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International Conference on East Asian Buddism : 韓・中・日国際仏教学術大会論文集

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Academic year: 2021

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『起信論』註釈書に表れる如来蔵理解の変化 (第1 回学術大会テーマ 東アジアにおける仏性・如来蔵 思想の受容と変容)

著者 石 吉岩

雑誌名 東アジア仏教学術論集 = Proceedings of the

International Conference on East Asian Buddism : 韓・中・日国際仏教学術大会論文集

号 1

ページ 211‑230

発行年 2013‑03

URL http://doi.org/10.34428/00007382

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

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石吉岩氏の発表論文に対するコメント

佐藤厚

(日本 東洋大学)

石先生の論文「『起信論』注釈書に見る如来蔵理解の変化」は、『大乗起信論』(以 下『起信論』)に説かれる「如来蔵」の概念について、『起信論』そのものの検討か ら始めて、曇延、慧遠、元暁、法蔵の四者の注釈を扱い、それぞれの特徴を明らか にしたものである。

まず評者なりに理解したところを要約すると、次のようになる。

石先生はまず一般論として、仏の性質(真)と衆生の性質(妄)とを設定し、こ の中の衆生の性質(妄)の中で真と妄とが「和合する」という言葉の内容について 二つのパターンを出す。一つは真と妄との質的な区別を説く立場(真妄区別型)、

もう一つは真と妄との融合を説く立場(真妄融合型)である。

石先生によれば、『勝鬘経』は前者の真妄区別型の立場、『楞伽経』は後者の真妄 融合型の立場であるとする。そして『起信論』自体は基本的に『勝鬘経』の立場で あるという。注釈者では、曇延は真妄区別型であり、それに対して『楞伽経』の影 響を受けた慧遠の解釈では真妄融合型の立場になり、さらに慧遠と同様に『楞伽経』

を重視した元暁は、真妄融合型であるが慧遠ほどは極端ではなかったこと。これに 対して法蔵は、慧遠の真妄融合型の見方をさらに進め、如来蔵縁起と呼ばれる、真 がすべてを生み出す根拠となるものとしての如来蔵が説かれるようになった、と整 理している。

以上のように、本論文は『起信論』の如来蔵理解の変遷を明瞭に整理しており、

評者も大変勉強になった。

さて、討論に際し、三つの質問を行なうことにする。

第一に無明に関する質問である。石先生の論文のテーマは、如来蔵をめぐる真と 妄の存在をどのように考えるかであった。このことを念頭において、先生自身の直

東洋大学文学部インド哲学科非常勤講師。

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接のテーマとは異なるが、妄にポイントを当てて質問してみたい。『起信論』では

「自性清浄心が無明の風に吹かれて」心に生滅が起きると説く。いわば、無明が妄 心の根源とも考えられる。それでは、この無明はどこから来るのか。如来蔵の中に あるのか、外から来るのか。この問題を注釈者たちはどのように解釈するか。特に 真如が生死・涅槃の根源であると説く地論宗南道派の影響を強く受けた慧遠、法蔵 はどのように考えるかを知りたい。

なぜこのような質問をするかというと、人間の心に、真と妄あるいは善と悪とい った正反対のはたらきがあるのは、経験的に理解できることである。問題は、人間 の心理を理論化して、どちらかが根本であると考える時に、それをどのような形で 説明するかということである。これはキリスト教であれ儒教であれ、どちらかに一 本化しようとすると多くの問題が出てくる難問だと思う。評者自身、このことに関 心がある。『起信論』注釈者たちは無明の問題をどのように理論付けたか、あるい はあまり重視しなかったのかを尋ねてみたい。

第二に曇延について二つ質問を行う。先生は、曇延が用いる「照性」という言葉 について、脚注25で慧遠の『大乗義章』から「縁照分別」、「体照之慧」という用 例を挙げ地論宗との関連を指摘している。この「照」という言葉を地論宗独特のも のであるとしているが、それは普通の「照らす」という働き以外に何か特殊な意味 があるのか。

続いて曇延『大乗起信論疏』の漢文の読みについて疑問点を指摘したい。先生は 脚注22に掲げた曇延『大乗起信論疏』の原文の中、「有生滅心者、復以此心体無念 故、無心違物、相似生滅也」を、「「有生滅心」というのは、またこの心体が無念 であるために、無心であるから、物に違えば相似して生滅する」と解釈されるが、

このうち、下線部が問題であると思う。この部分(無心違物)は、「無心であるか ら物に違えば」と解釈するよりは、「心として物に異なることがないから」と読む ほうがよいのではないか。すなわち心体が無念であるから、心が(心の)外にある

(?)物と異なることないから、心に(物が)相似して生滅する、と解釈したほう が意味的に適当だと思うがどうであろうか。

第三に法蔵について質問する。法蔵の教学では『起信論』は大乗終教に位置づけ られ、円教である『華厳経』とは質的な区別があることはよく知られている。これ は心識説においては如来蔵と性起との違いと解釈することもできよう。ただ石先生 の論文にあったように、法蔵は「一如来蔵心」という新造語により、一心と真如、

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および如来蔵とを統一するところに特徴があるとされる。そうすると、そうした如 来蔵と性起とはどのように区別されるのか、質問したい。

以上、評者の実力不足のために、きちんとした質問をすることができず、申し訳 なく思います。先生のご答弁、よろしくお願いいたします。

参照

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