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Vol.68 , No.1(2019)063秦野 貴生「ダルマキールティのアポーハ論におけるaksepa及びpratiksepaの考察」

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Academic year: 2021

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全文

(1)

ダルマキールティのアポーハ論における

ākṣepa

及び

pratikṣepa

の考察

秦 野 貴 生

1

.はじめに

ダ ル マ キ ー ル テ ィ(Dharmakīrti)の『プ ラ マ ー ナ・ ヴ ァ ー ル ッ テ ィ カ』 (Pramāṇavārttika)第1章及びそれに対する自注(Pramāṇavārttikasvavṛtti)のうち,特に アポーハが議論される箇所で用いられる術語ākṣepa(含意)とpratikṣepa(断じるこ と)について,それらを比較しながら考察をすすめる1) ダ ル マ キ ー ル テ ィ の 言 語 論 に お い て,「普 遍」(sāmānya),「同 一 基 体 性」 (sāmānādhikaraṇya),「修飾及び被修飾の関係」(viśeṣaṇaviśeṣyabhāva),「属性・基体」 (dharmadharmin)はそれぞれ言語表現(vyavahāra)の主要な表現パターンとして説か れている2).この言語表現を用いることにより言語行為者は言語活動を行なって いるのである.ākṣepaとpratikṣepaの両語は,これらの言語表現のうち「属性・ 基体」の議論の中で用いられる. 属 性 と 基 体 の 議 論 に 関 し, ダ ル マ ー ル テ ィ の ア ポ ー ハ 論 で は, dharmadharmibhedaという言語表現が,分別知上の現れ(pratibhāsa),話者の意図, 日常行為(vyavahāra)での効果といった問題に還元されて解釈される.筆者はこ れまでの研究で,普遍や思い込み(adhyavasāya)についてのダルマキールティの議 論を通じて,ダルマキールティの分別知についての理論を検討し,それらが分別 知の現れに基づいて解釈されることを明らかにしてきた3).その理論は,属性と 基体の議論にも同様に前提とされていることを,ākṣepaとpratikṣepaの解釈を通 じて明らかにしたい. 2

pratikṣepa

の用例

まずはpratikṣepaの用例について見ていきたい.アポーハ論が議論される箇所 では第61偈において最初にpratikṣepaが用いられる.

(2)

【用例1】 PV 1.61: 他の差異を断じることと断じないこと(bhedāntarapratikṣepāpratikṣepa) は,〔それぞれ順に〕それら二つのもの(属性を表示する語と基体を表示する語)の,認識 者の意図に基づく言語協約の違いの基盤(pada)である. pratikṣepaの用法が肯定否定ともに簡潔に示されている.他の差異を断じるこ と(bhedāntarapratikṣepa)は属性を表示する語の言語協約の基盤であり,一方,他の 差異を断じないことは基体を表示する語の言語協約の基盤であると説かれる4) 他の差異を断じるか,あるいは断じないかということに基づいて,属性を表示す るか基体を表示するかという言語協約の区別がなされ,そのような区別は認識者 の意図にしたがうものなのである5) 差異とはそれ自体が他の排除を本質とするものであるため,pratikṣepaの用法 では他の排除を断じる,いわば「他の排除を排除する」といった「二重の排除」 として解釈することができる.そして,前者の排除が実在によるものであるのに 対し,後者の排除は認識者の意図によるものであり,レベルを異にする全くはた らきの異なる二つの排除により属性・基体の区別は行われていると言える. 続いて自注でのpratikṣepaの用例を抜粋し,その検討を行う. 【用例2】 PVSV 44,6–12: 〔その一つの実在の知における現れに〕複数の対象からの〔複数 の〕差異があるうち,その〔現れの,ある〕一つの対象からの差異の肯定あるいは否定を 知りたい〔人〕に対して,その〔一つの実在〕自体を他の差異を断じた属性を〔表示する〕 語によって,知にそのように現れているが故に〔他から〕切り離された属性であるかのよ うに説示したのち,他の〔差異を〕区別せずに,その〔実在の〕自性を基体として設定し て表示する.以上のような点で属性と基体が区別されるので,知は〔属性と基体の〕区別 を持つものとして現れるのであって,実在上の区別があるわけではない. この用例でも【用例1】と同じくpratikṣepaの目的語は「他の差異」(bhedāntara) である.このように,アポーハが議論される箇所では,他のpratikṣepaの用例で もほぼ例外なく「他の差異」がその目的語になっている.【用例2】でも,属性を 表示する語が他の差異を断じることと関連し,基体を表示する語が他の差異を断 じないことと関連することが見てとれる.属性や基体を表示する語によって示さ れるものは,実在ではなく知における現れにすぎない.何が属性であり何が基体 であるかという表現の違いは,認識者の肯定・否定の意図により作られたもので あり,そこに実在は原因として存在していないのである.

(3)

3

ākṣepa

の用例

続いてākṣepaの用例のうち,dharma及びdharminへの直接的な言及がある箇

所を検討する.

【用例3】 PVSV 35, 8–13: この,属性(dharma)と基体(dharmin)の言語表現(vyavahāra)

は,互いに,同一である(tattva)とも別異である(anyatva)とも言うことができないこと を以下に論じる.すなわち,属性は,基体とは異なるものではない.なぜならば,他の対 象を表示しているものではないからである.また,〔属性は〕それ(=基体)と全く同じも のというわけでもない.なぜならば,属性を表示する〔語〕も,それ(=基体)を表示す る〔語〕と同様に,他の〔他のものの〕否定(vyavacchedāntara)を含意している(ākṣepa) ということになってしまうからである.もしそうであるとするならば,〔意味したいと〕 望まれたことを理解させることができないので,〔属性を表示する語と基体を表示する語 の〕言語協約の区別はなくなってしまうであろう.それゆえ,属性〔を表示する語の意味 対象〕と基体〔を表示する〕の語の意味対象(śabdārtha)については〔同一であるとも別 異であるとも〕言えないのである. 属性の言語表現と基体の言語表現とは同じものでもなく異なるものでもないこ とが説かれる.属性と基体はそれぞれ異なった対象を表示しているものではない ため,この二つは異なるものではなく,さらに,基体を表示する語は他の〔他の ものの〕否定を含意するが(vyavacchedāntarākṣepa),属性を表示する語はそのよう なはたらきをもたないため,この二つは同じものでもないのである.つまり,基 体を表示する語と属性を表示する語とは,他の他のものの否定を含意するか含意 しないかという働きが異なっているので,それによって表示される属性と基体は 同じものではないのである.ここにおける「他のものの否定」も他の排除を本質 とする「差異」に他ならない. 用例では誤った帰結(prasaṅga)の文脈においてākṣepaは用いられているが,こ こでākṣepaが対象としているのは,他の〔他のものの〕否定(vyavacchedāntara)で ある.肯定文(=∼を含意する)としては主語に基体を表示する語が想定され,一 方,誤った帰結からは,否定文(=∼を含意することはない)としては主語に属性 を表示する語が想定される.したがって,pratikṣepaの用例と照らし合わせると,

ākṣepaがpratikṣepaの否定であるapratikṣepaと一致し,ākṣepaの否定がpratikṣepa

と一致すると言え,属性と基体の議論ではākṣepaとpratikṣepaが対立する内容の

(4)

4

.おわりに

以上ākṣepaとpratikṣepaの用法について,それぞれの用例を検討し,考察を 行った.まず,言語表現の一つである属性と基体は,同じものでもなく異なるも のでもない.属性と基体とが同じ対象を表示するという点では,両者は異なるも のではないが,異なるはたらきをもつことにより同一ではない. 基体,属性に関連したpratikṣepa(断じること)の用例では,「属性を表示する語 は他の差異を断じ,基体を表示する語は他の差異を断じない」と説かれる.一 方,同様に基体,属性に関連したākṣepa(含意)の用例では,「基体を表示する語 は他の差異を含意し,属性を表示する語は他の差異を含意しない」という内容で 用いられている.よって,その意味内容としてはākṣepaがpratikṣepaの否定であ

るapratikṣepaと一致し,ākṣepaの否定がpratikṣepaと一致すると言える.

1)ディグナーガ思想におけるākṣepaとpratikṣepaについては片岡2016を参照.

2)Cf. 秦野2017.

3)普遍については秦野2017,思い込みについては秦野2016でそれぞれ考察を行った.

4)語が「牛性」などの属性を表示する際は,語のはたらきは他の差異を断じているため,

「牛性が白い」などとは表現されないように,同一基体性も修飾・被修飾の関係も存在 しない.(cf. PVSV 33, 15–16 ad PV 1.61: pūrvatra pratikṣiptabhedāntaratvāc chabdavṛtter na sāmānādhikaraṇyaṃ viśeṣaṇaviśeṣyabhāvo vā. gotvam asya śuklam iti.)しかし,語が「牛」な どの基体を表示する際には,他の差異は断じられておらず,「牛が白い」と表現される ように,同一基体性も修飾・被修飾の関係も存在するのである(cf. PVSV 33,18 ad PV 1.61: dvitīya tu bhavati.). 5)語が属性を表示するか,あるいは基体を表示するかが人間の意図によるものである が,『プラマーナ・ヴァールッティカ』第3章ではこの属性基体の関係と同様に,ダルマ キールティは修飾(viśeṣaṇa)と被修飾(viśeṣya)の区別もまた事実などにのっとったも のなどではなく,意図によるものであると述べている.(PV 3.227: 修飾と被修飾〔の関 係〕は意図による他律的なものであるため,部分というものとして受け取られたもの (=修飾),実にそれのみによりそれ(被修飾)は捉えられる.) 〈略号〉

PV 1 Pramāṇavārttika (Dharmakīrti),chapter 1. see PVSV. PV 3 Pramāṇavārttika (Dharmakīrti),chapter 3. see戸崎1979.

PVSV Pramāṇavārttikasvavṛtti (Dharmakīrti).Pramāṇavārttikam of Dharmakīrti: The First Chapter with the Autocommentary. Ed. Raniero Gnoli. Roma: Istituto Italiano per il Medio ed Estremo

Oriente, 1960.

〈参考文献〉

(5)

130–137. 戸崎宏正 1979『仏教認識論の研究』上巻,大東出版社. 秦野貴生 2016「『プラマーナ・ヴァールティカ』自 におけるadhyavasāyaの位置づけ」『印 度学仏教学研究』65(1):122–125. ― 2017「ダルマキールティにおける普遍と同一基体性について」『大谷大学大学院紀 要』34: 1–15. 〈キーワード〉 ākṣepa,pratikṣepa,ダルマキールティ,『プラマーナ・ヴァールッティカ』 (大谷大学大学院) 新刊紹介 植木雅俊 著

梵文『維摩経』翻訳語彙典

B5版・1,291頁・本体価格28,000円 法蔵館・2019年9月

参照

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