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岡山藩の海上交通史上におけ る日 生

ドキュメント内 加 子 浦 の 工 業 化 ノ (ページ 66-72)

). 加 千 滴 と し て の 日 生 (1) 加 十 浦 の 役 捌

最 初に加子情 の役 目であ るが, Ej竹 よ漁場 区域 図 の如 くそ の海 面簡 域 内 で, 「雌 敵船溺 死 人 7 レ,(

前 々 よ り日生村 二引受耶 一撲 り, 且 旧識巡 見 使 ・長 崎 奉 行其 外官 吏通船 ,朝 鮮 人米朝井 興 国甜 流 人通 54

船等 ノ節

,

漕船 (中略)相勤来 り,且大多府浜碇泊井沖相通船諸大名 二馳走水船加子共浦役

」 (中 司家文田) とある如 く,難破船‑の助船をは じめ と し,公務の通船 ・朝鮮人来朝の際に,一定の船 ・ 加 7‑を課 されてその役を果 した. また 「岡山滞政史の研究」 (谷 口澄夫著)に よれは,大阪登船で当 常か ら大阪へ移送す る物堅tで主位を占め る大阪

丑御歳米の輸送に,岡山 ・金岡 ・内大寺 ・片上 ・北 浦 ・小串 ・郡の

7

加子輔が当 ったが,琶米が増大 Lた ときには

7

町村 の他に,胸上 ・尻海 ・浦伊部 ・ 邑久郷 ・Fl比 ・牛窓 ・日ノ巨の

7

村の加子浦に分担が まわ り,従 って,加子怖 口生は商品輸送 と しての 義務 も果 していたと考え られ る. こうい う為務の反凧 漁業において特権が与え られていたと 替え ら れ る.すなわち,漁場区域図の梅両においては

.

搾艶の場合は入会の海面であ ったが,網代漁の職 分 は, 日4=.村限 りの海面であることをBHlJltしていた. また 海役不相勤恢故漁場 卜中海‑無之定法

(ト伺 家文吉) とあるように,逆に浦役をつ とめていれば場 面領域内に関す る限 り,他村の地先海面 であって も,漁糊 として使用で きた.こういった旧帆は,明酬 二なって も引継がれ,例えば,福浦村は 加子細でなか ったので漁業の しきた りもなか った. ところが,明治に/i:って,28名連署の上 で漁業営 菜を願 い出た ところ,加‑(・浦でなか ったことを

F T ! F

hl二容易にr州届け られず, 再三の談判の末,鯛

桁l l

1表 加

J ' ・

浦 役 (正好 3年)

郡 村 名 人 歩 u

名 人 4;.I

御野郡択 野 村 25.天夢「0 ‖ 児L棚 , 村m 20.8u;‑‑ I‑ ‑

‑ A

;‑江 村

作成部今 保 村 10.9.00 北 浦 jL

津 手.

I

t 2167..04 ヒ

;

nJ耶平 井 村 30.6 宮 浦 村 3,5

申 井 村 19,2 小 巾 村 14.2

念 岡 村 2120..07 胸 上 村 65.,50

邑久郡 片 岡 村 8.0 明暦2年 ヨ リ新 田分1人 JrT 380.7 26ケ村 宿 毛 村 3.1

9.4

邑久郷村 6.3 = ‑ l. 下脚 ≡ 喜 岩艮 浜 村LR之浦村

鹿 忍 村 14.3 4.7l

ノ卜

怒 † 寸

34.3 2.1

尻 梅 村 5.7 5.4.25

'm海 下す 6.7 樽 竺

仰兄郡 日 生 村 16.4 25.9 明暦 3年 J:i)iyt 矩 田 村 8.0

片 上 村 30.0 仰 山 10,0 罷女6年 よ り増

浦r)r部 村 2.1 【一元 ‑ . 1「 備考 :滞法

如l

岡LL儒 卜

SS

年にいた り, よ うや く 「無 謂 ノ義 ナ L,トモ於 同村 ニモ近来困窮 シ

,

煉 作 ニテ当 月糊 口ニ背 シムモ ノ」

な るが故 に

,

働方等ほすべ て EI乍 村 の指 凶を受け る とい う条件 つ きでFi‑1tされ て い る. この よ うに加 千 滴 でない為 に不利 な条 (Flを負わ され た.

(2

) 岡 山 拝 の 加 子 浦

次:こ, 岡山誰 の加 子浦の浦 役をなかめてみ ると, 第 1蓑 の よ うに丁'こる.す なわ ち,近 世初脚 こおい ては,26カ村380人7歩 であ った ものが, 明麟 3年に5力村25人9歩 が増 Lれ , さ らに兜文6年 には, 岡山城 下に10人歩か増加 され て,全 体 と して

3 2力漕4 1 6

6

歩 とな った. この うちで 日/ド.村は

1 6

4

I

,Li,11の加 十澗 役 を勤 め た. この表 に よれば,全体 の加 子浦の中 で l」生村 u)占cJ)る位 l臥 よ,i

V

)lL・片上 ・ 北浦 ・八浜・忠岡

郡 の各村に次 ぎ,ほは(rl程度の役 を果 した こ とが J,か る. また,明暦 年llHl'/こ5力 緋が, さ らに寛文年間に岡山城下が増 され たのて, 以 前 〔りも加 千滴 役 として 出す全体 の

に 占め る 割合か減 少 した.

捌 批 こ.i,加 子役米 として1年 に20石ずつ,藩 の定 免 lj線 に よって納 め てい た ものて あ るが,寛 永

中にそ九 か廃 され て労働 力を課 され ることとな った. (中司家文iFT)

とこ7)でr=事 保3年 までほ,江戸表 の御 役人がiJB国へ 下 る際 ,下 向には牛窓 をは じめ と 仁和くt.・邑 久 ・児島 /i:どの;IE;郡かい っ しょにな って,海 上御馳 走 ・水船

漕船 ・加子役 を勤 めたが, 「州 唱.[り 御 上 り之 節は,下 津井出 ケ浦 ・呼杉浦此五 ケ

珊計 」

(藩法

割 きl

岡山藩 上) で勤 丘・わた.下 りの際

l

.L/i7数 が 組 合って勤め るのに対 L,上 りはわずか5力漕 で勤 め,上下 とも御馳 連は同 じてあ るか t一)上 り:J「ごり に比 L当然 的租がgiLくな り,迷惑す る由を享 保

3

9

月に願」‑tげ た ところ,下辞 )卜・牛 窓 の双力 か 相 談 した結41・,上 下 とも加子斬 全体がひ とつ とな って, 各浦の船 の石高数 の割合 に よ り加 子役 を徴収 的 れ る ことこな った,但 しこの場 合

,2

反帆 以上が石割 に され た.

U.南

nLlu 移 送 (1) 大 阪 fllL漫 御 蔵 米

江 )」時 代には鉄 個政策が と られ ,田 内において 〔I給

l

Il足 の必 要を捕 感す る よ うにrd:り, 田内産 業 の 発 達 とと もに

,海

)riEか隆盛 にな った. ここでは加子浦 と して労役 を芹黙され た大阪 ・flLLi登御親米 につ いて 述べ て 7*たい.

阪 登

米の輸送 は願 主的初 晶流通 であ って,鰭 内の民船が強 ;liu的に 利用 され た.既述 の如 く, これ に i]仕付を含む

1 4

カ柚が加 子浦 と Lて,その浦 の船数 の湖 合に よ i)輸 送 U)栽務 を f̲'

l l

‑‑'され た

.(

「帆 山 帝政史の研究」 谷 口泣大著)

播種 の米 でてあ るので供血 に取扱 われ てい る.孫r‑の米 を机 ん

船 が湊 へ# っlL切 創 土, さっそ く村 役 人′狛 i'.て,送状 に よる人数 と机荷 に

9与常 が ない場 rTには,そ の 旨を送状 に記状 ・捺 印 した, も し輿 常 があ った と き,特 に

伸 の異常は,船/rf 30セ ンチの ところにあ る棲 印 よ りも深 く沈 み,他の米戯 また

私の商 ,)'L・の荷物を机 んでい る ことか考 え られ る. こんな場合 は,役 人 村役 人が立合 って船 中 を検査 し,違反 の品があれはそq)場所 で取掛 ザてい る. また,病 拭 とか不慮 の死で人数 が不足 した と きは, もし必要が あれば,そ の村 で不 足 人数 だけ舵 わせ た. そ の他に,城米 船が韓 でない ところに寄 港 Lた場 合,人家が遠 くあ ろ うとも出向か なけ九は な らなか った. (瀦 法集 l岡山滞下) この よ うに

56

城米が安全に運ばれ るためには数 々の措 虹が と られ てい る.

この役に関す る負担 については, 日生村 の

接の史料 がないのて,児,I:上郡 舟特 共が御 嫡手へI‑1的け た願 網か ら推 してみ る.

商法来 l岡山乳 Lに よれば,宝永年 札 御 登米Tl'しみ の射特 が大阪に着いた とき,蹴話 の際

帰依 か 出て きて

, 1

俵 につ き

1

升 とか

5

合 とか

8

合 とい うふ うに込米 を仰 付け られ た. また,‑JJ鮎川 ILjて元 船や 上荷舟が難航 に遭 って米 が

H

'',7れ た とき,賠 trtす るな どの

j l

担 がかか った. しか しその反面 ,特権 も認め られ ていた. この運送は特定 の加 了掛 このみ限定 され,午 /<増加 され た登 米 の独 占的 な逆送橋 と義務 を もって,利益 を得ていた と考 え られ る.

a.避

難 港

船 の航路は問① の よ うに沿海航 路 とYlj欄 し路かあ った. 臼/t港 は南 に鹿久)揖!,をは じめ,大小 の):..,〟 に よって囲 まれ, それ らが防

見 の役 ′:tな し

,

L1,の内側は逓場所 であ った.

現在の よ うな航海技 術か発迅 し ていない当町 こあ っては

,

凧 の吹 き方,潮の流31万 に簡坤 二左右 さ れ,各種船舶は,付近 の港 射 朝待 ち,帆待 ちの港 と して出入 した.

圃① 近仕切脚の航路

正宗曳JLllI海顧)わ路図」L之巷所収,'ttt'.文以前と推定 また,相継 いで雌 破船,嗣 死人が 出た こと も容 易に首でjて きる.離

法 梨

l岡山藩上 に よれ ば, 「公儀之御 船/、いふ に及ばず、詔廻船共

邦 岨畔は助

船L L ' .

」 し,難 破船, 水夫 を助け,分散 した耶荷物 を揚げ る役があ った. 破船の場 合にu,その 旨7LL,岡山

'日へ注進 し,吟 味 を受けた上 で.荷物 を取掛 ヂた者 に昌 平荷物てあI山よ20分の 1,沈 荷物 であれ ば10分 の 1/JJ・現物 で 渡 され た. ところれ 寛政7年 よ り 「向後は 郁て、何物にてほ不 和汲

,J

l:・[仏和応 之代 金蝕 こて 1 (藩 法典 l岡山港下) 涯す こととな った.難 敵Hrlがあれ は その村役人か ら折主/\湘 手形 か波 され,流蹄

2

船 実 数

年 月 U 珊 y

r ‖

.

J = 7 1 ‑

天保2年 11月

垂 ‑中

訂 日 /L

〝 5. 8 土肥fJi了固 平州 のFJ'の船船 140J/ 13580/

/ ′

/

〝 9. 2 //

〝 9▲12 肺 中 国 倉 敷の船 7 90〝 JI

〟 2.正 予州松Lul塙浜の船llB N 500N 大 多 JT才

(,l'l‑Jぢ:日 ,Z畑縦故

紙I

F⊥二搬 (人山1211)

物 の揚荷 の確 認が な さ′れてい る. 今, 正宗 文侍所歳 の和 気Ttrlにおけ る 「村 々 A

l E

齢破船,lH・.qlrir」 (大11山2年) に よれ

は 第2

長 の如 く/I;:'.

適 に よ,hCi', 珊敵の孝師 上台風の シ‑ス ンの 如 こ限 定 され てい ない.特 に帆

船はT E

血か ら 凪 を受け ると危険 であ り, 湖の流れ方 に もZf̲右 され たか ら, 1年 を油 じて難 破 解があ った ことが.〜)か る. 次に

,難

破船の

乗組L l

J.)政 助J.上と)てあ っ/'=

ろ うか, 日生町星尾氏所蔵の 「鹿久店島文

吉」

(写 し) に よれば,伊勢参宮帰 りの24人乗 りの船が,大 多府付近で破船 した時, この内の7名がF]

i

L拙 二助け L二,れ て揚げ られ た. 日生村 では これ らの人 々を 侶 こ泊め, いろいろ と介抱 を Lている,中で も7人の内の1人が病知 こかか り,医者,須知瑞碩老 に

r

l JJl,相応 の裳 を 与え るな ど雌 /Lの統轍 ,JlY・受け させて,お り, 「次第 二得快気 、最 早本復仕候」 とあ る よ ・).I,回復Lてい る, また, り那死人の うち6人があが り,各 々について宗門の吟味 を/Lた 卜で, r

j

HJ

の‑一向寺,正運坊の引招て非 られている.

行は 「被人御念候様 子見届恭化合 二率存恢 Jとあ るよ うに, こうい った厚fl'J‑の もてな Lに感謝 している.

l V.

異 国 船 通 行 , 幕 府 公 儀 役 人 通 行

い くつか の加子浦役の うちで も,難 同船通行の際の労役が垢 も負担 であ った と考 え られ る.通行 の 船の湊場 と して,牛窓 ・下甜井 ・大多府が指定 され,他の加子浦は,それぞれ一定 の加子 を出 してそ の役を果 した.

異 国人通行には,朝鮮

俳,琉球使節お よび甲比丹 の参礼があ ったが, ここでは朝鮮人来朝につ い て考察す る.朝鮮 人は将叩の袈順 二とに米朝 したがそのル ー トは,I天和

2

年朝鮮 t:̲使登城記 (池 E11家 父 il)に よれば,対馬府中に寄 り,完 対馬守が同行 し,壱岐肌本 を通 り,下関海峡 よ り淑ノユ]L内海に入 って大阪 まで行き,そ こよ り陸路を とって方T,'都 に崩 き,琵琶副を まわ る中仙道の‑一部を通 って名古屋 に出で,火海道 を経 て江r・.まで約4カ月で到着 してい る. この道中,岡山藩では焚用は大名負担 であ り,主 と してその領域内で御馳 /との役 目/aI柴す が,他簡へ も出て行かね はな らなか った.す なわ ち,香 岐帆本 ・/i,・は じめ として,信仇 の通 行す る各地‑,その様子の問合わせや案内 として,十数椴 の船が派 遣 されてい る. また,備中水晶表に一部の船 が入 るの を見 て, 1番注進 として当蔀に報告 し, 次には 残 りの全部が水LL,前 の徹内へ入 ったu)が

2

番注進 とLて報/rf,A‑され る.そ して,その時刻 も知 らされ, 出船 ・入船oj様子uj詳 しい

描か次 ‑1<に入 った.岡山経ては牛 窓を馳 走所 とし, ここか らほ,信任 へ の迎えと して

,2‑3

盟光 まて軌・占か立,信虹

郁 二ついた ら,その 旨を次の馳 走所‑報告 した.

(地肝豪文 ,FT,朝鮮人御用劉 収,享保 Ll咋)その 他に,名相見廻 りの腎戒の役 Elな どがあ り,牛窓 で は

似 した ところを縛 った り,tu」並の盤 とんな どがあ った.

こういった慣性LC)通行に際 して,加予価 Et/iH ど

入皮

働 きを したであろ うか.通行‑

j m ' i : 3 5

巻 に よれ は 豊 永13年端府 よ り

,

「何,Ill.之地江令岸 陳列

‑ 、‑ J

l‑qr之船出之、綱碇 水

薪^ T

M

!

?.=滞i.)‑:iこ」 出す ことを 命ぜ ら1‑しているごと く,飲み水 や戯 J)供給 を Lてい る. また

,

水船

,r

L.J

i

lA告か出 され, さr,;.こ,浅瀬 へ 船が乗 り上 げない よ うに番船が出 され た. これ には, それ ぞれ の加子浦が 自分の海 面領域 の案内に当

った.勿論, 他簡へ も.LJjて閃 [̲Tわせた.

(

中司零文

, l f )

次に,公 跡 こ拭け る通船の加了役であ るが,参勤交代 や長崎奉 行通船.将軍の代行 E)ごとに 出 され る芯府巡 見使,その 他の 貼附公儀役人のL.lb船があ った. これ らの通船に関す る加子浦の役 目も,朝 鮮 倍使米朝の助 けと人体同 じであ った.

ところで実際 の実働数であ るが,地方文題の史料がほ とん どないが,池 田家文

J

T‑・好本家文 ル こよ って岡山燕 の‑/JH千滴役の数字 を併 ‑LJ・てあげて見 ると.第 3表 の よ うにな る. この裏に よれは 朝鮮 信 他の馳 /とについては,正徳元'Lliと大和 2叫 二おけ る馳 走は, その人数が6,000人を越 え る英大な もの

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