ラットにおける予期的対比効果の実験的検討
著者 西川 未来汰
著者別表示 Nishikawa Mikita
雑誌名 博士論文要旨Abstract
学位授与番号 13301甲第5103号
学位名 博士(学術)
学位授与年月日 2020‑03‑22
URL http://hdl.handle.net/2297/00058756
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
様式 7(Form 7)
学 位 論 文 要 旨
Dissertation Abstract
学位請求論文題名 Dissertation Title
ラットにおける予期的対比効果の実験的検討
(和訳または英訳)Japanese or English Translation
An experimental study on the anticipatory contrast effect
人間社会環境学 専 攻(Division)
氏 名(Name) 西川 未来汰 主 任 指 導 教員 氏 名(Primary Supervisor) 谷内 通
(注)学位論文要旨の表紙 Note: This is the cover page of the dissertation abstract.
Abstract
This study reports experimental studies that examined the anticipatory contrast effect in rats with the aim of developing an experimental paradigm for future prediction studies in rats. Experiment 1 examined replicability of the basic findings of Flaherty and Checke (1982) that reported that rats refrained from drinking less preferable saccharin solution if it was followed by a more preferable sucrose solution. No difference in intake of the first saccharin solution between the groups was observed in the long inter-solution interval. However, when the inter-solution interval was shortened, the Experimental group showed more intake of the saccharin solution than the Control group did, suggesting development of preferential conditioning, but there was no anticipatory contrast to the saccharin solution. Experiments 2-5 examined determinants of the anticipatory contrast and preferential conditioning. The results suggest that if salient contextual cues for subsequent sucrose solutions are given, the saccharin solution as a cue for the sucrose solution is overshadowed, and thus the anticipatory contrast is manifested. In contrast, if the saccharin solution is the most salient cue for the sucrose solution, then preferential conditioning to the saccharin solution occurs. In the general discussion, I proposed a new hypothesis of an interactive mechanism between the anticipatory contrast and preferential conditioning. Implication of the results and future directions were also discussed in terms of the anticipatory contrast effects as a method of investigating mental ability of predicting near future events in nonhuman animals.
論文要旨
本研究では,ラットにおける未来予測研究への発展を目指して,ラットの予期的対比効果 についての実験的および理論的分析の報告を行った。予期的対比効果とは,好みの弱い餌に 続けて好みの強い餌を提示するという手続きを反復すると,後続の好みの強い餌を提示し ない統制群と比較して,先行する好みの弱い餌の摂取が抑制される現象であり,Flaherty
and Checke (1982) によって最初に発見された。予期的対比効果は,近い未来に提示される
好みの餌を予測することによっても説明されるものの,他の未来予測研究と同様に,未来予 測以外の単純な学習による可能性を排除する必要がある。例えば,現在の行動が将来の結果 事象によって分化的に強化された連合学習の可能性などである。予期的対比効果は,単純な 摂食行動を利用することから,手続きの精緻化によって道具使用等の複雑な行動を利用す ることが困難な,ラットを含む様々な種における未来予測に関する有効な実験法に展開で きる可能性が考えられる。
しかしながら,Flaherty and Checke (1982) が示したような,30分間という長い溶液間 間隔で予期的対比効果を再確認した研究はLucas et al. (1988) の1例のみであり,否定的 な結果が多く報告されている (e.g., Capaldi & Sheffer, 1992)。予期的対比効果の規定因に ついて検討を行った先行研究に関しても,ほとんどは溶液間間隔が短いもの,あるいは被験 体内計画を用いたもので,Flaherty and Checke (1982) が示したような,溶液間間隔が長 く,被験体間計画を用いた実験条件とは異なる。そこで,本研究は,未来予測に関わる実験 条件で得られている予期的対比効果に関する知見の再現性と関連する要因について検討す ることを目的とした。
第 1 章では,動物研究におけるエピソード的記憶,未来予測および予期的対比効果に関 する先行研究についてレビューを行った。さらに,先行研究における問題点を指摘し,本研 究で取り組むべき課題について説明した。エピソード記憶 (episodic memory) とは,1970
年代に Endel Tulving によって意味記憶とは異なる記憶の体系として提唱された。何が
(what),どこで (where),いつ (when) に関する情報を含んだ過去の記憶の再生であり,
WWW 記憶と呼ぶこともある。過去に起こったできごとに関するエピソード記憶を利用す ることで未来予測が可能であるとされ,ヒト固有の能力であると主張されていた。エピソー ド記憶にはその後に動物の行動研究では証明不可能と思われる定義が加えられたことから
(佐藤, 2010),WWW記憶はエピソード記憶の基本的な定義を満たすという意味でエピソー
ド“的”記憶 (episodic-like memory) とも呼ばれる。Clayton and Dickinson (1998) のカ ケスの研究をはじめとして,過去に関する記憶については,WWW 要素を満たすエピソー ド的記憶がヒト以外の動物においていくつかの肯定的な結果が示されてきた。その後,動物 における未来予測研究も行われるようになり,鳥類や類人猿が未来予測能力を持つという 証拠が得られてきた。そのため,ラットにおける未来予測研究では鳥類や霊長類で行われた 実験手続きをそのまま適用したものが多く,ラットにおいて貯食行動を利用した未来予測
研究が行われ,未来予測を示す結果は得られなかった (McKenzie, et al., 2005)。しかし,
ラットが未来予測能力を持たないと結論するのは性急である。過去に関するエピソード的 記憶に関する研究でも,生得的に貯食行動を持たないラットでは否定的な結果しか得られ ていない (Bird,et al., 2003)。一方で,単純な摂食行動を用いた場合には,過去に関するエ ピソード的記憶の存在について,肯定的な結果も確認されている。このことから,本研究で は,過去に関するWWW記憶では,記憶の検討に用いられる行動の種類に依存する可能性 を指摘した。すなわち,生得的に貯食行動を持たない種では,未来予測についても他の行動 を利用した研究法の開発と検討を進める必要があると考えられる。ラットにおける過去に 関するエピソード的記憶研究では単純な摂食行動を用いることで肯定的な結果が示された ことから,未来予測についても,単純な摂食行動を利用する予期的対比効果の実験方法を精 緻化することにより,肯定的な結果が示される可能性が考えられる。近い将来に価値の高い 餌が予測される場合に,目前の価値の低い餌の摂取を抑制するという行動は,未来予測のメ カニズムが生態の中で機能する仕組みとして妥当性を持つことを指摘した。さらに,
Flaherty and Checke (1982) をはじめとする,これまでに行われてきた予期的対比効果に 関する研究をレビューすることにより,予期的対比効果の再現性が十分でない,あるいは研 究間での手続きが統一されていないなどの問題点を指摘し,本研究で取り組むべき課題に ついて導出した。
第2章では,ラットの予期的対比効果の規定因について検討した11の実験的研究を報告 した。実験1aではFlaherty and Checke (1982) の示した結果の再現を試みた。ラットが 30分後のスクロース溶液の到来を予期して,先行するサッカリン溶液の摂取を抑制すると いう結果は示されず,Flaherty and Checke (1982) の結果を再現することはできなかった。
30分間という長い溶液間間隔において,予期的対比効果を発見できないという結果はこれ までに再現を試みたいくつかの先行研究でも報告されている (e.g., Capaldi & Sheffer,
1992)。そこで,実験 1b ではサッカリン溶液とスクロース溶液の間の溶液間間隔をさらに
短くすることの効果について検討した。これまでにも,サッカリン溶液とスクロース溶液の 溶液間間隔が30分間の場合と比較して5分間の場合に,より予期的対比効果によるサッカ リン溶液の摂取の抑制が強く示されることが報告されている。そこで,実験1bでは実験1a で30分間の溶液間間隔でテストされた被験体を引き続き用いて,5分間の溶液間間隔下で の検討を行った。その結果,後にスクロース溶液の提示を受けた実験群のサッカリン溶液の 摂取量が,スクロース溶液の提示を受けなかった統制群のサッカリン溶液の摂取量を有意 に上回るという予期的対比効果とは逆の結果が示された。これはサッカリン溶液をCS,ス クロース溶液を US として,サッカリンに対する選好が獲得された可能性を示すと考えら れた。
実験1aと実験1bでは予期的対比効果を再現できなかったため,続く実験ではFlaherty
and Checke (1982) が示した先行するサッカリン溶液摂取の抑制に影響する要因を検討し
た。実験2では,Flaherty and Checke (1982) が明確な予期的対比効果を確認した手続き
に基づき,サッカリン溶液とスクロース溶液を異なる空間位置から提示する手続きを用い た。また,本研究の実験1a,1bではホームケージ内で実験を行っていたが,Flaherty and
Checke (1982) では別の実験装置に移動してから実験を行った。そこで実験2 では,ホー
ムケージから実験装置への移動という文脈の変更を行うとともに,サッカリン溶液とスク ロース溶液の飲み口を異なる空間位置から提示する条件下で検討を行った。しかしながら,
30分間という溶液間間隔で,実験群におけるサッカリン溶液の摂取の抑制は生じず,ホー ムケージと実験装置の分離,およびサッカリン溶液とスクロース溶液の提示の空間位置の 分離では,予期的対比効果を確認することはできなかった。
実験3aではFlaherty and Checke (1982) の手続きと同様にラットの食餌制限の条件を 自由摂食時の体重の82 %で維持し,実験開始前に水剥奪を行わない条件下で予期的対比効 果の検討を行った。30分間の溶液間間隔を用いた実験3aでは,予期的対比効果を示すサッ カリン溶液の摂取の抑制は示されず,Flaherty and Checke (1982) の知見を再現できなか った。しかしながら,溶液間間隔を5分間に短縮した条件下で,実験3aのラットを引き続 きテストした実験 3b では,先行するサッカリン溶液の摂取が抑制されるようになり,
Flaherty and Checke (1982) と同様の予期的対比効果が確認された。このことから,溶液 間間隔の長さが予期的対比効果の規定因の 1 つであり,ホームケージと実験装置の分離な どと組み合わせることで予期的対比を発現させる効果を持つことが考えられる。実験3cで は,実験3bにおいて5分間の溶液間間隔で訓練したラットについて,再び溶液間間隔を30 分間に延長することの効果を検討した。実験群と統制群のサッカリン溶液摂取量に統計学 的に有意な差は認められなかったものの,平均値の絶対値においては,統制群と比較した際 の実験群のサッカリン溶液摂取の抑制は,長期間にわたって安定的に維持された。実験3d では,実験3cにおいて 30 分間の溶液間間隔でサッカリン溶液摂取の抑制を獲得したラッ トについて,30 分間の溶液間間隔後にスクロース溶液が与えられないという消去試行を行 った。その結果,消去試行に移行してから速やかにサッカリン摂取の抑制は消失し,統制群 の摂取量と同程度まで増加した。これは,実験3cで 30分に延長された溶液間間隔におい て,実験群は30分後のスクロースは予期しないものの,5分後のスクロース溶液の到来を 予期したために予期的対比効果が持続した可能性を否定する結果である。すなわち,もし,
実験群は30分後のスクロースは予期しないものの,5分後のスクロース溶液の到来を予期 したために予期的対比効果が持続したのであるならば,実験3dで30分後のスクロース溶 液の提示を中止しても,予期的対比効果は持続するはずである。すなわち,5分間という短 い溶液間間隔を経験することにより,将来に生じる事象への注意が促進され,未来予期の範 囲を30分まで延長させることができた可能性を示唆する結果であると考えられる。
サッカリン溶液の摂取が促進された実験1bと,サッカリン溶液の摂取が抑制された実験 3bという逆の結果が示された実験間での実験条件の相違の分析により,先行および後続の 溶液の提示の空間位置の一致性が,条件づけ効果と予期的対比効果の生起を規定する要因 である可能性が考えられた。そこで実験4では,実験1bと実験3bの手続きにおける,食
餌制限と摂水制限の強さ,予備訓練の有無,ラットの系統といった差異を統一した上で,先 行および後続の溶液を提示する空間位置の一致性の効果を検討した。その結果,異位置群の サッカリン溶液の摂取量が統制群や同一位置群よりも有意に抑制された。このことから先 行および後続の溶液の提示の空間位置が一致する場合には条件づけ効果,一致しない場合 には予期的対比効果が強く生じることが示唆された。
実験 4 までの検討により,好みの高いスクロース溶液の手がかり (条件刺激:CS) とし てサッカリンが機能する場合に条件づけ効果が生じることが示唆された。古典的条件づけ では,他の明瞭なCSを提示することで,特定のCSの機能が隠蔽されることが知られてい る。そこで,実験5では,別の手がかりによりサッカリン溶液の手がかりとしての働きが隠 蔽される場面では予期的対比効果が生じるかどうかを検討した。その結果,サッカリン溶液 以外に後続のスクロース溶液の手がかりとなりうるような文脈手がかりを与えた隠蔽群で は実験文脈の変化がスクロース溶液を信号する手がかりとなり,CSとしてのサッカリンが 隠蔽されるという実験5での仮説を支持する結果が示された。
第3章では,これら11の実験について総括し,今後の課題や展望について述べた。本 研究から,より好みの弱い溶液の後により好みの強い溶液を提示するというFlaherty and
Checke (1982) の実験手続きにおいては,条件づけ効果と予期的対比効果という相反する
効果の両方が生じており,関連する実験条件により両者の優劣が規定されている可能性が 示唆された。また,実験3の一連の検討から,Flaherty and Checke (1982) が示したよう な30分間の溶液間間隔は,予期的対比効果が生起する上での境界的な値である可能性を 示唆した。一方で,5分間という短い溶液間間隔を経験することにより,将来への注意が 促進され,未来予期の範囲を30分まで延長させることができた可能性を示した。
以上のように本研究における実験的検討から,予期的対比効果のいくつかの規定因を発 見するとともに,条件づけ効果との相互作用に関する仮説を提示した。
本研究は,ラットにおける予期的対比効果の規定因について検討することを通じて,将 来的にはヒト以外の動物における未来予測能力を検討するための実験手続きとして発展さ せることを目的とした。しかし,未来予測研究の手法とするためには,予期的対比効果を 安定的に示すだけでは十分ではなく,将来の予期以外の心的機能や学習に媒介される可能 性についても厳しく検討する必要があると考えられる。そこで,検討すべき問題を具体的 に指摘した。例えば,動物における未来予測研究で常に問題とされるのは,特定の行動が より望ましい結果事象によって強化されるという,道具的条件づけによる連合学習の可能 性を排除することが必要である。つまり,予期的対比効果の手続きでは,道具的条件づけ が起こりえないとされている溶液間間隔での検討を行うことなどが考えられる。また,餌 刺激に関する過去の記憶事象との対比効果でなく,これから生じる事象との対比であるこ とを明確に示す必要があることを指摘した。
最後に,手続きに関する改善を含む今後の展望を述べた。例えば,本研究の実験では他 個体の実験装置が近い位置に設置されており,他個体が液体を飲む音などの情報により社
会的促進が生じていた可能性などの検討が必要である。また,今後の課題として,本研究 ではラットにおいても単純な摂食行動を用いた場合には未来予測能力が示されると考えた が,行動様式によって未来予測能力が示されるかどうかが規定される,という仮説自体も 検討する必要がある。すなわち,鳥類で行われてきたような貯食実験,霊長類で行われて きた将来に必要になる事物の準備を用いた実験,さらに予期的対比のような単純な摂食行 動を用いた実験をラットで検討するとともに他の種との種間比較へと展開することによ り,未来予測能力がどのような種でどのような生態学的な意義をもって進化してきたのか を明らかにしていく必要性が考えられる。
㊞
学位論文審査報告書
2020 年 2 月 12 日
1 論文提出者
金沢大学大学院人間社会環境研究科 専 攻 人間社会環境学専攻 氏 名 西川 未来汰
2 学位論文題目(外国語の場合は,和訳を付記すること。) ラットにおける予期的対比効果の実験的検討
3 審査結果
判 定(いずれかに○印) 合 格 ・ 不合格
授与学位(いずれかに○印) 博士( 社会環境学・文学・法学・経済学・学術 )
4 学位論文審査委員 委員長 谷内 通 委 員 岡田 努 委 員 小島 治幸 委 員 吉川 一義 委 員 安永 大地 委 員
(学位論文審査委員全員の審査により判定した。)
5 論文審査の結果の要旨
本論文は,将来的にラットにおける未来予測研究へ展開することを目指して,予期的対比効 果について実験的および理論的分析を行った報告である。予期的対比効果(anticipatory contrast effect)とは,比較的に好まれない餌の後に遅延時間をおいてから好みの餌を提示 する手続きを反復すると,先行する好みの弱い餌の摂取が抑制されるようになる現象である。
予期的対比効果は,Flaherty and Checke (1982)が,ラットを対象として,サッカリン溶液と スクロース溶液を用いて最初に報告したが,この研究で用いられた 30 分間という長い溶液間 間隔で予期的対比効果を再確認した研究は Lucas et al. (1988) の 1 例のみであり,これを 認めない結果も多く報告されている。本研究は,将来的に予期的対比効果を動物における未来 予測研究の手法として展開することを目指し,予期的対比効果の再現性と規定因について明ら かにすることを目的として,先行研究の批判的分析と実験的研究を行ったものである。
第 1 章では,動物研究におけるエピソード的記憶,未来予測,および予期的対比効果に関す る先行研究について批判的に検討することで,先行研究における結果の矛盾や手続き上の問題 点を指摘し,本研究で取り組むべき課題について導出している。特に,ラットが生得的に持た ない貯食行動を利用した実験では,未来予測を示す結果は得られていないことや(McKenzie et al., 2005),過去に関するエピソード的記憶に関する研究においても貯食行動を利用した場合 には否定的な結果しか得られなかったが (Bird et al., 2003),単純な摂食行動を用いた場合 には,過去に関するエピソード的記憶の存在について肯定的な結果が示されていることに注目 している。この分析に基づき,未来予測についても,単純な摂食行動を利用する予期的対比効 果を利用することで,ラットにおける未来予測能力が示される可能性があることを導き出して いる。すなわち,近い将来に価値の高い餌が予測される場合に,目前の価値の低い餌の摂取を 抑制するという行動は,未来予測のメカニズムが生態の中で機能する仕組みとして妥当性を持 つと考えられることから,ラット等の動物においても近い将来の予測に基づいて現在の行動を 変容する能力を持つ可能性を指摘している。
第 2 章では,ラットの予期的対比効果について検討した 11 個の実験的研究を報告している。
実験 1a では Flaherty and Checke (1982) の示した結果の再現を試みている。ラットが 30 分 後のスクロース溶液の到来を予期して,先行するサッカリン溶液の摂取を抑制するという結果 は示されず,Flaherty and Checke (1982) の結果を再現できないことを報告している。実験 1b では実験 1a で 30 分間の溶液間間隔でテストされた被験体を引き続き用いて,5 分間の溶液 間間隔下での検討を行った。その結果,後にスクロース溶液の提示を受けた実験群のサッカリ ン溶液の摂取量が,スクロース溶液の提示を受けなかった統制群のサッカリン溶液の摂取量を 有意に上回るという予期的対比効果とは逆の結果が示された。これはサッカリン溶液を条件刺 激(conditioned stimulus: CS),スクロース溶液を無条件刺激(unconditioned stimulus: US)
とした古典的条件づけを通じて,サッカリンに対する嗜好性が獲得された可能性を示すと考え られた。実験 2 では,サッカリン溶液とスクロース溶液を実験箱の異なる空間位置から溶液を 提示する手続きを用いた。しかしながら,30 分間という溶液間間隔では,実験群でのサッカ リン溶液の摂取の抑制は生じず,ホームケージと実験装置の分離,および 2 種の溶液を提示す る空間位置の分離では,予期的対比効果を再現できないことを示した。実験 3a では,より強 い食餌制限の水準と実験開始前に水剥奪を行わない条件下で 30 分の溶液間間隔で検討を行っ た。また,実験 3b では,サッカリンとスクロースの溶液間間隔を 5 分間に短縮した条件下で,
実験 3a のラットを引き続きテストした。30 分間の溶液間間隔では,予期的対比効果は示され なかったが,溶液間間隔を 5 分間に短縮するとサッカリン溶液の摂取が抑制されるようになり,
予期的対比効果が確認された。ホームケージと実験装置を分離し,より強い食餌制限による飼 育下で,5 分程度の溶液間間隔を用いることで予期的対比を発現できることが示された。実験 3c では,実験 3b において 5 分間の溶液間間隔で訓練したラットについて,再び溶液間間隔を 30 分間に延長したが,予期的対比効果が長期にわたって維持されることを示した。実験 3d で は,同じラットについて,30 分間の溶液間間隔後にスクロース溶液が与えられない消去試行 を行った結果,速やかにサッカリン摂取の抑制は消失することを示した。これらの結果は,5 分間という短い溶液間間隔を経験することにより,未来予期の範囲を 30 分まで延長させるこ とができる可能性を示唆するものであると考えられた。
実験 4 では,サッカリン溶液の摂取が促進された実験 1b と,サッカリン溶液の摂取が抑制 された実験 3b という逆の結果が示された実験間での実験条件の相違の分析により,先行およ び 2 番目の溶液の提示の空間位置の効果を検討した。その結果,異位置群のサッカリン溶液の 摂取量が統制群や同一位置群よりも有意に抑制されたことから,先行および後続溶液を提示す る空間位置が一致する場合には条件づけ効果,一致しない場合には予期的対比効果が生じやす いことが示唆された。
実験 4 までの検討により,先行するサッカリン溶液が後続のスクロース溶液の有効な手がか りとして機能する場合に条件づけ効果が生じることが示唆された。古典的条件づけでは,他の 明瞭な CS を提示することで,特定の CS の機能が阻害される隠ぺい現象(overshadowing)が 知られている。実験 5 では,スクロース溶液の手がかりとして文脈手がかりを与えた隠蔽群で は実験文脈の変化がスクロース溶液を信号する手がかりとなり,CS としてのサッカリンが隠 蔽され,条件づけ効果が消失するという本研究の仮説を支持する結果が示された。
第 5 章では,11 個の実験の結果と意義について総括し,今後の課題や展望について述べて いる。特に,より好みの弱い溶液の後により好みの強い溶液を提示するという予期的対比事態 においては,条件づけ効果と予期的対比効果という相反する効果の両方が生じており実験条件 により両者の優劣が規定されているとする仮説を新たに提案している。
以上のように,多くの実験に基づき,予期的対比効果のいくつかの規定因を発見するととも に,予期的対比効果と条件づけ効果との相互作用に関する仮説を提示した。また,予期的対比 効果を動物における未来予測能力の検討に展開するために必要な課題についても具体的に提 案している。本研究については,特に以下の 2 点を高く評価できる。第 1 に,予期的対比効果 という再現の難しい現象について,多様な要因について綿密に検討することにより,先行研究 間の結果の相違の原因の一部を明らかにしたことである。すなわち,先行溶液と後続溶液を対 提示する予期的対比場面では,先行溶液の摂取を促進する条件づけ効果と,これを抑制する予 期的対比効果という逆の効果が生じており,いくつかの規定因の作用によって,両者の相対的 な優位関係が変わることで,どちらの効果が発現するか,あるいは表面的にはどちらの効果も 示されない可能性を理論的に明らかにした。第 2 に,5 分間というより短い溶液間間隔を経験 することが,おそらく近い未来への注意を促すといった過程を通じて,30 分というより長い 溶液間間隔での予期的対比効果を生起させる可能性を発見したことである。本研究によるこれ らの発見は,ラットにおける予期的対比効果のメカニズムを解明しただけでなく,予期的対比 効果を利用して,ラットにおける未来予測研究へと展開する際の重要な基盤となるものである と評価できる。
一方で,いくつかの要望も指摘された。第 1 に,未来予測能力という比較心理学上の大きな 視点から具体的な研究方法である予期的対比効果を論じている点は興味深いものの,未来予測 研究としての予期的対比の位置づけや今後の展開に関して,学術的な裏付けが十分とは言い切 れないという印象を受ける。例えば,先行溶液の摂取を抑制するという行動が後の好ましい溶 液の摂取によって強化された連合学習である可能性等の可能なメカニズムについてももう少 し詳細なレベルで議論されるべきであった。第 2 に,古典的条件づけやその主要な現象である 隠ぺい現象についても,諸現象やメカニズム,あるいは説明理論に関して先行研究による裏付 けは十分とは言えない面がある。第 3 に,溶液は予期的対比効果に関する先行研究で用いられ てきた標準的な設定を用いているが,「好み」という概念についての定義を明確にすることや,
本研究内でも嗜好性について実際に確認することが望ましかったと考えられる。第 4 に,予期 的対比以外にも,嗜好性の異なる 2 種類の餌を利用しながら,より動物の生態に適合した研究 法を提案することも考えられたのではないかという意見も述べられた。
以上のように,いくつかの要望も指摘されたが,未来予測研究と予期的対比効果というそれ ぞれが大きな研究領域を形成している問題を結び付け,大きな視点から論じようと試みた点は 高く評価できる。また,これらの研究成果は国際学会を含む多くの機会において報告されると ともに,一部は既に査読付き論文として受理され,学界の評価を得てきている。以上から,審 査者全員一致で本論文を合格と判定した。