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在華イギリス籍会社登記制度と英中・英米経済関係,1916〜1926

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<論 文>

在華イギリス籍会社登記制度と英中・英米経済関係,1916〜1926

本 野 英 一

アヘン戦争,アロー戦争の講和条約交渉を通じ て自国の社会経済秩序原理を中国に強制してから 国民革命期に対中国政策を大転換するまでのほぼ 90年間,イギリスは中国の対外経済関係中,最 大の相手国であった。しかし,そのことは,イギ リスがこの時期全体を通して中国に対して常に優 位に立っていたことを意味しない。両国関係を動 かしていた真の主役は,イギリスやアメリカに留 学するか,香港もしくは条約港租界での居住経験 を通じて,英語圏社会の価値観,行動様式に通じ,

在華イギリス企業の事業活動に出資し,協力して い た「英 語 を 話 す 中 国 人(English-speaking Chinese)」であった。彼らは,同様な体験を有 

する同時代の日本人の多くとは違い,英語圏社会 の文化に心酔していたわけではない。彼らは在華 イギリス企業,在華イギリス社会の制度文化を自 らの生命,財産保護に利用していただけにすぎな かった。

言うまでもなく,「英語を話す中国人」が利用 したのは,「不平等条約」特権であった。彼らは これによって自己の所得財産を保護することが可 能な場合のみ,在華イギリス企業に出資協力した のである。「不平等条約」特権による所得財産の 保護を見返りに在華イギリス企業に協力する「英 語を話す中国人」の増加こそは,明代以来の伝統 的商業秩序に対して絶大な破壊力を発揮した原因 であった。世に言う中国の「半植民地」化とは,

「英語を話す中国人」の行動目的を察知した,在 華外国商人一般が,「不平等条約」特権の供与と 引き換えに彼らを思うままに操るようになった結 果生じたものである。在華イギリス企業と「英語 を話す中国人」,そして両者に対するイギリス政 府の対応に注目すると,アロー戦争終結から南京

政府成立に到る時期は,次のように区分すること ができる。

第1期(1860〜1880):有力同郷同業団体に よ る 国 内 市 場 支 配 の確立によって在華 イギリス企業が条約 港租界内に封じ込め られた時期。

第2期(1881〜1915):「不平等条約」特権 による自己の財産と 所得保護を目的に,

在華イギリス企業に 出資協力する中国人 が増加し,明代以来 の商業秩序が解体に 頻した時期。

第3期(1915〜1926):自国の会社登記制度 を利用する中国人並 びに非イギリス人に 対してイギリス政府,

香港政庁が厳格な制 限を設け,「不平等条 約」体制が中国経済 に対する影響力を急 速に喪失させていっ た時期。

本稿は第1,2期に関する筆者の研究成果を 踏まえ,その延長線上に位置する第3期の英中経 済関係を,「不平等条約」特権を利用する中国人,

非イギリス人をイギリス政府がどの様に扱ってい たのかという側面から検証しようとする試みであ る。なお,「非イギリス人」という言葉は,本稿 で使用する史料の内容に規定され,日本人とアメ

* 経済学科教員

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リカ人を限定的に指す言葉として使っている。

在華イギリス企業の営業活動に協力する「英語 を話す中国人」が最も利用した「不平等条約」特 権とは,輸出子口半税特権並びにイギリス籍会社 登記制度に含まれた株主の有限責任(limited lia- bility)であった。この2つの「不平等条約」特 権中,中国社会により深刻な影響を及ぼしたのは 後者であった。なぜなら清朝政府は輸出子口半税 特権を無効にすることに成功したのに対し,後者 については 1906年の破産律撤回によって自己の 能力の限界をさらけ出してしまったからである

イギリス帝国主義による中国経済支配という旧 説に依拠して見るならば,在華イギリス企業の営 業活動に出資協力する「英語を話す中国人」の出 現は,イギリス側にとって極めて好都合だった筈 である。しかし,当時のイギリス政府当局・香港 政庁は「英語を話す中国人」を必ずしも好感視し ていなかった。なぜなら「英語を話す中国人」は イギリス本国会社法,もしくは香港会社法令を利 用して偽装イギリス籍会社を設立登記する一方で,

同法令が義務づける財務監査を拒否して乱脈経営 を続けたからである。

この問題に対するイギリス側の対応は,1897 年にソールズベリ首相が在華外交官に出した通達 に始まる。この通達によって,イギリス国籍取得 者が経営取締役,株主の過半数を占め,資本金の 半分以上がイギリス国籍取得者の財産でない会社 は,イギリス籍会社としての保護認定資格を得ら れないことになった。ところが,この通達には上 海最高法廷判事から法体系上実行困難でがあるこ とが指摘された。すなわち,営業活動拠点を香港 政庁の法管轄権区域内とするならば,たとえ経営 取締役,株主,資本金所有者の過半数が中国人や 非イギリス人の会社であっても正規のイギリス籍 会社として登記認定され得ることが,イギリス商 船条例(the Merchant Shipping Act of 1894)

によって規定されていたからである。この規定は,

船舶保護法を欠いていた当時の中国の内陸水系を 航行するイギリス籍船舶を保護するのに不可欠で あった。しかしその代償として,この法的不備に 乗じて香港で登記手続きを済ませた後,中国本土 に営業拠点を移す偽装イギリス籍会社を続出させ るきっかけをも生み出したのである

以上の理由から偽装イギリス籍会社の設立登記

の阻止が技術的に不可能でも,その経営者の乱脈 経営だけは阻止しなくてはならない。そのための 法規制が,1910年の香港会社法令(以下,「香港 会社法令[1910]」と表記する)である。香港会 社法令(1910)の特徴は,この時の制度改正によ って経営者の株主に対する債務補償責任を厳格化 し,経営悪化に陥った場合の株主に対する経営者 側の説明責任を義務づけたことにある。さらに香 港会社法令(1910)を上海租界にも適用すること を定めた枢密院令草案が 1912年に作 成 さ れ,

1915年 に 発 令 さ れ た(以 下,本 稿 で は こ れ を

「一九一五年枢密院令」と表記する)

「一九一五年枢密院令」は,在華イギリス籍会 社の登記申請資格をより厳格にし,さらにその登 記管理体制上海租界にも拡張した点で画期的な意 義を持つ。その骨子を簡単にまとめると次のよう になる。① 取締役と監査役の過半数,そして社 主,清算人,受取人全員がイギリス国籍保有者で ある会社のみ登記資格を有する。② 香港政庁の みならず上海総領事館内にも会社登記所を設置し,

両者の間で登記書類の正本と副本を交換させる。

③ 香港並びに上海最高法廷双方が本国,香港以 外の海外領土で設立登記手続きを済ませたイギリ ス籍会社に対する法管轄権を持つ

しかし,それでも偽装イギリス籍会社問題は解 決せず,イギリス政府は 1919年と 1925年の2回 にわたって枢密院令の改訂を余儀なくされた。こ の間の事情をイギリス政府当局者の側から記録し た史料は,イギリス国立公文書館(the National Archives)所蔵の外務省文書の中に残された「会 

社登記制度(Company Registration System)」

と題する3巻の領事報告(FO228/3230‑3232)

及びその補足文書ファイル(FO671/448)であ る。本稿はこの4巻の文書及び当該時期の『ノ ース・チャイナ・ヘラルド』(The  North-China

Herald

以下

NCH

と略記)に掲載された関連記

 

事に依拠して,「一九一五年枢密院令」発効から 南京政府成立前夜にかけての時期の偽装イギリス 籍会社問題と,これに対するイギリス政府側の対 応を扱うが,その際設定した課題は以下の通りで ある。

第1の課題は,言うまでもなく「一九一五年枢 密院令」発効にもかかわらず,偽装イギリス籍会 社はなぜなくならなかったのかという疑問である。

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この点と関連する第2の課題は,イギリス政府が 行った法制度改正が,現実の英中関係にどのよう な影響を及ぼしていたのかという問題である。さ らに,イギリス政府による枢密院令の改訂は英中 両国関係のみならず,対中国投資をめぐる英米関 係にも大きな影響を与えていた。それがいかなる 内容であったかを明らかにすることが第3の課題 である。

1. 一九一五年枢密院令」の限界

一九一五年枢密院令」によって香港会社法令

(1910)の適用範囲は香港のみならず上海租界に も及ぶようになった。これに伴って,在華イギリ ス企業は登記先を香港政庁にするか,あるいは上 海領事館内に設置された登記所にするかによって Hong Kong China Company (以下,本稿では 便宜上「香港登記在華イギリス会社」と表記す る)あるいは China Company (以下,同様に

「上海登記在華イギリス会社」と表記する)と分 類されることになった。前者は香港で営業活動を 行うため,これまで通り香港会社法令の統制下に 置かれた。これに対し,後者は上海最高法廷と上 海登記所の統制下に入り,登記書類原本はもとよ り年次報告や担保に関する情報は全て上海登記所 で分類保存されることになった

だが「一九一五年枢密院令」発効から2年が経 過しても偽装イギリス籍会社は跡を絶たなかった。

イギリス外務省領事報告は,香港域外で営業活動 を行い,従業員が誰一人として香港域内に滞在し ていない企業が数多く設立登記されていたことを 報告している。それによれば,「一九一五年枢密 院令」発効後もまだ8社が日本で営業活動を行い,

15社がそれ以外の海外で営業していたという。 この他にも他地域での脱税手段に利用している例 が報告されていた。一方上海では,資本も経営 も完全に中国人が掌握していながらイギリス籍会 社としての地位を利用して,アヘン運搬のような 非合法活動を行う会社が報告されている。それに よれば,中国当局がこうした会社を摘発しても,

従業員が自分たちはイギリス籍会社の社員である と言い張って中国の法管轄権に従おうとしなかっ

たという。さればと言って,イギリス側裁判所が 代わってこうした会社を告発しても,責任あるイ ギリス人経営者がいないので,訴訟手続きには多 大の困難を伴った 。中でも「一九一五年枢密院 令」の不備を突いた顕著な事例として問題にされ たのは,次のような3つの事例である。

例 1. J. A. W attie & Co.

同社は,清末以来上海の富裕な中国人を顧客相 手として,さまざまな金融投資活動を行っていた 在華イギリス商人が所有経営する会社である。彼 は辛亥革命前夜に起こった東南アジアゴム株式投 機ブームに際して少なからぬ中国商人,金融機関 に融資を行い,しかもその債権回収に当って並々 ならぬ手腕を発揮したことで知られていた 。彼 は自分の会社を香港会社法令(1910)に基づいて 設立法人化し,登記された事務所を香港に設置し た。しかし,その事業活動の大半は中国本土で行 われており,実際の本店は上海に置かれていた。

同社の法律顧問,ダンカン・マクニール(Dun- can McNeill)によれば,同社の経営は,4名か らなる取締役会議(全員がイギリス人)が決定し ていた。同社の取締役中3名はロンドンに在住し,

残る1名が会社から代理権を委ねられて中国に滞 在し,その権限はロンドンの取締役会議からの電 報による指示で,いつでも剥奪可能となっていた という 。しかし,それは建前にすぎなかったろ う。実際は,このような経営組織形態をとること によって同社は,「一九一五年枢密院令」で規定 された「香港登記在華イギリス会社」でもなけれ ば「上海登記在華イギリス会社」でもなくなって いたからである。

ワッティーがこのように手の込んだ細工を施し た理由は,同社の経営や中国人顧客の資産運用の 実態を上海最高法廷に把握されないためだった。

果たして同社の実態に疑念を抱いたフレイザー

(Hugh  Fraser)上海領事は,支配人(resident director)であったデビッドソン(W. S. David- 

son)とマクニールを呼び出し,同社の経営形態 に関する詳しい説明を求めた。両名は,同社が 1916年に新しい約款を制定し,同社がロンドン の取締役会議からの指示統制に従うという形式を とることで,「上海登記在華イギリス会社」とし ての義務を免れようと図っていたことを白状させ

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られた 。

そればかりか,この時の事情聴取により,同社 が香港に設置した事務所の法的根拠もあいまいで あることも明るみに出てしまった。同社が実際に,

ロンドンの取締役会議で下された意思決定に従っ ていることを理由に「上海登記在華イギリス会 社」としての資格を取り消されるためには,上海 最高法廷の同意をとりつけることが必要だった。

しかし,同社はこの同意もとりつけておらず,その 主張には法的根拠がないことも明らかになった 。 結局,ワッティー自身を含む取締役5名中,4名 が上海に居住し,登記先を香港から上海に移転す ることを承諾させられて,この問題は解決した 。

例 2. 華安合群股份有限公司(China   United Assurance Society Ltd.) 

ワッティーが自分の所有経営していた会社の実 態を上海最高法廷に知られまいとしてとった行為 は決して例外的なものではない。当時の中国には,

外国籍機関投資会社の資本金,経営者,事業内容 を監視統制する制度が根本的に欠落していたため,

素性の怪しげな機関投資家が少なくなかった。こ うした会社の典型例が火災海上保険会社である。

その経営者は,自らの経営基盤を上海最高法廷に 察知されまいとさまざまな奸策を弄した。この問 題を違った角度から説明しているのが,華安合群 股份有限公司設立に対する在華イギリス人,ヒュ ーズ(A.J.Hughes)が『ノース・チャイナ・ヘ ラルド』に寄せた投書と,これに対する同紙の論

説である。ヒューズによれば,この問題は 1910 年の「ゴム株式」恐慌の煽りを受けて倒産した数 件の銭荘経営者と,社名不詳の外国企業の中国人 従業員(a Chinese ex-policy clerk)が設立した

「延年公司(the Home Life Assurance Co.)」と いう保険会社の倒産事件を発端としていた。同社 は業務遂行に必要なあらゆる条件が完全に欠落し ており,当然ながら多くの被害者を出して倒産し たらしい。辛亥革命前後の中国社会では,公衆と 契約を交わし,その資金を運用する会社の財務状 態を監査する法制度は存在していなかった。その ため,延年公司のように経営基盤の不確かな保険 会社が雨後の筍の如く設立されていたのである。

その具体例が「一九一五年枢密院令」発布後に 香港で設立登記された,火災海上保険会社である。

表1はその一覧である。表1の備考欄は,この中 の1部が上海に移籍したことを記している。偽装 イギリス籍会社の財務監査が香港より困難だった 上海であれば,経営基盤の不確かな火災海上保険 会社がもっと多かったであろうし,それらが引き 起こす弊害の大きさは容易に想像がつく。

華安合群股份有限公司の設立を目の当たりにし たヒューズは,同様な事件が起こることを危惧し,

北京政府に対して保険会社の実態を監視審査する 体制を樹立することの必要性を指摘し,農商務省 の官僚に何回か書簡や口頭で注意を促した。その 結果,彼は生命保険会社を統制する法案の起草に 参加するよう要請され,実際に法案は作成された が,袁世凱政権の崩壊によって実施されないまま

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であったという。そのため,ヒューズは在華外国 人保険数理士に対して,同法案の運用に協力する よう『ノース・チャイナ・ヘラルド』への投書に よって呼びかけたのである 。

だが『ノース・チャイナ・ヘラルド』の論説主 幹は,ヒューズとは対照的に,北京政府の制定し た保険会社登記制度の効果には疑問を提起してい た。というのも,現実に何人かの中国政府高官が その名義を貸し与えていた保険会社が設立運営さ れていたからである。そのため,上海で営業する 保険会社に対する財務監査を含む統制は工部局

(the Municipal Council)が行うべきであると反 論して譲らなかったのである 。

経営基盤の不確かな火災海上保険会社を排斥す る動きも,香港側から本格化した。香港政庁は,

1917年に火災海上保険会社条例(the  Fire  and Marine Insurance Companies Ordinance, 1917) 

を制定し,今後香港で設立登記を済ませた火災海 上保険会社は,預託金 10万両を登記所に拠出さ せ,最小限の資金的裏付けを義務づけた 。とこ ろが,この法制化過程で,「一九一五年枢密院令」

には,香港火災保険会社条例の規定を,上海で営 業する火災海上保険会社に適用する規定が欠落し ている,という重大な欠陥が明らかになったので ある 。

「一九一五年枢密院令」の不備が明らかとなっ ても,在華イギリス政府当局は,香港登記イギリ ス籍会社を偽装した中国人設立の火災海上保険会 社の保護拒絶の態度に変りはなかった。その例が,

漢口イギリス租界で営業活動を行っていた金星水 火保険有限公司(the Venus Fire and  Marine Assurance Co. Ltd.)である。 

同社は 1918年6月 26日,経営不振から倒産し,

債権者の訴えにより中国側地方裁判所が漢口イギ リス租界の外にある社屋を差し押さえた。これに 対して同社は,自社がイギリス籍企業であるから,

同社資産はイギリス裁判所の管轄下に置かれてい ると主張して判決に従おうとしなかった。

金星水火保険有限公司の主張に対して中国側裁 判所は次のように反論した。それによれば,同社 は,明白な中国企業である,金星人壽保険有限公 司(the Venus Life Assurance Company Ltd.)

と社屋を共有し,同社の経営傘下にあった。しか も同社の銘盤には「中国」という文字が銘打って

あり,逆にイギリス籍会社であることを示す表示 はどこにも記されていなかった。さらに同社の広 告には,「愛国同胞」という言葉が書かれている。

このような言葉は在華イギリス籍会社の広告の中 に絶対使われない。地元の華字新聞に掲載された 広告の中にも,同社がイギリス籍企業であるとは 一言も記されていない。漢口の中国人被保険者向 けの保険料書類の 1916年版にだけは,例外的に 同社がイギリス籍会社であると書かれていたが,

最新版にはそのような記述がない。そして決定的 に重要なことは,同社の経営者全員が中国人であ り,資本金も全て中国人の財産だったということ である 。

上海イギリス領事館のその後の調査によれば,

金星水火保険有限公司は上海からの指令を受けて 営業を行う中国籍会社であり,登記書類によれば,

7名の取締役中4名がイギリス人,3名が中国人 であった。しかもイギリス人とは名ばかりで,全 員が香港籍華人であり,その1人李茂之は,金星 人壽保険有限公司の総𥡴であった 。この調査報 告を確認した漢口イギリス領事館は,同社に対す る保護を撤回することを北京のイギリス公使館経 由で本国外務省に提案した 。だが,この提案を 了承した本国外務省からの保護取消命令が届く前 に,同社は自主解散を決定した。この措置に伴っ て中国人株主が外国人株主から同社の株式を譲り 受け,同社を中国政府に登記申請したため,この 事件そのものも解決した 。この事件は,上海側 でも偽装火災海上保険会社取締りのための法的措 置が必要であることをイギリス政府当局に強く認 識させるきっかけとなった。

例 3. 鴻安商輪船股份有限公司(the Hoong On Steamship Company) 

同 社 は,1910年 2 月 7 日 に 香 港 会 社 法 令

(1910)に基づき,香港登記在華イギリス会社と して設立登記された,上海と漢口間を往来する客 船,貨物船を運航する航運会社である。しかし総 発行株式 3000株中,イギリス人株主が保有して いたのは 165株に過ぎなかった。イギリス人株主 の保有株式は5年後の 1917年には 325株,翌年 には 1129株に増えたとはいえ,過半数に達して いなかった。さらに,その後の調査で,同社の経 営取締役の過半数が,上海英米租界,漢口イギリ

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ス租界内に居住していなかったことも判明した 。 鴻安商輪船股份有限公司に限らず,当時の長江 水系には,こうした偽装イギリス籍航運会社が少 なくなかったらしい。表2は,宜昌のイギリス領 事館が行った長江上流域で操業する偽装イギリス 籍航運会社の一覧である。

以上の事例から香港・上海最高法廷による財務 監査,経営掌握を免れようとする偽装イギリス籍 会社の経営者の本音が浮かび上がってくる。彼ら にとって香港もしくは上海登記イギリス籍会社の 地位は,中国人債権者から資産を守るための手段 以外の何ものでもなかった。彼らはこの手段を利 用できる代償として,自分たちの経営実態を,香 港政庁やイギリス総領事館に把握されるつもりな ど毛頭なかった。一方,在華イギリス政府当局は もとより本国外務省も,偽装イギリス籍会社を設 立登記する中国人,彼らと結託する在華イギリス 商人をこれ以上放っておく意思はなかった。イギ リス外務省は 1917年 11月 22日,枢密院令が効 力を持つ範囲内に定住するイギリス国民以外は,

香港・上海登記イギリス籍会社の経営者もしくは これに準じる地位に就けなくするよう「一九一五 年枢密院令」を改正する提案への上海総領事の意 見を求めている 。これに対してフレイザー総領 事は,毎年3カ月以上枢密院令が効力を発揮する 範囲外に居住するイギリス人を「定住者(resi- dent)」としての資格を与えないことを条件に提 案に賛意を表明している 。

外務省内での意思統一を踏まえ,「一九一五年 枢密院令」を修正した新枢密院令は,1919年 10 月9日にバッキンガム宮殿から発令された(以下,

これを 一九一九年修正枢密院令」と表記する) 。 言うまでもなく,「一九一九年枢密院令」の要点 は,J.A.Wattie& Co. 並びに鴻安商輪船股份有 限公司で明らかになった,「一九一五年枢密院令」

の盲点是正にあった。すなわち,上海登記イギリ ス籍会社の経営者は,「一九一九年枢密院令」の 効力の及ぶ空間内に居住するイギリス人のみに限 定されることとし,これに違反した会社及びその 経営者,取締役は違反期間1日当り 50ドルの罰 金が科せられ,それにも従わなかった場合は,上 海最高法廷から解散命令が出されることになった。

次に上海登記イギリス籍会社中,火災海上保険会 社は,香港で制定された火災海上保険会社条例の

対象になり,その執行責任者は香港総督ではなく,

上海総領事であると規定した。これによって上海 で設立登記された火災海上保険会社は,香港のそ れと同様,預託金 10万両を上海総領事館内の登 記所を経由して香港政庁財務局に預けることを義 務づけられ,違反した会社には最高で 200ポンド の罰金が課せられることになった。

「一九一九年修正枢密院令」は,1920年1月 1日から発効した。この制度改正によって,清末 以来在華イギリス領事裁判所,上海最高法廷を苦 しめてきた,偽装イギリス籍会社の多くが解散に 追い込まれた。表1や表2は,その1例である。

しかし,この制度改正は,思いもよらぬ副作用を 引き起こすことになった。それは,次節に示すよ うに,日本人やアメリカ人がイギリス人,中国人 と共同で設立した,経営基盤の確かな「イギリス 籍会社」の存続を脅かしたからである。

2. 一九一九年修正枢密院令」の副作用

一九一九年修正枢密院令」によって経営組織 再編を迫られたのは,以下に紹介する二つの英日 もしくは英米合 会社である。それらは他の偽装 イギリス籍会社とは異なり,業績も順調であった ため,上海経済界に大きな波紋を引き起こした。

特にこの問題をめぐる在華アメリカ商人の反発は 凄まじく,その後のアメリカの対中国経済政策の 根本的な立て直しにつながることになった。

2.1. 上海紡織会社(the Shanghai Cotton Manu- facturing Co. Ltd)事件

同社は,1895年に楊樹浦で設立された中国人 経営の紡績会社,裕晉紗廠を起源とする。その後,

1897年に欧米資本によって協隆紡績会社(Yah Loong Cotton Spinning Co.)に改組されたが, 

同社は株主に1回も配当を出せぬまま,1901年 末に主たる融資元だった露清銀行によって競売に 付された。これを買い取った周熊甫は,興泰号と いう棉花商店を経営する商人だった。周熊甫は買 い取った工場を興泰紗廠として経営したが,興泰 号の破産により興泰紗廠は 1902年夏,再度競売 に付され,今度は三井物産の山本条太郎が中国人

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綿糸商公信,呉仲記,大豊と協同でこれを買収し た。山本は,同年 12月に香港政庁にイギリス籍 会社として登記手続きを申請し受理された。この 時点での同社の取締役は,山本の他に,ホレーシ ョ・ロバートソン(Horatio Robertson),印錫 章,呉麟書の4名である。三井物産は,1903年 3月から同社への1部出資と,営業上の責任を負 わない形での代理店(agent)引受けを承認した。

同社の事業はこれを境に好転し,経営は軌道に 乗った。1906年には大純紗廠を買収し,三泰紡 績会社を組織し,さらに 1908年に上海紡績と合 併し,ここに上海紡織会社が誕生した。同社の資 本金 100万上海両は,額面 50両の株式2万株を 発行することで調達し,三井物産が引き続き代理 店となった。表3に示す通り,同社は 1920年ま で怡和紗廠に次ぐ高配当を続け,1914年には株 式を追加発行し資本金を 200万上海両に増やし,

設備拡張を続けていた 。当時の登記書類によれ ば,上海紡織会社の経営取締役は,プレンティス

(J.Prentice),モリッス(H.E.Morriss),ダイアー

(W.H.N.Dyer),ノダイラ(Michio Nodaira),

オータニ(Kyosuke Otani)の5名であり,その 代理人兼総支配人は,三井物産となっていた 。

同社の取締役の過半数は,「一九一五年枢密院 令」はもとより「一九一九年修正枢密院令」が有

効な空間内に居住するイギリス人ではなかった。

そのため,マシューズ(F. N. Matthews)を代 表とするイギリス人株主は 1920年2月 11日,同 社の経営権をイギリス人に移行し,同時に同社の 経営実態を帳簿に基づいて公開することを同社取 締役会議に迫った。上海紡績会社取締役会議はこ れに対抗して2月 14日,3月1日に臨時株主総 会を開催し,同社事業の一切を三井物産に売却し,

新会社に組織替えをする通達を発表してこれに対 抗した。三井物産もまた2月 16日に同じ趣旨の 通達を出した。

実質はともかく,上海紡織会社は登記書類上で は,香港登記イギリス籍会社ということになって いる。したがって三井物産が経営の実権を掌握し ているのは,明らかな「一九一九年修正枢密院 令」違反になる。イギリス人株主が,登記書類に 基づいて同社の経営権をイギリス人側に取り戻そ うと試みたのは,法手続き的には全く正当な措置 である。彼らは同社取締役会議が,株主側の要求 を無視して同社の事業資産の全てを三井物産に売 却しようとす る の は 明 ら か な 定 款 違 反(ultra vires)であると主張し,その差し止め請求訴訟 

を上海最高法廷に起こした。これに対して上海紡 織会社取締役会議側は,株主の大半は同社の経営 権委譲を望んでおらず,そのため株主の権利を混

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乱させることなく会社組織を温存させるためにも,

同社を「一九一九年修正枢密院令」の規定対象外 にすることは必要だと主張して全面的に争う構え を見せた 。

この訴訟は原告側勝訴で終わったにもかかわら ず,三井物産は4月9日に上海紡織会社の臨時株 主総会開催を強行し,同社の自主的解散を発議し た。議案は賛成2万 4053株,反対 5812株で可決 採択され,三井物産はこれを踏まえ,トムプソン

(N. Thompson)とウィルキンソン(E. S. Wil- kinson)を清算人に指名した 。イギリス人株 主 側 は,こ れ に 対 抗 し て,今 度 は バ レ ッ ト

(Frederick James Burrett)を代表に立てて同社 の経営実態,資産状況の公開を重ねて迫ると同時 に,自 分 た ち が 推 薦 す る ロ ス(Eric  Munro Ross)を清算人の1人に追加することを臨時株 

主総会で提案した。彼らの提案は,いずれも否決 却下された。そこで今度は同社の解散を要求する 訴訟を引き起こした。しかしその訴訟審理の過程 で,同社の経営が好調で,もしここで解散命令を 出したりすれば,大量の失業者が発生しかねない こと,イギリス人株主の一団が独力で同社の経営 を存続する力のないことが明るみに出た 。ここ に原告側は,これ以上の争いは無益と悟り,訴え を取り下げた 。その後同社は自主解散の後,資 本金 400万上海両の日本籍会社として再出発する

ことになり,旧株主は旧株式1株と引き換えに額 面 50両の新株2株を受け取る権利を有すること が特別株主総会で正式に議決された。

この訴訟を背後から操っていた黒幕は,山本条 太郎が興泰紗廠を周熊甫から買い取った当時,同 社の取締役の1人だった,ロバートソンであった と思われる 。現存する史料には経緯が一切記さ れていないが,彼は何らかの理由から山本や三井 物産と衝突し,1914年までの間に取締役を解任 されたと推測される 。そこで彼は,「一九一九 年修正枢密院令」発令の機会をとらえ,他の株主 を唆して訴訟を起こし,あわよくば同社の経営の 実権を奪い返そうと目論んだのではなかろうか。

この仮説を間接的に裏付ける証拠が1つある。上 海紡織会社が日本籍会社に移行した直後,ロバー トソンは自分が所有していた旧会社の株式 2052 株を新会社の株式 4104株に引き換えるよう請求 している。これに対して新上海紡織会社はロバー トソンの請求を裏付ける証拠書類も株式も一切存 在していないと回答しているのである 。恐らく 会社組織の再編成に伴う書類整理の機会を利用し て,三井物産と上海紡織会社は,かねがね仇敵視 していたロバートソンを放逐するために敢えてこ のような措置に出たのであろう。

上海紡織会社事件は,条約港社会に於ける在華 イギリス商人の凋落ぶりを暴露した画期的な事件

(9)

である。在華イギリス企業,商人は第1次世界大 戦終了後の中国では,ジャーディン・マセソン商 会や香港上海銀行,開 礦務総局といった特権的 大企業を除けば,独力で会社を設立経営する力が なくなっていた。それには「英語を話す中国人」

や,日本人のような,非イギリス人の協力が不可 欠になっていた。ところがこれが,「一九一五年 枢密院令」,「一九一九年修正枢密院令」の施行に よって不可能になったため,己の無力をさらけ出 すことになったのである。このことをより直截に 物語っているのが,次項にみるアメリカとの合 会社をめぐる問題である。

2.2. 在華アメリカ人の反発とアメリカ政府の 対応

イギリス外務省領事報告に残された文書から見 る限り,「一九一九年修正枢密院令」に対して最 初に反発を示したのは在華アメリカ人実業家であ る。当初,イギリス側はアメリカ側の反発を軽視 していた。たとえば上海イギリス商業会議所(和 明公所)は,アメリカ人商業会議所会頭から「一 九一九年修正枢密院令」撤回要求を突きつけられ ても,この修正枢密院令は在華イギリス企業をイ ギリスの法体系下に置くために必要な措置にすぎ ず,特定国の人間を排撃する意図はないと素っ気 無い回答をしていた 。

北京のイギリス公使館も,事態を楽観視してい た。アメリカ人商業会議所の反対運動を扇動して いたのは,偽装イギリス籍保険会社の1つ,華洋 人壽保険公司(the  Shanghai   Life  Insurance Company)の経営取締役だったパーカー(Par- 

ker)という悪名高いアメリカ人だったからであ る。イギリス公使館の調査によれば,偽装イギリ ス会社として登記手続きを済ませていたアメリカ 人事業組織は7,8社に過ぎず,しかもその中で 正真正銘のアメリカ企業の名に値するのは3社に 過ぎなかった 。

だが,ほどなくしてイギリス側は,「一九一九 年修正枢密院令」が中国における英米両国権益に 重大な影響を及ぼしかねない問題を引き起こして いたことに気が付いた。それは,英美煙公司中国 現地法人(British American Tobacco[China]Co.) と祥泰木行有限公司(The China Import and Ex- port Lumber Co.Ltd.)という,正真正銘の合

企業の経営組織に重大な影響を及ぼしていたから である。

英美煙公司は,1902年にイギリスで設立され た多国籍企業である。中国での営業活動は,小規 模な輸入,生産事業を行った後,生産事業部門を 英国煙公司(British Cigarette Co.)として香港 で登記手続きを済ませ,自社製品販売と輸入部門 は同社の中国現地法人が担当していた。同社中国 法 人 だ け で も,約 500名 の 外 国 人 社 員 を 含 む 1000名の従業員を雇用する大企業である。その 中には,アメリカのヴァージニア州や北カロライ ナ州から招聘したタバコ栽培の専門家が多数含ま れていた。彼らは,ヴァージニアタバコの種子と ともに資金を農民に融資してタバコ葉の加工小屋 も建設させた。同社の生産事業に必要な専門的知 識は専らこのアメリカ人技術者に依存しており,

その総責任者は英国煙公司の支配人を兼ねるアメ リカ人(氏名不詳)であった。

さらに,英国煙公司はハルビンで事業を営むロ シア人,ロパト(A. Lopato)の経営する老巴奪 有限公司(A. Lopato Sons Ltd.)の経営権を取 得し,1919年に英美煙公司中国現地法人は上海 登記イギリス籍会社となり,英国煙公司を子会社 化した。一方老巴奪有限公司の全従業員は,ロパ ト を 支 配 人 に 戴 い た ま ま,中 華 聯 合 煙 草 公 司

(The Alliance Tobacco Co.of China Ltd.)の社 員とされ,これも英美煙公司中国現地法人の系列 下に収まることになった 。

もし「一九一九年修正枢密院令」が字義通りに 施行されれば,中国に於ける英美煙公司の経営組 織は存続困難になる。アメリカ人支配人に率いら れたタバコ栽培技術者やロパトに経営を大幅に依 存していた英美煙公司中国現地法人は,ロンドン の本社を通じてイギリス本国政府植民省を通じて 外務省に働きかけ,事態の改善を要求した 。こ れを受けた外務省は,1920年1月から,北京の イギリス公使館に対して「一九一九年修正枢密院 令」を修正することなく,英美煙公司の経営組織 に打撃を及ぼさない方法を模索するよう調査を命 じた 。

これとほぼ時を同じくして,英美煙公司中国現 地法人代表のアチソン侯爵(Viscount Acheson)

とケネット(William B.Kennett)は,北京イギ リ ス 公 使 館 に 新 任 の マ イ ル ス・ラ ム プ ソ ン

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(Miles Lampson)公使を訪ね,打開策を協議し ている。英美煙公司側はこの席で1つの提案を非 公式に行った。それは,本国政府が追加枢密院令 を発布し,上海登記イギリス籍会社が一定の条件 下に限って非イギリス人を支配人に雇うことを許 可する権限をイギリス公使に与えるというもので あった。さすがに一私企業の提案に基づいて一国 の方針転換を決定する訳にはいかないので,本国 外務省と外務大臣には公使館からの提案という形 式にして電信と書簡で伝えられた 。

しかしこの提案には,上海総領事館及び上海最 高法廷が強く反対した。もしこのような制度改正 によって非イギリス人を支配人に雇うことを許可 してしまえば,「一九一九年修正枢密院令」は骨 抜きにされてしまうからである。両者は,英美煙 公司中国現地法人に対して登記先をロンドンもし くは香港,あるいはフィリピンに変更することを 暗に要求した 。その結果,英美煙公司中国現地 法人は 1920年4月,登記先を上海から香港に変 更し,併せて子会社である英国煙公司と中華聯合 煙草公司は,その工場設備を親会社である英美煙 公司中国現地法人に売却し,これに伴って同社の 経営取締役全員も上海から香港に移住することを 決定した。この措置によって同社の中国本土各地 の非イギリス人支配人は,香港の取締役会議の統 制下に置かれた販売部長と位置づけられることに なり,「一九一九年修正枢密院令」との抵触問題 は解決した 。

英美煙公司中国現地法人とともに,中国での事 業活動をめぐって英米両国間に深刻な対立を引き 起こしたもう1つの会社は,祥泰木行有限公司で ある。同社は,アメリカ西海岸産木材の輸入販売 業務を行う会社で,中国各地に支店を有していた。

各支店支配人の業務は,総支配人であるアメリカ 人のカール・ザイツ(Carl L. Seitz)の指揮下に 置かれていた。そのザイツも通常の業務を越える 件については,取締役会議(全員イギリス人から 構成される)の指示を仰ぎ,同社発行の小切手と 重要書類には,ザイツの他に取締役の1人の署名 が必要だったという 。このような経営組織形態 から見て,同社が正真正銘の在華イギリス籍会社 であったことは疑いない。

にもかかわらず,「一九一九年修正枢密院令」

が施行された結果,同社は,ザイツを解任し,そ

の経営権を安利洋行(Arnhold  Brothers   Co.

Ltd)に移譲することを余儀なくされた。ザイツ はアメリカからの木材輸入取引に知悉した優秀な 人物であり,いかにその解任が法律上やむを得な いものであったとしても,同社の経営に大きな痛 手となったことは否定できなかった 。そのため,

同社の親会社でオレゴン州ポートランドにある Dant & Russell Incorporation から「一九一九年 修正枢密院令」を再修正して,上海登記イギリス 籍会社の取締役会議議長が,枢密院令の効力範囲 内に居住するイギリス国民であるならば,それ以 外のいかなる人間を取締役に就任させ,あるいは 業務の総括的な統御を行わせても構わないように できないかと打診されている 。だが,ワシント ン,ロンドン,北京経由で届けられたこの要求に 対しても,フレイザー領事は頑として応じようと しなかった 。

上海イギリス総領事館としては,「一九一九年 修正枢密院令」を厳格に施行することで,偽装イ ギリス籍会社問題を解決することが最優先課題だ ったため,英美煙有限公司中国現地法人や祥泰木 行有限公司のような事例を軽く考えていたのであ ろう。事実,この修正枢密院令の効果は大きかっ た。並みいる在華外国企業が,1920年を境に経 営組織を再編成し,買 や非イギリス人支配人を 取締役会議の厳格な統制下に置き,彼らの裁量権 を著しく制限するようになっていたことが,最近 の研究によって裏付けられているからである 。

だが,中国から遠く離れたアメリカ本国には,

こうした事態は正確に伝わらなかった。在華アメ リカ商人やアメリカ本国の実業界の目には,「一 九一九年修正枢密院令」とは,自分たちの中国で の事業活動やイギリス企業との協力関係を損なう 敵対行為と映ったのである。そのため,1920年 後半以降,ワシントンのアメリカ議会では在華ア メリカ人事業組織の登記制度問題が大きく取り上 げられることになった。

2.3. 中国貿易法(China Trade Act 1922)の 制定

わずか2社の例外的な事例にアメリカ側が極端 なまでの反発を示した背景には,第1次世界大戦 を契機に飛躍的に拡大した中米経済関係と,それ に比べてあまりに貧弱だった在華アメリカ籍会社

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登記制度という現実がある。この時期のアメリカ 側の動向は,1920年6月から 1922年の中国貿易 法制定と3年後の改訂に至るまでアメリカ議会上 下両院に提出された文書及び上院司法委員会の聴 聞会記録によって詳しく跡付けることができる。

聴聞会の記録文書は,ワシントンのイギリス大使 館から北京のイギリス公使館に送られており,こ れがイギリス外務省領事報告(FO228/3230)に 収録されている。

「一九一五年枢密院令」発布から「一九一九年 修正枢密院令」発布までの4年間に,中米両国間 の貿易規模は急拡大し,中国の対外貿易全体の中 にアメリカが占める割合は 17%に達し,これに 伴って在華アメリカ企業の数も 48社から 313社

(1920年)へと飛躍的に増加した。しかも,当時 の中国実業界は,イギリス政府による自国会社登 記制度の厳格化に加えてドイツの敗戦,山東問題 をめぐる日本に対する失望の反動から,かつてな いほどの親米感情の高まりを見せていた。

ところが,競争相手である在華イギリス,日本 企業に比べて在華アメリカ企業は,制度面で2つ の難点を抱えていた。第1に,当時のアメリカ本 国の会社登記制度は 48の異なる州法下に置かれ ており,その中には好ましからぬ事業を認可する 州法もあった。第2に,競争相手のイギリスや日 本企業と違って在華アメリカ企業は,本国連邦政 府に対して所得税や過剰収益税(excess  profits taxation)納入を義務づけられていた。これでは, 

在華アメリカ企業と合 事業を設立することで自 国の工業化を促進しようとする親米的な中国人で さえ,イギリス企業もしくは日本企業を相手に合 事業を企画せざるを得なかった。それでも大戦 中は,イギリスやヨーロッパ大陸諸国系企業との 競争を気にする必要がなかったから,在華アメリ カ企業は連邦政府に納める所得税や過剰収益税に 文句を言わなかった。ところが戦争が終わり,イ ギリスやヨーロッパ大陸諸国系企業との競争再開 に及んで状況は一変した。在華アメリカ企業は,

中国市場に於いて他国企業と同じ税制基盤に立つ 必要性を痛感するようになったのである 。

以上の難点を回避するために,在華アメリカ企 業は従来,香港会社法令に依拠して香港登記,も しくは上海登記イギリス籍会社の資格を獲得して いた。この方法は,同時に在華アメリカ企業に猜

疑心を抱きがちなイギリスの銀行からの信用供与 を得る上でも好都合だったという。ところが,

「一九一九年修正枢密院令」の施行により,イギ リスの会社登記制度を利用することは不可能にな った。このような情勢の変化を受けて,天津アメ リカ商業会議所,上海アメリカ総領事エバーハー ト(Charles C. Eberhardt)等が音頭をとって,

在華アメリカ企業の登記制度の統一と税制上の不 備是正を連邦政府に求める在華アメリカ商人の証 言記録が集められ,1920年 12月 10日に下院司 法委員会の聴聞会に提出された 。その結果,

1921年4月に議会下院に提出され,審議修正の 後,翌年4月に議会上下両院を通過し,制定され たのが「中国貿易法(China  Trade  Act 1922, H. R. 4810)」である。

中国貿易法の主たる要点は,第2条から第4条 に集約されている。中国(本土,「満州」,チベッ ト,モンゴル,租借地,香港,マカオ)で事業を 行う目的で会社を設立する場合,その登記係は商 務省長官が任命した役員がこれを担当する。次に 会社設立者は,過半数のアメリカ市民を含む5名 以上の人間が必要であり,その定款,約款は商務 省が保管し,結成者中の最低1名はコロンビア特 別区内に住むことが要求された。次に授権資本の 最低 25%は現金で用立てられていなければなら なかった。さらに,中国貿易法の管轄下にある会 社は,手形割引その他あらゆる銀行,有価証券売 買業務が禁じられた。

同法の規制は3年後に緩和され,設立に必要な 人数は「5名」から「3名」に削減され,授権資 本の最低 25%が現金もしくは,取締役の保護下 にある現物もしくは個人資産でもよいことになっ た。ただ,その3名の氏名と住所が設立者として 表記され,事務所の存続期間中はアメリカ市民で あることが義務づけられているし,参入禁止業務 も「手形割引その他あらゆる保険金融業務及び航 運業務」に拡大されている 。

それでは,中国貿易法の制定施行によって,在 華アメリカ企業の立場はどこまで改善されたので あろうか。表4は,1922年から 1930年5月まで に中国貿易法の適用対象となった在華アメリカ企 業の数と資本金金額,解散した企業数を示したも のである。この時期から 1931年にかけてアメリ カは中国にとって最大の輸入相手国に成長したに

(12)

もかかわらず,同法の適用対象となっていたのは,

全在華アメリカ企業中のわずか7分の1にすぎな かったことが示されている 。

このことは,次のようなことを意味する。在華 アメリカ人実業家と手を組んで合 会社を設立し たがっていた,多くの「英語を話す中国人」にと って,中国貿易法の適用条件はあまりに厳格で,

彼らの資産保護に殆ど役に立たなかった。逆に資 本,在華アメリカ商人,実業家にとってもこの法 律は実に利用しにくかった。その結果,中国貿易 法に基づく登記手続きを行わないか,そもそも行 い得ない在華アメリカ企業ばかりが営業活動を行 うことになったのである。したがって,大半の在 華アメリカ企業は,自国の会社登記制度はもとよ り香港・上海のイギリス籍会社登記制度の保護を も当てに出来ない,きわめて不安定な地位の中で 営業活動を行うことを迫られた。多くの「英語を 話す中国人」実業家にとってイギリスの会社登記 制度やアメリカ企業は,資産保護手段としては最 早頼むに足らない存在であることに変わりはなか ったのである。

3. 一九二五年枢密院令」の制定

3.1. 偽装イギリス籍会社問題の再燃

在華日本・アメリカ企業との協力関係維持を困

難にし,さらにアメリカ政府の反発を引き起こす という高い代償を払ったにもかかわらず,「一九 一九年修正枢密院令」は,偽装イギリス籍会社を 完全に払拭できなかった。1920年代になって偽 装イギリス籍会社を設立していたのは,中国本土 に住む「英語を話す中国人」ではない。香港に在 住する裕福な香港華人実業家だった。彼らは,自 らの生命財産を安全な香港に確保しておける香港 籍華人としての地位を利用し,辛亥革命以降,広 東省の地方財政を掌握しようとして広東臨時政府 上層部に取り入っていたことが明らかにされてい る 。

彼らの中国本土進出の試みはこれだけにとどま ら な い。イ ギ リ ス 外 務 省 領 事 報 告(FO228/

3231)には,漢口イギリス領事館が作成した香港 華人実業家が設立した2つの偽装イギリス籍銀行 に関する記録が残されている。

第1の事 例 は,香 港 国 民 商 業 儲 蓄 銀 行(the National Commercial and Savings Bank)が支 

店開設用に漢口イギリス租界の土地の一角の租借 を申請し,却下された件である。それによれば,

香港国民商業儲蓄銀行は 1921年 11月 17日に香 港で設立登記された,資本金 200万ドルの銀行で,

上海登記イギリス籍会社としての登記手続きも済 ませていたことになっていた。ところが,イギリ ス総領事館の調査によってこれが虚偽であること が判明した。それによれば,同行は「一九一五年 枢密院令」が施行される2年前に登記手続きを行 っていただけの,典型的な偽装イギリス籍会社で,

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その取締役は,表5に示す通り,1名を例外とし て全て香港華人と中国系アメリカ人だったのであ る。

設立趣意書によれば,同行の主要業務は,「広 東もしくは香港以外のどこかで支払手形(demand draft)もしくは銀行券を発行し,これを広東も 

しくはそれ以外のどこかで流通させること」であ ったという。漢口イギリス領事館は,もし同行の 支店開設を許可し,発券業務を行わせれば,中国 での銀行券発券業務を混乱させかねないと危惧し た。ところが,同行は 1913年に登記手続きを済 ませた会社であり,いったん認められた登記申請 を撤回させることは法的に不可能であった。そこ で,漢口イギリス領事館は,苦肉の策として,イ ギリス租界の内部ではなく,租界内の華人地区で の滞在のみを許可した。すると同行漢口支店はこ の指示に従わず,租界外部に隣接する土地を確保 し,ここに支店を開設し,営業活動を開始したの である。困り果てたイギリス領事館は,本国大臣 からの訓令に従って,もし地元権力による強制徴 発が行われた場合でも,同行をイギリス籍企業と して一切保護せず,単に香港登記イギリス籍会社 であることを確認するだけにとどめると通知した

イギリス領事館の不安は2年後に的中した。当 時の漢口は,軍閥呉佩孚の支配下にあり,呉佩孚 は戦費調達の目的で,地元の中国系金融機関に対

して,1000万元相当の軍票の買い取りを強制し た。同行は,この要求に対して,自分たちがイギ リス籍会社であることを理由に徴発を拒んでいた。

同行のこのような主張がどこまで功を奏していた かは残された文書からはわからない。しかし,こ の事件が示すように,香港華人あるいは中国系ア メリカ人が設立した偽装イギリス籍会社問題がこ の時点になっても在華イギリス当局を悩ませてい た実態が浮かび上がってくる 。

もう1つの事例は,漢口旧ロシア租界の一角に 支店開設用の土地を購入し,所有権の移転を申請 した広東銀行(the Bank of Canton)の事例であ る。申請書によれば,同行も香港登記イギリス籍 会社,上海登記イギリス籍会社の資格を保有する ということになっていた。ところが,漢口イギリ ス領事館からの問い合わせに対して香港政庁は,

同行の取締役が全員中国人であり(表5,6参 照),外国為替部長はオランダ国籍を有する華僑 であること,取締役中4名はイギリスの出生証明 書を取得しているが,両親が中国人であると回答 してきた 。さらに漢口イギリス領事館の目を引 いたのは,同行が中国本土で銀行券発行業務を6 年も続けていたという事実であった。広東銀行が 漢口イギリス領事館に提出した書簡によれば,そ の発行総額 193万 1495ドルに対して,確実な兌 換準備金は1万 9337・37両と 56万 1000ドルに 過ぎなかったからである。

(14)

当時の香港では,国務大臣の許可を得ない限り,

香港内での紙幣発行は禁じられていた。ところが,

香港登記イギリス籍会社の資格を保有した銀行が,

中国本土で発券業務を行うことを禁じた法令は中 国側にもイギリス側にもなかった。中英両国の法 体系上の不備を突いて,中国本土で銀行券発券業 務を行う香港登記イギリス籍会社が少なくとも7 つ存在していたという 。こうした無責任な発券 業務を続ける香港華人が設立した銀行が万一経営 破綻に陥れば,被害を受けた中国人の憎悪は,こ うした銀行の設立を認めたイギリス側に向けられ る。漢口イギリス領事館から報告を受けた北京の イギリス公使館は,広東銀行の業務を規制し,イ ギリス籍会社としての保護を撤回するばかりでな く,香港登記イギリス籍会社の登記資格を有する 銀行による中国本土での発券業務を規制できるよ うな法改正を本国政府に提案している 。

どれほど枢密院令を修正し,中国人と非イギリ ス人による偽装イギリス籍会社を排除しても,香 港華人によるイギリス籍会社登記制度の濫用だけ は規制できない。困惑したイギリス側は,発想を 転換させて,これだけは正真正銘のイギリス籍会 社であると認定した会社に対し,そうであること が一目瞭然な漢字表記(漢訳字号)の会社名をつ けることを義務づけることで,問題の解決を図っ た。それが次節で述べる一九二五年枢密院令(以 下「一九二五年枢密院令」と表記する)である。

3.2. 一九二五年枢密院令」の施行

漢訳字号表記した自社名の前後に「英商」「有 限公司」といった表記を付けることで,偽装イギ リス籍会社ではないことを明記する手段を提案し たのは,和明公所であった。彼らが自分たちの提 案を法制化するために,1911年香港会社法令あ るいは 1915年香港会社法令の修正を上海総領事 に迫っていたのは,「一九一九年修正枢密院令」

が施行される以前からである。彼らの提案は,上 海総領事から香港総督に伝えられ,総督からも肯 定的な回答が寄越されている 。

しかし実際に和明公所が,自らの構想の実現に 向けて行動を起こしたのは,1921年 11月の定例 年次総会以降のことであった。この時採択された 決議文は,大英帝国各地で施行されている会社法 は,別名義の使用,同法に基づかぬ名義変更を禁 じており,このことから本国もしくは香港,上海 登記イギリス籍会社の名義に British もしく はこれに準じた表現を付け加えるよりも,社名の 跡に登記先の地名を明記させること,やむを得ず British もしくはこれに準じた表現を用いる場 合には公使の承認と許可を必要とすることを提案 していた 。

この提案は,イギリス公使館を経由して植民省 に伝えられた。その結果,香港政庁は,1922年 から 23年末にかけて会社法令を修正し,その第 2条第2項で,全ての香港登記有限責任会社は,

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その社名の漢訳名の後に「有限公司」を,さらに 中国本土で営業する場合は,漢訳名の前に「英 商」という表現を付けることが義務づける提案を 行った 。言うまでもなく,この法令改正の本来 の目的は,中国人,香港華人が設立した偽装イギ リス籍会社の排除にあった。しかし,偽装イギリ ス籍会社の大半は,社名をローマ字で表現してお り,英語表記の会社名から偽装イギリス籍会社を 見分けることは出来ない。そこで,逆に本国から 中国に渡ってきたイギリス人が設立営業した会社 名義の漢訳字号の前後に「英商」「有限公司」と いう語を付けることで,偽装イギリス会社と区別 しようと図ったのである 。この措置は,「五港 開港」以来中国で営業活動を続けてきた老舗のイ ギリス商社(例「ジャーディン・マセソン商会」)

の漢訳字号(「怡和洋行」)の場合は,例外として そのままの使用が認められることが決定され,当 初この法令改正に難色を示していた有力企業の賛 成を得ることができた 。その結果,実現したの が「一九二五年修正会社法令」の実施であり,こ れを上海租界にも適用することを認めた枢密院令 の施行である 。

この枢密院令は,全在華イギリス企業が発行す る広告,通知,公式刊行物,手形,有価証券はも とより会社名で資金,商品を注文する際に使用す る郵便物,送り状,領収書,信用状,カタログの 類に至るまで必ず社名の漢訳と「英商」「有限公 司」を加えることを義務づけていた。そのため,

大量の備品の在庫を抱える幾多の有力企業から施 行の延期を求める嘆願が貿易省経由で外務省に届 けられたこと,さらに5・30事件をきっかけに 中国全土で澎湃として起こっていた反英運動の絶 好の標的になりかねないという政治的考慮も加わ って実施が 1927年まで延期された 。

こうして,中国人,香港華人による偽装イギリ ス籍会社を排除するための一連の法制度改正は完 了した。しかし,それは同時にイギリスが「英語 を話す中国人」,あるいは在華日米企業との連携 を通して中国経済に影響力を及ぼす力を自ら封じ 込めることをも意味したのである。この後,イギ リスは南京政府の成立に直面して対中国政策を大 転換し,両国関係は全く違った時代に入っていく のである。

結びにかえて

本稿で扱った在華イギリス籍会社登記制度の改 正過程は,1880年代以来中国社会に絶大な猛威 を振るった,株主の有限責任規定を含むイギリス 会社登記制度の衝撃の終息過程である。それは,

今までとは違った角度から見た,中国に於けるイ ギリス帝国主義の終わりを飾るエピソードである。

制度史的観点から見たイギリス帝国主義の真髄と は,個人の私有財産と利潤の保護を第1とする一 連の私法体系を香港,上海租界に代表する条約港 租界に持ち込んだことにある。これを自己目的に 利用し,伝統的商業秩序を崩壊させ,中国社会に 深刻な亀裂を引き起こした張本人は,在華イギリ ス企業と雇傭取引関係を持った「英語を話す中国 人」,あるいは香港華人であった。この傾向に拍 車を駆けたのは,日清戦争講和条約に伴う在華外 国人の工場敷設経営権の認定であった。これによ って,「英語を話す中国人」と協力して生産事業 を行う非イギリス人がこぞって香港や上海租界に イギリスが導入した会社登記制度を利用したこと が,中国に於けるイギリス帝国主義理解をより複 雑にする原因となったのである。

清末から民国初期にかけての華中華南沿海部中 心とする地域に社会的大混乱をもたらしたのは,

日清戦争以降の歴代中国中央政府が,香港や上海 租界を頂点とする条約港租界でのみ効力を発する イギリス会社登記制度を無効にする法制度の整備,

国家機構再編に失敗したからである。

だが,こうした一連の事態は,あくまでも中国 側から見た認識にすぎない。1880年代以来進行 した事態は,当の在華イギリス当局にとってもま た迷惑千万なことだった。本来彼らが香港や条約 港租界に自国の会社登記制度を導入したのは,あ くまでも中国で事業活動を営む自国民の財産を保 護するだけのためであった。それが,これを利用 する「英語を話す中国人」や,果ては日本人やア メリカ人まで出現するに及んで,彼ら自身予想も しなかったような形で独り歩きをするようになっ たのである。これがイギリス外務省領事報告の伝 える中国の「半植民地」化の姿である。

(16)

この事態を在華イギリス外交官はもとより本国 政府も次第に持て余すようになっていったのが第 1次世界大戦から国民革命期にかけてのイギリス 側の実情だった。この懸案を解決するためにイギ リス政府がとった一連の制度改正は,対中国政策 をめぐる日本やアメリカとの協調関係を損ね,さ らにそれまで協力関係にあった「英語を話す中国 人」とも疎遠になる結果を招いたのである。これ ほど高い代償を払ってでも,イギリスは中国に対 して自らが望まぬ影響力を行使する事態を避けよ うとしていたのは,当時の中国のナショナリズム と革命運動は最早イギリス会社登記制度を利用す る「英語を話す中国人」や非イギリス人の跳梁跋 扈を不可能にするほど高揚していたからにほかな らない。

「一九一五年枢密院令」から「一九二五年枢密 院令」の施行に至るまでの過程とは,中国のナシ ョナリズムと革命運動の裏面史と見ることもでき るのである。

*本稿は,平成 13〜15年度文部科学省科学研究費基盤研 究(C)「イギリス私法体系が 20世紀初頭の中国社会に与 えた社会経済的影響」の支給を受けた研究成果の一部であ り,「2003年度政治経済学・経済史学会秋季学術大会」自 由論題報告を基に作成したものである。

[注]

⑴ 拙著(2000),Conflict and  Cooperation  in  Sino- British  Business, 1860‑1911: The Impact of  the Pro-British   Commercial   Network   in   Shanghai, 

(Macmillan/St. Antonyʼs series), (以 下「英 文 拙 著」と略); 同(2004)『伝統中国商業秩序の崩壊⎜

不平等条約体制と「英語を話す中国人」⎜』(名古屋 大学出版会)(以下「拙著」と略)。

⑵ 英文拙著 chapters 5, 6並びに拙著第Ⅲ部参照。辛 亥革命期後から国民革命期にかけての,中国側の会社 登記制度をめぐる対応については別稿を予定している。

⑶ 前掲拙著第 16章参照。

⑷ 草案作成から発布までに3年のずれが生じたのは,

第1次世界大戦勃発が原因である。

⑸ 前掲拙著第 16章参照。

⑹ 本稿に於ける女王が版権を有する未公刊文書(Un- published Crown Copyright Material)からの引用に 当っては,イギリス国立公文書館の規定に従って,イ ギリス政府出版局管理官(the  Controller   of  Her Majestyʼs Stationary Office)の許可を得ていること  を 明 記 し て お く。な お,FO 228/3230‑3232と

FO671/448の中には,少なからぬ文書が重複して収 録されている。本稿では,重複文書を引用する場合,

一般的に保存状態がよく,判読が容易な方を典拠とし てある。

⑺ “China(Companies)Order in  Council,”NCH, Jan. 8, 1916.

⑻ FO228/3230 F.H.May to Walter Langley,M.P.

Oct. 15, 1917.

⑼ FO228/3230 Enclosure in Tokyo Despatch No.

226 of  June 25th 1918: M emorandum  by  M r.

Crowe: Hong Kong registered companies.この文書 は,以下の3例を極端な事例として紹介している。1,

東京駐在フランス大使が娘の結婚持参金の一部用にモ ロッコにある土地を保有する手段として設立した会社。

2,モスクワ駐在オランダ貿易領事が,ロシアでの自 らの事業続行目的で登記しようとしていた会社。この 一件は,適当な弁護士を推薦してくれという東京駐在 オランダ領事からの打診から露見した。3,ニューヨ ーク在住フランス系ユダヤ人ブルム(Blum)が所有 し,共同経営者として横浜在住でフランス出身のアメ リカ系ユダヤ人リー(Lee)と,神戸在住イギリス系 ユダヤ人ラザレ(Lazares)が日本企業として日本で 登記手続きを済ませた Witkowski & Co. この会社の 詳しい営業実態は本稿で利用した史料に記されていな い。

FO228/3230 Victor Wellesley  to  Auckland  C.

Caddes, July 10, 1920.

拙著第 15章参照。

FO671/448 Memorandum, Dec. 12, 1916;ibid.

Memorandum:In the matter of the status of J. A.

Wattie, Dec. 16, 1916.

FO671/448 Hugh Fraser to the Controller for Trade  Department of State  No. 174 with  Two  Enclosures, Dec. 27, 1916. 

FO228/3230 W. Langley  to  John  Jordan, No.

119, Nov. 22, 1917;ibid. John  Jordan  to  Hugh Fraser No. 15, Jan. 16, 1918;ibid. Minute from  the Acting Crown Advocate to H. B. M. Consul- 

General at Shanghai, Jan. 31, 1918.

FO228/3230 Duncan McNeill to A. C. Mossop, Jan. 25, 1918;ibid. A. C. Mossop  to  E. D. H.

Fraser, Jan. 31, 1918.

“Chinese Insurance Companies: A. J. Hughes,”

NCH, Jan. 20, 1917, pp. 137‑38.

“Chinese Insurance Cos.,”NCH, Jan. 20, 1917, pp. 110‑1.

FO228/3230 H. May to E. H. Fraser, Feb. 16, 1918;ibid, Minute from  the Acting Crown Advo- cate to H.B. M. Consul-General at Shanghai, Feb.

25, 1918.

FO 228/3230 Attorney  Generalʼs   Chambers:

参照

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