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平安初期内蔵寮の考察

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Academic year: 2021

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律令支配は八世紀段階においては一応貫徹し︑以後漸次的に動揺し崩壊していくとする見方は︑ほぼ学界において

共通していると云ってよいだろう︒ただしその動揺し崩壊していく過程を具体的に明らかにしていく作業はいろいろ

な方面で為されてはいるものの︑未だ甚だ十分でない状態にあることもよく云われることである︒太政官を中心とし

た中央の宮衙機構の変質も︑それが謂ゆる上部構造のうちでも極めて特殊なものであることに由来するのだろうが︑

研究の蓄積の余り見られない部門といってよいだろう︒研究の比較的進んでいる社会経済史や政治過程史に比較した

ら重要性において薄れるだろうが︑比較的等閑視されているかに思われる律令官衙の変質を究明することも無意味だ

とは思われない︒律令支配は多様な事象を通して漸いに動揺・崩壊していくのであり︑逆にそれらを通してのみ律令

支配の変質を明らかにし得ると考えるからである︒本稿はかかる考えから律令官衙のうちでも特に内蔵寮を取上げ︑

平安前期を中心として見られるその変質について考察しようと思うものである︒内蔵寮関係の研究としては既に河野

︵○八︶房男氏の﹁白河・鳥羽両院政下の任内蔵頭について﹂なる論考が発表されている︒白河・鳥羽両院政下において内蔵

頭に就任した者の経歴に関する詳細な調査に基く研究で︑院政期における内蔵頭の特徴として院と個人的に親懇の人

平安初期内蔵寮の考察

鼎や

f恥

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を助ける︒仁明天皇の承和六年に大使藤原常嗣以下の遣唐使が帰朝するが︑彼らがもたらした唐物を建礼門の前に置

︵5︶いて内蔵寮官人および内侍らが交易したとある︒名づけて宮市と云ったとあり多分に遊戯的な側面があるのではない

かと思うが︑外国渡米の物品の交易と内蔵寮官人との間に関係のあることを示唆している︒また﹃三代実録﹄貞観十

四年五月二十日条には﹁内蔵寮与渤海客︑廻易貨物﹂とあり︑また元慶六年十一月十四日に加賀国へ到着した渤海使

︵6︶が入京した際内蔵頭和気舞範が僚下を引率して鴻櫨館に出かけて交関している︒かように内蔵寮は外国との交易に従

事しているのであるが︑元来貢献といっても無償でなく何らかの対価を伴うものでその実は交易であり︑九世紀にお

ける内蔵寮による外国との交易も﹁諸蕃貢献奇璋之物﹂の延長上にあったと思う︒十世紀以降海外との正式な外交が

絶えたあとも唐の商客がしばしば北九州にやって来て交易に従事している︒かかる場合に政府は中央から唐物使を派

︵7︶遣して北九州在住の商人である﹁潮内富豪之輩﹂に先立って交易しているが︑唐物使に任命される官人について﹃侍

中群要﹄では﹁右弁以下近代蔵人已下所小舎人御牒官符﹂と規定している︒恒例として蔵人所官人が充てられること

を示しているが︑蔵人所は内蔵寮の職掌を吸収して拡充されて来ているのであり︑元来は内蔵寮の職務であった故に

︵8︶蔵人所に継承され蔵人所官人が唐物使に充てられるようになったと考えられる︒後論する筑前国博太庄を高子内親王

︵9︶家より内蔵寮が貞観年間に買得しているが︑博太庄は単なる庄田に終らず港津機能を併有し大陸との交易を行うに当

︵︑︶っての要衝に位置しているであり︑かかる港津を利用して内蔵寮は外国の物品の調達を図ったと考えられる︒

以上内蔵寮による外国との交易ないし貢献について繧述してきたが︑価長二人が置かれていることから国内におい

ても市易していたと考えられる︒価長の職掌として職員令に﹁掌平物価市易﹂とあり︑﹃令義解﹄に﹁謂︑猶言評価

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前節では内蔵寮の庫蔵物が如何なる用途に充てられていたかを略述したのであるが︑御服を始めとする供御の重要

性は無論として︑各種の儀式も古代においては祭政一致の面が強いことから天皇による宮廷政治の中で極めて重要な

位置を占めていたはずであり︑かかる儀式の供給を行っていたことは内蔵寮の重要性を示すし︑特別な勅旨による設

宴・賜禄も宮廷内での天皇の権威を昂める上で大きな働きをしたはずである︒かかる重要な内蔵寮の機能も物資収納 に臨御して相撲を観覧した時も親王公卿を殿座に侍らして内蔵寮と冷然院に命じて酒撰を設けさせ︑翌二九日も観覧

︵︶し内蔵寮から絹百疋を出させ左右の相撲人に各一疋ずつ賜っている・天暦の蔵人式に勅計事としてし﹁凡触事有勅計︑

︵犯︶分遣侍臣諸陣令取見参︑賜禄﹂とあるが︑この時の賜禄も寮物を用いていた︒たとえば︑元慶四年五月二十日の勅計

︵弧︶の場合穀倉院調布とともに内蔵寮物である御服絹を禄物に当てている︒故実書には先の相撲を始めいろいろな儀式の

あと内蔵寮が酒撰を設け賜禄する規定になっている場合が多い︒また﹃文徳実録﹄天安二年六月二十日条に見える山

田春城の卒伝によれば︑春城は若い頃嵯峨太上皇の好遇を得て勉学に励んでいたが︑太上皇が崩御して塗を失い悲歎

にくれていた時に仁明天皇が校書殿に侍せしめて内蔵寮から食料を給与せしめたとある︒仁明天皇は崇文の皇帝で春

城の才能を惜しみかかる措置をとったのであろう︒内蔵寮から支給しているのは天皇の私的な処置に基くからである

と考える︒以上儀式のあとを始めとして特別に天皇が詔勅を下して﹁事二触レテ﹂設宴・賜禄を行っているが︑かか

る場合に寮物が用いられていたのである︒

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が充分に保証されて始めて可能なはずであるが︑周知のように調庸租税の違期未進が八世紀末ないし九世紀初頭以降

漸いに大問題と化して来ている︒地方からの京進物は先ず大蔵省へ収納されるのであるが︑それが減少してきたので

ある︒したがって大蔵省から物資を分受する内蔵寮も窮乏化せざるを得ない︒寮庫物をもって行う内外での交易も不

可能になってしまうし︑第二節で述べたごとく労働力が有償化していく官工房の経営もうまくいかなくなってしまう

はずである︒しかしかかる事態に対して内蔵寮が手を拱いていたとは考えられない︒本節では内蔵寮が如何に対処し

ていったかを見ていきたい︒予め結論的に云えば︑㈲大蔵省からの分受を待たず内蔵寮が直接地方国衙から収取す

る︑口内蔵寮領田地を設定し土地からの収益を納める︑の二つの方向に大別できると考える︒ロは寮領となる経路に

より伺勅旨田︑側勅旨田という呼称はないが︑政府より供与された田地︑何買得田とに分けられる︒ただし後論する

が側と㈲との区別は必ずしもはっきりしない︒以下㈲︑︒について述べていきたいと思う︒

先ず㈲であるが︑延喜内蔵寮式諸国供進条では布帛・皮革・染料を始めとする種々の物品を諸国が調庸としてない

し交易して内蔵寮へ供進するよう規定している︒元来ならば大蔵省を経由して内蔵寮へ納入されるべきものである

が︑寮で直接的に収取するようになっていたのである︒貞観十七年三月十七日修善調調した際の噸料に﹁常陸国年進

︵犯︶内蔵寮布百段﹂を充てている︒延喜内蔵寮式諸国供進条では常陸国より商布四千段を内蔵寮へ納入することになって

いるが︑貞観十七年段階でみられる常陸国から納入される内蔵寮布のごとき制度が拡充整備されて︑十世紀初頭に編

纂された延喜式制となっていったのであろう︒延喜主計式に﹁凡諸国所進勅旨交易雑物︑使等取内蔵寮返抄︑不経省

直勘会﹂という規定がある︒勅旨交易雑物とは供御に充てる為の交易雑物の謂で内蔵寮で収納するものであり︑右の

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主計式の規定は諸国供進条により納入された物品の勘査方式に関するものである︒すなわち諸国から内蔵寮へ輸納し

てきた使者に対して寮から返抄を発行し︑それは民部省を経ることなく直ちに主計寮で勘会したのである︒かかる内

蔵寮による直接的な収納は九世紀を通じて漸いに整備されていったと考えられる︒ところで寛平三年五月二九日官符

●●●●●●●では﹁応禁止諸司諸家徴物使冤勘調綱郡司雑掌事﹂と令し︑諸司の徴物使が王臣家の徴物使と並んで諸国の郡司雑掌

︵調︶が調庸物を運京してきた日に党類を率いて冤勘するのを禁止している︒ここで重要なことは諸司に徴物使なるものが

置かれていたことと彼らが党類なる独自の暴力装置を有していたことである︒かかる諸司の中に内蔵寮も含まれてい

たと考えられるが︑内蔵寮の場合は諸国供進条に見えるごとき貢納物を京上してきた時に徴物使が活躍したことと思

う︒大蔵省を経由するという間接的な収取ではなく︑暴力装置を有する徴物使により独自に収取している訳で︑律令

収取体制が崩壊していく中で収取の実をあげたと思う︒右の寛平三年格による徴物使の活動は京城内であるが︑延喜

元年十二月一二日官符に引かれた播磨国解によれば諸院諸宮諸家と並んで諸司の使が火長三・四人を率いて入部し国

︵認︶郡吏を抑えて﹁部内騒動人民愁苦︑莫過斯焉﹂という状態であるという︒使人と火長からなる構成は先の徴物使と党

類の関係に一致すると考えられるが︑彼らは京城内にとどまらず地方へも進出し収取に当っているのである︒延喜五

●●

年十一月三日官符では参河国解を引いて諸院諸宮諸司諸寺諸王臣家が私に使者を派遣して財物の事による訴訟を弁

︵調︶定することを禁止しているが︑ここにも諸司の在地進出が見られ︑かかる諸司の中に内蔵寮も含まれていたと思う︒

弁定の為の使者も﹁専施威勢窓行猛暴﹂っていた︒恐らく徴物使ないしそれに類していたと考えられる︒かく徴物使

等の活動は威猛を極めていたが︑主に京畿近国に限られるものの︑延喜内蔵寮式諸国供進条に見られるごとき諸国の

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貢納物を直接的に収取することが大きな目的だったと思う︒衛府が大狼使を諸国へ派遣して滞りがちな大根米の収取

︵妬︶に当っていたことはよく知られているが︑内蔵寮の場合も同様に考えてよいだろう︒

次に口の内蔵寮による田地の獲得について見ていきたい︒官衙領の形成については既に先学の注目されている所で

あり筆者も若干述べたことがあるが︑本稿に必要な限りで述べていきたいと思う︒

︵蔀︶内蔵寮領として史料に見えるものは阿部猛氏の著書に列挙されており筆者も整理したことがあるので省略するが︑

先にも述べたごとく寮領となる経路により側・㈲および何の三種に分けられる︒まず側について見ていくと︑勅旨田

︵犯︶について早く注目されたのは石母田正氏であった︒すなわち氏は勅旨田の設定が九世紀に特徴的であることを示し︑

天皇の私有地としての性格を有し律令財政の破綻による皇室経済の行詰りを打開する為のものであったとされたので

︵調︶ある︒かかる氏の勅旨田評価に対してはかなり有力な反論があるが︑基本的には氏の見解を承認してよいと思う︒と

ころで勅旨田の開発・経営形態について石母田氏は国衙の稲穀をその料に充て雑倦を用いていたとされた︒したがっ

て明言されてはいないものの氏にあっては開発・経営の主体として国衙を想定されているとしてよいだろう︒村井康

彦氏の場合は﹁勅旨田の耕営は国司の所管による直接経営であった﹂と述べ︑経営の主体が国衙であることを明言さ

︵︶︵︶れている︒しかしかかる見解には対立する見解もあり︑角田文衛氏は経営の主体として内蔵寮を考えておられる︒経

営の主体が国衙であるか否かについて見解が対立しているが︑私見によれば両説ともに多分に一面的であると考えら

れる︒経営の主体が国衙であるか内蔵寮であるかは中央からの距離の遠近によると思うのである︒勅旨田の史料上の

︵︶初出は天平勝宝八歳正月十一日美濃国司移であるが︑そこでは太政官l国衙の指揮系列で諸国の勅旨田の田数と刈

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得稲数を中央へ報告させており︑太政官l国衙が耕営の責にあったことを示している︒また天平神護二年十月二十

●●●●●●●●︵︶日の足羽郡少領阿須波束麻呂解申過状事に﹁預郡家佃勅旨御田陸町受慨寒江之沼水﹂という項があり︑勅旨田が不堪田

化したことで郡司が過状を呈出している︒圏点部分は﹁郡家二預ケテ佃クル勅旨御田﹂と読むのであろう︒これから

すれば︑太政官l国司の管轄の下で郡司が現地で預佃していたということになる︒郡司は雑樒を差発するなり賃租

に出すなりして収益をあげ︑京進していたのであろう︒勅旨開田の停止を令する延喜二年三月十三日官符が﹁︵以後︶

︵︶令民負作﹂と述べていることから︑総てではないだろうが延喜二年以前において身役差発による直営形態が行われて

いたことは確かである︒かかる場合には国衙が経営の主体となっていたことに疑いない︒ところで﹃三代実録﹄貞観

八年三月二八日条に次のような記事がある︒

大和国平城京内田地十六町三段百廿歩︑賜従四位下行山城権守在原朝臣善淵︒先是善淵奏言︑奉為平城太上天皇︑建

精舎於陵次︑買得旧京荒地︑墾關為田︑充修理精舎之資︒而内蔵寮称格旨︑収為勅旨田・請頼算︑永為私田︒詔許之︒

この記事から内蔵寮が積極的に私墾田を没収して勅旨田の拡大に努めていたことが解る︒内蔵寮が没収の理由づけに

用いた格旨が何を指すかはっきりしないが︑﹃三代実録﹄貞観四年六月十四日条に﹁平城旧京中勅旨田舟町︑返賜先

品高岳親王﹂という記事がある︒平城京内の勅旨田であり︑内蔵寮から善淵朝臣へ返却された勅旨田と同様に内蔵寮

領となっていたのであろう︒返賜とあるからには没収されていた訳だが︑善淵朝臣は平城天皇の孫・高岳親王の子で

︵銅︶ある︒したがって善淵朝臣も高岳親王もともに平城天皇の子孫である︒一つの臆測として︑格旨は薬子の変で累坐し

た人たちの田地を内蔵寮が没収して勅旨田とせよという内容だったかも知れない︒貞観八年十二月八日に応天門の変

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︵仰︶︵妃︶

寮田のあったことも知られる︒遠国では遠江国に一六四町の田地を有していた︒後の貞観寺領市野庄で熱田九十余町

と未開地七十余町からなっていた︒これらの寮領が史料上に勅旨田という名称で表れないものの実は勅旨田であった

のか︑勅旨田でないとしたら如何に経営されていたか等に関しては不明だが︑いずれにしても近国では内蔵寮で直営

し︑遠国では国郡司からなる地方行政機構に依拠して︑寮は地子物の収取のみに預かっていたことと思う︒猶側のう

ちには庄田を主体とするものでなく山城国愛宕郡にある五段の埴地のごとく官工房関係のものもある︒天長六年二月

︵鯛︶︵卵︶六日に賜ったものであるが︑第二節で述べた官工房の変質と関連して直属の陶土供給地を供与されたのである︒

︵副︶㈲では貞観六年正月二一日に菅原朝臣幽児から買得した山城国紀伊郡田地九町余や貞観年間に高子内親王家から買

︵兎︶入れた筑前国博太庄などが知られる︒後者の経営形態については先に述べたことがあるので本稿では省略するが︑在

地の有力農民を庄預に任命して庄務を執行させていることおよび国郡司を通して庄の﹁町段歩数利害便不及当土品

直﹂を勘申させていることから知られるごとく多分に地方行政機構を通じて経営していること︑等が知られる︒ただ

し美濃国勅旨田の場合のごとく太政官符による正式の被管関係を通しての指示ではなく︑寮牒によって依頼してい

る︒勅旨田に比べ寮領としてより私的な性格が強いからであろう︒恐らく諸衛射田・左右馬寮田・典薬寮田等と同様

︵銅︶に不輸租田で︑勅旨田の場合と同様に遠国の場合は地方行政機構に依拠する経営で地子を軽貨に交易するなどして京

進させ︑近国では内蔵寮自身で耕営に当ったことと思う︒

次に以上述べてきた内蔵寮領の設置時期について考えると︑寮領の大半を占めると思われる勅旨田の設置は九世紀

︵︶に集中し延喜二年には開田が停止されている︒したがって九世紀に特徴的であったといえるが︑史料残存の頻度から

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するならば天長から承和にかけて著しく︑知られる勅旨田面積の九五・二%がこの時期に集中しているのである︒㈲

・㈲の寮領についてみても九世紀前・中期に設定ないし買得されていることが史料より明らかである︒したがって寮

領の拡充は九世期前半に盛行したといえよう︒

ところで寮領のかかる急激な設置により内蔵寮の事務が輻壊したことと思われるが︑かかる点に注目して角田文衛

︵弱︶氏は平安初期における内蔵寮官人のうちで史生以上の事務官人の増員を事務量の増大と関連づけて説明されている︒

︵粥︶︵師︶和銅元年七月に置かれた史生四員は措いて︑八世紀後半に令制の允一人が大少允各一となり︑延暦十八年四月には少

︵詔︶︵︶

︵釦︶属一を増員し︑大同三年七月には少允一を加え︑大同四年三月には史生二を増員しているのである︒基本的に角田氏

の見解を承認してよいと考えるが︑単に勅旨田のみでなくそれ以外の寮領の拡大や寮独自の諸国供進物収取の開始な

いし官工房の変質に伴う事務の繁雑化等による面もあったと思う︒猶︑角田氏は延暦元年に廃止された勅旨省がその

後間もなく勅旨所として復活し︑勅旨の速かな下達と皇室料地の管理に当っていたという︒かかる氏の推測を確かめ

る証拠はないが︑延暦年間はともかく少くとも弘仁以降において勅旨の下達に関する機能は新設の蔵人所に吸収され

皇室領地の管理は内蔵寮に吸収されたことと思う︒先の平城京内勅旨田拡大への内蔵寮の意欲を見れば明白である︒

設置当初の勅旨所が角田氏の推測されるがごときとしても︑ある段階で勅旨所は倉庫機能のみをもつ内蔵寮の一別所

︵団︶となっている︒延喜左京職式に勅旨所正倉と見え︑内蔵寮式にその出納に携る勅旨舎人二五人が内蔵寮から給狼され

︵唾︶ると見えているからである︒勅旨田を始めとする寮領からの地子物や勅旨交易物を納置していたのではあまいか︒内

蔵寮は事務官人を増員し復活した勅旨所を配下におき︑律令収取体制の危機的状況下で供御奉仕に従っていたのであ

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本節では官人の補任の面から内蔵寮について考えていこうと思う︒八世紀に限定されてはいるが︑律令官人の補任

︵鯛︶状況に関して直木孝次郎氏の労作が発表されている︒氏は皇親勢力が律令官司体制内にどれくらい進出しているかに

注目されているが︑氏の調査によれば治部・刑部・大蔵・宮内・大膳・左右大舎人・縫殿・大炊・木工・内匠・内礼

・正親・主油等の省職寮司の長官に皇親の進出が著しく︑知られる総数の過半数以上となっている︒これらの官司は

皇室に深い関係があったり行政上重要な位置を占め︑さらに多くの匠丁等を管隷していていざという時には軍事力と

しても有効に機能し得る官司で︑直木氏が云われるように﹁天皇権力を維持してゆく上に有効であったと考えられ

る﹂のである︒ところで内蔵寮の場合について見ると︑先に列挙した官司程ではないが皇親の進出が著しい︒すなわ

ち﹃続日本紀﹄から知られる内蔵頭十七人のうち六人が皇親で三割五分を占め︑特に天平勝宝末年までの奈良朝前期

に限定すれば八人のうち四人まで皇親となり五割となる︒内蔵寮が皇室の供御に与かることを考慮すれば当然とも考

えられる︒ただし八世紀後半以降においては先に列挙した官司と同様に漸減傾向を示す︒かつて強い同族意識をもち

強大な政治勢力として存在した皇親勢力が藤原氏を始めとする律令貴族の拾頭の前に圧倒されていくことの反映と考

えてよいが︑八世紀末以降の律令体制の動揺の中で皇族なる名族出身のみでは危機的状況に十分に対処できなくなっ

てきていることを考えてもよいだろう︒皇族が支配層内部で有力な地位を占めるに当っての根拠は現人神Ⅱカリスマ プ︵︾◎

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としての天皇と近縁でそのカリスマを分有するという点にあると考えるが︑かかるカリスマ的能力では対処できない

程に現実が危機的になっているのである︒

︵︶次に九世紀末までの内蔵頭・助の補任例を補任時とともに掲げ考察していきたい︒九世紀末までは六国史があり比

較的豊富に知られることと︑および十世紀段階では主として﹃公卿補任﹄を通して知られることから︑参議以上昇進

者という偏った例に集中してしまい︑かつ醍醐・村上という親政時代があるとはいうものの藤原北家支配体制が確立

し支配層内部が﹃職原抄﹄に見えるがごとき固定化傾向を示し︑補任例を通しての考察の意味が薄れてしまうからで

ある︒

八内蔵頭v

紀諸人

路虫麻呂

宇治王

久世王

路宮守

小野綱手

石川名人穂積老人 和銅二・三・五天平五・十二・二七天平九︒十二・二三天平十・閏七・七天平十四・五・十七天平十五・六・三十天平十八・六・一二

天平十八・九・十九

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豊野尾張

高丘比良麻呂

○藤原是公

安倍息道

笠王調使王

○紀家守

石上家成

内蔵全成

○藤原内麻呂

○藤原緒嗣

橘安麻呂

○巨勢野足

○紀広浜

安倍麿野

○藤原三守 天平宝字四・二・二十神護景雲二・六・二八神護景雲二・十一・十三宝亀二・九・十六宝亀九・二・二三延暦一・二・七延暦一・五・十七延暦三・七・十三延暦五・二・十七延暦九・三・二六延暦十六・七・十六延暦十八・二・二十延暦一二・四・二五大同二・九・十六大同三・七・九

弘仁一・九・十

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○小野岑守

佐伯長継

○朝野鹿取

○紀百継

南淵永河

○滋野貞主

○和気真綱

藤原文山

○藤原良相

中臣逸志

○藤原常行

藤原安方和気舞範

和気舞範藤原晨直

○源湛 弘仁一・九・十六弘仁六・一・十二弘仁九・六弘仁十・二弘仁十四・四天長十・三・十三承和一・二・五承和三・二・七承和六・閏一・十一承和十五・二・十四貞観二・十一・二七貞観七・一・二七元慶一・四・九珊惟粥沌抑仁和一・二・二十仁和三・八・一三寛平四・一・二三

(23)

− 2 3 −

○藤原定国

八内蔵権頭v

○藤原良縄

藤原興邦

藤原晨直

○源湛

藤原高経

八内蔵助v

阿倍意美麻呂

小野小贄

高丘比良麻呂

笠乙麻呂文室老

槻本奈弓麻呂

三原弟平藤原貞本 天平宝字四・一・十六天平宝字七・一・九天平宝字八・一・一二神護景雲一・五・二五神護景雲一・七・十延暦十六・二・九延暦十八・二・六大同三・十一・二七蝋に歸沌卯 斉衡三・二・八天安二・九・十四元慶五・四・二三寛平二・二・二七仁和三・三・七 寛平五・四・二

既二帯ビル

コト見1|︺

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○直世王

○藤原三守

○藤原良縄 ○藤原良相

八内蔵権助v ○源希

○藤原良縄

○藤原有穂 藤原安方春道永蔵 紀冬雄藤原高階 南淵良臣藤原安房藤原安方藤原積善 大同四・六・八 大同四・五貞観七・一・二七 貞観四・一・十三 貞観三・一・十三 仁寿三・四・十 承和三・十・七元慶一・四・八貞観二・十一・七珊悼蹄犯抑貞観四・一・七珊悼勝沌卯 仁和二・一・七珊隈鵤泌抑 元慶八・三・九貞観四・一・十三 嘉祥三・四・一貞観十八・十二・二七 助ヲ去ル

(25)

− 2 5 −

八世紀の段階では前半を中心として直木氏がいうように王ないし真人姓からなる皇親系の進出が著しく︑重点官司

として皇親が積極的に把握しようとしていたのである︒ところで八世紀後半で貴族層の分裂を招いた大事件である恵

︵妬︶美押勝の乱の過程で押勝の軍事的動員を未然に密告して乱の帰趨を決定したといってよい高丘比良麻呂が天平宝字五

年に内蔵助に任命され︑神護景雲元年に頭を拝任していることが注目される︒乱の密告をしたことから孝謙太上皇方の

官人であることが明白であるが︑かかる人物が淳仁朝とはいえ孝謙太上皇が実権を握っていた時期に内蔵助に補任ざ

れ乱後の段階で頭となっているのである︒乱発生以前ではあるが孝謙太上皇が実権を握っていた時期に内蔵頭に就任

している豊野尾張や助となっている阿倍意宇麻呂・小野小贄︑さらに乱終了後助となっている笠乙麻呂や文室老にし 八注V﹃続日本後紀﹄承和三年四月十六日条の橘永名を﹁権為内蔵頭﹂とあるのは︑祭使にあてるため臨時に任用したもので通常の

内蔵頭補任とは異っておりとらない︒

﹃文徳実録﹄斉衡三年二月八日条に藤原良縄が内蔵頭となったとあるが︑﹃公卿補任﹄と﹃三代実録﹄貞観十年二月十八日条の

良縄莞伝より正任となったとは見えず︑権頭の誤と考えられる︒

○印は参議昇進者

以上管見の限りで蒐集した補任例を挙げたが︑見落しがあるかも知れないがこれより平安初段階における特徴を指摘

できると思︾っ︒ 高偕忠岑○良岑衆樹 元慶一・十一・二一昌泰二・一・十一

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︵︶ても乱勃発直後ないし間もなく昇叙に預かっており︑比良麻呂ほどではないにしても乱鎮圧過程で功績をあげたと推

測され︑孝謙#称徳天皇方の官人であったと考えられる︒皇親系の衰頽していく一方で︑かく天皇の側近的官人が寮

の頭・助に登用されてきたのである︒この傾向は次の光仁・桓武朝においても観取される︒宝亀・延暦年間に頭十人

が知られるが︑いずれも該時期に順調に昇進しており天皇に近いことを示す︒特に紀家守・藤原内麻呂・藤原緒嗣ら

は桓武朝で参議に昇任しており︑内麻呂は伝に﹁経事三主︑皆被信重︑上有所問︑不希指萄合︑如或不従︑不敢犯

︵師︶顔﹂とある寵臣で︑緒嗣も延暦七年に桓武天皇が殿上に喚び自から加冠する程の愛寵ぶりであった︒緒嗣の父百川が

光仁・桓武朝の擁立に尽したことによるが︑﹁暁達政術︑臥治王室︑国之利害︑知無不奏﹂という才質にも富んでい

︵粥︶た︒延暦二四年十二月七日には殿上で菅野真道と天下の徳政を論じ﹁方今天下所苦︑軍事与造作也︒停此両事︑百姓

︵ぬ︶︵︑︶安之﹂と主張し天皇の採る所となっている︒石上家成は伝に﹁才芸無取︑烙勤在公﹂とある︒文章ないし芸術等の才

は欠くものの政治家としては優秀であったことの謂である︒以上から天皇の側近にして有能な官人の登用が見られる

としてよいだろう︒特に調使王は桓武天皇即位後早々の除目で頭となっており︑後の嵯峨朝以降に見られる践柞とと

もに寮頭が交代する例としてよいと思う︒

多くの政治改革の断行される平城朝は人事面においても漸いに動きが活発になるが︑次の嵯峨朝は二所朝廷といわ

れた貴族層の分裂を克服するという課題で始まった︒薬子の乱で結着する訳だが︑内蔵寮官人について見ると乱勃発

の弘仁元年九月十日に藤原三守が頭となり六日後には小野岑守が就任している︒皇室経済を握るという重要性から乱

勃発とともに移動が始まったのだろうが︑注意すべきことに三守は伝に﹁早入大学︑受習五経︑聲太上天皇︵嵯峨︶

(27)

− 2 7 −

︵︶践柞之日︑以蕃邸之旧臣︑殊賜栄寵﹂とあるごとく嵯峨天皇在藩時代からの近臣であった︒薬子の変を契機に嵯峨朝

官人体制が構想されるとともに直ちに寮頭に登用されたのである︒平城朝ではあるが主蔵正ないし内蔵助として供御

に預かっており︑寮務に精通しているのを買われたという面もあったであろう︒ただし六日後には頭を岑守に譲って

︵池︶いるが︑三守は本官として右近衛少将を帯びておりそれに専念する必要があったのであろう︒岑守も南淵永河の卒伝

︵︶に﹁嵯峨天皇在藩之時︑与朝野鹿取︑小野岑守︑菅原清人等︑共侍読書﹂とあるごとく在藩時代からの側近であっ

た︒永河・鹿取も嵯峨朝で寮頭となっている︒岑守の後任である佐伯長継は﹃日本後紀﹄の欠落で伝がないが︑薬子

︵誕︶の変の帰趨の定まらない弘仁元年九月十日の除目で武官たる左兵衛佐となっていることより嵯峨天皇の親任の厚かっ

たことは疑いない︒鹿取の後任の紀百継も同じ日に右近衛少将となっており長継同様の側近と考えられる︒ともに薬

子の変で活躍していると推測され︑在藩時代からの旧臣だったのではあるまいか︒以上から一貫して弘仁年間におい

ては嵯峨天皇側近の任用されていたことが解る︒また先の﹁天下所苦﹂を洞察した緒嗣のごとき現実の人民の動向

︵だ︶を把握し立策する謂ゆる新官人群の拾頭が弘仁期から顕著になるが︑岑守のごときは律令収取方式を現実に適合させ

︵お︶ようとした西海道公営田の立案者で代表的な新官人である︒鹿取も伝に﹁立性謹慎︑臨事明了︑以吏幹称︑能収人誉﹂

とあり︑永河も﹁為大宰大弐︑仁愛為務︑民庶仰慕﹂とある新官人Ⅱ良吏であった︒第四節で述べたごとく律令収取

体制の動揺に伴い内蔵寮は独自の経済活動を開始するが︑岑守や鹿取・永河のごとき良官能吏にしてかかる任にあた

れたと思うのである︒

淳和朝における内蔵寮官人の補任は﹃日本後紀﹄が欠落していてよく解らない︒次の仁明天皇は天長十年二月二八日

(28)

− 2 8 −

に即位すると最初の除目で滋野貞主を寮頭に任命している︒伝に﹁太子登柞之初︑拝内蔵頭﹂とある︒仁明朝では頭

五人・助一人が知られるが︑貞主は仁明天皇在藩時代の東宮学士で女縄子と奥子は後宮で仁明の愛幸する所︑また貞

︵︶主自身﹃秘府略﹄の撰者にして太宰府政改革について献策するなど能官でもあり︑仁明天皇の側近であった︒和気真

綱や藤原文山は内外官を経歴したヴェテラン官人らしいが︑仁明朝の寮官人で特異なのは藤原良相と中臣逸志であ

る︒良相は承和三年に内蔵助に就任したあと同六年に頭となり承和十五年に逸志と交代するまで十二年に渉り頭ない

し助として内蔵寮に勤務している︒良相は冬嗣の子・良房の弟で門地は第一級であり早くから徴されて禁中に侍し︑

仁明天皇の側近であった︒天皇が五石を煎練して近侍の者に試みさせた時︑傍輩が濤踏するのに怯まず一挙に飲み

︵犯︶ほし天皇をして﹁君臣不忘義焉﹂と感歎させている︒逸志は父が従五位下伊賀益継という中級官人層出身だが︑承和

三年に内蔵少允となりついで助に昇進し︑途中母の喪で解官されたが本官内蔵助に復し承和十五年に頭に転じ貞観二

︵ね︶年に藤原常行と交代するまで二五年間に渉り寮に勤務している︒必ずしも仁明側近とはいえないが少允から勤務して

いるヴェテランで︑承和年間は良相を補佐し嘉祥以降は自から寮務を領導したことになる︒ところで良相と逸志がコ

ンビで活躍した承和期は天長期と並んで前節で述べた勅旨田が爆発的に設置された時期である︒恐らく政治力をもっ

た良相と寮務に精通した逸志とが勅旨田設置を進めたのではあるまいか︒特に良相は頭を去った以降も貞観年間に内

︵即︶蔵寮別当として博太庄買収を進めるなど寮領拡大に意欲的であり︑その可能性は十分ある・良相は兄良房や甥基経と微

︵皿︶妙に対立する面があったらしいが︑応天門の変で失脚した伴善男と親交があり︑しばしば地方国司の献策を取上げる

︵配︶など良吏層の動向を汲上げており︑権門の在地進出を抑制するなど律令支配の建直しを図っている︒それに対して良

(29)

− 2 9 −

以上桓武朝から文徳朝に至る平安初期の内蔵寮官人の補任についてみてきたが︑④在藩時代からの側近を始め天皇

と親懇の人が多い︑③能官良吏の任用が顕著である︑および例天皇の践柞とともに寮官人の移動が見られる︑等の三

点を特徴として指摘できると考える︒頭に限っていえば桓武朝から文徳朝までで知られる二一人のうち十二人まで公

卿となっており︑ここからも天皇側近ないし能官良吏型の官人が任用されていたと推測される︒文徳朝までは比較的

天皇の政治的地位が高まった時代だが︑寮官人補任に見る以上の特徴はかかる時期を反映していると考えられる︒外

舅藤原良房の圧力が増大してくる文徳朝においても︑天皇は内外の事を多く良縄に委決したり︑失敗したが良房の外

孫惟仁親王を措いて紀名虎の女の腹惟喬親王を立太子せんと意図するだけの政治指導性を有していたのである︒

しかし次の清和朝に入ると様相が大分変ってくる︒清和朝の寮官人では頭に逸志が留任し権頭に藤原興邦が留任し ︵鯛︶房・基経は良吏層の動きに敏感でなくむしろ抑圧する立場にあったらしい︒文徳朝では前朝に引続いてヴェテランの逸志が頭におさまっているが︑即位早々の嘉祥三年四月一日に藤原良縄が権助となっている︒仁寿元年四月十日には権を改め助となり︑ついで権頭に進んでいる︒良縄は内舎人出身で早くから春宮時代の文徳天皇に出仕し﹁太子特加意愛︑擢補蔵人﹂した寵臣であり︑かかる関係で即位すると直きに内蔵寮官人に登用されたのであろう︒弁官を勤務した能吏で﹃三代実録﹄貞観十年二月十八日条に見える莞伝に﹁文徳天皇特見親用︑籠幸加隆︑内外之事︑多委決之︑領諸司諸院別当之事︑未嘗有葱失之挙﹂とある︒文徳朝の廟堂で重用されたことが解るが︑文徳天皇は頭にヴェテラン逸志を据え置いたままで腹心良縄を権助←助←権頭に送りこみ自己の意志の貫徹を図り︑内蔵寮の強化を目論んだのではあるまいか︒

(30)

− 3 0 −

ている︒逸志の後任には貞観二年に藤原常行が入っている︒助では清和朝初期の貞観三年まで紀冬雄が入っており︑

権助に藤原安方・藤原積善らが就いている︒安方は権助の後正任の助・頭となっている︒常行は良相の男で近衛次将を

経て参議へ昇進していく典型的な公卿コースを歩く官人である︒冬雄は助を去った後遥任の地方官を帯したままで皇

太后︵後に太皇太后藤原順子︶宮亮となっている︑余り目立たない中級官人のようだ︒安方も権助以来長らく勤務して

いて譲位後の清和上皇にも近侍していたらしいが︑余り目立たない官人である︒元慶三年五月二五日に清和上皇の入

︵︶︵頭︶

道に従い従四位下阿波権守で出家入道している︒積善は允から勤務しているヴェテランである︒猶︑この時期には少

︵妬︶属から少允にかけて一二年間勤務する布留今道もいる︒貞観年間のある時期に良相も寮別当として寮務に関係してい

る︒ところでかかる官人構成には寮務のヴェテランの任用は見られるが︑従前と異なり吏幹を称されるような能官良

吏の登用が余り認められず︑また天皇の側近にして指導性をもっている官人とは云い難く思われる︒清和天皇は九才

で即位するが︑幼少のまま即位した訳で在藩時代に側近グループを形成する余裕はなかったであろう︒清和幼帝の近

くには外祖父にして摂政である良房が控え︑天皇が自主的に行動する余地は殆んどなかったと思う︒天皇は謂ば良房

の所有物であった︒かく天皇を掌中に置く良房としては天皇の実質的な政治的地位の上昇は望まなかったであろう

し︑それを支える皇室の経済的基盤の強化は望まなかったことと思う︒かかる立場から良房は内蔵寮に対して比較的

冷淡な立場を取ったのではないかと思う︒清和朝では九世紀前坐に著しかった能官良吏型は姿を消し︑安方・積善の

ごとく長期に渉り勤務して出納事務に精通していても九世紀中葉という内蔵寮経済の動揺・危機を積極的に克服する

には前代に比して些か物足りない人選である︒常行は貴族的官人だが良相・良縄らに比べて指導性に劣る︒実権者良房

(31)

− 3 1 −

は内蔵寮へ天皇ないし自己の側近や政策立案能力に富んだり指導性に富む官人を送りこむことに消極的なのである︒

ある段階で良相が別当になっているが︑良相は良房と微妙な関係にあり仁明朝において勅旨田設定に関係したと推測

されるがごとき積極的な活動はできなかったであろう︒かかる傾向は次の陽成朝以降においても見られる︒陽成即位

︵師︶後間もなくかつて主蔵正ないし春宮少進として坊官勤務していた藤原有穗が権助となり︑光孝天皇が即位するとすぐ

︵肥︶の除目で内蔵頭・助の移動が見られるなど︑新帝即位と間もなく移動するという慣例は認められるが︑かつての能官

良吏型ないし際立った天皇側近者の補任が影を潜めてくる︒良房段階で確立した専権体制が基経に継承され︑逆に天

皇の地位の相対的下落を反映していると考える︒因みに陽成天皇は基経により退位を余儀なくさせられている︒

以上九世紀の内蔵頭・助の補任を考察してきたが︑九世紀の前半文徳朝までは天皇の親懇者にして能力や指導性に

富んだ官人が多く見られるのに対し︑藤原摂関体制の成立してくる後半に入るとかかる傾向の薄れてくることが観取

される︒前半においては勅旨田設定に見られるごとく内蔵寮の活動の活発な時期であり︑貞観に入ると設定が見ら

れなくなるのは以上の人事動向と関連づけて理解できると思う︒平安初期に特徴的な内宴や節宴を始めとする宮廷

︵顕︶内の華々しい儀式が仁明天皇の崩御を契機に文徳朝以降衰微していくことが先学により指摘されているが︑藤原摂関

家の進出に伴う天皇の地位の相対的低下の反映であろう︒天皇が主催する華かな宴飲の酒饒・禄物は内蔵寮より供給

したことと思うが︑九世紀前半の盛行する宴飲の背景には活発な内蔵寮の経済活動があり︑後半での衰微の背景には

その停滞があったのである︒貞観期には勅旨田の設定が見られないだけでなく︑高岳親王や善淵朝臣の場合のごとく

旧勅旨田を返賜し縮少さえしているのである︒かかる動きの裏には天皇の地位の強化を望まぬ良房の意志が働いたこ

(32)

− 3 2 −

以上で本稿を終えるが︑結語として︑内蔵寮は天皇・皇室の経済的基盤をなし︑天皇の地位の高まる平安初九世紀

前半には天皇の側近にして才質に富んだ特異な官人を擁し盛んな経済活動を行っていたが︑後半に入り摂関体制が成

立してくると従前の活発さを失い︑人的にも天皇の側近や能官良吏官人の後退が認められる︒平安初期を特徴づける

皇権の高まりと華かな宮廷政治の背景には内蔵寮があったのである︒

シ︶と田管つ︒

(3)(2)(1)注 (8)(7)(6)(5)(4)

﹃日本歴史﹄一○四号所収

青木和夫﹁淨御原令と古代官僚制﹂︵﹃古代学﹄三の二所収︶

大蔵省以外から供給される場合として延喜内蔵寮式に﹁畿内諸国国営佃収納帳︑毎年進寮︒其獲稲除営料之外︑舂米送寮﹂と

あり関連式文が延喜民部省式営田条にも見え︑田令置官田条に規定された畿内官田からの収益に与かっていた︒但し田令役丁

条に見るごとく耕営の主体は宮内省と国司で内蔵寮は宮内省を介して供給されていたことが明らかである︒原則として内蔵寮

の庫蔵物は大蔵省から分受するのであるが︑かように宮内省のごとき大蔵省以外の官司から供給を受けることがあった︒

村尾次郎﹃律令財政史の研究﹄第三章第二節

﹃続日本後紀﹄承和六年十月二五日条

﹃三代実録﹄元慶七年五月七日条︑同八日条

﹃類聚三代格﹄巻十九延喜三年八月一日太政官符

蔵人所については拙著﹃日本古代官司制度史研究序説﹄第三参照

(33)

− 3 3 −

伽 伽 ) 閲 剛 倒 幽 剛 ⑳ ⑲ ⑱ ⑰ ⑯ ⑮ ⑭ ⑬ ⑫ ⑪ ⑩ ( 9 )

延喜内蔵寮式年料硫条︑同月料御靴採靴条

﹃三代実録﹄貞観三年四月十七日条

延喜内蔵寮式毎月御續条︑同御斎会蘇条︑同維摩会綿条︑同家勝会布施条

﹃三代実録﹄貞観三年二月十日条

﹃三代実録﹄貞観十七年二月十一日

﹃文徳実録﹄仁寿元年七月一日条 西岡虎之助﹃荘園史の研究﹄﹁荘園における倉庫の経営と港湾の発達との関係﹂吉田孝﹁律令時代の交易﹂︵﹃日本経済史大系﹄I所収︶内蔵寮ではないが律令官司の中で京職が東市で物品購入をしている例が知られる︵﹃大日本古文書﹄一の六四一頁︶︒かかる例に準じて内蔵寮でも行っていたと思われる︒浅香年木﹃日本古代手工業史の研究﹄第一章軍極日本紀﹄延暦元年四月十一日条﹃類聚三代格﹄巻四延暦十五年八月二日太政官符﹃類聚三代格﹄巻四大同元年十月十一日太政官符﹃類聚三代格﹄巻四大同三年十二月十五日太政官符門脇禎二﹃日本古代共同体の研究﹄第六章﹃三代実録﹄元慶四年十二月十日条延喜内蔵寮式御服料条︒延喜内蔵寮式に内蔵寮機織工房の存在を思わせる規定はない︒﹃西宮記﹄臨時十三諸宣旨延喜内蔵寮式年料硫条︑同 ﹃平安遺文﹄一五七号文書

(34)

− 3 4 −

伽㈱閲(44(43)(42)(41)側側(3367)㈱閲(3463)62)61)(30剛剛

﹃三代実録﹄貞観十四年十一月八日条

﹃三代実録﹄元慶四年七月二八日条︑同二九日条

和田英松﹃国書逸文﹄蔵人式︒猶︑天暦蔵人式については前掲拙著第四参照

﹃三代実録﹄元慶四年五月二十日条

﹃三代実録﹄貞観十七年三月十七日条

﹃類聚三代格﹄巻十九寛平三年五月二九日太政官符

﹃類聚三代格﹄巻二十延喜元年十二月二一日太政官符

﹃類聚三代格﹄巻十九延喜五年十一月三日太政官符

笹山晴生﹁平安前期の左右近衛府に関する考察﹂︵﹁日本古代史論集﹄下巻所収︶

阿部猛﹃律令国家解体過程の研究﹄第三篇第一章︑前掲拙著第一

石母田正﹃古代末期政治史序説﹄第一章第一節

拙著﹃平安初期国家の研究﹄第二

村井康彦﹃古代国家解体過程の研究﹄第二部第二章

角田文衛﹃律令国家の展開﹄第六部﹁勅旨省と勅旨所﹂

﹃寧楽遺文﹄経済編

﹃大日本古文書﹄五の五五二頁

﹃類聚三代格﹄巻十九延喜二年三月十三日太政官符

﹃三代実録﹄貞観十七年二月二日条

﹃三代実録﹄貞観八年十二月八日条

﹃類聚国史﹄巻一○七大同四年五月十八日条

(35)

− 3 5 −

㈱ 剛 鯏 剛 ㈱ 6 5 ) 刷 刷 剛 6 1 ) 60i@9 (

﹃類聚国史﹄巻一○七天長六年二月六日条

猶︑﹃類聚三代格﹄巻十五延暦十四年正月二九日太政官符で京城内勅旨藍園七町と近衛蓮池一町を二司に充て園地としている︒

後者は近衛府に充てられたことに疑いないが︑前者について角田文衛氏の考察︵前掲論文︶があり勅旨所に充てられたとして

●●いるが疑問なしとしない︒﹁二司﹂とあり令制の正式の官庁を思わせ勅旨所でなく内蔵寮に当ててよいのではないかと思う︒

延喜内蔵寮式藍陸田条より藍陸田五町の存在が知られるが︑七町と五町の田積の相異はあるものの両者は同一の藍園を指すの

ではあるまいか︒田積の異同は百年余の年月の間に発生したのであろう︒かく推測してよいとすれば︑内蔵寮は染色の為の原

料供給地を供与されたことになる︒

﹃平安遺文﹄一四三号文書

竺祁Ⅱ智心帝↑﹄司咽川叩

角田文衛前掲論文

﹃続日本紀﹄和銅元年七月七日条

﹃平安遺文﹄四八九七号文書延暦八年六月十日勅旨所牒に大少允が見える︒猶︑角田文衛前掲論文参照

﹃類聚三代格﹄巻四延暦十八年四月二三日太政官符

﹃類聚三代格﹄巻四大同三年七月二六日太政官符

﹃日本後紀﹄大同四年三月十四日条 石母田正前掲書 、 〃 一

今月強﹄但し

延喜主税式勘租帳条 プ︵︾︒ ﹃三代実録﹄貞観六年三月四日条︑この日に太政官符により貞観寺へ施入されていることから︑元来宮より内蔵寮へ供与されていたものとしてよいと思う︒猶︑﹁平安遺文﹄一六五号文言参照︒﹃三代実録﹄と﹃平安遺文﹄では田積に若干の出入があ

(36)

− 3 6 −

㈱ ㈱ ㈱ 制 棚 側 ㈹ ㈹ ㈲ 側 W 3 m W 1 ) W O 脚 ㈱ ㈱ ㈱ ㈱

直木孝次郎﹃奈良時代史の諸問題﹄Ⅲの四

頭︒助に限るのは慣例として五位以上の官人が補任される顕官で︵﹃官職秘抄﹄︶比較的多く知られ︑ともに寮務を総裁する惣

判官︵職員令神祇官条︶だからである︒

﹃続日本紀﹄天平宝字八年九月十八日条

﹃続日本紀﹄天平宝字八年十月二九日条︑同天平神護元年正月七日条︑同神護景雲元年正月十八日条︑同三年八月十九日条

﹃日本後紀﹄弘仁三年十月六日条

﹃続日本後紀﹄承和十年七月二四日条

﹃日本後紀﹄延暦二四年十二月七日条

﹃日本後紀﹄延暦二三年六月二十日条

﹃続日本後紀﹄承和七年七月七日条

薬子の乱直後禁衛に当る衛府の強化がなされている︵笹山晴生前掲論文︶が︑かかる動向と関連があろう︒

﹃文徳実録﹄天安元年十月十二日条

﹃日本後紀﹄弘仁元年九月十日条

門脇禎二﹁律令体制の変貌﹂︵﹃岩波講座日本歴史﹄古代3所収︶

﹃続日本後紀﹄承和十年六月十一日条

﹃文徳実録﹄仁寿二年二月八日条

﹃三代実録﹄貞観九年十月十日条

﹃三代実録﹄貞観九年正月二四日条 延喜内蔵寮式食米条 延喜左右京職式勅旨所条

(37)

− 3 7 −

( 8 3 伽 側

㈱85)(84側 (89(8367)

前注

角田文衛﹁陽成天皇の退位について﹂︵﹃日本歴史﹄二四三号所収︶

﹃三代実録﹄貞観十年閨十二月二八日条︑また摂津守・左京大夫時代の良吏紀今守の言上をしばしば採用している︵﹃類聚三

代格﹄貞観二年九月二十日太政官符︑同四年三月八日太政官符︑同十五日太政官符︶︒猶︑前注棚参照

佐藤宗諄︒前期摂関政治﹂の史的位置﹂︵﹃日本史研究﹄六七所収︶

﹃三代実録﹄元慶三年五月二五日条

﹃三代実録﹄貞観四年正月七日条

﹃古今和歌集目録﹄︒猶︑﹃古今和歌集目録﹄では元慶元年十月十八日に大允となるとなっているが﹃三代実録﹄元慶六年正月

七日条に内蔵少允とあり︑一般的に見て六国史の記事により信葱性のあることから前者に錯簡があると考えられる︒

﹃公卿補任﹄寛平五年条

﹃三代実録﹄元慶八年三月九日条︒頭・助が官を去り助に源希が新任されている︒

池田源太﹁平安初期における文章の経国的性格﹂倉桓武朝の諸問題﹄所収︶

6

1

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