小樽高南軍教事件 ( 上)
目 次
はじめに 1 情勢
2 小樽高商社会科学研 究会 3 小樽高南軍教事件
第一段階 第二段階 4 学生へ の弾圧 おわ りに
倉 田 稔
(以上,本稿) (以下,次塙)
は じめに
これは,小樽高等商業学校 (現 ・小樽商科大学の前身,以下,小樽高商 と略す) で起 きた,有名 な軍事教錬事件 (以下,軍教事件 と略す) について,述べ るも のである。 この事件 は,学内的には二つの段 階か らなることが分かる。
この時,小林多喜二1)は,小樽 で北海道拓殖銀行 の行員であった。結論的に 言 うと,小林多喜二 はこの軍教事件 に十分 には関与 していない ように見 える。
1)本稿は,小林多喜二伝記,第12,にもあたる。
〔29〕
1 情 勢
1921(大正10)年11月 に, ワシン トン会議が始 まった。第 1次大戦2)直後 の 軍縮会議である。この年 は,小林多喜二が小樽高商 に入学 した年であ る。翌1922
(大正11)年 には,軍縮 は世界的風潮 となった。 ワシン トン会議 で決め られた 条約 は2月に調印 され,それ を実行す るため,日本 は,戦艦 の廃棄 な どと並 んで, 海軍軍人では,将兵7500人,職工 1万4千人が整理 され ることになった。陸軍 で も全二一個師団の うち四個師団を解消す ることになって,兵 5万3千人,翠 馬 1万 3千頭が減 らされた。
1923(大正12)年 5月10日には, 「早大軍事研 究 団」事件が勃発 した。 この 日は発団式 だったが,学内の大衆 によってつぶ された ものである。また1924(大 正13)年1月5日,‑朝鮮人が宮城二重橋 に爆弾 を投 じた。その直前,1923年12 月に,虎 ノ門事件 が起 き, これで, 山本3) (第2次)内閣が総辞職 し,清浦4)
内閣がで きた。 この頃,普選 (普通選挙)運動 と護憲運動が さかんであった。
それに,前述 の軍縮論が盛 んになった。1924年 (大正13年)6月に,加藤高明5)
内閣が成立 した。護憲三派連合 の加藤 内閣は,行財政の整理 を重要 な政策 とし て掲 げた。財政整理委員会 は,陸軍の四個 師団の削減 を提案 した。加藤 内閣は, 陸軍 に3千万 円以上,海軍 に5千万 円以上 の経費削減 を要求 した。宇垣一成6)
は,清浦内閣で陸軍大 臣であったが,加藤 内閣で もひ き続 いて陸軍大 臣であっ た。すでに1923(大正12)年 に,彼 は,「陸軍改革私案」 を作 った。
2)テイラー 『第 1次世界大戦』新評論。
3)山本権兵衛 (1852‑1933)海軍の長老。薩摩藩出。1913年から14年にかけて第一次 山本内閣を組閣。第二次内閣の時は,関東大震災が起きる。
4)清浦杢吾。官僚。首相になった時は老人だった。
5)加藤 (1860‑1926)。三菱の政治家。憲政会。
6)うがき かず しげ。しかし,いっせい,と言われる場合もある。陸軍大将。六代朝 鮮総督。陸軍大学校長。清浦内閣で陸相‑陸軍大臣に抜擢されて以来,4代の内閣 に入 り続け,昭和2年までその地位にあった。加えて浜口内閣でも陸相として入閣
した。
小樽高商軍教事件 (上) この頃の内閣 と成立時期
1921年11月 高橋 内閣
1922年 6月 加藤 (友三郎)内閣 1923年 9月 第2次 山本 内閣 1924年 1月 清浦内閣
6月 第1次 加藤 (高明)内閣 1925年8月 第2次 加藤内閣
1926年 1月 第1次 若槻 内閣 1927年4月 田中義一内閣 1929年7月 浜口内閣
31
浜 口雄幸7)蔵相 は,財政負担の重 さを深 くとらえ,行財政の整理 を強調 した。
そ して軍制の改革 を含 む行財政整理原案 (大正14年度向け) を作 った。それに 対 して,字垣一成陸相 らが抵抗 し,4個師団の廃止,3000万円の節約で妥協 した。
この節約 を字垣 は,垂億 の近代化 にあて ようとした。1925(大正14)年5月に, 軍縮が実行 された。宇垣軍縮 といわれた ものである。
この動 きの背景 には,前述 のように,第一次大戦以来の世界 の状況の進展が あった。つ ま りその大戟 は,総力戟であった。国力のすべてをあげての戦争で あった。だか ら戦争 は今後,総力戦 にな らざるをえない。 日本軍部で もそれが 徐 々に分か り始めて きた。だが 日本の工業生産力 は, まだ低かった し,大軍隊 を扶養で きなかった。 しか し今後の戦争 には,高度の武器が必要になるのであ る。 そ こで兵力 を削減 して,兵器の装備,その近代化 を狙 った。財政整理の時 代 に,兵力の温存 と装備の近代化 の両方 はで きなかったのである。
宇垣軍縮 は,四個師団その他の廃止であったが,それ とひきかえに,同時に
7)浜 口雄幸 (1870‑1931)01929年7月から1931年4月まで首相。1927年,立憲民政 党の総裁となる。いわゆる民政党。
兵器装備 の近代化がなされた。火力の増強 と航空戦力 の整備8)であった。字垣 軍縮の狙 いは,そこであった。宇垣軍縮 は,それを推進する派 と反発す る勢力 との対立が深刻化 してゆ くきっかけにもなった。参謀本部に多かったのは,歩 兵万能論,精神 的に強固な兵士 を多数保有すべ き,とい うものだった。宇垣 は, 国防は軍人のみの専業ではな く,国民 にある, と考 えた。 これは,稔力戦思想 である。それに, 日本 の経済力 ‑工業生産能力が低い とい う認識があった。
今後の戦争 は総力戦であるとい う予想 により,国民 にも軍事教練 をしな くて はな らないと考 え られた。そこで軍国主義的な国民世論 を作 り,国民 を統合 し てゆ くために,在郷軍人会,青年団,青年訓練所 などと,学校教練 とが,必要
になった。在郷軍人会 は,1910(明治43)年11月3日,田中義一9)の発案で結 成 されていた。田中は,国家総力戦 を説いていた。戦時に軍隊が多 く必要 にな るので,在郷軍人会 に参加 させ ようとした。ただ し陸軍全体 としては,在郷軍 人会 を戦時兵力源 としては見 ていなかった。1916年 (大正 5年) に,中央報徳 会青年部が作 られた。1925年 (大正14年)に,大 日本連合青年団が作 られた。1925 年 (大正14年)末,青年訓練所設置が決 まった。当初 は,文部省の主導で進め
られた。
大正13(1924)年13月に,当時の文部大臣 ・岡田良平 (寺内正毅内閣の文相, 貴族貞議 員)10)と陸軍大 臣 ・宇垣 の手 に よって,秘密裡 に,つ ま り文部省 と 陸軍省 との間に,中等学校以上の学生生徒 にたい して軍事教練 を正課 として施 す計画が具体化 されていた。陸軍省 には,予備役幹部の大量養成 と失業軍人救 済のため,学生 ・生徒 の予備軍化,「思想善導」 とい うね らいがあった。
1925(大正14)年,小林多喜二が小樽高商 を卒業 した翌年の,2月に,その 覚書が文部 ・陸軍両省で交わ された。それによれば,現役将校 を配属する学校
8)額縁厚 『総力戦体制研究』三一書房 1981年,97ページ。
9)田中。軍人。政友会。海外侵略を積極的にすすめた。治安維持法を制定。
10)この軍事教練について,文相 ・岡田良平は,学生のあいだにマルクス主義がひろが るのを憂慮 し,その対策としてもっとも効果的であると考えていた ・・(金原左 門
『昭和‑の胎動』昭和の歴史 1,小学館,1988年 341ページ。)
小樽高南軍教事件 (上) 33 を,師範学校,中等学校 ,高等学校,大学予科,専 門学校 とし,私立学校 は任 意 とした。教練担 当者 は,現役 の佐官か,大尉 を中心 とした。教練内容 は,令 個教練,部隊教練,射撃,指揮法,陣中勤務,旗信号,距離測量,測図,軍事 講話,戦史な どである。毎年4,5日の野外教練が実施 され,これを受ければ, 在営年限が短縮 される特典があった。
同 じ1925(大正14)年の4月13日,「陸軍現役将校学校配置令」が,勅令第135 号 として4月13日に公布 され11),学校教練制が発足 した。大学 を除 く官立 ・ 公立の中等学校以上の学校 に,陸軍現役将校 を配属 し,学生 ・生徒 の教練 を行
うものであった。つ ま り大学,高等学校,大学予科,高等専 門学校,師範学校, 高等師範学校,中学校,実業学校,である。将校の配属 は,陸軍大 臣 と文部大 臣が協議 して行い,配属将校 は,教練 にかん し,当該校長の指揮監督 を受 ける のである。 配属 された将校 の肩書 は,大体,大佐か ら中尉 までである。 私立の 中等学校以上で も,兵役施行令 によって認定 を受けた学校 も,適用 された。
もっ とも,それ以外 の,中学へ行かない青年は,翌1926年 (大正15年)か ら, 各市町村 の青年訓練所で軍事教練 を受 けることになったので, 日本全国の青年 が教練 を受けることになったのである。
全国学生社会科学連合会 (略称,学連) は,1924(大正13)年 5月にで きて いた。そ して この計画 を知 ると,全国の大学 ・高等専 門学校 にゲキをとば して,
「全国学生軍教反対 同盟」 を結成 して,反対運動 を展 開 した。一方,進歩的な 教育者 の一団は,為藤五郎,下中弥三郎 (平凡社社長),早稲 田大学の大 山郁 夫12)ら, を中心 として,政治研究会の有志 に援助 されて,「教育擁護同盟」 を 組織 して,反対運動 に立 ち上がった。13)この同盟 は,軍事教練 に反対 の声 明 を出 した。大 山郁夫 (1880‑1955)は,早稲 田大学政治学教授だったが,1915 年に辞職 した。彼 は1918年 に費明会 を組織 した。そ して1923午,早大の軍事化 ll)線種厚 『総力戦体制研究』三一書房 1981年。
12)大山。 (1880‑1955)。兵庫県生まれ。政治学者,社会運動家。早大教授,その後, 追われる。1929年に労農党中央委員長。1930年に衆議院議員に当選した。アメリカ に亡命 し,戦後,帰国した。
13)渡辺惣蔵 『北海道社会運動史』 レポー ト社 昭和41年,102ページ。
に反対 した。
1925年 (大正14年) 7月16日,学連の第2回全 国大会が京都帝大学生控所 で 開かれ,学生運動 をさらに前進 させ,「プロ レタリア社会科学の研究並 に普及」
「社会科学研究会の存立権 の主張」 を一般 目標 とし,「プロ レタリア社会観の 体得」 と 「プロレタリアー ト社会科学の普及」 を任務 とする 「テーゼ」 を採択
した。14)
全 日本学生社会科学連合会 にたい して,政府 はまず,大学のではな く,高等 学校のそれに解散 を命 じた。
文部省 は,陸軍省 の後楯 により,強引 に世論 を押 し切 って,1925(大正14) 年春 に,各校 内の一年志願兵 に対 して,「大正十 四年七月以後,配属将校 によ
り教練 の教授 を受け,合格 したる者はその在営 を十カ月 とす」 とい う通牒 を発 して,学内の軍教熟 をあお り,同年 7月には,全 国の大学高専校のすべてに軍 事教練 を実施す ることになった。15)
少 な くとも後の1940年代 には,中学等 には,佐官,た とえば小任,中佐が来た。
補佐官 として小尉 くらいが, 1人いた。小樽高商では,旭川師団か ら大佐 1名 が来て,補佐官 として大尉 1名 と中尉 3名が来た。大尉 と中尉 は事務 もとった。
軍事教練 によって,敬礼,歩 き方,個人 と団体 のそれ,銃 の教練,小隊長の 指揮系統 を,学 んだ。中学 1,2年 は徒手,3年か ら5年は執銃で, 日露戦争 で も使 っていた三八式 [銃] をうった。大体そんな程度 なので,戦争の勝 ち目
はなかったのだ。春 と秋 に,授業 を1日つぶ して,弁当持 ちで,野外教練があっ た。桜町,天狗 山,手宮公園へ,いった。また年 1回,秩,陸軍の高官が きて, 教練 を見 た。これは査閲 (さえつ)といい,一種の試験の ことである。その 日は, 非常 に緊張 した 日だった。16)専 門学校以上 には師団司令部附 き少将が,中学 校‑ は歩兵連隊長が,査閲官 として きた。小樽高商には,旭川師団か ら少将が 14)久城寿右衛門編著『ある情熱の記録 手嶋恒二郎伝』株式会社保険研究所 1981年 (以
下,手嶋と略す), 62ページ。
15)渡辺,103ページ。
16)大津博士氏。
小樽高南軍教事件 (上) 35 きた。配属将校 は,検定 をし,生徒 ・学生 は甲乙丙 に分 け られ,それ によって, 士官適,下士官適,不適 となった。17)
軍事教練が実際 に行 われるようになったのは,1925(大正14)年の6,7月 か らであった。 だがそれ以前 に も,体操の中に軍隊教育的な ものを取 り入れて いた。小樽高商で も,1923(大正12)年 ころか ら,体操 の時間に兵式教練 をお こな うこ とにな り,「正課」 ではない に して も,予備役 の陸軍大尉 である管安 右衛 門講師,少尉 の加藤講師が, これ を担 当 していた とい う経緯がすでにあっ た。18)配置令以前 に,小樽高商で も軍事教練があったので,他 の学枚 で もあっ たのではないだろうか。
高商では学生 の制服 は,正装,和服, カ ンカン帽 または無帽,靴 に下駄 とい う具合い に, まった く色 とりどりの格好 で,教練 を受 けた。19)
学校軍事教練 は,配属将校 の経費が配属先の学校側の負担であ り,宇垣軍縮 によって大量の将校が人員整理 されたので,そのためのはけ口,解決 とな り, 軍部 としては大変都合が よか った。 また軍部が教育 に介入で きるとい う,一石 三鳥であった。
小樽では,学外 の動 きについて言 えば,1925年 (大正14年)八 月三十 日には, 約百人が集 まって,小樽稔労働組合 の創立大会が ひ らかれた。
初代執行委員長 には,境 一雄20)が なった。境 は,1900年 (明治33年) に小 樽 に生 まれ,小樽 中学 を卒業 し,早稲 田大学 を卒業 した。大 山郁 夫 に教 わった とされる。彼 は,小樽 に政治研 究会 を作 った。彼 はこの軍教事件 の一方の重要 人物 になる。小樽稔労働組合 の執行委員 に,は じめ坂本佐一郎21),菊池米吉22), 17)同。
18)夏堀正元 『小樽の反逆』岩波書店 1993年。この本は,多 くは事実だが,一部はフィ クションらしい。
19)中村の稿,『緑丘五十年史』小樽商科大学 昭和三六年。
20)後に,労農党北海道支部連合会員となる。三 ・一五事件に連座。労農党系北海民衆 新聞の社長になる。1926年,小樽市会議員。
21)坂本。その後,労農党小樽支部長。 三 ・一五事件に連座。
22)菊池。その後,小樽合同労組執行委員。三 ・一五事件に連座。1927年6月,労農党 小樽支部委員。特要甲号共産主義とされる。
鈴木源重23),高橋 英力24)が な り,のち,正木清25),渡辺利右衛 門26),武内清27)
が加 わった。28)これ らの執行委員 につ いて触 れ よう。
坂本 は,1894年 (明治27年),小 樽生 まれで,小樽 の活動家 であ る。 日雇 い であ って,小樽稔労働組合 の中心 で もあった。
菊池 は,1890年,秋 田生 まれで,小樽 の活動家。 日雇 いであった。
鈴木 は,1891年, 山形 出身で,小樽 その他 の労働運動家 であ る。 夕張炭 山で 労働運動 を し,小樽 に来 た。
高橋 は,1894年生 まれ。 日雇いで,小樽 の労働運動家 である。
正木清 (1900‑1961)は,福 島県 出身で,1924年 に小樽 に移住 した。1925年 (大 正14年) に小樽稔労働組合 に参加 し,政治部長 になった。
渡辺 は,1903年 (明治36年) の小樽生 まれ,小樽 の活動家 であ る。後 の小林 多喜二 の小説 「一九二八年三月十五 日」 の主人公 ・渡 のモデル となった人であ
る。
武内 は,1902年生 まれ,函館 出身の労働運動家 であ る。
この組合 は,初 めは,港湾労働者 と自由労働者 が中心 になった三百人前後 の 小組織 であったが,組合組織 は急速 にひろが った。29)
23)鈴木(1891‑1971)。その後 ,小樽合同労組執行委員長。三 ・一五事件に連座。戦後, 道議会で活躍。
24)高橋。その後,小樽合同労組会計係。三 ・一五事件に連座。
25)正木。1926年,労働農民党小樽支部を結成 し,その書記になった。1927年,小樽は しけ人夫ゼネス トで活躍 した。三 ・一五事件で検挙され,1930年に,出獄 した。1931 年,新労農党に参加 し,札幌支部長となった。全札幌労働組合執行委員長にもなった。
1934年,札幌市会議員になった。1936年,道議会議員 (社会大衆党)となった。1943 年,衆議院翼賛議会に当選 した。戦後,社会党中央執行委員,衆議院議員となり, 議会副議長となった。(『正木清伝』労働旬報社 1969年)0
26)渡辺。その後,小樽合同労組組織部長。三 ・一五事件に連座。北海道地方評議会組 織部長。労農党小樽支部員。特要甲号共産主義とされた。
27)武内 (1902‑1947)。その後,労農党小樽支部執行委員。三 ・一五事件に連座。非 転向で獄中生活をした。
28)琴坂 「小樽の労働者の伝統」 (『北海道経済』1978・9)19ページ。
29)手塚英孝 『小林多喜二』上,新 日本出版社 108ページ。
小樽高商軍教事件 (上) 37
2 小樽 高商社 会科 学研 究会
1923(大正12)年 か ら1926年 (大正15年) まで, 中野清一30)は小樽 高商の 学生 だった。庁立小樽商業か ら高商 に入学 した。彼 は言 う。 その頃,社会科学 研究会 も哲学研究会 もあった。前者 はマルクス勉強会 だった し,後者 はカン ト 研究が中心であった。不思議 なことに,お互いにいがみ合 うようなことはなかっ
た ように,彼 は思 う。 伊藤整 のい う校風が,マルクス派 とカン ト派 とを和やか に並存 させ るどころか,い とも仲良 く競争 させ る背景 になっていた。31)
斎藤磯吉 は,社会科学研究会 の リーダーの一人だった。中野 と同期 である。 後 に軍教事件の学内首謀者 と見 られて,退学処分 になった。斉藤 は, この軍教 事件 の一方の重要人物 になる。
北大で 「本格 的な社会科学研究会 の運動が起 こされたのは 大正一二年の末 か らの ことである。」32)北大 と相前後 して,小樽高商 に も,社会科学研 究会が 結成 された。 ここは北大の自然科学の殿堂 とは異 な り,経済学専攻の学府であ るだけに, ・・学内組織 としては大いに拡充 し,斎藤磯書 を中心 に,四,五十 名のメンバーが揃 っていた。 ・・・しか し,大正一四年 (1925年)十月の軍教 反対事件 で 全 国 を震骸 (ママ)す る一大 闘争 を展 開 した小樽高商社研 も, 同 年一二月一三 日,十四名の首謀学生が無期停学処分 を受 けるにいたって,組織 を壊滅 させ られてか らは,再 び立つ ことの出来ない痛手 に追い込 まれて しまっ た。
高商生だった山本安次郎 は書 く。 私 [山本] は社会 に目が開けるにつれて, MSS(Mar又ianStudentSociety)に参加 し,学生運動,労働運動 に関係す るに至 っ た。丁度その頃,大学高専 に対す る軍事教練が始 まった。大正14年秋,わが小 樽高商の軍教で,関東大地震 まがいの 「蜂起する鮮人の暴動 を鎮圧す るため」
30)彼は後に小樽高商教授として,社会学,哲学,倫理学を教えた。その後,広島大学 教授になった。
31)中野清一 筆 ,『緑丘』420
32)渡辺惣蔵 『北海道社会運動史』レポー ト社 昭和41年,99ページ。この本は,軍教 事件については,かなり誤 りがある。
とい う非常識 な 「想定」 に端 を発 し 軍教反対運動が起 こ り,毅然 として我 々 も立 ち上が った。それは全 国に拡が り,小樽高商の名 を社 会 運 動 史 に も残 し た。 33)
当時, M.S.S.が 高 商 にあった の だった。 これ は正 式 には MarxianStudent societyで, その略称 であるが,社会科学研 究会 との関連が はっ き りしない。
当時,明 らか な存在 に しに くかったのだろう。 しか しむ しろ, これは社会科学 研究会 だったのか もしれない。それに,読書会 とい うの もこれだったのではな いか。 この会で,高商学生 の黒田力造,手嶋恒二郎 は,斉藤磯吉 を知 った。黒 田は,手島が 1年の時 に, 2年生 であった。
北海道地区は 東北連合会 に属 し, ・・・それが結成 されたのは 大正一三 午 (1924年)九月である。 この時代 に 学連本部お よび東北連合会 の連続委員 として活躍 した ものは,・・大正一四年度で は,・・小樽高商 は斎藤磯書であっ た。34)
田中清玄 弘前高校 か ら東大卒。後 の武装共産党時代 の委貞長である。
‑ は,述べ る。 (一部 テ ンを加 えた) 「大正14年 に小樽 高商軍教事件 とい うのがあ りま して,小樽高商の軍事教練 を廃止す る, しないで騒動 となって, 弘前 [高校] で も廃止せ よとい うビラをまいた。 ・・・学校 はただ保守的 なだ けですか ら, どん どん社会科学研 究会 を伸 ば していって, この年 に東北学連が で きたのです。
どんな顔ぶれだったのですか。
33)『南亮三郎追悼号』66ページ。
34)渡辺,101ページ。
35)島木。本名,朝倉菊雄 (1903‑45)。札幌生まれ。東北大中退。後に小説家になる。
作品,『生活の探求』。
36)玉城。後に経済学者になる。
37)鈴木 (1904‑83)。後に憲法学者になる。
38)島野。後に,弁護士,仙台市長になる。
39)高野。後にジャーナリス トになる。
40)角田。後に弁護士になる。
41)宇都宮。戦後に政治家になり,自民党,その後,無所属。
42)水田。京大時代,河上肇のボディーガー ドをつとめた。戦後に政治家,自民党,過 産相,蔵相を何回もつとめた。
小樽高商軍教事件 (上) 39 仙台 にあった東北帝大 の,島木健作35),玉城肇36)に,鈴木安蔵37)が中心 と なって,二高 [仙台の] か ら島野武38),高野信39),角 田儀平治 (守平) 40), 水 戸高か ら宇都宮徳馬41),水 田三喜男42), 山県高か ら亀井勝一郎43),小林多 喜二 らが来ていた。」 44)
この最後の記述 は興 味深い ものである。多喜二 もここにいた とい うのである。
ただ しこの発言 は,疑問である。 この話の時期 も,大正14年であろ う。 それで は多喜二 は,拓殖銀行員時代 に東北 に来たのだろ うか。もし大正14年 (1925年) 秋 とすれば,サ ラ リーマ ンとなって,小樽高商 を1年半前 に卒業 した多喜二が, 銀行 か ら休暇 をとって,後輩学生 たちの運動のために,東北 の学連 まで出かけ
るだろうか。それに多喜二 は この頃,終生 の恋人 となる田口瀧子の救 出で苦労 していた45)のである。さて,既述の ように,小樽高商 の学連委員 は斉藤である。 私 は田中が,多喜二 を斉藤磯吉 と間違 えているのではないか と思 う。 もちろん 現時点で これ を否定 はで きず,46)この発言 は半分 しか受 け取 れない。
東北学連 は, この小樽高南軍教事件 の時,その さ中,東北帝大 (仙台) で開 かれた。東北北海道 6校 の代表40名が集 まった。 この会議では軍教反対 闘争, 学生 自由擁護 を始め,農民運動の方針 まで も,討議 された。東北帝大 では専科 生 であった島木健作 (朝倉菊雄)が,東北帝大の中心文士 として鮮 やかな活動 ぶ りを示 していた。47)
「大正15年,共産党系左翼理論 は 『俺 は 日本の レーニ ンだ』 と自己宣伝 して いた福本和夫48)の福 本 イズ ム一色 で した。東大新 人会 も社会科学連合会 もあ 43)亀井 (1907‑66)。後に有名な評論家になる。函館生まれ,東大中退。新人会に参加。
44)『田中清玄自伝』文芸春秋 1993年, 33ページ。
45)拙稿 「小林多喜二とフェミニズム 小林多喜二と田口瀧子 との愛」 (世界文学 会 『世界文学』No.78,1993.12);拙稿 「小林多喜二の恋」(『人文研究』91しゅう) 46)ここで人間の思考 ・記憶過程について一言 したい。小林多喜二はこのころ有名では
ない。田中はその有名ではない多喜二をよく記憶 していたのであろうか。小樽高商 の学連代表委員は,斉藤磯吉である。ノト樽から生徒が来ていたことを,田中は,記 憶 していることは確かだろう。その彼を,小樽高商からということで,斉藤を,級 年の有名になった小林 と重ね合わせたのではないか。
47)渡辺,101ページ。
48)福本。1894年生まれ,山口高商教授をへて,一時期の共産党の理論的リーダー。別 稿でも扱う。
げてそうで した。」49)
学生の社会科学研究が活発 になるにつれて,文部省 はその禁止 を企 て,1924
年 (大正13年)11月には,全国高等学校長会議で学内社会科学研究会の解散に ついて協議 し,一斉 に解散 させることに した。
3 小樽高南軍教事件 第一段 階
小樽高南軍教事件 について,『緑丘五十年史』 の叙述が,短いが的確である。
以下,少 し利用 しよう。50)これは 「実際 は軍事教錬その ものに対す る反対運 動ではなかった。」すでに大正6年 (1917年) に 正式体操振興案 とい うもの が出され,体操の中に軍隊教育的なものを入れ ようとする動 きがあ り,学校教 育は軍隊教育の準備であると公言 して物議 をか もした軍人などもいた。高商で も大正一二年 (1923年)ごろか ら 体操の時間に兵式教錬 を課することとな り, 予備役の陸軍大尉である管講師や加藤講師が これを担当 していた。大正14年
(1925年)に入 って軍事教練 は,体操か ら独立 した別の教科 にな り,現役の配 属将校が学校 に配置 されることとなった。あるいは年一回,師団本部か ら将官 クラスの査察官が各学校 を回った。この年,大正14年の6月25日,3年生は,「敵 艦一隻 突如 塩谷近 く顕はれ 早 くも上陸」 とい う想定の もとに,手宮公園付 近で演習 を行っている。 ここで塩谷 とは,小樽の隣村である。
ところが この年の秋,10月15日の演習が 大問題 をひきお こす こととなっ た。
南亮三郎は書 く。
ち ょうど大正一四年 (1925年) の時か ら, つ ま り多喜二が高商 を卒 業 してか ら一年後 (筆者) ,現役の陸軍軍人が きて,いわゆる軍事教育 をやった。戦争がないのに職業軍人がいる,ということになった。また学校 は,
49)『田中活玄 自伝』34ページ。
50)47ページ。この書の執筆は浜林正夫先生である
小樽高商軍教事件 (上) 41 は りつけ られた軍事教官 に給与 を出さねばならなかった。
小樽高商の配属将校 として赴任 して きた教官は,旭川の第七師団か らきた現 役の鈴木平一郎少佐であった。学生の制服は,正装,和服,正帽,カンカン帽 または無帽,靴に下駄 という具合いに,まった く色 とりどりの格好で,教練 を 受けた。
「この年は 高商創立15年に当たっていた。 ・・・事の起 こ りは 陸軍の配 属将校鈴木平吉少佐 前出のように,鈴木平一郎 である。 (筆者)
が作 った関東大震災マガイのタアイ もない演習の想定であった。」 51)
1925(大正14)年十月の小樽高商での軍事教練では,大震災がおこって無政 府主義者が 「不達朝鮮人」 を扇動 し暴動 をおこしているとい う想定がたて られ
た。
震災下のテロを思い起 こした/)、樽港の朝鮮人労働者 と評議会系 の各労働者 が,抗議にたちあが り,全国の大学 ・高専の学生は,教育の軍国主義化,軍事 教練への反対 を決議 して闘った。
ここで言 う震災下のテロとは,関東大震災 (1923年)の際,社会主義者 と朝 鮮人 を,警察 と民衆が殺 した事件である。
違 った表現ではこうである。
この大正一四年の秋に,天狗 山麓で全校生徒で一大模擬戦の野外演習が催 さ れた。問題は,その演習の想定が,東京大震災の時,朝鮮人を絶滅 させ ようと した ものに類似 していたことか らであった。天狗山中心 に地震が起 きた とされ た。朝鮮人および労働者の暴動 を鎮圧するために,小樽高商義勇軍 と在郷軍人 会が これにあたる,つ ま りせん滅せ よという,まことに乱暴な想定であった。
翌 日には,この非 をな じる大集会が,小樽市内はもちろん,枚内にもわっと 起 こった。
金原は書 く。 「この想定は 震災時の龍現 を思わせ るものがあった。たちま ち激 しい非難がお こり,小樽港の3000人の積荷労働者が,震災のさいの生々し 51)南, 『小樽商大緑丘新聞』278号。
い記憶 を呼 び起 こして 立 ち上が り, ・ ‑ 」 52)と。 ただ し3千人全部が立 ち上が ったわけではないだろう。
具体的に言 えばこうなる。
大正14年十月十五 日,小樽高商では,野外演習が軍事教官鈴木少佐の指揮の 下に行 われたが,鈴木少佐 はその想定 として次の方針 を発表 し,2年生全員は 午前 8時集合,各組 に5枚宛 を配布 して 9時出発,行軍 してガ ッサ リ沢53)に 昼す ぎに到着 して,午後2時頃に解散 した。その想定はこうである。
想定
一,十月十五 日午前六時,天狗岳54)を中心 として俄然大地震 あ り,札幌及 び 小樽の家屋殆 ど崩壊 し,諸所 に火災起 り,折柄の西風 に火勢 を強め,今や 小樽市民 は人心 きょう々として適従する ところを知 らず。
二,無政府主義団は 不達鮮人 を扇動 し, この時期 において 札幌及び小樽 を全 滅せ しめん と,小樽公園に画策 しつつあるを知 りたる小樽在郷軍人団は忽 ち奮起 し,これ と格 闘の後,東方 に撃退 したるが,敵 は汐見台高地の天険 に拠 り,頑強に反対 し,肉飛 び骨砕 け,鮮血 に満山紅葉 と化せ Lも,獅子 奮迅一歩 も退かず,ために在郷軍人団の進撃は‑頓坐す るに至れ り。
≡,小樽高商生徒隊 は 応急準備令下 り,該隊 は午前九時校庭 に集合 し,隊 を 編成す。その任務は 在郷軍人 と協力 し敵 を撃滅す るにあ り。 55)
四,支隊長の下 したる命令 の要 旨 左 の如 し。
(1)敵は 潮見台高地 に拠 り 頑強に抵抗 し 在郷軍人団の攻撃 意の如 くな らざるものの如 し。
(2)支隊 は 直 ちに出発,在郷 軍人 団 と協力 し 潮見台高地 の敵 を攻撃 し 敵 をガッサ リ沢の陸路内に圧迫 し,之 をせ ん滅せ ん とす。
52)金原,342ページ。
53)場所不明。長年の小樽在住者2人に聞いているが,まだ分からず。
54)小樽の町近くの山。天狗山。
55)渡辺,103ページ。
小樽高南軍敦事件 (上) 43 (3)吉 田秀夫外 四名 は斥候 とな り 公会堂‑ 住吉神社両西南 四百米火薬
庫‑ 真栄町‑ 競馬場 を経 て潮見台高地 に至 り敵情 を捜索すべ し。
(4)入江 第三中隊は尖兵中隊 とな り前斥候 の進路 を潮見台町に向ひ前進す べ し。
(5)爾余 の中隊 は本隊 とな り第二年第一年の順序 を以て尖兵中隊の後方三 百米 を前進すべ し。
(6)予 は 本隊の先頭 を行進す。56)
学生の那珂 捷 (昭和 2年卒) は,書 く。
「ふていせ ん じん来襲 ・・・想定の ・・・軍事教練 で,発火演習,全校半千 の軍が 出征 したが, 目的地の銭函駅 で下車せず,その軍人教官 を置 き去 りに し て,村 田銃 を札幌駅 に一時預 け,一 日遊 んで戻 るな ど,検束 を避 けるス レス レ 運動 は,やればや るほ ど面 白 く ・・・・」 と。 少数の学生 には,そ うい う人 も いた。ただ しこれは,問題 になった 日の軍事教練 の叙述 ではな さそ うだ。那珂 は,
自分の体験 した軍事教練 を描 いてお り,当 日の軍事教練 ではない。続 いて彼 は 書 く。 もっ とも,「あ と数年 も経 っていた時 な らば,その ような大 それた こと をやる奴 らは,すべ て特高,憲兵 によって,即座 に逮捕 され ・・・たはずであ る」。57)
この当 日,軍事教練 の一団が出発 した ころ,小樽稔労働組合執行委員長の境 一雄が,小樽高商の社会科学研究会の学生 ・斉藤磯吉の下宿 に,遊 びにきた。
境 は,1923年 (大正12年) に早大 を卒業 し,前 出の大 山郁夫 に教 わっていた。
斉藤 の下宿 は,社会科学研究会のメ ンバーのた ま り場 に もなっていた。その 日 ち,軍事教練 を拒否 した数人の学生が集 まっていた。境 も,学生 と雑談 してる うちに,かたわ らにあった刷 り物 に眼 をとめた。これ を読 んで,境 は怒 った。「き みたちは,こんな不届 ききわ まる軍事教練 の"想定"を許 していいのか !」58)
56)夏堀正元 『小樽の反逆』岩波書店 1993年, 156‑7ページ。
57)那珂 捷 「小樽夜景」 (『緑丘』NO.63)
58)夏堀。この状況は,境が我々にかつてそう話 していたので,正 しい。
学生たちも,境一雄 に指摘 されて,抗議することにきめた. この事情 を,当 の本人である境 は,書 く。 (テンを入れてお く)
ある日,僕 [境 筆者]は 何 とな く,この連中が よく集 まる斎藤 [磯書]
君の寄宿先であった富 岡町の某富豪の別邸へ行 くと,休みで もないのに皆集 まっている。どうしたのだ ときくと,「発火演習でつ まらぬか ら行かないんだ」。
そ こに謄写版刷 りの演習想定がある。何 とはな く手 にとって見 ると,それは 「不 達鮮人が高島海岸か ら上陸 して,小樽市内に発砲 しつつ侵入 して くる。 これを 追撃 して,せん滅せん とす」 という意味の ものであった。大正一二年秋,関東 大震災の ときにも,不達鮮人 という言葉 を無責任 にまき散 らして,罪無 きこの 人々を殺 りくしたことが,後 に問題 とな り,布施辰治弁護士が訴 えを起 こした ことがあった。当時の弾圧者達のこれが常識であった。僕 は大いな憤 りをおぼ えないではい られなかった。59)
この裏の経緯 について,夏堀正元は,興味深いことを書 く。鈴木少佐の想定は, 前 日に高商の教務主事である村瀬玄教授 に示 し,承認を求めた後,謄写印刷 に
まわ した。だがその とき 『小樽新聞』の記者がたまたま居 あわせ,翌 日の教練 について尋ねた ところ,村瀬教授 はさすがにまずい と思ったのか,「不達鮮人」
の箇所 を〇〇〇〇にして,その記者 に渡 した。このため一五 日付の 『小樽新聞』
では,その部分が〇〇〇〇の伏せ字になった。 もしこれが伏せ字 になっていな かった ら,小樽港湾で働いている約二千人の朝鮮人は,その日のうちに立ち上 がって,大騒動 になっていただろう, と。 60)
しか しこれは,次の渡辺の記述 と少 し矛盾する。
この想定が,翌十六 日の 『小樽新開』三両の欄外 に報道 されるや, これに対 して真 っ先 に反対闘争の トップを切 ったのは,小樽高商社会科学研究会の学生 たちであった。直ちに友誼団体 と連絡すると共に,学内において猛烈な反対運 動 をまきお こした。61)
59)境一雄 「軍教反対に立った頃」(『緑丘新聞』)0 60)夏堀,158ページ。
61)渡辺。
小樽 高南軍教事件 (上) 45 この夏堀 と渡辺の記述の違いの点は,どち らが正 しいのだろうか。『小樽新聞』
(大正14年10月15日号)62)の第二面で,「高商野外演習」の記事が出た。16日 ではない。だか らこの点は,夏堀が正 しく,渡辺が間違いである。15日に出た のだか ら,14日に想定文を記者が入手 したはずである。その記事の冒頭は,こ うある。 「高商では今十五 日 全校生の野外演習 を朝里川水源地附近 に於て催 す事 となったが 午前九時校 門を出発 し 主に地図の研究 と伝令の演習を為す 筈であるが 当 日の想定 左 の如 くである。」想定の‑,二,三が掲載 された。
注意すべ きは,そのうち,不達鮮人の4文字が〇〇〇〇 となっていることであ る。 63)この点 は 夏堀 は間違っていない。本稿では 渡辺書 を幾つかの点で 利用するが,残念 なことに,この本は軍教事件 についてはかな り不正確である。
さて,かつての 「小樽新聞」にいた碧川64)は,寛災後,再び小樽 にきて,「小 樽新聞」整理部長になった。1925年10月には,小樽高南軍教事件の時,記者 に 積極的な調査 を命 じた。1927年には小樽 を去った。
後に出る 『緑丘』(み どりがおか)(大正一四年十二月一七 日)65)の第2面,「経 緯」 によればこうである。
十月一四 日,陸軍歩兵少佐鈴木教官は,その立案 した想定 を教務部主事村瀬 教授 に示 し,承認 を求め,その後,謄写版印刷 に した。当時たまたま,小樽新 聞の記者が学校 に居あわせ,翌 日執行の教練 について尋ねた。村瀬 は,想定文 中 「不達鮮人」の四字 を 「0000」として,その一枚 を交付 した.それで15
日発行の小樽新開 第三ページ欄外 に出た。
一五 日午前八時四〇分,生徒一同 校庭 に集合, この想定 を各組 5枚づつ分 配 した。午前九時校門出発の演習 を実施 した。
15日当 日は,軍用地図の見方の実際演習が主な目的で,全校生は銃 はもちろ
62)小樽商大所蔵のマイクロフィルム。以下,同様。
63)1926年10月15日と16日の F/)、樽新聞』.
64)作品集として,堅田清司編 『碧川企政男論説集』1973年1月,あり。
65)不二出版 復刻版。
ん侃剣 もせず,唯 小樽近郊 の地図 をもっていった。秩序 だった遠足 とい う形 で 潮見台の高地 に向かった。要所要所では 鈴木教官 は枝隊 を止 めて,各 自 携行の地図を広 げさせ,高度 距離 位置 蜜林等 を 図によって回答 させ,徹底 的 に了解 させ た。 ガ ッカ リ沢 (ここではガ ッサ リではない) に到着 したのは 昼過 ぎで 少憩の後,午後二時解散 した。
境 は書 く。 (テ ンを入れてお く)
斎藤君達は,直ちに学生諸君 とその不正不 当を訴 える運動 を起 こす と同時に, 全学連 に連絡 をとって 軍教反対 闘争 の全 国的親模‑のつ なが りを作 って行 っ
た し,僕は又,当時在樽の朝鮮人団体の リーダーであった金龍植君66)に連絡 し, 僕が委員長 を していた小樽合 同労組の執行委員会 を召集 した。正木清,鈴木源 塞,渡辺利右衛 門,武内清 の諸君 な どで 代表者 を定めて,金君等 と学校 に対 す る抗議 を開始 した。あの長い地獄坂 を十数回登 り降 りを した覚えがある。 こ の矢面 に立ったのが,終戦後 の民主主義者苫米地67)氏 で,その反動振 りは相 当な もので,あれが苫 さんの本当の姿であると,今で も僕 は信 じている。 間 も な く この事件 が東京で大 き くとり上 げ られ,神 田の美土代町のキ リス ト教会 館 で軍教反対演説会が開かれ,僕 は代表 として出席 したが,六時開会の演説会 が九時頃迄 に三十人位の弁士の うち,大 山郁夫先生の三分位 三宅雪嶺68)先生 の五分位 で,他 は 「私 は ・・・・・」 「弁士 中止 ッ」で,両先生 をのぞいて他 は 全部,錦町警察のぶた箱 に検束はう り込 まれて しまった。学生運動の方 は, 主 として早大の軍教反対闘争 に合涜 して,確か学生大会 に斎藤君が代表で出席
した筈 で この頃か ら闘いの場 は中央 に移 り,小樽高商 を中心 とした渦巻 は 表面 的 に鎮 まった ように見 えたが, しか し学 内の動揺 は深刻 かつ大 きかっ 66)金。朝鮮出身。小樽で活動した.朝鮮労働青年会委員長。1926年のメーデーに参加
した。(堅田編 『北海道社会運動家名簿』)
67)苫米地英俊,当時高商教授。後,伴校長の後を継ぎ,第3代校長になる。ここで 「民 主主義者」とは,皮肉で言っている。
68)三宅 (1860‑1945)。本名,雄二郎。金沢生まれ。思想家。東大卒。志賀重昂とと もに 「政教社」を結成し,『日本人』を創刊。日本主義を主張した。