o大 多 府 の
r u l
] 港大多府 (昔は大5','3と制 、ていた。) は E]生町に 所属 す る小 さな島 であ る. この島は 元 禄 10年以前 紘,無 人J:.1)であ ったが,元禄10年9月上 旬に松平・薩摩守 が参勤 交代の途 次210日の荒天 を この 大冊 に 避 難 した.折柄避難 していた諸廻 勾侶こも一度 の避難船 もな く知 新で あ った 松平薩摩守 が江戸 に到着 後 同 じよ うに江戸こ来ていた岡山藩 主池田綱 政に大群 が大 変良港であ る と口を極 わめて話 Lた.綱政 は 早速 岡山城 下に飛脚 をや l),御 (Jl
奉行
紳 LEI
佐 裾太(
津 Ln永忠 の ことで, E]本 三大公園 の一つ後 楽園 を揖 っ.[=人, またI l ヒ 非
職TJTの庶民 の':‑7=校 といわれ てい る関 谷学 校 も遣 る) に大戸
1.1享を開港 す るよ う命 じ た.当町
津 田永忠 昭 山門公 か ら非
常/.〔信断 ,tr・うけ てい た,御 作準 行
津 四佐 原太は,御憎 譜方野 口弥一 石 肺門 と協 ノ)し,伊里小
村のl l
i'搬源介 やその 他大信足.もて に
,地方 か ら夫 役が 多数来,I.I.'1,して元禄 11年 (1698)こ港が完成 され,在 衝帆 加17I帯所 ,長鼠 燈稚壁, 大井戸 等次々 と建 て られ てい った. そ して本 土の 各地か ら住民 を移 (TIさせ た.。大 多 府 の 位
W L I L .
大 yyJrf.rL.‑,(上
目
!卜.町 の最 翻 .rF'.‑I,,D小);∫,で.も り, 他 のhJ=Jl,や村 との 交 通 は海 上適 法r̲ よって 行 /'i:わ,ilてい た.大 多昭島か ら訊
.'
,t,諸村 ‑i:での船路は 次の ごと くにな ってい る,岡ILl京橋・・・11里 虫明I.・・‑2里 牛窓‑‑・・4=F比半 難 田・・・・・・2重 日生・・・・・・1里 寒河・・・ ・
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171・・・2土1 1 ̲ 半
小T打 ,lJ‑・ 5 l ‑ l l ・ ̲
軍律‑‑‑6
里 坂越・・・・I
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Dl̲この大肌 ..1,.
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諸J:7,との貿 易は余 り/17/.rbずむ しろ汎称 uL̲[・の役 Elを持 っていた.大喪捌 £下 津#,牛窓 を経 て この大冊 に寄 り,飲料 水,薪炭 を給 し, 光波の 明石瀬戸 を さけ て室沖 に上陸 し,室 拝か ら縦 で 江戸 まて登 っていた.O御 在 BTT所 ,加 子番所
港が造らノ!tると'11仁行 して,御 在
番
所 も元禄 11年 6月につ くられ,水主 加兵乱 俣野与七郎の両人 か 在 番 役に 命 LSら・山大漂 ,=詑 bJ)ち.忠/
k元 年( 1 7 0
」)10月俣野氏病 死 してその後,
野 。弥一石
勧門,辛60
野十蔵 ,岩 田rE兵 術 と変 わ って,元 文3年 (1738)止 月上 I.I,l,・瀕之̲775.河崎九 一郎 の何人が あ らたに 在 番 役V=仰せ 付け られる, こ'.I)lil71人
' . i)
く淵 在番を 一 年 代 r)につ とめ る よ ・j仰 せ つけ吊 1.ち. この後,寛
保元年 (
1 7 4
1)
11月 よ り在苗 役は一 人で詰 め るJ:),.=rLつf=. そ してそ の後次 /<と勤め文 久2 年 ( 1 8
62)に在荷役にな ったTi閏竹Jr'=k氏 を最 後に臆 滞 車で軒 在 していた. この大きF:亨の御71番所 は,大開, 日 生村,難 田村 (現在 の
O
Lll前叫
徽浪灘 lTl',落), 寒 河村.
加抑 札 久 々井村,動 き,,
此 久居J . ‑ .
I,等 を支配 す ると共 に#・府御用船,諸侯 の肌 往 来 の御 紬 こ飲料 水.
薪 炭を給 し,又遭難 船 の救
助に 備えた.加 子 番所 は在 番所 に常 備 され ていて,船 舶に乗 り込 んで(回
Fをす る加 子 (水夫) の番所 で あ った. この大 群の加子は普通 いわれ てい る もの とは 少 し追 っていて, 「J)へい」 と呼ばれ大き勘こいつ もいて,岨 秤 や飲料 水の給人に ;/I.'# った‖t'J'=にその卿役を/(了な うIh‑の ことで.多 くは
持氏 であ って.在 軒役の華
北 で あ る書 村, ′1本両 家の武士が こ′れを支配 してい />=. この両家の 丁孫 であ る とい う人 は現在 J.、在 住 して い る. この よ うに江戸時 代の元禄年l川か ら江戸 咋 代の終わ り頃 までほ,大多府は この地方 の中心 で.i,i って, 日生 あた りの人 は この大津 まで戸籍 を入れ るためにや って来 ていた.
しか し廃
滞 後は在qT役かい る.
o御 長 屋
元禄12年 (1699)に町並 艮尾 2棟 を辺 り,吹いて元 禄14年に 4株 を造 り,本 卜各地 の仲代 を移住せ しめ た. この長屋の 1棟 は
3
つに分かれ ていた,崩初は在席役 や名主 等が 入ってい たが す く、・旭に擢政 を過 り平民 の人が入 る よ うな る.塞 卜各地, ' J
ll,の移l
T:省は舶 初の内は 揖kIHニ住んでい たが それ ぞれ 後界のお もかげを残 してい る家が 1棟残 ってい る. 二の 足尿 の中に加子部局 も設け られ て加 子 の吉冊 子と な る.本土住民の移 住が構 発 とti:ったのは
宝
永 41「・(1707)で伊nl中,難 田村,寒河, 邑 て仰 片 岡村 か ら移 住 して きた.O御 郡 医 者
大軌」■,・は本土 の 1番近 い 口牡 で さえ も1;qi近 く離JJ:九 でい て,急病 の時に本土 まで医新を呼 びに行 くのほ
鳩目
llJがかか り手お くilの時があ る こと, また̲
捉府 の御用船や諸侯 の船 等が 入港 した さいの病 人 等の手 当てをす るた桝 こ,大師 こ御 川i医者 が阿れ hた. この大臣l欄1郡医者 は, 紫m玄泊,i,11浸初 の大戸1.'き 語 として,米井勇仙 松崎常応 と次 /<にっ とuV)'責政2年 (1855)の12月大群許 と在 った森 LI]良識に至るま
て
10名の御郡 医者か大即許 す る. これ らの 多 くの t,のは,死ぬ るまで この島 で詰 めた よ うて同所 に蓋 が存在す る. この御郡 医者 の詰 所拙技尿 とは別に,隣 りに鯉 て らわ た. しか しこれ も森 FEI良追 氏 以後は御郎医者 を送 らTLCか ったu)で医都 エおら
lLE/.TLろ.現在 は診僻 所//tWfか,‑ILてい るが,遇に 1位 ほ ど診察 に来 る粗 壁であ る.o燈 離 党
この燈冊哩 の建立 の年はは っき りしないか おそ r,く‑元禄 隼rL'.lur)内にで きた もの と思川 1,ち. す な′Iっ ち進や長藍が造 られ た頃 と,ltl.われ る. この炉
経
堂 か道 ら子Lた必 勝 は、大鼓■,iの沖 合を也 っていて it大畠 ' H
は鹿て居島,山鳥,池島 と広 さな って見 えて,‑一つの.L:.I,に 絶え入江 が あ る よ うに.lLaJlr)
'
Lな
い,そ こで ここに 入江があ る ことを知 らせ るために倍 稚堂 を造 る,現在 の府台 の役
目 も持 っていた, 二の憤融 盤6 1
ほ石造 で油を燃 や してい た.その
, J i i Ml l i . l
,所 仙 也,J
Iで,3:ホめす と次U)Llうに7よっ 亡い る.所 在 地 岡山県和気郡 日生明 大 多府手r̲l出山485番地 の保安林 8丁3反18歩 のPIJに存在 す る.
形状, 寸法 。幅, 卜部 1丈7尺4寸4分角 上 部 1丈
5
尺4
寸り }角。高さ 5尺3寸5分 o石 段の高 さ 4尺 5寸 5分
幅
1
尺4
寸 長 さ 9尺5寸 階 段 6段O外 雨障子 高 さ 4尺 6寸 5分 横 4尺5寸 (一万 2枚 で四方 では8枚 であ る).
O内 行 燈 総高 1丈1尺4寸
。内行燈障子 高 、写 4尺2寸
8
分 横 3尺6寸 (一方1枚 て四方 てほ 4枚)ただ し1'J一取 引'j紙 であ ったが外障I‑を庇 して後には油 引 きの紙 とな る.
この大暫燈穂堂 は1カ年1石1斗 5升 の油をあT
:
, 1升に札 2匁 5分 の定 銀で渡来 して くる,
ただ し油皿
2
カ所 で両
燈 であ る.現在 では廃 止 され てい るが廃 止 の年 月 日は詳 しくわか らない.。移 住者 の出身地,宗教及 び人数 の増減
天保年 11'lrJ頃 の質料を見 る と (これ は天 保元年か ら
1 3
年 の間 と思われ る.) 家数は33軒 でその内分けは4 軒
・ ‑・ ・
・浄 ヒ宗西片上村 10 軒 ‑・・‑一 向宗寒 河村5
軒 ‑‑・ ‑ l
lll吉宗難 田村7
軒 ・・・・・・央 吉宗 西片上村1
軒 ‑I‑・真 言宗 鞘片上村 6 軒 ‑・・・・避 雷宗伊部村大 長 寺 西 肺 寺 柳 肯 院 松 寿 院 成 就 院 大 乗 杭
この槻 象の所在 地か ら考'>Q:,iす る と, 出身地 は片」二村,寒 河村,難 田村,伊 部村 と思われ また他の資 料を見 る と,邑 't郡 の人 もあ るが El/lIj),らiよ来 ていないが, その周辺 の村 の出身者が 多い.す なわ ち 出身池(T.rl生本町 とはLq係な く,む し7)和気,備前, 伊 .:115のあた りと邑久郡 の牛窓,幸 西 の辺 の人が 多い. これミよ宗 教習俗に もあ r,)われ てい る.す なわ ち現在 日生 oj.j'葉は兵秘 県の赤紬 によ く似 た冨基 で,その地方の漁師 ク)言典 で荒 いが,大 多府 は Lt/̲ll.言基 とは全 く関係 な く,岡 山に近 い富来 であ る こ とか らも考 え られ る.大酢 土現 在では 少 しの漁師が あ るが, 以前は こ こに移 住 して来 た人は,殿村 の 人がほ とん どで,大 多冊 D小 さな島を 切 り捌い て,畑 をつ くって蹟 某を営 んでいたが, まわ りが海 に 困 まわれ てい るl判係 もあ り, ま,F・い 也が狭 い こともあ って
,
海の方 へ 出てゆ くよ うにな るが,み んな62
英人であ るため漁師で生計を立 てることは困難 であ った.すなわち,ほ とん どの人か 日常 の消費の も のだけ取 るのがせいい っぱ いであ った. しか し訳州牛島 (塩飽諸島中の‑良) の有名な廻船符 だ った 丸)‑Erl左衛門の一党が渡 って来て,海
運
業,交通 濃が盛 んにな る,最初は丸尾氏の船に乗 り込 んで仕 事を していたか.それ ぞれ小 さいなが らも臼分の船を持 つ よ うになる.最初は鮮魚
運搬が盛 んてあっ たか現在てほ何隻 も姐 を持 って海運業を営む ものカ1でている. そ して 現在は この加 工裕福 /i:人か多 い.人数の増減の方は資料が少ない関係で くわ しく考'寅で きないが,残 ってい る沼料 か ら見ると,・‑
;上條 6
年( 1 7 21
年)家数 94tl:,人数 ∠14名,舵, 3端帆船3触
・天保年間 (天保元年か ら
1 3
年頃 まで)×家数 ‑‑‑33軒 この内 貸家・・‑
‑1 6
軒 自分の家.・・・ ‑1 7
軒×人数 ‑‑
‑1 6 8
人,男子9 2
人,女7 6
人×自分の船 (9肢)
8
反帆 ‑.:1
肢4
反帆‑‑. ・1
披2
反帆 ・‑・ ‑7
肢・安政
5
年( 1 8 5 8 )
人数
1 8 2
人 男子1 0 2
人,女子8 0
人・元治元年
( 1 8 6 4 )
人数
4 4 4
人 男子2 3 9
人,女子2 0 5
人この よ うに次動 こ他の村 と同 じよ うに人数が増 してい るが現在では余 り変 わ りはない. この大漂へ の移EE者の 一例 を示す と,現在の 在
I
'"']姓太郎氏の 光 姐は,大酢に渡 って来 る以前は 片岡 と名 姫 り片 岡荷兵衛は,邑久郡朝 日村幸西に流石が存 在 (この人が大群けこ住む よ うにな った一 代の人てあ る.) これは名義不 明,元禄年間に大多府開拓移 旺 して在li
Tlと改姓す る.現fL三の在r呂l英太郎氏は 9
代にあた る.。大 井 戸
この島は他の小鳥 と同 じよ うに水の佃 こ困 って,色 々掘 ったあげ く現在の井戸 を餌 r)あ てた. この 大井戸は幕府御 用船,諸侯 の船,往来の廻船 の飲料 水のためや,島民の飲料 水にあて られ た. この井 戸の水はいつ も同 じ水量て変わ ることはな く,.1.I‑:,民の命の綱てあ った. しか し最近にな って一つだけ では不 便であ るとしてそのす ぐ隣 りに井戸を掘ったかそ この水は きたな く掘 った たけ でつかわれ てい ない.
参 考 文 献
和気郡日生町役tlbi編 史畝 こ【娼スルIr掘 在間 英太 郎砧 7,r吉永 ヒ年 永代uLE媒留磁
Tj' 剛 比 日生RhhtJの
地
軌 岡山相上 木.71都市計画課縦瀬戸内海I.71岐部の自然と人文 節二柵 日生浦島 昭和35年所収
(吉 本 信 介)
63