小樽高南軍教事件 ( 下)
目 次
は じめ に 1 情勢
2 小樽 高商社会科学研 究会
3
小樽高南軍教事件第一段 階 第二段 階
4
学生へ の弾圧 お わ りに(以上、前稿) (以下、本稿)
倉 田 稔
は じめに
本稿 は, 「小樽高南軍教事件 上」 (『商学討究』第4巻第2 ・3号) の続 き である。
3
小樽高南軍教事件第二段 階
『線丘』 は,書 く。
抗議団対学校 と,事件 は 日を追ふて紛糾 を重ねて行 くに従 って 如何 なる結 未 となるか形勢 にわか に逆口者Lがたい ものがあった この間我 々学生 は 学校 に信 頼 し 本 間題 に関 しては学生 間 に も殆 ど話題 に もな らなかったのであ る 然 るに十月三十 日突如 『小樽高商学生有志』の名 を以て軍教反対の宣伝ベ ラ
〔3 〕
(ママ)が枚 の内外 に頒布 された,その中に羅列 されたる矯激 な り語句 と 態度 の穏健 を欠 きたる事等が 断固た る校則 に触 れて 極 めて小数で はあ るが 学友 諸君 の詰責及 び停学処分 を見 るの巳やむな きに至 ったのは 遺憾 な事 であった
1)
また 『緑丘五十年史』 は, この点 について言 う。
「ところが, ・・・抗議 団 と学校 の紛糾が収 まったかに見 えた十月三〇 日に なって,学生有志 の名で軍教反対 の ビラが まかれ,事態 は一転 して学校対学生 とい う形 を とるにいたったのである。 この学生有志 とい うのは,主 として社会 科学研 究会 のメ ンバ ーであったが,学校 も こうい う学生 の動 きを放任 で きず, つい に退学 ・停学 ・詰責 を含 む十四名 の処罰者 をだす にいた り,社会科学研究 会 は壊滅す ることとなった。」 2)
当時学生だった手嶋恒二郎 は,書 く。
い くらなんで も当節 この ような主 旨の行動 に動員 されてたまる ものか とい う 空気が 次 第 に校 内 に充満 してい った。 そ して,そ う した想定 の撤 回 を求める 運動 にまでたか まって行 ったのは,もとよ り当然 とい うものである。 ‑ ・ 3)
渡辺 は書 く。
高松 勤教授4)を中心 として,読書会5)なる ものがあ り,その会 の一部 の
1)大正十四年十二月十七 日 (2),「学生大多数声明書に署名し ・・・」
2)49‑5 0
ページ。3)『手嶋恒二郎伝』73ページ。
4)
高松。高商教授。小樽商科大学所蔵の 『職員履歴元綴 庶務課』および無表紙の職 員履歴の2冊を,合成してセレクトして,高松の履歴を示せば,こうである。( ) 内は,補い。原籍 埼玉県人間郡川越町字川越廓町134番地士族 明治
2 4
年1
月1
日生まれ。住所 (小樽高商に赴任する直前) 京都市上京区岡崎町福ノ川44番地 明治43年7月9日 東京府立青山師範学校本科第一部卒業
同 小学校本科正教員免許
同 東京市立誠之尋常小学校訓導
明治
4
4年9
月1 6
日 休職を命 じられる。小学校令施行規則202条3号により。明治
4 4
年9
月1
1日 東京高等商業学校,商業教員養成所入学。大正4年7r月9日 卒業。
小樽高南軍教事件 (下) 5 学生が この想定 を人道人権 問題上 とりあげた。
『小樽新 聞』や 『北海 タイムス』も筆 を揃 えて論陣 を張 り,賛否両論相対 して, ごうごうたる輿論 を喚起 した この大混乱 の渦 中にあって,突如 として十月三〇
日,小樽高商学生有志 の名で,斎藤磯吉 らを中心 とす る学生社会科学研 究会が 全 国の学生 に轍 を飛 ば した。6)
一部学生側 の枚 はこうである。
軍事教育 に関 し
無批判の看過 は良心的不具者 たることを強調 し 全 国の学生諸君 に赦す !
本年十五 日 吾校 に於 て行 ひた る軍事教育野外演 習の想 定が,大正十二年 関 東大震災 当時の 自警団及 び憲兵の狂態 を手本 とし,無政府主義者及 び不達鮮 人 を 「破滅」せ しめん とす る不穏 当極 まる ものな りLが故 に,小樽在住 の朝 鮮 人,労働 団体及 び政治研 究会等が 一斉 に奮起 し 学校 当局 に対 し長文の質
大正
5
年4
月1
1日 大正7年3
月31
日 大正 7年4月 6日 大正7年7月1日 大正8
年3
月31
日 大正8
年5
月1 6
日 大正 9年4月 8日 大正9
年7
月5
日 大正1 0
年8
月1 6
日 大正1 2
年6
月1 5
日 大正1 2
年9月1
1日 大正1 3
年4月28日 大正1 3
年5
月1
日 大正1 4
年1
1月2 5
日 大正1 4
年12
月1 5
日同,専攻部経済科入学。
卒業。
京都市立第一商業学校教諭。
京都市立商工補習学校特科講師を嘱託さる。
公立実業学校教諭。
小樽高商助教授。
保険論及び交通論研究の為 滴 2か年間イギリス,アメリカ, フランスへ留学を命ぜられる。
出条o 教授。
帰朝。
商業実践室主任 (学内)0 産業調査会常務委員 (学内)。 学則調査委員 (学内)。
高等官五等。
従六位。
5)
これは社会科学研究会のことであろう6)
渡辺,1 05
ページ。間書 を据 出 したることは 諸君の既 に御承知のことと思ふ。
吾々は 学校当局のこの暴虐 に且,怒 り且,悲 しみ,翻然 として当局が進ん で 自決す るところあるのを待 った。
然るに何ぞや,この外部か らの抗議 を徒 らにケチをつけるもの と解 したるか, 質問書 に対 し鎧袖一触的態度を示 して 之 を一蹴 した。吾等はま亥に於て 外部 か らの糾弾 に策応 して,内部か ら猛然 と積極的反対運動 を起 し 之 と徹底的 に戦 はざるを得 な くなった。
諸君 !吾々は今,明白に軍事教育の何物 であるかを知 り得 た。それは虐 げ ら れたる同胞 にたいす る,虐げる同胞の威嚇の鞭の外 に何物 もなかった。明 日の 新社会 を建設すべ き無産労働運動階級の治頭 に対する,寄生享楽階級の巧妙 に Lで惨酷 なる,組織的弾圧以外の何物で もなかった。吾々は今,轟々たる軍教 反対の世論 を排 し,在営期短縮の好餌 を掲げてまで,吾々真理の追求者たるべ き青年学徒 に,敢 えて銃剣 を把 らせたことの何の為であるかを知って,全身の 血の逆流するを覚へ る。
諸君 !吾 々は 曽って凡ゆる ブルジ ョア学者の論弁 と欺 闇を以 って 階級対立 の事実 に盲 目である様 に強ひられて来た。両 も今や,ブルジ ョアジーの促偏 と
して,間断なき生活苦か ら就 き出で様 とす る同胞 を,敵視す ることを 強 ひ ら れるのだ。震災の どさくさに紛れて,卑怯 にも幾多の労働運動着及び朝鮮の同 胞 を屠 った新武士精神 を学ぶことを 強ひられるのだ。
諸君,諸君は之れに盲従す るか ?
否 !否 !否 ! 吾 々は お互いにかかる軍事教育 を受けることの如何 に良心 に忍 びざるところであ り,如何 に吾々の心 を憤激せ しめ,之 と徹底的に抗争 し,闘 撃することを誓わしめたか,を知 っている。 吾 々はお互いの熱愛する学園に, 自由と正義が吐血 して倒れてゐのを見 て尚,起た ぎる程の お上品な偽善者で ないことを知 っている。 そ して吾 々の胸か ら胸‑流れる血汐が,吾 々に何 を叫 ぶべ きかを教 える。
軍事教練 を葬れ !
妥協 は堕落である。倫安は裏切 りである。無批判の看過 は 良心的不具者 たる
小樽高南軍教事件 (下)
こ とを意味す る。
全 国の学生諸君 ,内部か ら軍教 に対 す る積極 的反対運動 を起せ !
大正 十四年十月
小樽 高商学生有志
7
)7
次 いで,学生側 の決議書 も出 された。 (原文 は カタカナであ るが, ひ らが な に代 える。)
決議書
今 回 我枚 に突発 したる所 謂軍教想定 問題 に閑 し 学友 の意常 大体 次 の三 あ るを知 る
(‑)該想 定 を不穏 当な りとして 批難す る もの
(二)学校 当局 の行 ひたる ところ総 て正善 な りとし (‑) の考 を抱 く者 に対 し 「国賊」 呼 は りをなす もの
(三)吾不 関目うの態度 を とる もの
吾等 は 勿論 (‑) の部類 に属す。而 して今 や学校 当局 も亦 此 の立場 を 採 らるる こ とを信 ず 吾等 は学校 に飽 く迄 ,神 聖 なる教 育機 関た るべ き を確 信 す るが故 に 該想 定 問題 に関 し 学校 当局 当然 の責務 よ り 別紙 要 求箇 条の実行 を約束せ られん ことを求 む
右決議す
大正十 四年十月二十九 日 小樽高商学生有志 伴枚 長殿
7)
『手嶋恒二郎伝』6 6‑6 7ページ。下線は原文太字。
要求書
(‑)吾等は 関東大震災 当時の自警団及 び憲兵 の狂態 を真似 たるが如 き軍事 教育野外演習想定 を以て 「緑 ヶ丘」の人道 と正義 を汚辱 したる学校 当 局が 潔 く,その責任 を明 らかにせ られんことを 要求す
(二)吾等は 学校 当局があ らゆる手段 を尽 して 該想定の不穏 なる所以を学生 全体 に明示 し 学生 をして徹底的に其 の非 を悟 らしむ ことを要求す,暖 昧 模糊 に葬 り去 らんとす るが如 き態度に反対する
(≡)吾等は 今回の如 き日本国民 を仮想敵 とする軍事教育 を 今後絶体 に施 さ る 、ことなきを要求す
以上 大正十四年十月二十九 日
小樽高商学生有志
伴枚長殿
吾等の右の決議及要求 に対 し 学校長の態度は 沈黙主義 を金科玉条 とし 何 等要領 を得ず
吾等 は滋 に 吾等の態度 を公表 し 公正 なる社会の輿論 に訴えて 吾等の意志 を貫徹する迄 断固 として屈せ ざるを誓 う。
滋 に諸兄 に訴え 飽 く迄声援せ られん事 を望む
以上8)
これは,謄写刷であ り,原紙 を書いたのが,山本だった。仲間一同の評議に かけ,斉藤 と黒田の主張で,第二項の 「暖昧摸糊」以下の件が挿入 された。原 文執筆が誰かは分か らない と,手嶋は書 く。
この抗議書には,学生の署名があった。そのため, これ ら署名者が処罰 を受 けることになる。
8)
同,6 7‑6 8
ページ。小樽高商軍教事件 (下)
9
一方,『小樽新 聞』(大正
1 4
年11
月2日付)は報ず る。「
教権下の ・‑ ◇ ・・・学生の純情が 燃 え立 った
‑
軍教想定問題の渦 は‑
停 るところを 知 らぬ」 の項 でであ る。 (現代漢字 に し,句読点 を打つ。) 「小樽高商の軍事教 練想定問題 は,今や全 国的 とな り,既報 の如 く 二十九 日東京 に於 て批判演説 会 を開催 して,輿論 を喚起す る ところあ り,一方,地元小樽 の思想 団体 は 学 校 当局の誠意極 まる回答 を手 にす るや,直 に東京の学生連盟其他 に報告 したるに,奮起せ る学生連盟其他 は世論 に批判 を乞 うべ く,別記の如 く小樽 に於 て演 説会 を開催す ることに 一 日決定 した。又高南側学生の態度如何 と見 るに,≡
年生, 年生9)の大多数は 愛校 の精神 よ りして 学校 当局 に反省 を求め る有 様 なるも,一部 は軍事想定問題 を正 当事 とし,又学校 当局の態度 をも肯定 し, 学校側 に反省 を求むる物10) を以て 「国賊」呼ばは りをな し,一年の大多数 は 表面吾 開幕 11)の態度 なるも,裏面 は三年側 に好意 を寄せ居 るといふ風 にて, 学校 当局 に反省 を求めん とす る学生有志の決議書 に対 して 学校側 は 「今 は回 答の限 りにあ らず」云々の態度 に出で,極端 なる圧迫 を加 え居 る状態で,問題 は益 々拡大 して来た。」次いで,有志学生 の伴校長 に提 出 した決議文並 びに要 求書 を,新 聞は紹介 している。前掲文 とくらべ てほんの少 しだけ違 う所 はある。
同新 聞は,続 けて,「布施辰治氏12) も 乗 り込 む 明夜小樽 クラブの 想 定演説会」の項 を,書いている。 (現代漢字 にし,テ ンを打つ)
「小樽高等商業学校 の軍事教練 の想定問題 につ きては,東京の政治研究会本 部,関東地方評議会,朝鮮 ⅩⅩ 13)鎗 同盟,朝鮮 一月会,全 国社会科学連合, 無産青年同盟,東京五大学雄弁連盟 は,共同戦線 に立 ちて,輿論 に於で批判 を
9
)一字印刷されず。「二」であろう。1 0 )
本来,「者」であろう。ll)われかんせず。
1 2 )1 8 8 0‑1 9 5 3.
弁護士 ・社会運動家。1 3 )
読めない。「労働」であろう。受 くべ く,演説会 を小樽市 に開催の計画を進め Lが,いよいよ明三 日午後六時 より 小樽倶楽部に於て,小樽高商想定批判演説会 を開 くに 決定 した。小樽労 働総同盟,政治研究会小樽支部札幌支部 を初め,函館連盟支部其他 も,中央 に 応 じて共 同戦線 に参加す る 東京 よ りは 布施辰治氏 を始 め数名来道すべ く 本道 よ りは小樽給労働 の堺氏 政治研究会札幌支部の木 田法学士等出席す る と」。そ して参加者が知 らされている。 △魚波氏 (朝鮮労働総同盟)△
韓林氏 (朝鮮一月会),△絵本篤‑氏 (全 国社会科学連盟)△波速氏 (無産青 年同盟)▲ 山本健蔵14)氏 (関東地方評議会)▲本津建蔵氏 (同上)▲布施辰 治氏 (政治研究会本部)
狼狽 した学校当局は,十一月二 日 各 クラス を動か して学校信任 の署名運動 を起 こして,学生の切 り崩 しをは じめ,翌三 日の全 国体育デーには 全校生徒 を集めて,伴校長か ら強硬 な訓示 を行 った。 しか しこの学校の計画的な弾圧政 策 をはね返 して,小樽高商全学生たちは 社研学生の積極 的な働 きかけを通 じ て動揺 と混乱 をつづけ,その影響 と波紋は,たちまちに全 国に電波の ように伝 わっていった。15)
「狼狽 した学校 当局は,十一月二 日各 クラスを動か して学校信任の署名運動 を起 こして,学生の切 り崩 しをはじめ, ・・・」 とあるのは,本当か どうか, 後に検討す る。
学生 ・那珂 捷 は書 く。「軍教反対 とい う大騒 ぎをやっていて も,警察 も出 てこなければ,憲兵隊 もやってこない。だか ら教練 をサボッては,『○○少佐, 旭川へ帰れ』と怒鳴っていればよかったのだが,この少佐 は,そ う安々 とは帰 っ てゆかない。第一,御本人が,不達鮮人云々 といったのが, どうして問題にさ れるのかが,理解がつかないので,これでは如何 に我々が声 をか らしてもダメ なのである。 これでは果て しがつかん,さて どう仕様かなとなった時に,一人
14)健でなく,懸ではないか。そうすると,有名な方の山本である。それに所属団体が, 当時の山本懸三のそれと同じである。つまり新聞のミス ・プリントではないか。
15)渡辺 『北海道社会運動史』106ページ。
小樽高南軍教事件 (下)
ll
の智恵深い学生が出て きた。 ・・・この男の発案 によって,次の ような宣言文 が発表 された。
『わが敬愛するN老教授 は,たまたま先般の関東大震災 に在京 し,教授の ト レー ドマークであるところの泥鎗 ひげの故 を以って,不達〇人な りと見誤 られ, すんでの事 に遭難す るところであった。それを以って見て も,当時の流言,不
達〇人来襲云々とは,世紀の大間違いであった。震災の余塵未だ全 く消 えた と は断 じ得ぬ今 日,朝〇人 を対手 にこれを殺傷すべ Lとい う想定は何事であるか。
我等 も朝〇人 も, コレ骨,畏れ多 くも一天万乗の大君の赤子であるぞ よ。 然 るに ・・・云々』
この一発で万事は決着 した。 目標の教官少佐殿 は姿 を消 し,毒 にも薬 にもな らぬ ようなのが,替 って着任 した。吾等 は,お とな しく村 田銃 を再び担いで, 本館前庭の芝生の上 を,丹前 を着流 して,高下駄 をはいて,分列行進に専念 し はじめたのだか ら世話はない。」 16)文中○は,鮮である。
『緑丘』 は書 く。
斯 く一部有志の名 によ り倣文散布せ し事実によ り 新 聞社 は筆 を揃 えて学校 内部の素乱等 と掲載 し 小樽高商内部に於ても想定を非 とするもの 是 とするも の 矛を交 えて相対 し 当局 に対 して も猛烈なる糾弾 をなす等 今や枚 を挙げて 騒然蜂の巣 をつ 、いたるが如 し等の宣伝 も 亦甚だ しきものがあったので か く
ては我校の名誉のためにも 又我等学生の体面 よりも 看過 して世人をして徒 に 誤信せ しむるに忍 びず とな し 運動会の翌 日即 ち十一月二 日運動会の残務整理 を終ったる其の足 にて 殆 ど各 クラスの級長 を網羅 し 鳩首合議の上 各 クラス 別に署名簿 を作成 し 該問題 に対 しては絶対 に超然たる態度を持 し 冷静 これを 葺 き 穏健着実 に学業 に精励 し居 る事実 を声明す とな し 越 えて十一月三 日 全
国体育デーに当 り 校長の沈痛 なる講話の終了するや 直に各 自のクラスルーム に於て 絶対各 自の自由意志 により前述の旨を含 む声明書 に署名 を求むるや 殆
1 6 )
「小樽夜景」 (『緑丘』NO.6 3 )1 2
ページ。1 7 )
大正十四年十二月十七日(2)
,「学生大多数声明書に署名し‑ ・」ど全校生挙 げてこれに賛同 し こ 、に多数学生の意思 として 又爾来数次 に亘 る 誤報 を取消 きしむる意味に於て 最寄各新 聞社 に交渉するや 新聞社 はいずれ も これを諒 とし 直 に我枚の実情 を報道 し 且従来の誤伝 を訂正 した か くして薄 衣は くまな く撤せ られ 忘れては夢か とぞ思ふ と云ふ気持ちで 馬鹿 らしい様で もあ り重大で もある様 な 所謂軍教想定問題は 秋風 とともに去 った。 ‑ 17)
さて,一方,小樽高商学生の敬 を受けて 「学連」 は湧 きたった。 まず十月 二十一 日,文部省 当局及び小樽高商に対 し厳重抗議 をす ると共 に,文部省当局 には五十条の質問書 を碇 出 した。だが この質問書 に対 しては 要領ある回答 を せず,ただ 「想定は穏当を欠 くものあ りと認むる も,軍事教育の方針の変更 を 認めず」 とい う程度であ り,甚だ しいのは伊藤陸軍省副官な どは 「やや奇抜 す ぎる想定だが ・・・学生はこんな想定を好むものだ」 と放言 した と伝 えられ
る。
憤激 し,火 と燃 えあがった学生大衆に対 して かえって油 を注 ぐ結果 とな り, 軍教反対運動はますます全国的に燃 えひろが り,東大,早大, 日大,立教,育 山学院をは じめ,京大,関西学院な ど 全国的 に学生が蜂起 した。東京 の学連 本部か らは林房雄18)が,東北連合会か らは東北大の島木健作 らが 応援 にか けつけた。舞台は遂に小樽か ら全道にうつ り,官憲の干渉弾圧 は激 しくな り, 社会科学研究会のメンバーに対 しては 露骨 な弾圧が下った。東京か ら応援 に かけつけた林房雄や 島木健作 は 転々 として姿 を くらまして,高商学生 と連絡 して指導 に当たった。林房雄 は 小樽 を逃れて札幌 に入 り,太田栄太郎や高倉 新一郎の宅 を転々 とし,夜 中ひそかに東京 にもどった。それか らまもな く,大 正一四年暮れか ら一五年一月にかけて 京大学生事件がお こ り,学生の検挙 は 全国的に拡大 された。林房雄 もまた京大学生事件 に連座 した。19)
学生が枚 を出して何 日もたたない 日, 実際は三 日 小樽 クラブ
18)後の小説家。本名,後藤寿雄。戦後,『大東亜戦争肯定論』を書 く。
19)渡辺,106ページ。
20)手嶋,68ページ。
小樽高南軍教事件 (下)
13
で市民大会が開かれた。学生代表 として東北帝大 の朝倉菊男 (‑後の島木健作) が演壇 に立 った,20)とされる。
詳 しくは, 『小樽新 聞
』 ( 1
1月5
日)が,報 じた。 (句読点 を補 い,現代 漢字 とした。)標題 は 「想定批判演説会 小樽倶楽部 に於 ける」である。 「小樽高 商軍事想定批判演説会 は,三 日午後六時三〇分 よ り,小樽倶楽部 にて開催 した。中央 よ りは 関東評議会委員 本津建蔵,社会科学学生連盟 朝倉菊雄,在 日本 朝鮮労働総同盟中央委員 魚波の諸氏 も 出席 した。小樽署 よ りは藤橋署長 を初 め数十名,札幌署 よ りは山形高等主任,鈴木刑事部長,道庁 よりは高等課員 も 顔 を見せ,物 々 しい警戒であった。定刻 境一雄氏 は簡単 に開会の挨拶 をなし, 政治研究会小樽支部員 村 山三郎君 「我等 は斯 く考ふ」と題 して,資本家 は我 々
に銃 口を向けて来た と論ず るも,論 旨徹底せず,笑声裡 に葬 らる。 次 に政治研 究会札幌支部 木 田茂暗君 「無産階級の立場 よ り見 たる軍教 問題」 と題 し,敬 育の自由よ り軍教 問題 に及 び,軍教 の現在 の例 を引いて延ぶ るや,藤橋署長は, 殊更 に喧騒 を棲 むるものは 治安警察法第十二条の依 りて退場 を命ず と,聴衆
に注意す。木 田氏 は,法律 的立場 より論 じ,関東大震災の問題 に及ぶや,臨席 藤橋警視 よ り注意 さる。 木田氏 更 に進化論 よ り人間向上の真精神 を述べ て結 ぶ。次 に小樽稔労働組合境一雄君 「高南軍教想定 に抗議の経過 と批判」と題 し, 諸君の公平 なる批判 を望む と冒頭 して,想定全文 を朗読 して,学校 当局 との交 渉経過 を詳細 に報告 して,是非 を聴衆 に間ひ,更に歴史的に軍国の弊害 を述べ, 我 々は軍教 に反対す るものな りと絶叫 し,朝鮮人 を同胞 として之れを敵視する
は悪影響 を来す と 鮮 人の行為 に及ぶや,藤橋署長 よ り注意 を受 く。境氏論 旨 を進めて,無産大衆の為めに一人 になる迄 も軍敦 に反対す と結ぶ。次 に 「学 校の立場か ら」 と題 し,社会科学学生連盟浅倉菊雄君 は,軍教問題 より根本的 反対の理由の例 を引いて述べ,支配階級非支配階級 を批判 し,資本主義 と軍国 主義の離 るべか らざる理由を明快 に説明 し,人類愛の為 めに絶対軍敦 に反対す と論ず。在 日本朝鮮労働稔同盟 中央委員魚波君 は,「朝鮮人の立場 か ら」 と題 して,不達 日本人は無 きゃ と冒頭 し,鮮人の関東大震災 に於 ける状況 を述べん とす るや,藤橋署長 よ り注意 さる。更 に 現在 の鮮人の労働状態 を述べん とす
るや,藤橋署長 よ り終 に中止 さる。次 に 関東評議会委員 本揮建蔵君 「軍閥陰 謀 と教育者の職能」と題下 に,軍閥を真 向 よ り非難 し,徳川幕府 の暴政 を論 じて, 資本階級 は無産階級 に対 して圧迫 に圧迫 を加 えつ 、あ り,我々は飽迄 も之れ と 戦ふ決心 を必要 とす る。 今後数十年な らず して資本軍閥は倒 る 、は火 を見 るよ
り明かであると,結ぶ。」
1926
年の2
月に全 国的に軍事教練反対運動が爆発 したのだが,小樽高商が 日 本中で トップを切 ったわけだった。江 口漁 は書 く。 「ひ とたび軍事教練反対 の闘争が まき起 こされ る と,彼 [小 林多喜二] は そのつ とめ先 である北海道拓殖銀行小樽支店 を毎 日はやめに逃 げ出 しては,母校 の学生たちの陳争 に加 わって さかんにげきれい した」21)0
概 して,こんなことも言 われる。「多喜二 は小樽高商に進んだ。在学時代 『軍 教反対』の運動 をや り ・‑ 」22)0
だが多喜二が軍敦事件 に関わったのは,せいぜい江 口が言った くらいであろ う。 なに しろ卒業 して
1
年半 もたっているのだか らである。 江口は,東京で多 喜二か ら上記の ことを開いたのだろ う。 多喜二本人 は, こう書 く。 「高商 にい る頃 軍教反対運動 に加 わ り」 23)と。 だか ら,加 わった ことは確 かである。ただ し 「高商 にいる時」ではない。本人の記憶が唆味になっている。 加 わった として も,銀行の勤 めが終 って,後輩 たちを応援 にいったのであろう。
この時期 に 東京か ら大 山郁夫や佐野学24)な どの,当時有名 な社会主義者 が小樽 に集 ま り,学校 は事実上数 日間,休校 となって しまった。 25)
『小樽新聞』の碧川 企救男 (きくお,小樽新聞記者,当時社会部長)26)は, 軍教事件 に取材 を命 じた。
伊藤整 は書 く。
21 )江口
換 『たたかいの作家同盟記』上,新日本出版社43
ページ。2 2 )
森正蔵 『風雪の碑』鱒書房1 9 46
年,1 39
ページ。2 3 )
小林多喜二 「コースの変遷」(『小林多喜二全集』新日本出版社 第五巻)35 3
ページ。2 4)
佐野。1 89 2‑1 9 5 3
。早稲田大講師。共産党指導者になる。25 )
西野の稿,『緑丘五十年史 』。2 6 )
拙稿 「多喜二と小樽」(『人文研究』86
号)50‑51
ページ。を見よ。小樽高南軍教事件 (下)
15
(軍事教練の演習の)翌 日,その想定が不当であるとい う抗議が,市内で労 働運動 をしていた境一雄や朝鮮人のグループか ら提起 され,学内では第三寄宿 舎 を中心 に 社会科学研究会の生徒が騒 ぎ出 した。境一雄 は 小林多喜二などと
も交渉のあった左派の闘士 で,小樽では著名 な人物であった。 この とき 東大 の新人会か ら 林房雄がアジテーター として小樽 に送 り込 まれた とい う伝説 も 残 っている。小林多喜二の生涯の志向は この事件か ら始 まった と 私はみてい
る。
この とき,生徒 は演習 を放棄 したのではない。終 ってか ら外部のものが動 き, 学内の生徒が騒いだのであるが,大正時代 に軍事教練 に反抗す る とい うのは 革命的な事だった。 この事件 は,同 じ年の京都大学,同志社大学の学生運動に つなが り,全国の人々に 小樽高商 というものの存在 を強 く印象づけた。それは, 大正 7年の全 国的 な米騒動が 富 山県 の魚津 の主婦 たちの 自発 的 な行動 か ら 起ったのに 似 ていた。田舎の小都会の,穏和 な生徒が軍教 に反対 して立 ち上 がった というその意外 さで 人 を驚か し,昭和初年の学生の政治運動上の 最初 の大 きな記録 となった。27)
F/J、樽新聞
』 ( 1
1月6
日)は,伝 えた.「/J、樽高商生の 反動運動 多数の穏 健派 誤解 を開明す」の項である。 (新湊字で,句読点 をつ ける。)「小樽高商 想定問題 に閑 し,過般,同校生の‑少部分の徒が 校 を撹乱す る目的を以て, 同校生有志の名に於て,学校当局 を難詰するす るが如 き倣文 を,校 内に於て散 布 したるを以て,同校生の大多数が此挙 に賛成 し 校 内の秩序が之が為め破壊 されつ 、あるが如 き誤伝 も伝‑ られたる為め,既報の如 く,愛校の念 に燃 ゆる 処の大多数の学生は,該1血文の有志なる字句は,我等 を甚だ しく侮辱す ると共 に,人格 を傷 ける事甚だ敷 きもの と,いた く憤慨 し,殊 に要求書 を携 えたる代 表者 は 各学年 を代表す るもの等 は事実 をまげるもの果多きもの とし,我々は飽 く迄学生 としての体面 を維持 し,平静穏健 に学業に努めつ 、ある現状 をあまね く江湖 に訴え,彼等の軽挙盲動の結果疑惑視せ られたる暗雲 を一掃 し,其至誠27)『伊藤整全集』新潮社 第24巻,昭和51年, 302ページ。
を被歴す る要あ りとし,去 る三 日,全校生の自由意志 に基 き該撤文の 「有志」
に我 々は全然関係 なき主旨の下に署名することになった結果,約二十名程の非 難派のみ署名せ ざるに反 し,残余の全学生が挙 って署名 したるを以て,穏健派 は協議の上,此上一層団結 を固 くし,平静且着実 に学生 としての本文 を固守 し, 同時に枚 の為めに献身 し,社会の誤解 を一掃する事 を申合せ,代表委員は各社 を歴訪 し」た。
学校では 「過 日 伴校長 より全校生 に対 し,此際各 自慎重の態度 を持 し軽挙 の行動なきを努むべ き旨の訓示あ り」,「非難の一味 も訓戒 されたると 全校生 の態度の案外強固なるにより ようや く自責の念 に打たれたる如 く 其後不穏 の 挙 な く平静 に就学 し居 る有様 なるを以て 学校 内は至極沈静 に推移 して居 る
」。
『小樽新聞』
( 1
1月8
日)は伝 えた。「瞭原の火 と拡がる 軍教反対の蜂火 上川労働団体が団結 して けふ瀧川 に会合協議す」の題である。次のようである。[上川の労働団体 は, 筆者]
この間題の目的貫徹のために各地の同志 とともに運動方法他 につ き協議 を進め ている。一両 日前,旭川市三条九丁 目の政治研究会上川支部宛 に,小樽高商学 生有志の名で,捕iを,小樽労働組合及び東北学生社会科 [学]連合会等 よりの 声明書 とともに,送ってきて,応援 を頼んで きた。そこで八 日夜,瀧川町に会 員七十余名が集合 し,熟議の上軍教反対の蜂火 を挙げ,小樽労働団体 と相呼応 して運動方法 を講ずる等。当夜上川支部 よりは荒岡,垂井の両執行委員及び札 幌支部 よりも数名応援会合す ろと。
これは,旭川発の記事である。 反対派一部高商生が,素早 く撒 ・声明を送っ たことがわかる。 旭川 に着いたのは,
6日だか らである
。 遅 くとも4日に発送
す る必要があっただろう。 学生の轍 は十月,その他のビラは十月二十九 日で, 小樽労働組合や東北学連の声 明が一緒だった というと,その二団体の用意 も素 早い。なお瀧川での会合 については,新聞が8
日付 けであるか ら,予定であると書かれていて,実際 どうだったのかは分か らない。
小樽高南軍教事件 (下)
17
5 学生への弾圧
軍教 に反対す る中心勢力 は,何 といって も,マルクス研究会であった。某教 授 の指導で 「マルクス研究会」とい うものがあった。ここで某教授 とい うのは, 高於 であろう。 もう一つのセ ンターは弁論部であった らしい。大平善悟 28), 中野清一,西川正 巳29),西野嘉一郎 らが部員 であった。彼 らは,「校 内問題 は校 内で解決すべ きだ」 と主張 し,騒 ぎの鎮圧 に向かった。 このグループは処 分 されなかった。学生の中か ら平常 どお り勉学 を続 けようとい う趣 旨の署名運 動がお こされた,30)とされる。 これは同 じ動 きであろ う。 これは前述 の通 り であるが, この運動 は学生の 自主的なものであったか,学校側が主導 した もの であったか。渡辺が言 うように,「狼狽 した学校 当局 は,十一月二 日各 クラス を動 か して学校信任の署名運動 を起 こして,学生の切 り崩 しをは じめ‑ 」31)
たのは,本 当か どうか。 これは, 『緑丘』で記述 されているように,多分学生 が 自主的に行 った もの と思 える。 学校側は もちろん, これを温 かい 目で見 てい たはずである。 学校側 はそれを主導するほ ど愚かなことは しないだろう。西川 は,我 々は処分 されなかった, と言 っているが,政治的判断が随分甘い。処分 されるどころか,学校側 に歓迎 されただろう。
学校 当局 は,軍教反対運動 の首謀者 と見 た有志 に 無期停学等の処罰で臨ん だ。 まず,校長 にたいす る抗議文書 に署名 した者であった。斉藤磯書,黒田, 寺 田などであった。 (『線丘五十年史』小樽商科大学)
12
月13
日に1 4
名の学生 に 対す る無期停学処分 を行 った。32)「学校 当局 は 直 ちにその審理 に当たった。首謀者 と目され る学生 には容赦 はなかった。か くして事実上の審理 を終‑ た学校 当局 は, この不遜 なる事件 の
2 8 )
一橋大教授になる。29)宇治山田高の教師になる。
3 0 )
『緑丘五十年史』5 0
ページ。31 )
渡辺,1 0 6
ページ。3 2 )
渡辺,1 01
ページ。所罰を発表 した。
若干名の放校,若干名の停学, しか しこの圧制に 人々はただ傍観 していた であろうか。 まず社会運動着 は この暴虐 を黙 って見てはいなかった。札幌の 労働者団体 はい きりたった。鈴木源重,木田茂晴氏等 は,直接 に学校 に刺 を通 じて,その取消 し方 を要望 してきた。市井では,処分反対市民演説会 まで開か れ ようとしていた。 しか し弾圧の潜手は,冷やかにこれ らの運動 にせい肘 を加 えていた。ジ ンゴイズム33)にむかったかれ らの人々は,己むな く丘 を去 らね ばならなかった。退学 された人々の内には,高橋与平,山本安治郎,黒田某の 名前があった。 これ らの人々は,飽 くまで ミリタリズムの劫火 に逆 ひ,真 のリ ベ ラリス トとしての行動 に殉 じた緑 力丘人であった。
高橋,山本の両氏は,その後京都大学の児島荘太郎教授 に師事 し,学究生活 に没頭 されてお られたが,戦前建 国大学の教授 をされてお られる両氏の消息が 斎 らされたが,その後は 杏 として知 らされていない。
これで軍教事件の製肘 は遂 げられたかに見 えたが, この事件 に恐(Dた学校当 局は,この事件 の背後 には必ずや思想的繁 りがあるもの と看破 し,当時小樽高 商社研の名の下 に,マルクス主義 を信奉 し,深 さ情熱 と熱心 な啓蒙 に従 ってい た三年の斎藤磯吉氏 を 退学処分 に付 した。事実は何の繁 りもなかった と聞 く が,その無実の罰 に圧 された斎藤氏の境遇 を,時の伴校長 もいた く心配 され, 南教授 に委嘱され,その復学運動 を待 ったが,時の軍国主義国家の跳梁により, 遂 にその功 を成せず して,運動は挫折の己むなきに至 ったのである。」 34) (チ
ンを少 し補 った)
手嶋は書 く。決議書 にもある通 り,終始沈黙主義を玉条 として きた学校側は, そのうち段 々学生側 に気勢があが らな くなると見 ると,次第に強硬 に出て きて, 処分問題が議せ られる頃には,教授会で反対派学生の立場 を支持 したのは,ひ
とりⅩⅩ先生 くらいの ものだった。 とにか く終わ りは頼 るもの もない弱い学生
33)英人ジンゴーが主張して有名になった。排外主義のこと。
34)小樽経済専 門学校の機 関紙 『緑ヶ丘』昭和24年2月10日,第209号。
小樽高南軍教事件 (下)
19
となって 学校当局のなすがままの仕打ちにあった。無期停学 は お よそ八, 九人だった。35)学生がひ とかたま りになって,校長室で伴か ら宣告 をうけた 日は,大雪の寒い 日だった。言い渡 しを受けるとき,誰 も何 も言わなかった。
寮の友人たちが次々と 「お悔やみ」 にきた。
南 は書 く。「こうい う事件では,必ず 『思想的背景』が問題 にされた。教 師 の側では高松勤教授 (今 は亡) と私 とが 嫌疑 をかけられ,学生の側では幾人 かの 『首謀者』が処分 を受けた。黒田,寺田,高橋,山本 そ ういう名 の学生の犠牲者 処罰 について学校 当局が一番手 を焼いたのは,斎藤 磯書君 とい う学生であった。彼 は 思想関係で最 も鮮明な存在であ り,研究グ
ループの中心的な人物であった。学校当局は この男 を 『最重罰』に処 したかっ た。 しか し彼 は,軍事教練のその 日には,痔疾のため出ていなかった。そんな わけで斎藤君の処置については容易 に方針が きまらなかった。だが,彼 も結局, 校内有力教授36)の発言で卒業証書 は貰 えなかった。彼 は 札幌近郊の篠路 と いう村の小学校‑,代用教員 として落ちていった。私は,伴校長の内命 を受け て 彼の隠棲地をたずねた。その後の思想行動のいかんによっては卒業証書 を や りたい という,伴校長の内意であった。篠路小学校の宿直室で会った斎藤君 は,机 の前 の壁 に研 究予定表 をは りつ け,相変 わ らず いや今度 こそは 本気 になってマルクス主義の研究に没頭 していた。 さて私 は 学校 に帰 って伴 校長 に,『斎藤君はよくやってい ます。マルクス主義 はやめました。卒業証書 を早 くやって下 さい』 と復命 した。 ところが,いつ になっても校 内にその気配 がない。私 は,伴校長 につ よ く当たった
。
『君 はそ うい うけ ど,ⅩⅩ
Ⅹ君37)が反対するんでね 』それが伴校長の答であった。斎藤君はついに学校 に は戻れなかった。」 38)
境 は書 く。 (テ ンを入れてお く)
3 5 )手嶋, 6 8‑9
ページ。36)苫米地のことだろう。
37)苫米地のことだろう。
38)南,『小樽商大線丘新聞』278号。
社研 グループのリーダーであった高於教授 は,追放せ られて東京‑去 り,学 生のうち残 ったのは寺 田君一人,他は全部退学せ しめ られて,その後の高商は いわゆる 「赤」がいない ことになって 今 日にいたっている。 いわゆる 「赤」
をな くす る教育の大方針 を堅持 して,あ らゆる学生善導 とい う手段方法 を駆 し た民主主義者39)が,後 に代議士 になった し,今 はいない南博士 も ある意味 では一人の被害者で もあった といえるだろう。 高商の社研 は この事件で表面 はあ とかた もな く消滅 し去 ったが 学生の社会主義 に対する研究は しか もなお 続 けられたことは,その後,僕の ところに絶 えずやって来た学生達がいたこと で も,若い学生の理想主義の旗 は単なる善導では消 え去 らない ことを 証明 し ている。 40)
伊藤整 は言 う。
この当時は, この学枚 の生徒の中の優秀なもので 「左傾」 した ものが相当に あった。 ・・・軍教事件当時,社会科学研究会 に属 した生徒 で停学 になった も のが 一六人 に遷 した。退学 した もの もあった。/伴校長 は 後 に 「これ らの 学生の中か ら同志社大学教授,彦根経尊の教授 になった者が出て居 る事 を 考 えさせ される事だ と思 う。停学処分 を受けた者の中には 随分偉い奴がいた」
と語 っている。/一般 にこのときは 学問の熱が高かったのだ。41)
学生 ・山本安次郎は言 う。「この運動 に参加 した者のうち‑六名が 無期停学 の処分 を受けた。そのため私 は就職で きず,学 に志 して京都帝国大学経済学部 の専科 に入 り ・‑ 」42)と。
大正
1 5
年5
月8
日に,黒 田は,手嶋 あての手紙 で,「 Pr o iSo ut h
がune m‑
pl oye r s
が統計上増加 しないの,wa ge
はちゃん と生計費 と比例 して行 くもの だだの,何の,かんの, とたった昨 日の ように あの教室で俺達 を説教 してい たのみ。事実 は余 りに皮肉である。」 と批判 している。Pr o f .So ut h
とは南亮三39)苫米地のこと。むろん皮肉である。
4 0 )
境一雄「軍教反対に立った頃」(『緑丘新聞』)。境かずおは,戦前に小樽市会議員となっ た。戦後,小樽市議会副議長となる。4 1 )
『伊藤整全集』 第2 4
巻 新潮社,昭和5 1
年,3 0 2
ページ。4 2 )
『南亮三郎追悼号』6 6
ページ。小樽高南軍教事件 (下)
21
郎の ことである。43)
軍教反対事件の学生で,分かっている者 はつ ぎである。 (地名 は,出身地。) 黒 田力造 (久慈繁夫 とす る時 もあ る)44)小樽 高商軍教 反対事件 で 高商 を退 学 した。黒 田は,詩 も書 き,短歌 もや り,英語が達者で,文 もうまかった。表 面上 は 「依願」の形 をとってやめた。九州大学 に入 って,その後,記者 になった。
その後,報知新 聞をやめて,情報局の嘱託 をし,司政官 として南方 にゆ くこと にな り,マニラか らさらに南方 に出航 したが,敵潜水艦 に撃沈 されて,死んだ。
後藤
ⅩⅩ
小樽高商社研 メンバ ー。斎藤磯書 1899‑,利尻 出身。思想要注意共産主義 とされる。札幌師範卒。
新人会 機 関紙 「先駆」「同胞」読者。小樽高商社研。軍敦事件で退学。
訓導。
高橋輿平 軍教反対事件 で小樽高商 を追われる,1925年。
山本安次郎 高南軍教反対事件 で退学 (1925年) 45) 0
手嶋恒二郎 も,停学処分 とされ,数 カ月郷里で謹慎 した。
寺田行雄 も停学処分 を受 けた, とされる。
合 田 正巳 (1905‑ ),小樽 出身,小樽高商卒, 三 ・一五 に連座 した。
軍教事件 に加わったか どうか不明だが,次の人がいる。 東海林 (衣,釧路)。高商最後の社研 の リーダー,1934年卒。
その他,同 じく,1928年の三 ・一五事件 に関係 した者 は,次である。
橋本隆三郎 (1908‑ ),秋 田出身,小樽高商に在学。三 ・一五 に連座。
手嶋 は,軍教事件 の仲 間 として,水 野,桑 島喜助,甲斐,泉谷,を挙 げてい る。 読書会のメ ンバーだった中村太郎 (大正15年卒) は,研究 会の所用で札幌に出 向 き,校長 にたいす る決議文書 に署名 で きず,処罰 を免れた。
軍教事件では,高商生
1 6
名が何等かの処分 を受けた。処分のために一番頑張っ4 3 )
手嶋。4 4)
堅田編 『北海道社会運動家名簿』 では,名前が不明になっている04 5 )
堅田による。山本安次郎は,その後,滋賀大学教授に,そして京都大学教授になる。4 6 )
苫米地が,後に文部省に覚えめでたくなって,校長になったのは,これが一因かも しれない。て,強硬だったのは,苫米地教授 だった と思われる。 46)当時,苫米地 は,翠 教事件の時,内部の教官が外部 と呼応 した, と考 えた。つ まり高松教授のこと であろう。 しか し,それはなかっただろう。 高桧教授は小樽高商 を追われた。
もちろん 「追われた」という表現 はどこにもない。彼 は,東京の巣鴨高商‑行 っ た。誰が彼 を追い出す急先鋒 になったかを,調べ るの も興味がある。
京都帝大 を出た民法の先生で
K
とい う人 は 反動的な立場 をつづ けた, と手 島は言 う。 当局は,関与学生にざんげ状 を書かせた。こうした当局側の処断にたい して,学生側 は何等積極的な手 を打つ ことがで きなかった, と手島は言 う。その理由は,学校側があ らゆる手 をつ くして社会 科学研究 ということを否定するようになって,少数の学生だけの運動では歯が たたなかったことだった。47)
手嶋は書 く。
私 は,その処分の妥当性 について,これを認める気 には到底 な りえない。そ もそ もの原因を作 ったものは,学校当局の非常識にあった。あの処分は,学校 当局の責任者の,甚だ しい早 とち り,見当違いの処置であった。なににして も, 胸 くそのわるかったその気持ちは,五十余年 を経過 した現在で も,殊のほかに 依然たるものだ。48)
それにしても,その当時の小樽高商には,いわゆる自由主義的思想が,た と えば,講義のや り方にしても,テキス トの選定にして も, ともか くあ らゆる点 で特異 なまでに横溢 していた。つ ま り殊 のほか数多 くの 自らリベ ラリス トを もって任ず る教官がおった, さてその リベ ラリス ト49)たちの多 くが,処分 に ついて示 した態度 は,いずれ も似而非 という体の ものだった。何 とも悲 しんで あま りある ・‑ 50)
こうい う中で も,軍教 は続け られた。大正
1 4
年1
1月11日の 『小樽新聞』は伝47 )
手島,6 4ページ。
48)同,7
7ページ。
49)大体,日本では本来,リベラリス トは余 りいなかった。近代 日本にはそういう土壌 はないのである。
50)手嶋,78ページ。
小樽高南軍教事件 (下)
23
える。「高商の 野外演習 きのふ最上町付近で」の項 である。(現代漢字 とし, 句読点 を打つ。)
「小樽高商野外演習は,五六両 日挙行 の処,降雨の為め延期 とな り,昨十 日 最上町付近 に於て行 われた。第三学年及第二学年乙組 を以て 南軍歩兵‑中隊,
第二学年 (乙組 を除 き) を以て 北軍歩兵‑中隊を編成 し,統裁官 として鈴木 少佐,南軍審判官 (兼務長)斉藤少尉,北軍審判官菅大尉,加藤少尉 の下に行 はれ,銃声 山間にこだまし 学生の血 を湧か した。露営する予定であったが, 変更 し,夕刻 ,飯食 の炊 き方,露営の説明あ り,活気横溢裡 に解散 した。」
『小樽新 開』
( 1 1
月7
日付 け,東京6
日発) は,「軍教批判演説会 禁止 か ら 紛糾 早大 にみなぎる二つの暗流 緩和策に腐心中」とい う標題で,書 く。「例の小樽高商の仮想走問題 に端 を発 し,全国学生軍事教育反対 同盟の学生等が し ば しば文部省 に押 し掛 けて,教育の 帝 国 主 義 並 びに軍国主義化 につ きて手厳 しく質問 をなせ ること等 より,世間に問題 を提 出 し,識者 間に議論 さ れ来れる矢先,・・・早稲 田大学の雄弁会新 聞学会や社会科学研 究会,読書会, 国際連盟,第一,第二高等学院部,文化思潮研究会,第二高等学院弁論部等 をもっ て組織 され し,オール早稲 田軍事教育反対 同盟 にて行 はん とせ る同校 内におけ る五 日の第二回軍事教育批判演説会 に,学校当局が 突 如 禁 止 命令 を 発 したる為め,ここに問題 は粉糾 し,長時間に亘 る交渉の結果,事実上決裂 した」
云々。
『小樽新聞
』 ( 1 1
月1 3
日付 け) は,書 く。 「各学校 に 軍教反対の気勢 青山 学院では校長 に 決議文 を提 出 して紛糾」の項であ る。 (現代漢字 に し,句読 点 を打 った。)「‑ 青山学院に軍事教育 を実施す る学校 当局 は,その教育方針 にもとり51), 矛盾 も甚 だ しく,且 キ リス ト教精神 の退廃 を示す もの な りと,去 る十 日以来
5 1 )原文では,「もどり」とある。
同学院反軍事連盟の学生が一斉 に立って,石坂校長に決議文並びに三箇条の要 求書 を遭 出 し,学校当局の矛盾 と高圧的態度を非難 し 紛糾 を続けてゐるが, 一方 早稲 田大学は軍教反対 同盟主催 とな り,一二 日午後 早大二十番教室で, 森戸辰男,大山郁夫,長谷川如是閑,大森義太郎氏等 を招いて,帝国主義批判 論談会 を開催 し,本一三 日午後は,帝大,立教,早大,三大学新聞主催 とな り, 右 四民の外,千葉鎗雄,麻生久,星島茂氏等 を加 え,学術研究擁護講演会 を開 催 Lて,軍教反対の気勢 を挙 げ,育,明,立各大学 も呼応す る筈である。」
『小樽新 聞
』1 1
月1 9
日付 けは,報 じる。 「長野県下 に 軍教 反対 の火 の手 猛烈 な運動 と知って 上田署が大活躍」 の項である。「小樽高商の軍事教育問 題 に端 を発 し 東京各大学軍事教育 に大反対運動 を起 こしたが,中央 に於 ける 軍教反対 の運動 は 極端 に当局の圧迫 に遭 ったので,い よい よ反対者側の幹部は 地方青年及学生 によりて反対運動 を為 し 地方か ら軍教反対の運動 を起 こす べ く 秘密裡 に画策中なるも 最 も新思想 に理解 ある長野県 は 特 に之 に力 を入 れ 数 日前 より 上田市郊外別所温泉 に 早大明大帝大各学生 及び社会思想研究 会,文化思想研究会,社会科学研究会の幹事約二十名 は 同市花屋 ホテルに滞 在 し 別所温泉 を根拠 に 絶対秘密裡 に全県下 に向かって巧 に運動 し 最 も軍事 教育の旺盛 を極 め居 る上田蚕糸専 門学校,松本高等学校 を始め 中等学校か ら 青年会 に至 るまで 反対の宣告 をな し 多数の同志 を得 て 近 く長野県 に於 ける 軍事教育反対の第一声 を拳 ぐこととなれるも 一七 日に至 り 右運動 を上田警察 署 にて探知 し 警視庁 と連絡活動 を開始 した
」。
(現代漠字 に し,一字漢字 を平 仮名に した。)大正
1 4
年1 2
月1 7
日づ けの 『線丘』( TheMI DORI GAOKA)
第6
号では,第 1面で,「大正十四年 を送 る」」 とい う標題の中に,「想定文事件」 と題す る論 説がある。短いので,掲げよう (現代漢字 にした)0十月十五 日 我枚軍事教官の塙 した想定文が不穏 当であると 小樽札幌の諸団 体が立って 学校当局に其の不法 を糾弾 した。今此の想定文 を 公平 なる立場か
小樽高商軍教事件 (下)
26
ら其の文其 自身を見 るに 社会主義者 に非ず とも 鮮人に非ず とも 将又 軍教反 対者 に非ず とも 卑 くも常識 を有する程の者 は 明かに之が正否 を判断 しうるで あろう。 是 に至って 想定問題 は変 じて 軍教反対 の蜂火 となって 全国的運動 にとな らん としっ 、あった。か きる間にあって 小樽高商一部人士が突如 とし て起ち 内は学校 当局に想定文の不当を糾 し 外 は全国大学専 門学校 に向かって vH文 を飛ば したのである。是 に於て余等 は 此の学生有志の此行動 につ きて之 を見 るに 稀 々熱情 に駆 られて 自らの使命 を忘れたるに非ずや との感 を抱 くの である。 彼等 は 真の意味の自由研究, 自由批判の態度 を離れて 余 りに宣伝 に 奔走 し 又実際運動に興味を持 ち過 ぎたのではあるまいか 自由研究,論究批判 の域 を脱 して 外形的運動 に自らの使命 を忘れたのではあるまいか。我々学徒 の立場か ら軍事教育実施の可否 を論断 し 教育の軍事化 に批判 を下すのみに止 ってゐたな らば 今回の如 き不祥事 (生徒処分問題) は起 こらないで済んだで あ らうと思ふ。想定の不穏 当なるは何人 も之を認め 軍事教育実施 につ きての 論究は至 る所 に行 われつ ゝあるのではないか。然 して我々学徒 は 研究の 自由 を許 されてゐる。余 はか ゝる意味に於 て 彼等一部情熱の士が稀 々実際運動 に 携 り過 ぎたのではなかろうか との感 を抱 くのである。 之 は 甚だ残念 な事であ
った。我々は 有為 の士の不遇 をお しむものである。
か くして今や 小樽高商の想定問題 は 全 く安静の昔 に返 った。然 るに か くの 如 き事件の勃発 したるの故 を以て 学生の思想研究 を危険視 し 之を恐 る 、もの あるに至 りたるは 其の判断を誤れるものに して 余等の遺憾置 く能はざる所で ある。思想研究は 敬慶 なる学徒 の 自然の要求であ らねばな らぬ。 社 会問題の 研究及思想研究は 実際社会運動 に参加す ると言ふ事 とは 如何 なる場合 に於 て も切 り離 して考‑ るべ き問題である。 余等 は やがてか きる誤解 の解 け去 る の機の早か らん事 を 切 に希望する。
これを書いたのは,弁論部 らしい。そ して同紙 同 日,第