ラットにおける記憶過程の能動的制御に関する実験 的検討
著者 田中 千晶
著者別表示 Tanaka Chiaki
雑誌名 博士論文要旨Abstract
学位授与番号 13301甲第5101号
学位名 博士(学術)
学位授与年月日 2020‑03‑22
URL http://hdl.handle.net/2297/00058754
doi: https://doi.org/10.3758/s13420-019-00388-3
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
様式 7(Form 7)
学 位 論 文 要 旨
Dissertation Abstract
学位請求論文題名 Dissertation Title
ラットにおける記憶過程の能動的制御に関する実験的検討
(和訳または英訳)Japanese or English Translation
An experimental study on active control of memory processes in rats
人間社会環境学 専 攻(Division)
氏 名(Name) 田中 千晶 主 任 指 導 教 員 氏 名(Primary Supervisor) 谷内 通
(注)学位論文要旨の表紙 Note: This is the cover page of the dissertation abstract.
Abstract
The present study examined whether rats can control their own memory processes actively through directed forgetting paradigms. Experiments 1-4 examined directed forgetting in rats using an eight-arm radial maze. In Experiments 1 and 2, rats were trained by directed forgetting tasks presenting multiple to-be-tested items and not-to-be-tested items in a same trial similar to human experiments. Rats showed significant directed forgetting effects; performance was deteriorated on the probe trials in which items signaled as not-to-be tested in a preceding learning phase of a trial were presented in a subsequent test phase instead of to-be-tested items. However, the evidence of reallocation of memory resource was not shown in Experiment 3. Experiment 4 eliminated the possibility that rats learned to avoid not-to-be tested items in the test phase. In Experiment 5, rats were trained in a delayed matching to sample task of object stimuli with the aim of setting up a directed forgetting task of list learning for rats. Although rats learned the matching to sample task of single object sample, they could not learn the task using list samples consisting of sequentially presented multiple objects. Experiment 6 examined interaction of the serial position effect and directed forgetting. Although the directed forgetting effect was predicted to occur only on primacy effects but not recency effects, any consistent tendency of directed forgetting on different serial positions was not found because of individual differences. In the general discussion, I examined possible artifacts and alternative interpretations and demonstrated that the findings of the present study strongly suggest that rats can actively control their memory processes.
論文要旨
ヒトは能動的なリハーサル制御能力を有する。すなわち,外界から得た情報が受動的に記憶に残 ったり上書きされて更新されたりするだけではなく,自らにとって必要な情報はワーキングメモリ 過程においてリハーサル処理を繰り返して記憶を維持しようとする一方で,不要な情報はリハーサ ル処理を停止する。この能動的なリハーサル制御能力は,容量に限界のあるワーキングメモリを有 効に活用する上で利点がある。
この能動的なリハーサル制御能力は,主に指示忘却(directed forgetting)現象を通じて検討さ れてきた。指示忘却とは,後のテストを信号された記銘項目と比較して,後のテストの不在を信号 された忘却項目の成績が低下する現象のことである。テストの不在を信号された項目に対するリハ ーサルの停止が,指示忘却現象の主要な要因であると考えられている。したがって,指示忘却はヒ ト以外の動物における能動的なリハーサル制御能力に関する有力な検討方法となり得ると考えら れる。本研究では,指示忘却の検討を通じて,非霊長類の哺乳類であるラットが能動的なリハーサ ル制御能力を持つ可能性について検討することを目的とした。
第1章では,動物におけるワーキングメモリ過程の存在や,その能動的な制御について,先行研 究が用いてきた手法や基本的な知見に関するレビューを行った。先行研究の問題点や,ヒトとヒト 以外の動物における指示忘却の実験手続きの相違点について指摘するとともに,本研究で取り組む べき課題について説明した。
動物における初期の指示忘却研究について包括的かつ批判的に検討したRoper & Zentall (1993) は,報告された指示忘却効果が,条件性フラストレーションや,予期せぬ記憶テストに対する不注 意,驚愕反応などの非記憶的な要因によって説明可能であると指摘した。また,Roper & Zentall
(1993) は,ヒトとヒト以外の動物における指示忘却手続きの違いについて指摘した。すなわち,
ヒトにおける指示忘却手続きは,1試行につき複数の記銘項目と忘却項目が提示されるため,テス トの不在を信号された忘却項目のリハーサルを停止し,テストを信号された記銘項目へと記憶資源 を再配分することに利点がある。一方で,従来の動物における手続きは,1試行につき1つの項目し か提示しないため,忘却項目のリハーサルを停止することに課題を遂行する上での利点はない。こ のRoper & Zentall (1993) の主張は,記憶資源再配分型の手続きによってハトの指示忘却を検討し たRoper, Kaiser, & Zentall (1995) によって裏付けられた。
鳥類であるハトとヒトをはじめとする霊長類において,指示忘却の検討に記憶資源再配分型の手 続きが有効である場合,鳥類と霊長類の共通祖先からワーキングメモリの能動的な制御能力が受け 継がれた可能性と,鳥類と霊長類が,それぞれ独自にワーキングメモリの能動的な制御能力を進化 させた可能性が考えられる。したがって,ワーキングメモリの能動的な制御能力の系統発生的な起 源について検討するためには,鳥類や霊長類と祖先を共にする非霊長類の哺乳類を対象とした,記 憶資源再配分型の指示忘却手続きによる検討が必要である。そこで,本研究では非霊長類の哺乳類 の代表的な実験動物であるラットを対象に指示忘却の検討を行うことを目的とした。
第2章では,8方向放射状迷路を使用して,ヒトにおける指示忘却手続きと類似した記憶資源再 配分型の手続きを考案し,ラットの指示忘却を検討した4つの一連の実験について報告した。ラッ トを対象とした従来の指示忘却研究は,Roper & Zentall (1993) の指摘した,条件性フラストレー ションや予期せぬ記憶テストに対する不注意,驚愕反応などの非記憶的な要因がプローブテストの
遂行に干渉した可能性を排除できなかった。また,ヒトにおける手続きのように,同一の試行内で 複数の記銘項目と忘却項目を提示し,忘却項目から記銘項目への記憶資源再配分を促す手続きによ る検討は行われていない。本研究の実験1と実験2では,8方向放射状迷路を使用した記憶資源再配 分型の手続きで,ラットの指示忘却を検討した。迷路のアーム中央に設置した餌の有無を項目とし て,アームの先端に後のテストを信号する記銘手がかり,あるいは後のテストの不在を信号する忘 却手がかりを設置した。テストでの報酬の可能性を信号された,中央に餌のない3アームのうち,
記銘手がかりを設置した1アームの選択が正反応であった。忘却手がかりを設置した2アームは,テ ストから除外した。以上の訓練の後,中央に餌がなく,先端に記銘手がかりを設置したアームの代 わりに,中央に餌がなく,先端に忘却手がかりを設置したアームの1本を正反応とするプローブテ ストを行った。実験1では,絶対値の上では,記銘手がかりに続く通常の記憶テストと比較して,
忘却手がかりに続くプローブテストの成績が低下したものの,有意な水準には達しなかった。プロ ーブテストの成績低下が有意な傾向に留まった要因としては,個体数の少なさによる検定力の低さ と,習得水準の低さが考えられる。そこで実験2では,被験体数を増やすとともに,手続きの改良 を行った。その結果,通常テストと比較してプローブテストの成績が低下し,有意な指示忘却効果 が認められた。この結果は,記憶資源再配分型の手続きがラットの指示忘却の検討に有効であった ことを示す。従来の動物に対する指示忘却研究では,忘却手がかりを提示した項目の記憶テストを 省略する手続きが用いられたため,報酬機会の省略の信号となる忘却手がかりに対する条件性フラ ストレーションや,予期せぬ記憶テストに対する不注意や驚愕反応といった非記憶的な要因を統制 することができなかった。これに対し,本研究では同一の試行内で複数の記銘項目と忘却項目とを 提示した。したがって,忘却手がかりは提示された項目のテストからの除外のみを信号し,その試 行における報酬機会の省略や,記憶テスト自体の省略は信号しなかった。このように,本研究では
Roper & Zentall (1993) の指摘した,条件性フラストレーションや,予期せぬ記憶テストに対する
不注意,驚愕反応などの非記憶的な要因については統制されていたことを理論的に分析した。
実験3では,実験2で認められた指示忘却効果が,忘却項目から記銘項目への記憶資源再配分によ る可能性を検討した。実験2と同じように,テストでの報酬の可能性を信号された3アームのうち,
1本に記銘手がかりを,2本に忘却手がかりを設置する低負荷条件と,3アームすべてに記銘手がか りを設置した高負荷条件とを比較した。忘却項目から記銘項目への記憶資源再配分が可能な低負荷 条件のほうが,すべてのアームを覚える必要がある高負荷条件よりも成績が優れると予測した。し かし,低負荷条件と高負荷条件の成績に差は認められなかった。
実験3から記憶資源再配分を支持する積極的な証拠が認められなかったため,実験4では実験2で 得られた指示忘却効果が,忘却手がかりが提示されたアームを避ける学習によってもたらされた可 能性について検討した。テスト時に,正反応のアーム以外の選択肢として記銘手がかりを設置した アームを提示する条件と,正反応のアーム以外の選択肢として忘却手がかりを設置したアームを提 示する条件とを比較した。ラットが忘却手がかりを避ける学習をしたならば,正反応以外の選択肢 として忘却手がかりを提示した条件の成績が優れると予測したが,条件間に有意な差は認められな かった。この結果から,実験2で得られた指示忘却効果は,忘却手がかりが提示されたアームを避 ける学習によってもたらされた可能性は低いと考えられる。
一方で,実験1から実験4の個体ごとのデータからは,それぞれの個体ごとに採用した課題方略や 習得水準が異なる可能性が認められた。本研究が対象とする能動的なリハーサル制御のような高度
な学習においては,課題方略や習得水準などの個体差が生じ,それによって結果が左右される可能 性が考えられる。この個体ごとの課題方略や習得水準の差を統制することが問題として残った。
第3章では,ラットにおける物体刺激を用いた継時提示による見本合せ課題について報告した。
第2章で述べたように,8方向放射状迷路を用いた記憶資源再配分型の手続きによる検討において,
ラットにおける指示忘却効果が認められた。一方で,実験2では個体ごとに成績を比較すると,課 題方略や習得水準の個体差が問題となった。そこで,新たな装置を開発し,ヒトの手続きと類似し た,複数の項目と指示手がかりが明確に分離された形での継時的な提示によるラットの指示忘却検 討を計画した。すなわち,区画に分かれた直線の走路に記憶項目となる物体と指示手がかりとなる 床材を配置し,記銘手がかりを提示した物体に対するテストと,忘却手がかりを提示した物体に対 するテストを比較する。この計画では,物体や提示位置のカウンターバランスによって1日に複数 回の試行を行うことで個体ごとの検討を可能にするほか,Roper & Zentall (1993) の指摘した非記 憶的な要因も統制することが可能である。そこで,実験5では物体の継時提示による指示忘却手続 きの前提となる,物体刺激を用いた見本合せ課題の学習について検討した。1つの区画に物体と記 銘手がかりの両方を同時提示した。物体刺激と記銘手がかりを設置した区画にラットを一定時間と どめた後,提示した物体の選択が正反応となる記憶テストを行った。特定の物体が正反応となる単 一弁別課題をラットは習得することができたものの,複数刺激の継時提示による見本合せ課題の遂 行を習得するには至らなかった。ラットの遂行成績の変化過程と課題の問題点について分析を行っ た。
第4章では,能動的なリハーサル制御との関連が指摘されている系列位置効果(serial position effect)に着目し,系列位置課題を組み込んだ手続きによってラットの指示忘却を検討した。系列 位置効果とは,系列提示された序盤の項目と終盤の項目の記憶成績が優れる現象である。序盤の成 績が優れる現象を初頭効果(primacy effect),終盤の成績が優れる現象を新近効果(recency effect)
と呼ぶ。初頭効果は能動的なリハーサルの反映であると考えられるのに対して,新近効果は受動的 な保持の反映であると考えられる。ラットにおいても,ヒトと同じ初頭効果と新近効果の両方を併 せ持つU字型の系列位置曲線が報告されている。そこで,実験6では,8方向放射状迷路を使用して,
リハーサル制御との関連が指摘される系列位置効果の初頭効果に注目し,ラットにおける指示忘却 を検討することを目的とした。Kesner, Measom, Forsman, & Holbrook (1984) の用いた,その試 行でより早期に進入したアームの選択を求める課題を,指示忘却用に改変した。記銘手がかりを2 アームに,忘却手がかりを6アームに設置し,記銘手がかりが後のテストを信号したアームに対す るテストと,忘却手がかりが後のテストの不在を信号したアームに対するテストの遂行を比較した 時,ラットが能動的にリハーサルを制御するならば,忘却手がかりを提示したアームでは受動的な 短期保持と関連する新近効果のみが認められる一方で,記銘手がかりを提示したアームでは能動的 なリハーサルと関連する初頭効果と,新近効果の両方が認められると予測した。しかしながら,記 銘手がかりを提示したアームに対するテスト成績については個体差が大きく,平均値としては,系 列位置効果は認められなかった。実験者の意図とは異なり,ラットが記銘手がかりを「50%の確率 で報酬」の信号として扱ったため,「順序に関わらず記銘手がかりを設置したアームにランダムに 進入する傾向」が「順序に応じてアームを選択する」というテストの遂行に干渉した可能性がある ことを指摘した。
第5章では,有意な指示忘却効果を認めた実験2を中心に,主に実験1から実験4について総括す
るとともに,今後の課題や展望について述べた。本研究では,Roper & Zentall (1993) の指摘した 非記憶的な要因を十分に統制した上で,ヒトを対象とした手続きと類似する記憶資源再配分型の手 続きにより,ラットの指示忘却を示すことに成功した。この結果は,ラットが与えられた信号に応 じて能動的にリハーサルを制御したか,あるいは少なくとも,能動的に記銘処理を制御したことを 示唆する。本研究が対象とした“能動的な”リハーサル制御能力は,原始的な生物の有したであろ う外界を認識して対応する“受動的な”心と,ヒトが持つ自省的な心の橋渡しをすると考えられる。
ラットにおける能動的なリハーサル制御をさらに明確に証明するとともに,情報の必要性に応じて 記憶資源を能動的に再配分する可能性について,有効な研究法の開発も含めて,検討を進める必要 がある。さらに,記憶資源再配分の直接的な証拠や,指示手がかりが訓練された文脈に依存するの ではなく,独立した信号として機能しているのかなどの検討を進めることにより,ヒトと動物の能 動的な情報処理の機能やメカニズムの同一性と差異性を明らかにすることが,世界について能動的 に考える心の働きの起源を明らかにしていくことにつながると考えられる。
㊞
学位論文審査報告書
2020 年 2 月 12 日
1 論文提出者
金沢大学大学院人間社会環境研究科 専 攻 人間社会環境学専攻 氏 名 田中 千晶
2 学位論文題目(外国語の場合は,和訳を付記すること。) ラットにおける記憶過程の能動的制御に関する実験的検討
3 審査結果
判 定(いずれかに○印) 合 格 ・ 不合格
授与学位(いずれかに○印) 博士( 社会環境学・文学・法学・経済学・学術 )
4 学位論文審査委員 委員長 谷内 通 委 員 岡田 努 委 員 小島 治幸 委 員 滝口 圭子 委 員 安永 大地 委 員
(学位論文審査委員全員の審査により判定した。)
5 論文審査の結果の要旨
本論文は,非霊長類のほ乳類動物であるラットがワーキングメモリにおけるリハーサル処理 を能動的に制御可能か検討した実験研究をまとめたものである。ヒト以外の動物が自らの心的 過程を能動的に制御する可能性については,1970 年代の終わりから盛んになった比較認知研 究の流れの中で,主に指示忘却(directed forgetting)と呼ばれる実験法を通じて1980年代から 1990 年代にかけて盛んに研究された。指示忘却とは,後のテストを信号された記銘項目と比 較して,後のテストの不在を信号された忘却項目の成績が低下する現象である。初期の研究に おいて,サル,ハト,ラットといった動物で指示忘却現象を示す証拠が報告された。しかしな
がら,Roper & Zentall (1993) は,動物における指示忘却は,忘却手がかりに対する条件性フラ
ストレーションの獲得,あるいは予期せぬ記憶テストに対する不注意や驚愕反応などの非記憶 的なアーティファクトによる可能性を指摘するとともに,その後に Zentall の研究グループが 行った一連の実験的研究によってこれらを証明した。これらの非記憶的アーティファクトを十 分に統制することは非常に困難であったために,動物における指示忘却研究は下火になった。
本研究は,Roper & Zentall (1993)が指摘した非記憶的アーティファクトを統制した上で,ラッ トにおける真の指示忘却効果を示すことを目的としたものである。
第1章では,動物におけるワーキングメモリ過程とその能動的な制御に関する先行研究まと めている。Roper & Zentall (1993)の指摘を中心に,先行研究の問題点やヒトとヒト以外の動物 における指示忘却実験の手続きの相違点から,本研究の目的を導出している。
第2章では,8方向放射状迷路という装置を新たに活用することで,Roper & Zentall (1993) が指摘した非記憶的アーティファクトを統制した手続きを考案し,ラットの指示忘却を検討し た一連の実験について報告している。特に,ヒトにおける指示忘却手続きのように,同一の試 行内で複数の記銘項目と忘却項目を提示し,忘却項目から記銘項目への記憶資源再配分を促す ための手続きを構築している。実験1と実験2では,8方向放射状迷路を使用した記憶資源再 配分型の手続きによって有意な指示忘却効果を認めた結果を報告している。特に,同一の試行 内で複数の記銘項目と忘却項目とを提示する方法を用いたことから,忘却手がかりは特定の項 目がテストから除外されることのみを信号し,その試行における報酬機会の省略や,記憶テス ト自体の省略は信号しなかった。このため,Roper & Zentall (1993) の指摘した,条件性フラス トレーション,あるいは予期せぬ記憶テストに対する不注意や驚愕反応などの非記憶的な要因 については統制されていたことを理論的に分析している。
実験3と実験4では,実験2で認められた指示忘却効果が,忘却項目から記銘項目への記憶 資源再配分による可能性を検討した。ラットが忘却項目から記銘項目へと記憶資源の再配分を 行ったことを示す明確な証拠は得られなかったものの,実験2で認められた指示忘却効果が,
能動的なリハーサル制御以外の要因によってもたらされた可能性を排除する付加的な証拠を 得ている。
第3章では,ヒトの指示忘却実験におけるリスト学習法により近い手続きの構築を目指して,
ラットにおける物体刺激を用いた継時提示による見本合せ課題を訓練した結果を報告してい る。実験5として,複数物体の継時提示による見本合せ課題の学習について検討した。ラット は,特定の物体が正反応となる単一弁別課題をラットは習得することができたものの,複数刺 激の継時的なリスト提示による見本合せ課題の習得には至らなかった。ラットの遂行成績の変 化過程と課題の問題点について分析を行っている。
第4章では,能動的なリハーサル制御との関連が指摘されている記憶の系列位置効果と指示 忘却の関連を検討している。記憶の系列位置効果とは,複数の記憶項目が系列的に提示された 場合に,序盤の項目と終盤の項目の記憶成績が優れる現象である。序盤の成績が優れる現象で ある初頭効果は能動的なリハーサルの反映であると考えられているのに対して,終盤の項目の 成績が優れる新近効果は受動的短期保持の反映であると考えられている。これまでにも,ラッ トにおいても初頭効果と新近効果を持つ系列位置曲線が得られることが報告されている。実験 6では,8方向放射状迷路を使用して,忘却手がかりを提示したアームでは受動的な短期保持 と関連する新近効果のみが認められる一方で,記銘手がかりを提示したアームでは能動的なリ ハーサルと関連する初頭効果と,新近効果の両方が認められるという予測の下に実験を行った。
テスト成績については個体差が大きく,平均値としては,一貫した効果は認められなかった。
しかしながら,個体データの分析からは,遂行成績はいくつかの類型に分析される傾向が示さ れたことから,学習方略に個体差がある可能性を示唆している。
第5章では,有意な指示忘却効果を認めた実験2を中心に,主に実験1から実験4の結果に ついて考えられる多様な可能性について理論的に分析することを通じて,本研究で示された結 果が真の指示忘却現象であることを論じている。また,残された課題や今後の展望について論 じている。特に,本研究では示すことのできなかった記憶資源の再配分について証明するため の研究の方向性を具体的に提案している。
本研究については,特に以下の2点を高く評価できる。第1に, 第1章の先行研究につい
てのレビューを通じて,Roper & Zentall (1993) が動物における初期の指示忘却研究について指 摘した,条件性フラストレーション,予期せぬ記憶テストに対する不注意,あるいは驚愕反応 などの非記憶的なアーティファクトによる可能性について,先行研究の手続きや問題点を綿密 に分析した点である。先行研究を網羅的に分析することで問題点を整理することに成功してお り,独立したレビュー論文として成立する完成度を示している。第2に,厳密な統制が難しい と考えられてきた非記憶的アーティファクトを統制するための方法を考案し,ラットにおける 真の指示忘却現象を示すことに成功したことである。実験1は国内誌,実験2と実験3は国際 誌に査読付論文として公刊されている。約四半世紀の間,比較認知科学者が明確に答えること ができなかった難問について,国際的に評価される成果を上げたことは何よりも高く評価でき る。
一方で,いくつかの要望も指摘された。第1に,本研究が対象とした指示忘却現象とそれを 通じて解明される記憶過程の能動的制御能力を研究することが,比較心理学・比較認知科学全 体においてどのような意義を持つのか,より大きな視点における本研究の位置づけについて明 確にすることが望まれる。例えば,ラットを研究対象とすることについて,霊長類と鳥類に関 する先行研究から,進化における相同と相似の問題から論じているが,この問題に本研究がど の程度まで答えられたのか,また今後の取り組みとしてどのようなことが必要であるのかを具 体的に示す必要がある。第2に,人間における指示忘却手続きや関連する認知機能との相違点 やその意味についてもう少し丁寧に説明することが望まれる。例えば,本研究で示された指示 忘却現象に関わる認知過程としてリハーサル過程と検索過程については論じられているが,抑 制過程に関する議論や今後の検討可能性について論じられてもよいという指摘があった。第3 に,実験6で示唆された学習方略の個体差について,より積極的な意義を見出す方向性があっ ても良いのではないかという指摘があった。
以上のように,いくつかの要望も指摘されたが,ヒト以外の動物における指示忘却現象につ いて,入念な理論的分析に基づいて,重要な学術的発見を得たことは非常に高く評価できる。
また,これらの研究成果は国際学会を含む多くの機会において報告されるとともに,既に査読 付き論文として国際誌等に公刊され,学界の評価を得てきている。以上から,審査者全員一致 で本論文を合格と判定した。