Antony and CleoPalra
一王者なる恋人たちとその演技性一*依
田
義
丸
AntonyとCleopatraを,若き恋人たちRomeoとJulietの二人と比べるの は正しい。だがその特徴的な差違は,年齢の違いにではなく,かれらとまわり の世界との関わり合いにこそ認められねばならない。若い二人の愛に世界は対 立するのに対して,AntonyとCleopatraの愛には世界の運命がかかってい る。それぞれ,“the triple pillar of the world”(1.1.12)であり,“Egypt’s queen”(1.1,29)である。かれらは,何よりもまず,王者なる恋人たちなの である。 こうした二人は,常に自らを見せる者・見られる者として運命づけられてい る。開幕早々のPhiloの台詞には,“plated Mars”(1.1.4)のように三軍をし っかと見つめるAntonyの姿が描出されているが,ここには,自らを見せる 者としてのAntonyが現われている。かさねて,これがその光景を見た者に よって語られることで,Antonyのもつ見られる者としての宿命が印象づけら れている。それは時には,見た者から聞いたという形で知らされることもあ る。敗走中の予想を絶する飢餓を勇者らしく耐えたAntonyについてCaesar が物語る件(1.4.56−71)は,この例である。 Antonyの運命はCleopatraのものでもある。 Cydnus河上で初めてAntony に会った際,両側に立てた美少年に扇で風を送らせ,足元には侍女たちをかし ずかせながらCleopatraが天蓋の中に身を横たえていたというあの有名な絵図 *本稿は1980年5月25日,日本英文学会第52回大会(於甲南女子大学)において口頭発 表したものに加筆したものである。 1)引用行数は,D. Wilson編のNew Shakespeare版による。(2,2.191−205,206−218)は,彼女が十二分に演出をして女王としての威 力と魅力をまわりに見せているところを巧みに伝えている。そしてここでも, それが,町中の人たちといっしょにその場にいあわせたEnobarbusによって 描かれることで,見られる者としてのαeopatraの側面が強調されているQこ のように,見られる者・見せる者として,二人はさながら,観客の注視するな かで自らの演技を誇示する役者の位置にいるといえる。 AntonyとCleopatraは,愛においても同じ立場に置かれている。かれらは 二人だけで愛を表現することはない。かれらの愛は常にまわりの者に見られて おり,かれらの方でもその王者の愛を見せようとしている。二人の愛のもつ巨 大な規模もこうした状況で機能しているのである。劇がはじまってすぐ,侍女 と侍者と宙官を従えて登場した二号は,自分たちの愛の大きさをまわりに見せ ようとしている。C正eopatraはAntonyに自分への愛の大きさをたずねて,そ れが“new heaven, new earth”(1.1.17)を要するものであるとまでいわせ ずにはおかない。Antonyの方は, Cleopatraとの愛という“space”(1e L 34) と比べれば,“the wide arch Of the ranged empire”(1.1.33−34)やking− doms”(1.1.35)など無価値なものだと見えを切っている。ここに使われ ているイメージの巨大性は,主張されている内容とは逆に,かえって,彼の王 者たる意識の存在を明らかにしている。事実この意識は,次につづく,二人の 愛を誇るAntonyの台詞に,王者の権力意識を伴って,際やかに現われ出て くる。 when such a mutual pair And such a twain can do’t, in which 1 bind, On pain of punishment, the world to weet We stand up peerless. (1. 1. 37−40) 二人は愛の世界にあっても自分たちが王者であると考えており,そうした者と して自分たちをまわりに見せようとしているのである。
けれども,王者の意識については,両者は著しい対照をなしている。一幕一場 でAntonyは, Cleopatraとの愛に溺れた生活から脱出することが必要だと感 じている。彼はその決意を二度にわたって披渥している。 These stron.g Egyptian fetters 1 must brea] , Or lose myself in dotage. (1. 2. 1!7−118) 1 must from this enchanting queen break off: (1. 2. 129) Antonyがこの境位に至っているのは,使者からRomeを中心とした世界の 流動する政情を聞くことによって,世界の王者であることにあらためて目覚め たためである。繰り返された“must”という自己規制の背後にあるのは, An− tonyの王者としての役目意識であり,それからくる義務意識である。王者に 生れついたのではなく,王者になったAntonyにおいて,王者たることは突 き放して意識されているのであって,彼にとってはく王者Antony>は,あく プラス までく王者+Antony>なのだ。そして,愛の関係を切ってRomeへ向おうと するAntonyは,〈王者〉に関わる政治を優先させようとしていることにな る。Antonyでは,政治と愛は完全に分離されているのである。この分離は, Antonyの公私の区別と呼応している。次の場で, CleopatraにRomeの状勢 を説明しているAntonyは,彼女への愛を保証するために,妻の死へと話題 を移しているが,これに際してAntonyは,わざわざ“My more particular” (L3.54)という断わりの言葉を添えている。ここには,公と私を分けて考 えるAntQnyの姿勢が顕現している。王者Antonyにとって,政治は公的な く王者〉に関わる事柄であり,恋愛は私的な<Antony>に関わる事柄なので ある。 これに対して,Cleopatraは,王者であることを突き放して考えはしない。 彼女は,Antonyと違って, Egyptの王家に女王となるべくして生れついた,
いわば,生れながらの女王である。彼女にとっては,女王であることは当りま えのことなのである。彼女はそのことを,事実の最も確固とした試金石にさえ している。 As 1 am Egypt’s queen, Thou blushest, Antony, (1. 1. 29−30) CleopatraはEgyptの女王以外の何ものでもありえない。女王であることが, 彼女の存在を支えているともいえる。彼女にあっては,公私の区別はなく,公 プラスが私なのである。彼女には,<女王一t−Cleopatra>という発想は存在せず,彼女 はどこまでもく女王Cleopatra>なのだ。だから,そうした彼女が恋をする場 合,それは当然,政治にたずさわるく女王Cleopatra>の恋となる。このよう にして,政治と愛が一体化するのである。そして,その際に,彼女の愛の相手 が常に世界の王者であることも注意されてよい。このことは,彼女が統治する 王国の政治的位置と関連している。つまり,Cleopatraは,世界の支配者では なく,一属国の女王にすぎない。これ故,彼女の王国は,Egyptを支配する世 界の王者の翼下に存在することになり,このことから女王Cleopatraと世界の 王者(今はAntony)との関係は,彼女の王国の民全体の運命に関わる三重要 事となってくる。こうしてCleopatraは, Egyptの女王として,その時点での 世界の王者と恋をするように運命づけられるのである。そして,自分の恋人が 世界の王者であることは,Cleopatra自身にも,もちろんのこととして意識さ れている。Romeに向う旅の途上にあるAntonyを想い描いているCleopatra は,唐突に昔の恋人であるJulius CaesarやGnaeus Pompeyのことに言及し て,Charmianにからかわれている。 Charmianとは違って我々は, C工eopatra が,ここで二人のことを思い出しているのは,自らAntonyを“the demi− Atlas of this earth”(1.5.23)と形容した直後だということを見遁してはな らない。彼女は,Antonyが世界の王者であることを意識することで,かっての 恋人も,やはり同様に,世界の覇者であったことに思いを馳せているのである。
66 さて,こうした王者意識の違いが,二人の演技性にも決定的な違いを生じさ せることになる。Cleopatraの演技性についてはまわりの者も認めている。た とえば,Enobarbusは次のように証言している。 1 have seen her die twenty times upon far
poorer moment: (1. 2. 142−143)
また,AntonyはCleopatraの芝居のうまさを指摘している。 She is cunning past man’s thought. (1. 2. 146) もちろんこれは,演技といっても,いわゆる見せかけの範疇に入るものであ る。ずっと本格的な演技は,一幕三尺に見られる。ここでもCleopatraは, Antonyの関心をRomeのことから自分の方へ向けさせるために,まず見せ かけの演技を間接的に使おうとしている。CleopatraはCharmianに, Antony が沈んでいたら,自分は踊っていると伝えるように,また,嬉しそうなら,自 分は急病だと伝えるように命じている(1.3.3−5)。けれどもこれは,Antony の予期せぬ登場によって実行されずに終り,その代りに,Cleopatraが直接に 見せかけの演技をしなければならなくなる。Cleopatraは,登場したAntony の眼の色を見て,彼が妻Fulviaから呼び戻されたと判断して一“What, says theエnarried woman you may go?Would she had never given you leave to come!”(1.3.20−21),“sick:and su工len”(1.3.!3)であるふりをし,愛人 という自分の弱い立場を強調することによって同情を引き,Antonyを自分の もとにとどめようとする。けれどもこのすぐ後に,際立った変化が生じてい る。“0,never was there queen So mightily betrayed!”(1.3,24−25)と叫 んだCleopatraは,自らを裏切られた者と見倣し,それをひとつの役柄として 演じはじめるのである。これはもはや見ぜかけではなく,本格的な演技である。 彼女は,AntonyをEgyptにとどめるというもともとの目的を忘れて,役柄を演じることにすっかり没頭するようになる。我々がこの事実に気づくのは, Cleopatraが矢つぎ早に非難の言葉を浴せつづけるところ(1.3.24−41)に おいてである。そこではAntonyは言葉を抑えられて,‘℃leopatra一”(1.3. 26)や“Most sweet queen一”(1.3.31)と呼びかけるのが精一杯である。 Cleopatraの状態に唖然として,“How now,1ady!”(1.3.39)と切るAntony の台詞は,Cleopatraが演技に没入している様子を暗示している。Cleopatraは, Romeの状況が帰国を求めているというAntonyの説明にも耳を籍さず,また 彼女には吉報ともなりうるFulviaの死について聞いても,それを演技を引き 立たせるために利用するだけである。ついに役柄が発展して,彼女はきっぱり と別れを告げるに至る。こうなることはもともとの目的ではなかったCleopatra 自身,一瞬戸惑いを示している一“Sir, you and I must part, but that’s not it:” (1.3.87)。けれども注目すべきは,自分の意図とは逆の地点に到達してし まっているのに,Cleopatraは役柄の延長線上で別れを述べているぽかりか, ついには実際にも進んでつつがない旅立ちを祈ることで終っていることであ る。つまり,最後には,演技が現実へ矛盾なく統合されているのである。で はなぜこのようなことが起るのか,そしてそればClepatraの演技性のどのよ うな特徴を垣間見させているのか。この現象の解明は,Cleopatraがここで 演じているのは,〈裏切られた者〉ではなく,〈裏切られた女王〉(queen(So mightily)betrayed”)であると考えることでなされるように思われる。すでに 我々は,Cleopatraの王者意識においては,公が私に取って代り,彼女はどこま でもく女王Cleopatra>であることを調べた。従って,彼女が演技を行う場合 も,その演技する主体は,<Cleopatra>ではなくて,<女王Cleopatra>だとい うことになる。すなわち,この演技する主体であるく女王Cleopatra>が,役 柄であるく裏切られた女王〉とく女王〉を共通部分として結ぼれたのである。 こうして演技が現実と重なったわけである。このように,Cleopatraは,見せ かけから女王という役柄まであらゆる演技を行うが,常に演技する主体はく女 王Cleopatra>であることに変りはないのである。 他方,Antonyには, Cleopatraのような意識的な演技性は見られない。も
68 プラス しCleopatraと対比して考えるなら,王者意識がく王者+Antony>で表わさ れるAntonyにあっては,演技する主体が<Antony>であり,演技される役 柄がく王者〉だということになろう。けれども,Antonyの場合,これはあく まで比喩的にいえるだけで,彼にこの演技性についての認識はない。というよ り,その認識にAntonyが強引に至らされる過程が四幕の終りまでの劇のア クションの内実なのである。 このことに関連して重要なことは,Antonyが,劇を通じて終始,直接的に 間接的に離脱・剥離のイメージで取り囲まれていることである。このイメージ は,特に三幕までに,Antonyが,まわりの者たちと何度も別れを繰り返すご う とで予示され,補強されている。Antonyは,まずCleopatraと別れた後,真珠 を使者にもたせることで,事実上もう一度別れを告げている。次に,彼はCae− sarのもとを離れ,さらに, Octaviaを送り出すことになる。これらは,まだ 自然な出来事のように見えるが,Actiumの戦い以後は,はっきりとわかる離 脱・剥離のイメージが次々と現われてくる。それらは,具体的物的イメージか ら,抽象的二二的イメージまで広がっている。海戦でAntonyが不面目な逃亡 をしたために,“six kings”(3.10.34)が彼のもとを去り,副将Canidiusが かれらにつついている。これに加えて,AntonyがCaesarに一回忌を挑もう とするのを見たEnobarbusの言葉は,“judgements”(3.13.31)が“fortunes” (3,13.32)と共にAntonyを離れたことを伝えている。 Antony自身も, “good stars”(3.13.145)が自分を見捨てたと嘆いている。また,“the god Hercules, whom Antony loved”(4.3.16)が,不思議な音楽を伴って, Antonyから去って行く。そしてついに, Alexandriaでの陸戦を前にして,
Antonyの最も信頼するEnobarbusがCaesarの陣営へと脱走する。このよ
うにして,ひとつひとつ加えられてエネルギーを増した離脱・剥離のイメージ 群は,最後の敗北の後にAntonyが自らの状態を描いている,“this pine is barked”(4.12,23)という終局のイメージへと一気に収敏する。ここでAntony 2) Cf. E. A. J. Honigmann, ShafeesPeare: Seven Tragedies (London; Macmillan, 1976), p. 153.は,自分を世界の王者と見敏してくれた各国の王や部下たちが去り,見せる 者・見られる者としての立場を失うことで,はじめて世界の王者たることを剥 ぎ取られたと考えているのである。すなわち,Antonyは,王者たることが自 己とは別個のひとつの役柄にすぎなかったことをはっきりと悟っているのであ り,演技者としての位置からおろされることによって,自らの演技性を認識し ているといえる。 ところで,Antonyに世界の王者という地位の喪失を確認させているものが もうひとつある。それは,彼が味方の艦隊の降伏を目撃して,Cleopatraに裏 切られたと思ったことである一“Betrayed l am. O this false soul of Egypt!” (4.12.24−25)。この時点におけるAntonyの意識を説明するうえで鍵とな るのは,同じ台詞に見られる,“Triple−turned whore!”(4.12,13)という言葉 である。ここでAntonyは, Cleopatraの心が, Julius Caesarから, Gnaeus Pompey, Antony,そしてOctavius Caesarへと次々と移り変ったということ を灰めかしているのである。すでに,Cleopatraは,世界の王者と恋をする運 命であることを見たが,このことが,Antonyにも意識されているのだ。 AI1− tonyは, Cleopatraが世界の王者と恋をするに値する者だと考えているのであ る。だから,Cleopatraに裏切られたということは, Antonyが彼女の恋人で ある資格を失ったことを意味しており,そのことは,彼はもはや世界の王者で はないことを示している。少くとも,Antonyはそう思っている。すなわち, Antonyはここで, Cleopatraの恋人としての位置を失うことでも,政治的ア イデンティティーの喪失を思い知らされているのである。“Eros, thou yet be− hold’st me?”(4.14.1)という心許ない問いかけは,こうしたAntonyの内 的状況から発せられている。Cleopatraの死の知らせがもたらされるのは,ま さにこの的なのだ。 死の知らせを聞いたAntonyは,奇妙な態度をとる。それをあまりにも容 易に信じるのである。我々はこの容易さに驚かざるをえない。というのは, Antonyはこれまでにも, Cleopatraに一度ならず裏切られてきたのであり, 彼女の演技的な手練手管はよく承知していたはずであるからだ。しかし実際に
70 は,これはしごくもつともな振舞いであることが,CleopatraがAntonyに対 してもつ意味を考えることで明らかとなる。Antonyにとって, Cleopatraの 恋人であるかどうかは,恋愛的次元を越えて重要なことであった。なぜなら, 彼女の恋人であることはAntonyが世界の王者であることと等価だったから である。そして,Cleopatraが死んだということは,彼女が彼への愛のために 自殺したということを意味する。さらに,Cleopatraが死んでいることで, Antonyは彼女の永遠の恋人となることができるわけである。だから,もし今 AntonyがCieopatraの永遠の恋人として死ねば,彼は世界の王者であること を永久化することができよう。こうして,AntonyはCleopatraの死の知らせ を信じ,自らも死のうとしたのである。彼は,Cleopatraとの恋愛関係によっ て,失われた政治的アイデンティティーを一気に回復しようとしたのである。 事実Antonyは,自分たちを世界の王者と見倣そうとしている。これは,彼 が劇のはじまりでしていたように,二人を唯一無比の恋人たちとして,見られ る者・見せる者の位置に再び据えようとしていることからわかる。 Where souls do couch on flowers, we’11 hand in hand, And with our sprightly port make the ghosts gaze: Dido and her Aeneas shall want troops, And all the haunt be ours. (4. 14. 51−54) けれども,この場合,かれらを見る側に立つ者は,皮肉なことに,幽霊たち となっている。この事実によって暗示されているように,王者たる地位の再確 保はあくまでAntonyの意識においてであって,現実ではない。 Shakespeare はこのことを伝えるために,現実のAntonyが彼の意識とは違って,王者にあ るまじき姿を見せるように仕組んでいる。まずAntonyは, Erosに刺殺を依頼 している。さらに,部下のErosは立派に自殺を遂げるのにひきかえ, Antony はそれに失敗して恥をさらしている。その上,Cleopatraの死の知らせが嘘で あったことがわかるのである。注目すべきは,このコントラストは,Antony
がCleopatraのもとに運ばれることで,彼女によっても認識される結果となる ことである。Antonyは自殺をしくじったぶざまな姿をCleopatraに見せてい るばかりか,彼女の前でも世界の王者に似つかわしくないところを示してい る。これは特に,“Iam dying, Egypt, dying.”(4,15.18,41)という王者に ふさわしからぬAntonyの言葉によって象徴されている。このさながら安物 芝居の大げさな言いまわしが未練がましい調子の同語反復を含んで二度繰り返 ヨ されることによって滑稽感さえ出てくる。このようにしてCleopatraは,かっ ての王者Antonyと,目の前で王者たることを剥ぎ取られてみじめな死に方 をするAntonyの両方を知ることになる。しかしほんとうは,この表現は正 確ではない。なぜなら,それはあくまで我々観客及びAntony自身の視点か ら眺めたAntonyの状態だからである。 Antonyと我々に見えているものは, 彼の今際の言葉に纒められている。 The miserable change now at my end Lament nor sorrow at; but please your thoughts In feeding them with those my former fortunes Wherein 1 lived. . . the greatest prince o’th’world,
The noblest... (4. 15. 51−55)
つまり,我々とAntonyには,〈王者〉という役柄と,<Antony>という演技 する主体のふたつが見えているのである。しかしCleopatraにとっては, An− tonyにおけるく王者〉性は,役柄ではなく,いわぽ属性なのである。これは, ひとつには,Cleopatra自身の演技する主体がく女≡E CIeopatra>なのであっ プラス て,彼女にはく王者+Antony>と考えられないことからくるぽかりか,もうひ とつには,自分の恋人としてAntonyは当然く王者Antony>なのだという彼 3)テキスト成立上の問題もあるが(Cf. D. Wilson(ed.), Antony and Cleopatra (Cambridge:Cambridge U. P.,1973), p.128.),ここで重要なのは繰り返しがっく り出す劇的効果の方である,72 女の意識からきている。Cleopatraは,<王者Antony>とく王者Antonyでな いもの〉のふたつを知ったのである。もちろん,彼女は終始,Antonyは前者 であると思いたがっている。Antonyの死の直後にも, Cleopatraが彼を固定 しているイメージー“the crown o’th’earth”(4.15.63)一は,王者Antonyの イメージ化であることはいうまでもない。そして,そのAntonyのあとを追う ことを一度は公言するが一“Let’s do it(what’s brave, what’s noble)after the high Roman fashion”(4.15.87),実際は, Cleopatraはなかなか死なないの である。というのも,彼女はく王者Antonyでないもの〉を見てしまったか らである。彼女にはどちらがほんとうのAntonyなのか自信がない,それ故 に,死ねな:いのである。彼女の陥っている確信のない状況は,Dolabellaとの 場面によく現われている。それはまず王者Antonyの描写からはじまってい る。 His legs bestrid the ocean, his reared arm Crested the world: his voice was propertied As all the tuned spheres, and that to friends; But when he meant to quail and shake the orb, He was as rattling thunder. For his bounty, There was no winter in’t; an autumn ’twas That grew the more by reaping: his delights Were dolphin−like, they showed his back above The element they lived in: in his livery Walked crowns and crownets; realms and islands were As plates droppedZ・from his pocket. (5. 2. 82−92) 冒頭で,二人の愛が巨大な規模のイメージを与えられていたところにかれらの 王者意識が出ていたのと同様に,ここでCleopatraは,世界の王者Antonyを
巨人的に宇宙的にイメージ化しようとしている。これは,Antonyが“dQlphin” の に讐えられていることからもわかる。Tillyardが指摘するように,ここでの要 諦は,“dolphin”が魚の王者だということであって,一連の巨人的宇宙的イメ ージもこの“dolphin”と同じ次元で使われているのである。このように王者 Antonyをイメージで定着させたCleQpatraも,対象の存在性についてDo一 正abeltaにたずねている。 Think you there waE, or might be, such a man As this l dreamed of? (5. 2. 93ua94) Cleopatraは,“there was”という事実的表現を一度は使っておきながら,つ づけて“might be”という可能的表現を添えていて,ここにはCleopatra自身 の確信のなさがみごとに出ている。 <王者Antony>がAntonyなら,その相 手であるEgyptの女王として, Cleopatraが死ぬことにも意味がある。世界の 王者Antonyとの恋が,彼女の女王性の証しでもあったからである。しかし, もしく王者Antonyでな:いもの〉がAntonyなら,彼女は新しい世界の覇者 との関係を考えねぽならず,それがEgyptの女王としてのCleopatraの宿命 でもある。彼女が一方で自殺の決意を表明しながらも,他方でCaesarが自分 をどのように処遇するかをさかんに知りたがるのはこのためなのである。 解決はむこうからやってくる。突然訪ねてきたCaesarが,一瞬Cleopatra を見分けられないということが起きるのである一“Which is the Queen of Egypt?”(5.2.111)。 Cydnus河上のあの絢欄たる姿に象徴されているよう に,Cleopatraは女王であることを当然のこととして,まわりに見せ,まわり から見られてきた。そのCleopatraの女王性が,今はじめて,それも世界の 覇者の目で識別されなかったのである。このことで,彼女はその存在の土台を 完全に失ってしまう。なぜなら,彼女の実体はどこまでもく女王Cleopatra> 4) Cf. E. M. W. Tillyard, The Elixabethan ;Vorld Picture (London: Chatto and Windus, 1952), p・ 32.
74 であり,それが今彼女から離れたからである。だから,残された彼女は,<Cle− opatra>とも呼びえない,空・無の状態になっているのである。存在性の基盤 は失われた。存在性の基盤を失ったからには,彼女はもはや生きては行けな い。彼女はここではじめて,死ぬ決意をする,いや,死を強いられるのである。 では,これまでさまざまな演技をつづけてきたCleopatraは,死に際してど うするか。Cleopatraは,今度は,《女王Cleopatra>という役柄を演じようと するのである。彼女の意識は,世界の王者Antonyとはじめて会った,あの Cydnus河上の時間にまで戻っている。 Show皿e, my wo皿en,1ike a queen:go fetch My best attires. 1 am again for Cydnus, To meet Mark Antony. (5, 2. 226−228) Give me my robe, put on my crown, I have Immortal longings in me. Now no more The juice of Egypt’s grape shall moist this lip. Yare, yare, good lras; quick. Methinks 1 hear Antony call; 1 see him rouse himself To praise my noble act; (5. 2. 279−284) これらふたつの引用においては,演劇的な用語一“best attires”や“act”など一 が故意に使われているように思われる。Cleopatraは,侍女たちを着付け師 の に,そしてまわりの場所を花形役者の楽屋にしている。彼女は,共演者である Antonyが待つ舞台への出番を急く・女優であるかのように自らを見倣し,自分 を女王らしく見せようとやっきとなっている。こうして彼女はその死の舞台へ と立つのである。自ら空・無なる者として彼女は,世界の王者Antonyの恋 人であるく女王Cleopatra>を演じるのである。その演技は,以前にもまして 5) Cf一 E A. J. Honigmann, o?. cit,, p, 164.
したたかな演技だといえよう。 この最後の舞台への支度を前にしたところで,ShakesPeareがCleoPat「aに・ Romeの役者の演ずるCleopatraに注意させていることは,こうしたコンテキ ストで意味をもっている。 the qし丘ck comedians Extemporally will stage us and present Our Alexandrian revels; Antony Shall be brought drunken forth, and 1 shall see Some squeaking Cleopatra boy my greatness I’th’posture of a whore. (5. 2. 215−220) ここでRomeの少年役者が“squeaking Cleopatra”を演じることに言及させ ることは,劇的イリュージョンをこわすことになろう。なぜなら,我々観客が 現に観ている劇でも,たとえ巧みな演技であっても,ある役者がやはりCle− opatraを演じていることに変りはないからであり,エリザベス朝のi舞台のよう に,Cleopatraが少年役者によって演じられている場合は,なおさら状況は一 の 致するからである。しかし,Shakespeareはそのことを逆に利用しているよう に思われる。すなわち,目の前で,今一人のただの役者(エリザベス朝なら少 年役者)が,Egyptの女王Cleopatraという役を演じていることと,劇世界 の中のCleopatraが,自らは空・無となって, <女王Cleopatra>を演じよう とすることの同一性に,Shakespeareは気づかせたかったのである。この両者 の一致を基盤として,劇中でのCleopatraの演技的到達点を示し,彼女が行お うとした演技の性質を,劇上演における演技の本質的な仕組みによってより強 烈に印象づけようとしたのである。 二人の侍女に囲まれ,王冠を頭にして死ぬCleopatraは,女王についてのひ 6) Cf. Phyllis Rackin, ‘Shakespeare’s Boy Cleopatra, the Decorum of Nature, and the Golden World of Poetry,’ PMLA Vol. 87, No. 2 (March 1972), p. 201,
76 とつの‘tableau’を現出しており,彼女の演技はうまくなされたように見える。 彼女の死の直後にその光景を見たCaesarが, Cleopatraが女王らしく死んだ ことを認めているところ(5.2.334−336)は,残る者たちにもその演技は成 功したことを伝えている。しかし,そのCaesarが終りのところで“She shall be buried by her Antony.”(5.2.357)と述べている時に,この劇をずっと 観てきた我々はここで,疑問をもたずにはいられまい。“her Antony”とは今 や土塊となったAntonyなのか,と。“her Antony”とはほかならぬ世界の王 者を演じていたAntonyであった。そして,それはCleopatraが最後に行っ た演技の世界の彼女の相手役としてしかもはや存在しないものとなっていたの である。すなわち,彼女とAntonyの愛の関係は,王者たることを演じるこ とでやっと保たれたのであり,このことは,生前かれらが見せる者・見られる 者として,さながら舞台に立つ役者の位置にいることで二人の愛を成立させて いたこととパラレルの関係になっている。Cleopatraの死に一幕を与え,ダブ ル・クライマヅクスをつくってさえ,Shakespeareの伝えたかったのは,まさ にこの事実であるように思われる。AntonyとCleopatraは,あくまで,王者 であることによってはじめてその愛が成立した王者なる恋人たちだったのであ るQ