亡き鏡軒主人にささぐ「破鏡(重圓)」の伝承とそ
の習俗 : 漢六朝隋唐の副葬半折鏡
著者
黄 名時
雑誌名
名古屋学院大学外国語学部論集
巻
6
号
2
ページ
201-229
発行年
1995-04-30
URL
http://doi.org/10.15012/00000825
亡 き鏡軒主人に ささ ぐ
「破鏡
(重
回
)」の伝承 とその習俗
―
漢六朝隋唐 の副葬半折鏡
―
黄
名
時
目 次 一。 は じめに 二.“破鏡"をめ ぐる伝説 三.鏡の副葬状態 四.半折鏡 の習俗 五.まとめ にか えて ……. は じ屁河こ 今 日中国語で よく用 いられ る言葉 の一つに “破鏡"と い うのがある。“破鏡"といえ ば常用語 として「破鏡不重回」,「破鏡不再照」,「破鏡難園」,ま
た洒落言葉 として「破 鏡子 ― 靡 了」①,「破攻璃鏡― 各投各眼」(2)など,言
わば “覆水盆 に返 らず"に
似 た縁起 の悪いネガテ ィブな用語が比較的多い。 一方,ポ
ジテ ィブな意味では唯一「破鏡重園」 とい う言い回 しが用いられ る。かけ 言葉で「破鏡重回」と言 えば後 ろに「好了起来」(3)が くる。今 日「破鏡重回」の句を使 っ た実用例文 としては,例
えば次の よ うなものが挙げ られ る。 ①他伐到了解放前失散的妻子,破
鏡重回,親
友個都替他個高興。 (彼は解放前に離散 した妻を捜 し当て,ま
た元通 り暮 らせることになったので親戚友 人一同,彼
らのために喜んだ。)『漢語成語小餅典』商務印書舘 ②経過抗戦八年動簡し,這
封離散的夫妻終於破鏡重園。 (抗日戦争8年
の動乱期を経たあと,散
り散 りになっていたこの夫婦はついにまた巡 り会 うことができた。)『五用成語詞典』學林出版社 ③由於戦需し離散了十年的夫妻又破鏡重園了。 (戦乱のため 10年 も別れ別れになった夫婦が,ま
た巡 り会 った。)『中国語熟語辞典』 東方書店 ④抗 日戦争勝利後,他
個夫妻破鏡重回,喜
出望外。 (抗日戦争が勝利をおさめた後,あ
の夫婦は又一緒になれたので,大
喜びした。)『新 編成語多用詞典』金盾出版社 0北 京⑤由於戦簡[的開係
,使
得這封夫妻離散多年,今
天他個終於能破鏡重回了,員
令人高興。 (戦乱のため,
この夫婦は何年間も離別を余儀なくされたが,つ
いに今 日再び巡 り会 うことができた。本当に喜ばしいことだ。)『費用成語辞典』故郷出版・ 壼湾 ⑥他イ門夫婦価破鏡重園的故事,説
起末員叫人感動得流涙。 (彼ら夫婦が再びいっしょになれた物語は,実
に感動的で涙を誘 う。)『中国成語辞典』 東方書店 ⑦這封夫妻経十年離散,今
天得以「破鏡重園」,不
禁抱頭痛哭,悲
喜交集。 (十年間も離散 していたこの夫妻は今 日再会 し,元
通 リー緒に暮 らせるので両者思わ ず抱 き合 って大声で泣 き,悲
喜 こもごもの心境であった。)『八用中文成語辞典』涯 通書店・ 香港 ③一魏到他個夫妻破鏡重園的消息,親
友個都彼高興。 (あの離散夫婦がまた元のように団円したことを聞いて,親
族・ 友達みんなが嬉 しく 思った。)『成語典故故事選』黒龍江人民出版社 ⑨嘉到這封破鏡重園的夫妻後末生活得彼好,我
個都彼高興。 (心ならず も離れ離れになっていたこの夫婦が再会 し,そ
の後,仲
良 く暮 らしている のを聞いて,私
達はとても嬉 しい。)『五用成語詞典』學林出版社 以上 の用例か ら今 日,「破鏡重園」 とは,“離散 した夫婦が再 び一緒になった り,別
離の夫婦がまた巡 り会 う''といった意味で使われ ることが知 られ よ う。用法 としては ① ∼③ の よ うに述語構造 に用い られ る例が多 く,⑨
の限定語の使 い方 は少 ない。 “破鏡"の
ポジテ ィブな用法である「破鏡重園」の表現 はこの よ うに意外 に多用 さ れ るのであるが,そ
れ らはいずれ も夫婦 の間の こととして用い られている。その語源 はいったい何 に基づ くのであろ うか。小稿では「破鏡(重園)」 の原義 をた どるために, 先ず古代の文献説話 の中か らその伝承 に係わ る故事資料を拾 い出 し,つ
づいてその よ うな “鏡 を破 る"風
習が実際にあったか ど うかを考 えるために,古
墓 に副葬 された半 折鏡 の考古史料を検討 してみたい。 これによって “破鏡"の
用語 のルーツ並 びにその 実用の習俗 について考究 し,以
て「破鏡重回」 に対す る古代人の考 え方の一斑 を うか が うことに したい。 まず最初 に “破鏡"を
め ぐる故事伝説をみてみ よ う。二
.“破鏡
"を
め ぐる伝説
“破鏡"の
伝承が説話の形 を とって今 日に伝 えられた と考 えられ るものに『神異経』 ならびに『楊素』の故事伝説がある。“破鏡"を
め ぐる伝説 としてはこの二篇が重要で あるので,各
々その原文 と全訳 を示そ う。(1)『
神 異経 』一――「破 鏡 難 回」 の悲哀 昔有夫婦路別,破
鏡,人
執半以篤信。其妻興人通,其
鏡化鵠飛至夫前,其
夫 乃知之。後人因鐸鏡篤鵠安背上, 自此始也。(『太平御覧』巻七一七 (鏡)引
)(4) その音,あ
る夫婦が (都合 によ りやむを得ず暫 く)離
れて暮 らす ことにな り,一
枚 の鏡 を二つに破 ってそれぞれ半分を所持 し (他日再会の時の)証
とした。 ところがそ の妻が他人 と通 じた ところ,持
っていたその鏡片が鵠 (カササギ)と
化 して夫 の元 に 飛んで行 った。それで夫がその ことを知 った。後世 の人が鏡背 に鵠 の図柄 を鋳造す る のは, この ことか ら始 まったのである。 この説話の冒頭部 にある「音有夫婦鷺別,破
鏡,人
執半以篤信」の叙述 か ら,古
代 中国において夫婦 の別離 に際 し,変
わ らぬ愛情の証 として鏡 を二つに割 り各 自一片ず つ持ち合 う風習があった らしい ことが推測 されるが,
この よ うな語 り伝 えが実際の習 俗 として存在 していたか ど うかについては後述す ることに したい。 この よ うに,“破鏡"の原義 とは,夫
婦が事情 あって離れて暮 らす際 に半折 して持 ち 合 う半欠鏡の ことであ り,そ
れは言わ ば一種の割符であって,“鏡 を破 る"のは夫婦 の 再会 を意図 した行為であった。 ス トー リーとしては当初,夫
婦 の再会 と “破鏡"の
再 円を約 し,一
面の鏡 を割 って証 としたが,妻
が別の男 と密通 して「破軽」或 いは「破 罐子」の不倫女に堕 した ことか ら思わぬ展開になる。 そ して,結
果 としてハー トが破 れた ことによ り破れた鏡 は再 び元の形 に復す ることな く,そ
れは“覆水収め難 し"(5)と い う,夫
婦仲 の戻 らない「破鏡難園」の破局 に至 る。即 ち,“破鏡再 び照 らさず"に
終 わ るわけで,「墜歓重拾」とか「言婦於好」等の成立 は想定で きない。 この物語 は,結
論 として言 えば,鏡
を割 った ことが結果的にそのまま別れに繋が ったわけで,破
れた 鏡 は元の形 に戻 ることはなかった。漢語の「破鏡不重照,落
花難上枝」(『博燈録』一 七)と
か或いは 日本語の “破鏡の嘆 き"や
“破鏡の嘆を見 る"と
いった語句が,夫
婦 のよ りを戻す ことができず,仲
の破れて離縁す る悲哀 に喩 えて用 い られ るのはこの よ うな経緯 か らくるもの と思われ る。 ここに中国の現代小説 における「破鏡難回」 の例文を一つ挙げておこ う。 `優妊子囃./'姐姐的涙又像断了綾的珍珠一様演落下末。`破鏡難園,濃水難収,' 早知今 日,悔
不営初。我咋還有瞼去迎接他嘱?(徐
慎 『櫻桃湾』) (“おばかさんね。"と
,お
ね えさんの涙 は糸に通 した真珠がまた切れた よ うに流れ 落ちた。“破鏡 は再 び円 くな り難 し,覆
水は盆 に返 らず。''こんなことになると知 って いた ら,最
初か ら止めておけばよか った。今更 どんな顔 を して彼の ことを迎 えに行 け るとい うの?)
さて
,半
欠の鏡が鵠 となって飛 んで行 くとい うくだ りであるが,
これは鵠が夫婦間 の愛情状態の伝達 をす る使者の役割を果た した と解 され よ う。半欠鏡 の鵠への変身 は, 鏡 によって愛情の有無が証 明され ることを物語 っている。半折鏡 は言わ ば夫婦の変わ らぬ愛情の証 となる大切 な品である。 この片われの鏡 が鵠 になって も う一方のほ うに 飛来 し,不
倫が発覚 したため妻が離縁 になった とは正に “破鏡"の
悲劇 といえよ う。 『神異経』 における “破鏡"は
結果的に肯定的役割を担わ されてお らず,悲
しい結末 に終わ っている。総 じて言 えば,“破鏡"の「重園」なるを期 したが結果 として「難園」 に終わ った と言 えよ う。『神異経』の “破鏡"は,皮
肉にも後世,“夫婦の離縁"も
し くは “離婚夫婦"の
意 に用い られ,今
日に至 ってもそのネガテ ィブな比喩の典型 とし て引用 され る。 次に,い
くつかの問題点 について論を進め よ う。 原文 に「鏡化鵠飛至夫前,其
夫乃知之」 とあるが,
もともと鵠 については夫婦や恋 人の間の橋渡 しをす るとい う,い
わゆ る「鵠橋相会」(喜鵠搭橋)(6)とぃ う漢代 の民間 伝説があった。鵠 の渡す橋 とは,陰
暦 の七夕の夜,牽
牛 に会 うため織女が天の川 を渡 るのに鵠がその翼 をつ らねて架 け渡す とい う橋の ことである。 ここには鵠 が男女間の 仲立 ちをす るとい うポジテ イブな役割が認め られ る。 それは 日本で も,い
わゆる “鵠 の橋''と して知 られ るものである。例 えば身近 な例 では大阪府枚方市の天野川 にかかる「かささぎ橋」が実際見 られ るが,
これ もこの七 夕伝説 に由来す るものである。 もともと「喜鵠登梅報佳音」 と言われ るよ うに,鵠
はめでたい知 らせを告げる縁起 の よい吉鳥 とされ,「鵠声」 は喜 びごとの前兆であるといわれ る。だが,『神異経』で は,鵠
が単 に妻の不義 を夫 に知 らせ る “伝書鳩"的
役割を担 ったのみで,
しか も吉報 をもた らさなかった。 『神異経』では,夫
婦が所持 していた鏡の紋様 は明 らかに していないが,後
の人が 鵠の図柄 の入 った鏡 を鋳造す るよ うになった とい う。現在見 られ る唐鏡 に鵠の図像が 鋳造 された所謂“鵠鏡"(7)が存在す るが,
この鵠 の鏡 には多 くの種類がある。 ここに代 表的な鏡例 として図1の 唆 鵠鴛喬鏡」,図
2の 唆 鵠卿綬飛龍葵花鏡」お よび図3の 「鵠邊花枝鏡」の三種類を挙げてお こ う。 この よ うな鏡の図柄 は,前
述 の七夕伝説や 説話の叙述 と関連があるもの と思われ る。今 日装飾 に用い られ る一対の「喜鵠」(カサ サギ)が
並 んだ図案は縁起 もので, 2羽
の鵠 は「雙喜字」即 ち「書」に通 じる。二重 の慶事を象徴 し,結
婚等の祝い事に用い られ る。唐鏡 に現れた双鵠図はつがいの鵠 を 表 してお り,
この種 の図柄の淵源の一つになった もの と思われ る。 つづいて,説
話の成立年代 にかかわ る問題点を指摘 してお こ う。 ここで注意 され る のは鏡が鵠 に変わ った とい うくだ りであ り,そ
して後世 において鏡 に鵠 を鋳造す るの はこれによ リスター トした,と い う点である。これについては説話が書かれた年代 と,いわゆ る “鵠鏡
"の
鋳造年代をめ ぐって時代上 出入 りがあ り,解
釈 においてい くつか の疑問点が提起で きる。以下にその年代 の可能性をめ ぐって少 しく述べてみたい。 まず,
この説話 においては,昔
話 として半折の鏡が鵠 となって飛 んでいった こと, そ して後世 の人が鏡 に鵠 の図像を背面 に鋳 るよ うになったのは この昔話 に由来す るこ とが述べ られている。古来 『神異経』の作者 は前漢の東方朔 とされてきたが,今
日で はそれは六朝時期の文人の作 とす るのが定説 になっている(3)。 しか し,こ こにい う鵠の 鏡類は今 日存在す る鏡 を見 る限 り六朝鏡 にはな く,図
柄 のはっき りした明確 な“鵠鏡" は,唐
鏡 の中にい くつか類例がある。元来,鵠
は燕雀 目の鳥 とされ るが,そ
の図像 に ついては前述の如 く,喜
鵠が綬を くわ え翼 を広げて飛翔す る図2お
よび,双
鵠 と鴛蕎 が鉦 を巡 る図10図
3の唐墓 出土鏡がある。 この よ うな鵠 を鏡背の主題のモチーフと した鏡 の出現は漢代や六朝時代ではな く,鸞,鳳
凰,鵜
鵜,鴛
鳶,孔
雀,雁 ,鶏
鵡, 鶴等めでたい とされ る鳥類の図柄 を主題 とした鏡類 と同様,早
くとも盛唐期 (七世紀 末∼八世紀中葉)を
待たな くてはな らない。比翼の鵠が くわ える “綬"(リ ボン)は
音 が “寿"に
通 じ,長
寿を表す。 この種の鏡 の流行 した時期 は今 日の出土資料か ら見 る と盛唐 か ら中唐 にかけてである。すでに述べたが,“鵠鏡"の鋳造 は七夕伝説や『神異 組』等の物語が背景 にあるのであって,鏡
の紋様 としては唐代 において初めて一つの 図柄 として結実 した もの と思われ る(9)。 従 って,“鵠鏡"が
唐代 の産物であるとすれば,
ここで考 えられ ることは, ①定説 に従 い,『神異経』の作 られたのが六朝時代だ として,
この説話 に述べ られた 「後人因鋳鏡篤鵠安背上」の “後人"が
後 の時代の人たち (即ち唐人)を
指す とい う 考 え方 を取 るなら,``鵠鏡"の製作年代 は一致す るが,作
者 は後世 ので きごとをあ らか じめ述べた ことになる。即 ち,話
が後世 の予測 ない し予言になる。 ② この「後人因鋳鏡篤鵠安背上」が実際の鏡作 りの作風や習俗 を現す ものであると すれば,“鵠鏡"の
実際の鋳造年代 か ら推 して,『神異経』の説話 の完成 した時期 は六 朝ではな く,そ
の後 の唐代 と考 えるのが 自然であろ う。つ ま り,六
朝時期 とされ るこ の説話の著述年代その ものが唐代 まで下 るとい うことである。 ③鏡の鵠図の鋳造説 明が六朝文人の空想であ り,そ
れが六朝時代 の実際の作鏡状況 とは全 く懸 け離れた一つの作 り話だ とすれば,後
の唐代の “鵠鏡"類
の鋳造 は この種 の六朝説話 (更に遡 って漢代 の七夕伝説)等
に基づいて行われた ことになろ う。 しか し,そ
れにしても,後
の人が “鵠鏡"を
鋳造す るよ うになったのはこの音話に よ り始 まった とい う “後人"を
め ぐる解釈 は難 しい。上記の うち① は解釈 に無理があ り,説
得力がない。筆者 は この うちの② の考 え方 を取 りたい。つ ま り,今
日見 られ る 唐代の “鵠鏡"の 製作状況か ら,『神異経』の説話の作者 は六朝人ではな く唐人であ り, また唐人 によって鏡背に鵠 の図柄が鋳 られ るよ うになった と読みたい。 『神異経』では,離
別 に当 り鏡 を破 って他 日の「再園」を期 したが,結
果 として破れた鏡 は「難 回」 とな った。 これ に対 し
,破
鏡 がめ でた く “重 回"し
た とい う説話 を 次 に取 り上 げ よ う。(2)『
楊 素』 ― 「破 鏡 重 回」 の喜悦 『神異経』の “破鏡"が皮 肉に も妻の不義を暴露す るとい うネガテ ィブなス トー リー であったのに対 して,“破鏡"が
ついに夫婦間のハ ッピー・エン ドをもた らした とい う ポジテ ィブな物語 を展開 したのが以下に見 る唐代伝奇『楊素』である。 これは成語『破 鏡重園』の典故になった と考 えられ る逸話であ り,そ
のス トー リーの全容 は次の如 く である。 陳太子舎人徐徳言之妻。後主叔賓之妹。 封榮 昌公主。才色冠絶。徳言篤太子舎人。方 属時乱。恐不相保。謂其妻 日。以君之才容。 國亡必入権豪之家。斯永絶臭。償情縁未断。 猶莫相見。宜有以信之。乃破一鏡。各執其半。 約 曰。他 日必以正月望賣於都市。我営在。即 以是 日訪之。及陳亡。其妻果入越公楊素之家。 寵要殊厚。徳言流離辛苦。僅能至京。遂以正 月望訪於都市。有蒼頭賣半鏡者。大高其債。 人皆笑之。徳言直引至其居。予食。具言其故。 出半鏡以合之。乃題詩 日。鏡興人倶去。鏡帰 人不帰。無復姑蛾影。空留明月輝。陳氏得詩。 沸泣不食。素知之。愴然改容。即召徳言。還 其妻。働厚遺之。聞者無不感嘆。傷興徳言陳図11.「破鏡重回」図 氏偕飲。令陳氏篤詩 曰。今 日何遷次。新官封奮官。笑喘倶不敢。方験作人難。遂 輿徳言帰江南。党以終老。 出本事詩 (『太平廣記』巻一六六 氣義一・ 楊素)(10) 南朝陳の太子侍従の徐徳言の妻 は
,陳
王朝最後 の君主陳叔宝の妹で,楽
昌公主に封 ぜ られ,才
色 ともに秀でていた。徐徳言は肺馬都尉 の官に任 じられたが,世
の中がま もな く戦乱に陥 ることを見て とって,そ
うなれば二人は恐 らく一緒 に居 られな くなる だろ うと思い,妻
に向かって,“君の才能 と美貌 か らす ると,国
が破れれば,必
ずや権 力者か富豪の家に (そばめ として)連
れて行かれ ることになるだろ う。そ うなれば, 二人の仲 は一生断たれて しま う。だが,
もし夫婦の縁がまだ切れていなければ,必
ず また会 お う。その時のために,何
かを (再会のための)証
としよ う./''と言 って,一
面の鏡 を割 り各 々半分ずつ持つ ことに した。 そ して,“ (万が一の時 には)今
度の正月十五 日 (“元宵節
")の
日に必ず街で この鏡 を売 りに出 して くれ。 もし私が生 きていた ら,そ
の 日に尋ねて行 くか ら"と
約束 した。やがて陳が (隋に)亡
ぼ されたあ と,二
人は離散 し,徐
徳言の妻 は果た して隋の越国公 になった楊素の元 に囲われ,至
極寵愛 を うけた。一方,徐
徳言 は苦労 と流浪の末,や
っとの思いで都 (長安)に
た どり着 く ことがで きた。そ して,正
月十五 日に鏡 を求めて街を訪れ ると,一
人の下僕が半欠の 鏡を売 っていたが,極
めて高い値段 を付けているので人 々か ら笑われていた。徐徳言 はその男をまっす ぐ自分の宿所 に連れて行 き,食
事を与 え詳細 にわけを話 したあ と, 自分の半欠鏡 を取 り出 して合わせ ると,思
わず鏡 の背 に “破鏡 の詩"を
一首書 きつけ た: “鏡 人 とともに去 り,鏡
帰れ ど人 帰 らず。復 び姑蛾 の影 はな く,空
しく明 月の輝 くを留むのみ。"徐徳言の妻 はその詩 を見て泣 き,悲
しみの余 り食事 も喉を通 ら なか った。楊素は事情を知 ると,哀
れ さに心打たれ,す
ぐに徐徳言を召 し出 して,そ
の妻を返 した上 に手厚い贈物 を した。 この ことを聞いた人で感動 しない者 は一人 もい なかった。楊素 は更に徐徳言 とその妻の再会を祝 って酒宴 を設 け,そ
の席で彼女に詩 を作 らせた。その詩 にい う: “今 日は何 の儀式 なるか,新
しき官の古 き官 と対面す る は。笑 うも泣 くもともに叶わず,人
として生 くることの難 きを知 る。"こ うして団彙の あ と,楽
昌公主は徐徳言 に従 って江南に戻 り,終
生共 に円満 に暮 らしたのである。 “破鏡"に
は上述 の『神異経』の「破鏡難園」の物語があったが,『神異経』の後 を 受けて作 られたのが,夫
婦の離散後,再
会 して最後 に二人の大団円 となった この『楊 素』の「破鏡重園」のス トー リーである。 だが,「破鏡重園」は実 に容易ではない。 この物語か らは不幸 な「破鏡難園」の紆余 曲折 を経 て「破鏡重回」へ至 った ことが読み取れ よ う。即ち,夫
婦が他 日の再会・ 団 円を約 して鏡 を三分 し,二
人の離散後,夫
が片われの鏡 を得 て妻の所在を知 ったが, すでに妻 は他人の女 となっていた。徐徳言の詩作「鏡興人倶去,鏡
掃人不帰,無
復姉 蛾影,空
留明月輝」 は,鏡
が手元 に戻 った ものの妻楽 昌の姿はな く,た
だ鏡だけが明 月の如 く空 しく輝いている,
と詠ず る。鏡 を月に喩 えているが,
これはその時点での “破鏡 の憂 い"と
解 され よ う。 もともと楽 昌公主が楊素 に囲われた ことは,表
面的 には他の男 と一緒 になった とい う展開であ り,
この点では『神異経』の「其妻興人通」 と変わ りがない。だが,
ここ で作者孟楽 は “牽牛織女"タ
イプの世 にも稀 なる相愛夫婦 による奇跡の ドラマを脳裏 に思い描いたのであろ う。 こうしてス トー リーを転換 させ,離
散夫婦の「難園」の憂 いを克服 して最後 に二人の喜びの団円を果た し,め
でた しめでた しの定番 に導 いたの である。 ここに “破鏡"の
本来の意味の “破鏡再 び合 う''とい う物語が完成 した。だ が,楊素(H)も ひとか どの人物であ り,その恩情の厚 さに楽 昌は胸打たれ涙 したに違 い ない。最後 の祝宴 における楽 昌公主の詩 は印象的である。“今 日は一体何た る巡 り合わせなので し ょう
,
この主人 と今 までの夫が顔 を合わせ るなんて。笑 うことも泣 くこと もで きず,人
間 として本当につ らい。"二足 のわ らじを履 いたわけではないのに, ここ には,そ
の身の振舞 い方 の苦 しさを訴 える女性の心境が吐露 されている。含みのある 表現ではあるが,説
話 『楊素』 には『神異経』の不義の妻 とは異 なる,常
に情を重 ん じ,ま
た義 を守 り通 した女性が描かれていると言 えよ う。 これが 『本事詩』の情感篇 に収録 された所以である。 ここに至 って今 日の成語 『破鏡重園』のルーツとその原義を うかが うことがで きよ う。夫婦の離別を予期 して,再
会のための証 として大切 な鏡 を二つに割 り,そ
の後, 心 ならず も離散 したあ と,果
た して この半折鏡を手がか りに約束 した方法 によ り相手 を捜 し当て,再
度の団円を成 し遂げたのである。一般に「破鏡不再照」,「破鏡難園」, 「破鏡子園不了」 とい う所謂 “覆水盆 に返 らず''といった比喩や論調が多い中で,あ
たか も覆水を盆 に戻す よ うな感動的展開はとりわけ際立 ってみ え,涙
をさそ う。 これ は仲睦 まじい夫婦の変わ らぬ愛情 と強い絆の存在 な しには成立 しえない。 これが作者 の論点であろ う。生 き別れた夫婦の心境が彦星織姫のそれ と重ね合わ されて,想
定 さ れた もの と思われ る。 一方,そ
こには前述の『神異経』 における「破鏡難園」 とい う “破鏡"の
失敗例が あったか らであ り,そ
の影響があった もの と思われ る。小稿文頭 に挙げた① ∼⑨ の多 数の用例か らも知 られ るよ うに,“破鏡"は離散夫婦 の意 に用い られているのであって, 離婚夫婦ではない。(この説話について,楽
昌公主が徐徳言 と離縁 した後,楊
素 と再婚 した と考 える向きもあろ うが,筆者 はその説を取 らない。鏡 を半折 して互いに持 ち合 っ た所期の 目的が,戦
乱の後 の再会・団円にあった と考 えられ るか らである。)今
日よく 使用 され る「破鏡重園」の句 を用 いた文例 は,そ
の出典が説話の「破一鏡,各
執其半」, 即ち別離 に際 して半欠鏡 を相互 に持ち合 うこの種 の逸話 に由来 していると言 えよ う。 そ してまた説話 に現れた このよ うな “破鏡"の
用法 は,更
に古 く遡 る伝承にその源流 があ り,そ
れが強固な基礎 と背景を成 していると思われ る。 “破鏡"の
本来の意味合いが ここに如実に現れてお り,そ
のルーツが明 らかになっ たが,再
度 まとめ るなら,「破鏡重園」(破鏡重ねて円 し)と
は破 った鏡がまた元 に復 す ること,つ
ま り再 び合わ さって円 く収 まることか ら,離
散 した夫婦が再 び巡 り会 い 又元通 り円満 になるとい う比喩である02)。 図 11の 夫婦仲睦 まじい「破鏡重園」図には,上
方 につがい と見 られ る比翼の鵠が描 かれているが,
これは『楊素』 と『神異経』の二篇の説話が題材 になっているのであ ろ う。絵 には「雙喜臨門」の寓意が込め られてお り,
これか らの二人の喜 びある日々 が暗示 されていよ う。 “破鏡''の用語 は歴代 の多数の文人によって詩文の作品の中に引用 されてきた。夫 婦の生 き別れの悲 しみに喩 えた用語 として,例
えば「破鏡之憂」,「榮 昌之鏡」等がある 。 ・ 持至肝胎
,不
幸箭穿駕手、刀中槍公,妾
有榮 昌破鏡之憂。(明・潟夢龍『古今小説』 巻二四) ・ 一旦事跡彰聞,恩
情間阻,則
架 昌之鏡,或
恐従此而遂分。(明・ 濯佑 『剪燈新話』 聯芳棲記) ・ 頗疑榮 昌之鏡,離
而復合。(清・ 紀吻 『閲微草堂筆記』如是我聞三) また,『楊素』に描かれた人間像を典故 として「破鏡重園」の熟語が夙 に作 られ,人
口に檜実 したのである。 ここに,離
散0離別夫婦 の再団円の物語を コンパ ク トに比喩 したその「破鏡重園」(或いは「破鏡重合」等)の
,文
人による使用例句をい くつか列 記 してお こ う。 ・ 鳳折鸞離恨韓深,此
生難負百年心。紅鬼若向隋朝見,破
鏡無因更重尋。(唐・羅虫Ц 『比紅兄詩』其五八) ・ 楊柳模頭歌舞地,長
記一枝繊弱。破鏡重園,玉
環猶在,鶏
鵡言如昨。(宋0周文誤 『念奴嬌』詞) 0破鏡重園,分
銀合釦,重
尋繍戸珠箔。(宋・ 李致遠 『碧牡丹』詞) ・ 破鏡重園人在否,章
壼折蓋青青柳。(宋・ 蘇戟 『蝶懸花』佳人0詞) ・ 破鏡重園 自古有,何
須疑慮反生愁。(元・ 施君美 『幽閏記』推就紅絲) ・ 夫妻雨個失散了五年 ……,却
有一件,破
鏡重園,離
而復合,固
是好事,這
美中有 不足虎。(明・ 凌濠初 『初刻拍案驚奇』巻二七・ 顧阿秀喜舎檀那物) ・ 若果如此,員
是姻縁不断。古末破鏡重園,銀
分再合,信
有其事了。(明・凌濠初『二 刻拍案驚奇』巻九) ・ 果然似榮 昌般破鏡重園,抵
多少配上瑣管,接
上氷絃。(明・買仲名 『封玉硫』第四 折) ・ 楽 昌破鏡重合,紅
排智眼無雙。(明・ 李贄 『焚書』紅排) 0雨世玉爺猶再合,何
時金鏡得重園。(明・ 濯佑 『剪燈新話』秋香亭記) ・ 破鏡重帰,盟
心不改,義
賓可嘉。(清・ 蒲松齢 『柳齋志異』細侯) ・ 破鏡重合,古
有其事。若夫再要而働元配,婦
再嫁而未失節,載
籍以来,未
之聞也。 (清・ 紀均 『閲微草堂筆記』巻二三藻陽績録五) ・ 如晦道 :就 是徐徳言,他
的妻子就是我家表妨榮 昌公主。無忌道 :峨,原
末就是破 鏡重園的,這
人篤甚慶不倣官,住
在家裏。(清・ 猪人獲 『隋唐演義』六六) ・ 除非化作頻伽去,破
鏡無端得再園。(清・ 魏子安 『花月痕』第四一回) ・ 試間古爽幾曾見破鏡能重園。(林覺民『興妻書』) 。他興太太的相見,好
像是破鏡重園似的,他
是快柴的,他
是悲哀的,他
是感激的, 他是痛苦的。(爺紅 『馬伯榮』第二章)ところで,『楊素』にある破鏡の鏡背の紋様 は どの よ うなものが想定 されたであろ う か。『神異経』に述べ られた鵠図であっただろ うか。それ とも月官図であったであろ う か。鏡 の図像 には説 き及 んでいないが
,作
者孟楽 は少 な くとも作詩 にあた って前漢時 代の「月宮姉蛾 (垣蛾)」 にまつわ る故事伝説を意識 したであろ う。 それはこの説話の 中に歌われた「無復姉蛾影,空
留明月輝」の詩作か ら うかがわれ る。月に居 る仙女婦 蛾の姿が見出せない とい う表現のなかに,妻
楽 昌のそばに居 ない心の空虚 と寂真 を詠 じているのである。 今 日見 られ る唐鏡 には月神姉蛾 をモチーフに した,い
わゆる月官鏡03)(図4)が
あ る。中央 に桂樹 を置 き,右
側に始蛾の舞 う姿 と噌蛛が跳ね る図案が描かれている。左 側には兎が仙薬を掲 いている。嫌蛾 は不死の仙薬を服 して月に逃げ,月 の精 となった。 この よ うな鏡 は,「姑蛾奔月」の月官 にまつわ る神話伝説お よびそれを背景 とした後世 の説話等 を ヒン トに月官鏡類が作 られ るよ うになった ものであろ う。『楊素』の場合, 「破鏡重回」の文字通 り,姉
蛾 に喩 えられた妻が再 び夫の元 に舞 い戻 ったのである。 今 日見 られ る月官鏡 としては,す
でに紹介 した図2の一対の鵠が月に向か って飛翔 す る「雙鵠月宮盤龍鏡」崚 鵠卿綬飛龍鏡)等が多数 出土 しているが,
この よ うな図像 は異 なる種類の題材が混在 し調和 した図柄 になっている(14)。 鵠 にまつわ る伝承 と月官 の伝説が ミックスして ここに一幅の絵模様が完成 し,唐
代 に鏡 のモチーフとして取 り 入れ られ定着 していった もの と考 えられ る。 『神異経』 と『楊素』の二篇の説話に登場す る半折鏡 は,結
末は別 として出発点は いずれ も夫婦再会 のための,二
人の真心の証 としての鏡であった。 しか しこのよ うな 夫婦 の愛情 を物語 る鏡であって も,そ
こには何か神秘的な要素が付随 しているよ うに 感 じられ る。 明 らかに,鏡
が通常 の化粧具以外の特殊 な用途 に用い られているのであ る。 次節では, この よ うな鏡の神秘的な霊性を強調 した文献説話 について簡単 に触れて おきたい。(3)神
霊 性 を帯 び た鏡 の 説 話 こ こで は,霊
性 や霊 力 の付随 す る鏡 に関す る説 話 につ いて,そ
の概略 を紹 介 してお きた い。 も とも と漢代頃 か ら鏡作 りの間で は鏡 は不思議 な霊力 を有す るもの としての呪術的 信仰的 な伝承 が あ った。 そ して,そ
れ をつ いで六 朝期 に葛洪 の『抱 朴 子』が著 され た。 『抱朴子』は道家 の書 であ り,そ こには神仙 の術 が説 かれ てお り,神
仙術 の修 行 に当 っ て鏡 が不可欠 で あ った ことが記 され てい る。 その中で鏡 の使用法 につ いて言 う: “一 つ はそれ は吉 凶禍福 を知 るのに鏡 を用 い ることで あ る。 明鏡 の径九寸以上 の ものを以 て 自ら照 らす と,七
日七 晩た って鏡 の中 に神仙 が現れ る。・……其 の神仙 が禍福吉 凶 を教 えて くれ るのである。・…… も う一つは
,そ
れは化 け物 を発見す るのに鏡 を用いる説 で,山
に入 ると種 々な老怪が居て,そ
れが よく人間に化 けて人を欺 くのである。そ こ で道士が山に入 る時は背後 に鏡 を懸 けて行 く,そ
うして狸 の よ うなものが出てきた場 合に鏡で照 らす と其の本体を現す とい うのである的 。」 以上 の よ うに鏡 と神仙信仰 とが密接 なかかわ りをもつ もの とされたが,そ
れは道家 や神仙家に よって鏡 の神霊性や呪術性が強調 された結果であった。道教徒や呪術者の 間では神仙術修得の用具 として鏡が用 い られ,ま
た道士たちの入山には呪術的護身具 として鏡 は必要欠 くべか らぎるもの とされた。鏡 には妖怪変化 を退 ける力があ り,邪
気を払 う効用があると考 えられたか らである。 この六朝時期 に呪術的な力を有す る鏡 の観念が形成 され るに伴 って,様
々な霊威 を有す る鏡 の伝承が生れでた と考 えられ る(16)。 そ して隋 もしくは唐代 に入 ってか ら,そ
れ までの鏡 に付随す る霊威の種 々の伝承を 集大成 した説話が現れた。 それが伝奇小説 『古鏡記』(『太平廣記』巻二三〇0王度) である。『古鏡記』の内容は前半 と後半 に分かれ るが,そ
のス トー リーを略述す ると, 隋の王度が思いがけな くも神秘的 な一面の古鏡 を手 に入れたが,
この鏡 は「持此則百 邪遠人」(此を持すれば,則
ち百邪人 よ り遠 ざかる)とい う霊威 を具 えた,十
二支八卦 紋の′lまれた神鏡であ り,王
度が,つ
づいてその弟の王動が この鏡 で以て様 々な妖怪 変化の正体を照 らし出 し退治す る,云
々である。なお,こ
の神鏡 の図像について,「鏡 横径八寸,鼻
作麒麟躊伏之象。遠鼻列四方,亀
龍鳳虎,依
方陳布。四方外又設八卦, 卦外置十二辰位而具畜焉。辰畜之外,又
置二十四字,周
邊輪廓。」 と記述 されている。 もともと八卦鏡類 は,八
世紀中葉か ら十世紀初頭の中・ 晩唐期 に流行 した ものである が,第
四節で紹介す る副葬半折鏡 (図5)に
は十二支八卦紋が鋳造 されてお り,そ
の 墓葬年代 は隋か ら初唐 にかけての もの とされている。 この時期の もの としては極めて 珍 しいが,『古鏡記』の成立時期 ともかかわ って興味深い鏡ではある。 邪気 を遠 ざける云 々の文句が刻 まれた鏡 は今 日多 々見 られ るが,手
近 な例では,手
元の方形銅鏡(17)に小象で「五嶽員形鏡之固」として次の如 く楷書の銘文が刻 まれてい る。(鋳出された文字 には略字が用 いられた箇所がある) 所謂五嶽者,泰
山衡嶽嵩嶽華嶽恒嶽也。西王母使鏡工纂之。持此鏡者,渉
海 川,河
伯守衛之,無
毒魚災 :越 山岳,山
神保護之,元
悪獣害,一
切妖邪魁極怖無 敢近也。(句読点は筆者) つ づ いて銘文 の末尾 に「 委道蔵経記 圃」 とあ る。 五 山 とは中国の名 山の総称 で,伝
説 で は神 々の居 る神 山で あ り,歴
代 の皇 帝 が祭祀 を執 り行 った場所 であ る。銘文 には鏡 の霊 力が説 かれ てお り,
これ を持 てばあ らゆ る妖怪変化が恐れをなして近寄 って こない とい う。 この種の銘文鏡 は一種の魔除けやお 守 りであ り,『古鏡記』の鏡 の如 く除災・ 辟邪の効用があるとされたのであろ う(18)。 唐代 には このほかに鏡 にまつわ るさまざまの不思議 な話が
,例
えば『太平廣記』や 『太平御覧』に数多 く収録 されている。鏡には人 々の思い及ばない神秘的な霊力がそ なわ っていると考 えられていた よ うである。 鏡 は死後 の世界 において も重要 な役割 をはたす もの として説話 のなかで語 られてい る。冥界 と深 くかかわ るの も霊器 としての鏡であろ う,そ
れにまつわ る説話 もい くつ か見 られ る。例 えば「慮彦緒」(19)(『太平廣記』巻二七九)に
は副葬品 として鏡が用い られてお り,
ここには死者 の彼世 における生活が示唆 されているのであろ う。 ところで,
この よ うな説話に現れた不思議 な鏡,即
ち霊力を有す る鏡 は当時の人 々 か ら現実に存在す ると考 えられたのであろ うか。説話 に反映 された古代伝承 における 鏡の実像 は今 日どのよ うな形 で,
どの程度 まで知 りうるのだろ うか。 そ こで,
このよ うな神霊性を帯 びるとされた鏡が,実
際 に習俗 として どの よ うに使 用 されたのか等の問題 を考 えるために,
ここで,視
点を移 し,墳
墓 の中に副葬 された 鏡 の様子を検討 してみ ることに したい。三
.鏡
の副葬状態
上記 の説話 にみ る霊力を有す る鏡が,実
際の習俗 として どの よ うな形で現れて くる のか,
ここでは古墓 におけ る鏡 の副葬状態 を検討す ることに よってその痕跡 を うか が ってみ よ う。 鏡 は死後 の世界,即
ち墳墓の中にまで持ち込 まれた。今 日,我
々は墓葬において鏡 が実際に副葬 されている現象を見 るわ けであるが,そ
こには当時の人 々の他界観が反 映 されていると見 ることもで きよ う。 鏡 は各時代 と各地域 において,通
常 は実用的化粧具 として使われ,ま
た時に霊性の 付随す るもの として特殊 な用途 に用い られ,異
なる扱われ方を以て展開 してきたふ し がある。 ここでは隋唐時代 の鏡 の副葬状態 と,そ
れ以前の鏡 の副葬状況に分けて,簡
単に整理 してお こ う。(1)隋
唐 以前 に お ける鏡 の副葬状 態 隋唐以前の鏡の副葬状態 については,杉
本憲司 0菅 谷文則両氏の研究があ り(20),そ の中で中国歴代の墓葬 における鏡の副葬状態 について報告 を行 っている。そ こでは, 古墓 における鏡の出土状況を時期的に主 として漢代末 (或いは六朝期)ま
でを広 く概 観 し,同
時 に若干の地域的考察 も併せ行 っている。それによると,い
くつかの地方差 が認め られ るものの,副
葬明器 としての鏡 は単 なる化粧具 としての性格を持つのみでな く
,棺
内の遺体 に接 して置 かれ て い る よ うに,特
に霊器的 ともい える頭蓋上 に置 い た り胸上 に置 く例 が意外 に多 い とし,鏡
が死者 の守護 をす る霊器 として意識 され てい た らしい ことを認 め てい る。(2)隋
唐 時代 に お ける鏡 の副葬状 態 つづ く隋唐時代 について,筆
者 は この時代 における鏡 の副葬状態 を,中
国の発掘資 料の うち墳墓 における鏡 の出土状況の詳細な報告 のある資料 に基づいて,整
理検討 し た。実際には,被
葬者 に鏡 の全 く伴わ ない墓葬や,一
面のみな らず複数の鏡が副葬 さ れた状況等 さまざまのケースがある。 また,鏡
は副葬品の中では陶盗器 に次 いで多 く 見 られ るものである。 現有資料だけでは十分ではないので,性
急 に結論 を下す ことはで きないが,少
な く ともこれによって隋唐墓 における鏡の副葬のあ り方の一斑 をみ ることは出来 よ う。以 下に,整
理 したデータの要点だけを述べ ることにす る。 前時代 と同様,隋
唐代 においても地域差がやは り認め られ るが,鏡
の具体的出土位 置について見 ると,棺
内か ら出土す る鏡が大多数 を占めてお り,そ
の うち頭部に置 か れた ものは7害」以上 に達す る(21)。 これは頭部近辺 に置かれた ケースを含むが,数
の上 では頭側 に置かれた ものが多 く,頭
頂 は少ない。頭部以外では足元,腰
部・ 手元 な ど があ り,胸
背部に置 く例 は極めて少 ない。 この点 については前時代 と異 なるよ うであ る。 鏡周辺の副葬状態を見 ると,大
抵の墳墓が鏡 の周囲に他の遺物 を伴 っているのが見 られ る。全 く何 も伴わず に鏡 のみが被葬者の頭部・ 腰部・ 足部 に接 して置かれた例 も あ り,
これ らについては,或
いは特別 な副葬のあ り方であったか も知れない。 また,鏡
の周辺 に遺物 を伴出す る例 を見 ると,一
般 に被葬者が生前 日常用いていた と見 られ る銅器,陶
盗器,金
銀器,鉄
器,漆
器,玉
器,硝
子製品類 などが共 に副葬 さ れている(陶製品の中には数 は少ないが模型の副葬 明器が含 まれ る)。 また墓 内に銅銭 が散布 されていることが多 く,鏡
に伴 って隋五鉄銭や開元通宝銭が出土 している。 ま た,副
葬 された鏡が漆合子内に入れ られた ものもよく見 られ る上,他
の銅器,盗
器, 銀器そ して銅銭な どと重 なって出た もの,或
いは床織物 に包 まれ他 の遺品 と重 なった 状態で出土 した例や,更
に頭箱 に収め られた鏡 もある。 前述の如 く,隋
唐 の副葬鏡 は棺 内か ら出土す るものが多いが,
しか しなが ら棺 内に 副葬 された ものであっても,他
の実用的身の回 り品や化粧具 との共伴関係が強い こと 等か ら,隋
唐代 においては化粧具の一つ として埋納 された鏡が多 いよ うに思われ る。 鏡が人間の守護をす るとい う考 え方の伝統の中で,ま た,鏡
の銘文や図紋 と相侯 って, 時には一種の魔除け的護身的役割をにな う,霊
威的・ 呪術的性格を帯 びた よ うな副葬 の仕方 も認め られ,特
に周辺 に全 く他の遺物 を伴わず鏡 のみが被葬者 の頭部 な どに置かれた場合 には
,或
いはそのよ うな特殊 な扱 いを受けた可能性 も考 えられ よ う。だが, 実際にはその手の扱 いを受 けた と思われ る鏡 の数 は極めて少 ない よ うである。現実に 護符的 な霊器 として扱われた鏡 か否か不明であ り,断
定 は困難 と言 うべ きであろ う。 以上 は鏡 の副葬状態 について,隋
唐以前の状況 と隋唐時代の様相 を,中
国の出土資 料等 に基づいてまとめた ものであるが,次
節においては,特
殊 な扱 いを受けた と見 ら れ る鏡 の うち,前
節で述べた「破鏡重園」の伝承 にかかわ る半折鏡 の副葬状態を時代 順 に したが って検討 し,
これによって “破鏡"が
古代人によって神秘的な力を もって いるとされ,ま
た一つの習俗 として考 えられたのか ど うか,そ
の様相を うかが うこと に したい。四。半折鏡の習俗
ここでは呪術的霊威 を有す ると考 えられた鏡の うち,“破鏡"の習俗の一つの表れ と み られ る半折鏡の副葬状況を,漢
代,六
朝,隋
唐 の時代順 に従 ってその実例 をやや詳 しく検討 してみたい。(1)漢
代 の半折 鏡 ここでは河南省洛陽の焼清で発掘 された225基の漢墓 の中の一基か ら出土 した半折 鏡 を紹介す る。報告 によると,そ
の墓 は乱掘や盗掘 な どの攪乱 には遭 っていない。 焼溝漢墓 は洛陽市の西北約 1.5キ ロの地点にあ り,半折鏡が出土 したのは38号AB
墓 (図6)で
ある。墓 は図にみ るよ うに特殊 な構造であ り,一
墓道 の両側 に二室を築 いた もので,南
側 の薄室(A室 )と
北側の小型土療分室(B室
)か
らなってお り,碑
室のは うには耳室が付 いている。A室
の被葬者 は伸晨葬で,頭
を北 に向けている。B
室 はA室
に付随す る分室であるが,そ
の被葬者 も伸展葬で頭 は南向 きである。 この墓式 は “同穴異室葬"と
呼ばれ,A室
は双棺, B室
は単棺 になってお り,A室
の左棺 とB室
単棺 の被葬者頭側 には,図
にみ るよ うに各 々半折の鏡 を置いていた。 こ れは一枚 の鏡 を二つに割 ってそれぞれに置いた ものであ り,夫
婦合葬であった ことが 示唆 され よ う。A室
には別 にも う一棺 が合葬 されているが,三
者 の関係は明 らかでは ない。三棺が同時期 に埋葬 されたのか或 いは改葬後合葬 されたのか,い
ずれ も明 らか ではないが,報
告では家族葬 とされている。 副葬品は明器 としての陶器が罐2点
,壷
5点
,甕
1点,倉
5点
,鼎
1点,敦
1点, 竃1点,井
1点,燎
1点,洗
1点と,ほ
かに銅鏡2点
,鉄
刀1点,五
鉄銭20枚,新
銭8枚
が出土 している。Aと
Bの
二つの棺 内に各 々鏡 の半分の “破鏡"を
置 いたわけであるが,
この破れた 二片の鏡 を合わせ ると一面の鏡 になる。 この “同穴異室"の
特異 な埋葬 において,両
室の棺 内に分 けて半欠の鏡が置かれた ことは注 目され よ う。 この半折鏡 (図
7)は
直径 15セ ンチの「方格規矩四神鏡 (四神規矩鏡)」 であ り, 図柄 には青龍,自
虎,朱
雀,玄
武,羽
人などが配 され,銘
文 はない。古代の鏡 におい ては,霊
獣 と神仙の図像が入れ られた鏡 には最 も呪力があるとされ,そ
の霊獣 と神仙 が悪霊を追 い払 うと信 じられていた よ うである。 また,A室
の棺外に置かれた と考 えられ る1面は直径 11.5セ ンチの「囃紋鏡」(図8)で
,図
紋 には二匹の兎 と数羽の鳥が見 られ るが,銘
文 はない。 この焼溝漢墓群 の副葬の鏡 は大抵頭部 に置かれ ることが多いが,棺
内の鏡 はおおか た絹布で包むか又は鏡嚢 に入れ られた よ うである。A室
の棺外の棺 のそばに置かれた 鏡 は漆査 に入れ られた ものであった。 この墓葬の年代 については,墓
形 および陶器,銅
鏡,銭
貨 な どの型式 か ら,新
の王 芥時代 か ら後漢初 までの時期 に比定 されている。 また,被
葬者 は漢代の一般官吏 とそ の家族 とされ る。 王芥 か ら後漢初期 にかけての半折鏡が出土 した ことは,上
にみた 『神異経』の「昔 有夫婦搭別,破
鏡,人
執半以篤信」の伝説や 『楊素』の「破鏡重園」式の伝承が さら に早 い時期 に,恐
らく前漢 まで遡 って存在 していた ことを物語 っている。 被葬者たちの関係 は不 明であるが,半
折鏡 の置かれた二人は恐 らく夫婦である可能 性が高い。それは「破鏡重園」の伝説 に則 って半折鏡が副葬 された もの と思われ る。 鏡 のもつ霊性 と相侯 って, この “破鏡"を
持 っていればいつの 日か又円 く一つにな り 共 に暮 らせ るだろ うとい う思いが込め られた もの と思われ る。(2)六
朝期 の半折鏡 四川省昭化県の屋基披 にある六朝期の20基
の崖墓 の一つに,陶製 の一つの鏡 を三分 して二つ並 んだ墓室のそれぞれに入れた,“破鏡"の副葬例が見 られ る。半折鏡が入れ られた この19・20号墓 (図9)は
盗掘 に遭 ってお らず,ほ
ぼ原形 のまま今 日に残 され た と思われ る。この20基の崖墓 はいずれ も埋葬時 に棺 を用 いず,こ の よ うな葬法 はそ の当時の四川一帯の風習であった とされ る。19・20号の両墓 には棺床す ら使用 されて いない。 図に見 るよ うに,二
つ並 んだ崖墓 の両入 日の接点部 には陶甑 と陶罐が各1点置かれ た。右側19号墓か らの出土遺物 としては,陶
甑,陶
鉢,半
円形陶鏡,鉄
鋏,鉄
小刀, 盗壷各1点と盗碗6点
の合計12点である。左側20号墓 か らは,陶
甑,陶
鉢,陶
壷, 陶罐,半
円形陶鏡,鉄
小刀各1点および盗碗2点
の合計8点
が出土 した。両者 とも銭 貨 は伴出 していない。副葬品の種類 は両者 はぼ同様であるといえよ う。墓室 は非常 に 狭小であるため副葬品はすべて被葬者の身近 に置かれた形 となっている。 出土 した二つの半 円形 の陶鏡 はそれぞれ大 きさが同 じで,合わせ ると直径 21.2セ ンチの円形鏡 になる。 いずれ も頭部際に置かれた もの と思われ る。棺 は使われなかった ので鏡 は他 の副葬品 と並 んで置 かれた状態 となっている。半折鏡 の副葬 か ら
,
この崖 墓 は恐 らく夫婦合葬であった と思われ るが,副
葬品の種類がほぼ同 じであるため,そ
の配置か らは どち らが男女の墓室か特定 は難 しい。(報告書では人骨 について記述 され ていない。)いずれにせ よ,両
室 に分けて相互 に半欠の鏡を頭部付近 に置いた副葬 の仕 方 は注 目されてよい。 も う一点注意 され るのは鏡が銅製品ではな く,陶
製品であることである。古代 の中 国では副葬 明器を作 って埋葬す る風習があったが,鏡
について も,
これ まで銅鏡以外 に鉄鏡や石鏡,陶
鏡 などが発見 されている。 屋基披 の20基
の崖墓の うち4号
墓 と8号
墓 には銅製 の鏡が副葬 されてお り,一面 は 直径 10.2セ ンチの「八乳規矩鏡」であ り,
も う一面 は直径 11.5セ ンチの「長宜子孫 鏡」である。 本来 な ら19020号墓 にも銅鏡 が副葬 され るべ きものであるが,
ここには代用品の陶 鏡が入れ られた。 その理 由 としては被葬者の身分や経済的な要因 も考 えられ よ うが, もともと死者が地中で生前 と同 じよ うな生活 をす ると信 じられていたので,何
で も模 型 にして持 ち込む とい う副葬明器の風習か らすれば,な
ん ら不思議 はない。 この陶製 の半折鏡 は明 らかに化粧具 としてではな く,む
しろ霊器的性格を有す るもの として用 い られた と言 えよ う。陶製品を用いてまで互 いに半欠鏡 を墓室 内に持ち合 った被葬者 たちの心情が伝わ って くるよ うである。 この陶製の半欠鏡 は恐 らく被葬者 (夫婦)の
来世での「重園」を意図 した ものであ り,
しばしの別れ として鏡片 を持たせ,あ
の世での団円を祈願 したに相違 ない。 ここ には現世 と来世 とが連続 した ものであるとい う捉 え方が反映 されているもの と言 えよ う。(3)隋
唐 期 の半折鏡 広西壮族 自治区の南部 に位置す る欽州県久隆で発掘整理 された7基
の隋唐墓 の1基
か ら,半
折の銅鏡 をそれぞれ副葬 した双室の夫婦合葬墓(M5号
(22))がみつかった。 墓式は地方的色彩 の強 い碑室墓であ り,隋
か ら初唐期 にかけての寧氏一族 の墓 である とされている。墓誌 と史書 (『唐書』南轡博等)の
記載 によると,寧
氏は南朝後期 よ り 隋唐代 にかけて嶺南地域で最大の勢力を誇 った地方豪族 の一つであった よ うである。 報告書の説明お よび出土平面図(図10)に
よると,陶
孟,陶
罐,青
盗碗 な ど副葬品 の多 くが墓室前部 に集中 してお り,墓
室後部 には棺 と身の回 り用品が置かれた。右室 (北室)棺
内には直径 23.4セ ンチの「十二支八卦鏡 (十二生 肖鏡)」 (図5)の
半欠 と 隋五鉄銭5枚
がおかれ,更
に棺の東側 には鉄鍋 と塔形 の陶孟が,西
側 には陶罐 と青盗 杯が副葬 されている。左室 (南室)棺
内には この「十二支八卦鏡」の も う一方の半欠と金髪銀が置かれ
,更
に青盗碗および鉄剣,鉄
刀等が納め られた。遺品の分布状況か らみて右室 は女性墓室であ り,左
室 は男性墓室であると考 えられ よ う。(人骨 について の出土報告 はない。)両室に分けて互いに半折の鏡 を頭部近 くにおいていた もの と思わ れ る。報告では左室の鏡面が上向きで,右
室の鏡面 は下向きであった としているが, その理 由は不 明である。(或いは地震等の攪乱 によ り動いた可能性 もあろ う。) この よ うな夫婦合葬 における “破鏡"の
副葬法 は,前
述 の如 く既 に漢墓や六朝墓 に おいて も行われていた と思われ るものである。互 いに鏡片を棺 内に持 ちあ うこの例 は, やは り来世 における夫婦の再会 と “重縁"を
願 った ものであろ うと考 えられ る。 報告 によると,
この半折 の鏡 は鋳上が りが良 く,今
も鏡面が光 り物 を写す ことがで きる鋳造工芸技術の高い逸品であるとい う。 副葬 された銅鏡の内区には雲紋,八
卦紋お よび獅虎等の獣紋が飾 られ,
また外区に は十二支紋があ り,鏡
縁の銘帯には楷書で下記の48文字か らなる銘文が入 っている。 淮南起照,仁
壽博名,琢
玉斯表,鉛
金勒成,時
雄炎晉,節
茂朱明,援
填豊激, 用擬流清,光
無影満,葉
不枯榮,固
回覧質,千
載篤貞。 銘文中に文字が欠落 し,難
解 な箇所があるが,お
およその ところ次の よ うな意であ ろ う。 この鏡 は淮南地方で出来上がった もので隋の仁寿年間 (601∼604年)に
その名を知 られ るよ うになった。玉石を彫刻 し,金
属を溶か して鋳造 したあ と彫 り上 げた もので ある。 あたか も太陽の燃 る熱い時に,型
を用いてその精度を鑑定 し清水の始 く澄 んで いるかを看 る。(鏡の光沢 は均質で)光
は陰 ることな く満ち,(浮
彫 りの)枝
葉 は枯れ ることな く繁茂 している。 その形や質を見 るに,
この鏡 は必ずや永久に変わ ることな く保持で きるであろ う。 「十二支八卦鏡」 といえば第二節に見た 『古鏡記』の径八寸の神鏡があったが,そ
の十二支八卦紋 および鏡の大 きさには共通性があろ う。隋か ら初唐 にかけての鏡 に八 卦紋が鋳込 まれた もの として,
これは稀 な一面である。 また,唐
鏡 には一般 に銘文が 刻 まれた ものは極めて少ないが,中
国では古来,鏡
に刻 まれた銘文や図像 は鏡の霊性 と密接 なかかわ りを持つ とされてきた。 この鏡 の紋様 には吉祥 と辟邪の寓意が認め ら れ よ う。 この隋 ∼初唐期の夫婦合葬墓 に半折鏡が副葬 された ことは,「破鏡重回」の伝説が絶 えることな く伝承 され,依然 としてその風習が存続 していた ことを表 している。“破鏡" の副葬法 は,以
上に見てきた よ うに漢墓 か ら六朝墓そ して隋唐墓へ と引 き継がれたわ けであるが,男
女両室 に分けて互いに半欠の鏡 を頭部 に置 いた この副葬の仕方 は,第
二節でみた「昔有夫婦特別,破
鏡,人
執半以篤信」の伝承 と密接 に関わ るものであろうと推測 され る。互 いに鏡片を墓室 (或いは棺
)内
に持ちあ うこの使用例 は,や
は り 夫婦両者の来世 における再会や “重縁"を
願 った ものであろ うと考 えられ よ う。 「破鏡 (重回)」 の淵源 ないしルーツは,夫
婦の別離 に際 し半欠の鏡 を互いに所持す るとい う伝承 にあ り,後
にそれが物語化 し説話 として登場 して くるのであるが,そ
の 実例 の一つが今 日この よ うな墓中の半折鏡 の副葬習俗 として確認 され るのである。 古来,鏡
は棺 内の頭部付近 に置かれ ることが多 く,時
には霊器的護符的 な副葬例 も 指摘で きるよ うであるが,唐
代 に至 って化粧具 としての副葬鏡が数多 く確認 され るな か,来
世 の「破鏡重園」を願 った と考 えられ る半折鏡 の副葬 は,中
で も確 かに特別 な 意味を有す る,最
も特異 な使用法 として捉 えることがで きよ う。神秘的 な霊力を有す ると考 えられた鏡 の うち, この半折鏡 の用途 は単 なる魔除 けや守護の性格のみではな く,そ
れは夫婦の変わ らぬ愛情 の確認のための,
よ り明確 な性格を有す る鏡 として意 識 された もの と思われ る。五。
まとめ にか えて
今 日よ く使用 され る “破鏡''の言葉の淵源 は中国古代 (恐らく漢代頃か ら)の
民間 伝承にあると考 えられ るが,そ
の伝承が説話 として結実 した ものが 『神異経』の「破 鏡難園」のネガテ ィブな物語 と『楊素』の「破鏡重回」のポジテ ィブな逸話であった といえよ う。前者 は割 った鏡が原因でそのまま別れ ることになった悲劇の物語であ り, 後者 は逆 に半折鏡が縁 となって再 び巡 り会い大団円を果た したス トー リーである。 この対照的 な二篇 の作品か ら知 られ ることは,“破鏡"とは夫婦 の愛情 と信頼の しる しであ り,当
初か ら “鏡の復元"す
なわち “夫婦の再会"を
意図 した もので,鏡
を破 る目的は再度の円満が前提 となっている。だが,両
者 の “破鏡"の
意 は結果において 異な り,前
者 は破局 とい う意味で夫婦 の離縁離婚 に喩 えられ,後
者 は離散離別 した夫 婦(の団円)を
指す ものであった。失敗 した場合は「破鏡難園」であ り,成
功 した ケー スが「破鏡重園」 となる。 説話の完成 した時代的順序 としては,(第
二節において『神異維』の成立年代 を,鵠
鏡の鋳造年代か ら,唐
代 に比定す る考 え方を提 出 したが,)「破鏡重回」を約 して結果 的に「難回」に終わ る『神異組』の故事伝説の後 を承けて,逆
に「破鏡難園」の試練 を経 てハ ッピー・ エ ン ドの「重園」に至 る『楊素』の唐代伝奇小説が作 られた もの と 思われ る。 「破鏡重園」の用法 としては,小
稿のはじめに列記 した①∼⑨の今 日の常用例から も知 られるように,い
ずれ も事情により離散 した夫婦の間の再会・ 団円を比喩 したも のである。今 日の使用例の中には,時
に「破鏡重回」を “一度離縁・離婚 した夫婦の 復縁・再婚"や
,或
いは “仲違いした夫婦が元の輸へ収まる"と
い う意味に喩 えて用いるケースがあるが
,そ
れは本来的に正 しい使い方ではない。それは『神異経』の結 果的に夫婦仲が壊れて離縁 した夫婦 と,『楊素』の心 ならず も離散 した夫婦 の両者の用 法をそのまま混同 して取 り込んだための “誤用"と すべ きであろ う(23)。 「破鏡(重回)」 の正 しい解釈 としては,文
字通 り “破鏡再 円"を
実現 した『楊素』 の (離縁 した夫婦 ではな く)離
散 した夫婦 または別離の夫婦の団円 と解すべ きである。『楊素』の作者孟 果 は唐代伝奇『人面桃花』(『太平廣記』巻二七四「崖護」)で
知 られ るが,“破鏡"団
円の 物語 は,即
ち “桃花"再
生のハ ッピー ●エン ドと共通 した手法が用い られているもの と思われ る。 鏡の半片 を互いに持ち合 うその意味あいは意外 に重 く,そ
れは夫婦 の変わ らぬ愛情 の証であ り二人の再会 と団円を強 く願 うものである。 その “破鏡"の
伝説が現実の生 活の中に反映 した ものが,古
墓 に見 られ る半折鏡 の副葬状態であった。墓域 における “破鏡"の使用例は,「破鏡重園」の伝説が実際の習俗 として存在 していた ことを明確 に示 している。その伝説 と習俗が古代人に重要視 され伝承 された ことは,漢
六朝隋唐 の数百年 にまたが る副葬半折鏡の出土例 を見 ることか ら窺われ よ う。鏡の化粧具的扱 いが一層鮮明になる隋唐代 に至 って も,半
折鏡 の実例が存在 し,そ
の風習が連綿 とし てつづいた痕跡 をここに うかが うことがで きるのである。現在 の ところ明確 な出土例 の数 は少 ないが,“破鏡"の分布 は時代的に も又地域的にも大 きな広が りを もっている ようである。(唐以後の “破鏡"の 伝承 とその習俗 の実態調査 については今後 の課題で ある。) 副葬半折鏡 は来世での再会 を願 う夫婦の大切 な証であった。夫婦合葬 における半折 鏡 は,そ
の「破鏡重園」の願 いは現世での実現はすでにかなわず,来
世 においてのみ 可能であ り,従
ってあの世 での「重回」(重縁)に
その思いを託 した もの と言 えよ う。 「破鏡(重園)」 の伝承にのっとり,
この鏡片を所持すればあの世で も必ずやまた一緒 になれ るとい う思いが強 く込め られた もの と解 され るのである。 この意味で “破鏡" は古代人に とってやは り何 らかの神秘的霊性の付随 した もの として受けとめ られた も の と思われ る。 現時点での資料は十分ではないが,
これまでに検討 した故事伝説 ならびに副葬習俗 の一斑 か らみ ると,“破鏡"と は即 ち離散離別 した夫婦,ま
た時には死別 した夫婦 を指 す言葉 であ り,重
円=再
会であって,更
には来世 における “重縁"で
あると解 され よ う。鏡 を半折 して互 いの再会 の証 とす る伝承 は,墓
室内の “破鏡"が
同様 に来世 にお ける再会・重縁 を祈願す る意味をもつ ものであろ うことを示唆 していると考 えられ る。 この よ うな半折鏡 に対す る意識は,例
えば唐代の “鵠鏡"の図像 ともかかわ りがあ り, 鵠が橋渡 しの役 を務め るその伝承 とも繋が るものがあろ う。唐代 においては花鳥鏡類 の中に この鵠が多数鋳 出されてお り,鵠
にまつわ る伝説が当時広 く流伝 していた もの と思われ る。生 き別れた夫婦の鏡 の話 か ら