• 検索結果がありません。

意識の志向性より存在の矛盾性へ(二)-香川大学学術情報リポジトリ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "意識の志向性より存在の矛盾性へ(二)-香川大学学術情報リポジトリ"

Copied!
23
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

〓 人間の関心健より存在の矛盾性へ ︵こ ∴ フツセールに於ける意識の志向性が、客観を意味づける主観の態度であるに反し、ハイデッガーの人間の関心 性は、客観によつて脅かされてゐる主観の奏であるやうに思はれる。随って前者が主観容認の立場を表明するに ヽヽ い 反し、後者は客観的なるものにより多くの力を見附す立場に於て存する如くに感ぜられる。けれどもこれらのて とは箪なる感じや思ひに止らしめて可なるものではかい。我々はこれを彼の箪詮に於て検軍せねばならぬ。ハイ ヂツガーがフツセールの現象箪から出張して彼猫自の存在串を開展しっ1あることや、その存在論が彼自らの叙 述による解繹琴︵〓erヨeコeut斉︶の語から解繹的現象畢と呼ばれ、一般にフツセールの構成的現象蓼よりも仙歩進 んだものとせられてゐること、及びその然る所以の理由などは、既に周知の番柄としてこ1にはその詳述を省い 第八巻 第二仙波

意識の志向性より存在の矛盾性へ ︵二︶

︵こ仙0︶ 二二

(2)

て置かうっさうして今は只彼の解繹畢の中心概念たるもの二三についてそれをその開聯に於て瞼索し、以つてそ の畢詮の根粒をなす人間の関心性なる思想、に於て、主観・客観の関係が如何に解絆せらるべきかを見ることにの み問題の範囲を限局しょうと思ふ。 主観・客脇の関係が認識論本来の故も明かなる問題として顧みられてゐることは、ハイデッガーに於ても欒サ がない。彼は世界1円1存在︵亨骨−・We−t・Seぎ︶としての現存在︵ロaseiコ︶や関心︵SOr笥︶について論じた後に、次 の如く述べてゐる。﹁これらのものはかくて認識或は﹃認識の形而上啓﹄の問題に射して﹃明かなる﹄出費鮎となる。 ヽ 著し﹃主観﹄が﹃客観﹄にそしてまたその逆に関係し合ふといふこと以上に、何が自明的であらうか。この﹃主1容1 関係﹄は前提せられねぼならぬ。併しながらその存在論的必然性と特にその存在論的意味とが暗まされてゐるとせ ぼ、この前提は−!1たとひその事嘗に於てはそのま1であるとしても − まさにその故に危険な前提たるに止る であらう︵声エeide宏2r︰Seiコ⊆鼓Neit−S・追︶。﹂かくて我々はこれからの叙述に於てハイデッガーの立場に立つ限 り主客関係の問題も専ら存在論的に解明すること1なるであらう。然らば彼の解繹的現象重た於てこの主客の閲 係は最も明かに何に於て見出され得るであらうか。人はこれを恐らく現存尭︵Daseiコ︶と冊界︵We吉との間の超越 ︵ゴaコSZeコdeコCの関係に於て見ることができるであらう。尤もハイデッカーも明言する如く、甥存在とせ界と 関係は、普通の認放論が藩味するところのそれ自身眞甥を含んではゐるがまたそれほど基虚でもある︵sOViel Wahrhe則talsreerhe剛〓コS首hbi﹁巴︶尭翫・客観の関係と全く合致する︵計nkeコ︶ものではない︵S・u・N・︸S・か○し。け 意識の志向性凍り存在の矛盾性へ ︵こ叫 こ 二三一

(3)

発八巻 第三靡 ︵ニー二︶ 二四 れども彼に於ける主客の関係問題をそこに見出すことは決して彼の詮を外れるものではなく、またそれがこの場 合最も賢明な仕方でないともいひ得ぬであらう。何故ならば後にも明かになる如くハイデッガーに於ては現存在 と世界との関係が虞の意味で超越の関係と呼ばるべきものであり、そして毒親・客観の関係はこの超越の関係に外 ならぬ︵エe−詩宏er︰くqヨWeseコdesGruコdes−S・00︼︶からである。こ1に於て彼の詮を主客の関係より眺めんとす る我々の叙述は、自ら以上の三つの概念即ち硯存在とせ界と超越とを中心として展開さるべきである。そして人 間の関心性の思想に於ける主客の関係問題は、その展開中瓜自らその解決が期待され得るであらう。何故ならば 関心性は世界1内−存在としての現存在の存在的意味︵2X官昌N巨2rS5.コ︶︵S=亡.NこS.皇︶に外ならぬからである。 ヽ ハイデッカーに擦るも現象畢巧フツセールに於けると何棟に存在の畢であり.内質的に︵sanhha−t茸︶に存在者 の存在の畢︵W仙sseコSnha誉○ヨSeぎdesSeぎ計コ︶である︵S・u・N・uS・uご。またその存在の最も純粋なるものに到達す るために現象拳的還元の如き操作を遊行することも彼の認めてゐるところである。唸って存在畢と現象畢とは相 互に相異れるこつの単科として他と改んで暫単に廃してゐるものではない。この二つの名栴は封象と方法との両 方面から腎蓼それ自身を特質づけてゐる︵S・亡・N・−S・ぎ。かくの如く現象蓼そのもの∼封象や方法についての一 般的見解に教ては互ひに提携してゆく爾者も、虞に進んでその研究領域を何れに見田すかといふ問題に於ては、仝 ぺ枚を糾つので透る。フツセールに於ては現象蓼的研究の領域は志向的鰭験としての純粋意識であつてその外で はなかった。そこには不動なる固定的本質概念の存在が前提せられ、現象畢は只ひたすらにその本質的領野を反

(4)

省的に分析し記述する静的なる意義理倉に専念するものであつた。然るにハイデッガーの現象蓼的眼光は倫その

ヽヽ

背後に及び、純粋意識の奥托より根淑的にして動的なる現存在の領域を見出し、該存在の存在性そのもの1動的意

義瑠愈の先行を以て現象蓼の任務とするのである。即ちフツセールにあつては純粋意識の存在は鼓初から絶封自

明のものとして不可疑的に認容せられたのであるが、ハイデッガーに於てはその存在そのものが先づ問題上され

るのである。かのデカルトが﹁我思ふ俄に我在ヱ︵∩。昔er笥Suヨ︶から出費したことは有名であるが、 ガーはこのデカルトの蟄足鮎に十分の賛意を表しっ1、而も葡彼が﹁我思ふ我在ヱ︵︹。箋OSuヨ︶の中の﹁我思ふ﹂ ︵∩。昔︶にのみ問題を見出七て﹁我森之宮ヨ︶の解明を怠ったことを歎じてゐるが︵S・u・N・−S・牒︶、この批難は以 て直ちにフツセールの立場に牒向け得られるであらう。何故ならばフツセールの純粋意識はCO笠○の領域に外 ならぬからである。ハイデッガーによれぼ壷存在﹁分析はsuヨの存在論的間掲を提出する。これが解決せられて 後始めて思惟作用︵︹○昔叶宮2S︶の存在様相が把捉し得られる﹂︵S・u・∼こS・余︶とするのである。それ故に﹁CO筈 S。ヨを現存在の存在論的分析の出蟄鮎たらしむべしとするならば、単にそれを逆にすることを必要とするのみ ならす、その内嘗の新しい存在論的現象的碓詮を必要上する︵S・亡・∼・−S・Nご︶﹂と彼は詮くのである。かくの如く 純粋意識をも∵つの存春着と見なし、それらの存在者から存在を引き出し・、以て布衣そのもの1解繹をするのが 在脊畢の仕事となる︵S・u・∼こS・NO。即ちハイデッガーにとつて現象蓼の研究領域は純粋意識ではなく、純粋意

識なる存在者をも存在者たらしめてゐるところのその准在一服である。

意識の志向性より存在の矛盾性へ ︹二二ニ︶ こ五

(5)

かくしてフツセールにも増して﹁事態そのものへ!﹂︹Nu denSacheコSe一bstこと要求するハイデッガーは、そ の静的なる純粋意識をも或る動的なる存在領域の中に見出し.意識の本質よりも存在の存在性そのものへと躍進 し、そこに故も具購的にしてまた根源的なる存在領域を見出すのである。その敬具鰻的なる存在、それが即ち現 存麗︵ロase言と呼ぼれるものである。こ1に於て〓別の畢の後生の根源たる基礎的存在畢は、ハイデッガーに於 ては現存在の貨布衣分所︵ex芝eコZiaieぎai箋kdesロase忌︶に於て求められねぼならぬ︵S・u・N・・SJu︶。かゝる 存在蓼が現存在の現象拳と呼ぼれるものである,何故ならば存在とは結局自己自らに於て現はれるもの ︵das S誉−−aコ=ihヨ=Se︼訂什=2e茸eコe即ち現象︵Phaiコ○ヨeコ0コ︶を意味するに外ならす、現象拳とは現象︵Phaiコ○ヨeコ○コ︶ についての理論︵﹁○笥S︶即ち現象を語ること︵﹁e笥i⊃taPhaりコ0ヨeコa︶であるからである。然るにハイデッガーに 於ては﹁現有在の現象畢の﹁0笥Sは解繹︵Herヨ曾eueiコ︶なる特性を有し、その解繹によつて現存在そのものに屈 する布衣理解が有産そのもの1本質的なる意味とその本質的布衣の根本構造とを明かにL得る︵S・亡・N・、S・uJ﹂ が故に、現存壷の現象蓼は語の根瀕的なる意味に於てこれを解繹蓼︵Herヨeコeu芳︶といふのである。かくて解繹 拳は現存在の存在の解繹として賓布衣︵ExisぎN︶の布衣性を分析するといふ由〓の意味を保有する。哲凝は現存 在の解繹畢から生する普遍的現象畢的存在塾である。その解鐸嬰は寛存在の分析として、〓別の哲拳的問題を こ1に確立するの目的を有つ。さうしてこの目的も現存在から恐蕉Lまたそこに踵入せしめられるものである ︵S.宇NこS.u00︶。 第八巻 第ニ﹁渋 ︵ニー四︶ 二六

(6)

かくて我々はハイデッガーの解繹単に於て中核となる概念は甥布賓paseiコ︶なることを知る﹀のみならすそれ は彼に於ける主観的なるものと解することができる︶随つて主観・客観の関係より麟の輿詮を概観せ宜とする我

々の今の試みに於ては何よりも鹿づ現存在についてその意義を詮索せぬばならぬ。

さてフツセールの純粋意識は、固より存在の故も原本的︵。ri号a−︶な領域を構成するものであるが、併しそれは

鏑意地であつて布衣そのものではなかった。存在そのものは、純粋意識の存在とか純粋意識ならざる布衣とかの

隈別なく、一切の布衣をしてその存在を可能ならしめるところの、より根源的なる存在劃般でなけれぼならぬ。随

ってそれは固より個別的なる等質的存在ではない。個別的等質的布衣はハイヂツガ一に於ては仙盾根汝的なる存

在一般の基礎の上に、謂はゞその存在論附根掠との生ける関係に於て、初めて理解されねばならぬものである。故

に存在︼般は各々の布衣者︵je号heSeieコde︶をそれに於て、而も亦それに因つて、その基礎の上に存在せしめ

てゐるところの存在者でなけれぼならぬ。かゝる存在者としてハイデッガーの見出したものが、即ち現存在であ

る。随って﹁この現存在は他の存凝着のもとのみには硯はれることのないところの存在者である︵S・亡・N・、SJNと。

即ちそれは単なる個別的存在者をも包有するが、併しまたそれ以上の存在たるものでなければならぬ。かくいふ時

人はその現有衣を以て例へぼ形式論珊単に於ける敢高類としての概念的存在の如きものを考へるでもあらう。け

忠誠の志向性より存在の矛盾性へ ︵二二已 二七

(7)

第八森 第=血沈 ︵三六︶ こ入

れども現存在は普遍化の究極に於て見出される存在ではあるとしても、決して形式化せられたそれではない。現

象単に於ける普遍化︵G2コ2−alisi2ruコ巴と形式化︵FOr∋a=sぎコ巴の相違も今は既に表に知られた事柄であらう。

現存在は決して形式化の究極に放て考へ出された抽象的なる概念的存在ではない。随ってそれは例へぼカントな

どの意味に於ける範疇の如きものではなく、むしろ反潮に最も具鰹的・直接的・如質的なるものである。然らば

轟これらのことは如何にしていはれ得るか。そのためには我々はハイデッガーによつて示された現存在の特性

を見ることを必要とするであらう。

ハイデッガーは現存衣の特性として先づ二つのものを奉げてゐる。その蒜現存在の本質がその蜜存在に於て

存することであり、そめこは現存在の存在が常に私の存在であるといふことである︵S・亡ト∼・−S.爵備後にはこの 琵としてExisteコ畳卓Fakt彗ぎくer空eコS2三三つが欝られてゐる。S・u・∼こS・−ぎ。軍存在に於て存するとは ﹁への存空︵Nul−Se亘なることであり、それは他の個々の布衣者に封してそれに向つて存在することである。これ を現存在の暫存在性︵Exis︷eコ∼ia貢︶と呼ぶことができる。これは今現にこ1に泰る︵<OrトaコdeコSe吾といふ性質を

離れては存在しない。といつても勿論それは机が在るとか家や木が現存するとかいふ如き個々の審物の嘗在する

といふ意味での存在ではない︵S・u・N・−S・缶︶。これらの事物は時基因典内の賛凝着であつて現存在に封して道具

凍る意味を有つのみである。現存在はむしろこれら個々の存在者﹁への存在﹂として、それらの存在を面能ならし

めてゐるものである。随って現存在は個々の専管的存在者に存在性を附興するものであり、か1るものは結局私

(8)

のものでなけれぼならぬ.。即ち現存在は常に私のものであるといふ悼質︵Leヨe宣告eit︶を有つこと1なる︵S・u・ ヽヽ ︳ヽヽヽ N・・S・缶f・︶。かくて嘗存する現存在は常に私の存在である。かくの如く現存在はFx致eコNi巴it賢と﹂eヨeiコ茸keitと をその二特性として有つが故に、それは例べぼ我々が呼んで範囁となすが好き、現存耗ならざる布衣者の存在規 定︵SeiコSbesti∃∃弓笥コd2Sコicht計⋮eiコ∼ヨ訝s常コSeieコ詠コ︶からは明かに慣別されねぼならぬ︵S・u・ZこS・怠︶も のたることが理解できる。 かく現存在は仙方範噛的のものでも、また他方個々の存在者で鴻ないとするならば、そしてまたそれは汲も具 標的なものであつて而も最も普遍的なものであるとするならば、それは果して如何なる存在であり得るか。こ1 に於てハイデッカーはそれが可蘭性︵夏空芽keit︶としての存在に関係し、むしろそれ自らの可能性であることを 詮くのである。即ちいふ、現存在は﹁その存在に於て自らのために動く存在者であり、それ自らの可能性として の存在に関係するものである。現存在は常にその可能性であり、それは可能性を掴単に性質上目前に存するものと して▼﹃所有﹄するのみではない。現存在は本質的に常にその可能性であるが故に、この存在者は自らの存在に於て それ自らを﹃選ぶ﹄こともでき、獲ることもでき、また失ふこともできる︵S・u・NこS・畠し。﹂即ち現存在は革に目 前に存在するもの1みではなく、むしろ諸物を自ら穎現せしめ、且つその麒現に於て自己自らをも唯鵬の存在者 として鮮示するところの可能的存在と解される。そしてこれは私︵一ch︶の布衣であゎ、我々は基礎経験によつてか く粂鯉的に鮎現しっ1ある現存在の炭只申に自己自らの存在せることを蔑見する。この現存在の中の自己教見は 意試の志向性より布衣の矛盾性へ ︵ニー七︶ 二九

(9)

常に持続的に我々の現存衣の申に行はれてゐる。 かくいふ時人は硯存在を以て直ちに飴りにも仙人的・なる主観と解することもないではないであらう。即ちそれ は具倍的ではあつても存在血般ではあり得ないかに瓜はれる。けれどもか1る考へ方は錦自然科畢的物の考へ方 を脱し得ざるところに生するものである。現存在は決して他人の側に軍に放存する生物畢的人間の個鰻でもなく また心理箪的意味の自我でもない。か1る個々の生物解約自我は目前に嘗存する個々の存在者であるとしても、4 それ自らの可能性としてか1る個々の存在者を存在者たらしめてゐる現存春ではない。現存在としての私の春鹿∵ は勿論か∼る個々の茸存的存在者を外にしてそれを無関係に存在し得るものではないが、併し今こ1にかうして 口前に存在してゐる私〓偶人ではない。それはむしろ私剛般であり、筒いふならば人間的存在そのものである。 人間︵derM。。S。h︶の存在が現存在と呼ぼれるものである︵S・u・N・こ∵〓︶。ハイデッガーはまたこれを中性的に単 に人︵傾茅。︶とも呼ぶ。かくて私は人間そのものである。現存在とし\ての入間そのものがハイデ汐ガーの意味 する私である。故に私を物語ることが現存在を解粍することであり、それはまた同時に人間そのものを、そして 途には存在一般を動的に甥脅することでもある。かくて現存在の解繹拳は基礎的存在拳であると共にまたそれは 首然人間的膏存鰭の根源を究めるものとなり、昏布的先天的人間輿︵eXisteコZiaTapr百官hen穿thrOpO富吾︵S.㌢ N・㍍・−眉ともたり得るのである。けれどもそれが人間の生物螢的研究や心理嬰的研究を意味するもので薇いこ とは固まりいふまでもない。 第八巻 第三沸 へ二叫八︶ 三〇

(10)

現存在は以上の如く私の存在であり、人間そのものであるが故に、それは存在的︵。。tis。h︶には敢も我タに近 く且つ周知のものであるが、存在論的 ︵。コtOi。篭Ch︶には最も遠く且つ知れ得ざるものである︵S・u・N・ふ・缶︶。 現存森が単なる仙般的抽象概念でないことはこれによつても明かである。、何故ならば概念的存在は存在的には速 く布衣諭附には近くあるべきだからである。 硯存在についての以上の管見は我々に何を教へるか。それは現存衣が最も純粋な意味での人間であり、﹁私﹂で あり、その限りそれは主観的性質をより多く有つものであることを教へはせぬであらうか。人按先づ以上によつ て・ハイデッガーの現存在は、カント以前の形桶上輿者が考へる嘗贈︵S各staコN︶とは全く封角線的に相異れるもの であることを見出すであらう。縫って解繹唾が布衣蓼であるとしても、それは所謂の本腰論たる礪断的形而上拳 とは如何に興れるものであるかをも知り得るであらう。それ故にまたその現存在が、普通主観に相勤してこれを 超越してゐると考へられる貰在や本鰐、即ち一般に客鶴的なるものとして考へられる存在一般とは全然相反する ものであり、むしろそれは最も主観的なる性質を帯びたものとして解繹せられねぼならぬ桝以の事態も察知し得 られる筈である。またそれは人間的存在であるが放に、フツセールの純粋意識に勤してもその存在を可能ならし めてゐる存在者であることは、箪に意識は人の意識であつて人は意識の人ではないと考へられる常識的見地から のみではなく、現存在がすべての存在者の存在可能性であるといふことからもその然る朗以の埋が知り得られる であらうと思ふ。 意識の志向性より存在の矛盾性へ ︵二劇九︶ ニ〓

(11)

第八巻 虚言輩

︵こ二〇︶ 三こ 以上のことからハイデッガーの現存在はフツセールの所謂ノエシスが主親的象弼である︵革撃ニ○貫︶といふ意 味よりも翻仙僚深き意味に於で主観的色彩の漉きものであるといふことが許容されはせぬであらうか。ノエシス には佃ヒーレーの如き内檻的客観的なるものが食まれてゐたが︵前既二意買︺、現存在はかくの如きものとしての 世界の中に自ら投げ入れられてゐるものではあつてもそれを自らの中に含んでゐるものではない。即ちそれは純 然たる干ルペ・−としての、Jエゼ的なるものそれ自身であり、それ故にこそ決して客榊化せられぬもの、叉客親的 要素を含有することなき純粋主観者と考.へられる。フツセール・の純粋意識はその本質が反省によつて把捉し得ら れ﹂純粋記述にまつセ醒系化せちれるもわであつた︵前耽二七責︶が、反省や純粋記述の可能なる意識的布衣は、結 局反省せられ記述せられ得る謂はゞ容親化され得る存在なるが故に、反省し記述する働きそのものとしての人間 的存在その場の﹂自己解繹によつて=のみそわ存在性をあらはにし得る人間的現存在にとつては相楽だ飴りに多く の客観性を帯びたるものとして現はれねぼならぬ。こ∼把於てS亡ヨを離れたる︹○笠。、即ち現存在を離れたる純捲 意識は、宛も主観を離れたる客胡の如く、全く察虚なるものとならざるを得ぬであらう。それ故に主観的なる現 存衣の存在の仕方たることを離れては、即ち現存在との生ける関聯に於てゞなくしては、如何なる意識の分析紀、 逓も能く具鰻的たることができぬであらう。′随って純粋意識の存在を存在たらしめてゐるところの最後の眞の存 在者としての人間的辣存在の存在性を明かにすることは、純粋意識そのものを最も溌刺たるま1に把挺し、その 分析記述を敢も具鯉的ならしめるためにも必要なことでなけれぼならぬ。即ちSuヨの存在論的解明の後に初めて

(12)

nO篭at宮esの本質的解明が可能となるのである。かくて現存在は十切の布衣の中の存在であら、而もまたすべ ての主観の中の宅鶴的なものと解し得られるのである。 然らばその説存在の存在構造は如何なるものか。ハイデッガーに於ける卓鶴的なるものを見んとする我々は、 兜づこの間偏について概観しなけれぼならぬ。さて現存耗の基本組織︵Fuコ山aヨeコtaistru賢r︶は明かにこれを世界 −申−存在︵亨der・We〒毘コ︶の語に於て規はすことができる︵S・u・NJS・き岸etこ。その理由は﹁現存在には世 界の内の存在︵Seiコざ旨Welt︶と.いふことが本質的に属してゐる︵S・u・Z・uS・luとからである。かくてこの世界 −内1存在の分析解明は現有在の解繹にとつて不可快必須の緊畢寄である。併しそれはまた咄の根源的にして常 恒的なる金髄組織︵e旨urspe琴隻nhuコmSt誓言gaコNeSt昇tur︶であるが故に、その分析解明には絶大の困難を 件ふぺきものなることも想像に難くない。縫ってすべ七が概観的である只今の私の評みに於ては、その現存在の 分析解明も、今の私の問題に関係ありと恩はれる部分について而もその大要を論述するといふことのみに限局し なければならぬ。 三 さて現存在の基本組織は世界−内−存在にあるを以て、・この卓観的なるものを明かにするためには党づそのせ 界︵W。It︶とは何か、円−存賓宇seiコ︶とは何かについて見なければならぬ。さうして世界について見ることはハ 意識の志向性よ・り存在の矛盾癌〓 ︵ニ二こ 三≡

(13)

︵三三︶ 三四

第八巻 第手洗

イデツガトの客観的なるも・のを見ることゝなり、打−存在についで計冴Lとはその主観・客観打開係を見る所以 となり、そしてそれが、またやがては彼に於ける認識彫念を明かにする所以ともなるであらう。何故ならば認識と 錐もこのせ界1円−存在の中に底礎づけられてゐる絹布在の仲基様相に外ならぬ︵S・u.N”仙S・竺−のu︶と解される からである。然らばその世界とは何か。ハイデッガーはそれについて四つの意味を区別してゐる︵S・亡・N・㌫・筐fし。 て世界は布衣的概念として使用せられ、この場合は世牲の内部に現存し得るところの存在者のすべて藍息昧 じてゐる? こ、、世界は布衣論的名断として使用せられ、言返べ禽僅東署の存在を意味する。併しまた﹁世界﹂︵ハ牛デツガ トに於てWe芹とへ毒e一t。とが異れる意味を宥つことは洩意ざるべきである。招砿のない時が眞の存在論的意味の世界で は多様なる布姦智紅包括するところの領域の名ともなり縛る。例へぼ数顧の可能的到象の衝城が敷革者の﹁世界﹂ どいぼれるが如き苦味の骨界である。 三、他界は更に存在的意昧に解し得られる。併しぞの場合には、本質的に現存在でなく世界内存的︵富erwe︼t許h︶ ︵ぎ㌃rwe妻nhと亨詠r・W整・Seiコとの区別もハイデツ甘∵1にとって重妻である。前者は個々のSeieコdeの存在性であ”∴後者は Das㌢の存在性である。︶に現はれ得るところの存在者としてゞはなく、むLろ軍嘗的現存査がこ跡ものとして﹁そ﹀ の中﹂にT生きる﹂ところのそれとして理解されを。こゝに≠界は発布准畢的麿存的意味︵くc﹁。コt。gischE芋 steコ詠一一eBe渚utu孟︶を有っ。こ1にまた種々なる可能性が存在する。世界は﹁公の﹂世間を意味するかまたは﹁自

(14)

分の﹂そして食も近い︵家庭的︶環境を意味するかである。 四、最後にせ界は世界性なる存在論的膏存の概念を示す。この世界性そのむのは特殊な﹁せ界﹂の随時的組織重 慣にまで欒容し得られるが、併し自らの中に世界性二般の先天性︵ロas・晋riOコく○コ芳膏chkeit旨erhau苫を含む .ヽ ところのものである。 さ・て以上の週つの意味の中でハイデッガーの意味する世界は主として三のものであるやうに恩はれる。=時に往 々にして芸者味塩川ひられることもあるが、この場合には括弧を附して用ひられる。叉﹁世界的﹂といふのは現 存在の存在様相を意味し、せ界の中に現に見出される存在者の布衣様相を意味するのではない。顔の場合の時は 世界附属的とか世界内存的︵we︰tNu常h箪茸Oderi。。。rW。ttlinh︶とかいはれる。 これらによつて見られる如く、ハイデッガーに於ける世界概念は深遠な意味を看ち容易にその眞相を把捉する ことができない。けれどもそれが蛋漠たる箱的宇宙ではなく、むしろ我々に最も近く、我々の生活に最も関係あ り、我舟を放り巻いてゐる環境の如きものであることが察知し得られるゥかぐいつても勿論それは素朴的茸在論 者が無批判的にそめ存在を主張するところの外界の如きものではない。それは例へぼ純粋意識に於ける′エゼの 働きを可能ならし妙てゐるヒーレーの\如く︵前既四叫頁︺、現存在を現存在たらしめてゐる客観的意味め地般皿で あるやうにも考へられる。随って現存在がせ界−内1存在であるといつても、それは決して軍に世兎の申に成る 基問的位債を占めてゐるといふが如きことではない?それはまたせ界内存的に存在するといふのでもない。内イ 意識の志向性より存在の矛盾性へ ︵l二ニニ︶ 三重

(15)

存在︵ぎseiコ︶は彼に於ては全く特殊なる存在論的意味を有つのである。 然らばその内−存在の特殊なる意味とは何かゥそれは例へばコップの申に水があるといふが如き意味の内∵⊥伸 在ではない。むしろそれは傍にあること︵S2亨b2i︶を意味し、傍にあることはやがてそれに爛れてゐるハber彗reコ︶ ことの意である︵S・u●N・−S・望f︶。而も単に解れ︰てゐるのみでなく、、それ.は交渉ハUヨ笥コ山︶を有ってゐるといふこ とである。∵それ放せ界は常に現存在と交渉なる関係に於て一聯関する庵のといへる。ノかくて現存在は常に世界に交 渉することによつて初めて存在者たることができ、世界峠また貌存在忙よつて交渉されるものとして、即ち現存在 との閲聯に放てのみ存在し得るものたるのであるⅧかくの如くに現存在は世界に交渉を有つ?然れどもその現存 在の交渉するものがすべて世界であるのではない。現存在は川々の世界内存的存在者にも交渉を有つ。個々のせ 界内存的存在者︵ぎコerWe≡昏e山野掛買計︶は未だ班弗といふことはできぬイ。世界は現存在が交渉し・てゐる存在者の ′ハ7 金牌を蒙昧してゐる。かくはいつ七も勿論世界は佃々の存在者の単なる飽和ではないやむしろそれは存在者が摘 も仝髄に於てあみところの様態︵ロasWi2−∴コdeヨdasSeぎne仁意NWar首GaコNeコist︶を現はしてゐる︵く・W・d・ Gいs.00eものと見られるのである。﹁こ1に世界は、人間的現存泰が客質上嘗存するところのその根本様式・ ︵Gruコきelse︶に関係せし掛られてゐ魚<・W・㌣G・uS・∞u︶﹂こと1なる。かくてハイデッガーに於ては、世界︵j川︰t︶ と現存在︵ロase亘と存在賓Seieコde︶との関係が相互に著しき程度に緊密・∵繊細・微妙に絞り.込まれてゐ、、随って.︶ これをそのあるがま\に如蜜に語り田すことは嘗に容易の柴ではない。けれどもハイデッガー自らの質的に穐へ 第・八巻 第≡成 ︵こ二軍︶ 三六

(16)

ヽ︳ヽヽ︳ ば、それは大鯉次の如くになるであらう。二、世界は存在ポ自身といふよりも先づ存在者の存在の様態を意陳 ヽ▼ してゐるニー、この様態が重機に於ける存在者を規定してゐる。それは根本的に限度及び程度としての各様藤一 ヽヽ 般の.可能性である。ニて金牌把於けるこの様態は或る仕方佗於て溌行してぉる。凶、令購に於けるこの先行的楼 ヽヽ’ヽ︳▼ヽヽヽ︳ 態はそれ自身人間的現存在に封して銅傭的、である。かくLてせ兆はすべての存在者もまた現有凝をも金牌性内Ⅵ 包括する牒のではあるが、まさしく人間的現存直に属するものである︵く・W、m・G㌫・00ご。 由上によつて我々の知り得る重層な事柄は何々か。それは世界が存在者の存在の様態︵Wie︶を意味すること、 その世界が﹁切の存在者並に現存在を包括すること、その世界がすべてに先行してゐる上と、それがまた存在者 を規定t、現有在に紺係を有ち、現存在に廃してゐることなどであらう。飾らばその現有在が他のナ切の存在者 と共に世界の中に包括されながら而もその世界を眉ら・に属せしめてゐるといふ事態は如何に詮明されるであらう か。換言すれば現存衣と世界、及び現存泰と他の存在者との間には如何なる関係が布衣するであらうか。哉々の 問題は琶にこの鮎にあるのではないかや何故ならばハイデッガーに於ける主観・屡鶴の閲傭を見ようとするのが 只今の我々の試みであ少、・さうしてその主観的なるものは現存在であつて、客観的なるもの・はせ界及び他の存在 者上考へ=られるからである。 四 意識の志向性より存在の矛盾性へ ︵二こ五︶ 三七

(17)

へt三大︶ 三人 第八、螢 魔王琉 さてそれらの間の関係を規定する概念一は∵鯉何であるか。それが即ち超越︵↓raコS2eコdeコt︶と呼ばれるものであ らう。然らばその超越とは何か。例へぼ﹁現存在は常に自ら無の中へ入り込みつ1その時耽に金牌に於ける存在 ︳ヽヽヽ ヽ︳ 宥を超え出てゐる。かく存在者を超え出てあることを我々は超越と呼ぶ︵H2ide氾笥r︰Was資モ訂叶a苫ys斉ヅ∽.NO︶。﹂ 溝うして﹁超越は超越過趣︵写すst百︶を意味してゐる?超越過程真贋行するもの、超越過程偶に止る濁のが超越 ︵超越するこヱである。去れは生憩するものとしての存在者に属してゐる。超越過程は形式的には或るもの﹃か ’︳ヽヽヽ’ ら﹄或もの﹃へ立入り込んやゆくところの﹃関係﹄として理解される。由越過程にはそれに封して曾。raufNu︶超越過 程が起るところの、普通通常ではないが﹃被超越者﹄と呼ぼれるところの為のが厳してゐる。さうして結局超越過 程に於てはまさしく或ものが超越せられるのである︵<・W∵dUG・ふ00○しり﹂かていふ時超越に於ては、超越する庵 のと超越されるものとが兜づ各々澗立に存在してゐて、ゝその間に一方から他方へ而も基聞的要素を適して超越の 過程が生起するやうに考へられるでもあらう。けれども客質は決してさうではない。主観的なるもの即ち現存雀 と、客観的なるもの即ち世界または個々の存在者とが兜づ存在してゐて然る後に超越関係が生するのではない。現 存億が布衣するといふそのこと白身が眈′に超越的存在として布衣することであり、現存檻も世界も個々の存在者 もすべて超越細係に於て初めて存在が可能なのである。然らばハイデッガーに於けるこれらの超越関係に於て主 観的なるものと客観的なるものとの問に如何なる存在様相が支配してゐるであらうか。私はこ一に客観的なるも のが主現的なるものゝ上佗立ち、それに或る偲大なる力を及ぼしてゐる紺係を見出し得ると信する?とれまさし

(18)

てフツセールの意識の意向慨に於けるそれらの関係とは苧\逆の闘備にある鴻の、フツセールに於ては我々は客 親を意味づけ濁童和せ見るが、ハイデッガーに於てはむんろ客親にまつて衝かされて勃る達働を見るのである。 然らばそれは如何にしてゞあるか。 ∵世界−内i存在としての人間的現存在が溝親なる名せ以て呼ばれ、々して﹁超越が主潮の木質を指示し、豪儀 件の根本組織︵G2首言ぎr︶である︵ぺ・W・d・G■ふノ∞ごと㌧い慮れる時應、人.はこの現備宜の超越にこつの様式.の 超越摘係を見出すことが溶きるで潜らう。現偏在が主観的で凍り得るの漉、世界や個々の存在者虻封し・てて芸 た?さうして﹁連徽であ艮S鼠算ei七凄いふてと憶超越佗於ける写そしセまた超抵之七ぺの︵昔︶め存廃者の葡 ヽヽヽ ヽ︳▼ 轟東ることである︵声WふG・一S・00︼︶や心1宣ハに我々は超越に於骨竜存在者でぁる、こ辻ゝ超越としての布衣葡や透 るるとゝ濫現偏在龍於ける超越の二硬式老兄印すの佗ある。個傲ならぼ超越に於ける存在者で牒渇ことは魔轡セ る を負ふ七℃窒息味し縛る守考へ・・ノる、かちであるぺこ㌧碇於宅規存在竺斉超恕蔓れ為Ⅷのとt′て、∵そt・てそ軋と滴 .レ√♪。′ソ 時に他方超越す帰港のせして存在ける・こ漣が萄へちれ.渇り即ち存在潜せ七ての現存准は超越の潮解に於てT壷の 喪麗を希う、それ北東てそれ月身三Ⅵ存在者たると共にまた個々の存在者以上め鴻め憤藩jとができる。懲ら ぼ現存在が超越づれると同時に超越すると、は血糖何の意輝で透るセ志雷庭こ・㌧止周布在が超逝される虻はそれ が世界に封する開鱒に澱てゞあや、同時成それが超越するとは個々の存在者に封する関係に於てゞあることを知 藩舐め志向性より存在の矛盾性へ 竿≡確︶ 塗九

(19)

り、その然る所以を次に論述しようと思ふので⑬る

人間的甥布衣の基本組織︵F。。d。ヨe星s叶r。溝r︶が世界斗内!存在であり、而も▲それが超越を根本組織︵Gruコds什.・ r艮。1︶として有っといふ時、、その超軽の野放たるもの、即ち現存在の超越過程の向ふも竃世界そめものである こ上ができようか。即ち現存衣は自やを四十有益せし應てゐるその世界を堪え︵旨r︶糾て︵h百us︶ゐるこ上がで きようか。内1存在︵ぎse言はハイデッガーに於てまた側在︵Seiコbei︶でもあり、鰯在へBe﹁賢eコ牒叫コ︶でもあつた ︵本望ニハ頁︶。内在せしめられ、側在せしめられ、醜衣せしめられてゐるものが、同時に内卒倒窄解在せしめ てゐる笛のものを超え出てあることができようか。内−・布衣はまた投げ入れられてゐること︵GewO﹁ぎseiコ︶で 濁あつた。投げ入れられてゐるものが超え出てゐることができようか。かくて世界−内−存在としての人間的存

在がそれ自身超越する性質を有つといふことは、否むしろ超越することに於て存在してゐるといふことは、世界

に封する紺係忙於てゞはなYして、他の個々の存在者に封する紺備に於てゞはなからうか。こ1に我々は世界の

中略賓存するものとして現存在の外に他の存在者を衷へねぼならぬ。この資存者が即ちハイデッガーのいふ世界

ヽヽヽ 内借的存在者︵imerw。−t=。heS。i呈e︶ではないか。これが個々の存廃者そのものであり﹂e号hesSe叫eコ許せ呼ぼ

れるものではないか。さうして現存在が自ら超越するのは賛はこの世界内存的存在者としての偶々の春希着では

るJ即ち佃芸存在者は、世界内存的であつて、而も現存准に封しては被超越者として規はれる。現稲布は自ら

なかつたか。かく考へる時嬰竹在の超越過程は世界品ふのではなくして、佃芸存在者に向ふことが胡かであ

魔八巻第.三波 ︵二二八︶ 四〇

(20)

の叔濾的運動によつて、自らのために、個々の藩昏を麒現せしめ、且つ草れを超越する上いへるのである。

こゝに我々は世界の中に襟帯する二つのものゝ明即を重要祓せねぼなら蘭。それは世界−内1布衣写dⅦr寿lt・ se5︶としての現存在と、世界内有的︵iココerWe︼tニche︶偶々の存在者とである・りこれは共忙存在者たることに攣りは ない。けれども前者は直接にせ界1内1春在たるものであり、後者はこのせ界1内−存在的現存在にはって超越 せられることに於て初めて存礫君寵り縛る.謂はゞ間接なる他界寸内1藤森であり、所謂他界内存的存在である。

かくて現存牢はそれ自身存在者でぁるが∵存在者が直ちに硯布衣禿るのではない膏現存賽ならざる存在者が個々

の存撞着である。現存者は八開そのものであるが、個々の存凝着は事物︵D首e︶、でlぁる。壷物は人闇との超越紬 係に於て初め七存在者たり得るのであるJけれども人間也謝物も共に世界中に在るといふ鮎では興るところがな

い。

併しながら現存在としての人間が世界の中に布准するといふ場合と、′個々の存廃着たる巻物が世界の申北林す

るといふ場合とでは、自然臭ったせ界関係が考へられねぼならぬ道政ならば現存礁は直接のせ界−内1・存凝で優 るが、個々の存在者は間接の謂はゞ由布准に握ってのせ界周布的存布であるからである。てぃゝ北ハイデッガ1が 世界な皇眞を使ひ分けた饉由があるであらう。現存在がせ界−内1存在であると小ふ時の世界は世界であつて

﹁せ界﹂ではない。これに反して個々の存在者が世界内存的であるといふ時のせ界庭﹁世空であつて世界ではな

い。世界内藤的といふことは世界l内1存在的乞いふことではなくしてむしろ世界附属的︵W。lt羞。h賢巴といふ 意識ゐ志向性まり春寒の矛盾性へ ︹〓ェ九︶ 四仙

(21)

︵二三〇︶ユ四二

第八巻1弟童顔

どとやあるや㌢ツセール的にいふならぼ世界は本質的意味のものであり、﹁世界﹂は事質的意味のものであるとも いべるであらケ。然るに寄賛の世界は本質の世界を根揚とすることにょつて初めてその存在の可能なるものであ った。それ故ハイデッガ1に於ける﹁世界﹂は世界に擦って初めてその存療が可能で偽り、随ってまた.世界内存在 存在者としての事物は、世界1内十存在としての人間例規存在に擦って初めてそめ存在者たるの・性質を鼠ち得る ことのできるもの烹あらう。如ち事物は人簡によつて根接づけられ、それによつて.研めて専物としての存在を全 うすることができる。さうして事物が入間によつて根感づけられるといふことは、個々の存在者が現存布によつ で超越されることを意味するに舛ならぬ。かく七人間が事物を超越することが明かである。併しながらこの場合 その超越とは仙髄如何なる寄態を意味するであらうか。 現存在が偶†の存在者を超越してゐるとノいふことは、それが個々の存在者に交渉︵Uヨ笥コ巴してゐることであ り、遭遇してゐる︵訂笥曾eJ︶ことである。かく塊存在によつて超越せられ、交渉せられ、遭遇せられる限りに於 て個々の存在者は自らの存在件を確立し得るのである。如ちそれらの存在者は硯存在がそれに向つて割けること に於て初めて存在する庵のとなる。現存雀の本質が﹁への存在﹂︵N。・Se吾であつたが︵S・u・N・−S・牒、そめ﹁への﹂ ︵Nu︶は寧はそれらの存在者﹁への﹂であつた.Nu・SeぎやNu・篭コ頂はせ界内存的存在者に封してゞあつたのである。さ ぅしてこれによつて人間駒現存在が個々の存在者を超越するのである。然らばか1る繭者の紺係は如何にして可 能であるか。それは恐らく﹁せ界内存的存在者が常に世界1内1存在としての現存衣と共に既に開示︵erschi。SSeコ︶

(22)

せられてゐる︵S・亡・∼・−S・∼︺ごからであらう。この開示性︵Ersch百2⊃h2i叶︶の故に存在宥相互の問に交渉も可能と

なるのである。この場合現存衣の他の存在者に封する交渉は理論的であるよりはむしろ嘗践的である。坪想的理

念のせ界に於けるものではなくして日常生活に於ける直接普通のものである。か1る現存在の日常的交渉に守っ

て初めて個々の存在者は世界内存的たり得るのである。かく個々の存在者が人間的現存在の嘗踵的交渉の封象た

ることにょつて初めてせ界内に現存し得るに至るといふことは山腰何を意味してゐるか。それは個々の存在者が

現有在にとつて単なる番物ではなくしてP−遥ヨataであり︵S・u・∼・uS・澄、自然的事物ではなくして嘗鋳的封象 物であることを意味するのであるっかく人間が細心的交渉︵besOr駕已e⊃Uヨ笥コ巴即ちp−aX訂に於て調係する 事物である︵S.亡.N.,S.㌫︶が故に、それは使朋性︵B垂Chba家t︶を有つ限りに於てのみ存在し得る事物であり、 即ち造兵︵∼eu已として初めて布衣の可能なる存在者である。道具とは囲心することに於て遭遇せられたる存在者 ︵dasiコⅧesOr笥b2害コ鼠e・Seieコ含をいふ︵S・仁・∼・・S・華壱外ならぬ。道具が入手性︵Nuh当賢he鳶をその存 在様相として有たねばならぬ︵S・仁・Z.㌫・牒のも、それは人間に封するかゝる関係に於てゞあそまたその過具 が﹁⋮⋮のために﹂︵当N与.⋮:︶なる性格を有つといはれるのも︵S∵u・N・−S・畢、それ・は人間﹁のため空であるに 外ならぬ。かくの如く世界内静的存在者が道具性︵Neu号巳看︶を有たねばならす、重たそれを有つ七とによつ

でのみ存在者としてその存在性を確供し得る所以のものは、専らそれが人瀾的現存在によつて遭遇せられ、交渉

せられ、超越せられることに於てのみ存在者た味得るかちである。かくて現存准はその周囲のすべての寄物を造

意識の志向性J竺り存在の矛盾性へ ︹二二二︶ 四三

(23)

軍入靂 東三渋

︵こ三二︶ 四囲

活し言れに於てそれらの専物の霊を蒜賢しめる真に、景によつて差自己自ら竃在をも翳

し得るの、であ、る。現存塞が自ら一つの存在者で管ながら、而鬼自ち棟道具た抱しめられることなべ、他のすべ

てを自らのために遣具化し得岳以のものは、よくそれらの事物羞題し得晶備にあるか鳶外ならぬ。∫老

てこれがまた現存在を岬々・の存在者以上のものたらし灘てゐる朗以の性質である?現存麗が爛々の存森永薮感憲 t†把捉し、蒜し讐といふのも、差それがそれ泊らのために酌く︵旨e葺こ美よつて封宙的存廃とし ての存在者を捷得することもできまた失ふこともできるといへるのも︵*警九讐か意超存在者的布衣の性贋 を有つからであらう。︵未完︶

参照

関連したドキュメント

 体育授業では,その球技特性からも,実践者である学生の反応が①「興味をもち,積極

と言っても、事例ごとに意味がかなり異なるのは、子どもの性格が異なることと同じである。その

「欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求で はなくて、差異への欲求(社会的な意味への 欲望)であることを認めるなら、完全な満足な どというものは存在しない

 県民のリサイクルに対する意識の高揚や活動の定着化を図ることを目的に、「環境を守り、資源を

[r]

・環境、エネルギー情報の見える化により、事業者だけでなく 従業員、テナント、顧客など建物の利用者が、 CO 2 削減を意識

学側からより、たくさんの情報 提供してほしいなあと感じて います。講議 まま に関して、うるさ すぎる学生、講議 まま

化学品を危険有害性の種類と程度に より分類、その情報が一目でわかる ようなラベル表示と、 MSDS 提供を実 施するシステム。. GHS