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1 .追

ドキュメント内 加 子 浦 の 工 業 化 ノ (ページ 120-130)

2.出 漁 ¢)

3.漁 法

4.漁狂 物 処邸 と運 搬 U)発 達

m 移 住 時 代

1.移 住

2.移 作 漁 村 の 戚

3.

主 な 移

4. 漁 法

の 変

5.

引 梅 と

そ地

進 出

槻立地遼織

l ‑JlrT .ふt・

古 来 ,水 産物 のJl̲庫 と して恵 まれ た朝 鮮半 島近 海は ,狭 い漁 場 と人 口増加,魚 J)減 少 /二1 ')小 坂 と な って きた我 国沿岸 に ひ きか え, そ の盟 か な魚が ほ とん ど11を つけ られ ない ま まに 保拝 され てい た.

明 治9年 のFl斡 修交条 約 に 上 りそれ まで絶 え ていたlB)交 の回復 ,過 融 L/)仰 臥 そ,ト=二伴 FLって朝 鮮 出 漁 も迫 が開 かれ た. 明治10年広

県坂 村 の漁 師 を皮 切 り

/=山 口, 雌児 If.I,

,

香)Ll各 爪か らの 出漁 名が数 を 増 Lてい った.但 L通 汲条 約 をil:.式 に定め たのは16年7月締 結 の 日脚 貿 易規 則 ljf施以降 であ りて こ の

l l ' ‑ り

の 出漁 は密鰍 で あ った.22年11月 El本 ・朝 鮮IdIj国通 漁規 州 訂約 , こiLで郎相 通漁 a)描 準 が 明確 に な り通軌 は この範 囲 内て可腿 とな ‑,た.史 に

3 7

年 に な って条 約 改 訂 の呆占果 制限 区 が舶 除 きし全鮮 沿デ.'

が過 払地区 に 認tV)られ た. つ いで41年 従来 の通 熟成 州 を廃 して 日韓 漁 業 協態 を締 結 , 柳 射二発布 'Ali施 され た韓 国 軌 業法 な どに よ り朝 鮮人 同様 の漁 業権 を牡 得 した,

習4 2

年 に は 日韓 合併 とい う政 治的 大 夏 革 に よ り従来 の手鼠 ii.lj限 が緩和 され L個 平等 の立 切 とな ったu)で旭 漁熱 も触 L.i.・膏 った. 以上 は 行 政 上uJ背 Ji*であ るが 内地 の情 勢 を見 る と,

清, 日露 敬争 頃 か ら我 国沿 岸 漁業 は 人 口増 ノ虹 産英 経 済 の発嵐 文 化 o)向上 に よって漁 槻狭随 の色 が淡 く塀鮒 漁業 か らり脱 皮が迫 られ て きた. 新 本王 威 径 ,2': を逃 盤 とす る近 代漁 業に到 らす,零 緋 漁民 を主体 とす る出稼 漁 贋 と Lて 始 め られ た のか 朝鮮 出漁 の突

108

態 であ る.特 に内海 uj狭院 さにあ き足 らずすでに伊 勢湾,北九州,大

湾 /i:どに遅 LIJ.していた p‑A/1:.漁 民 もH

)

l拾34iI三の漁業法 発布に i り海 血所崩 各県 の許可 を受け なければ 従漁 で きない こと

i

̲=な り自然 出 漁 困難 を訴 え るよ うにな っf=.元来大 規模 の漁 を したい とい う進肘 l勺矧 'f̲a)強 い彼 らに とって鮮海は 絶好 U)漁切 であ った. 岡山県 で も

3 2

年遠 洋漁 業奨励 脱'iiiを設rifL補助金 U)F附 並びに油漁助成戯脚 と

して韓海通漁折 合 (後岡山 県韓 国通漁奨励 会 と改称 )を組織 して これ を奨励 した.

こ うLた一連の社 会的背 景

u ノ

tとに朝鮮進 出が 31鋭 さ11. 水産史上両親的 な1時 代を築 くL/)てあ ら.

n 通

rili

1.通

概 親

明治20年川崎兄弟は 114潮 民 と して初ム')て鮮緑に疲 っ/∴ 但 し大網船に雇 1)iL従 小 LたL')て通紬の 始めては ない.彼 らは22年以降帰郷 如 こ鮮油 漁利の3,大 きを説 明 し.しき りに 出漁 を臥J)‑FI/Jtら25

森谷貞

は蔽 内良 治 と共 同 L打漸約 を レ ・,て.Lu放 した. 二九

か r j

生 人に よる 鮮海 過漁 の 発端 と な っ た.越 えて27J'卜i二は.有 吉凶松, 南良 治.西川 也苦 . 磯谷 念書 が 沌漸 嗣を も‑,て出漁 Lた. 日生 U̲)出漁 舵 )‑'サメJ・に1O峻余 りの頃 であ る.

31

年 には赦 木 t喜三郎が WL漸#

: i l O

胞 を‑‑Lj]と し大塊 鞍u)出漁を試 ふ て い る. とこ/)か これ迄漸Tll内海 の漁業に

jLた漁ノミなので大 洋 の危険を恐 々tて近海 にはIか り従

1 j 詩 ‑

して

いた.

水脚 勿の宝 樺 とい)'れ るだけ あ って鮮血 U)魚は処即 に困 る礎盤/Jぺ 魚価 も安か ‑)た. その上鮮人は グチ, ノ ・/タイ, こべ, タチ1j:と「こ級 魚 It好 も, タイ. サ ワラ, ブ l)な ど内地 で執 i'jLる上級 血はか え り入 られ なA・つたu̲)て こJLL')を 目指 Lて利益 をあげ てい った. 当時は船体 も漁 具 も幼稚 て非 常に不 完全であ ったに も拘 らず 多大 o̲)仮数 をあげ る ことかで きた とい うの もいかに 魚が坐 か L'Iあ っtJ J▲を物 語 ってい る. あ る者は1晩U)Jjtlに千 Jiu)サ ワラを漁 L網 を鰍 ‑)・.れば船 を沈め,船 を失 うまい とすれ ば 網を捨 て ろとい う羽 田に陥 り困惑 した とu)逸 話 も残 さ,iLてい る.

こ うして年 々

漁者 の数を増L40年LTlには170‑80纏 を数 え るとと もは方 魚眼 浦項等

根拠 を進 め近海 従漁に体験 をILTI・IJコて大附 二漁 す る試 飲 を

f

L'iんで い った. この よ うに 蓑1 朝 鮮 出漁室数 通漁船か 多 く/i:ると これ らの

調

尭横 側の必要 を感 し'.114年 日生朝 鮮 出漁 団

智組轍 L裾 七団長に)'(!=本悦二 を適任,過納 省の統 一的 活動 と営 炎上諸般 の 交 渉に当 らせ た.続 い て大il=̲3年 には那須 信俊 がi;漕就 任 した, この頃 を 通徹の最盛糊 と してい るがすでに形風 土変 I)敵

胤 の帰郷に して も漁船を 各根拠地に残 し連絡船 を利 用す る者 が 多か った.それがひ き続 き居住 し家 族 を迎え て移仙 こ転換 す るU)にそれ程 の 月 r‑jを要 Lなか った.大 正14J'Ilに は通漁船85億 と最盛期 の半数に減 り,準 /,・しいHl漁

加 もl桝 口の初めにす っか E)消えて しまっていたのであ る. な.lo・山漁虚 数V)明 らか ‑/i:限 りを表 に ,i;す (表1)

2. 出 漁 の 様 相

通 扱者 の 8月末か ら 9月に

け て出漁 L翌年 6月中旬加越す る. 7月

はT二:二次の.出漁 の ために網 の 下人か を す る

.

中 で も網漁的 ;i大 切な(.I:事て麻 糸 で作 ‑'た網を カシャゲ とい う クヌギの皮 の煮汁を 絶 って染 〟)ち,‑1?,F'.て

8

月:二兎 を済 ませ る とあわただしく出漁の制 桁を 憶 え る. 出港 の前 に 八幡宮に無事 4̲J祈 る と赤 Tl'.の旗 や のこぎりを 立てて港狭 さLと襲 った70‑80娘 の船が :.・・,・丘 々出て行 く.そo)蘭 土ま こと;二鮮杜で ;Jy‑)った とい う,港 を出 る と航海 の危険を考 えて幾 つか の 船が組 ん で りゆ う船 (僚船 ?) とな り一博 とな って進 む. 船 は製別 会社が

5,6

鴨の所 有船 を1=即.Jけ ていた他 は個 人所有 の小 さい帆 船であ ‑,た. そ れ も現 今q)「角帆 の由来 となった角帆 の段階 でわずか rFI'幅

6

尺柑 壁の規模 であ る. こ うして玄海灘 の荒波を .髄の漁船て 柄Wrす る

は 大悦の定 まるのを待

一 二

ざるキ えず,片道1カ月 を零すの が熱 血であ・lL

< Ji‑T,.か も鉢 '‑fL>

I T : . 8

年頃か ら舶年盈過 ぎにな る と日生 に入港 した 林諏所有 の 菰 気船 であ る. 規模

1 3

0日'.i/.で 当初 は 契約 1た適漁船

5‑7

胞 を 曳いて

斬 す る汽船曳 きの 役を栗 /こした.人 々が漁船を鮮 卜に残 して帰 省す る よ う:二な 1てか らは漁具,その 他荷物 の巡細 に尽 くす こ とにな った. ニD汽船が 日/:卜の仲令 に 来 てはIIESらす汽筒 の音

r叩いていつか人 々.よ 「ぉ.Tsか ち述 気」 と呼 ぶ 1 う:ニ/⊂った (,Ej■市 中一・ 談).

この他漁喝 を移動す る際には再 び曳 き酢 と Lてi.Ti揮Tていた. しか L漁船20‑30般7ir,曳 く トロー‑ル船 の 出現 、ニ〔つて塔 を消Lた.

3.

漁 法

始漁IIJf(ヒElノti人が 手掛け f.=Jlはtにサ ワラ流潮 榊で ,i)つた. サ ワラ.:吊碑名亡 魚 といわjtlく#な魚 と L二は ヒん ど漁実の対象 にはr{っていざ⊂か った. 明治

2 1

勺二苓JIW.i.・人が初 め て これ を試 もて後,内地人 に〔‑)て開発 された 1、ので ある. サ ワラ.よ春先水鮎の

̲

卜hl・と共 に南方か ら来遊 し南鮮 付近 で戊 西二 派 に分かれ て各 々北 上す る.Jik岸 を北 上 した もの三文晩秋 寒冷塊 の旺迫 を受 けて南下す る.従 って

秋 雨 漁期 を見 る所 t、あ り10月上'EIg〜:i月が末要漁 朋であ った.42年 にふけ る :'Ti漁洗漸船 は約300吸 で布川 県 人が圧倒的に 争か った.その 後 [liE.・7)漁船 が150棺を越 え これを しの いだ こともあ るが, 軌 こ帯川 県人の進 出め ざま し くお 1そ Rl巨船 の倍数に及んだ. 次にサ ワラ穐櫛の 経営状況 を見 る と, 9‑ 1月 jj免排 を屯 点 とし北 迎 F]湾の「札 1‑ 4月̲Hp7

力魚

沖 よ り南釜IT」沖迄, 4)」上 旬〜 6月上旬釜 山 J:り 南海 沿いに凝 .丸 腰老島

胤 果 て

日揮山,仁 川沖 に も漁 した. しか し大

1 上8

年頃か らほ淡北 岸 の サ ワラ減 少が漁州や漁掛 こ形押 して,かつ ての サ ワラ根 他地方 魚津 も奄 山港 口絶膨 島に 位倍 を謙 る こと にな った. サ ワラ減 少の瞭関 と lて邦 .こ考 え ら,iLるのは大

T E6

年以来 他府出の漁業家 か元 山 以南の 要地 におい て大規模 の大政網 を張 り稚 魚 (サ コシ) を乱

した ことであ る. このため

1 2 ,3

年 頃か ら は サ/、流櫛 に転 換す る傾向を′[こして くる.

これ ら

L

RE漸 網の他 に若

F

の ツポ網 従事者があ ‑,た. ツ,iilL網は湾 内の汲 静か な切所 に張 る定 匠網 の一 機 で ここで彼 らの用 いたのは網丈

7,8

尺の 口LE式 ツIi:網 と LT早 くか ら 内海 に名を知 ら れた もので あ る・ 明治

3 1

年篭り一周 に進 出 したのが その草分 け とた り

, 4,5

年後には迎 口軌 雄 水沢 で も試み ら れ た.揃独 す る魚族 は様 々で11月

1月の

‖ 鞘

tTlに タ ラ

. 2

月は 二シ ソ

, 3

月か らは メバ ル, チ ヌ, フグ. ブ リ, イ九 カツオ[亡どが盛 ん こ網に 入った. タ ラ. ニ シ ソと もツポ網に よって始 漁せ られ た ところか ら考 える と出漁の数は 少いかその 果た Lた役割 は大 きい といえ る. しか し定 位約 とい う部 業

110

o j

i

f言漁て

開 発困難 であ ったか ら後 t】根 拠地経営 と/、仁る.

4.漁獲 物処即 と運搬 業の 薙達

船 を沈め る和 u)大 漁 を得 て もそu)処理 に凶 る とい ・')a‑)が通漁

初期に おけ る 1帝 u)悩 んであ った.

当初は輸送 uj価か FJ:く1夜 出漁 すれ ばそo̲)漁獲物は

往復2

Flを要 Lて釜山水産 会杜 に販売す る7,,.Jl.?JL 切 りして 日掛 二送 るか に限 られ前者はい漁期 を輸送 の た桝 こ̀ノ封空し,後者

価か安 く漁獲物uj多 き に比べ て収益金か 少い とい'J状況であ ‑,た. そu)LJlに

t 川

三船 の漁牡 を相互損 合 と して̲篭山に送 り或 い は漁船か組 んで輸送 の ためu)b]IJ船 を術 え るFcと価 /I

a) J J

一法 を講 じたが期待通 りの

山を上げ ることは

‑Lpきなか った. /、そ. 7 コウな と比較的強 い魚てLt先潤 に il.るJL運搬 も可能 であ ったかす くい死 んで し ま うサ ワラでは相変 らず塩 切 り船に粉 る他 なか ‑ノf=u)であ る.有吉閃松は耗漸 漁 のか たわ ら肩幅

1 2

尺 の碓搬船 を人

手L

て塩 抑 )Lたサ ワラを洪受け 卜L勅

二1 ‑ M

ぷ 魚仲買 業を始 iJ,た, そ して

4 1

年 には南連

.岸本好太 郎,大崎弥 JI'と共 同 して Ij外止闇 組 を如拙 L,大崎所有 の n牡九 {<用いて 日生 人対 象の 塩 切 E)を東門に 行な った

.そこI L /

時 には生 魚 を

1

尻 軽で

胸に送 り

1

1 4 . 5

銭 ujもの を

7. 8 0縄〜 1

円以 仁に,)'Jるとい う.tうな利 を得 f=

か1 度 方

引札 こ'#世 L次J)天 候を待 って再 ひ波鮮すILは漁

J

,lFJの終 っ た後であ る とい うことに もな T)別 の道が迫 られ た.林兼 (人 洋漁業の前身) が朝 鮮に進

,

Iliして発動機

船 て出買及 び内地輸送 を始め たu)もこの頃であ る. そのたi')敵狸 物 も高 く9‑LL;れ る よ う

に/

i:った.更に 1通漁洲 iqの7LIL・買契約 を取 り組 み契約金 の前任をす るな どの便宜 が図 られ た. その後山神組 (後 日本 水産 に合併) をは じめ大 小漁業者 ,運搬 菜者 に 、よる降船,蒸 気船 uj日鮮問

搬が進 め られ漁艶 物 処触 こ悩む通漁著 もよ うや く救 わ

A

Lたu)て あ る. な 転述搬齢 の 発達過牡 を区分 す る と 次 の 1 う に /i

る.

し主) 帆 船 :liJ:1機 船 時 代

② 先

31jf 搬 時 代

③ 動 力 運 搬 船 時 代

Ⅵ1 移 l時

1.移 住 の 動 機

明治末期 か ら通 扱者か 次第に根 拠地 に住み ‑)き'#族 と射 ニEt=̲活す る よ うにな る. こ,lLは つ ま り飽和 状態 に連 Lた鮮通漁を脱皮せ ん と して移・fii漁村紺 掛 こ疎み きった ものであ る. そjLには 次の J うな 動機 が考 え られ る.

(i) 泡漁に おいてほ往復 に 多 くU)R数を要 し払出 の ため肝腎 の漁期を逸 失 Llこリi:財産 を波 に没 す る危険 も,少な くなか った. こ う Lた不利 と危険 を避け恒 久確 果 こ鮮海 の漁利に浴す るため, そ して また通漁 の'#紳経営 を打

J

)日せ んかための策 であ った,

(2) 我 国におけ る人 口増 加 と所木jl益 の充連 に よって台湾, 樺太 ‑ の 植民地移 付廿・盛 ん と な っ た. これが彫辞 し拙業移民 に呼応 して移 fE漁村 の建 設 とな った.

(3) 明治

4

1年帝 国漁業法発布 に よ り汎風 土広 く

1 ‑ 1

鮮 両E31人 にr相放 さか たが 漁 業権 の許可は牌 国居 住者 に限 られ たか らLLむ な く移 niへの憧向が葵求 され た.

か くして 発生す る移 住漁村 を国家は東和政策 V)軌 たか F)保越 し蛇 もこれを奨 励 したた占7)急速 に建 設

か進 め られ た.

2.移 住 漁 村 の 成 37二

移 作漁 村 を 発F

ヒ大 別す ると次 ,

I )

3俺 rな る.

5

) 任意 .=発生 芯地 した

F l

由移 117.漁村

(21 地 方 自治 体 号た水確団体 な どが計 Lftfl的 に埋設した補助圧 紗漁 村

よ1 2

薪 の粒 (+‑した

什汲村

補 助移住 漁村 の代 表 例 と Iてtf)

憤 4 0

年 以降 剛 し

倣 t

補 助金 を 下附 して 統常 に†削 E村 を蛙 設 し模範 移作 漁 トr如 畑7.させ fこ こJに は 伊単 年・f(和 知 11) 出身者 が 多 く従如 し.、モP. 7ナ ゴ, タイrj:どの延 縄 や サ ワラ成瀬 を主に泊雌した, これ と(.t別に独J の 気に'BjJむ 日生漁 民達 !t任 意

作 かほ とん どで, サ ワ ラ D

地 であ るノブ魚 汎 絶彫 良 ,# 老!.ll,1二多 く

托 し肖由移 日三漁村 を,l掛

叔1 た.

そ して約

4 0

年 の聞

「 ‖

i上 V)の移

71を FT算.すれ 〔200Trに 仰 ぎる とい う. なお大

汗 中期

(掛 点剃) 及 び昭和17イF(終皿) に T,・汁 る R/F=.漁民 の移 住分布 :状況は 下図 の様 で あ った.

3.斗. tc 移 l'l 地 O

魚 押 (ほ うぎ ょ lん)

明治38年,91.tか らの補 助念200円 を

雫: 千

有舌亀吉 が始め

I

t渡 った暗 にこ上2,3人 の 口本人 しか盾 なか た 〔仁 とい う.彼 は そ こ で 小 さな雄矧 古を 捌 き漁船 が 増 え るこつれ て網 染 め の5.杏:''fiiんた り補 充の漁

用擬の

・‑T:BJ)け を 行 な った (有吉京 菩 氏 讃).殺顎移 民

し 7 7 ‑ T ・

迎 え たが やが て通 漁 のrf.心 地 と し て 他県 (福 軌 香 川 . 福升 ) か ら補 助 を受 け た漁民 が続 々と移住 L‑12年こ:目ノ仁人

r

‑. 数

9 8

戸 とた った. その 後サ ワ1‑7浦潮 脈 を 中

tl牛h.;終 日F分 布 tlr

心 にめ ざ 曽しい 発展 を弄,・す

か4 3 ,4

年 頃か ら大T

E

6,7年 まで は HJl̲化漁 者 の集 団地 とな ;)移rt一名の豪 も100I.‑に通 しfL 商器 で も碓矧 軌 帆

,

Fi・F鞘化 と陛 ̲E・.て U)成 功者 を出 して い る. 万林 弧 山 田机 .有 魚臥 関 門組等 々汽向斜・u搬 船

も‑(=鮮魚輸送 に従

・ 田

J, 日本 人 会,郵便 居),駈

f l .

潤 , 小耳 校 誰腰 と築離 t,進 み

4 5

年の移 住 戸 数

3 5 0 T

.L.+汁 ,た. 大

山7

/L什 1米 前述 の サ ワラ 減 少に .[って 絶 i;uA..i二

役・

JIB.す る者或 いは サ/ミ流櫛 に転 換 す る者 が 多 くr{った , そ.ttで も移 lt漁村 と して の勢いは 衰え ず, サ ワラ, サ バ漁 船 を迎 え る

鹿

岸屈指 の漁港 を維 持 しf二. 大 戦 のjbl.前 こ El本 人戸 数約

5 0 0

戸 . 内 日 生 人

4 5

戸 とい うq)が この移 旺弛相応 後q)饗 とな った.

O船 影 ):.I,・(せ つ え い と う)

釜 山港 ロに あ る小 払.で n本 人く,t牧 のA.,とい って い [こ 日生 漁 民 出漁 の最初 の根 拠地 と して漁 期 の胤 だけ屑

して い た所 であ る. 移 tl=者 の虫 初 は 明治

3

0年 喝 の南賛 助で紙 業 か ら良業 に転讃 従事 した. こ の頃森 谷貞 吉 は漁民

3 0

人符 を連れ釜 山沖 に活

tてい る.′10'rFには藤 本 実太 肌 森 好新 大 肌 川 辺辰

112

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