小樽高商の第 2期
目 次
は じめに
1 摂政宮 の来樽 2 徴兵
3 小樽
4 女子 との関係 5 生徒一般
6 時代 の中の高商 7 伊藤 整
8 大熊信行 9 友人 た ち
倉 田 稔
は じめに
本稿を もって, さ しあた り計画 していた小林多喜二伝記の,第 1部および第 2部を終了す る。第 1部 と第 2部 とい う区分 は, ここで は仮の ものである。
第 1部 は,次のよ うに読んで頂 きたい。
1 「小林多喜二伝 ‑ 多喜二 と小樽 一一一一一‑1 小樽移住 か ら小学校卒業 まで」
(小樽商科大学 『人文研究』第86しゅう1993年 8月)
2 「小林多喜二伝 ‑ 多喜二,庁商へ ‑ . 小学校 時代 か ら,庁商 時代 の前半」(『人文研究』第87しゅう1994年 3月)
3 「小林多喜二伝 一 小林多喜二 と小樽 一一.一一‑1 庁 商の時代,後半」 (『人 文研究』第88しゅう1994年 8月)
〔7〕
♂ 商 学 討 究 第46巻 第2 ・3号
第 2部 は,順序が違 って申 し訳 けないが,次のよ うに読んで頂 きたい。
4 「小樽 高等商業学校 と渡辺龍聖 初代校長」 (『商学討究』第44巻第 4号。
1994年 3月)
5 「小樽高商入学の小林多喜二」 (『商学討究』第45巻第 3号。1995年 1月) 6 「小樽高商の先生 たち」 (『商学討究』第45巻第 1号 1994年 8月)
7 「小樽高商の第 1期」 (『商学討究』第46巻第 1号 1995年 8月) 8 本稿
9 「小林多喜二の小樽高商卒業」 (『商学討究』第45巻第 4号1995年 3月)
1 摂政宮の来樽
小林多喜二が第二学年 にな った時,1922(大正11)年 に,皇太子 ・摂政宮 (せ っ しょうのみや)・裕仁 (ひろひ と)が,小樽高商を訪れた。 そ う言 えば, 明治44年 (1911年) に,高商が開校す る年 の 8月, 当時の皇太子 つ ま り後 の 大正天皇が高商を訪れた ことがある。小林多喜二 の後 の好敵手,昭和天皇 につ いて少 し論 じてお こう。 現代 日本史で最 も重要 な存在 あるいは人物が,昭和天 皇である。 この人 の思想 と強力 な政治的役割を見ておかない と, 日本現代史が 分か らな くな る。
皇太子裕仁親王 は,1901年 (明治34年),当時の皇太子嘉仁 (よ しひ と)親 王 の第一子 と して生 まれ た。彼 は成長 し,1908(明治41)年,学習 院初等科 に入学す る。学習院初等科 は小学校であ り,その院長 としては,軍神 と言われ た乃木希典 1)が, わざわ ざ任 命 され た。 そ こで は彼 は,質実剛健 で育 て られ
1)乃木希典 (まれすけ),1849‑1912。長州出身。戊辰戦争に出る。西南戦争で,戟 旗を失い,自決 しようとした。日清戟争にも出征 した。1896年,第3代台湾総督 になるが,行政能力なく,同年辞任 した。日露戦争で旅順攻撃ができず,更迭され る。軍事参謀長になる。日露戦争の休戦で,ロシアのステッセル将軍と乃木大将と が交渉 し,和議がなったということで,乃木さんがあたかも日露戦争に勝った代表 的将軍とみなされ,乃木は国民的人気が出た。そ して軍神といわれるようになった。
しか し軍人 としては無能だった。1907年に,学習院長になる。1912年,明治天皇 が亡 くなると,妻と共に自決 した。
小樽高 商 の第 2期 9 た。裕仁 は少年時代か ら知力にはす ぐれていた。
1912年 (明治45年 ‑大正 1年)に明治天皇が死 に,嘉仁親王が天皇 とな り, 年号 は大正 とされ,裕仁親王は皇太子にな った。同時に陸軍少尉 ・海軍少尉に
なった。学習院初等科を1914年 に卒業 した裕仁 は,御学 問所 に入 り,帝王学 (‑倫理)その他の教育を受 けた。軍事学が特別に重視 された。将来の大元帥 となるか らである。卒業 とともに陸海軍中尉になった。彼 は祖父や父に較べ, しっか り教育を受 けた。そ してかな り優秀な学生だった。後年,軍事に非常に 詳 しくなった。第 2次大戦中,教えた陸軍大学校の教官 も冷汗をか くほどだ っ た。また上奏 (天皇に報告す ること)のさいには,軍事知識があるので,上奏 す る人は大変緊張 した。
彼 は少年の時か ら,「ロマ ンティックな好戦的人物」であった。そ して 自分 の ことを天照大神の子孫であると信 じ込んでいた。死ぬまでそ うであった。 も ちろん戦前の 日本人 もそ う信 じていたわけである。1916(大正 5)年 に,彼 は陸軍大尉になった。
1921年 (大正10年)3月か ら,皇太子 は半年間の ヨー ロッパ旅行 に出発 し た。その時,陸軍少佐になった。イギ リスでは演説を大音声で行い,評判を高 めた。 この人 は実 はきわめて精力的な人であった。
彼 は帰国 して同年11月に,摂政に就任 した。同時に陸軍中佐になった。大正 天皇は,幼児に脳膜炎を患い,その後,多 くの大病を した。実際は神経が集中 で きな くな り,長い朗読 も出来ないのであった。つまり天皇 としての勤めが出 来な くなった。大正天皇が勅語を巻いて遠眼鏡の様 に した事件が,噂 として全 国に流れていた。 こうして実際の天皇の仕事は,摂政 としての皇太子に任 され たのである。 皇太子 は英明であると宣伝 され,国民 も期待 した。英明であるか どうかは別 として,彼 はある意味で有能であった。なに しろ,後年,第2次世 界大戟を 日本の最高指導者 として軍事的に指導 したのであるか ら,彼の力量 は 軽視できないのである。
敗戦後,天皇制を温存す るために,裕仁天皇が戦争指導ではロボ ッ トであっ た とい う伝説が作 られた。 しか し 「神聖に して冒すべか らず」(明治憲法第三
10 商 学 討 究 第46巻 第 2 ・3号
条)とされ,政治的には絶対権力を握 っていた天皇が,戦争の最高指導者であっ て, これを否定す る人 は天皇の力量を侮辱することになる。それに戦前 は,天 皇の意志 には全 く逆 らえなか った。
彼 は, 自分 と国家を一体の もの と見た。そ して自分が国家の脳髄であ り,臣 下 は自分の手足だ と,考えた。朕の股肱 ‑ 手足 とい う意味 ‑ の臣, とい う発言が,それを示 している。 その彼の思想は,個人主義反対,欧米の自由主 義 ・民主主義反対であ り,天照大神以来の天皇家の強化 ・拡大を旨とし, 日本 つまり天皇家によるアジアの支配が,生涯の理想であった。その考えを祖父明 治天皇か らも受け継いでいた。2)
さて この摂政宮殿下が全国を行幸す ることになった。皇太子 ヒロヒ トは,北 海道の人情 ・風俗 その他を見学す るため,1922(大正11)年 7月6日に函館
に着 喜,各地を巡遊 しなが ら,11日に小樽 に着 き,小樽高商を見学 した。
彼 は午後一時,小樽 の公会堂3)を出た。随員 などが三〇両の車で従 った。
元小樽商業会議所跡,稲穂小学校前を通 って,高商へ向か った。当時の地獄坂 は,右側の山腹か ら正面の塩谷山道一面 に,北海道特有のエゾ松が生い茂 って いた 。
摂政の宮 は高商正面を通 ったが,正面左側沿道には,教授 ・学生が列をな し て迎えた。お召 し自動車は,校内の坂を登 って玄関にとまった。中村和之雄教 授が,校長代理 として迎え,摂政宮は仮講堂で休んだ。 ここはかつて大正天皇 も休息 した所だった。皇太子は,高商中を見学 し,市内各中学校長 も出迎えた。
見学は 1時間足 らずであった。 この時,伴校長の姿が見えないのは興味深い。
小樽市民 と高商の関係者 は,大歓迎を した。殿下親臨の際,親 しく学生の野試 合を ご覧になったの も高商の玄関上のバル コニーか らだった。 4)
1890(明治23)年 に出された教育勅語以来, 日本で は天皇 ‑神様論が全国 で強力に教え込まれていた。小学校 は教育勅語を暗記す る機関 とされていた。
2)バーガ ミニ 『天皇の陰謀』全 7巻 現代書林。
3)当時は,公会堂は,今の市民会館の場所にあった。建物が後に移転 し■た。
4)西川 『ひとす じの道』1973年。
小樽高商 の第 2期 JJ 天皇陛下の白馬のフンを有難 く持ち帰 った り,天皇の入 った風 呂の湯を飲みた
いと思 う国民 もいた。 7月23日,裕仁 は室蘭か ら軍艦で帰 った。 5)摂政の宮は, 天皇になってか らも,昭和11年 (1936年)に再び小樽を訪れ ることになる。
この高商訪問にときに,小林多喜二 も歓迎に動員 されて, 日の丸の小旗を振 る群集の中にいたであろう。 皇太子の顔 もチラッと見えたはずである。多喜二 は,まさか彼が将来の好敵手になるとは,思いもしなか っただろう。なぜな ら 彼は普通の学生であった。彼に殺 されるとは夢にも思えなかったであろう。
また皇族の行幸では, どこで もそうだが,高商生 は身体検査を受 け,検便を させ られた。だか ら,有難迷惑だ ったという声 もあった。
その後 の摂政の宮 について,触れてお こう。1923(大正12)年 に,つ ま り 小樽訪問の翌年,虎 ノ門事件が起 きた。難波大助が仕込杖銃で摂政の宮を撃 っ た事件である。 裕仁 はこれに対 して堂々たる反応を している。だか ら, この人 は神経 の弱い人で はない ことが, ここか ら分か る。1926年 (大正15年 ・昭和 元年)12月,大正天皇が亡 くな り,昭和 とな った。裕仁が天皇 とな り,1927
(昭和 2)年 に即位の大礼が行われた。1931(昭和 6)年 に,「満州事変」が 起 きた。 これは, 日本軍国主義の中国侵略の本格的な始 まりである。6)裕仁天 皇 はこれを聞いて,「仕方がな し」 と言 っている。彼 は, これが関東軍 ‑ 荏
中国 日本軍 ‑ の謀略であることに気が付いていた。
1935年 (昭和10年)に,天皇機関説事件が起 きた。 日本を法人 と見,天皇 を機関 と見 る,美濃部達吉東大教授の説である。 これに対 して天皇 は,「日本 のような君 ・国同一の国な らばどうで もいい じゃないか。」 と,見事な発言を した。同12月 に, 日本 はワシン トン条約を廃棄 した。 これは,1921(大正10) 年12月のワシン トン会議で決 まった軍縮条約である。 この軍部のワシン トン体 制打破路線 に,天皇 は同調 した。
5)『小樽商科大学史』財界評論新社 1976年。
6)第2次世界大戦は,1939年に始まったとされる。つまりヒトラーのポーランド侵 略である。だがそれはヨーロッパ的観念である。アジア的視点からは,第2次大戦 は,この1931年から始まっている。
12 商 学 討 究 第 46巻 第 2 ・3号
1936(昭和11)年 に,二 ・二六 (にいにいろ く)7)事件が起 きた。青年将校 (主 に尉官 クラス)の天皇絶対 ファシス ト的 クーデタだ った。彼 らは北進 (ソ 連攻撃)論を持 っていた。北一輝思想 (『日本改造法案』)に少 し影響 されてい た。 この高官襲撃事件の結果 は, こうである。岡田首相 は死ななか っ・た。高橋 蔵相 は殺 された。斉藤内大臣,鈴木侍従長,牧野前内大 臣 も死ななか った。渡 辺教育総監が殺 された。天皇 は,その青年将校を 「あの気の狂 った暴徒 ども‑
‑」 と言 い,「朕が股肱の老 臣を殺 りくす・‑‑」 と怒 った。彼 は,軍部がなか なか鎮圧 しないのを見て,「朕 自ら近衛 師団を率 い, これが鎮定 にあた らん」
と叫んだ。 これをきっかけに鎮圧が進んだ。 この事件以後,天皇 は,政治に ・ 軍事 に自信を持つ よ うにな ったのである。
2 徴 兵
日本 の徴兵制 は, 3つの時期 に分 け られ る。1873(明治 6)年 に徴兵令が で きた。1889(明治22)年 に,その徴兵令が大改革 された。新徴兵令である。
1927(昭和 2)年 に兵役法がで きた。小林多喜二 は, それゆえ第 2の時代 に かかわる。 第2の時代 に国民皆兵の原則が成立 した。ただ し1年志願制があっ て,それ は, 中等学校以上 の卒業者,かつ満26歳以下 (1893(明治26)年 に は28歳以下 になる)の者 に認め られた。 こうして兵役を 1年で済 ませ ることも で きた。
徴兵 の北海道への適用 は1896年 (明治29年)だ ったので, それ以前 は本籍 地を北海道 に移 して徴兵を逃れ る例があった。夏 目軟石が岩内へ籍を移 したの は有名 な例で あ る。一万,1882年 (明治15年) には軍人勅諭が 出され,絶対 服従の精神がたたき込 まれ始めた。8)
当時,徴兵検査が あ った。明治22年 (1889年) に,徴兵検査制度 が確立 し
7′)当時の人 々は,必ず 「にいにいろ く」 と言 う。最近の若 い研者 は 「ニイテ ンニイロ ク」 と言 うが,我 々にはピンと来ない。
8)大江志乃夫 『徴兵制』岩波新書。
小樽高商 の第 2期 13 ていた。昭和2年 (1927年)4月 に,徴兵令 は兵役法 とな った。20才 にな っ た日本人男子 はすべて, この徴兵検査を受けねばな らなか った。出身地で体格 検査をす るのである9) 。 これによ って, 甲乙丙丁戊 と等級がつ け られた。身 長が155cm以上,税力O.6以上,胸周 りが身長の半分, というのが甲種であり, 1927年 (昭和 2年)か らは152cm以上,0.3以上 とな った。視力 と肺病が注意 された。ふんど し1本の裸で,全て見せた。親 にも見せないところまで見せた。
「前近代的な制度で」(大津)あった。乙種 は,一,二,三種があ り,甲種 と 第一種乙 とが,現役 として翌年入隊 した。第二種乙 と第三種乙は,予備役 とな っ た。 これ らは,召集を受 けると,入隊す ることになる。つまり3カ月の在学中 の入隊である,または 1年志願す ると卒業まで延期 された。
ところが 1年志願制 は,前述の徴兵令が兵役法 と改め られた時点で,全廃 さ れた。 したが って学生への特権 ‑優遇 は制限されることになった。 しか しなお 将校‑の道 はひ らかれることになった。それは幹部候補生制度の新設である。
学生の特権 として,徴兵 は (適令をむかえて も),兵役法第41条 によって, 卒業まで延期す ることができた。在学中の適令該当者は,毎年,在学中の学校 長を経 由 して所轄の連隊区司令官に 「徴兵猶予の延期届」の提出の労を義務づ け られて いた。それを怠 ると在学 中で も,検査 一入隊 しな ければな らなか っ た。10)1年志願を しなければ,在学中で も入隊 しなければな らなか った。だか
ら在学中に3カ月入隊す る人 もいた。ll)
多喜二の徴兵 については,はっきりしない。 しか しもちろん彼 は徴兵検査を 受けた○秋田で受 けたのではないかOだが背が低 く鉢 も小 さいので,多分,甲 種合格ではな く,丙種 ぐらいで,兵士 としては失格 となったのではないか。ち
なみに彼 は身長が154cmであった。
9)小樽では少な くとも太平洋戦争の ころ,公民館で検査 された。
10)以上の事を全て捨象 して行われたのが,後のいわゆ る学徒 出陣であ る。昭和18年 (1943年)9月21日の特例 による措置,つ ま り 「在学徴集延期臨時特例」が閣議 決定 され,徴兵猶予 は全面停止 された。 3回の繰上 げ卒業に引き続 く措置 として, 昭和18年12月に全国一斉 に該当者 は検査 ・入隊 となった。
ll)『坂の道』卒業50過 てママ)年記念論文集 ‑ 緑丘大正12年会。
14 商 学 討 究 第46巻 第 2 ・3号
延期特例 は,最高27才までの猶予があった。徴兵検査を受けな くて もよい も のである。高商では25才までの猶予があった。希望者 は願いを出 し,それに校 長が判を押す必要があった。出生地の連隊区へ届けるのであった。 12)
学生 ・那珂 捷 (昭和2年 (1927年)辛)は書 く。「なに しろその ころは, 在学中に出身地で徴兵検査を受 けるのだが,その時には,万一にも採用されて は大変,大体十 日ぐらい前か ら毎 日醤油を一合づっ呑み,‑ これで鉢がや せ細 る ‑ 連夜深酒を無理 にも呑んで,半ば徹夜を重ね る。 その挙 げ句 に, 検査当 日はそ うこうとして検査場へ出向 く。 す ると検査官 は,『ウン,まあ安 心 しなさい。君は丙種だよ』 といって,印を押 して くれた. これで一年志願の 必要 もない」。 13) (句読点を加えた)
3 小 樽
当時の小樽の状況について,田中先生 は書 く。「通称 ドン山 とい う高商の裏 山か ら正午の ドンが鳴 っていた。当時の環境 は万事がのどかで,自然環境が豊 富で詩情を駆 り立て るものに満ちていた。往来ではラオ (煙管)の修繕屋が叫 んであるいた り,季節の物売 りが威勢 よ く遠ざか ってゆ く。 5月の節句になる と,熊笹を刈 って きてペ コ餅を作 り,重箱 に入れて隣近所に配 る。近所か らも 色や味 も格別 なべ コ餅 を貰 って,隣のペ コ餅 は うまいな どと言 い合 って い
た。」14)
当時は人力車の時代だ った。大正11年 (1922年),旭川丸井の呉服店 と洋物 店が合併 し,百貨店 として開業 し,小樽支店 も函館 とともに新館落成の うえ, 百貨店 として開業 した。
伊藤妾 は言 う。「小樽 は一 口にいえば明治の旬が残 っている古 びた町」であ
12)この項 目,大津博士氏 に教 わ る。
13)「小 樽夜景」 (『緑丘』No.63)
14)田中孝 「倫理 と仏教 」 (『縁 陵論集 』第 13号 ,昭和44年 ,2ペ ー ジ) 田中氏 は当時開運 町 に住 んで いた。
小樽高商の第2期 15 り,「北海道 と云 う所 に しては小樽 は珍 しく明るい南国的印象を与え る」。「明 治時代には,小樽 は港町 として大をな していたのに,札幌は原始林の中の急造 の植民村 に過 ぎなか った。ニ シン漁業の中心地で,またカラフ トやウラジオス トックとの接触を保 っていた小樽の人間は,漁業,貿易,商業において,積極 的な,また向こう見ずな,抜 け目のない性格を持 っていた。」 15)
小樽港一杯を船が うめっ くしていた.小樽区は全盛時代で,練の香 りが港に 満 ち満ちていた。町に鉄道の踏切があった16) 。 今の 「す し屋通 り」である。
港 も網 にひかれた練の白子で港の水の色 も白く見えた。防波堤で手綱で練をす くいあげた学生 もいた。17)多喜二が 1年のとき,庁立小樽商業が焼けた。
高商生がよ く行 ったのは,サ ッポロ直営バー,またはビアホールで,公園通 りにあり, この ビア ・ホールを 「直営」 と略称 した。高橋バーもあった,また は高橋 ビアホールであり,‑パイ一五銭の生 ビールだった。黒 ビール もあった。
そこは公園通 りの角にあ り,その後, 日本生命小樽支店 (現在,教育委員会が ある。花園町。)になった。高橋 ビヤホールは住友生命の角にあったとい う説 もある。 ここは,小樽の ビヤホールの元祖で,高商生が出入 りし,一杯十銭そ こそこでラッパ型 コップを傾 けた。
当時小樽の歓楽街 は,妙見川を中心に して公園通 り,稲穂町辺に形成 されて いた。妙見川は花街であった。妙見川の高島橋は,大正11年8月の架設 (松田) である。妙見川畔に,すきやき亭 「米久」があった。「蛇の 目」寿司があった。
蛇の冒す Lは,大衆料理屋で,「元来が 「寿司」が看板だったが,和食で こい, 洋食で こい, ここへ来 ると,大抵の料理が落 ち着 いた雰囲気の中で食べ られ た。」 18)赤いたすきの女中が給仕 した。
第一花園大通 りに,左文字書店があった。左文字万造 さんが左文字書店にい た。公園の上 に,「桃太郎だん ご」があった。花園町の 「赤のれん」の浪ちゃ
15)『伊藤整全集』新潮社 第24巻300ページ。
16)その後,高架になり,その後,道路にかかる部分が撤去された。
17)小沼 「回想の小樽」(『坂の道』)27ページ。
18)清水 「思い出すままに」(『坂の道』)58ページO
16 商 学 討 究 第46巻 第 2 ・3号
ん とい う女性がかわい くて,多喜二の組でよ く話題 にのぼ った。第二花園大通 りに,工藤古本店があった。その後,第‑花園大通 りに移 った。第二花園大通 りに,古本屋 「文屋」があった。錦座,公園館,中央座,電気館などの活動写 真があった。
当時,双子姉妹で有名 な秋 山弁護士の令嬢や,山田順子が話題 になった。
つ まり,整の在学 中だったが,後者 は くわ しく言えば こうだ。増川才吉 は, 大正 9年,ユキ とい う美 しい妻を得,小樽で弁護士を開業 した。女の子が 2人 で きた。市役所通 りに住居兼事務書を構えた。ゆきは秋 田県 出身で,高女を出 て,上京 し,増川 と知 り合 ったのだった。 目のパ ッチ リした秋田美人であった。
小樽でユキは,文学 にかぶれ,子 どもを乳母 にまかせ,家庭を顧みず,小説を 乱読 し,作家希望 とな った。駅通 り 「北海ホテル」 19)の一室を借 り切 り,篭 っ て,長編小説 「流 るるままに」を執筆 中 との新聞ニ ュースが,でかでか と伝え られた。20)その後,彼女は夫や子を残 し,家を飛び出 し,原稿をもって上京 した。
東京の徳 田秋声の もと‑走 り,山田順子の名で弟子入 りし,同棲の話題を蒔 いた。増川代議士 とは離婚 した。ある出版社の社長 と肉体関係を もった代わ り に,小説を出版 した もらった。ペ ンネームは山田順子である。その後,竹下夢 二 などと浮名 を流 した。多 くの男性や徳 田秋声 と同棲 した。結局彼女 は小説家
としては成功 しなか った。21)
越崎宗一 は,昭和 5年 (1930年)上京 の折 り,銀座裏 のあ るバ ーで,真 っ 赤な洋装の順子の酔 っぱ らい姿をみて,幻滅を感 じた。後 に上京 した小林多喜 二 も, ここに一度行 った ことがある。順子 は,すでに有名 にな った多喜二 に会
いたいと言 っていた。多喜二 はそのバ ーで,越崎 と同 じよ うに感 じた。
万嘘 目正 (当時 は侃)22'が小樽 にいた。後 に有名 な流行 曲作 曲家 にな る人
19)大正7年 (1918年)に,純洋式 「北海屋ホテル」として設立,大正10年 (1921年) に 「北海ホテル」となる。
20)『小樽新聞』のマイクロ ・フイルムによれば,大正14年11月15日に,「流れるままに 恋の順子さん (下)』がある。(上)は欠面。
21)順子について,夏堀正元 『小樽の反逆』(岩波書店)にも少 し記述がある。
22)方城 目。1905‑1968。空知に生まれる。作品に,『旅の夜風』『純情二重奏』など。
戦後には,『リンゴの唄』『悲 しき口笛』『越後獅子の歌』『この世の花』がある。
小樽高商 の第2期 17 であ り,「愛染かっ ら」などで大 ヒッ トす る。多喜二の上級生で彼の所 に遊び に行 っていた人がいた。
毎年 6月の初めになると,小樽の公園通 りの夜店に,鈴蘭の花が出始め る。
昭和 3年 (1928年)の 「小樽市大通 (花園町)服装調査」によれば,公園通 りは,いろいろな露店があ った。L西瓜一五軒,味瓜 23),おや き24),や きき び 25),ゲ タ, メ リヤス 26),歯 ブラ シの 日用 品の店,な どで あ り,計102軒 あった。夏には,薮鴬が鳴いていた。女学生は和服に袴姿だ った。 今の商大通
りは,昔 は高商通 りといった。、
4 女子 との関係
多喜二の同学年生の奥野 と石川が,三年生の春 に,樽前 山 ㌘)の登 山に行 っ た。たまたま修学旅行の小樽庁立高女の三年生 と,登別温泉で泊まり合わせた。
両君 は,いたづ ら半分で,女学校の先生然 として,高女生の中央 に座 って写真 を撮 った。それが女学校で問題にな り,高商側は否認 していたが,両人の写真 をっ きつけ られて抗弁の余地がな くなった。両君 は7月末か ら9月初めまで, 夏休み中,停学処分 となった。
これを,級友の野界 は後に,「大岡裁判を思わせ る情の こもった処置であっ た」28)と書 く。夏休み中の停学なので,2人にとっては痛 くはない処置であった か らである。だが,高女側が このよ うな小 さな事を問題 とし,抗議 し,高商側 も何等かの処罰を しなければな らなか った ことが,当時の時代を物語 ってい る。
高商の北斗寮の数名が,軽川に鈴蘭取 りに行 った。 その帰途,列車内で,高
23)関東地方でいう,ま くわ うり。
24)東京では,太鼓焼 き,今川焼 き。
25)焼 いた トウモロコシ。
26)毛糸,綿糸で,機械で編んだ織物。
27)たるまえざん。支忽湖の南側の山。
28)『文集』11ページ。
18 商 学 討 究 第46巻 第 2 ・3号
商2年生の中村治四郎が,双子姉妹で有名であった秋山弁護士の令嬢に,風 呂 敷を貸 した。後で令嬢が風 呂敷を返 しに来て,寮でカルタや トランプを して, 夕方 まで賑やかに遊んで帰 った。高商は,普通 は女人禁制なのである。
これを硬派の寮生が騒 ぎ立て,温厚な寺田舎監 (先生) も, これをやむをえ ず謹慎処分に した。 これを,野界は, 「男女共学の今 日か ら見れば,両事件 と
も他愛のない事柄であったのに,時代の相違 は驚 くの外ない」 と書 く。
5 生徒一般
本州か らきた生徒 は,津軽海峡を田村丸で渡 った。列車で きて,中央小樽駅 (今の小樽駅)へお りた新入生 は,学校か らの回示によって,駅長室を訪れ, 所属の寮を聞かされる。親切 に助役が名簿を くくる。上級生が きて,寮へ案内 す る。入学時,まだ鉛色の冬空が低 く垂れ込め,縁町や地獄坂 も,一面の残雪
と ドロンコの雪解 け道である。
寮 は,8畳 に3人 とか, 6畳 1室 とかであった。数 日後,新入生の歓迎会が 行われる。その夜,歓迎ス トームがある。すなわち,新入生が寝っいた ころ, 廊下のアチコチか ら,にわかにジャンガ ジャンガと鳴動が起 こる。.太鼓やバケ ツの音である。人が部屋 に入 って くる。ひどいのは,部屋の板戸がひっくり返 され,廊下は水だ らけとな り,布団の上 に石炭や炭ガラがば らまかれ る,とい うもの もある。 このス トームに対 して,返礼ス トームを した学年 もある。 29)
北斗寮舎監 は寺田貞次先生,文行寮舎監は中村貿二郎先生で,そ こにはピン ポ ン台やオルガ ンがあった。玉の井寮舎監は,小尾範治先生である。寮には賄 い人がいた。献立を,賄い委員が計画 した。寮生 は,かか った食費を払 うので ある。寮祭があった.寮の一つ,第四案分舎が,教師の宿舎 になった。そのた め学生が追い出された。寮を出て下宿す る人 もいた。椎名先生 は学生のように 下宿 していた。
29)「坂の道」卒業50週 (ママ)年記念論文集 ‑ 縁丘大正12年会。
小 樽高 商 の第 2期 19
高商の入 口の槙 に新聞閲覧室があった。校庭 に八重桜が植え られていた。図 書館か らは,港の灯が見えた。剣道部,柔道部や,野球部,庭球部があ り,蹴 球 ・スキー ・スケー トが一つの部であった。恒例 として4月に学生活動の各部 の事業 と予算を決定する委員会が開かれる。野球部,庭球部は,年間予算が各
2,3百 円あった。大正11年 (1922年) にスキー部が独立 し,陸上競技部 も 新設 された.高橋次郎が,スキーで,また陸上競技部で も活動 した。高橋 は,
「大東亜共栄圏」(『経済理論』昭和19年 (1944年) 6月20日)が原因で,昭 和23年 (1948年)に教職追放 となった。昭和27年 (1952年)に死んだ。
当時のスキーは,普通の皮 ぐつに,アルパイ ンの金具を しめ,単杖である。 スキーに石 ローを塗 り,2箇所 に荒縄を結び付け滑 り止めにす る, とい うもの だった。民間団体 として小樽 スキー倶楽部があ り,それが主催 して,大正12年
2月10,11日に,第 1回全国スキー大会が庁商の前庭で行われた。ジャンプは, 高商のジャンパー,讃岐梅二 30)が,16m余で栄冠をかちえた。
治安その他の理由か ら中絶 されていた満鮮旅行が,多喜二の2年の時か ら再 開された。31)
高商の学生 は,町の人たちか らエ リー ト族のように思われていた。一方,肋 膜,結核,死 は,学生の亡 くなるコ‑スだ った。学校で,「休学」の掲示が貼
り出されると,やがて追 いかけるように,「死亡」の掲示が出た。
小尾教授 は,最終講義で,「人生の目的は活動にあ り」 と言 い,大西は,「人 間ほど面 白い ものはない」 と語 った。浜林 は,「中学一年の英語を完全にマス ターで きれば,大学の先生 にで もなれ る」 と言 ったことを,ある学生 は思い出 す32)。 西尾先生 は,習字を教えた。
宇治山田商業学校か ら,わざわざ遠 い小樽高商に,大正12年 (1923年) に, 西川正 巳 (明治38年〜昭和47年)が入学 した。つまり多喜二が3年の時である。
「小樽 は日本一道路の悪い ところや」 と聞いて きた。「当時の小樽高等商業学
30)卒業して,北海道炭鉱汽船に入社 し,その取締役営業部長になった。
昭和39年 に死。
31)『坂の道』
32)西川正 巳 『ひとす じの道』1973年,19ページ。
20 商 学 討 究 ・第46巻 第 2 ・3号
校 には,非常 に明るい自由な空気が湛 ?てい串。」33'外人教師のラウンズさん が,初めての授業に教室に入 って きて,「グッ.ド・モーニ ング, ジェン下)レメ
ン」 と挨拶 されて,西川 は大人になった喜びと,驚 きを感 じた。
西 川が1年生の摩 ,.経済原論の大熊信行が,膨大 なMillのPrinciplesof PoliticalEconomy(、ミルの 『経済学原理』)34)を講 じられるとき,真先に,
「君達の うち唯物論 と唯物史観 について知識 ある者 は手を挙げてみよ」といい, 4,5人が手を挙げたので驚いた。市公会堂での高商の講演会で,今 (ママ, 金が正 しい)井健四郎が,石川啄木の歌 「一隊の兵を見送 りて かな しか りL 何ぞ彼等甲 うれひ無げなる」をひいて,さかんに軍隊批判をす るのにも,西川 は驚いた。西川は,激 しい思想の波の吹 きあれているのを身に しみて感 じる思 いが した。西川が 1年生の とき,稲穂小学校の講堂で牧野英一博士が講演 され たことがあった。牧野博士 は,その当時における最 も進歩的な法律学者であっ
た 。
小樽高商は,当時の学生の思い出によると,大変立派に描かれている。
多喜二の同学年卒業生の徳橋 はい う。「三年間われわれは全人間的に高め ら′
れた。よい学校 に入 っこた感謝感激 は,言 い尽 くせない.」同 じく伊部は言 う。 高商時代のメ リッ十は,人格の形成に大変役立 ったことだ。小樽における3か 年の高商生活は,一生において最 も有意義であ り,終生忘れ得ぬなっか しい追 憶 に満ちた年月であった。 しか しある教授 は,ある本を二言一句同 じに講義 し た。そ こである学生 は,それを怒 った, こともある。「Ⅹ教授の Ⅹ科 目講義に 失望 と言ふより義憤を覚えた。講義が始 まって何回 目かにひ ょっと之 は以前に 読んだ本 とおな じで はないか と思い乍 ら下宿 に帰 って早速その本を とり出 し ノー トと比べてみた ら一言一句変 らない。腹立た しくて・‑‑以後その講革 は図 書館 に逃避 した。」35)
同 じく富樫 は,一般論 として書 く。「当時は,大正デモクラシーはなやかな,
33)徳橋の稿,小樽高等商業学校大正十三年卒業 『五十周年記念文集』
34)JohnStuartMill(1806‑1873)イギ リスの経済学者,哲学者,思想家。
35)能村敏治 (『坂 の道』)85ページ。
小樽高商 の第 2期 21 政治 ・経済 ・社会 に亙 る思想 と学問の躍動す る画期的な時代であった。青年学 徒 にとって も自由の天地のひ らかれた感ある,明 るい新鮮 さに充ちた環境のな かで学生生活をエ ンジョイ出来 たまことに恵 まれた時期であった。」36)
これ らの回想 は間違いではないのだが,普通一般の学生の一側面を,山田季 郎が書 いている。気ば らないで,そ して控え 目に,である。 これはかな り正直 なのではないか。よ く読む と少 し批判的である。 どんなよい学校で も普通の学 生がお り,それはどこで もいっで もそ うであろ う。 その側面 も彼 は語 る。
「高等商業学校 は,高等 と名の るか らには,商業 に関す る高級な学問だけを 教えて くれ るところだろ うと期待す るが,実際の教科 は必ず しもそ うばか りで はなか った。 もちろん吾 々が高級な学問 と信 じていた経済原論,会計学,財政 学,金融論などとい うもの も,教え られるはずだが,それはもう少 し後の こと で, さ しあた っての吾 々の教科 は,そろばん,簿記,商事要綱,習字,算術, 商品学,工学などという,考えた り味わった りす る学問よ りも,む しろ覚え る ことに重点のおかれた学科の方が多か った。」「秀才 と呼ばれた ものは‑‑・この
‑‑覚え るという作業を軽が るとや ってのけたが,かな り多 くの ものは, この 覚え るとい う作業 に倦んでいたのか,或 は過重であるか して,次第 に逃避をは じめてい った。」 この指摘 は,当時の 日本 の教育 に, また現在 の 日本 の学校教 育 にもあてはまる。 普通の高商生の行動 も理解で きる。 さて,向学心、に燃えて 来た意気込みを持続 しないで,いっ しか学生 くずれを して しまった ものは,上 級の2年 に も 3年 に もいた。「当時,マル クスの経済学 もその革命理論 も,ま だそ しゃく不充分で,吾 々の ところまで浸透 して くるはど一般 的でなか った し, ま して非合法化扱 いされていた革命運動 な どには」, ノ ンポ リの群 は 「全 く無縁であ った し,その温床 に もな らなか った。ただただ青春 のはけ口を求 め, 学生生活を誼歌す ると称 して,昼 とな く夜 とな く,緑が丘の坂を登 り下 りした。」 秀才 は小数派であった,彼 らが多数派であ った。37)
手嶋恒二郎 は,1906年 (明治39年)宮城県 に生 まれた。1918(大正 7)年
36)富樫,同。
37)山田,同。
22 商 学 討 究 第46巻 第 2 ・3号
に仙台商業学校 に入学 し,1923(大正12)年 に卒業 し,1924(大正13)年 に 小樽高商 に入学 した。 ち ょうど多喜二が卒業 した年 だ った。彼 は,翌年 ‑ 1925年の小樽高商軍教事件 に関わ った。2年生の時であった。1927(昭和 2) 年 に高商を卒業 し,数年後,千代田火災保険会社に入 り,戦後に社長になった。
「あの頃勉学のために北海道に渡 って来 る内地か らの学生 とい うと,そのほ とんどが例外な く持 っていた石川啄木の歌集,そ してその歌集は,そ うそ う, 大体 は例の草色の布表紙の文庫本」,そ して,「あの小樽の学校に浸透 していた,
ち ょっとはかでは見 られないと思われるおお らかな,それでいていっ も情熱を たたえて絶ゆることのない独得の校風」 38)と,手嶋は思い起 こす。
6 時代の中の高商
手嶋は書 く。 39)
あの時代 は,世の中の人々の心を右 に左 に動揺 させ るための舞台装置 として は欠けるもののない多様性を持 った時期であった。第‑,昭和の初期 といえば, 世界的大不況のなかに呼びこまれて, 日本 もそのどん底にあった。倒産者が相 次 ぎ,失業者が多 くな り,国の全体がやがては じまる長い暗黒時代に向か って の前馬区症状を形成 していった。小樽の当時の実相のなかには,そ うした全国的 風潮を, とくに象徴的にあ らわ しているものがあった。
激 しい無政府主義者 の活動,それに押 さえ られた一連の社会主義団体の反 発,全国的に見て も他の町ではあま り見 ることので きなか ったⅩⅩ人 40)団体 の政治的地下活動,いろいろな形 と色合 いの政治的運動の展開のなかにあ っ て,ひときわ しずかに深 くしみ込んでいった思潮,小樽 に限 った ものではな か ったが,あの町に殊更 に 目立 って成長 してい った思潮,それ は自由主義で あった。
38)久城毒右衛門編 『あ る情熱の記録 手嶋恒二郎伝』保険研究所 昭和56年。
39)文章は,余分な句を省いて,ここで利用する。
40)多分,朝鮮と入る。
小樽高商 の第 2期 23 高等商業 とい う学校 は,我国の資本主義経済の発展 のための必要か ら全国的 に設立 された施設である。資本主義体制下の企業の経営上必要 な事務的技術を 身 につ けた者を養成す るための もの [である]。
有名 な ヒル ファディ ング41)の書 いた書物 に 「金融資本論」42)とい うのがあ る。その中にはサ ラ リーマ ンに関す る一節が ある43) . 一連 の実業学校 とい う のは,いみ じくもあそ こに書かれているよ うな性格のサラ リーマ ンをっ くるた めの学校である。だか ら我が小樽高商の学生 として身 につけるべ き本来の義務 と目的といえば,前述のような本 旨に添 うものでなければな らなか った。事実, 当時の学校 としての正規の教程 に盛 り込 まれているものは,すべてそ うい う主
旨の ものであった。
ところで,どうも私 [‑手島]の在籍 した当時の小樽の学校内の空気 は,そ の教程その ものは前記の通 りであったのに,さて学内に流れていた空気 は, ど うしてああ も桁 はずれで,いわゆる 「国家主義」的な ものか らは遠いのであっ たのか。それはつま り,当時の 日本国内に流れ は じめていた,そ して北海道で は特 に急進的であった自由主義思潮の浸透があったか らであろ う。 そ うい う背 景の もとでの,そ うした思想的の ものが私の学んだ小樽の学校内の空気を特別
に彩色 していたのだ。
そ うした実状を明 らかにす るための材料 として,当時我 々が使わせ られた教 材の ことなどを取 り上 げるが,むろん商業専門校であるか ら,それにふ さわ し
41)RudolfHilferding (Wief11877‑Paris1941)0 『金融資本論』の著者として有 名。オース トリアそして ドイツの社会民主党員 ・経済学者。
中期に, 「組織された資本主義」論などを唱え, ドイツ社会民主党を理論的に指導 した。後期主著として 『ドイツ経済批判』,「歴史的問題」など書く。前半の伝記と して,拙書 『若きヒルファディング』(丘書房 1984年)を見よ。全体 として, Wilfried Gottschalch,StrzLhtzLrL)eranderungen der Gesellschaft und politischesHandelninderLerhreuonRudolfHiferding,Berlin1962.
翻訳 『ヒ)レファディング』 ミネルヴァ書房 1973年。[研究]黒滝正昭 『ルー ドル う ・ヒルファーディングの理論的遺産』近代文芸社 1994年。
42)DasFinanzkapital,Wien1910.この研究として,さしあたり拙書 『金融資本 論の成立』(青木書店 1975年)を見よ。
43)『金融資本論』第5編を見よ。
24 商 学 討 究 第46巻 第 2 ・3号
い科 目は一杯 あった。法律学,簿記学,商品学,そ して会計学 とい う風 に一応 はみんな揃 ってはいた。 ところがそれ らの学科の もつ或いはそれ らが学内でみ んなか ら受 ける,ムー ドとで もいった らよいか,そ うい う点 について, これを 他の学科 に比較 してみると一段 も二段 も低 いのであ った。 はかの もろもろの学 料,すなわち一連の語学,経宿学,経済思想史,哲学・・‑・であるが,そ ういう 種類の ものの方が遥かに広 く人気があった。そ して例えば,英語ばか りではな く,独逸語で も仏語で も露語の場合で も,用い られ る書籍 というと固い ものは ほとん どな く,文学的の ものが大半 であ った。例えば英語で, キーツ44)も,
トマス ・ハ‑デ ィ45)も知 った し,スチブ ンソン46)も随筆 にいたるまで, とも か く恰 も文科の学生で もあるかのよ うに読 まされた ものであった。
M [蒔田栄一である] とい う若い英語の先生がいたが,上 田敏の 『海潮音』
の講義が得意で,我 々はあれ もこれ もと暗唱させ られた。その先生,どうかす るとボヘ ミア ン ・ネ クタイを締 めてや って きて,それを春風 になびかせなが ら,緑の丘をい とも得意そ うにそぞろ歩 きしていた。なん とも商業学校 らしい ものでなか った。 ともか くも一風変 った小樽高商 とい うものであった。 といっ て,本物の真面 目な,つま り会社向き,銀行向き,商社向 き,そ して先生向き といった勉強家 も実 は沢山居 った し,またそ うい う学生を指導す る立派な教授 方 も多 くいた。
なん とも目だっ ほどの文化的な どとい う雰囲気の いかに豊 かであ った こと か。
後年 あの学校の卒業者のなかか ら伊藤整 とか,小林多喜二 とか,その他の名 のある一種独得 な個性のある数多 くの芸術家のあ らわれた理 由は,当時のあの 学校内に流れていた色彩豊かな環境 にあったのではないか。
例えば経済学 について,教科書 にジョン ・スチュアー ト・ミルの原書を用い
44)JohnKeats(1795‑1821). イギ リスの詩人。
45)ThomasHardy (1840‑1928).イギ リスの詩人,小説家。
46)RobertLouisStevenson (1850‑94).イギ リスの小説 家,詩人。『宝 島』で有 名。