船の大きさを

100

立方フィー卜=

lGT

で表わすようになった。

船舶の金融

海運業に於て他業種の金融と異る特徴が船舶を担保とする金融,即ち船舶 金融である。船舶金融は 海運業に於ける船舶の買入・新船の建造のほか運 転資金入手のためにも利用せられるが,船舶金融そのものは,浩司

i l

業打・漁 業者であっても,船舶を担保として行なう金融であれば,それは船舶金融で ある。ここでは海運業に於ける金融を問題とする。

(6)

船舶金融が何故に他業種と異る特徴があるかといえば,それは船舶そのも のにある。船舶は本質的に動産であって,これを担保にしようとすれば,本 来的には質権の規定に従い,質権者はこれを占有することになるであろう。

質権者が継続して占有するとすれば,船舶所有者は船舶を運航の用に供する ことを得ず,また船舶所有者に船舶を担保とする道が聞かれてなければ海運 業者にとって金融の道が閉ざされることになり,ひいては国民経済的見地か らも由々しき事態になり兼ねない。こういったことから例外的に,ある制限 をつけて船舶抵当が認められてきたものである。

制限の一つは船舶の大きさである。海商法における船舶は, r 商行為ヲ為

ス目的ヲ以テ航海ノ用ニ供スルモノヲ謂フ。本編ノ規定ハ端舟其他櫓擢ノミ ヲ以テ運転シ,又ノ、主トシテ櫓擢ヲ以テ運転スル舟ニハ之ヲ適用セズ(商

684

条①②船舶の定義)

r 総トン数

20

トン未満ノ船舶ニハ之ヲ適用セズ(商

686

条船舶の登記⑦)Jとある。制限の二は登記義務である。「船舶所有者ハ 特別法ノ定ムル所ニ従ヒ登記ヲ為シ,且船舶国籍証書ヲ請受クルコトヲ要ス ( 商

686

条船舶の登記①

J

r 登記シタル船舶ハ之ヲ以テ抵当権の目的ト為スコ 卜ヲ得。船舶ノ抵当権ノ、其属具ニ及ブ。船舶ノ抵当権ニハ不動産ノ抵当権ニ 関スル規定ヲ準用ス(商

848

条船舶抵当権①⑦①

J

とあり,また嘗ては民事 訴訟法の船舶に対する強制執行の方法の条文に,

r

商船其ノ他ノ海船ニ対ス ル強制執行ノ、不動産ノ強制競売ニ関スル規定ニ従ヒテ之ヲ為ス」云々の文言 があって,船舶が動産であるに拘らず不動産に準じて取扱われることを示し ていた。船舶は登記することによって抵当物件たることを得るのである。ま た登記した船舶が抵当権の目的となり得ることから, r 登記シタル船舶ハ之

ヲ以テ質権ノ目的ト為スコトヲ得ズ(商8

50

条登記船舶の質入禁止

)J

と規定 され,更に船舶金融を容易にするため, r 本章(船舶債権者)ノ規定ノ、製造 中ノ船舶ニ之ヲ準用ス(商8

51

条製造中の船舶に対する準用

)J

と定められ,

製造中の船舶に対しても抵当権を登記することにより,その船舶を抵当とす る資金融通の道が聞かれている。

然しながら,往時に於て船舶を抵当として,所謂冒険貸借

Bottomry

を行

ない,わが国に於ては投銀証文を以て

5

割内外の高利の支払を約束し,且,証

(7)

i

l

手 1 ' 手金融政策の行一方についての考察

文の「但シ波吉(帰)朝共ニ海上ノ、我等不存候」の海上危険を当然のことと 理解しながら,船頭・船長に対する信用から高利廻りに期待し,船舶金融は 行われてきた。船頭・船長に対する個人的信用がなければ,金融業者の多く は融通を差控えたであろう。それ程,船舶金融は従来危険なものとされてき たのである。従って金融業者は船舶金融に当って,当然にその船舶を抵当に することは勿論であるが,その船舶よりむしろ船舶所有者に財産があるなら ばその個人に連帯保証を求めた。それは船舶が本質的に動産で あって,抵当 権強制執行があったとしても,それは法律により不動産に準ずる取扱を受け るということであって,航海中,特に海外にあってはその処置が出来ないの みならず, I差押及ヒず仮差押ハ発航ノ準備ヲ終ハリタル船拘白ニ対シテハ之ヲ 為スコトヲ得ズ。但シ

J t

船舶ガ発航ヲ為ス為メニ生ジタル債務ニ付テハ此限 ニ在ラズ(商689条船舶の差押,仮差押の制限)Jとあって,強制執行を為す 場合でも随意に出来るものではない。仮りに差押え得た場合に於ても,船舶 運航業民に於ける運航船舶価値と,差押えた金融業者に於ける担保船舶価値 とは全く訂の違うものであって,差押えたとしても運航収入のために動くこ とを得ない船舶はただの鉄の塊りに過ぎないし,且つ係船に要する

l

諮問用・

人件費が差押えたその瞬間

l

から確実に差押えた金融業者本人に転嫁される現 実に唖然、とならざるを得ないであろう。これに関連した話に, Iノルウェ一 人と共同で

1

隻の中古船を購入して運航してみたが,どうもうまくゆかない。

とうとう損のまま売却して解散した。経営はこちらがやって, ノルウェーの 船主は損だけ半分負担したのだから,さぞ文句を言うだろうと思っていたが,

あっさりと承知した。そして言うことには,損のできる経営はいいのだ,と いう訳である。この立

l

床は当時は分からなかった。損をしながら,引を出せ ずにぐずぐずして赤字を大きくするのはJ目、かなことだ。損ならJHで早く見切 りをつけて損をI汁上すべきだという意味だ(引のできる経営)Iかつて海 運界では,会社はつぶれても船は残るといわれたことがあった。当時,船員 賃金が毎年

I

二昇した。そうすると,中小船主などでは負担に耐えられなくな るおそれが出てきた。 会社はつぶれても船は洩る。船が残る限り船flが必 要である。だから佐得した労働条件は船主が変わっても継承される"。船主

(8)

の労務担当者にもそう思っていた者がいた(会社はつぶれても船は残るとい われたが)J。これは,事実は必ずしもそうではなく,現実に船主が倒産し て船舶が売却されたときには船員もやはり迷惑したのであったが, しかし一 面の真理として,船舶が海面に浮かぶ限り,差押えた者に係船に要する諸費 用は厳然として残るのである。ここが不動産担保と極めて大きく違うところ である。

また危険は海上危険だけではなく,造船所に於ける建造中の船舶にも考え られる。船舶の建造は長期間に亘るため,その途中に於ける船価の下落,海 運界の不振,これに付随しての船主の破綻等,金融業者は船舶竣工引渡まで に危険を覚えることなきにしもあらずである。

また船舶は土地などの不動産と異り,決算期のたびに船価償却を行うこと でわかるように,荒海を航海するための自然、的腐朽度が大きく,且つ船舶技 術的改良の著しい時期にあっては陳腐化する度合いが激しいものであり,不 況による船価下落に当つては,法令に基く経過年数による減価もまた現実と は著しい差異を生ずるであろう。依て船舶の担保価額の評定は,提出された 造船価額を以てするに危険性があるということになろう。

このうょに種々の危険があるに拘らず船舶金融は行われてきた。これを第 一次世界大戦中の船腹不足に対処して大正7年から船舶金融を行なうことに 改正された日本興業銀行法にみてみよう。「船舶金融については,船舶の危 険状態が多いことから,多少の議論もありましたが,結局,銀行業務に従事 する者の手腕を信頼すれば宜しいのであると云うことになり, (運航)技術 が巧妙になったから,今日の(海上)危険は昔日の危険よりは減じているし,

船舶には各種の保険金額が付いている。それを目当に見る。又,造船の評価 格というものを見る。又,船主の信用というものも見る」。このように本法 改正案の審議に於て見解が明らかにされて, 日本興業銀行に於ける船舶金融 条項が追加されたのである。これによれば,大正

6

年の草案に盛込まれてい た「運賃又ハ貸船料ヲ担保トシテ貸付ヲ為スコトヲ得」という,やや計算困 難なものを除外し, f15年以内ニ於ケルー年賦償還又ノ、5年以内ニ於ケル定期 償還ノ方法ニ依リ船舶又ハ製造中ノ船舶ヲ抵当トスル貸付(第9条の8)J, 

(9)

海事金融政策の行方についての考察 9 

「造船材料又ハ船舶属具ヲ担保トスル貸付(第 9条の 9

)J

が新たに設けら れ,またこの法の改正に伴う定款変更にも当該部分が追加されたほか, r

銀行ニ於テ抵当トシテ徴スル船舶又ハ製造中ノ船舶ハ保険ニ附シタルモノニ 限ル(定款第

39

条の

3

)jと規定され,

r

……貸付クル金額ハ当銀行ニ於テ鑑 定シタル価格ノ三分ノ二以内及ヒ保険金額ノ五分ノ回以内トス……(定款第

39

条の

5)J

と定められた。ここでは海上危険の減少,船舶保険の強制附保 等の状況を勘案しながらも, r 船主の信用

J

を見ることに相当な重点が置か れていると見る。即ち,冒険貸借という時代では無くなったけれども,内容 的には依然、として船舶所有者・運航責任者の個人的運営信用を重くみるわけ であって,船舶金融の究極は船主の信用,即ち船主の長年にわたる経営力の 凝縮としての財産的信用に尽きる。

船舶金融の方法は,社債発行又は借入金であるが,船主側の関心事は金利 である。次の表は日本興業銀行設立直後からの外資導入実績であるが,当 時のロンドン,パリー,ニューヨークに於ける利息は年利

4.5

分乃至

5

分で ある。

にも拘らず,当時のわが国の金利は高く,

r

本邦金利ノ高キ,自ラ外国ト 競争スル能ハザラシムル者アルニ由ル可シ……,彼(英国ピーオー汽船会社) ハ年ニ四歩乃至五歩ノ利息ヲ以テ資本ヲ借入スルヲ得ベシ。我ノ、少クモ年一 割五分乃至一割八歩ヲ払ハザレパ資本ヲ借入スルヲ得ズ……,余輩ノ、思フ,

日本通貨ノ制度宜シキヲ得ズ,二割ニ近キ利息ヲ低落セシムルヲ得ズ,航海 ノ業熟練スルヲ得ザル以上ノ、,仮令日本ニ船舶ノ供給余リアルニ至ルモ,決 シテ本邦回遭営業者ハ海外ニ向テ航路ヲ開ク能ハザル可シ

J

r

金利に至りて

は欧州戦争(大正 3 ' " " " '大正 7)以来,船主の信用増進と共に, 日歩 2銭 2 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑

3厘に低下せりと雄も,以前にありては 1割 2 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 3分を普通とし,甚しきは

年 2割以上, 日歩 5 ' " " " ' 6銭のものも少なからず」といった状態であった。船

舶は高価額のものであるから,貸出金利の上昇低下は,即海運業経営に重大

なる影響を及ぼすものである。ここに於て海運政策が必要となってくる。

(10)

日 本 興 行 銀 行

設 行 年 月 銘 柄 設 行 額 設行額

設 行 価 格 年 利 (固換算)

千凶 年分

明治

35

10

月 帝因五分利附公債

50

000

000

50

000 

千 四 に 付

98

" 39

1

月 北海道炭暗法道株

1

000

000

9

763  100

に付

98.5

式 合 社 社 債

" 39

4

月 日 本 興 業 銀 行

7

500

000

7

500 

増 資 株 式

" 39

8

月 第 一 回 東 京 市 白

1

500

000

14

580  100

に 付

100

" 40

7

月 第 一 回 南 満 州 錨

4

000

000

39

052 

97 

道 株 式 自 社 社 債

" 41

6

年 第 二 回 向 上 社 債

2

000

000

19

526  98 

" 41

11

月 第十三回興業債券

2

000

000

19

526 

97 

" 41

12

月 第 三 回 南 満 州 錨 道 株 式 合 社 社 債

2

000

000

19

526  97.5 

" 42

5

月 大 阪 市 位

3

084

940

30

220 

97 

" 42

7

月 横 演 市 債

716

500

7

000  98 

" 44

1

月 第 四 回 南 満 州 錨

6

000

000

58

578 

98  4.5 

道 株 式 合 社 社 債

5

175

000

3

175

千 砺

98

" 45

2

月 第 二 回 東 京 市 債 (

89

564  2

000

千砺

97

・一

113 6  100

880

000

96

・ ‑

大 正

2

3

月 第一回 東洋拓殖債券

50

000

000

19

350  96.~

57

500

000

l

27

476

440

384

185 

150

880

000

(11)

海事金融政策の行方についての考察

11 

関 係 外 資 導 入 賞 績

償還期限(期間) 政 府

設 行 地 引 受 合 社 募集取扱銀行 捨 保 保 誼

大 正 4 5 年 ( 5 4 ヶ年) ロ ン ド ン (買受)

香 上 銀 行

大 正 1 0 年(1 5 ヶ年) チ ャ ー タ ー ド 銀 行 鏑 業 出 道 財 困 ロ ン ド ン (設行銀行)パース銀行 香上銀行

パ リ ー 正 金 銀 行 ソ シ エ テ ゼ ネ ラ ル

大 正 2 5 年 ( 3 0 ヶ年) ロ ン ド ン 本 行

f

ー ス 銀 行 呑 上 東京市の 銀 行 正 金 銀 行 特 別 収 入

大 正 2 1 年 ( 2 5 ヶ年) 政 府

"‑

保 設 附

明治 4 4 年 ( 3 ヶ年) ー‑"‑

f

ンミュア ゴルドン商合 "‑

ロ ン ド ン (設行銀行)パンミュアコ

e

ルドン商合 大 正 2 2 年 ( 2 5 ヶ年) ー‑"‑

パ リ ー ソシエテゼネラル パース銀行 香 上 銀 行 正 金 銀 行

大 正 2 1 年 ( 2 4 ヶ年) ー‑"‑ ロ ン ド ン 本 行 パ ー ス 銀 行 呑 上 銀 行 正 金 銀 行

大 正 2 8 年 ( 3 0 ヶ年)

f

ー ス 銀 行 呑 上 大 阪 市

銀 行 収 入

大 正 4 3 年 ( 4 5 ヶ年)

‑"  横 市 市 収 入 大 正 2 5 年 ( 2 5 ヶ年) 政 府

f

ー ス 銀 行 香 上

保証附 銀 行 正 金 銀 行

)

4 1 年 ( 4 0 ヶ年) ニューヨーク

クーンローフ。商命 )東京市 の 収 入

ノξ

リ ー ソシエテゼネラル

大 正 3 1 年 ( 2 9 ヶ年) 政 府

パ リ ー

日 併 銀 行

保証附

(12)

〔 注 〕

( 1 )   住田正一,

r

日本海法史

J

五月書房,

1981

年 ,

445

頁 。 ( 2 ) ( 3  )  岡庭博「負の経営」朝日新聞,昭和

6

1 .1 .  2

5"'2. 24

(4 ) 日本興業銀行臨時資料室『日本興業銀行五十年史J1957

年 ,

163

頁 。 ( 5  ) 日本興業銀行臨時資料室『日本興業銀行五十年史

J1957

年 ,

94"'95

頁 。 ( 6 )  

r

海運史料』博文舘,上巻

311"'313

頁 。

(7) 

住田正一『海事大辞書

J

海文堂出版部,

1926

年 ,

1334

頁 。

m

毎運政策と金融

海運政策とは,政府の自国海運に関する一切の政策をいう。従って,自国 海運の維持増強を図ることを目的とする故に,その政策の大枠としては国際 共通的考え方としての「国防上の要請」に類すること,即ち自衛の見地から する外航商船隊維持関係並びに貿易の促進関係,外貨受取り乃至外貨支払節 約の運賃収得関係があげられる。国内的には内航海運業の維持関係,自国船 に乗組む日本国民の就業関係,造船業維持関係,航路港湾の諸設備関係等が ある。ここでは狭義の意味の海運政策として,海運奨励・助成をとりあげて 行くこととする。

1.明治以後の我国の海運政策

( 1 )  

商船・郵船規則から日本郵船まで

明治初年の我国海運は和船廻j曹が主であった。

1 8 6 7

(慶応

3

)年アメリカ のパシフイツクメイル社は,サンフランシスコと上海の間に航路を開き,横 浜にも寄港していたが,わが国海運の未発達の現状を見て, 日本沿岸の航運 を も 同 社 に 委 託 す る よ う 日 本 政 府 に 詰 願 し た 。 こ の よ う な 時 期 の 明 治3

( 1 8 7 0 )

年 1月,政府は廻漕会社を設立することとして蒸気郵船規則を定め,

商船規則によって日本国旗を制定し西洋形船舶所持者に特別の保護助成 r;j'llhj を明らかにした。この廻漕会社は明治41月,僅か1年で解散し,政府は 廻遭取扱所の設立を経由して新たに株式組織の日本国郵便蒸気船会社を明治

(13)

海事金融政策の行方についての考察

13  58月に設立した。このうよな経過は,旧幕時代の西洋型船舶を政府が引 継ぎ,政府は諸制度を欧米諸国にならって整備しつつ,三井をはじめとする 旧幕以来の豪商資本の助けを借り,政府も当然のように大型援助を与えて,

パシフイツクメイル社など欧米の外圧を排除するために懸命に努力した姿で あった。

一方,明治310月,土佐藩船3隻を借受けて回漕業を始めたλ十九商会 は明治

6 年 3

月に三菱商会となる。三菱は明治

7 年 2

月の佐賀の乱に輸送役 務を受けて功を立てた。更に明治74月の台湾の役に際し,政府は13隻の 汽船を購入し,三菱会社に運営せしめた。以後三菱は日本国郵便蒸気船会社 を圧倒していく。政府はパシフイツクメイル社に対抗させるため,明治8

1月に三菱に上海航路の開始を命じた。

これと併行して,政府では明治8

5月,海運政策の根本的建直しを計画 した。これが「海運三策

j

といわれるもので 3案のいずれか1案を採択す るよう要請したものである。その要旨は

1案 我国の海運を民営自由主義とする。

2 政府の保護管轄の下に民間会社を育成する。この場合,民間の有 力な会社を合同せしめ,これに海運を一任する。

3 政府官営によって海運事業を行なう。

これが提出された翌月, 日本国郵便蒸気船会社は力尽きて解散し,その翌 7月,第2案海運民営政府補助の採択が決定した。

ところで,台湾の役が終結し明治

8 年 2

月始めから三菱が上海航路を開始 したが,これは三菱及び日本政府にとって始めての外国航路における始めて のダンピング競争であって,結局,航路を三菱が買収して解決したが,結果 から冷たく見れば,助成金を得て勇躍強敵に戦を挑んだ者と,ある事件によ ってアメリカ政府補助を断切られた者との資金的差異が余りにも明瞭に出た 国際競争の勝敗であった。

ところが明治92月,英国のピーオー会社が新たに香港・上海・横浜線 を開設した。しかし三菱が考案した荷為替金融によって明治

9 年 8

ピー オー会社は無条件で日本沿海航路から撤退した。政府が海運保護という確た

(14)

る信念の下に行動し,民間の三菱を援護したことがわが国の海運自主権を確 立させたといい得る。

さて,明治

10

2

月に西南の役が勃発し,三菱会社は政府の社船徴用に直 ちに応え,全社あげて軍事輸送に従事した。その後,三菱会社に沿海航路独 占の非難が起ったのを機に,政府は新たに明治1

5

7

月,共同運輸会社を設 立した。政府出資の半官半民であって,三菱会社とほぼ同じ競合航路を経営 せしめた。両者は激しい競争をつづけたが,結局,さきに共同運輸が倒れん とする直前,政府が介入・勧告して合併せしめ,新会社が明治 1 8年 9月に設 立された。これが日本郵船会社である。

因みに,政府は日本郵船会社に対し

15

年間,利益年

8

分までの利益補給保 証を行ない,一方大阪商船会社に対しても明治2 1年度以降

8

年間,船舶改良 のため毎年 5万円の補助及び郵便物航送料として同期間毎年 2万円の補助金 を下附している。

(2) 

航海業保護法

前記のような経過を辿って,我国の海運は成長してきたのであるが,明治 2 7 " ' ‑ ' 2 8年の日清役に対する補助巡洋鑑・輸送船としての徴用船舶は

日本郵船

57

13

万総トン 大阪商船

30

l

2

千総トン その他社外船

53

8

万5 千総トン

に及んだ。しかし戦時中,御用船徴発の穴を埋めるかたちの外国船流入があ って,戦後,臥薪嘗胆の戸と共に国内海運の整備と海外航路の拡張とは未だ 不足状態にあるとの認識が高まり,明治

29

年 3月

23

日航海奨励法及び造船奨 励法の公布となった。

(イ)航海奨励法・造船奨励法及び航路特定助成

航海奨励法は,

r

帝国臣民又ハ帝国臣民ノミヲ社員若ノミ株主トスル商事会 社ニシテ,自己所有ニ専属シ帝国船籍ニ登録シタル船舶ヲ以テ,帝国ト外国 卜ノ間又ハ外国諸港ノ間ニ於テ貨物・旅客ノ運搬ヲ営業トスル者(第 1 条

)J

であって,

r

総トン数

1000

トン以上ニシテ

1

時間

10

海里以上ノ最強速力

(15)

j 佐 j 手金融政策の行方についての考察

15 

ヲ有シ逓信大臣ノ定ムル造船規程ニ合格シタル鉄製又ハ銅製汽船(第2条)J

r総トン数1トン,航海里数100海里ニ付25銭支給,総トン数500トンヲ 増ス毎ニ其ノ100分ノ10云々(第5)Jr航海修行生を船舶ニ乗組マシムル トキハ……海上版原1年未満ノ者,月額3円以上ノ手当ヲ支給(航海奨励法 施行細則第22)J等がその内存である。

造船奨励法は,

r

帝国臣民又ハ帝国臣民ノミヲ社員若ハ株主トスル商事会 社(第1条)jに, r鉄製又ハ銅製ニシテ総トン数700トン以上(第2)J r1000トン未満ノ船舶ニ在テハ船休総トン1トンニ付金12 1000トン以上 ノ船舶ニイ:1テハ1トンニ付金20円ヲ支給云々(第

3

)Jを「明治2910 1日ヨリ 15ヶ年間之ヲ施行ス(第8)Jという内容であった。この法によ ってその後,船舶の大型化,内容・速力等本邦造船業は驚異的進歩を示した とし、う。

これらは, 日本郵船会社設立までにみるような「船主本位J

r

会社本位」

の初期的ともいえる助成策から,

r

船舶本位Jの助成となったもので,この 法施行に刺激を受けて浅肝同沼市:が発展的解散によって東洋汽船会社を設立 するなど,近代化・大型化に向った。

但し,この法fltでは「製造後5ヶ年ヲ経過シタル船舶ニ対シテハ 1年毎ニ 其ノ百分ノ五ヲ逓減ス(航海奨励法第5条 2)Jというものであったため,

日本郵船会社は「国家限効のため定期航海を践行し3巨額の損失を忍び、つつあ る欧州航路及び米国航路の如きに対しては不充分の憾あり。{乃て当社は船令 に依り補助金額を逓減せらるることなく,航路そのものに対し,毎年一定の 金額を下附せられんことを」と数回にわたって票読した結果,明治2910 から4ヶ年半交附のボンベイ航路と濠川航路の2線に続き,欧米2航路とも 明治331月以降10ヶ年!日j特定助成航路として補助金交附ときまった。「船 舶本位」とともに「航路本位」ともなったものである。

このように両奨励法の施行は ,1IIJ)':!!の降盛をよび,明治36年までには次の ように定期航路が盛況を呈した。

日本郵船会社 欧州航路など 5 大阪商船会社 tlll

戸 .

)f~降線など

9

(16)

1線

北米航路

東洋汽船会社

2

線 揚子江航路

大東新利洋行

2

線 湖 南 汽 船 会 社 揚 子 江 航 路 1

明治

37'"''38

年の日露戦役に際しては,政府は船舶徴用に伴う船舶不足を補 う為,

37

2

1

日付, r 外国船を借入れ不開港地に入港を許す

J

こととし

揚子江航路 大東汽船会社

て,外国船傭船の使に備えたため,購入船

150

30

7

千トンに上り,戦後 の明治

38

年末には一躍

1390

隻 ,

92

万トンに上る大船隊となり,更に明治

39

年 には

1492

隻 ,

103

4

千余トンとなった。このため明治

39

年度に政府が支出

した航路拡張費は

619

万円余,航海奨励金は

149

万円余となった。

このうょに海運の隆盛は補助金に負うところ大きく,航海奨励法建議に際 する時の逓信大臣の演説「広く航路を四方に取らしめて,利のある所は何れ 又,発着の時期を定 めず,航海上に於て自由の発達を誘導することが必要でありまする T

の所でも船舶を交通させまして,航海の時期を定めず,

日本大商船隊となり得たのである。

の誘導の通り,

(ロ)沿岸航権の確保

一国の権益として,例えば国内の鉱山経営は明治 6年 7

20

日太政官布告

259

号の「日本坑法」を以て,

r

日本ノ民籍タルニ非ザレパ試掘ヲ作シ,坑区 ヲ借リ,坑物を採製スル事業ノ本主或ノ、組合人ト成ル事ヲ得ズ。……若シコ レヲ犯ス者ハ其業ニ属スル所有物ヲ官ニ没入シテ其業ヲ禁止スベシ(第 4

)J 

外国人に許可しないこととなったが,沿岸航権についてはかなり遅 として,

れた。

明治 2年 9月

14

日,我国とオーストリア・ハンガリ一国との聞に締結され

いてた条約の中に,我国の

1

開港場から他の開港場に至る聞の廻漕を同国に

許容するとの条項,即ち「オーストリア及び、ハンガリ一人民, 日本国の開港

場に於て買入れたる日本産物を日本他の開港場に諸税を払う事なく輸送する

事勝手たるべし。若しオース卜リア及びノ、ンガリー商人, 日本の産物を日本

の開港場より他の開港場へ輸送せんと欲する時は其品物を輸出する時払うべ

き運上を運上所へ預け置ベし……(第1

1

)J

及び「……総て日本人は日本

(17)

17 

産物又は他国の産物を日本開港場へ或は日本の開港場より或は日本開港場の 間に或は他国の港より或は他国の港へ日本人民或はオーストリア及び、ハンガ リ一人民所持の船に積込輸送する事勝手たるべし(第13)Jというのがあ

海事金融政策の行方についての考察

った。これは明治2年正月10日に締結されたドイツ(ドイツ北部連邦)との 日本国の開港場に於て買入れたる日本産物を 聞の条約に, rドイツ国人民,

日本他の開港場に諸税を払う事なく輸送すること自由たるべし(第8条第3 項目)J及びその附録たる貿易章程一一「日本国に於てドイツ国人交易を為 す定則J

r . .

H・若し;或る開港場より他の開港場へ運送する航海中破船す その日独問の ることあらば……(第3)Jとあるのを基礎としたもので,

規定をオーストリア・ハンガリ一間との条約に移したものである。

この日独及び日本,オーストリア・ハンガリ一条約の締結に当つては;

r

時,外交団の牛耳を執っていた英国公使ノ

f

ークスが背後にあって活躍し,我 に不利な条文を織込むに至ったJという。パークスは,勿論嘉永7823

日(西暦18541014日)長崎に於て締結された日英約定の,

r

他の外国の

船或は人民の為に今開きたる港或は此後開くべき港に於ては英国の船並人民 も其港に入津し且最も恩恵を加えらるる国に与えらるる利益は同様之を受く べし……(第5)Jという最恵国条款によって自国も有利に改訂したと同 様の結果を得ることを熟知した上で後押ししていたものである。

ところで対オーストリア・ハンガリーのこの条項は,沿岸貿易の一部を開 日本人が外国の船 これを知った横浜居留の外国人は,

舶を賃借して沿岸貿易し得るという許可,即ち事実上の沿岸貿易開放を求め た。これは何代もの外務大臣を経過し,

放したものとなるが,

明治239月,外国船傭使沿岸貿易 許可条項を含んだ条約改正案が閣議に出され,条約改正問題は朝野に拡がり,

遂に沿岸貿易は外船に許可すべからずという意見が優勢となった。即ち,

外法権を撤去すること,税権を回復すること,沿岸貿易を禁止すること等を 骨子とする,所謂不平等条約改正の難事業は明治 4年の岩倉大使対アメリカ 条約改正談判以来二十余年を経過し,日独条約は明治2944日付,日本,

オーストリア・ハンガリ一間の改正条約は明治30125日に夫々調印され f

こ 。

(18)

下って,明治32616日施行の船舶法に於て,

r

日本船舶一一日本臣民

ノ所有ニ属スル船舶(第

1

条①)ニ非ザレパ不開港場ニ寄港シ又ノ、日本各港 ノ間ニ於テ物品又ハ旅客ノ運送ヲ為スコトヲ得ズ(第3)Jと規定され,

名実共に沿岸航権が確立した。

日本郵船会社が明治23927日付,当時の逓信大臣後藤象二郎に提出し た建議書に, r泰西諸国皆力ヲ尽シテ之ヲ保護セザルハナシ,米{弗独ノ如キ 保護政策ヲ執ル者ハ勿論,英国ノ如キハ固ク自由貿易ノ政略ヲ執リ,痛ク保 護主義ヲ排斥スルニモ拘ラズ,海運ノ一事ニ至テハ,最モ力ヲ尽シテ之ヲ保 護シ,諸社ノ航路ニ向テ給与スル補助金ノ、毎年400万弗内外ニ至リ,殊ニ其 ノ属領濠州ノ如キハ沿海貿易ヲ外国ノ船舶ニ許サズ,是レ畢貢如何ナル放任 主義ノ邦国ニ於テモ海運ノ一事ノ、之ヲ天然、ノ生長ニ放任スル能ハザル事を知 ルベシ。市シテ海運保護ノ方法ーニシテ足ラズ卜難モ,就中最モ肝要ナル者 ハ,沿海貿易ノ権利ヲ自国ニ保有シ,外国ノ船舶ヲシテ自由ニ沿岸ヲ航通セ

シメズ,専ラ自国ノ船舶ヲ保護スル制度ヲ立ツルニ在リ云々」とある。

(ハ)遠洋航路補助及び郵便定期航路補助,その他の補助

航海奨励法の施行は確実に効果があがり,大型多数の邦船の遠洋活動が見 られたが,但し船主は産業上の効果を考えず,やみくもに随意に航路を選定 し,ただ大型船を航海させることのみに専念するの悪弊が出, Tramp船の 空荷航海を補助し,また同一航路に向っても航海奨励と補助命令とが重複す る奇観を呈したこともあり,また外国船と競争的経営の船舶と,三井・三 菱等の石炭運搬船とを同一条件下に保護するなどで定期船社側に不公平の 声があがり,且つ政府の奨励金は限りなく増加して国家財政上に由々しき問 題となった。

依て政府はこれを廃止し,専ら国家に重要な遠洋定期航路を重点的に補助 する方針に決し,遠洋航路補助法が明治431月から施行されることになっ

遠洋航路補助法の適用航路は,欧州・北米・南米・濠什│の 4航路であって,

その就航船は3000総トン以上,速力12海里以上,造船規程に合格した船令15 年以内の銅製日本汽船(外国製船舶は補助航路に使用出来ない。但し日本船

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