• 検索結果がありません。

原島川田藤村田山村川野實雄(名誉教授)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "原島川田藤村田山村川野實雄(名誉教授)"

Copied!
71
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)座談会・早稲田法学百年を語る. 座談会・早 稲 田 法 学 百 年 を 語 る. 出席者. 大. 星 中 杉 内 中 佐 鎌 浦 奥. 会. 司. 七︵名誉教授︶. 實雄︵名誉教授︶. 長. 吉三郎︵前法学会会長︶. 康︵法学会会長︶. 吉︵法研委員長︶. 澄︵法学部長︶. 士︵編集委員︶. 薫︵編集幹事︶. 夫︵総. 長︶. 康︵編集委員長︶. 道太郎︵編集幹事︶. 孝. 春 時. 昭和五七年一〇月二日. 七三. 午前一〇時から午後四時半. 校友会館二階一号室. 西. 篤屓武晴 所. 紙上参加 日. 場. 原島川田藤村田山村川野.

(2) ろうかと思われますので︑だいたい昭和二十四︑五年︑つまり. していただくのにはまだ少し機が熟していないということもあ. 七四. 本日は大変お忙しいところお集まりいただきま. 早法五八巻三号︵一九八三︶. 奥島︵司会︶. 早稲田法学. 旧制の終わりぐらいを目途にお話いただけれぽ︑というふうに. して︑ありがとうございました︒この座談会では というテーマでお話いただく予定でおりますが︑. 百年を語る. さて︑本日ご出席の先生方の中では︑大野先生が最年長者で. 考えています︒. 六十年ぐらい経過されておりますが︑外岡先生がお元気で本日. ございまして︑早稲田の高等学院に入学されましてからおよそ. 意味の早稲田法学百年ではなくて︑主として記録に残されてい. 早稲田法学百年といいましても︑厳密な資料を踏えた通史的な. ない︑当時の先生方のお人柄であるとか︑思い出話であると. ことができますけれども︑お病気のため残念ながらそれができ. ご出席できるということですと︑さらに十年ぐらいさかのぼる. か︑あるいは︑当時の大学の雰囲気であるとか︑学生たちの勉. 強ぶりであるとか︑そういった正史として残されていない︑最. ませんので︑大野先生がご経験になった早稲田大学六十年の歴. 近はやりの﹃生活史﹄の方を語っていただきたいと思います︒. 今までにも何度かそういう試みがあったというふうに聞いては. のあたりはもう歴史の専門家のお話を伺わなければいけないこ. とになります︒もっとも︑その当時のことにつきましても︑大. 史より以前の四十年間は誰しもご経験がないというわけで︑こ. 野先生と星川先生がいろいろ伝え聞かれていたり︑先輩の方々. おりますけれども︑活字になって残っているものは比較的少な ご出席の先生方が昔の法学部についてご記憶なさっていること. からエピソードとしてお聞きになったようなことがありました. いと思われますし︑それからまた︑建学百周年のこの機会に︑. からなくなるというおそれもございますので︑ぜひとも︑正面. お︑お話を聞く前に若干私の方で付け加えておきますと︑早稲. ら︑そういうことを付け加えてお話いただければ幸いです︒な. を今のうちにお聞ぎしていないと︑のちになってはまったくわ. ぎった正史としてではなくて︑いわば歴史夜話をお話いただく. そこで︑この座談会をどのように進めるかということでござ. ので︑一言申し添えておぎたいと思います︒. 立当時の事情が述べられており︑貴重な記録となっております. の巻末に﹁法科回顧録﹂が採録されております︒大変詳しく創. 田法学の第十三巻が﹁創立五十周年記念論集﹂と銘打って︑そ. というくらいのつもりで気楽にお話いただければ︑と思ってお. いますが︑明治十五年から今日までといいましてもちょっと歴. ります︒. 史が長すぎますし︑それとまた︑最近のことは歴史としてお話.

(3) 奥島. 法学部草創のころ では︑まず最初に︑明治十五年に始まる︑いわゆる草. どが︑ことによると︑アドバイスをしたんじゃないかと︑そこ. と︑その当時から大隈さんと非常に親しくなった小野梓先生な. 雄峻︑岡山兼吉︑山田喜之助というような先生方が授業を担当. すべぎだということになり︑大隈さん自身もその気になって︑. 律︑その他を擁した一大総合大学にまでなるという展望で創立. いたらしいんですが︑そんなものではなくて︑政治︑経済︑法. で当初は単なる理学校あるいは物理学校くらいのことを考えて. になり︑さらに課外講演として︑小野梓先生の話だとか︑坪内. されるわけなんです︒ただ︑場所が当時としては辺鄙な府下豊. もう創立のときには︑将来の展望を持って創立されたとも想像. 創の頃のお話から伺いたいと思います︒その頃の法科は︑砂川. しかし︑残念ながら︑三人の先生方はすぐに早稲田を去り︑法. 島郡下戸塚村というようなところであったために︑どうも初期. 雄蔵先生の話だとかがあった︑というふうに聞いております︒. 学部のいわば最初の苦難の時期を迎えるわけですが︑その頃の. の援助を当て込んでもやっばり自立していかれねばならなかっ. の目的に添わない︑つまり︑私立大学ですからいくら大隈さん. ない︑という点で︑初手から困難が付ぎまとったようです︒で︑. たわけで︑それにはある程度の学生が集まらないと経営ができ. 事情から︑中村︵吉︶先生にお話いただき︑それを補充する意. 今日の早稲田大学は︑明治十五年︵一八八二年︶. す︒では︑中村先生︑お願い致します︒. 味で︑杉山先生にも続いてお話いただけれぽ︑と思っておりま 中村︵吉︶. ︵南豊島郡と東多摩郡とが合併︶では︑なかなか学生が集まら. ないと︒しかも︑当時すでに神田あたりでは︑盛んに︑私立法. おそらく︑当時の東京の事情から言って︑東京府下の豊多摩郡. 律学校などが大勢学生を集めて盛んにやっているという点を見. 十月に東京専門学校として創立されたわけですが︑創立の真相. のは︑新しく養子に迎えた大隈英麿さんのために︑理学学校を. 史編集所などの研究によると︑最初は大隈さん自身が意図した. ていってはという︑いわぽ︑法科﹃出かせぎ﹄論すらおこった. て︑でぎることなら︑法律科だけでも︑なんとか神田辺にもっ. は︑よく我々にも詳しいことはよくわからないんで︑ただ大学. 作ろうとしたのが発端らしいんです︒ことに︑その﹁私塾﹂が. 七五. そういう点で︑幾度か曲折があったというふうに我々は承っ. わけですね︒. 将来一大私立大学に発展するような展望が確としてあったのか. たのかどうかも︑よくわかりませんが︑私個人の想像でいく. どうか︑また︑誰かが︑そういうことを進言した結果そうなっ. 座談会・早稲田法学百年を語る.

(4) 七六. 言葉を私は使っておりますが︑法制度の整備とそれによって民. 早法五八巻 三 号 ︵ 一 九 八 三 ︶. ているわけですが︑その関係上︑法学部というもの︑つまり法. いて︑官主導型の法律というふうな思想で教育する学校が一方. 衆をどのように統制していくか︑明治維新後の政治史の中にお. に存在して居ります︒これに対して︑自由民権運動などに刺激. 律学科と言ってましたが︑それも小野先生がおそらく︑将来の たんでしょうが︑どうも︑先生もうまく集まらない︑いわんや. 大学ということを考えれば法学部がなければということで創っ. えているわけでございます︒まあこれは︑中村吉三郎先生の分. をせられまして︑民の立場に基づく法律学校も︑これは若干見. 法省系統の法律学校︑それから幕府の蕃書取調所の系統をひ. 法律学の教育というのは官学が中心でございまして︑これは司. 十三年に出すわけでございますね︒それが︑まあ︑私立の法律. 府は︑学校が代言人を兼業しちゃいかん︑という命令を︑明治. なこともやっておるわけです︒ところが︑これに対しまして政. のなかで︑こんにちいう弁護士︑代言人を兼業するというよう. ここで︑ちょっと長くなるんでございますが︑これらのもの. ど︑が相当あるわけでございます︒. 野になるわけでございますが︑大井憲太郎の﹁明法学舎﹂な. 生徒も集まらないというわけで︑非常に困難であったというこ. それじゃ︑中村先生がおっしゃったことについて若. ようですね︒. とだけは確かで︑まず当初は︑なかなか坦担とはいかなかった. 杉山. く︑こんにちの東京大学にまでずっと来ました大学南校・開成. 干︑私が見てきた点を補足させていただぎます︒明治維新後の. 学校などと続く二つの系統があるわけです︒司法省系統の場合. 技術的なテクノロジストといいますか︑そういうものが要求せ. 事の認可を経なければ︑学校を創ることができないとしたのが. は︑今まで勝手に創ることができた私立の学校を︑都道府県知. 一弾だということができると思うんです︒でその次に︑今度. られまして︑各官庁はそれに応ずる人材を養成するための学校. 十三︑四年頃のことだったです︒こういう雰囲気の官と民と の︑法律学校の対抗の中に︑明治十四年の︑例の北海道開拓使. 学校⁝⁝こんにち言う塾ですね︑そういう塾に対する弾圧の第. を創ってきます︒たとえば札幌農学校なんかもそうですね︒そ. 官有物払下事件という事件が起こってまいります︒それで大隈. は︑これはボアソナードなんかの影響でフランス法系統が中心. 同じように︑司法省系統の︑法律学校などもあったわけです︒. れから︑工部省系統の﹁工部大学校﹂もございました︒それと. は︑獅子身中の虫であるというんで政府から追っ払われちゃう. になっていたと思われます︒結局明治維新においては︑非常に. これは︑私の独断でございますが︑﹁官の論理﹂というふうな.

(5) どういうつもりで大隈さんは︑東京専門学校を創設なさった. られた砂川雄峻先生が⁝⁝︒そして先程先生がおっしゃったよ. たように︑三先生がですね︑一番最初は大阪の向陽社に引っぱ. しおかしくなって来ています︒それは先程中村先生がおっしゃ. それで︑東京専門学校法律学科が創立二年ぐらいにして︑少. のかというと︑明治十四年の政変により薩長藩閥によって︑追. うに東京の都心で法科を開けというんで︑岡山先生とそれから. わけです︒. る者を糾合することを考えられ︑とくに若い人々を集め教育す. っと綿密に調べますと︑そのうしろには︑政府の手がのびてた. 山田先生︑この先生方が引っばられてしまう︒あとの資料でず. 放されてしまった︒大隈さんは︑自分と政治的志向を同じくす ることを考えられたと思われます︒そして︑東京専門学校に法. 学部が若干変身いたします︒それは何かと言いますと︑東京大. もう一つ重要なことは︑この明治十七年に︑東京大学の︑法. ということが出てくるのです︒. 科を創立時からつくったのです︒その大隈さんの︑官に対抗す る論理︑それを貫徹するのにはやはり何と言っても法科が一番. 学法学部に﹁別課﹂というのができるんです︒その﹁別課﹂を. 現実的でございますので︑そういう点で︑細かいことはわかり ているわけなんです︒でそういうことでございますから︑東京. ませんが︑法科を重視し創られたんじゃないかと僕は推理をし. ろいものでございまして︑それは二つ理由があるんですね︒そ. に出した建議書にあるんでございますが︑これが非常におもし. の一つというのは︑当時東京大学の卒業生というのは毎年七人. 創ったときの理由というのが︑時の穂積陳重先生などが文部省. 得業生︑こんにちの卒業生でございますが︑これが出てるんで. 専門学校全体をみると絶対数の学生は少ないんですが︑創立の. すが︑その時の法科の卒業生は十七人でございます︒これは政. ど法律専門家が国の需要に満たない︒どうしてももっとたくさ. ぐらいしか出ないんですが︑これでは優秀な裁判官や行政官な. ときは法科は相当学生数が入るんです︒で︑十七年に第一回の. その当時は三年制の学校なんでございますが︑どうも一年生だ. 治科なんかにくらべますと二倍の卒業生が出てるわけですね︒. る実学を持ったような人たちが欲しい︒それからもう一つは︑. ん法律家が欲しい︒高漣な学理はともかくとして現実に即応す. この方が大切なんでございますが︑どうも今見ていると各法律. けではやってけないというんで︑二年生も二年編入を募集をし. 学校はてんでんぽらばらにやっているじゃないか︑これは問題. ております︒そこに入ったのが︑監獄学の小河滋次郎だとか︑ に有名な方々がそこから出てくるわけなんです︒. 七七. それから民事訴訟法の岸小三郎︑また板谷確太郎だとか︑非常. 座談会・早稲田法学百年を語る.

(6) 七八. くわしくお話願ったらいいと思うんでございますが︑明治十八. 早法五八巻三号︵一九八三︶. である︒東京大学の法学部のやっていることを最高権威として. して東京の私立法律学校に対する︑﹁特別監督条規﹂というの. を作ります︒試験とか︑どういう授業をするかというふうなこ. 年あたりに︑文部省が東京大学による︑東京専門学校を始めと. いじゃないか︑そのためにはどうしても今までみたいなもので. める︒これはアメとムチの政策でございましてね︑アメの方. とを︑東京大学法学部長が監督をする︑こういうことをやり始. ピラミッド型に︑一番頂点に東大の法学部を置いてそのもとに. は困るんで︑﹁別課﹂というものを創れというふうなことを出. ずっと各法律学校を置く法律学の教育を行うことを考えたらい. すわけです︒そこでこの﹁別課﹂で始めて東京大学では日本語. は︑それによって︑当時兵役法が改正されたんでございます. か将校になることを認めるとしたのです︒ですからその当時︑. が︑その監督を受けた学校については﹁一年志願﹂を認めると. で︑法律学の講義をするというふうなことになるわけです︒. ところが︑我が東京専門学校では建学と同時に︑小野梓先生. 政治経済学部とか文学部なんてのは︑そういう恩典がないわけ. の建学の時の演説もございますように︑目本語で法律学の講義. 立の時の演説を見るとですね︑﹁感奮興起せざらんや﹂という. をするわけでございますね︒だから︑あの小野梓先生の学園創. います︒それから︑当時︑代言人になったりなんかする場合. に︑東京大学出身者は︑そのまま無試験でいくんです︒ところ. です︒で彼らがかんかんになって騒いだというふうな話がござ. が︑私学の連中はそういうわけにいかないですね︒それで︑監. 気になりますね︑この気持ちをこんにちでも僕は持たざるを得 ないようなすばらしい演説だと思うんです︒国の独立というふ. 督をせられた学校︑東京の五大法律学校だとか︑六大法律学校. だなどというふうに言っておるんでございますが︑その学校出. 烈々たる気迫を持って演説をされた︒片方の東大の方は︑便宜 上︑外国語じゃ困るから目本語でやろうじゃないかというふう. で判任官見習になる資格が与えられている︒こういうふうなこ. 身者については代言人試験を受ける資格を与える︒また無試験. うなものは学問の独立が前提をなすというふうなことですね︑. なことで︑これは︑どうもちょっとここではやはり東京専門学. ことがあるんでございますがね︑早稲田がいかにいびられたか. それからもう一つね︑僕はぜひ先生方に聞いていただきたい. とを行なってるわけです︒. 校の方が︑相当将来を見通した︑高適な理想を持ってるという. ﹁官﹂の論理が︑この﹁別課﹂を契機にして︑私立学校に対す. ふうに思わざるを得ないわけです︒ところが︑こういうふうな. る統制の間題として出てくるんです︒これはあとで中村先生に.

(7) さっき言ったような三人の先生方を早稲田から引き抜くといっ. 府の﹁密偵﹂が教室にまで入り込んで探索をしたり︑あるいは. 早稲田は非常に政府からにらまれ︑いびられて居りました︒政. 回帝国議会の︑議事録から引っぱり出したものですが︑それは. というふうなことでございますが︑次のような記録を私は第一. す︒これは﹁監督条規﹂を継承したわけです︒となるともう︑. 文部省が︑直接監督をする︑﹁特別認可学校規則﹂をつくりま. わけですね︒そして東京大学による監督に続きまして今度は︑. の金が来るわけなんですね︒そういう状態に早稲田は置かれる. っていうとですね︑だいたい一つの学校について十万円ぐらい. にもならないですよ︒学生が第一︑集まりません︒民の論理で. って︑大隈さん情熱を燃やして創立しても︑これはもう︑どう. やったらですね︑徴兵もだめだし︑それから︑資格もなんにも. 早稲田法律学っていうのは︑建学の始めにおいて民の論理に従. げますと︑二・三の特定の私立法律学校には毎年度二万円の︑. た断圧をするわけですね︒ところが︑自分たちの気に入った学. 政府から補助金を出しているんです︒ですから東京専門学校な. で︑早稲田は︑建学の理念を捨てざるをえなかったんじゃない. もらえないなんていうことになります︒明治二十年を待たない. 校についてはどういうことになっているかというふうに申し上. り倒すようなことをやってる︒しかし他方自分たちの言うこと. ちゃいますね︒言い忘れましたが︑官立の学校の先生︑それか. それで︑二十一年になりますと︑大隈さんは外務大臣になっ. か︑と思います︒. どには︑そんなものはすずめの涙も出さない︑反対に横っ面張 を聞くような学校については︑当時の二万円といったら莫大な この特定の私立法律学校に対する補助金の支出が第一回の帝国. が出たんですね︒ですから︑三先生が行かれちゃってもうぜん. ら判検事は早稲田へ教えに来てはいけなかったんです︒禁止令. 金でございますね︑毎年でございますよ︑これを出している︒. 先生が議員なんですが︑高田早苗先生が︑この問題について帝. てみたり︑それから英法がだめだからこの際仏法に変えようか. ぜんお手上げ︑万歳なんですよ︒それで反対党の人を呼んでき. 議会で︑はしなくも問題になります︒それでこの時︑高田早苗 国議会で演説をぶって政府を追及しております︒もとより他の. パウゼの期間を置こうじゃないかというふうな議論が出てくる. なんていうふうなことになってみたり︑っいには法学部は少し. 議員からも質問が集中するわけですね︒そして理のあるところ を長時間に渡ってやられたもんですから政府側委員はタジタジ. 七九. わけです︒ところがこれは︑大隈さんの決意によって︑細々な. になり︑ついに︑この補助金についての予算は削除されてしま います︒だけども三・四年続いたんですから︑毎年二万円ずつ. 座談会・早稲田法学百年を語る.

(8) がら法律学科は続いていく︒二十一年になると︑先程申し上げ. 学校ノ試験二臨監セシメ及ヒ管理︑授業等ノ実況ヲ視察セシム. 規則第九条によれば︑﹃文部大臣ハ︑特二委員ヲシテ特別認可. 東京府下だけの問題でなく全国的なもんで︑それによると︑同. 八○. ましたように大隈さんが外務大臣になる︒すると︑東京大学の. 早法五八巻三号︵一九八三︶. 方もですね︑早稲田に教えに来ることになる︒それからずっ. ﹃文部大臣ハ特別認可学校ノ管理及ヒ授業上改良ヲ要スルモノ. ルコトアルヘシ﹄とありますが︑さらに同第十条によれぽ︑. アリト思慮スルトキハ該学校二対シテ其改正ヲ命ス又本規則二. と︑東大の方々とか︑判検事の方々が︑早稲田に教えに来てく 点では息をついていく︒しかし早稲田は︑建学の精神というも. 依リ特別認可学校タルノ資格ヲ有セシムヘカラスト思慮スルト. ださることになります︒そこで若干︑経営的というかそういう のを︑やっぽり失なわざるをえなかったんじゃないかというふ. の管理運営ができたわけである︒そのかわり︑いわゆる文官高. キハ其認可ヲ廃止ス﹄と︒まったく文部省の方針どおりに学校. 等試験の受験資格︑それから徴兵猶予の特典も与えるというわ. うに僕は思うわけなんです︒まあ︑だいたい私はそんなこと いやいや︑間違ってないですよ︒そのとおりなん. け︒まさに︑アメとムチになるわけですが︑それでも特別認可. 中村︵吉︶. を⁝⁝︒何か先生︑僕間違ったことを言ってるでしょうかねえ︒. ですよ︒それで︑東京専門学校が東京帝国大学総長の監督下に. 立法律学校が特別認可学校になったわけですね︒そんなわけで. 学校になりたいというんで︑結局︑東京専門学校ほか七つの私. けですが︑残念ながら十九年の一月十一日には︑小野梓先生は. 有力な私立大学︵自称︶は一様に文部省の統制下におかれたわ. 規﹄によってのことで︑それによると﹃文部大臣ハ東京府下 二於テ適当ナリト認ムル私立法律学校ヲ択ヒ︑特二帝国大学総. 置かれたというのは︑明治十九年︑﹃私立法律学校特別監督条. 長ヲシテ之ヲ監督セシムルコトアルヘシ但本文ノ学校ト錐尚一. なくなられて︑もういらっしゃらない︒もちろん小野先生がな. 何といっても︑大ぎな痛手であ. 今︑中村︑杉山両先生に綿密な歴史考証に基づく早稲. 田大学の歴史の出発の頃を語っていただきましたが︑どうでし. 奥島. ったことは確かですね︒. なるということはないですが. 般私立学校ノ例二依リ地方官ノ管理ヲ受クルヘキハ勿論タルヘ. で︑それで︑先程杉山先生が言われた︑その傾向. ああ︑それは今のフラソスの大学区的な発想ですね︒. くなられたから早稲田の独立は失われ︑その精神はおしまいに. 奥島. シ﹄というのです︒. 中村︵吉︶. が︑さらに明治二十一年になりますと︑同年五月五目文部省令 第三号﹃特別認可学校規則﹄というのができる︒それになると.

(9) ふうな形で伝わって話されていたのか︒先生方の学生当時の実. 早稲田が当時の藩閥政府にいじめられた話が学生の間でどんな. ようか︑長老の大野先生︑星川先生が大学に入学された頃に︑. 所の判事もやってるんですね︒法律というものの重要さをかな. ろん︑それを察知してましたし︑それから若い時に長崎の裁判. そういうムードがかなりあったんじゃないか︒大隈さんはもち. り大隈さんは感じてたんじゃないか︑そういうことが一つ考え. さんの心中を推し量りますと︑こんなことが言えるんじゃない. んで御馳走をして花火を上げて︑早稲田の法律科ですか︑大い. もう一つは︑大隈邸に東京帝国大学の法学部の先生を全部呼. られる︒. 体験に基づくお話を伺いたいと思いますが︒. 大野 これは私の︑何と言いますか︑推測みたいなもんです. かと思うんですが︑条約改正ですね︑条約改正問題があってご. 隈さんに御馳走になって早稲田のお屋敷で花火を見せてもらっ. に応援してくれと︑そう言って振る舞ったと︑そういうことが 法学協会雑誌の三号か二号に出てるんですね︒雑報欄にね︑大. けれど︑大隈さんが早稲田を創り法学部を創ったという︑大隈. エスレル︑それからジ.ルジュ・ブスヶ等をはじめ︑いわゆる. 承知のように大奮闘された︒その当時︑ボアソナードとか︑ロ お雇い外国人が目本にたくさん来てまして︑その人たちの書い. はそう書いてあるけれども︑大隈さんとしてはやはり︑なんて. 言いますか︑法学部を創るんだから応援してほしいといったよ. たなんて出てるんですよね︒そうすると︑東大側の資料として. い人情とか︑習慣︑風俗といったようなものを知らないで︑と. じはしますね︒. うな気持ちで非常に熱を入れておられたんじゃないかという感. たものを見ますと︑日本の政府は西洋のことを︑あんまり詳し. で︑とにかく外国の法律を翻訳して︑日本で法律を作らなきゃ. それからもう一つ︑この資料にもありますけれども︑小野梓. にかく法典を作らなきゃ治外法権も撤廃してくれない︒それ だめだ︒裁判所も作って治外法権を撤廃しなきゃ︑条約改正な. ご存知でしょうけれども︑大隈信幸さんが︑大学資料室へこん. 先生が大隈さんに手紙を出していて︑これは︑中村先生がよく. なものあったからと言ってお持ちくだすった︒つい最近発見さ. んてことはなかなかできないと︒これは︑ジョルジュ・ブスケ. だめって言われたようなごろつきみたいな人々が領事裁判をや. して︑なんて言いますか︑早稲田の危機を救った方がいいとい. れた文書だっていうんですけどね︑一時法学部を中止して︑そ. の日本見聞記を読みますと︑横浜の居留地でヨーロッパの掃き った︒それじゃもうとても耐えきれないといったようなことか. 八一. ら︑自然に︑どうしても近代的な法典を作らなきゃいけない︑. 座談会・早稲田法学百年を語る.

(10) 早法五八巻三 号 ︵ 一 九 八 三 ︶. 八二. かといいますとね︑今目は早稲田の敷居が高くて入りにくかっ. 友としてお祝いの言葉を述べに来られた︑それでなんて言った. た︑立法府にいたのに役人になっちゃったと︑なり下がったっ. どね︑入学式の時に当時の大蔵大臣の早速整爾っていう方が校. ら︑その人を早稲田へ引っ張ってこようと思ったら︑一足違い. て言われるんですよね︒早稲田っていうのは︑えらい先輩のい. ったようなことを書いておられましてね︑そこに︑磯野計︑銀. で母校の回橋の方へ︑東京高等商業の方へ先約があってそっち. 座の明治屋の当主ですね︑その人が一橋出身だったもんですか. 理だったら一時中止した方がいいんじゃないかっていう︑小野. 行っちゃった︒そういう事情があって︑法学部っていうのは無. 述べられまして︑私はあやまって文部大臣になっちゃったと︑. るところだなと思いました︒そのあとに高田早苗先生が祝辞を. も敷居が高いとか︑間違って文部大臣になっちゃったとか︑入. 早稲田騒動のときのことを言うのですね︒大蔵大臣も文部大臣. 梓先生の︑老侯当ての手紙なんですけれども︑どうもそれに対 して大隈さんが黙殺しちゃってる︒そうすると︑あの小野梓先. ろえて︑早稲田の創立以来の薩長藩閥にいじめられたっていう. ったとたんに︑先輩や大山郁夫先生とか安部磯雄先生が口をそ. たたき込まれたっていいますかね︑そんな記憶があります︒. で浅沼さんや大山先生からこんこんと言われて︑早稲田精神を. で政経の二十番教室っていう有名な教室がありましてね︑そこ. ん︒あの人たちがよく来て︑その当時法学部は教室が小さいん. 大山郁夫先生︑それから若い人では︑殺された浅沼稲次郎さ. 思ってびっくりしたことがありました︒. 学式のその日に言うんですよね︒これはまあすごい学校だなと. 生でさえそう考えられたのに︑老侯はそれを握りつぶした︒そ れで創立以来一日も絶えないで法学部は続いてきたんだと︒. そう考えますとね︑大隈老侯は本当に法学部の大恩人である. ことをいやというほど聞かされましてね︑それはもう本は読ま. と︑私はそんなふうに判断しておるわけなんです︒早稲田へ入. なくても先生方みなそうおっしゃるんだから昔は大変だったな っていうことはおよそわかってはおりました︒それはこういう. 星川あのう︑明治十二年に東京専門学校創立する時の︑専. 奥島. まして︑その時に・⁝. 門学校というのは︑外国語をもって専門学校は教育しなけれぽ. 星川先生どうぞ︒. ことでもわかるんですねえ︒高等学院に入った時入学式があり. したけれども︑その時に早稲田大学では外国語じゃなくて日本. ならないことになっておったというようなこと︑聞いておりま. 大正十三年か四年頃でしたね︑古い話になりますけれ. 奥島 何年ですか︒. 大野.

(11) 語をもって教育するんだということを言っても︑別に弾圧を受. 生︵民訴︶︑大浜先生︵商法︶︑外岡先生︵身分法︶︑中村彌三. 法︶などが御元気でしたし︑中堅どころの教授には中村宗雄先. した︒遊佐先生︵民法︶︑中村萬吉先生︵民法︶︑寺尾先生︵商. 次先生︵行政法︶︑長場先生︵商法︶がおられました︒それに. れども︑とにかく︑非常な弾劾を︑政府から弾圧を受けたこと は︑今︑中村先生︑杉山先生も詳しくお話をしてくださった︒. も在外研究にでておられる先生も二・三おられました︒外来の. 大学も若い研究者の養成に力をいれておりまして︑法学部から. けなかったもんだろうかと︑ちょっとそう私は思ったんですけ. なか維持でぎなかった︒いやしくも政治だとか法律なんかって. 先生方の引き抜きなんかも非常に激しくて︑法律の講座がなか. 法総論︶︑嘉山判事︵債権法︶︑岡田朝太郎先生︵刑法各論︶︑. 先生としては東大の美濃部先生︵憲法︶︑大審院の草野判事︵刑. 研究からお戻りになったばかりでした︒この時期には機関誌早. 阿部文次郎判事︵破産法︶などでした︒たしか江家先生は在外. いう高級な学間は︑早稲田みたいな田んぼのところでやるべき いって引き抜きが行なわれたというようなことも聞いておりま. もんじゃなくて︑すべからく中央でやらなくちゃならないって. したが︑そこでただ創立して二十年経った時には法律学科でも. れておりましたので︑今日の法学部の基礎がしっかりかためら. 稲田法学も刊行され掲載された諸先生の論文は学界でも注目さ. ったことは︑﹃改進党﹄を作ったこと︑﹃東京専門学校﹄を創っ. 奥島明治十四年の政変で野に下った大隈が翌十五年に行な. 法学部の基礎を築いた人びと. れたといえると思います︒. 政治学科でもそうですけれども非常にいい先生方がそろってお になったんだということを聞いておりまして︑どんなにつらい. り︑また教育環境も整備され︑学生も非常に多くなって︑大学 思いをなさったものか先輩の先生方の気持ちもよくわかります. お話を伺いましたけれども︑我々の時にはそんなに切実には︑. というものがどうして培われてぎたかというようなことはよく. つであったそうですけれども︑そのうちの東京専門学校につい. たこと︑それからもう一つ︑﹃報知新聞﹄を発刊したことの三. し︑また私共が学生の時にはやはり︑早稲田大学が︑在野精神. そのことについて先生方から︑ひどい目にあったんだから我ら. 八三. す︒その時︑法科を支えた恩人たちがいるわけで︑それは大き. ていえば︑建学早々まず法科が崩壊の危機に直面したわけで. 奮起しなければならないというようなお話はあまり伺わないで. 私共の学生の時には法学部の教授陣はかなり充実しておりま. きました︒. 座談会・早稲田法学百年を語る.

(12) 早法五八巻 三 号 ︵ 一 九 八 三 ︶. 八四. ますね︒ですから今︑奥島さんがおっしゃった俣野時中︑関直. ただ︑中村進午先生は少し時代がちょっとあとになり. 彦︑三宅恒徳︑それから市島謙吉︑坪内雄蔵︑天野為之なんて. 杉山. も︑具体的に法科の授業など教育面で法科を支えていた先生. な意味では大隈さんが頑張ったということなんでしょうけれど 方︑たとえぽ︑関直彦とか︑三宅恒徳︵三宅雪嶺の兄︶とか︑. っていうことが四方にあらゆる面から出てぎてるような︒それ. で最終的には﹁臨時議員会﹂を開催して最終的には大隈さん. いう方々ですね︒なんか当時の記録を見るともう︑法科やめろ. が︑決を下したというふうなことが︑これは山田霜岳の﹁波瀾. 俣野時中とか︑平田譲衛とか︑中橋徳五郎とかいった方々がい て︑その方たちはどのような人だったのかということについて. らっしゃったようですが︑ほかにどういう方々がいらっしゃつ. は︑私共にまったくわかりません︒そのあたりのことをお教え. 奥島. 私共にわからないのは︑創立当初から寺尾先生たちの. ふうな記録が残っております︒. いう人は︑これはやめろということについて反駁をしたという. 史﹂というものに載っておりますが︒俣野時中とか沼間守一と. ええ⁝⁝︑磯部醇︑板屋確太郎︑中村忠雄︑片山清太. いただけませんか︒. 杉山. 郎︑薩埋正邦⁝⁝そういう方々のですね︑全部﹁百年史﹂でど. 所謂法学部のコニ尊﹂が出てこられるまでの間︑法科の歴史が. ういう方なのかというようなことを調べたんだけども︒あの. 法科といっても︑いうなれぽ寄り合い所帯だった. わからないですね︒. んですね︒中心ができたのはやっぱり︑早稲田の法科からご出. 中村︵吉︶. 杉山. いうことがどうも判然としません︒. 非常にあいまいなように思え︑どこに法科の中心があったのか. 直彦ですか︒法理学︒. う︑反対党の方もいますね︑新聞記者で︒関︒大隈さんの反対 奥島. どうだったかな僕そんなものを全部︑履歴を書いたと. 党の人なんだけれども︒. 杉山. 中村︵吉︶ 何と言ってもね︑はじめの頃の法科を支えてくれ. における早稲田の法科出身者ってのは︑寺尾元彦︑遊佐慶夫︑. 身の先生方が生まれてからのことです︒この最初の頃の明治期. ころがある⁝⁝︒. た一大恩人は中村進午先生でした︒中村進午先生は元来︑東京. れて︑そして早稲田の法科の先生になられた︒ここから非常に. 中村萬吉の三長老の先生方で︑いずれも明治時代に法科を出ら. 帝国大学の方でしたが︑その後︑早稲田へ来られてほとんど︑. ら︑なんかそこに中心があってね︒. 法科科長をずっと続けて大正時代までやってこられた︒だか.

(13) 独自性が出てきたんですね︒いわば実質上の早稲田法学の生ま. か岡山兼吉︑それから山田喜之助等々︒. 奥島 その少し前の時代に早稲田法科の専任スタヅフを養成. とったんですね︒それで︑いつか関西大学へ行った時に︑あそ. 田をやめて大阪へ行って弁護士やりながら︑関西大学の教鞭を. これも余計なことですけれども︑砂川雄峻という方は︑早稲. するために︑最初から予定されて育てられてきた坂本三郎と. いですかといろいろ根掘り葉掘り聞いたんですがね︑何も残っ. この先生方や図書館の人に︑砂川雄峻さんの何か書いたものな. れたのはその時期なんですね︒. か︑井上析治という先生がいらっしゃるんですが︑その先生た. これはね︑大野先生︑例の人生劇場のですね︑あの早. 大野. その頃︑早稲田は田んぼの中で非常に不便だった︑そ. 法学部の恩人関直彦先生. り︑神田の中央大学ですか︑あっちへ行かれた︒. てなかったですね︒で︑そういう人が抜けて弁護士を開業した. ちが︑期待に添わずに学校を去られていったという︑そのあた. 杉山. りの事情は⁝⁝︒. 稲田騒動も相当強く影響しているようでございますね︒ 大野 そうですね︑坂本三郎先生はあの当時︑名義上の学長. れを助けてくれたのは︑関直彦という人なんですね︒これは犬. に推されたのに固辞しています︒旧姓は渋谷三郎︑樋口一葉と. 許婚の仲で︑大分騒がれたようですが︑明治二十一年邦語法律. の教員陣容の強化のために尽くしてくれたということは寺尾先. 生がよく言っておられました︒法学部の危機を救ってくれたの. 養さんの党派の人でしょう︒関直彦さんが非常に骨折ってあと. 明治三十三年には海外留学生としてドイッに赴き︑ライプチヒ. は関直彦っていう人だよ︑と︒それで︑法学部の学部長室に関. 科卒︑内務省畑のエリ;ト・コースを歩み︑山梨と秋田の県知. 大学で研究︑帰国後は法科の教務主任︑専門部長を歴任︑私の. ですね︒. 直彦さんの書の横額があったんです︒今でもどっかにあるはず. 事になられましたが︑間もなく辞めて︑母校の教授に返り咲き︑. リストの刑法学などを講じられ︑草野豹一郎先生の前任者でし. 法学部の火を消さないで続けてくれたっていうその功. あります︒. 学生時代には早稲田専門学校長でした︒また︑井上析治先生は. たが︑寺尾︑遊佐先生等と組んで行なったプ冒テスタント・恩. 大野. 八五. 労者は関直彦さんだと思いますね︒その頃は︑講師を頼むとい. 杉山. 学内のもめごとで先生方がどんどんやめていった︒砂川雄峻と. 賜館組事件のあと辞められた方です︒しかし︑その前︑弾圧や. 座談会・早稲田法学百年を語る.

(14) 中村︵吉︶ 新宿とか池袋に当たるわけですよ︒. 八六. ったって︑目比谷とか神田の方の人が早稲田へ来るにはみんな 大野. 早法五八巻三号︵一九八三︶. 馬に乗って来られたって言いますね︒それでたいてい授業が夜. 中村︵吉︶ あそこでもう東京の市街はおしまい︒すべて交通. を焼いた先生がいたなんてことをよく聞かされましたけどね︒. 機関はあそこで終わる︒あとは甲府鉄道があるということで︑. そう︑そう︒. 学だった︒夕方からランプをつけて講義された︒ランプでひげ. そうなんです︒私︑学生時代は︑新宿じゃなくて飯田. あそこから甲府の方へ行くんだと︒. だからあそこが終着駅なんですよ︒. 町駅から︑長野行き︑松本行きに乗ったものです︒. 大野. その頃は︑丸善のセールスマソは日本橋の店から行李をしょっ. て︑洋書を十冊くらい入れてくるんですかね︑わらじをはい て︑一番最初に陸軍士官学校へ洋書を入れ︑その次に早稲田へ︑. 大野. 中村︵吉︶. なんか︑先生︒飯田橋の方がメインストリートだった そうなんですね︒. 飯田橋がね︑ターミナルなんですよ︒あれが今で. だからそれからこっちは何の設備もないんです. ああそうか︑今の飯田橋のところに﹁ヤード﹂がある. 大隈さんが︑そもそも早稲田へ住まうようになっ. あの今の九段会館︑あのあたり︒. 維子橋ってどこら辺にあるんですか︒ 中村︵吉︶. 杉山. にいらっしゃったんですよ︒. たのは明治十七年なんですよ︒十五年の時はまだ飯田町維子橋. 中村︵吉︶. んな泥のハネを跳ね上げて⁝⁝︒. からここへ来るのがすごい泥んこ道なんですってね︑それでみ. んですよ︑貨物やなんかの︒あそこが飯田町っていう︒あそこ. 杉山. よ︒. 中村︵吉︶. っとあとなんですよね︒. そうです︒新宿から中央線が出るようになったのはず. といいます︒大隈さんが早稲田に学校を創り︑法学部を創って. それから目白の女子大へ届けて︑それでもう目が暮れちゃった よその先生をスカゥトするのも︑今のように楽じゃなかった︒. 非常に苦労があったんで︑だから花火を上げて頼んだって言わ 労でした︒今じゃ非常勤講師頼むのに花火上げるどこじゃない. れるのもよくわかるような気がするんですねえ︒もう大変な苦. 杉山. や︒︵笑︶. 大野. んですね︒. の. 中村︵吉︶ ヤ. そうです︒確かにそうです︒. 上野ですか︒. しうと⁝:. 大野. 奥島.

(15) 十四年の下野ということもあったし︑そんなこんなで︑結局︑. ね︒別荘として手にいれられたそうです︒で︑その一部︵戸塚. 中村︵吉︶ はじめは︑早稲田村の邸宅は別荘だったんですよ. 杉山 九段会館︑ああ︑あそこですか︒. っておりますが︑今あの五階の第四会議室にたくさんあるでし. してね︒冗談じゃないなんてですね︑やられてそのまんまにな. うなことを︑というふうなことを提案したら一喝されちゃいま. かにしかるべく︑たとえぽ会議室なり何なりにですね掛けるよ. 致しましてね︒ある時︑これはもう法学部の恩人だから︑どっ. ょ︒あれは︑僕は倉庫なんかへ入れちゃいかんと思うからね︑. 村となるが︶を東京専門学校に提供されたわけ︒それに︑明治 早稲田へ居を定めるようになったようです︒. の当局の先生方にお願いしたいですね︒やっぱりあれはしかる. あそこに︑入れてあるんですよ︒ですから学部それから大学院. べき所にちゃんと額を直して︑ちゃんと置いていただきたいと. 奥島 あのう︑今のお話で︑法科の実質的な中心は関直彦先 か︑そういうふうに続いていったということのようでございま. 生︑次に三宅恒徳︑俣野時中両先生︑そして中村進午先生です. あれは杉山先生ね︑そんなに強い反対があったんじゃ. 睨まれてるようでいやだって言ってそういう冗談言われたらそ. じゃんになった︒大した理由があるわけじゃないですよ︒毎目. られてるみたいでいやだって言ったのよ︒︵笑︶ それだけでお. ないんですよ︒ある先生がね︑あれを掛けられると︑今でも怒. 大野. いうふうに思うんですね︒. よくはわかりませんけれど⁝⁝︒あの犬養さんの子分. はどういう方だったんでしょうか︒. すが︑その東京日日新聞の論説委員であったという関直彦先生. 大野. したね︒衆議院副議長をつとめた人ですね︒どういう関係で大. でなんていうの︑国民党とか革新クラブとかいう政党︑領袖で. 隈さんにそんなに肩を入れたのかわかりませんけども︑この方. いやあ︑なんか︑杉山さん何を言うのか︑というふう. れでみんなだめになっちゃった︒. なけんまくでもってやられましてね︑僕はよっぽど︑その方に︑. 杉山. が恩人だということは寺尾先生からくどいほど言われました 杉山 私もねえ︑若干そういうことを聞いておりますし︑そ. ね︒. と思うというふうに言おうと思ったんだけども︑こいつは教授. 早稲田の歴史を紐解いてみれば︑僕の気持ちがおわかりになる. 八七. 会の席上でそんなことを言い争うのはなさけない事だと思って. れで遊佐先生︑それから寺尾先生︑中村萬吉先生等々のお写真 ですね︑埋もらしとくってことはもう︑申し訳ないような気が. があるわけですよ︒それをね︑何かこの︑法学部の倉庫の中に. 座談会・早稲田法学百年を語る.

(16) 早法五八巻三号︵一九八三︶. 杉山. 八八. 私たちの時があの最後ということですね︑途中でおな. でございますからね︑元気なおもしろい講義なさらないで︑お. くなりになっちゃった︒その時はもうご病気で︑もう最後の時. そうですねえ︒あれなんか本当に⁝⁝. くっつけたのがございますね︒. 僕は黙ってたんだけども︑関先生のお写真なんかちゃんと勲章 大野. 前ら騒ぐんじゃないよ︑なんてえな調子で御座居ました︒. 中村進午先生は昭和十四年におなくなりになっ. ちゃんとし て い た だ き た い と 思 い ま す ね え ︒. 中村萬吉先生も僕は始め入学した時はカリキュラムに. 昭和十三年︑私の卒業した年ですか︒. 僕はその時に入ったんですから︒. 法科専任スタッフの養成. るんでね︑いつかも書いたことありますけれども︑寺尾先生が. 寺尾先生は私が生まれた年に法学部を卒業しておられ. ドン︵床を蹴る音︶と足をならした︒で︑早稲田の学生は新し. 明治三十八年に法学部を卒業なさった時に︑私は当歳だった︒. 大野. 杉山. 中村︵吉︶. った時はもうすでにおなくなりになってたですね︒. 中村萬吉先生って書いてあったんでございますが︑講義が始ま. 杉山. た︒七十歳でした︒. 中村︵吉︶. 杉山 坂本三郎先生のは⁝ O. 坂本先生のもあります︒. 中村︵吉︶. 杉山. 中村進午先生のもありましたですよ⁝⁝︒それで︑あ. 中村進午先生のこと. 大野 ありますね︒. 星川. の先生には我々も教えていただいたんですけれども︑講義の非. 常に上手な方でした︒早稲田大学で始めて講義をなさった時の 思い出話をなさった︒先生は新進気鋭の国際法学者ですから︑. い学説に対して共鳴すると︑足をバタバタするのが慣習なのか. とはわかりませんけども︑私︑法学部として大隈さんに感謝し. だから︑何と言うか︑それくらい時代が違うんでその当時のこ. 国際法もまた法なりと講義をした︒ところが学生が︑ドンドン. ていうのはとんでもないことで︑学生が大反対の意思を表明し. っとあとですけども︑東海道線の在来線を今の神戸へ通す時. なきゃならんことはもう一つあると思うんですがね︑それはず. なと思った︒ところが︑あとで聞いたら︑国際法が法なりなん たといわれた︒︵一同笑︶ それでびっくりしたというようなこ. に︑小寺謙吉さんが︑神戸の資産家でしたが︑非常に喜ばれた︒. とを話されたことがありました︒その頃はまだ国際法は法なり ということが定説で は な か っ た 時 代 だ っ た と 思 い ま す ︒.

(17) った時に︑大隈さんは︑お金はいらんから本を買って入れてく. 話になったんで︑何かお礼をして早稲田に寄付したいんだと言. 小寺邸は今は神戸市営の公園になっています︒大隈さんにお世. で実施されたのでしょうか︒つまり助手とか研究生とかいうよ. けれども⁝⁝この三先生を養成する制度は︑当時はどういう形. った第一期生の坂本先生︑井上先生は大学を去られたわけです. うな制度であったとか⁝⁝︒ 杉山 あのね︑明治三十八年の七月に︑早稲田大学第一回の. れとこうおっしゃった︒小寺さんは︑ドイッやフランスに六年 もいて勉強した方で︑自分で新しい本を丸善などへ行って選択. 間︑有給の特待生︑フェローをつくろうじゃないかというん. で︑法科からは︑第一期生として︑北原淑夫という方が出たん. 卒業生が出たんですよ︒それを機会に︑各科から一名ずつ一年. ですね︒で︑第二期生が寺尾元彦先生です︒これはまあ︑特待. に本を贈ってくれた︒ところがよその大学ではお礼状を出すの がなかなか遅い︒早稲田には︑図書館に本の嫌いな人がいて︑. 生で︑学費免除で︑あれなんでございましょうね︒それで︑四. して︑早稲田と中央大学と慶応ですか︑なんか私立大学ぽかり. よその図書館の人は開いて中を読んだり. 出した︒︵一同大笑︶. これが一番最初で︑それが助手制度にずっと続いていくんです. 期生まで続いたんですが︑これは中絶をしてしまったんです︒. 来ると伝票書くような調子にいただきましたといってすぐ返事 なんかしてゆっくり書いた︑早稲田の図書館には本の嫌いな人. いますね︒これが何年ですか︑先生︒えーと︑外国に遊佐先生. が︑その次に出てくるのが︑今度は外国に留学することでござ. がいて︑来るとすぐ受け取りを出すような調子でお礼状出した. と︒それじゃこれからは全部早稲田へやろうということにな. 中村︵吉︶. あれは︑たしか大正四・五年のことですね︒. が行かれますね︑あれ何年頃でございますか︒. と︑それで小寺先生はそれを感違いして︑さすが早稲田だ︑ り︑それで小寺文庫ができたっていうんですよね︒そういうエ. 東大法学部を出て東大教授になられた山田三良先生. 寺尾︑遊佐両先生が引き続いて行かれますね︒. ピソードがありましてねえ︒やはり小寺文庫ができたというの. 奥島. 中村︵吉︶. 八九. いやあ︑東大に入られたのは中村萬吉先生︒中村. 生は︑早稲田を出てから東大へも入られますね︒. ︵国際私法︶は︑早稲田の英語政治学科の卒業ですが︑遊佐先. 杉山. 早稲田法科の専任スタヅフとして養成された早稲田の. も︑考えてみれば大隈さんの力だ︑ということをあそこへ行く. 奥島. たびに感じます︒そういうことですよねえ︒ 三尊といわれる先生方︑それが︑寺尾︑遊佐︑中村︵萬︶の三先. 生ですね︒もっとも︑その前に専任教員養成に早稲田が踏み切 座談会・早稲田法学百年を語る.

(18) 早法五八 巻 三 号 ︵ 一 九 八 三 ︶. 九〇. リーみたいなものをくれるとか︑研究費用下さるとか︑あるい. 実質的に内容は何ですか︒僕は︑特待生だから何か若千のサラ. もう︑卒業生ですから月謝はないわけです︒. は学費免除だとか︒. 哲学科を出られてから東京大学の法学部を卒業された︒. 寺尾先生がお帰りになったのは大正四年です︒一九一. 萬吉先生は︑法科出身でなく東京専門学校の文学科出身︒その 杉山. 助手ですね︒. 中村︵吉︶ 杉山. 五年十一月︑この時に寺尾先生が帰朝しておられますね︒. いわゆる助手ですよね︒で︑フェローというから. 奥島 いかがでしょうか︑﹃法科の三尊﹄といわれる方々の. 法科の三尊の時代とそのプロフィール. 仲間っていう︑つまりスタッフだっていう意味なんですがね︒. 中村︵吉︶. その交代で今度は遊佐先生が︒. ちょうど第一次大戦の時分になるわけですね︒. 中村︵吉︶. 中村︵吉︶. 杉山 遊佐先生が行かれますね︒. 杉山それで︑一九〇一年に例のハムラビ法典が発掘されま だから先程のフェローっていう︑仮名で書いたん. い出などお話いただけませんでしょうか︒寺尾先生︵商法︶︑. 授業を先生方はお聴きになっていると思いますが︑その頃の思. 中村︵吉︶. すんで︑すぐそれを遊佐先生が目をつけられたわけですね︒. ですね︒特待研究生︑ルビを振って厚フェ・1〃︑フェ・iな. 大野法学部には昭和二年に入学して五年に卒業したのです. 遊佐先生︵民法︶︑中村︵萬吉︶先生︵民法︶それぞれ︒. んですね︒その制度が︑最初できたんですが︑それが立ち消え. 杉山 そうですね︑四期生で終わったって書いてあります. になった⁝⁝︒. どういう事 情 で そ う な っ た ん で す か ︒. 気まじめな︑まじめ一点張りの先生で︑今でも覚えてますのは. が︑寺尾先生はいつも立襟のカラーで︑ぎちんと講義をされ︑. 奥島. ね︒. 高文の試験を受けなさいと︑そういう激励を必ず言われまして. 大野. 杉山. なんかそんな︒. 二十五ぺージじゃないですか︑先生︒. 何ページ読むようにって言われたかちょっと覚えてませんが︒. ね︑一日何ぺージ主義とか言われましたね︒一日に法律の本を. やっばり続かない⁝⁝︒ 人ですか︑お金ですか︒. それはわからん︒続かないんですね︒. 杉山 奥島. 人がいないのか︑お金の面か︑それはどっちかわから. 中村︵吉︶. 杉山. ないですね︑この資料の上では︒で︑フェロ!ってのは︑先生︑.

(19) 杉山. そうですか︒だから一日何ぺージ主義ということをよ. 二十五ぺージ読んでくとその次は五十ぺージ読めと︒. りまして︑助手の先生方が︑当時は︑和田先生︑江家先生︑金. イスカッシ・ンしたわけです︒私共は学生ですから︑末席にお. 沢先生︑野村先生等若手の先生で︑おもにそういう先生方が討. 大野 くおっしゃっておられましたね︒それから︑もう一つ忘れられ. りして︒出席者全員がサインをして︑そのサイン帳があるはず. 論を進められました︒高田牧舎から紅茶とケーキを取り寄せた. ですが︒記事を書く役目は専門部の台湾出身欧清石君︑法学部. ないのは︑居眠りの仕方を教えてくれたんです︒あんな謹厳な. では私が命ぜられました︒忘れられない勉強会でした︒尾崎. 先生がよくもあんな冗談をおっしゃったもんだと思うんですけ て聴けぽ大体いいと︒. それから︑中村萬吉先生︑おもしろい先生で︑ゼスチャーも. 陞︑千種達夫の両氏もよく出席されました︒. ども︑居眠りは︑講義の前半にしなさいと︒あと半分は目覚め. それから遊佐先生︑私は物権法を教わりましたがね︑有斐閣. おもしろいもんですからね︒債権法でしたかね︑教わりまし. の片仮名︑横書きの教科書で︑まあ何ていいますかね︑切れ味 のいい︑独特な民法理論でしてね︑答案をたくさん書くと点を. いうことが日本で言われ出して︑それで確か︑先生の学位論文. かったように思っていますけれども︑当時初めて労働協約って. が︑労働協約の論文だったと思いますけど︑日本で最初に書か. た︒政治に興味があられたんで︑割合に講義は欠けることが多. すね︒学年末試験が過ぎますと成績がわかるんで︑遊佐先生の. くれないで︑片仮名でごく簡潔に書くと︑昔は甲乙丙ですか. 物権法とか債権法︑民法で︑甲を取った人だけで︑法理学会と. れた論文だと思います︒東伏見に中村学寮っていう寮をお建て. ら︑甲をくれる︒甲をつけるのは四︑五人しかいなかったんで. いう研究会をつくられた︒それで︑呼び出しが来るんですよ. になって︑学生の︑若い人の指導に力を入れておられました︒. 三先生についてはそんなことですけども︑私はフランス法を. ね︑事務所から︒法学部へ出頭せよって︒何か怒られるのかな. 選択したもんですから︑柳川勝二先生とか︑尾高武治先生︑あ. と思って行きましたら︑うちの法理学会に入れてやるから来い. というのです︒毎月一回︑日曜日でしたけどね︑図書館の学生. て︑ご指導を受けました︒当時フランス法って言ったって学生. とから石崎政一郎先生こういったような先生がお見えになっ. 九一. 三人しかいないんで︑毎時間当たるわけですよね︑大審院部長. 入口から入った右手に小部屋があるんですが︑研究室がないも って︑わら半紙の四つ切に謄写印刷された問題を中心にしてデ. んですからそこで︑寺尾先生も遊佐先生もみなさんおいでにな. 座談会・ 早 稲 田 法 学 百 年 を 語 る.

(20) 早法五八巻三号︵一九八三︶. 九二. て寺尾先生は大変批判的で︑その学説に対して多くの疑問があ. 耕太郎先生が︑社員権否認論を書かれた頃なので︑それに対し. った︒それで︑田中耕太郎先生に手紙を差し上げてそのことを. 柳川勝二なんていう先生とさしでやるんです︒あんまり先生熱 て︑クタクタになりましてね︑今日はここまでしか調べて来て. 心だもんだからほかの二人来なくなっちゃって︑私一人になっ. に思っているということを先生がおっしゃった︒やはり︑私は. 聞きたかったけれどもまったく返事がなかったので非常に残念. りながら通説になりえなかったところを︑寺尾先生がその当時. 今にしてみれば︑社員権否認論というのは大変卓抜な見解であ. ケットから白水社の小さな仏和辞典を出して︑これを貸してや. るからこれを見ながら訳せ︑この調子で二時間がっちり絞られ. ませんて︑やめて下さいって言わんばかりに言いましたら︑ポ. ましてね︒私もつらくなって︑ある日電話で︑明日は休講にし. の隣に部屋があって︑そのちょっと奥の方に学部長室があっ. 手として残ったあとのことを思い出しますと︑法学部の事務所. て︑今の政経の教室の西側の二階だかが︑法学部の事務所︑で︑. 感じておられたのかなと思いました︒それから今度は大学へ助. にね︑大審院部長を休講にさせちゃって︒別に叱られませんで. 学部長室があって︑お昼の時には先生方がみんなその隣の部屋. そした. したけどね︑それくらい絞られましたよ︒それで︑使った教材. へ集まって一緒に食事をする︒そしてマナーを教わったもので. ますから先生おいでにならなくてもいいです︒︵笑い︶. もみんな原書で︑カピタンの民法とかガローの刑法とか︑そう. す︒ですからわたし一番まっぽいで助手でしたから︑先生方の. ら︑ああそうかって先生喜んでましたよ︒だから︑学生のくせ. いった本ぽかり︒今のようにコピーがないもんですから︑重い. 前で堅くなってお話を聞きました︒ですけどもその話は︑学問. こでも教えていただいたし︑私は当初︑助手の時には︑君は民. 的な話もなさいました︒それから︑私共わからないことなどそ. にありがたいことだったと思います︒. 奥島 星川先生︑三先生の思い出を︒. 本を風呂敷に包んで通学しました︒柳川先生のご指導はほんと. 星川 まず︑寺尾先生ですけども︑我々の学生の時には︑法. ようにおっしゃった︒それ︑やりました︒それで遊佐先生にご. 法をやってくれということでしたので︑寺尾先生︑民法をやる. 生がおうちへお呼び下さって︑そして︑星川君︑これは鳩山さ. 指導いただくことになっておったんですけども︑ある時寺尾先. した︒非常に勤直な先生で︑時間を始めから終わりまできちっ. と守られた先生で︑講義の内容も非常に深いところまで触れて. 学部長をしておいででして︑担当課目は︑商法総則と会社法で. おられました︒記憶に残っているのは︑ちょうどその頃︑田中.

(21) 君にあげるからこれをしっかり勉強しろっていうのが︑エンネ. んの民法総論の種本になった本で非常に有名な本だからこれを. て︑法理学会のメンバーにしてくれました︒そこで先生方が研. いで︑条文をずっと注釈をなさるのでしたが︑今︑大野先生か. 究発表をなさった︒長場先生が外遊からお帰りになって間もな. らお話がありましたように︑成績のいい人をピヅクアップし. から頂戴してそしてやったんですけど︑寺尾先生がお亡くなり. ネーメンなんていう言葉は︑あんまり商法学界で知られておら. く︑企業譲渡について研究発表なさった︒その時まだウンター. クッェルスのビュルガーリッヒェンレヒトでした︒それを先生 になり︑長場先生がお亡くなりになって大浜先生から︑今︑民. なさったので︑これは新しい学説なんだなあと思って感心して. なかったような気がしました︒その時に長場先生がそれを発表. 法の陣容は︑スタッフがいっばいおられるけれども︑商法はこ. に変わってくれないか︑とおっしゃられて︑そして商法に転向. ういうわけで足りなくなったから︑君︑すまないけれども商法. 生がお話下さったように︑大学では︑文学部のご出身で︑あと. 伺ったことがあります︒それから︑中村萬吉先生が︑今大野先. は債権各論でした︒非常に愉快な講義をなさる方でした︒法律. で東大で法学を学ばれたと聞きました︒私共が講義を受けたの. 遊佐先生は︑私共の時には︑学生の間では非常に評判がよか. しました︒. った︒それは遊佐先生が︑司法試験の委員をしておられて︑そ. ておりました︒それはやっぱり先生が文学部であったためかな. の本を平仮名で書いたのが︑先生が始めてだというように聞い. れから学位を持っておられたためで︑その当時は学位を持って おられる先生方があまりおりませんでした︒中村進午先生と︑ それから⁝⁝︒. せんけれども︑私共の時にはみんな片仮名でした︒大浜先生な. あと思っておりました︒今では平仮名で書いても何とも思いま. 憲法の副島義一先生︒. に︑中村萬吉先生の教科書は平仮名で︑大変読みいい本で感銘. んかのご論文でも片仮名で堅い文章のものがあります︒その時. 大野. 寺尾先生もお持ちでなかった?. 星川それから︑中村萬吉先生︒ 奥島. ええ︑寺尾先生はまだお取りになっておりませんでし. 深く思って︑やっばり三先生はすべて卓抜な方であったなと今. 星川. 九三. ああ︑それから︑落としましたけど﹃早稲田法学﹄が. た︒それで遊佐先生の講義は六法全書をお持ちになって条文を. 大野. でも思っております︒. ばなものができておりましたけれども︑それはおやりにならな. ずっと解説をなさるのでした︒民法総論の本は︑教科書はりっ. 座談会・早稲田法学百年を語る.

(22) 早法五八巻 三 号 ︵ 一 九 八 三 ︶. 九四. 先生がお亡くなりになったかなんかしてから︑縦にしたんだと. そうかもしれませんねえ︒. 創刊号からしばらくの間︑横組みだったでしょ︒ あれは遊佐先 大野. ええ︑そうだと思います︒. 戦後ですねえ︒. 私︑むしろね︑これはみなさんいろいろ議論があると. 星川. 思いますですよ︒. 星川 そうです︒ あれ先生︑ いつから縦組み: ︑ 戦後ですね︒あれ縦. 杉山. 杉山. 生が主張なさったらしいですね︒ 杉山. 組みになすったの︒. 思うんですが︑現在の﹃早稲田法学﹄をですね︑横組みにした. 戦後です︒. 戦前は全部横組みですか?. ぐになっているんで︑横組みの方がいいんじゃないか︒横組み. 方が︑例えぽフランス商法研究会の翻訳なんか︑非常にちぐは. 先生方の言われたとおりなんですが︑学位の話が. 中村先生︑三先生について︒. 先生から直接承わったのですが︑遊佐先生が非常にそれを重視. 出たんで︑学位それも博士の問題を申しあげたい︒これは遊佐. 中村︵吉︶. 奥島. ゃんと横組みで組めるんですからね︒まあ︑それはまあ⁝⁝︒. にして一番不便なのは私の科目なんですが︑これ漢文だってち. 戦前は横組みだった︒. あ︑それは︑縦組みにしたのは︑あれはどういうんで. やっばり今先生がおっしゃったように︑遊佐先生はな. て旧﹁学位令﹂︵明治二十年五月二十日勅令第十三号︶が全改. され︑この時から︑遊佐先生に言わせると︑授与する者は大学. されてた︒というのは︑大正九年九月六日勅令第二百号によっ. そうそう︒. え︑一介の行政官にすぎない役人に︑学間の判定評価をまかせ. となった︒それまでは文部大臣だったのです︒文部大臣とはい. ついているんだから︑ そうでしたね︒. 大野. それで︑遊佐先生がお元気な時にはこれはとても改め. るということは間違いだ︒学問の評価は大学こそがなし得るも. 星川. んお若い先生方が︑ どうもこれはうまくないっていうわけで︑. ることができない ︒長老ですから︒ところが︑だんだんだんだ. かなかがんこな方でした︒ で︑横組みにした理由は︑目が横に. 星川. したかねえ⁝⁝O. 大野. むんだから横だ⁝⁝O 杉山 いやいや︑縦組みになさったの︒. ああ︑それは︑目は二つ横についてるから︑左から読. どういう理由で縦組みになったんですか︒. 大杉大奥星 野山野島川.

(23) ではじめて大学が︑学問の評価をする最高最終の資格を持つこ. 大臣は︑ただ認可をするだけでよいというわけなんです︒これ. のなのである︒だから学位は大学が授与するべきもので︑文部. があったらしいんですが︑それが大正十五年になって︑政治学. 法学博士になられた︒もっともその頃には︑政学博士というの. 文学部の五十嵐力先生が文学博士に︑法学部の遊佐慶夫先生が. 部義太郎先生とが工学博士︑それから︑二回目が大正十四年で. 安部賢一先生だったとうけたまわっている︒ともかく︑これに. 博士と経済学博士とにわけられ︑その経済学博士の第 号が︑. とになった︒そしてそれは大学である以上︑官立であろうと︑. これは非常に大事なことだと遊佐先生はいわれていた︒それか. 公立であろうと︑私立であろうと︑かわりはあろうはずはない︒. の最高の場になったといえよう︒この遊佐先生の評価は︑大学. よって早稲田大学も︑学問の最高の評価ができる名実共に学問. こそを学間の最高の場と考えるという意味では非常に意義深い. らもう一つは︑この改正でかつては推薦制であったものが廃止. 学が授与することになった︒つまり論文制となったわけであ. 法学会発行の﹃新立法の動向﹄︵昭和十七年刊︶っていうのがあ. ものだと私は考えております︒先生の論稿でいうと早稲田大学. され︑すべて学位は論文を提出してそれを教授会が審査して大 る︒この︑大学が学位を授与するということと︑論文制で学位. りますが︑そこに先生の﹃世界戦争と立法の動向﹄という小論. が授与されるというこの二点が︑大正九年の学位令の全改によ って成り立ったということは非常に重要なことだ︑ということ. ことですが︑そこで右のような趣旨が述べられています︒つま. 文があります︒ここで世界戦争といっているのは第一次大戦の. り︑学問の評価は︑一行政官によってなさるべきではなく︑大. を遊佐先生が話された︒遊佐先生自身が︑その新しい学位令に. ね︒つまり︑大正九年の学位令の改正によって︑各大学はそれ. よって早稲田大学から授与された法学博士の第一号なんです. 学こそ︑ただ一つのこれをなし得るところであるというわけ. のを作ったんですね︒これはもちろん文部大臣の認可を得るん. 右の趣意から当然というわけです︒この点︑あえていささか︑. 改正である推薦制の廃止︑論文制︵具体的業績主義︶の採用は︑. 教授会にまかさるべきであるとされている︒さらにもう一つの. で︑研究の成果に対する価値判断は︑大学における当該専門の. ぞれ学位規定をつくることになった︒. ですが︑大正十年には認可を経て︑そして大正十年からこれに. 時問をとったのは︑これこそ大学が学問の独立のための砦とな. で︑さっそく早稲田大学でも﹃早稲田大学学位規程﹄という. 基づいて早稲田大学が学位を授与するということになって︑お. 九五. そらくその第一回が理工学部の吉川岩喜先生と三菱技師の日下 座談会・早稲田法学百年を語る.

(24) 早法五八巻三号︵一九八三︶. 九六. の授業でございますかねえ︑あったわけですよ︒それまではも. るんです︒その時法学部一年で︑寺尾先生の海商法が︑三時頃. にわあわあわあわあ騒いで授業にはならないわけですよね︒先. う︑朝七時にニュースで開戦を知り︑もう早稲田中割れるよう. ここで︑さらにもう;β申しそえておきますが︑これよりさ. り得るか︑どうかの問題に︑かかわるからであります︒. が制定され︵翌八年四月一日より施行︶︑﹃大学ハ帝国大学其ノ. 震わしちゃって︑﹃諸君﹄なんつってですね︑演説をぶった先. 生自体︑某先生みたいにですね︑授業やらないでもって︑手を. き大正七年十二月六日勅令第三百八十八号により新﹁大学令﹂. 他官立ノモノノ外本令ノ規定二依リ公立又ハ私立ト為スコトヲ. 生がおられるし︑それからもう︑全然授業にならない︒恐らく. 得﹄︵同令第四条︶ということになり︑大正九年二月五日から は晴れて早稲田大学も正式の﹃大学﹄となり︑右に述べた﹃博. 寺尾先生もそうじゃないかというふうに思って入ったらです. でもするんじゃないかと思って︑怠け者でございますから︑期. 時間ですね︑商法の授業なさった︒私たち︑何かまた戦争の話. ね︑一言おっしゃったことが︑﹃諸君︑地球が狭くなったような. 士﹄号のほか﹃学士﹄号も授与できるようになった次第であり. 気がしますね﹄というふうにおっしゃって︑それでびっちり二. ます︒. 三先生について︑ここにご出席の先生方で最後に授業. 奥島. 待してたんでございますが︑それこそびっしりやられました. をお聴きになったのは︑杉山先生でしょうか︒ 内田先生はお聴きになっていませんか︒. に座ってたら︑何か質間したのか何か知りませんが二︑三人で. の喫茶店なり何なり行って︑御馳走して下さった︒私も前の方. それから︑寺尾先生はときどき学生を連れてどっかそこら辺. ね︒. まを ︑Lo V. 遊佐先生については︑有名な先生だということは伺っ. た︑これはもう大先生でございますから︑もう固くなってお茶. て行っていただいて︑それでお茶を御馳走していただきまし. もって︑じゃお茶を御馳走しようといわれて︑正門の前へ連れ. 専門部へ入って︑十六年が法学部ですからね︒一番強烈な印象. を御馳走になった記億があるんですよ︒遊佐先生は︑そうでご. あのね︑僕は戦争中の学生なんですよ︒昭和十三年に. は開戦の日にですね︑その印象が非常にまさに鮮明に残ってい. 杉山. ていましたが︑私自身あんまり強烈な印象はないんですよ︒. 内田. だぎまして︒. そうですか︒それじゃ︑杉山先生と順番に語っていた. 遊佐先生にちょっと︑半年ぐらいでしょうか︒. 奥内奥杉 島田島山.

参照

関連したドキュメント

てい おん しょう う こう おん た う たい へい よう がん しき き こう. ほ にゅうるい は ちゅうるい りょうせい るい こんちゅうるい

しかしながら、世の中には相当情報がはんらんしておりまして、中には怪しいような情 報もあります。先ほど芳住先生からお話があったのは

※1 13市町村とは、飯舘村,いわき市,大熊町,葛尾村, 川内村,川俣町,田村市,富岡町,浪江町,楢葉町, 広野町, 双葉町, 南相馬市.

C :はい。榎本先生、てるちゃんって実践神学を教えていたんだけど、授

 高松機械工業創業の翌年、昭和24年(1949)に は、のちの中村留精密工業が産 うぶ 声 ごえ を上げる。金 沢市新 しん 竪 たて 町 まち に中村鉄工所を興した中 なか 村 むら 留

大村 竹男 さん  篠田 和明 さん 本多 安雄 さん  勝畑 忠一 さん 江尻 曠之 さん  浅野 政男 さん 石渡 房雄 さん

神戸市外国語大学 外国語学部 中国学科 北村 美月.

授業は行っていません。このため、井口担当の 3 年生の研究演習は、2022 年度春学期に 2 コマ行います。また、井口担当の 4 年生の研究演習は、 2023 年秋学期に 2