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近世におけ る日生の生活諸相

ドキュメント内 加 子 浦 の 工 業 化 ノ (ページ 58-66)

(1

) 戸 口 の 推 移

近 世.二.おいて, E]生村 ・妹 河村 ・福浦村 お よひ福浦新 田の人 口は

,一

享保

6

年 か ら文久年目.‑Lは て の約 140年間こ,漸 次増加 の一速 をた どってい る. その よ うすを嘉 に示せば 次の よ うに な る.

この第 1蓑 に よれ ば 「l'tl.村 におい て. ことに文政か ら天 保にかけ ての人 口の増加率が 低い ことがみ

∴九 るが,それは天 保

8

年 に大 飢帖があ った ためであ ろ うと思 われ る. (西念寺 の過去帳 の記収 に よ れば,その年に;エ平均死亡数 のお よそ 3倍の死亡数 であ る ことがわか る.)そ して,文 化〜安政 まで の 約50エト胤に 人口はお よそ2倍 に近 く増加 Lてい る, また戸数 もこの期l糾こ2倍以上に増加 してい る.

近 世‑におけ る‑・蜘 勺な戯村村落 か, 人 口に おいて 皆しい符掛 生を示 してい るのに くらべ , 日生村 は そ の帆向 とは対照的に戸 数 ・人 口とも特 徴的 に 増加 の途 をた どってい る. それは, 日生村掛 こおけ る人

46

1

人のrLIJL的 な生業か 他業 では な く,漁潔 であ った とい うことに もとず くため てあ ろ うと,rLしわれ る.つ ま り当時の漁卦 二おいては,封娘 子抑止・を第‑ぷ 「小 二支 え る腿潔 に くらべ, それ ;,̲従 小:す る人 々の破 く 圧 迫 され たJt・.I.T=T条件 が,比較 的少 ない とい うこと, ま[=.

、 珊

J'・の支 配屑の政策 が

,i

.隻澄廿.庫を たえず 第一 の もの と してい て,漁村 では

魚を中心 と Lた商品流通 ・貨幣経 済が人 /'のあいだで,A.li村 よ り余 PJI・.発適 していた とい うこと, な ど の一般的 なPJi由か ら考 え る ことが で きるJ‑/I):=思われ る,号L Fl

′L村 の人 口増加 の特殊 な原因 と し て, 加子浦 に 指定 さ れ た こ とか

ら,海 上 交通 の要所 とな った こと

耶 2衷 村 /<高 ・家数 ・人数讃上帳 (人保12咋 ) 日 ′E̲村 l 寒 .(7.1村 福 浦 日 hh';捕qrm I..̲U (Tj‑) 83.4 142.15 162.l̲3 310.063

(iT) 407 171 131 76

人 数(人) 2071 125l 690 ・355

(Jl:宗川所載 R保12年 11月 「御辿 浦之 節lL,.J./リ下上板」 i ;))

ち,港 と しての発 達 に妙 押 した こ とか推 察 され る.

r l

LL村が 漁 滋 で'Ji計を /tて ていた こ とは, 第

2

長ここよっ‑て端的 :.+/^られ る.

こ(′り豪に よれ ば, ET生 村 の高は 他 の 河村

・声

胴. I ・ i , r

.11浦新 L臼と比べ て,相 当低 いの (J=もか か )‑)り チ , 人 Ljや家数 は, それ らに比 べ て一 段 と多 い こ とが 1^シ'〕れ る.

寒河 村

・f h ' H

iI‑'J村 ・砧摘了新 田の 史料 か な い為 わ,Jjtらな いか ,第 1表 か ら塞 i【州寸は l」生村 r王ど人 口 ・戸 数 と 二,増加 して いな い ことがみ られ る. それ は ,千 ;ニ

r )

LlfL村 よ り舵 業 人 口が 多い朗 係 か ら あ ろ う か i'ILd捕村 の場 合,戸数 は 増 えてい るのに もか かわ rrJす人 口は減 少 して い る

. f l r 刷拍子

旧l/=お い てほ あ ま L)人 U ・jJ数 と も増加 してい ない. この こ とは

,農

業に おけ る生

Jlが, そ の期

I

LHあ ま V)向上 して い Fi:い こ と

,L l

'll也の所 有 に おいて,子仙別 小二, また地 域 的 に限 度 が あ っ た ことな どに よ るの では なか ろ うか. 日生村 の場 合 と比較 す る とき, it;しい差 がみ られ る,

(2)

地 力史料 が ないため村 役 人の状態 な どは っ き りつか め ないか,Ll生村 の名 主 ・五 人糾 頭 の名 前 と動 覇佃 限,それ ∴塞 河村

・ 捕

り附 の 名主 名 の断 片 とを年 付 蜘 こた と り第 3衣に あ らわす と, 次 の通 りて

hる.

第 3 表 日 生 の 近 世 村 役 人

生 村 名 主 ・五 人 姓L 頭

o払Jl77I亨村名主

物七 :元

禄 9

‑宝永

1

。寒 河 村

名主 :伝八郎 (正徳年FltTJ) 大庄監 :与T

r J 兵衛

中司家についての詳 しい史料がみ あた らないが,I二晩 村 の名主 ・五 人組 頭は, 中司家が 代々世製 Lて いJ=と考 え られ る.

(3

) 農 業

次、こ石l綜 二ついて凋べ てみ よ う. 日生村 の石fg;・畝 数の推移 を表 で示す と第 4表 の よ うに な る.

誹,(4蓑 日 生 村 ・石 高 ・畝 数 の 推 移

・ 這 ヒ 三

十 ′… こ 2 i元 株 10 E 享 保 13 天 保

1 0

文 政 7 文 久 年 間

rr;;「,&芸(('買上 50,585 J ll:::::,2 j …≡;≡… 1158,84,022797 11158,54,14,022797416 11一一56,58,84.825003797 残 高(石) 149,665 151,047 149,941 150,522 150,523 151,188 物 蚊 (J′) 86,665 86,100 85.672

・鴫 物 成 (〟 ) 83.805 83,800 84,672

在 米(,/) 91,lOO I 91,957

上 長lJつ如 く,承応2年 〜文久年 rtlHの約200余年 の†札 高の変化 はあ ま りみ られず, 150石か ら158TI一余

に増加 した程度であ る̲ また田畑畝数は事保13年には15町 4反23歩 であ ったのに対 し,文久科 Lflでは 15町6反8畝25歩 とな り,ほんのわずか しか増加 して いない. 次に 日生村の 田畑の構成 を 享保13年

「丙兜留 日記鑑」 (中司十太郎) よ り作成 してみ ると次の よ うにな る.

田畑畝数 :15町 4反 2畝23歩その うち o田 畝 3町 3反20歩

内 訳 t喜

田 4反7畝29歩 田 1町 3畝13歩半 田 8反 15歩半

その他 下 々田,開下 田等 1町 4畝22歩

41石 9斗

6

故に 1反に付 お よそ 1石 2斗4升 5合 物成 25石 5斗

6

合 免

6

1分

o畑 畝 12町

6

畝 3歩

上中下イー

内 畑畑

1町

6

反14歩 1町

6

友3畝16歩半 畑 2町

6

反9畝 1歩半 下 々畑 以下

6

町 1反 3畝 1歩 [冒J lO9石 8升 6合

1反に付 き お よそ 1石

8

2

升 物成 20石 4斗4升 2合 免 55分5厘

その他

聞 方

2

7

反1畝18歩 新 開 方 4反 6畝9

歩半

この よ うに約半数 の田畑数は,下 /I田 ・下 々畑であ る. この ことここよって も,土地条件が

帥地 と してはいかに虐いかを よ く表わ していると思われ る.では, この ような田畑は n生村の どの ような位 置 にあ ったのであろ うか.下図に (第 1園) 日

/ t

l..村 絵図 (年代不評)

/I(している如 く, 田畑は道路に沿 って,わずかばか りみ られ,す く・ 前方には海 をひか え,後方 には山 をいだいてい る状態 であ る,

日'仁村の この よ うな 状態 に 対 し,寒河村においてさと寛永

2

年に 高36石7斗5升9台であったが, 28年を経 た東応 2年に主上高200石 5斗7升 7合 と激輔 してい る, こ れは粥哩や干拓が行われたt.1果で

あろ うが,それ を証 明す る史料は見あた らない,そq)後 も紀

宝6

2 5 2

4

5

3

合,E

・ 永5

2 61

8

6 升

1合,文久

隼聞2 6 1

9

1

1

令 と漸増 してい る. また高 と)=.'数 ・人 口か ら 考えてみ る に,寒 河村は主に農業か中心 てあ り,備陽 記に 「小紙船六端帆迄

1 2

膿 ア リ」 と記述 され ていることか ら,漁猟師 も多少いた と考 え られ る. さらに,寒 河村においてほ,畝安蔵 が明暦

3

年 に救他 の 目的で 池fB光政に よってつ くられ た. この脚 空は, 毎年礎 の収替 脚 こ各戸 ごとに 1畝あた ,')よ 2升宛割当て て'HlIlL

u F

F・.尾が貯蔵 し

,

貧乏 人とか凶矧 時の救済にあ てた ものであ る

.

最初は この よ うな趣 旨でつ くら れた老成 も,後には大任

i翫 ‑、その蔵を所有 して しまい

,1 2

月 よ り翌年

4

月迄 の

5

カ月間,貧者扶持 方に )」歩 で貸 し把す よ うにな る.そ して新麦が収燈 された後,返納す ることに な っていた.

J 7

J.飽煩 に な ると 3カ年肌蔵 に貯蔵 した後は名著救済のため

j 15

歩の利 子て貸 し付け るよ うにな った.

福浦村 ・福浦新Lmよ農村 の形態を とっている.応 も福滞村は 740石2斗5升てあ り,天和 2中 二干 拓 さILた福浦新 田は,高386石 3斗 5升 2合であ る. 補柵村 の免は 72分 と高率 であ る机 新円日日 発 の場合は物戊 の割合は2ツ5分 と低率 であ る. これは年貢 の対象 とな る当時の村 高が EEl畑 1皮あた

りの収称 を米に換罪 した

I

.iつ ま り石盤 の教 に免を掛け た ものであ るか ら, それだけ の収軽 は偶発 さ′れ た新L,11の場合は当然考え られ ないので,式敷串を低 くしていたのであ る。

(4 ) 漁 業

日生村は,漁村の一般的価 r和こもれず,狭 い

作壁間に多 くの人 口を有 している.全戸数 の うち漁 業 を営んでい る ものが大部分であ った (文政5年 の記雇 ).また明治の史料 に おいては, 家数830戸 の 内漁業を営む者745戸 と90%余は漁菜 を営 んでいる. まさに漁業 のみて成 り立 ってい る村 で あ るとい って よい.

次に,漁 業の種類を見 ると

,

搾取 ・網代軌の

2

故 がある.浮漁は入会次第 て所 々船 を押廻 り網 引 ・ 釣 を垂 ら して軌を行な う. I‑A/‑ヒ村の漁場は,柿磨 ・和泉 ・頂 拝 ・紀伊 ・淡路 ・阿故 ・讃岐 ・備中 ・備 後 ・安芸 ・周防 ・長門 ・豊前 ・豊後等 の国 々か ら漁に来,入会海面 とな っていた.

網 代漁は磯辺へ網 を取 り

,

また (第2厨) 日生 村 海 面漁 Ji,1Jr25.域

海中へ碇を入れ,共場所 で独 英 し, またそ こで漁業で きるのはそ の日限 りであ って他か らほ入会 で きなか った.鰯釦約 ・坪約 ・烏賊 網 ・鰯網 ・小鮎曳約 ・軸 約 ・ゴチ 約 ・坪網があ る.その うちで も坪 網については秋 冬は入札 を'fiない 金額の高い者へ営業 を許 し,村辻 へ 1‑.T千の巡上 を収め るのL(規 則 と していた. この よ うな規 則がで き ILのほ,安政年間あた りと思わ,EL

る.漁村におけ る人 口が漸増 し, また海面上 の区域 もあい まいであ るため, 漁場 争論が しば しは起 り,従来か ら漁茶権を拳塵 している村が権利を慮 るよ うになったのであ7'う.

次に l」生村海面漁場区域をみ よう.西は和気郡穂浪村境字呼子轍 ・邑久郡虫明村宣布浜 ・長島中丸 束は 播磨

前国境 取揚島 よ り播磨国揖西郡 室辞村字鹿見鳥 ・同郡家島浦字笹 山島を見通す線上 の侮 画 商は邑久郡牛窓村字前島南軌 を見通 し,讃岐国小豆郡中海を以て境 と していた, この記録はrTn治=一丁 代になってか らの ものてあるが,江戸時代を通 じて この海面区域はあ ま り変化なし ものと考えていい.

(少 くとも文政

5

年 以後は変化はない.) 江ji初期に加千滴に指定 されて以東,海 上の漁共催 7f掌擬= し,漁場争論において常に有利な地位 を占単)ていたが,茶末頃 よ.'')次制 こその権利 も失墜 して くる.

その掛 二は,今まで掌握 されて圧迫を受けていた被桁利老側 の胎動が見 られ る.例えば,兵庫9.と家

村 と日生村 との漁場 争論 を見 ると, 日生村の漁嚇海面髄域は江戸時代において取揚島 よ り東南家島僅 山‑見通 し,西は香川県伊 島へ見通す と定め られていたが,その領域で軌を行た う場合,家島方へ安 政年度 よ り碇銭 を毎年30円送納 していたが, 明治末には憎折 とな り, 1カ年分 と して170円の備 州料 を納めるよ うになっているのを見て も明 らかであると思 う,

また,当時の漁民の規制 された一断片を見 ると, 「①宝永6年丑5月12日稲川左門被申渡挟‑,円 勢院御祈願所御取建 披逝趣意有之に什 循 月廿 八 El詣猟不仕様 二去春被仰出候〇漁猟師共如 月廿八 口 猟業相止候而 ‑迷惑 吋致様 二被思召候。

世に仕候漁猟師共、相応に衝月廿八 日扶持迫可 申候。 それ ぞれ擬作之義‑藤 岡勘右工門 ・小掘彦左術門令了筒、可池由御意恢旨被申渡侯也o」 とあ るよ r)に,宝 永6年にある寺が祈蹄所を建 てるので毎月2馴 lは殺/‑tを相止め るよ う漁猟師共に伝えている.その日 の保証 として, 田畑畝数に応 じ男女それぞれに扶持 として菱 を支給 された. この史料は,猟を してい る滑々38カ村の記録であるので, 日生村の人数 ・戸数I.i判明 しないが,扶持の内訳をみ ると, 1人に 付 き田畑

2 9

歩以下,猟のみ で/L計をたててお り,また田畑畝数のない者 には,男 1人に付 き

1

衷 5

合 宛,女

1

人に付 き麦

3

合宛,Efl畑

1

1 4

歩迄

,男 1人に付 き麦

4

合宛,女

1

人に付 き麦

3

合宛

, 1

畝15歩 【tり2摘 ま.つけ.,男 1人に付 き麦3合宛,女には2合宛 (但 この掛 二は,今 まては女には夏を 支拾 さ

巨/よいか ら,女に

ヰ )2

合宛支給 して もらいたい旨を付け加えてい る.) 肘畑

2

畝以上の者には扶 粕 i:女給 されない. これ らの扶持は2B日に猟師井妻子共ド麦を支給 された

, L

か Lこれには以‑p‑の

2

ツの条件がつけ加 えられている.即 ち,(1)男女出入又は生死の人数 の移動∴t.,毎年 正月に凋べ r=人 数及び抱 田畑で もって.その年には扶持変か支給 され,(2)漁猟師は年中猟を したいのだか ら,肘李 の うち漁を しない時期は扶持変を支給 しない.そ して,正徳3年12月3日に:・tほ た毎月15日も殺隼を 相止めるように言い渡 されている. しか Lこの規州はtE絶 5年 5月には免除 されている.28日の J)ち 止徳5年7月27EI

「毎月廿八 日詔猟仕候義美留旺被成侯得 とも、 日今は

々之通御赦免破戒

i日、

猟仕義明廿八 日よ り勝手次第 二

仕 旨主殿巌被仰渡帳。向後扶持方麦 敵地F'1111蚊帳O右御率/lj.・へ中波

(漁場古文出雛等 ・中司三郎左衛門) とあ るよ うに免除 され ている.

l

Ji後に漁場争論について調べてみ よう.近 牡の漁執 ま海辺は地元漁民の軍用漁場であ り,沖は村 々 の入会漁場 とな っていたが,それはあ くまで原則であ り, この原則は しは 」は破 られ 争論が W潤 し た. 日生村において も年 々人 口が増加 し,他へ出漁 して, しば しば争論を起 してい る.邑久郡虫明村

・牛窓村等 との間の争論 もあるが, ここでは,和気郡搬田村 との争論を取 り上げてみ よう.

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ドキュメント内 加 子 浦 の 工 業 化 ノ (ページ 58-66)

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