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小樽高商の先生たち

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(1)

小樽高商の先生たち

倉 田 稔

目 次

は じめ に

1

ダニエル ・ブル ック ・マ ッキ ンノン

2

ニ カラーイ ・ア レクサ ン ドロヴィチ ・ニ ェフスキー

3

大熊 信行

4

伴 房次郎

5

ルイス ・フ‑ ゴー ・フラ ンク

6

ジ ョー ・アルベ ール ・デーゲ ン

は じめに

ここでは小樽高等商業学校 ( 以下,小樽高商 と略す)の

6

人の先生を個別 に 紹介す る。同時に これは小林多喜二伝の一部分である。多喜二伝 は,「 第

1

部少 年時代」を,すでに 『 人文研究』第

86

韓,および第

87

韓, に載せた

。86

韓 は小 学校時代前半

,87

韓 は小学校時代後半および庁商時代前半である。予定 してい る庁商時代後半 は,『 人文研究

』88

韓 に載せ るはずである。なお

,

「 小樽高等商 業学校 と渡辺龍聖」 は,『商学討究』第

44

4

号 に載せた。本稿 はその継続で

あ り,多喜二伝 (

6

)にあたるものであ る。

1

ダニ エ ル ・ブル ック ・マ ッキ ンノ ン

高商の英会話 の先生 の

1

人 は,マ ッキ ンノ ン

(McKinnon)

で ある。息子

53〕

(2)

54

商 学 討 究 第

45

巻 第

1

さんの発音によればマ ッキノンと聞 こえる, しか し言 いふ るされているように 書 く

彼は大正

6

年か ら昭和

16

12

8

日まで高商で教えた。小林多喜二 も彼

に英会話を教わった。

マ ッキ ンノ ンは

,1890

年 にアメ リカのボス トン市に生 まれ,‑‑ヴァー ド 大学で古典学を学 び

,1914

年 に卒業 して ,同 年す ぐ日本 に来た。山口県長府 の豊浦中学で教えた。 このころは, 日本が 「お雇い外国人教師」を求め始めた 時代であった。彼は, 日本人 ・三島家の泰子 (しん こ) と結婚 した。三島家は 武家であった。彼女はクリスチャンであった。そ して

3

児を もうけた。長女ベ ティ‑ ( エ リザベス) ,次女 リンコナ,長男 リチャー ドであるOマ ッキ ンノン は,一度アメ リカへ戻 り,カ リフォルニア州大学で修士号を とり,小樽高商の 渡辺校長に呼ばれていたので

,1917

年に小樽へ来た。

彼はこの上な く小樽を愛 していた。 ロバに

3

人の子供を乗せて小樽の街を散 策 して,有名だ った。 日曜日には家族そろってロバにまたが り,公園を散歩 し た。だか ら町では,「ロバ先生」 と言われ慕われた。 このロバの剥製の一つは, 子供たちが通学 した小樽市立緑小学校 ( 覗)に,今 もある。

マ ッキ ンノンは,当時,「 丸顔,色 白で,口髭を立て,男 ざか りの美 しい男 性」だ った。 1 )

彼は英語を問答法で教えた。伊藤整 と同 じ卒業生の 1人が,彼について英語 で こう書いている

意訳 しておこう

「 彼 は良いところが沢山あった。 自分の義務に忠実だった ことが一番いいと ころだった。いわず もがな,彼が全 く休まなか ったことは,律儀である証拠で ある。反対に,他の教師たちはどんなにか授業を しなかった。彼の教え方 はな ん と効果的だ ったか。なぜそ うだったのか ? 教科書 も講述 もしなかったか ら だ。教師が教科書を使えば,講義は無視 される

講述 に頼れば,生徒 は口述を 筆記 しなければな らない。そ うなれば,教師は再生音機その ものとな り,生徒 は記録機械である

マ ッキ ンノン氏 は,利口だったので,問答法を用いた。問

1)

『 伊藤整全集』第

20

巻 筑摩書店

402

ペ ー ジ

(3)

小 樽高商 の先生 たち

55

答法をすれば,生徒は教師の言 ったことを無視できない し,生徒はノー トをと る必要はない。 これは教師と生徒の間に愛情を生む,問答方法そのものだ。無 視 もされず,愛情があって,教育効果 は作 られる。た しかにマ ッキ ンノン氏は このような理想的な授業をや ってみせた。その理想的な授業をす るために,彼 はまず第一に独 自の授業計画を念入 りにつ くった。それには, 日本人生徒に有 用で 「間違いやすい表現」が集め られた。第

2

にこんなうまい授業計画に加え て,彼はそれを とて もうまく行 った。結論 として,彼の授業のや り方 は,いっ も生 き生 きしていて,面白く,魅力的だったのだ。素敵な教え方のために,私 はいっ も彼の授業が面 白か った。発音が大切だ と強調す る彼の話を再現 しよ う。 日本でアイス ・クリームは,I

scream

と聞こえる, というのだった

」 2)

彼にはマーク ・トェイ ン流のユーモアがあった。

高商の臨時教員養成所では,集中的に英語が教え られた。

マ ッキ ンノンはナイフ ・フォーク一式を持参 し,洋食の食べ方を教えたりし た。伊藤整は言 う 。 「マ ッキ ンノン先生が初めて私のクラスに来」たとき,「 五 十人 くらいの生徒を前に お皿やスプー ンやフォークをた くさん持 ってきて 先生の卓上 に置いて,深い皿,浅い皿をみんな広げて,西洋の食事の食べ方を 教えます. 」 「これは一九二五年 ごろの ことで,北海道のいなかの町の少年の私 なんかそ ういうものは食べた こともないんです。」だか ら 「 非常 に心強いこと で,一生懸命見て覚えよ うとした。」その次の時間に,マ ッキ ンノンは 「 黒板 にチ ョークで裸の女の人形を描いた

O

これはえ らいことになったと思 って見て います と,それに下着をだんだん着せていきま して,スカー トを着け上着をっ ける。そ して西洋の女性の着物 はこういうふ うになっています」と教えた。 「そ う い う授業の仕方 は,当時の 日本の教育の習慣 にはない奇異な もので した。」そ の ころの 日本のいなかの高等商業学校の授業の仕方 は非常にペダ ンティック で,東京の大学で習 ったような ことを先生がノー トを とらせてむずか しいこと を教えた。マ ッキ ンノン先生の授業の仕方 は,学生たちか ら見 るとどうも軽 々

2)

403

ペ ー ジ

(4)

56

商 学 討 究 第

45

巻 第

1

しい。それでだんだん先生を軽ん じて,お しまいには先生の時間を逃げ ( エス ケープ)だ して しまう

先生が腹を立てたよ うに して学校の前の坂道 を とっ とっとっとっと帰 っていかれるのを,伊藤は見たことがある。 しか しそ ういう ことがあったにもかかわ らず,非常にいい先生だということはみんな知 ってい た。ある時,英語の浜林生之助先生が 「マ ッキ ンノン先生の授業を君たちはさ ぼるけれど,あの人はりっぱな方だ」 と言 った

。 3)

それ以来,さぼ りは減 った。

同僚の独身女性 ミス ・バ グレーに生徒が,年齢はい くつだろうと言 っている のを,「そのようなパーソナル ・クエスチ ョンをす るのは, 日本人の欠点だ」

と,マ ッキ ンノンはさとしたりした。

4)

英語科の主任 は, 苫米地であって, 彼 と初代校長 ・渡辺

,2

代校長 ・伴 とは, ウマがあった。

5)

学校でマ ッキ ンノン先生の家を建てるというときに, 自分が設計す るとお り の家を建てて ください といい,丸い円筒形の家を学校の費用で建てて もらっ た。 屋根が とんが って円筒形の家だ った。 彼 は,円筒はスペースが一番大 きい,

と言い, この家はたいへん画期的な,革命的な家だと,生徒に話 した。

彼は日本を愛 していた し,一家そろって 日本ぴぃさであった.彼は一時,乃 木将軍を崇拝 し,武士道精神に心酔 した。外国人 としては珍 しく,勅任官待遇 を受け,勲五等瑞宝賞 も受けた。アメ リカにいれば安楽に生活できたにちがい なかったが,彼は最後まで 日本に居たか った。

1923

年,つま り第

1

次大戦後の軍縮問題の時期 に,反米のデモが国中に起 こり,小樽の町で も例外ではなか った。氏は,夫人 と去就 について相談 し,滞 日を決心 したばか りであった。ある日,氏は教室に入 って きた。黒板に

「We wantnoamericanteacher」

と書 かれてあった。氏 は,率直 に事情を学生

に伝えた。学生の中の

1

人が進み出て,その文のあとに,

「butone」

と付け 加えたのだ った。

3

)伊藤

4)

佐藤稿

,『

緑丘』59 ,

1

1ペ ー ジ

5)

リチャー ド・マッキンノン講演

,1993

年,小樽商大,より。

(5)

小樽高商の先生 たち

57

以下述べるように第 2次大戦で,先生はアメ リカに送還 されるのだった。大 戦後,マ ッキ ンノン先生を 日本 に呼ぶ計画がたて られ, 彼 は 2年間 しぶ ったが,

とうとう日本を訪問 した。昔,豊浦中学で教えていた時,生徒が風邪をひいて 休んだ。 しば らく後,直 ってまた学校にでて きた。その生徒 は休んでいた間の 報告 を英語で書 いて出 した。その中に,

owingtoyourkindness,ihave recovered

とか書 いてあ った。だが先生 は, 自分 はその生徒 に何 もしてや っ

たことがない,見舞 いにもいってない,なんに も

kindness

( 親切)を してい ないのに,どうして 「おかげさま」 というのだろうと思 って, 日本語がいかに わか らない言葉かとお もっていた。だが,マ ッキ ンノンは日本に呼ばれ,勲三 等瑞宝賞を貰い,その時,ス ピーチで彼は「自分 は

owingtoyourkindness

いう日本語が初めて今 日わか った」 と言 った。

6)

後の 日米開戦 ( 昭和

16

年1

2

月)の前後には,マ ッキ ンノンは敵国人扱いされ, 行動の自由を束縛 された。小樽警察署の外事係が彼の尾行を した。

英会話の授業中だ った。特高 とおぼ しき警官が突然,教室に入 ってきて,先 生の連行を求めた。彼 は,二言,三言, はげ しく抗議 していた,「この手 は陛 下 と三度 も握手 した手です」 と言 って も,警官は手に手錠をかけた。多分昭和 天皇が皇太子時代に小樽高商を訪れた時にマ ッキ ンノンと握手 した ことであろ う

やがて何を言 って も無駄 と悟 った先生 は,静かに本を閉 じ,「グッ ド・バ イ, シー

・ 7)

アゲイ ン」 と言 い残 して,淋 しく去 って行 った。 こうして彼 は 授業中検束された。警察では暴行を受け,前歯を折 られた。家財 は差 し押 さえ られた。スパイ容疑であった。 もちろん警察のデ ッチあげである。逮捕 は,学 校はもちろん市民にとって も,大 きなショックだった。昭和1

7

3

月,彼 はス パイ容疑で強制送還 され,一家はち りじりバラバラになった。病弱なために 1 人 日本に残 された夫人は,その後,経済的にもどうしようもな くなった,そ し てl =くなった

4)

息子 リチャー ドは,小樽 中学か ら金沢の第四高等学校へ進

6)

『 伊藤整全集』

404‑‑5

ぺ ‑ ジ

7)

「ユー ・」が抜けているか もしれない。

(6)

58

商 学 討 究 第45 巻 第

1

んでいたが, 退学 させ られた。 彼 はアメ リカでは, 世阿禰の研究で,‑‑ヴァ‑

ド大学の ドクターをとった。 ワシン トン州立大学の 日本文学の教授を した。上 の娘エ リザベスは女子高等師範学校を, リンコナさんは津田英学塾を卒業 して いる。当のマ ッキ ンノンは,渡米中の船で病気にな り,その時親切に介抱 して

くれた女性 と結婚 した。

小樽では彼の事件 は小林多喜二につ ぐ災難だったと言われた。

2

二カラーイ ・ア レクサ ン ドル ・ニ ェフスキー

ロシアの著名な東洋学者 となったニカラーイ ・ア レクサ ン ドロヴィチ ・ニ ェ フスキーは

,1892

年 にヤロスラーヴ リ県 ヤロスラヴ リ市 に生 まれた。父 は県 内のポシェホニエ郡にある地方裁判所の予審判事であった。ネフスキーが生ま れて

1

年 もたたないうちにす ぐ母に死なれ,父は後妻を迎え,

2

人の女児を も うけた。だがまた父にも死なれ,一家は四散 した。彼 は母方の祖父サスニ ンの もとに引 き取 られ,祖父母 の住むルィ ビンスクで成長 した。祖父 は聖職者で あって,教会の構内で生活 した。だが祖父母にも死なれ,叔 ( 伯)母に育て ら れた。彼 はそれまで学校 に入 った ことはなか ったが, 1

900

年 にルィ ビンス ク の中学校 に入 り

,1909

年 にそ こを優等で卒業 した。銀 メダルを貰 った。その 間タタール語やアラビア語を学んだ。彼 は東洋語学を学びたか ったが,育てて くれた伯母の希望で,サ ンク ト・ペテルブルグ工芸専門学校へ入 った

。1

年学 び,だが,そこを辞めて,191

0

年 にペテル ブルグ大学の東洋語学校へ入 った。

そこで中国語 ・日本語を選んだ。学友 にコンラ ドがいた。そ してア レクセ‑エ フ

(1929

年か らアカデ ミー会員)やイワノフに教わ った。 日本語 はクロノ ・ ヨシブ ミらに教わ った。1913 年 に

2

カ月, 日本 にきて学んだ。主 に東京で 日 本文学を研究 した。1

914

年 に,李 白の詩 についての卒業論文を出 し,標題 は

「 李白の詩一五篇について逐語訳 と意訳を行い,そこに見 られる自然描写の絵 画性を指摘 し,さらにその数種の外国語訳に徹底的検討を加える試み」であっ

(7)

小 樽高 商 の先生 た ち

59

大学では日本語の正教授を養成す る必要があ ったので,ネフスキーは教授候 補者 として さ らに勉学 を続 けることになった。 しか し第 1次大戦の勃発で,大 学 の予算が削 られ,彼 は無給 にな った。そ こでエル ミター ジュ博物館 に勤 め

。8)

ニ ェフスキーは1

915

年 に 日本 に留学 した。

2

年 間の 日本留学期 間に 「 国漢 文学な らびに 日本民俗学の研究」を した

。 9)

ニ ェフスキーは,柳 田国男

10)

,折 口信夫

11)

,中山太郎 らと親交を結んだ。

彼 の研 究 は神道 であ った。予定 の留学期 間が終 るとき,1

917

年 に ロシア革命 が起 こり, ロシアか らの留学資金の送金が停止 した。彼 は初 め東大 にいたが, 生活のために,商社で働 きもした。 ロシア人 ヴァシー リイ ・メ一口ヴィチが経 営す る東京の明露壱商会で ある 1

2) 。

彼 は身体 を壊 し病気 にな るが,民俗学 を 学んだ。

大正 7年 には,「 農業 に関す る血液の土俗」「 遠路 のま こない人形」「 相模 の 獅子舞 の歌」「あづないの罪」などを 『 土俗 と伝説』に発表 した。

大正 7年 に,前田光子 との問に女児 ・若子を もうけた

。13)

1919

年 ( 大正八年)

5

31

日付 けで,運 よ く小樽高商の ロシア語教 師にな ることがで きた。27 才だ った。 ロシア語担 当の教師田中乙が同年

4

月27 日に亡 くな ったか らであろ う

亡 くな ってか ら 1カ月後の採用であ り, きわめて迅速 である

8) 『 縁丘

』57

9

)墓目 ,『 縁丘

』59. 9

ページ

10)

墓目,同。

ll)

柳田(

1875‑1962)

。 民俗学者, 兵庫県うまれ,東大法科卒。青年時代詩人だった。役 人になり,大正

8

年退官。雑誌 『 郷土研究 』 『 民族』などを主宰 した。『 定本柳田国 男全集』全

31

巻 筑摩書房,あ り

12)

折口

(1887

,明治2

0

年‑1

953

,昭和

28

年) 。民俗学者。歌人,釈遣空。大阪出身。

はじめ万葉学者。柳田の影響で古代を民俗学的に研究する。代表作 『 古代研究』 。 国学院大学教授,慶応大学でも教える。

13)

裏 目英三 「 小樽高商 ロシア語教 師 ニ コライ ・ア ン ドロピッチ ・ネフスキー氏 ( 痩

婦好)のこと

(NikolaiA.Nevski)

」『 緑丘

』52,10‑1

1 ページ。ただし,ここ

でア ン ドロピッチは誤 りだろ う

(8)

60 商 学 討 究 第

45

巻 第

1

高商の渡辺校長の招 きにふたっ返事で応 じ

, 5

月31 日か ら勤務 した。 これに は東京外語学校のロシア語教師 ドゥシャン ・トドロヴィチの尽力があった

。 14)

ニ ェフスキーは,光子,若子を伴わず,単身小樽へ赴いた。ただ し当時の学生

・金吉によると, ロシア語の授業 は数カ月なか ったと言 う

。 15)

当時ニ ェフスキーは, 日本語を日本人同様に流暢に話 し,古典に通 じ,数力 国語をマスター していた, 語学の天才であった。この年, 週 7時間の授業であっ た。 2年生の初級 クラスは 8人で,授業中は日本語を全 く使わず,説明は英語 であった。教授法 はベル リッツ法で,実物を使 って教えた。「日本人の教授た ちは,みんな明るい好人物ぞろい」と書いている。 現代 日本文学 にも関心があっ た。1919 年暮れに上京 し,オ シラ様の研究を柳 田に勧め られ,翌年す ぐ,そ れを開始 した。 1

920

年の夏休みには,そのため東北調査旅行を した。彼 は, 柳田の 『 遠野物語』に注 目して,遠野に旅行 したこともあった。

彼は家では和服を着,角帯を し,足袋を履いていた。時折は妙見町界隈の花 柳街にも姿を見せ るという噂であった。緑

2

28

に住んだ。

初め, 日本の古文調で会話を していた。だが,大正 9年,越崎がネフスキー 先生のロシア語を選んでいる時には, 日本人 と変わ らぬ流暢な 日本語を話 し, 自由に漢字を書いた。彼 は語学の天才で,数力国語を自由に話 した。越崎 と同 級の悪戯 ( いたず ら) 好 きの学生が, 先生の教室へ入 って来 る前 に,黒板 に 「 寝 婦好」 と書 いておいた。先生は入 って くるなり,黒板掃 きで,一語 も発せず, 消 して,ニコこコと授業を初めた。1 6 ) 「 寝婦好」 とい うのは彼のあだ名だと言

う人がいるが,そ うだとすれば, ここか ら出たのだ。

彼は休暇のたびに上京 している。研究活動の必要で もあったが,光子 と若子 に会いたいための東京行 きであったろう, と言われる。

越崎が 「 初めに官舎に訪ねた時には,顔にアザのある年輩の女中がいたが,

14)

桧山真一 「 ニコライ ・ネフスキーと橘三千三

」(『なろ うど』28,1994

3

月)

4

ページ, この資料 は南里氏か ら提供を受 けた。

15) 8

ペー ジ

16)

『 縁丘

』53,18

ページ

(9)

小樽高商 の先生 た ち

61

いっのまにか, この老婦人は居な くな って,代 りに,マ ン ドリンをひ く,女 中 とも奥 さん ともっかね三十前後の女性が居 るようになった。

1 7 )これ は高谷 イ ソ ( 磯子)さんであろう

ネフスキーは, 東北のオ シラ様や, 性を シンボライズ した石像の写真を, 度 々 学生に見せた。越崎は当時,「 変な先生だなあ」 くらいに しか恩わなか った。

大正九年の外語劇 には,ロシア語劇 「 害者 なる武士」の演 出にあたったネフ スキー先生の熱の入れよ うは大 した ものであった。

19)

彼がプーシキ ンの この 作品を選定 した。 越崎が「その主人公をや らされた。 平素 は女人禁制の校舎 も, 外語劇の 日だけは,学生の姉妹家族や下宿の娘 にまで入場券が配 られ,学生 も 張 り切 って演 じた

。 「 爪に火を ともすように して金を貯めた老武士が,独 り寂

しくベ ッ ドで臨終の息を引取 る幕切れで,今 はの際に も金庫 の鍵が気 にかか り

「 鍵 ! 」 「 鍵 !

と二言叫んで息が絶え るのだが, ロシア語で は鍵の ことを ク ルウチユ と云 うので,私が最後 に 「クルウチユ ! クルウチユ !

とベ ッ ドの 上で虚空を掴んで叫び,倒れ るとチ ンプ ンカ ンプンの ロシア語の中に日本語 ら

しい 「 苦 しい !苦 しい !」 と聞 こえたのであろう

観客が ドッと吹 き出 して, 悲劇が喜劇にな って しまった」 。

「 先生 は,授業では実に厳 しく,宿題などもた くさん課せ られ,いっ も尻を たたかれた。忘れ難い外人先生だった。

」 20)

小樽時代のネフスキーの関J 山 ま,東北のオ シラ信仰以外には,アイヌ語 と宮 古島方言であ り,アイ ヌ語 は金 田一 ‑京助

21

)に教わ った し

, 1922

2

月にはア

イヌ人か らユーカラを聞いて筆記 し,研究を始めた。

研究の助手 として,彼 は,同僚の ドイツ人教師を介 して,高谷イソを採用 し た。まんたに,あるいは,よろずや, と云 う

小樽時代の後半 らしい。彼女 は

17)

越崎, 『 緑丘 』59 , 5 ページ

19)

目黒 「ネ フスキー先生 と親交 を結ぶ」 ;越崎 ( 『 縁丘五 〇年史』 );なお , 『 緑丘』

No.60,61,62,69,72

も見よ。

20)

越崎

45‑46

ペー ジ

2

1 )金 田一

(1882‑197

1 ) 。盛岡出身,東大卒。言語学者,国語学者o アイヌ語を研究

す る。主著 『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』 。啄木 とも親交があった。

(10)

62

商 学 討 究 第45 巻 第

1

1901

年, 積丹(シャコタン) 郡 入耐 ( いるか)村生まれで,網元の長女だった。

高谷家はその後衰退 した。彼女は高等小学校を優等で卒業 し,勤めてか ら,小 樽に出て, 外人教師のお手伝いを し, 勉強 していた。 彼女は筑前琵琶をひいた。

ネフスキーはイソと

1921

7

月 ごろ深い仲になったと,加藤 は推測す る

。 22)

塞 目は,彼が1

921

年に結婚 した し

,23)

これは正式に神戸にあったソ連総領事館に 登録 されている, と書 く。

彼は高商に 3 年間勤めた。第 2 外国語 としてのロシア語を 2 年生 と 3 年生に 教えた。多喜二が第 1学年を終 る時,大正

1

1 年

3

31

日,ネフスキーは退職 し て, 創立 したばか りの大阪外国語学校へ転勤 した。 多喜二 は 1年生だ ったか ら, 授業では教わ らなか った。彼 と多喜二 とが高商で重なったのは,たった

1

年間 である

また もしネフスキーが高商にいた として も,多喜二が 2 年になってフ ランス語を選択するので,彼に教わることもなか ったであろう

こうしてネフ スキーと多喜二は授業では結び付かない。ただ し廊下で会 った時は会釈 しあっ たであろう

少 しは会話を したか もしれない。 しか し今の ところまだ,交流の 記録 は残 されていない。

ただ し考え られる点 は

2

つある。当時小樽高商では先生 と学生 は仲がよ く, 兄弟のようにつき合 っていた。先生の家まで押 し掛 ける学生が多か った。 こう いう中では,いま想像できる以上の付 き合いが

2

人の問であったか もしれない のである。加えて多喜二がロシア文学に興味を持 っていた し,ネフスキーが 日 本文学 に興味を もっていたので,それを話題 にしてネフスキー先生 と話を した のではないか, とい う楽 しい想像 もある

。 24)

暮 目は, 椎名幾三郎の談話を紹介す る。ネフスキーはr l*々優秀な先生であっ た。掛軸のむづか しい字はす らす らと読む し,或 る時上京す る同 じ汽車の中で 何処に宿をとるか と聞いたので品川の望水楼だといった ら,その宿 は海の側で な く山にあるのだろう,それな ら望水棲でな く望翠楼だなど,非常に日本語 に

22)

加藤九詐 『 天の蛇』河 出書房新社

1976

,144

ペー ジ

23)

墓 冒 「 ニ コライ ・ネフスキーの生涯 について

(2)

『 縁丘

』60

,

8

ペー ジ

24)

ソ連科学 アカデ ミーのグロムコープスカヤ女史の指摘。

(11)

小 樽高商の先生 たち

68

通 じた青年であった。ネフズキーを日本語で寝婦好などといっていたっけ。 」 小樽の後,ネフスキ‑は,専任 として大阪外語,講師として京都大学文学部 で ロシア語を教え,またアイヌ語の講義 もした。ネフスキ‑が大阪へ行 ったの は,関心の移行が原因ではないだろうか。東北のオ シラ信仰,アイヌのユ‑カ ラの研究か ら, 宮古島方言, 西夏語研究にテーマが移 っていった。 宮古島には, 大阪‑行 ったす ぐの夏か ら実地調査を している。その後,台湾のツオウ ( 普) 族の言語などを実地調査 し, 日本語 とロシア語で論文を発表 した。

大阪‑行 くとす ぐ手紙を,実家に戻 っていたイソ‑よこし,イソは大阪へ行 くのであった。正式結婚 は1

929

年であった。( 加藤) 2 5 )日本滞在中はどこで も ネフスキーは刑事 につきまとわれていた。 ロシア人だか らである。

夫妻 は1

928

年,娘エ レーナ ( 愛称ネ リ)を もうけた。大阪で は石浜純太郎 とともに西夏 (タング‑ ト)学の研究を始めた。大阪外語では昭和 4年 8月ま で勤務 した

。1927

年 に帰国の決心を した。1

929

年秋 にニ ェフスキ‑は単身帰 国 し, レニ ングラー ド大学の 日本学科で教え,西夏語の研究を続 けた。1

933

年に妻 と娘 もソ連に渡 った。

ニェフスキーとその恩師である中国学者ア レクセエフとは親密であった。

ソ連では1

934

年, レニ ングラー ド党書記キーロフの暗殺事件 2 6 )以降,粛清 が始まった。粛清 は,スター リンの独 自の犯罪的 ・政治的計画である。

1937

年1

0

4

日夜,ニ ェフスキ‑は逮捕 された。彼はア レクセエフ宅の一 部を借 りて住んでお り,まだ机について執筆中であった。 彼は妻のイソに , 「 何か のまちがいと思 うか ら心配す るな,

2

時間 くらい した ら帰 って くるか ら,机の ものは動かさないで くれ」と言 った。玄関で見送 ったのは,イソ,エ レーナ, ア レクセエフ夫妻の

4

人であった。みんな別れのキスを交わ し,扉の ところで 振 り返 り,ア レクセエフに 「さよな ら ( ブラシチャイチェ

)

と言 って, コー

ト1枚を着て出て行 った。だが, これが最後だった。

25)

しかし前述の裏目説と違う。

26)

もちろん,スター リンが殺 させたのだ。

(12)

64 商 学 討 究 第

45

巻 第

1

4

日後 にイソが逮捕 された。彼女 は娘のエ レーナをあずけたいか ら, コン ラ‑ ド ( 著名な日本学者 ・中国学者)を呼んで欲 しいと,係官に頼んだ。係官 はコンラー ドを呼ぶ必要 はない,娘は孤児院に入れる, と答えた。イソはここ で失神 して倒れた。係官 はあわててコンラー ドを呼びに,そばにいた庭番を走

らせた。

罪状は,ニェフスキーが レニ ングラー ドにおけるスパイの総元締であり,イ ソもその手先 として,ソ連在住 日本人の森 とフワン ・イワンを引き込み, 日本 人大使館の阿部 という女性に情報を伝えているというものであった。

ニ ェフスキーが 自分の罪状を知 らされたのは

,1

1 月

22

日, 銃殺の

2

日前であっ た。連 日はげ しい拷問が繰 り返 された らしく,ニ ェフスキーはその調書に, く ね くね曲が った字で認めるサイ ンを している

イソの方 は断固 として否認を続 け,サイ ンもしていない

。27

)ェ レーナはこれについて,「この強固 さは民族的 性格 と強い夫婦愛 に基づ くものであろ う」 と書 いてい る2 8 )。 日本女性 は強 か った。

イソの逮捕後,数 日して, 日本語学者ホロ ドヴィチがや ってきて,ニ ェフス キーの原稿や蔵書を整理 した。ホロ ドヴィチは,かつてニ ェフスキー家にしば しば現れ,

1934

年 にはヴォルガ下 りも一緒 に した親 しい仲だ った。エ レーナ は,カ ・ゲ ・ヴェ

29)

( ママ)の秘密書類の中に,ホ ロ ドヴィチが内務人民委 員部第三課の秘密工作員であったことを,最近見た。第

3

課は,ニェフスキー 夫妻をはじめ,処刑 された多 くの中国学者, 日本学者を直接担当 していた。

夫妻は,無実の国家反逆罪を宣告 され,同年

1

1 月

24

日, 夫妻 とも銃殺 された。

レニ ングラー ドのカ ・ゲ ・べ本部で,計 7人が銃殺 された。そこか らネヴァ河

27)

加藤九詐 「 悲運の東洋学者 の最期 」『 朝 日新 聞

』1992

4 月

6

日夕 刊

28)

同,加藤論説 にあ る,エ レーナの書 いた 「 両親 につ いて」か ら。

29)

ソ連 内務人民委員部,つ まり警察である。正確 には,次の よ うに名称が変化 した。

反革命 ・サ ボター ジュ ・投機 と闘 う非常委員会 ( チ ェ ・カ) ‑国家保安部 ( ゲ ・ペ

・ウ) ‑合同国家保安部 ( オ ・ゲ ・ペ ・ウ) ‑ 内務人民委員部 ( エ ヌ ・カ ・ヴェ ・デ)

‑ 内務省 ( エム ・ヴェ ・デ) ‑国家保安省 ( エム ・ゲ ・ベ) ‑国家保安委員会 ( カ ・

ゲ ・ベ)0

(13)

小樽高 商 の先生 た ち

65

に大量の血が流れ込み,特別の船でその血を散 らせたと,伝え られる

コンラー ドは

1938

7

29

日逮捕 され,

8

13

日の訊問で,ニ ェフスキー 夫妻が 日本のスパイであったこと,自らもスパイとして 日本人上田,鳴海 と連 絡を保 った ことを拷問によって認めさせ られたが,

1939

1

4

日の訊問で

はいっさい否認 したとの書類 も残 っている。

1957

11

14

日, 白ロシア ( 現ベラルーシ)軍管区軍事法廷で,ニ ェフス キー らの無実が認め られ,名誉回復がなされた。そ して,『 西夏文献学

2

(1960

年)などの業績 に対 し,

1962

年 に出版科学部門の レーニ ン賞が授与 さ れた。イソの名営回復 は,

1958

2

28

日であ った

。1989

年 に娘エ レーナは

日本を訪問 した

30)。

3

大熊信行

大熊信行は,ちょうど多喜二が高商‑入学す る時,高商に赴任 した。多喜二 は 2年生になって大熊信行の経済原論の授業を受け,それか ら彼に個人的に近 づいた。

大熊信行は

,1893(

明治

26)

年に山県県米沢市に生 まれ,俳句 ・短歌を作 った

1912

年 に東京高商の予科 に入学 し

,1916

年 に本科を卒業 した。

3

年後再び, 東京高商の専攻部に入 り,福田徳三に学んだ。多喜二が入学 した大正十年に講 師として赴任 し,翌年教授 となって, 2, 3年生の経済原論を担当 した。丸 2 年半,高商で教えた。若い頃か らの文学青年で,社会主義にも関心を もってい

た。土岐善麿に傾倒 し,短歌革新運動を志 し,後に歌誌 『まるめ ら』を出 し, 斎藤茂吉 と論争を したことがある。 この少壮の特異な文人学者 は,そ ういうわ

30)

この時,小樽商大 も訪 れ,筆者 も会 った。 ;その他資料,天理図書館報 「ビブ リ ヤ」(昭和

46

6

月号) 。岡崎精郎 「ニ コライ

・A

・ネフスキーの業績 と生涯か ら」

ニ ェフスキーの著述 は最近, 日本で出版 されたO 『アイ ヌ ・フォークロア』北海道 出版企画セ ンター

ロシア語 で は,ニ ェフスキーにつ いて,Gromkovskaya 女史 の

2

つの研 究が あ

る。

(14)

66

商 学 討 究 第

45

巻 第

1

けで生徒 に人気があ った。多喜二 もその魅力 に引 き寄せ られた。

大熊 は,赴任 してす ぐ,原書購読を担 当 した。第 1学年 AB組を担 当 し,多 喜二を担 当 しなか った。

CD

組を担当 したのは宮崎力蔵なので,多喜二 は宮崎 に原書購読を教わ った。宮崎 も大熊 と同 じ年 に赴任 した。

この年,大熊 は学生 とつ き合 ったなかで,親 しか ったのは,小林北一郎,伊 藤治郎 ( 筆名 青木三二) ,清水宗兵衛であ り,それ以外 に,大泉行雄,土 田 秀雄である。彼 らは多喜二 よ り

2

年上である。

翌年早 く,大西猪之介が急死 した。一周忌追悼会で,他の教授 と同様,大熊 は追悼演説のため,演壇 に立 った。何か二言三言 しゃべ っていたが,急 に無言 になった,そ して 「ワ‑ ツ」 と泣 きだ した。

大西 の急死 で,大熊 は同

1922

年か ら経済原論 を担 当 し, ここに多喜二が受 講 した。 大熊 は講義案 に「 労働 の定義」を草す る時,学会 の通説 に疑問を抱 き, 三週間休講 して思索 した。その結果,後 に出す論文 「 生産力配分 の原理」 ( 昭 和

2

10

月)の もとを考えついた。 この年 に,伊藤整が入学す る。

整 は書 く。「 私 たちが授業時間にな って合併教室 に入 って行 くと,多喜二が 教壇の机のそばで大熊氏 と話 し込んでいることが屡 々あった。多喜二 は小 さい 身体で,悪びれ る風がな く大熊氏を見上 げて居 り,大熊氏 は長身を折 り曲げる よ うに して,その漆黒の髪の垂れ下が るのをか さ上 げなが ら,熱心 に何か喋 っ ている。それ は前 の授業の終 った時か ら続いている話で,一 目で内容が推定 さ れ るよ うな ことだ った。つ ま り多分,それは革命 とか,善悪の基準 とか,文学 の役割 とかい う言葉が聯想 され るような,真剣 な対話であった。

」 31)

これ に対 して大熊 は回顧 す る。「 小林多喜二が講義 のあ と も合併教 室 に居 残 って,わた しと話 しこんでいた とい う事実 はあった として も, しか し多喜二 の質 問 は,おそ らく講義の内容 その もの に関す る ものだ ったので はあ るまい か。わた しが原論 をは じめて受 けもった大正十一年 とい う年 には,十九歳の多 喜二 はまだ左 にかたむいていないはずである。伊藤整が眼にとめた 『 真剣な対

3 1 ) 「 小林多喜二の思い出 」 ( 『 全集』

)

(15)

小樽高商の先生 たち

67

話 』の内容 は,整の想像に反 して,経済価値論の綜合 というよ うな,おそろ し く抽象的な問題だったのではないか と患 う

わた しはその問題 に悪かれていた のである。 」 3 2 )

伊藤は, 自伝小説 『 若い詩人の肖像』では, もっと思い込みのあることを書 く 。 「この年 [ 整が 2年生にな った年]小林多喜二 は,いよいよ自信あ りげな 顔を して,学校の中を歩いていて,私にはいっ も気 になる存在であった。ある 時, ・・・何かの講義を聞 くために私たち

2

年生が [

1

年生でなければ,合わ ない]合併教室に入 ってゆ くと,そのす ぐ前の時間は,大熊信行が上級生のた めにす る経済原論か何かの時間に当たっていた らしく,教壇の上に大熊信行が 赤 らんだ長い顔を机の上に傾 けて立 ってお り,小林多喜二が壇の下にいて,彼 の顎 ぐらいの高 さのその机 に手をかけて,熱心、 に何かを尋ねている場面 に出 会 った。

それは小林多喜二が最 も熱心な生徒であるか,小林多喜二が特に大熊信行 と 仲がいいか,どちらかであった。前の事情であれば,彼は反マルクス主義的な 思想を持 っているらしい大熊信行を,マル クス主義について,問いっめている のであ り,後の事情であれば小林 はこの短歌や詩を作 る [ 大熊 は詩 は作 らな か った]経済学の若手教授 と二人教室に居残 って,文学についての私談を して いるのにちがいなか った。いずれに して も, その様子 は,私 にねたま しか っ

た 。」 33)

これに対 して大熊 は反論す る。大熊がマルクス批判者だ という世間の所説に たい して,そ うではなか った, と彼は云 う

それに,マルクス批判者だと云わ れは じめたのは, 論文「マル クスの ロビンソン物語」であって,昭和

4

年 に 『 改 造』にだされたものだ, と。そ して,その論文でさえ も,マルクス批判ではな かったと,大熊は云 う。

また多喜二 について も,大熊 は云 う 。 「ところで小林多喜二である。伊藤整

32)

大熊信行 『 文学的回想』第三文明社

1977

209

ペ ー ジ

33)

『 若 い詩人 の 肖像

』74‑5

ペ ー ジ

(16)

68

商 学 討 究 第

45

巻 第

1

の小説では,かれは高商時代か ら左翼的な文学青年であったような印象を受け るけれども,わた しの知 るかぎりそ うではなか った」 。 3 4 )ただ し,大熊 は少 し 修正はしている。「 彼 [ ‑多喜二]の卒業論文はクロボ トキ ンの 『 パ ンの略取』

の翻訳だ とある以上,在学中か ら一つの傾向があったことは,改めてみとめな ければな らない。」 と

しか し,伊藤は,多喜二をマルクス主義者 とすることで,自分の小説を面 白 くさせようとしている。

大熊は云 う

一年の時,多喜二が自分の組にいなか ったのに,かれが近づい て来たのは,どうい う事情だ ったのだろうか。「わた しという奴が文学好 きら

しいとい う噂は,なん とな く伝わっていたのだろうか。 」 と自問す る。多喜二 とは 「 教室以外では,いっか らの接触であったのか, ・・・ 『 文章倶楽部』に 投稿 した創作が当選 し,その雑誌をみて くれ といって,近寄 ってきたのが最初 だったのではないか と思 う

わた しの役 目は,読むことであった。それ も原稿 ではな くて,なにかに載 ったかれの短編を,つ ぎつ ぎに読まされた。かれはわ た しの下宿 にも来た。 」 3 5 ) 「わた しの下宿へ来たことも,たびたびあった ・・

●」

級友荻尾英彦 は,「 多喜二君 と連れだ って大熊先生を訪ねた こと。 」 3 6 )と記 している。 2人で大熊の家へ行 ったことがあった。

大熊は, 自分の下宿でのことを思い出す。多喜二は 「ある日,同年次の板垣 武男 と自然に落ち合 った。いっのまにか二人は,はげ しい論判をは じめていた。

夏 目軟石の 『 文学論』はお もしろいか,お もしろくないか, というような議論 である

」 37

) 「いわゆる水掛け論 に終わ ったか と思われる。 」 3 8 )

ついでに大熊 は, こう書いている。「 板垣武男 ・小林多喜二などの同級には,

34)

大熊

,214

ペ ー ジ

35)

,203

ペ ー ジ

36)

縁丘大正十二年全編 『 坂の道』昭和

48

85

ペ ー ジ

37)

大熊

,203

ペ ー ジ

38)

,223

ペ ー ジ

(17)

小樽高商の先生 たち 69

佐 々木重 臣 もいた。かれは自作の短歌を何十首 もつ らね,みて くれ とい って もってきた。当時, きわだって歌作に熱心だった学生が,佐 々木である。 ・・

・のちに 『まるめ ら』同人の佐々木妙二である

」 39)

ただ し佐々木 は後に,多 喜二が高商で 1年上だ った, と云 っているか ら,妙である。一年休学 したか も

しれない。

手塚 は書 く。多喜二 は,「 制服を着た り, ときには粗末な和服の着流 しで, 真冬で も足袋をはかず,懐を書物でふ くらま しせた りしなが ら通学 していた が,彼は学校の内外,教員の一人一人に人間として何んで もまともにぶつか る とい う態度 で あ った

」 「教 師の なかで は,大熊信 行 と もっと も親 しか っ

」 40)

これにたい して大熊 はどう思 っていたか。「わた しが小林多喜二を好いたの には,十分な理由がある。かれには文学青年臭 といった ものが,いささか もな かったということ。当時の小樽高商には,そ ういった意味で,鼻持ちのな らな いグループもあった。 しか し多喜二は,かれ らとは無縁であった。いっ もかれ は, こざっぱ りしたふ うを していたか ら,貧 しいという感 じを与えるはず もな かった。真冬 に素足でいたのは,いわば土地の風習であって,貧乏のせいとは 思えなかった。

」 41)

その上,大熊 は,肉親の 1 人に多喜二がよ く似ていたので,最初か ら親 しみ の情がわいた。「 小林多喜二は, こざっぱ りして,気 どりがな く,よ く白い歯 をむいて笑いなが ら話す,明るい気分の青年だった。

」 42)

「かれほど話 しなが

ら笑顔の絶えない人 もめず らしかった。 」 4 3 )

大熊が一番 はっきり思い出すのは, 多喜二の「中途退場」である。一度だけ, 経済原論の講義の最中,多喜二 は突然席を立 ったとみると,大熊の教壇の前を

39)

,203

ペ ー ジ

40)

手塚

,79

ペ ー ジ

4

1 )大熊

,221

ペ ー ジ

42)

,215

ペ ー ジ

43)

,223

ペ ー ジ

(18)

70

45

1

ユウユウと

横 切 って , お ま け に首 を転 じ

合 併 教

の全 員 を見 渡 しなが ら, そ

のまま教室

の外 へ 中途 退 場 した こ とが あ

た。 「

ん な こ とで もお れ ばで き る

のだ,どん

な もん だ 」 とい わ ん ば か りで

あ っ

た。

ち ろん , あ とに も先 に も一

回か ぎりの

, 突 っ飛 な行 動 で あ った。

大熊 は,

大 正 12年 の春 に は病 を え て ,

6月

に米

に帰 省 し,絶 対 安 静 の生 活

に入 った。

だ か ら手 塚 が 言 うよ うに, 「

三年

後 の

月 , ち ょ うど多 喜 二 の 卒 業

年度 に,彼

もまた この学 校 を去 って い っ

た」

とす

の は,誤 りで あ る。学 校 の

記録の上だ

けの こ とで あ る。経 過 と して

は,

彼 は

4

月 ごろか ら微 熱 が で て, 高

商の校医は

肺 病 (‑結 核 )の診 断 を下 さ

なか っ

た 。

北海

道 大 学 病 院 で もそ うだ っ

た。それで

大 熊 は, 自己診 断 で ,学 校 を

やめ

た。

大熊信行

の授 業 を安 宅 文 雄 氏 も受 け

たが,

「素

晴 ら

しい授 業 で あ り, 学 生 と

の親密 さも

多 分 に あ った。」 4 4 )しか し,

多喜二

次 の

年 , 安 宅 や 伊 藤 整 の受 け

年 は, 2 ・3カ月 しか講 義 を して いな い。

大 熊 本 人 は書 く。 「 厳 密 に い う と, 履 歴 上 の退 官 は大 正 一 四年 四 月 で あ る。

か し小 樽 にお け る実 際 の在 任 期 間 は,大 正 十 年 四月 か ら一 二 年 六 月 まで の二

と三 カ月 にす ぎな い。」 4 5 )

そ の た った 2, 3カ月 の講 義 につ いて , 伊 藤 は書 く。 「大 熊 信 行 は私 の学 校

若 い教 授 で ,経 済 原 論 を教 え て い た。 私 た ち は テ キ ス トと して [ジ ョン ・]

チ ュア ー ト ・ミル 4 6 )の 『プ リンシプ ル

オ ヴ ・ポ リテ ィカ ル ・エ コ ノ ミイ』

い う紺 表 紙 の分 厚 い原 書 を買 い, 合 併

室 で ,彼 の講 義 を 聞 い た。 ・ ・ ・ ・

熊 信 行 は, そ の 頃二 十 七 八 歳 に見 え

,胸

が 悪 いの で独 身 で い るの だ とい う噂

あ った.」 4 7 )この 噂 は当 た らな い,

と大貫

削ま云 う。

「彼 は合 の長 いオ ー ヴ ァ‑を着 て

,学校

の坂 を登 り, ま た下 る時 に, ゆ っ く

44)

小生 あて安宅先生の手紙。

45)

大熊

,190‑191

ページ

46)

ジ ョン ・スチュアー ト・ミル

(1806‑1873)

。イギ リスの経済学者。古典派経済学 の完成者 とされ る。経済学 では主著 『 経済学原理』 。その研究 と して,チ ェル ヌイ

シェフスキー

J.S.

ミル 「 経済学原理」への評解』岩波書店。

47)

『肖像

』43

ペー ジ

(19)

小樽高商 の先生 たち

71

りと歩いた。そのオーヴァ‑は大変ゆったりと作 られていて,彼が歩 く度にそ の裾が大 きく揺れた。その特別仕立 らしいオ‑ヴァ‑の揺れかたが,彼にダン ディーという印象を与えた。 」大熊 は しか しこれは,イギ リス仕立てのバーバ

リーだった, と言 う

「 教室で彼はテキス トの上にその紅潮 した顔を傾け, クセのない黒い長い髪 が前に垂れ下がるのを絶えず左手でか き上げなが ら,福島辺の誰のある言葉で 喋 り,英語の文章を講義 した。彼の教えるミルの英文は,極端に理詰めにでき ていて,近代の産業では分業がどのような過程で生産を増大す るか,そ して分 業 と機械による生産方式がいかに熟練工を作 り,その熟練を増 し,手工業時代 と全 く違 った近代の工場組織を作 りだすか,それが社会の将来にいかなる光明 を もた らす ものか,ということを,近代産業の上昇期の理論家に特有の,明るい 判断で述べたものであった。関係代名詞を能率的に使 ったその論文の構造の明 噺さが,私のウブな理解力に沌み込んだO私はそのテキス トによって,社会の経 済的構造の原理を,‑小部分ではあるが,忘れがたい確かさで理解 した。 」 4 8 )

整は,また書 く。「 大熊信行が この田舎の高等商業学校の教授 とい う地位に 満足 している人間でない らしいのを,」整 は知 っていた, と書 く

しか し,大 熊 は,「わた し自身は当時の地位に満足 していた

」 49)

と否定 している。

4 伴 房次郎

伴房次郎 は,明治

7

(1874)

京都市伏見区の生 まれで,次男であ る。京 都府尋常中学校を卒業 し,明治30 年 7月に,金沢の第四高等学校を卒業 し,戻 都で法科に入ろうとしたが,京都帝大の法科は開設が遅れ,明治31 年

9

月,秦 京帝国大学法科大学英法科 に入学 した。京都大学では法科が明治

32

年に開設 さ れた。学生時代に,簡単明瞭な答案を書 くので,教授たちに有名であった。明

48)

『肖像』44 ペ ー ジ

49)199

ペ ー ジ

(20)

72

45

1

治3 5 年 7月に卒業 した。当時,東大は 7月卒業だっ. たのである。伴 は銀時計を 貰 った。つまり成績が トップであった。

同年

8

月, 伴 は, 京都帝国大学法科大学の講 師 とな った。 翌年助教授 にな り, 明治

45

9

月 に小樽高商の教授 と して赴任 した。その直前 の数年間 は, ヨー ロッパ諸国へ在外研究員 として民法研究のために留学 した。初め

3

年間,その 後 また延長 した。つま り明治41 年

8

月か ら明治45 年

6

月までであった。5 0 )京大 時代には民法の研究が中心で, ドイツの参考文献を使 って民法の論文を書いて

た 。

伴 は,小樽高商に来てか らは研究論文 はほとんど書かなか った。 もちろんそ れだか らと言 って, もうろ くしているとは言われなか った。彼 は研究で はな く 教育 にかけたのではないか と推定 され る。伴 は書いている。「 学者か先生か, 此問題 は,高商の学問上の地位か ら来 るので,世 と共に推移す る間に自然に解 決す るのであ らう

」 51

) ( 読点を補 う。 ) こうして彼 は 「 学者」でな く 「 先生」

になった。

また,なぜ京都帝大か ら小樽‑来たのか も不思議なことである。彼 は京都大 学の教授 にもなれたはずである。小樽行 きは,それを止めた形 になるか らであ る。京都大学の助教授で,生まれが京都の人が,当時辺雛だ とされた小樽へ来 るのは, 不思議である。 実際, 伴の小樽赴任 の とき,小樽では大変 な評判 になっ た。 これは渡辺校長の懇請 によるとされている。渡辺が伴に,次の校長になっ て もらいたいと, もちかけたのではないか。 しか し伴 は出世主義者ではない

ら,なお不思議である。渡辺の誘いが きわめて うまか ったのか もしれない0 渡辺 は外国留学 中,同 じく留学中で ドイツにいた伴に会い,小樽行 きを願 っ た とされ る。伴本人 は留学の時

,

「 小樽高商‑赴任の事 は当時既 に内命を受 け ていた」 と書 く。5 2 )ここははっきりしないが,「 内命」 とあれば,文部省か ら

50)

伴房次郎先生書簡集 ( 下)『 緑丘

』74

号の年譜

5

1 )伴 「瓢然録 」( 『 緑丘』83 号)

3

ペ ー ジ

52)同

(21)

小 樽 高商 の先生 た ち

73

の内命である。つづ いて伴 は書 く

「明治

42

,

3

年 頃,当時ベル リン在留 中の

自分 に宛て,面会 を申 し込む書面が渡辺氏よ り来た。其渡辺氏の名前が どうし て も自分 にはわか らない。 」 5 3 )小樽高商の校長 になる人だ とい うことが,問い 合わせてか ら,わか った

。1

1 月

3

日の天長節の 日に, 伴 は渡辺を訪問 した, と。

伴 はまず小樽で,旧友 ( 河原直孝,小樽市長を した ことがある)の家 に寄寓 した。単身赴任であ った。授業の相手 は中等学校を出たばか りの学生なので, 初めは教壇 にた って,困 った。法律の思想を吹 き込むには時間が余 りに も少な い

らだ った。 「 結局 は時間を無駄 にせぬ様,興味 も矢 はせぬ様,法律が 日常 生活 に織 り込 まれて居 る事を示 して其常識 ともいふべ きものを授 ける外 な しと 考‑た。 」( 読点を加えた ‑ 筆者) 5 4 )当時 は講義 は筆記だ った。伴 は講義が

うまい と言 われた。5 5 )わか りやすか った。実 は,彼 は教授法 も研究 したのだ っ た。そ してそれは,上述 の考えにもよったのであろう

伴 は,赤 いネ クタイと 大 きな鞄で有名 であ った。不思議 な ことに,彼 は京都時代 に講述著書

(

『 契約 法各論』出版社 ・年, 不詳)を出 しただけで,小樽時代 には本を出さなか った。

彼 は温厚篤実であ った。彼 はよ く,「 先生 は生徒 に親切なれ」 と書 いた。

伴の法律 の講義 は非常 に面 白か ったと して,大正

6

年卒業の伊東が例 をあげ ている。それは,筆記の合 い間の雑談だ った。伴 いわ く。 「 左甚五郎が梅干の タネに彫刻を施 した。立派 な彫刻 となった。梅干のタネは,その所有権 は,梶 干を食べた人 にあ らず して,左甚五郎 に帰す るのである

第一次世界戦争 に於 いて, 日本 は青島を攻略 占領 した。青島はその所有権 は,支那 に非ず して,莫 大なる投資を施 した独乙の所有権 に帰す,斯 る国際私法を適応 して,青島は日 本 の 占拠 とな った。

56)

( 句読点 を補 った。 ) ここで筆者 は,伴 を非難す るつ

もりはない。 しか し梅干 と青島を同一視 するとは,帝国主義的である。教師の 中で も, 伴 は立派 な方 であ った,と推測 され る。その伴 に してそ うなのだか ら,

53)

伴 「 瓢然録

」(

『 緑丘

』83

号)

4

ペ ー ジ

54)伴 「

瓢然録」 3 ペ ー ジ

55)

大平の稿 『 緑丘

』77・78

10

ペ ー ジ

56)伊東の稿 『

緑丘

』79

7

ペ ー ジ

(22)

74

商 学 討 究 第

45

巻 第

1

当時のイ ンテ リの認識の程が解 る。

伴 は,小樽高商でまず

10

年間教授を した。筆頭教授 とも言われ,教頭だった とも言われ る。大正

7

年入学の菅野 は,「 教頭の伴 さんの名声が遥かに校長を 凌 いでいる」 と書 いた。先輩が彼 に教えた,「 何か困 った ことがあれば伴 さん

とこ‑行 け,帰 りは春風胎蕩たる気持ちで帰れ る」 と

。 57)

それか ら伴 は大正

10

年 に第

2

代校長 とな り, とりわけ大正

12

年 に木部が赴任 してか らは,伴 は正規の授業 は担当 しなか った。

彼 はよ くこんな ことを言 った。「 私の学生‑の念願 は,社会 に出てよ く他校 出身者に見受 ける所謂' '高商出' 'の嫌味を身 につけない様に,そ して誠実に し て ヴァラエティのある人間に成長 して貰いたい事だ」

。 58)

小樽高商軍事教練事件

(1924

年)の発生後 ま もな く,伴先生が,学生を一 堂 に集めて淳 々ときと した中に,「 小樽高商は今黒雲に覆れているが, この黒 雲を とりのぞ く者 は,校長で も教授で もない,君達の力である」 と言 った。

昭和

10

3

月に突然,文部大臣 ・松田源治か ら,伴校長に至急上京せ よとの 連絡が有 り,伴校長がその時直感 したのは,渡辺校長が在職

10

年, 自分 も十年 余や って来たので,さては辞職勧告か と考えて,上京 した らしい。正 しくその 通 りで,大 臣か ら,「 君 も小樽の校長を十年余や って きたので, ここらで桂冠 して もらいたい」 と言い出されたので,伴校長 も残念だ った らしいが,納得す るよ り他 なか った。大臣は,永 い間の伴の苦労を謝 し,「時に,次の校長の件 であるが」 と,今度 は相談ず くで言 い出 した。「 他の専門学校の任命 は何で も ないが, 小樽 は特別の誰で もいいとはいかない, 本省で も色 々考慮 したのだが, 次の校長には苫米地君 になって貰 う積 もりであるが,どうか ?」 と,伴校長に 意見を求めた。5 9 )

当時, 筆頭教授 は中村和之雄であ った。 文部大 臣は,中村が文学士であ って, 普通の高等学校で は彼がなるべ きだが,苫米地が専門なので,彼 にな って もら

57)

『 縁丘

』52

,

7

ペ ー ジ

58)

小貫の稿,同

79

9

ペ ー ジ

59)

神部の稿 『 緑丘

』77・78

30‑31

ペ ー ジ

(23)

小樽高商 の先生 たち

75

いたか ったわけであった。

13

年間の校長時代が終わ って

60)

,伴 は東京へ行 って,隠退 した。伴 は簡素 な生活に満足 していた。 彼 はいっ も葉書 に小 さい字で書 くので, 知 られていた。

1956

( 昭和3 1 )年 に亡 くな った

。61)

5

ルイ ス ・7‑ ゴー .フラ ンク

ルイス ・フー ゴー ・フラ ンクは,1886 年

6

2日, ドイ ツのライプチ ヒに

生 まれた。ユダヤ系であった。その後,ルール地方エ ッセ ンの実科高等学校に 入学 した。 1

904

年 にベル リン大学 に入学 し,化学を学んだ。彼の師は,後 に ノーベル賞を授賞す るネル ンス トであ って, フラ ンクは1909 年 に学位 ‑博士 号を優等で とった。博士論文 は

「Pyrrolidin

誘導体 につ いて」であった。そ の後,ベル リン大学で講義助教 とな っていた。1912 年 に英国人 ア ミー ・ルー

シー ・フィ ッシャーと結婚 した。 2人共,東洋に関心があった。

1913

年 に,渡辺校長の招 きで,小樽高商 に着任 した。 日本のお雇 い外国人 の うち ドイツ人 は

37%

であ り,一番多いのである。6 2 )高商では,商品学 ・商品 実験の講師 となった。小樽で商品学の開拓者であ った。6 3 )当時の 『 小樽新聞』

はい う

ルイス ・ヒュゴー ・フランク氏 は 「 髪 も黒 く眼 も日本人 に近い。ナポ

60)

伴が辞めさせ られたのは,軍教事件のせいではないか と,一 ツ橋大学 ・松田先生 は

推測 している。

6 1 )伴房次郎先生書簡集 ( 中) 『 縁丘 』73 号 あ り。伴手紙集上 もある。

『 小樽高商二代校長 伴房次郎先生書簡集 』 ( 「 緑丘」編集部 昭和

46

年)あ り。

62)

保延 (はのべ)誠先生 は,次の作品で,フランク先生の,特 に山梨時代 そ して,長 男の悲劇 について,実に立派な調べを している。それは,真の国際親善 に供す るも のである。つま り長男 フーゴーの無実を明かに し, フラ ンク家の恨みを晴 らしたの で あ る 。『

The Centenary Book ofDr.LouisHugo Fran

k

.Edited by MakotoHonobe.

ルイス ・フーゴ ・フラ ンク先生生誕百念記念誌.』保延誠編, 山梨大学工学部 内 ルイス ・フ‑ゴ ・フラ ンク先生追悼謝恩会

1993

5

月。

本項 は, この調べ,および小樽商科大学での保延講話

(1993

年) によ って書 いて いる。

63)

参考)石井澄男 「 故 フラ ンク先生の生誕百念記念 に寄せて」( 山梨工業会 山梨大

学工学部内 『山梨工業会会報

』63

号 昭和

61

10

月)

参照

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