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蟻研究 節 9
緋加 子 浦 の 工 業 化 ノ
‑ 岡 山 県 日 生 I l l Jの 場 合 ‑ 's l l I ・ . L ■ L Lr ・
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岡I u大学教育学 部社会科教室 内地域研 究会 /
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囲岡凶11356行第第第節
第7区I ∫/
〝 粘土 レフ ロー ム 図図89第祁 空 白
〝 中 温 リシ′レト
〝 深 さ200
弟10回 空 白 // 深 さ0.30
16 水 が
2 発達 に りよ
下 か ら8 河 田三左 工 門 5 住 移 漁 村
2 ごぞ って
下 か ら1 4人5人 < は4 下 か ら9 2 図
下 か ら10 (注 )〔宕 ㈹ 錆 義 絶 こlる〕
下 か ら1 3時 半
3 いわゆ る。
30 おい て町 が か な り
14 (4戸 うち船f13戸 ) 漁菜 + 漁 茶半 L'生米
13 核家族 全 国 18 な ってい る, 17 継 い てい る
第 1草
第 2群 下 か ら8 第 3課
1 グ ァ ラ テ ェ テ ィ
2292414
人達 が 漁 を 対 照 次 の様 は か たす い た
正
日生町 の地 形 断面 図 中 日生 , 日生 の柱 状 断面 田 海 樟地 形 模式 図
鹿 久居瓜 穴 虫地 区 の柱 状 断面図 大 多府Jiの柱 状 断面 図
粘土 質 ロー ム
B ' B
JLr,・外 輪 海 岸 の柱 状 断 面図 大 多府 Ji'j中央北 海 岸 の柱 状 断面 図レキ泥 りシル ト 深 さ290
鹿 久居 島 中央 南海 岸 の柱 状 断面 図 0.20
水 か
兜逮 に よ り 池 田≡左 二門 移 庄漁 村 こぞ って 4人5人< 4 祈 2図
(江 )〔g 弛 毘 蓋 嘉琵 完 措 い て下 さ った図 を蜘 〕 3時 間 半
い われ るO お いて 本町 が か な り
(4戸 うち船L13戸 ) 漁繋 (2戸 ) 漁 業 十 漁 業 と良薬
核家族が全国 た ってい る。
継 い で い る (a) (b) (C) ヴ ァ ラ エ テ ィ 人 励 '儀 .薬 を 対 な りこの JIJLな 11▲ n・1'=
21101172545
岡山大筆附属園書館
ま え が き
岡山大学教育学部社会科研究室I)g「地域研究会」は,教'&'と学生,それに卒共生 も加わ って,梅'tF‑ 地域研究を行ない,そのつ ど研究成果を公表 Lて きた.r即 日39年度は,工菜化の過掛 こおいて急激に 変貌 Lつつある実態 を,具体的に把纏す ることを 主取 として, 和気郡 日生町を 調査対象地 として 速 ひ,数次の予備交渉 と串訊胴査を経て,盛夏 の7月先 約40名の者が4泊5日の 日程で,本調査を実 施 したのである.その調在結果を, <加千輔の工遜 化> (地域研究 シ .)‑ズ
第 9
舘) と施 して, ここ に公にする しだいであ る。L j
生町は岡山県の東南Q .
'ltjに くらい し,フ掛ま兵牌
鵬赤地市に接 している.陸地の前面には,鹿久居 ・ lJji・大多府・
紙
などの島 々を擁 した海の町 である. 仁11=.が古 くか ら瀬戸内海交通の要衝であ った こと は,多良
海的な自然の良港 としての条 件を備えてい ること,そ こが漁村であ って,加子浦 と しての役 を も紫 た していたこと,また大多府品は岡山掛 こよって待避港 としての設 備が設け られ た上に,離童 の要地 と して番所が置かれていた こと,などに J:ってn)]らかなところである. 明治以降になると,漁 業的な発展が 著 しく,樽に朝鮮出漁に見 られるよ うに,進l郎榊こその運命の開拓をほか ってきた.ところが近年にな って,漁菜の不振にIh‑面す るに至 り, 無人島の 開塵 ・漁韻朗 適工AXE (製網菜な ど)の拡充 ・内海海運業への転換 などに活路を求め. さらに原料立地の耐火煉瓦工
卦
こ出:宙な労働力 を投供することに よって, こんにちの盛況を招来 したのであ る.この ようfj:歴史の練れに ともな ')産諮批逝のA:化に
)
吊ノて.昭和3 7
年 の赤穂線 の開通は, 周辺地的 な性格を もって きT=口生 を,阪 PP地方お よび岡ILl脂l*工誤地僻に屯結す ることに よって,いっそ う特 色ある=業化 ,k促進することであろ う.しか しなが ら,調査分野は工業化に1,71足 したわけではない. 日生は過去に興味あ る歴史的伝統を も ってお り,海陸 ともに変化に宮んだ地形は,地理学的研究に も多彩 な資料を提供 して くれている.備 前 と播磨 の国境にあることは, い巧文化の接触地 域として, これ また研究の興味をひ くものがあ る. ま たI」生には古 い民俗が よ く保たれ ているので,漁村文化研究の好筒の対象地で もあ る.
本GF死は総合調査 とい うことを従来か らのたてまえとしている,調査者は一 応各 自の仕ij7‑を分担 し たけれ ど,調査の過程において,資料 を持 ちよって討論 し, また資料を交換 して,総 令調査の実をあ げ るべ く努力 して きた.そ してまた,本調査の終了後
も
,補足調充のためにたびたび現地を訪れて, 原稿の完成 に努めたU)である.しか しなが ら, ここでお ことわ りしなければな らないのは,努力は した ものの. この調査にあたっ た主 メ ンバ ーは,調査経敬の浅い
3
年次生 であ り,洞炎J P
j聞 もじゅうぷんでな く,原稿の提出をJFLi].が せた りしたために,報告 Ltとしては忠に鞘 たなし、JF.7.が多 くあろ うとい うことである.なおまた,多数の卒業′上諸君が公務をさいて網奄に参加 し,在学生 と軽食を ともに しなが ら,後張 を指節 L激励を与 えて くれた ことは, まことに感謝にたえfi:い ところである.加えて幾人かct)方は, す く・れた原和を提 出 して, この報告1Bに光彩 を添えて くれ たのであ った.
本調査の実施にあた って, 日Jl,町長 ・議長をは じめ とし,町役場各献 ・教育委出会の方 々か らいた
だいたご協力に対 し,教官学生一 同,心 よ り御礼申 しあげたい.公務 多端な ところへお じゃまして.
宿舎のあ っせんをお疎い した り.古い帳沖を探 していただいた り,失礼/j・こと も多か った ヒ思 うが, 終始暖か く臆 して くだ さった.
また, F]生町内の各廠団体 ・事実所 ・学校 ・民間研究'jE・町民の方 々か ら,心か らの ごF劫ノJたいた
だ
いた. ここに厚 く御礼申 しあげ るしだいである.この よ うに してで きあが った本報告冊 よ, ささやかな ものであるが,内海漁村の一つ ヒLての rl生 が,た くましい意欲を t,や して,広義の工業化へ向か って耶鳩的に対応 Lてきた姿を, ,n'体的 ・学「王Jrj 的こ解明 しftiて,所
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)の 目的を達成 し得た ことを,いささか 臼f'lす る ものであ る.そ しで 学生諦 T r
に は巧い研究の体験 として, また研究のフィール ドを授供 して くださった口生叫●には,町発展の よりどころとして,多少で も役立つ ことができれば,われわれの この上/A:い よろこびであ る.
監 詔
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発 刊 に 寄 せ て
E
は町長 岸 本 辰 夫
このたび岡山大学教育+J一郵社会 什研究室 地JuR研 究会の7J一々に よって,わか 日生町 か加子柵 の古い時 代か ら近代社会 へ
染
返 した過程 が調光せ られ,今 回研究諭 Ll主と して と梓 せ られ るこ とは,学 術的 に有忠
盛 であ ることほ勿論 なか ら,当町 と しま しては町 沿革の躯大収 と して き わめ て史 重な文献 とな り,将 束へO‑)金字塔 と してIL
l二湖の絶賛 を悼す ることを確 信す る もので あ ります.本来,地域
調
鼓は,いITれの I=封lJj,/)ために し7J文献,ヂt料等か 1 く保存せ ら・れてい ること は稀 で, しか も多岐にわ た r),華丑
二は格段 の労苦 か要 る ことと想像 してお l)ます. ま して 当町 はそo
)最感 の状態で,資料,文献!よ至 って抄 な く,在 ると して も散 在 して恒也 には きわ めて困難 な状 況であ りま した,また調査 の時季は恰 も炎省の候, しか も探 し張 めた郡料 を整理 して脱稿せ られ るまでの妓 い札 教官をは じめ とす る学 究諸 兄姉 の 御 労苦は 舷々な らぬ ものが あ った と 推察 いた しま す,姻 族者 の一人 と して感謝に堪 えない ものであ t)ます,
辛 いに今回め でた く上梓発刊 の機 を得,llil域研究 シ リ‑ズの‑一巻 と して脚光 を浴ひ ること とな ったわけで,論文を寄せ られ た卒溝生,在学 生の闇 係学究者 の欣 びほ多大な ものがあ ろ うと蔭 なが らお祝 い申 し上げ る次 第であ ります. また主宰せ られ た社会科研 究室 の諸先生
に
心か ら鮭節 を贈 り, この有意栽 な
事
業を遂 行せ られ た高速
ri:御企 図 と勇往 な推進 力 とを称 え るIlJのであ ります.昭 和
40
年6
月日 生 の 概 徴
日 生 港 大 繰 網
遠洋浜子死亡者追悼碑
大 阪 窯 業 耐 火 日 生 工 場
川 崎 炉 材 日 生 工 場
夜間操業か ら帰 って網を干 している打瀬網舟
網 代 に 張 ら れ て い る 坪 網
目
第 l章 日生 の 自然 的 条 件 と土 地 利 用 1. 溺れ谷の帝軌 こ位置する日生
2.
干 拓 の 進 展 と 日/ ̲ L
湛 3. 乾 燥 し た 気 候4.
土 地 利 用5 .
戦中戦後におけ る開腰加茂の進展第 打草 加 子 浦 日 生 の 近 世 の 姿 1. 近 世 の 日 生 の 概 観
2 .
近虻における口生の生活諸相3
. 岡山帝の海上交通史上における日/LL l .
大 多 府5.
帝牧,狩猟地 としての鹿久居島 6. 流罪地 としての腫久居島及び偽島第 W葦 漁
業
の隆
替 1. 共同体的ない し半共同体的漁業2. 個 人 漁 業
3
.
外 洋 進 出4. 朝 鮮 進 出 と そ の 引 換
第
Ⅳ章 工
業化
1. 日生町におけ る工業化の特Ti‑ 2. 工 業 の 形 成 過 密
3 ,
製射
光と くに 三 魁 網 に つ い て 4. 耐 火 レンガ工盟の生産構造 ・
付 とくに三瀬 灘について 5. 造 齢 業 の iI..産 構 造
6.
生 活 の 機 械 化 と 都 市 化7 .
工濃化に伴 う人 口 の 粍 出 入1 1 10
2132 38 cq‑2 42 46 5‑ 60 64
6977779301 o HH HH
8890 8
1・4
953
111つJ 3
56
678
1111 1
11
111
吹
8. 通勤者の急増 と得たJtる虚業の再編成
第
V
茸 交 通 の 発 達 と 産 業 1. 山 陽 線 開 通 以 前 2, 山 陽 線 閑 適 以 後 3. 赤穂線開通以後における交凪 商圏 4. 滴 業 と 商 店 街5.
内 海 と 日 生 海 運 業雛 Vl筒 社 会 集 団 の 諸 相 1. 第 一 次 的 典 団
(a) 家族 (b) 同族 (C) 親族 2. 日 牛 町 協 同 糾 合
(a) 日 咋 町 の 産 業 分 布 (b) 日 生 漁 業 協 同 組 合 (C) 頭 ulj漁 業 協 同 組 合 (a) 寒 河 偲 業 協 同 組 合 敬学社年輩Ⅶ123第 校会中 文育百巾
と教敢行
第
\ 1 瞳 二
県境 (洋 境 )地 帯 に か らむ 諸 問 題 1. 捕備文化,民俗の交界地域(a) 方 ロ
(b) 民 俗
(C) 婚 姻 圏
2 .
現 代 に お け る 福 浦1‑02082082172262312422632312m3153213273293293343383‑334334335235836
第 Ⅰ 章 日生 の 自然的条件 と土地利用 1. 溺れ 谷の湾頭 に位澄 す る 日生
〔イ
〕 山 が 海 に せ ま っ て い る土 地写}'f① 礁)iあたりよM'(指舟をJUlむ
榊山鮎の中で も,
内
部 と加部は,山地が直接海にせ まる所 で あ り, なか で も,東部 の この地区では海岸たけ では な く,陣 の 奥 に入って も.かな り福い土地がみ られ るのであ る.そ うLて「
川二は. この よ うな山地の海に面 した南斜面 にのみ立地 したと こblであ る.そ Lて また, この地区は地節が流紋岩 のみ よ り成 り立 ってい るので,他 の地域, た とえは yLl島半 ]::,の よ うに,岩 Tiの らがいに よって差別 されて侵蝕 され,山の形が ちか うと言 うよ うな ことは な くて, どち らを見て もよく似た山形 を してい る.そ してその山頂は, にぷ い丸み を 持 って いる もの はか り で.近 くか ら見 ると 写弟(9 1つ 1つの小 さな山は見 られず・
に, ・面なだ らかな姿を見せているのであ る. この山地は,近 村 伸 上が 言って いる よ うに, 壮年 末」抑 二近 づ い た もの と 思わ jL,山 と山 との関の谷 1,,鹿西に良 くのぴる断層をのぞいて広 い,そ して浅いU字塾 を開いた ような形 を している. この谷 も 南北であ った/Lらは良いだろ うと,Ill.わ九 るれ それ も断層 とい う桃進級に よって,無縁 の もの と/Lっ て Lまってい る. この よ うに, この他の谷が短い と言 うことが,水 を柑に くい とい う原 因の
1
つに な ってい るのてあろ う,榔 半に 向か ってし、る南北 の抑 上浅 く,多 くの水はJ g
偶 こ出来 IJ:い. しか し,谷 口 において各'.・'LILの居f
'I三には ことかかない. こ .)い Jjことが集落立地 と も個係 して くるのだ ろ う. く ))しくは別に 言 うので山形に もどると, この他 Jj山地 を南北にず っとながめて見 る と,北か らl約二行くに したが って しだいに低下 している. しか
L
,そ,hは,逓蹴的に低下 Lているのでは な くして,段階 的:=低下 しているのであ る.凶① と Lてのせ た ものを 見て もわか ると思 うが. ここては斬鰍 よ少 くとも三段以上あ り,次第に海に向か って低下 Lてい るのであ る. また,北のプ)'には
,
片上清iifiか ら船坂 ′ニ 向か って,瓜北方 向このびる桝田 もあ る.次に低下 してい るとい うことを,山頂に 目を向け て見 てみると,壮年人矧の山であ る ことはすでに述べたが,FL'.1;い山の とびILLJlた周囲をみ ると,そ こはかな り平 Jf̲lで, 山]頁とは!il.えない よ うな部分 を見つけ ることが,出来 る.恥 このべ た段附 的に低下す る とい うこ とを気をつけて見ると,北か ら帆坂峠 J)北 のあ た ・')で
3 5 0‑d o om
(・らいあ り,次に大谷の北 あた ()て3 5 0m
内外 とつづ き,その後に天狗 山の3 00 m
ぐらい,深谷 q)北 の24 0m
く‑らい, 夕立愛山の2 0 0m
ぐち1
写i■t⑧
i i j l )
.I.',の継より平坦面を写すい,骨島,鴻島の
1 0 0m
内外 とつづいて来て, ii後 に風 EEi!j‑とか大多府 島の5 0m
内外 とな って い る. これを瀬戸 内面 と言 ってい る.写IltQ) に見 られ るよ うな面 であ って, このせ まい平 坦所はほ とん ど何 に も利用 されてないて,た だ頭峡 部を畑地 として利用 しているにす ぎな い.頭LL‑とか鶴島,大多府鳥がそ うであ り, と くに低島では前 田氏一家が広 く土地 をL削 、 てい るだけ であ る.以上にのべ た段化,あ るい は断層のあ った とJi.).われ る所は,第① 国を上 げ るとよ りは っき りとわか る と思 う.巾
%
ヂ 脚 葦 ノ 斗 具 ̲ 雲
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印
‑ 鵜 沼亀 iの
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言 /\芸 ノ{ \誓 書小(第1匿l)
〔ロ〕
寸 断 さ れ た 土 地また ここでは, 段化 とい うものを見 ることが出来 る. これ は断層の吹 いちが いて出来た ものであ っ て, この地においての くいちがいは,数十
m
か ら有数十m
も,ねこなわれ てい るJ)であ る. これ r‑,は5 万分の1
の地形図 で 十分はん読出来 ,.5はずであ る.断屑線の方 向 と しては, 中国地方一般につ いて言
うと,鬼北方 向か ら而由)j・J.I,Ji・こ向か ってい る寸)U)か 多 くあ る.岡山県においては, この iコ生町 の近 く に もあ るのであ って,先 :こ'少しのべ /=ように,)FL湾hjlか ら船坂 に向か う細 よそ
T
L.
二あたる̲ この他 に もいろいろri:方 向があ るのであ る. この EIJt付近 では,大体の ところ,‑Ai一丙 の ものが 目立つ よ うでそ 1
ご (Tt./.こ う .Iある.例をあげ て見 ると,北 か ら金剛川の谷,大谷 お よび福浦か ら寒 河を泊 って佐郡 高下に向か う谷 つ
な どであ る.そ して この
3
つの主 な断層 に よって, この他 の地形 の段化は 行なわれた もの と考 えて よ い. また これ らの断層に よって地鰍 まブ ロック化 され て しまっているために, この他 では幅 が2. 5 km
はか りのせ まい山塊が三す じ出来 て,その間にせ まい谷が出来 てい るのであ る.そ して この谷の+ほ どに谷 中分水崩があ る, このために水は これ を境 と して東 と西に分かれ て流れ て しまって,そ うでな くて 弓,少ない水は半減 され て しまっているのである. それ に南北 にのび る谷は断層に よって2km
も のびてい るものは ない.だか らこれ らの谷 の水 Jk利 用す る ことは期待 出来ない, この ことは後にのべ; ることに して,中国地方の地形 の 一般的な発達 史を簡単 に言 うと しよ う. この地 の山のほ とん どは, 舘 ≡紀 (今か ら2, 0 0 0
万年前) V̲癌底だ った ものか隆起 して陸地が出来 たのであ る. これ らは, 岡山 児の中ほ どの山地か ら化石か しは しぼみ られ ることに よってわか るであ ろ う. さて こ うして出来た陸 地が両にけず られ,あ る部分は山 らしい山をつ くらずに,海面か らあ ま りぬ きだ していない波状 の地 L畑をつ くってい った. これが古 い吉備同T,京てあ った.そL
て現 在 これが4 0 0m
内外 の山地 とな ってい るのは,以後の隆起に よる ものであ る.そ して この 日生付近 の平坦 な山頂部 とい った よ うな ものは, こ うして.Lli来 た平坤面の‑一部の切片であ る. そ して断層は この 吉備 高原を なす 準 \r・''・原を切 って お こ り,準 平原面に高低差をつけ た もので,その後 ひ きつづいて雨水や川水の侵蝕が働 いて,高・】い所 や角 は った ところを削 り,全体 と して高 さを下げ てきているのであ る. この際に水に よる侵蝕は,瀬掛 二 近 い所, ブロック化 している地魂 では,そのほ と りか らしだいに享等中に向か ってお こなわれ てい くも のであ るか ら,海岸に近い山ほ ど低 くな り, またナ pA,.I/では 中央 の今見 る鋼線が いつ まて も一 番払写3,'1⑨ 小川の政に放いた七 郎 uJから佐一恥・:石Fに向か う谷にて
く残 る ことになるのてあ る. この よ うに して, ここの ブ ロック 化 Lた三筋 の値駅に, い まだに吉備高原 の切片であ る平坦面が わずかではあ るか成 っているのである.断桝が お こ り, こ うま で偵蝕か進 んで い くと.断層巌な どほ 削 り去 られて しまって, あ とかた もrj:くな って しまうれ かつて断層のお こなわれ たす じほ岩盤か こわ きれていて侵蝕に も弱いので, このす じが主 な 水系 とな るのてあ る.そ して どこよ りもは っ き りした谷が 出来 るのであ る. この令す じが前述 の
3
つの谷 であ る.前述の3
つ の谷 の1
つであ る寒河か ら佐郡高下 に向か う谷 の寒 河側には小 さな扇状地 を形成 して いる.写共③ ほその層状地 を放れ る川 の 庇に しかれ た石だたみであ る. この よ うに この地区 と してはめ ず らし く大 きな屈状地が出来 たの も, この谷が断層であ ったか らか もしれ ない.以上 の こ七に加えて洪= L
.;'l
Lr末期の LU‑非的な海 水位の変化に よって, 日本で も8 0 m
内外 も海 水面が上 月 したの で,海岸irこ開 く谷はその高 さの所 まで海水にひた ることにな っ たのである.〔‑〕 島 と 入 江 の 多 い 所
漸PJ内海は,一般にLEiの多い所 と して有名であ る.それは漸戸 内軸 の成 因に よる ものであ る.そ し 3
て この瀬戸 内海の うちで も,特に このあた りは島が多 く,海岸 の出入が多い と ころてあ る. この出 入 杏/もじたわけは,前に ものべた世界的な水準の変化に よって海水面が上 77 し,海 岸付近 の谷が溺 ,・1Lた か らであ る. そ Lてその溺れ谷に して も,海榊 こ直角にで きる勘合が軌 由であ るが, ここでは梅 l'.::.ニ 平行 に来 由方向に発達 しているのが特徴であ り,た まに海面上 にのぞ いている高所て出 とな って拭 っ ている ものに して も,骨t])や地久居島の よ うに東西に良い ものがあ るのである. この よ うにな へた
P J l
由はいろいろあるが, この他が東西に長い断層 ブpックであるか らである.洪郁 虻」三脚の水準変化は 世界的な ものであ り, その
i
T':も大 きか ったので,大阪帝の出 口まて しか水のなか った佃戸内海が今 F;i る までにlJ:ったの であ る. しか し姫戸内海 で t,痕葎線 の出入の少rJ:い ところは ある. た とえは伊 予輝 の よ うに山が掠 帆の ように海こせ まってい る所, また播磨群 の よ うに広い 平野 か海''JI主を しめてい ると ころであ る.後者 ,iJ少 し説 明 してお くと,海 水が と坪す ると,海榊 二平野が出来やす い とい うことて あ る.緑)'T'‑付近で もし海水面が上が ると,新 たに海 水をかぶ った川の谷には,上 流か ら川の運搬Lた 上砂か唯耶す る ことになる,隣の赤秘 のデル タは藤戸 内で も有 名であ るが,千種川の川 口が 自然に触八㌧写3'i:旬 rl, 日 生 と 日 生 継 とが大 であ り,その他は傾斜す る地形面で 扇 状地的である.写i‑i'の よ うに三角形 の 平野は ほ とん どが干拓 と考 えて よい. ここでは 大体 せ まい点西jj向の山脈か ら, 海
]
;・'=に流れ る川 は土砂 も少な く. 平野 を作 るとほ考 え られ な いのであ る. しか し断層 をま じえ た梅作 も, い までは櫨めて浅 くなる まで に 埋 まって い る. これを もとに して 人工的に 干拓 す る な り,港をは るな りす ることは容易であ る. こ うい うこともあ って現在中 l=lJ1‑㌔には 経が作 らられ てで きて 轄り,それが現在 で も年 /I沖に向か って30cm以 上 も拡大 しているそ うである.
とい う ことは まだ 水車が あが っている とい うことであ り
,
陣 地は沈降 してい る ことを示 して いるのであ る. こ うい うことは 日生に もあては まるわけ である が, ここには大 きな川はな く, デル タ らしい ものはみ られ ない のであ る.それ らしい もの とし ては寒 河や・トロ/七に写#‑④ のt
うf〔三角形 の 平野 が見 ら/ilる が, これ も人工の干拓に よる ニ
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一人克つ礁 度鶴斉れ ている. .亀の ことを言 うともう 1つ忘れ てはな らない ことは
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鶴L7,‑と醐CJと明神L‑,‑このI帥 二発達 し て きてい る砂州 であ る. この砂州は干紺】の峰 な とは歩 いて渡 る ことか出来 るそ うであ る,次に
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廿 附近 の等深線図 第② 図,及び 臼/̲L町立病院跡 と中 Lj/‑liのボ ー リン2'調査凶第③,④ 図,をの舌 t
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㍗せ てお く.
海図を,見ると鹿久居 と本 土の Jl''lJな ど大変挽 くな ってい る こと が よ くわか ると思 う. また
寒t u J
の干拓地 の沖が一帯あ さ く1m 以内, そ して 両側 に2m, 3 m, 4m
と深 くな ってい る こと か ら, このあた りが昔の谷の分 水%((であ ったのか も しれ ない.(第 4国) 日生町立病院跡のボーリンケ調査図
[ニ〕
浜 と磯 の 交 互 す る海 岸〔1'〕 で も言 った ように,壮
年 末
期の山が,そ してひだ こまかに侵 蝕 され F=山か海に接す るのであ るか ら,
磯 と浜が第 5図の よ うに̲Ji:互に発述 しているのであ る. しか し, これ らの浜 と小磯 は数カニ多い とい うだけであ り,小 さい ものはか りであ る.乱入 に, Ll′L港か ら 虎端 までの 浜数
は 1 5
に余 るほ とあ る. しか し余 りに小 さいために,海岸線のあた りて(上,全 く
紛
糾 二よって‑‑,i.LBの折 と‑Aられ るよ うな沫磯
谷あた りの海岸 もあ る. これ らの浜 の大 きさ,磯 の (第5図)
大 きさ:主い うまで もな く.後背の谷及びLLJ地 の大 きさに 対応す る もので,楽手,・JやrL・日生 の谷は この地 域 ては大 きい力 で,それだけ浜 も大 きいわけ であ る7jlLt,それだけにi」也利用 で誼 安座が大 き く, この よ うlLことか らここに干拓が まず手をつけ られ,そ こで今見 る海榊 よ浜
を
な さない と言 うことが 出来 る. この よ うな浜地形は漁菜の根拠地 と して, また'ij鮒 なが らも海岸地方での出排他 と して,一香利 用 され るのが普通で,ここで もその例に もれずにあ ま り小 さJr'i:浜地形は別に して, 片磯,塞河, 深 令,
沢山,
中 日/i, 日生 な どの雄港は,そ うした条 件の もとに立地 しているのである. この ことは数 多 いか こついて も同 じことが言 える.た とえば,あ ま り捉篠 と関 係のな さそ うな,鹿久居島につ いて ,Etllると, この出 二は干拓 とい う人⊥的な ものがみ られ ないだけに, このあた りの海岸の 自然封を見 る に, また とない ところと言 うことが出来 る.東西に良い この.I:I,'は,戦 後の開拓村が出来 るまでは店住 の記録はない. 日本で も大 きな島 と してはめず らしい例であ る. この島の南
岸を船に よって東西 に眺 め て行 って見 ると,幾 つ もの鳥に分かれてい るような錯質をお こすほ と海岸線 の屈曲に とんでい る.だか ら人きな浜‑'P磯が出来 ているのであ る,西部には大 浜海岸 と畠▲われ てい る ものがあ るが,本 当に 6
大 きな浜は これ以外の ところにい くらで もみ られ る. この一般的地形についていいそえてお くと,演 は孤状あるいは鈍硯状に陸地に狩人 した地形の ところで,外海の ような弧し、故は この湾鮒 ことと く
前
に弱 まって,海 の波に よる働 きは弱 く,海蝕 よ r)む しろ後背か らの土砂 の稚拙 Lやすい ところである のて‥ 迎)';・と防蚊掛 こよってや掛こ利用 されやす いことは 牡界 で i,同 じことであ る.日′F̲帖 もそ r)した 位置 で この地区では一番 J:し、位倍 に1'l然発/t.的につ くられ た ものであ る. また中 「性 の I:lJL駅前に, この姉妹港 として観光をね らってaj港,I)i舞踏 され るべ く恥 こ杭打 らされているが, これは まさ し(W l
を糾た もの と言 うことか出来 る.浜の利用は櫛戸内にか ぎった ものではないが, もう1つあげたい も のがある.それlよ劇 抑海水浴への利用であ る.面水浴)'!"Lとしての 地域 の 特性 を他の 蘇戸内の 海 水浴 )9,, と くに浅 口,笠岡地区U.)もの と くらペて見 ると.余程追 ってい ることに気づ くてあろ う.それは 何度 も吉 ってい るが高い山が海にせ まっているので浜の奥行が浅い こと, また これ と比例 して比較的 遠洩てない こと, さらに もう1つ,それは海)llや その付近 の海底が砂fi'ではな くて磯 田であ るとい う ことな どである. この硬質であるとい うことは, この付近一体が流紋岩か らな っているとい う他門秋 作によるもので,流紋岩が風化
崩
壊すると砂利 と粘土になって,中開の砂が出来に くい とい うことに よっているので, こればか り(Ltど うす ること, i , J H
.凍ない. だか ら他の所 の海)
lJ‑‑の よ うに子供が砂遊び す るようなことは楽 しめないか もしれないが,そんな ことをのぞけば この地域 ぐらい海水硲糊 とし て利用 され る海岸の多い ところはないであろ う.特にそ うした意味において も,未だ海岸 の よごれて いない鹿久居.rut,・な どは大いに姐J符がFJ'・てそ うであ る.次に浜 と交互 している磯 について見てみ ると, ここではただ岩石海岸 とい うのではな く,海崖の充連 している所が多い.ただ鹿久居島 と本土 との海 峡を此久居側の海岸には殆 ん とそれが 7,.られ ない机 他 てほ数 メー トルか ら2 0
メー トルの急鮎をあ ら わ してお り,節理の発達 のいち じる しい流紋岩は.海蝕に さらされ る南面す る海岸では,いたるとこ ろ海蝕洞を作 っている.その中で も特に大 多府高の両得にある勘 三郎穴は,奥行が8m
,間 口2m
も あ り, また穴のまわ りの海蝕地形は‑J
F:・の㍍観をそなえていて, 将来は観光 に は良い 所 となる だ7・)う.それ とこの勘三郎穴は平水準庫に穴の奥地は
2m
も高 く,到底 この よ うな深い穴が出来た とは考 え られない.それに ここの部落か ら穴にいたる犯で,鞍部比高が数 }‑ トルであると思われ る位置に 磯田を見 ることが出来 る. これ らの ことか ら穴は今 よ り海水面が少な くとも数m高か った時代に作 ら れた ものと思われ,その後の水唯低下でその全貌を蓑 わ した ものてあ,‑I,う. これ と同 じよ うな ことがこの地域の海崖に言 えるのではないか と思われ る.そ してい くら多 くの浜があ った と して も, この よ うな磯に よってへだて られていては,その交泡機脚は舟に斬 るしかない とい う不便 さである.最近 ま It北部の断層谷が よ く利用 されていたとい うこともbか ると思 う. ところが偉近にな って本土側の侮 岸線に, この急崖に近い所を切 りくず して,立派な道綿が出来上が っている. この ような道路が雌な く作れ lJとい うことは,流紋岩の節理の発達が署 しか ったとい うことが鬼のがせない ことであろ う.
〔ホ〕 土 壌 の 深 い ‖
」 肌
この地の⊇占崇は流紋岩 であるとい うことは前にq)べたれ この流紋岩は凝灰
岩
門の もの,角傑tL(ふくむ もの,名の とお り流理のけんち 上なものな ど色々あ る.全休r̲節理が よ く発達 しているとい うこ とは洗 日すべ きてある. しか も容易には ぎとられると皿hれ るようにな っている所が多い.それがた
め に汎化 も この節即に沿 って深部 までお こなわれ,多L
i
に粘 ヒに'FhJむ 七城 を作 ってい るのであ る, ら しこ,tLが花 樹岩 な らT
LI砂̲+̲とい って,多見 U)砂 ま じF)の 卜鰍 こな るのであ ろ うが, この流紋掛 土砂が ほ とん ど出来 ないのか特徴 であ るため この よ うに な ってい る.他 の所 の流紋岩の節理 の先達 の恋 い所では
,L 射
ヒほ深 くまで行なわれ /よいで,表面 だけ て終 ってい る. そ して この汎化層が ち ょうと内 部を 伯と誰す る とい う形 に /Lってい るのであ るが, 二二で砂 利が多い と言 うの も,母岩 が節理 に よって小 さ くば l:>ば らに /Lり, この各 々が凧化 され て粘 土 を作 ,), 汎化に敬い しんが砂利 に な って い るの であ る. こ うして出来 た粘 土Tiの土塊は透 水性ほ とば しいけれ ども,潜水i
狛 まきわ め て大 き く, い ったん 吸 い込む といつ まで もそれ を保有 してお くとい う仕丁捗 あ るので, 水の不 自由な島に 付いて も畑作物 にあ ま り支障はない よ うであ る.地 鳥の前 川氏は, このよ . ‑ J
iこや って来 て6
町少はか り槻坐 し,‑西瓜 み かんlJ:どに成功 してい るが, あ ま り珊 水の心配 がTj:いので 虻話は ない と昌ってい る くらい であ る.鳥 も同 じ笠 岡あた りの).I,‑,・と くらべ て 妃る と, 山の林珊 て も畑 の東面 で もだいぶ らがいが あ る, こ ちら は林州では放色か こいい し, 山肌
か
仰木や世 木におおわれ てい るのに反 して,笠 岡では褐 色の土 や岩 吟衷 わ, t
T./こ ttはけ 山 "の タイ プをな してい る. また畑地 では笠 岡の.ガは 桐に たたか れ て,表 [帥こ砂利 や秒 が ういて い る し,軟 /<畑の暇や畑の畝が肌′(してい るの をよ くみ る. El1:.ては こんな ことはあ ま り み られない. この よ うなほ水
溝や
崩 れを地
)Jでく上ツ エヌゲ と言って, 夕 立のた びに心配 のたわ とな っ てい る. こ うい うことは花 晶I k
S・地 ノJの共通 の天災て, 天井川, はげ 山を生 ず る原掛 二/i:ってい る よ う であ る. な̲rbl紺
十力吊
t絞碧 の汎化都
に 多い J̲とは, 邑久 郡か ら和知郡一・体にかけ て,須旭
栄芹U)窯 跡 か [1本で もまれ lJ:ほ と多い こと,古EL)に備前
炊 ,耐 火煉 瓦 な どの工機iL地 を見 る と,その原料 あ っての ことであ り,そ して山'iLは木 があ り,そ,Plを燃
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LLえは他(.t冨)7な くて もよいだ ろ う. もっ清
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以上述べた ことは第
6
図・第7
囲,第8
臥 莞 gi‑9回,第10回を参考こ して見 るとよ く理解で 讐きる.
〔へ〕 地 下 水 の 乏 し い 所
この項は次にのべ る飲料水の所 とも的係が大 いにあるが少 し述べ てお くと,海 こ接す る所.
しか も山地 の海に面す る斜面 のせ まい所 , こん な所 に十分な地下水かえ られ る例は少ない.也 下水その ものが雨水で地下に偉 人 し,ゆ るやか に地形に沿 って流れてい き,最後に注 ぐのが海 である ことを思えば,沖横屑の砂眉にみ られ る 非水の よ うな ものは, ないのがあた りまえ と言 って よい. この他では,そのほ とん どが,山の 斜面にそ って,風 化層 の下部を流れている循環
渚芝 耳 芝
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水が,小 さな扇状地 の伏 流水を利用 してい るのである.循環 水 とここにい うものは流紋岩 の節理を伝 って,下方に深 く侵入 して,その多足に出やすい位匿 とい うのは谷す じで, しか も顕著 な節理 の とこ ろ と言えそ うであ る. この顕著な節理 の方向、こ北200‑3OO西 よ りと, これに交わ るほぼ東西 よ りの2 つがあ って, この岩石の大 きな長 くつづ く割れ 目には,その他の所 よ り多量 の水が え られ るとい うこ とが出来 る.だか らこの よ うな水の出方 をす るところて同 じ割れ 目にそ うて,低 位匿に深 い井戸を掘 って多足 に揚水すれば, もとの井戸 :エ渇水 しやすい と言える.大多府 の港 の近 くにlつ の大 きな井戸 があ り,部落全 体が これに依存 してきたがかれ た ことが ない とい う.近来 付近に打 ち込み ポ ンプを取 りつけたためにかれ ることがあ るとい う.おそ ら く同系統 の節理 に よる 水のため ポ ンプ の便利 さか ら,多血 の水を使 うよ うにな ったか らであろ う.本土側 の井戸について も島 と同 じく,浜の奥 の谷額 近 くは られ ている.現在は簡易水道のためほ とん ど利用 していない よ うであ る. しか しこれ も天候に 左右 されやすい伏流水 とあ っては安心 出来 ない と言え る. ま して工菜,観光 ,交通 な どすべ て水を大 変必要 と している.以上各項に分けてのべ て きたが.他 と重複 しない とい うことも考 えて普 き,一般 事項 も加 えておいた,具体的なコ恥 よ後述の項 でみ てほ しい と思 う.
(藤 原 明 男)
2. 干 拓 の 進 展 と 日生 港
日生町には帝が 多 く,干拓,埋立の適地が各所 に点在 している.山が海岸こ迫 り平坦地 が狭い 日生で は,当然海へ向 って前へ前 へ と進 もうと してい る.そ の もっとも大 きな干拓計画が兼備干拓であ る.
現在施 行中なのは福河干拓 で,福浦新 田はすでに
1 7
世紀に市営新 田 として干拓 され た. 日生町 の干 拓 の進展こつ いて この三つの干拓を と り上げて次.こ述べ よ う.第
1葺 福 浦 新 田
現在は兵 帝県に属す,古土手の北 と南に水 田が広が り古土手 て くび
れ
た形を している.この古土手を軽 に
2
回の干拓が 行なわれ,北 側 の干 拓の 方が古 く これが 福浦村 新r朋 てあ ち.南側がいわゆ る福浦新 田である.1. 福 浦 村 新 田
面馳 ま約
4 3
町歩 ,干拓年 代は泰長〜元和牢 間 とい うだけでは っき .')しない.「郡JG古記」
ピに よ り庫安
2
年3
月幕府‑具 申 した術前洋中
写其① 古十手
Tl・,ミ請 け新 田(手 前)と福柄新 田の境 界(第i問) 福 滞 日 新 田 と 福 浦 新 田 10
新 田総高 をみ ると, 福肺村 は
4 8 3
石7
斗5
升 で あ る. もと も と境 港は現在 の典 渚 よ りず っと 山側こあ った.そ。山 ま山側か ら 貝が ら頬が出て くる ことでわか る.干拓地 内には最初2 0
戸樫皮 が入 り騒茂 を主 と して営み ,か たわ ら漁業を営んで/L:.活 してい た と思わ.11る.現 在 ここに一本 の川が流 れているが, この川は 干拓後そ の部分の と地が落ち こ んで川こな った ものであ る.今 の凋 ′ま低 くな った上地 を!‑J.り下・ げ てで きた碑であ る.従 って満 て もち ゃん と 番地 が つ いて い る. 日照 りがす る年には配在でも塩が浮 き出てきて,稲hr.赤 くなるそ うである,
2,
福 浦 新 田福
斬
新 田は津 田永忠 か手 こなる藩営新 田である.岡山藩は相沢蕃山が 「国
に田畑ばか りにて山林不 毛 の地なきは士民共.=便 り悪 しきものな り,野は野にてノおきfLIるぞ よ く鳳 その うえ新 田を間 きて古写井㊦ 福 浦 付 新 田 絵 図
田悪 しくなる所あ り. よくよく考えあるべ きことに候
O
」(「集義外店
」) ,
「新田の多 きこ王国のために よ ろ しか らず,おこきざるに しかずO
」 (「大学或問」 )
と新田開発消塩論を唱えている時は 500町歩余の 新田が ようや く開けていた. しか し布山が退いてか ら藩主光政が津田永忠を中心に して新田朋発をお し進め,60年間に薄営新 田3,500町歩 を開発 している.江戸時代におけ る岡山津の 閑盟事業は 鎖国時 代の特殊的資源 として全国的に も有名てある.蕃山が岡山帯を去 って 「集義外四」や 「大学或問」を 執筆 していた頃.津 田永忠が近世壕大の滞営新田を開発 していたことは まことに皮肉である.津 田永 忠は寛文12年関谷に土着 して関谷按の学汝経営にあたったが,財政困難 とな りその対策 として天和2 年22町歩余の新田を開いた.天和2年4月6日鍬初,同月27日潮留,10月6日までに長 さ2401乱 根 匿 6臥 馬路1間半,高 さ2間半の輿ができた.夫役 として lE]2,000‑3,000人,
潮留後は200人当 て八郡 より集 まって来た.天和3
年には大畠鼻 より石渡 までの小娘長 さ (不明), 根匠 21礼 馬路 1
聞,高 さ1
間が出来,同年中に立花池の骨約が始め られ,攻寄 2
年に出来上が るとここに福浦新田は写式⑨ 旧干拓と現干拓の境を示す松林 として開発後約
3
年間は免税 とされた.新 田は元 禄12年完成 した.元禄16年12月の決井高お よび反 別をみると畝数25町7反2畝28歩半, 高386石3 斗5升2合,物成287俵4升9
合である.福浦新 田の方が福浦村新田より土地が高 くなっ ているため排水が困腰なので,両者間でい くたび か水争いがあった.現在は両所田合わせて約83町 歩の水田を250戸の典家がつ くっている. 従 って 平均耕作面研は田畑で
3
反6
畝 とな り副濃なしで は生活で きない.漁業 との兼業農家が大部分を占 めている.第
2
章 福 河 干 拓地元の人は浜山干拓 と呼ぶ.福河干拓は 日生町 寒河帝の干拓で両群20.63町歩, うち耕地17.57町
12
や っと形を追えた.兵事 4年 6月 2日には閑 谷村か ら12家族 (74人)が移 って来た. 庄屋 1軒 (10人)を加えて13軒 (84人)の集落で あった.以上は 「井田福浦新田八 木山記録」
に 上るものである.現在八軒塵 ,五軒屋 とい う地名があるが.これは新 田へ 移 って来た当 時の戸数を示す ものだろ う.
新田の開発経焚には社倉米が一 時流用 され
くhした
た.新 田の開発には鍬下年季 といって,原則
歩,他は道路などである. この干拓は県補助千席 として昭和
2 7
年か ら計画が始 まった.2 9
年冬工邪に とりかか り現在 まで施行中で未完成である.総工か ま今 までの1 0 , 8 0 0
万円に, 今年の増額予辞 2 , 7 0 0
万円を加えて1 3 , 5 0
3万円になる.昭和4 1
年度に この干拓が完成すれば, 米6 9 0. 6
石 (襲作を米に換許した合計)の増収が見込 まれ
, 3
反歩未満の桝作者の中か ら約6 0
戸の増反希望者を#生 し,希望者に 1戸当 り6
反歩の耕地が確保で きるようになる.闇河干拓は大正年間すでに干拓の計画があったが, 経野お よび社会的条件に怨 まれず計画のみに終 り,その後昭和1 2
年中華民国人飽発雷がエ都に着工 し たが, 日華事変で中止 した. さらに昭和2 0
年中国土木株式会社へ既得埋立権が譲渡 されたが,エ恥 .i 未完のまま埋立認可の期限 (3年)を終 り権利は失効 していた.福河干拓計画樹立に当 り岡山県が既 得埋立権を取得 した.寒河帝は北に向い
帽0. 5 km
,長 さ0. 7 km
程度であった ものを往時浅海部10町歩が干 拓 され,現行福
河干拓の北端の松林がその境界を示 している.入江西辺は石英粗面岩の岩壁であ り,兼辺は柏々巌 く 岩足がのび洪研岩におおわれている.地区内は泥土を搬入唯,5.1した第4紀新周の海成沖研層の埴壌土 て生産 力は高い.北辺 より
0. 2 km
は新旧石谷川砂故の 河 口唯前の延長で 細砂を温える 埴壌土で ある カ1,1'軽 ゆ くに従い粘性の強い暗緑色埴土で性質試験値は塩分0. 4 8 3%
, 土性は砂壌土の埴土, 概要が3. 2
である.土性は深度深 くボー リングの結果は下表の とお りである.〟 0
.1〟 0 . 2 〟 O . J〟 0 , 4l I C . S
〟0.
8〟 0 . q N O I O
,LJ一rJ
(第3匿l) 福河干拓ポー・)./グ回 (節2国の番号
と照応)
平均潮位(+
) 0. 7 9 m
,干潮殺低潮位(+) 0, 5 0
Tn,干糊般高潮位(+) 0. 8 0m
,大潮澱低潮位(+) 0, 3 0 m
,火潮最高潮位(+)1 , 2 8 m
,瞬間最高潮位(+)1 . 5 9 m
である.地区東南柵 より西方に延長
41 6. 1 6m
,さらに直角に右折北上 L延長2 7 6・ 8
mの地点で左折延長5 4・ 9 m
て,ふたたび右折北 ヒし赤細線寒河鉄橋束掛 こ至 る延長2 4 0. 5 m
,総延長9 8 8. 3 6 m
の堤防が 築造さ
れているが,地区内i,=はまだ水が満たされている.地庄内耕地のかんがい用水は石谷川の自然純水を 取水 し,不足分は地下揚水に よりかんがいなrTな う.落水の排除は後背地7 1 , 3
町歩の うち6 3 1 7
町渉は 地区北辺および東辺に設ける排水路で排水す る.又地区外の一・部7. 6
町歩は 地区東南脚 こ掛 ナられ る 地区内排水樋門 より排除する.1 3
干拓地完成後1年間は塩分を投出 させ るため放置 して.最初 の1年間 は無肥料で よ く,当初3年 間 ほ どは蛮'#肥料はいれない方 が よい.4年後 に大体
軌
由の水 田 と同 じよ うになる.‑1般町民は干拓を 望 んでい るが,海71/失 う漁師 L土あ くまで反 対 してい るのてその保附 嗣簡 '/i後 まで残 るだ ろ う.第
3
葦 東 備 干 拓 施久居島 と日生町 の間の海 を 干拓す るとい う鹿久居干拓 こつ いては,す でに約4 0
年軌
屋島正 一氏か提案Lたこ と が あ っl= が,当時 と しては耳 をかたむける人 もなか った.その後昭和
2 7
TFL県有音前町長が干拓計画 を思 い たち予備調査を始めた.又昭 和3 2 ,3 3
年頃備前町 こ も海 を干(第4回) }1‑i 抑 干 拓 計 向 柘す る計画が もら上 った.そ こ
で 日生
.備
前両町合わせて兼備干拓 をナすめ る ことにfi:った.従 って如
脚下拓 とい うのは U/i町 の鹿 久居 干拓,備前町 の木鮭湾 ,久 }<升湾,約
赤碕 の四地域 て全域7 6 7
町 歩‑,鮭久居 干拓5 0 0
町 歩てあ る.鹿久居干拓は当初
D
計画で',土塊 繁用地4 4 6
町歩 ,工業用地2 0 0
町歩 であ ったが,一部変 更か /i:され て次 の よ うにな っ一′∴第1表 兼 備 干 拓 計 画
長
工 区 名 地l互両駅 塊 J也 ̲i:吋 目地
艶 久 居 5
0 0 町
30α町1 4
01
Tri /=E
7 2. 3 8 2 4
久 /I 井1 2 7 8 2 2 0
恥 癖
6 8 4 0 1 6
汁
7 6 7 f 4 6 0 2 0 0
昭 和
3 5 ‑3 7
年度 予備調査,3 8 ‑4 0
年硬木調布,4 ユ
〜4 2
Erl唾棄施 設ii‑1こよる調査,4 3
年度着工の予 定て ,干 拓.土7
年 で完成 しなけ/きLtiIな r7ないか 「)完成は 昭和 301F‑とtJ:る.B=L在'.ままだ調査段階 にあ る.n生 町 :よ昭和
3 8
年福 湖地区・の 越鵜 分離 こ よ リL''L家 戸 数‑ 1 0 3
戸 ,糾地面耶1 5 8
町歩 (水田7 0
町歩, 畑72町 歩,
梯園地1 6
町歩) とな り, 1
戸 当 E)平均桝地面耶3
反9
畝 で,5
反 11下が7 0%
を 占め るとい う実 に等 細 な良家群 である.その生産性は塩 度に低 く. と r)i)け島 々の畑作地 帯.土瓶後 山休を開拓 した畑 て 自 然条件に恵 まれず,特 こ この憤向が
漕 しく全国的
こみ て も最下 位にあ る. こうした状勢 にあ る捜域農 .梁7ky,振興す るには何 と して も干陸こ よる大規模 な水田の造成 ‑tこれに伴F )
C1・菜用 水/I̲)確 保 とを実現す る以外 に道 はない,東倫干拓計画は この努件をかなえ得 る もので,臓前, 日生町の海が淡海のため利 用 で きず, これが埋立に よっての開発は 自然の成 り行 きであ ることと▲西播工業地鞘 と水島工業地箔 との中間に位匠す るとい うことが,
飽産物 の供給地 と して殺適 の位 hplであ ることな どに よ り,主 員的 は皿讃干拓 として計画 してい るものてあ る. しか し土地利用 の点か ら考 えて般業用地 よ りも,工業用 地 と しての方が よ り価値が高い接 岸邦は工業地造成 を行ない,地業 干拓 をより有利 .,=進 め よ うとす る.
汁画であ る. (干拓地 の4 0%
まで工業要地に で きる。)1 4
本土 と鹿久居島との間幅約
7 0 0m
,長 さ7, 0 0 0m
の水道両端 を堤防で外海 と隔絶 し5 0 0
町歩を干拓す る.排水については大半の面柄を しめる寒河流域は.現海岸線沿いに河川堤を築遷 して直接に外海へ 自然排水する.その他の干拓地周辺の山間部流域および地区内分はポンプ排水す る.背後地か ら干拓地への流入河川 として施久居工区に石谷川があるが,昭和
3 5
年度の調査結果で さえ 必要水凪の1 0%
に も満たず,基準年 (昭和1 9
年)においての余水は ほ とん ど期待で きない 状健であ る.そのため用水源を吉井川組 合開発の‑Eてある佐 lElダムに よって調整 され る坂根井塔地点 (腕前 町香登地内の計画合同堰)に求め,ポ ンプに よって書井川の水を1 4 . 5m
揚水 して干拓地全域へ帝人する..
現在の計画における総都菜班の予弁解は
3 3 倍8 , 4 5 0
万円である. 兼備干拓は書井川開発 と 密接な関 係を有 し,幾文王共 ともに新 しい生産基盤の獲得に悩んでいる本地域に とりもっとも期待を寄せてい る酢菜である.日 生 港
第 1章 沿 革
カLこ
El生帝は徳川時代参勤交代のため海路を とった際,舟子を多 く出 していたので一名を加Lf柵 ともい った.加子浦 とい うのは l]生のみの地名でな く,当時舟子を出 していた 浦を こう呼ぶの が例で あっ た.その頃は今 日に比べて水深探 く,西方陸地に帝人し あ し,草む らの間に点JTと漁家が散在 して いるにす ぎなかったが,臨海地滞か漸次東プJ‑へ移 り.人 口i)これに従 って東に移 り増加 して今 ロの 日 生町の形を造 った もののようである.和気郁恵こ よると. 日生帝は東西
5
町,南北3
町,深さ3
尋, 港は水深約5
尺,東西2町,南北1
町余, 1
年間の船舶定架数7 0 0
払 出人数約3, 6 0 0
生であった.荏 時(‑)1 . 5 m
余の水深をもっていた中州川の新橋付近 も,今は満潮時においてわずかに(+) 0. 9 m
位で あるのをみて も海岸の埋没を想像することができる. 日生湾は明治7年頃 よりいな,せい,えび,い れ 具現な どを主 とす る本町軍用漁場 とな l),
Jl生港は内海漁港 として発達 してきた.本港西榊 こは 沖防波堤,南小路防波堤があ り,東岸に一文字防耽投がある.沖臥汲毅は築造の年月は不許である.昔はわずかに
6‑ 7
間で小舟がや っとつなげ るほ とであ ったのを,r明治7
年増築を企て児島郡甲湘村 宮浦の人が新色師 となって,現在の故止に改築 したものである.南小路防波輿は中波止 と呼ばれ,文 久2年児島郡異相の石工忍苦が評負って築造 した.一文字防渡虎は明治42年の竣工で,後大正1 3
年に 県兜2, 3 0 0
円を投 じ常上工求がされた.一文字防波堤の東端は殻初は陸につなが っていなかったので, この改止の両端か ら舟が出入 していた. しか し波が入 って海底が荒 され るため,昭和28年頃つないだ のてある.又古渡止 とい う小 さな波止助があっ/二が.後護岸工事な どの埋立地 となって今はその形は 残 っていない. さらに大正1 5
年中 ロ生帝:こ音ケ珊防波堤が建設 されたのだが昭和3 5
年埋止 された.昭 和3
年港市計画を立案 し工事の進捗 とともに,現在の西部 日生港が形成 された. さらに昭和3 0
年3
月 赤穂線相生〜 日生間が開通す るに及んで, 日生駅が中 日生港の正面に設圧 され,内陸 との貨物収抜 放が飛躍的に増大 し,又付近島峡の観光地のJQ術によ E),凍港が海陸交通の要衝 とな ったので,娘は昭 和
3 2
年度 より中 日生港の改惨番茶に着手 した,中 日生港はそれ まで運搬業者にわずか利用 されていたにす ぎなか った.昭和36年度 までに水深H,30m,物揚場120mと前面の泊地お よび航路 の淡味 を終 り, 本港区が港渦 として塵 肺されたことにな り,本港の改修計画は一応完了 している.本港は明治42年第
‑煩港湾に編入せ られ.大正10年岡山県告示約203号を もって土木班支弁脱別 に より酢 は支弁港湾に 指定 され た.昭和15年内務省告示第438号を もって指定港帝に指定 され, さらに 昭和25年港帝法の制 定に伴い,同26年岡山県告示第554号を もって 岡山県が 港湾管理者 と な った. 本港:よ戦前には ‑‑時
「漁船千iか 、」 と冨われ るほ どの漁船でに ぎわい,内陸は もとより遠 く支那海や南洋方面‑ も船岡を 送 る勢いであ ったが,昭和12年頃か ら本港付近に罪賃 と炉利の工場か数社設立 され次第に港勢 もあが
り,内海漁港の行 きづ まりか ら現在 では商工韻 として発展 しつ つある.
背後には耐火煉瓦工場の他漁網工均 があ り,本港移出入貨物の大半は こ の原料お Ltび製品で阪神方面 との取 引が多い.兼備干拓完成後は 口生港 は漁牡 として,中 日生港は商工築港
として発展す るだ ろ う.
又別途の計画 としては 日生町長か ら噸和35年1月 日生港改倦計画調査 力 の依廟が 日本港湾協会長:,=挺出 さ れ ,同協会 では同年12月日生港改修
計画をたてた. (第5回) 日 生 壮 改 捗 ニⅠ 画
第
2 草 自 然 状 況
I. 地 勢日/生,港は岡山県の取東部 ,和気郡の南部に位配 し,松 ケ妹か らツプ ロ卦にひいた線 と陸 と陸岸 とに よって囲 まれた海面 な らびに中州川 おJ:ひ新橋か ら下流の河川水面 を区域 とす る.楯の越山が中央に つ き,1!,して港を 日生港と中 日生港 とに二分 し,碑形はあたか もW型を している.港の前軌 こは艶久居 島が拭たわ って湾 口を南 と束の二方面 に胴放 し, 日生町は これに南面 している.東部は ツブpまれと鹿 久居島の間を経て播州赤穂帝に通 じ遠 く柵暦灘lL続 く.北都お よび 西部は 和気 郡腕前町に 接 して い て,本町 と備前町 との境界を形成 している山脈が東西 に連な り, さらに西北隅の鳥泊山で分かれ た支 脈がr酌こ走 り海岸 まで連 している.地勢は以上の とお り東西お よび北の三方面は丘陵で囲 まれ,湾の 前面には腔久居島が障壁を造 ってお り,さらに沖 合には曾島,鴻良な どの島Jtが散在 しているので港 内は 自然 と風波を さえぎ l),従 って鹿波をr・生ず ること もな く急潮 もない.本港の地域内におけ る水深 紘(士)0.0mか ら(‑)4.0mで,平均水深は(‑)2.5mである, しか し舞妙に よる 港内埋没土砂はほ と ん どないが,降雨に よって背後の丘陵か ら流出す る土砂が流入 して港内に堆郡す るので短年挽 くな っ ている.一般に水深が競いので遭献外 の泊地 を利用す ることは少な く船舶 の多 くは‑文字錠内に碇泊 し,漁船は主 として中州川の水路を利用 して在野 している.
16
2. 地 'j'5'
海底地質は El生湾 の試錐結 果に よる と
5‑6m
位 までは淡よ県色泥土 で,下層に な るに従 い細砂 ,東 砂 ,小石況 りの粘土層 とな る.中 日生酒 においてほ7‑8m
位 までほ背 淡色粘土 ,下風 よ硬握 りシ/レトとFLる.陸地 につ いては表 層は 山土に小石を ま じえ た所 が 多 く,下層に fi:るに従 って軟岩 厨 とな り 一般に硬fiであ る.
3.
帆 向お よび風速
本港 付近 では 南蛮方 向の凪 Jr'rJか もっ とも多 く,Hlj上 におけ る最大風速 は毎秒
2 5 m
くらいであ る.4. 潮 流
渦流は
倣
軌 時赤穂 方面か ら曲流 す る もの と小豆払 方
面か ら来 る もの と二つ あ るが ,前者 は ツプ ロ級 を,掠め北流 して一 方 は中 ロ虹鱒 に入 り,他は 日生矧 二分洗す る.後者 は 日生抑 こ血流 す る.落潮峠は 離別 七と同‑・の経路 をた どって帰 る.湾 内に おけ る沈速は戚大毎秒0 . 2 6 m
位であ り,航 行船舶に支障 を来す よ うな ことは ない.5. 漸
位本港 の港湾 L耕]J;嘩 面は加東 湾中等潮 位 よ り
8 3 c m
低 く, 海 図 の基 本 水車面は 本港 の 基 準 面 と一致 してい る,本 港の潮 位表は下表 の とお りであ る.第2
蓑 潮 汐 干 満 衷潮 位 名 称 馴 位
( m)
肌 測 時 jl
J.L:.LJ: 考朔
望 平 均 満潮面1 . 5 3
奄 した㌢t管区海上保安部にて厨.昭和3 4
年料による,7
月28日g i L 6
) 卿 出 平 均 干 潮 而0 . 5 3
平 均
醐
位1 . 0 3
・
' 第‑ 3 牽 現 有 施 設 状 況
1. Lt,‑し 路
第3表 航 路 概 況
名 称 巾 Lユ 延 長 現在叔深 備 考
El 生 航 紹
3 0 m 6 5 0 m
(‑) 3 . 0 m
蛋 譜 =妄蒜 鮭 哲童宕11 1
に つい ての岡山‑「1/L三航路2
回, E]生‑ 17r';1‑松航 路2
回, 日生一 大 多府 航路1 4
回の定用船航路が あ り本港に寄港す る.本港か ら高松港 へは3 1
.0
,棉/ 巨1 3 . 9
,神戸4 1
.7
,大 阪5 3 . 8
,岡山2 5 . 2
, 牛窓 ll
.8
,片上s . 7
海盟 であ る,2. 泊 地
一文字防波線 内側 の 日生 船油 の水面