1
教材のもつ「範例的代理機能」の本質と形式
一「教材精選」の基礎理論一
教育学研究室 高 久 清 吉
序章研究の意図
現在,わが国において検討されている小・中学校教育課程改善の眼目は「教材の精選」
にあるとみることができる。この問題についてわれわれは少なくとも次の三点を承知する 必要がある。
第一㌦教材の精選は現在における世界的な教授改革の基本的動向である。したがって,
巨視的にみれば,わが国の動きは世界的な動向の一環として位置づけられる。このことは この問題の吟味が世界的視野の展望の下に行なわれる必要のあることを示している。
第二,すじ道立った抜本的な教材精選はこれを根拠づける理論に支えられていなければ ならない。教材の「量」から「質」へという観点の転換を前提するこの問題の吟味は,教 授学理論とりわけ,教育内容についての明確な理論体系の上にはじめて成り立つもので ある。このような体系に支えられない精選は単に作文的なものに堕するか,微温的修正に
とどまって実効に欠ける。
第三,教材精選は「学習指導要領』における基準的内容の選択や配列の次元分野にだけ 限られる問題ではない。これは日常の教育実践を貫ぬく切実な問題意識にまで根をおろし てはじめてその実をあげることのできる性質の問題である。したがって教材精選は教材研 究,授業計画,指導方法のすみずみにまで滲透していかなければならない。
以上,三点への顧慮に基づき,本稿における吟味は次のような意図によっている。
第一,この十数年来,「教材充満の克服」を教授の内的改革の中心プログラムとし,こ の問題を手がかりとして教授学の新たな体系化を追求している西ドイツの研究動向を検討 することによって,教材精選に関する基礎理論へのアプローチを試みたい。
第二,とくに本稿では,「基礎的」または「要素的」,「本質的」と称される教育内容 の根本性格を吟味し,さらに,部分または個において全体または一般を代理し,開示する 教材の根本機能およびその現象様式を明らかにすることによって,教材精選の実践化のた
2 茨城大学教育学部紀要第十七号
めの「教材研究」の基本的問題点の所在を探索したい。このため,現在の西ドイツにおけ る教材精選の中心方式と目される「範例方式」(Exemplarisches Verfahren)の理論,と
くに「範例的代理関係」の構造分析を本稿における吟味の直接的対象としてとりあげるこ とにする。
第1章教材精選の中心概念としての「基礎的」教育内容
第1節教材充満への挑戦
すでにケルシェンシュタイナー(G.Ker schensteiner)が,教材の悪魔ヒドラは一つの 頭を切り落されてもすぐに新しく二つの頭を出してくると嘆いているように(7・S・208)・
教材の充満が教科課程をゆがめる強力な敵対者として意識されはじめたのは必ずしも最近 のことではない。しかし今日,ますます増大する教材の充満と過剰は関係者の切実な問題 意識,いな深刻な危機意識すらよびおこすに至っている。この十数年来の西ドイツにお ける教授の内的改革の展開は,「教材充満に対するたたかい」(Der Kampf gegen die StoffOIIe)(7. S.202)をその基調としているとみることができる。この本格的なたたか いへの宣言とみなされるのが『チュービンゲン決議』(Die TUbinger Beschl亘sse )であ る。これは1951年,9月30日,10月1日の両日,西ドイツ,チュービンゲンに会合した高 等学校および大学の代表者によって行なわれた「高等学校教科課程改善の決議」を指す。
ここでは,今やドイツの学校は「教材充満によって精神生活を窒息させる危険の中にあ る」という参会者共通の問題意識の下に,「教授対象の本質的なものへと徹底的に滲透す ること(Die D urchdringung des Wesentlichen der Unterrichtsgegenstande)が・教材 範囲を拡大するすべてよりも無条件に優先する」との基本的見解が述べられている。さら F
ノ,「基礎への徹底」,「本質への深まり」,「精神生活の根源現象」の理解は,「生徒 によって現実に把握される個々の対象の例(Beispiel)に即して明らかになり得る」とい
う教材充満克服のための実際的方途に関する中心プログラムが指示されている。(5.S.
128,7.S.195f.)
この『決議』を契機として,その後の西ドイツ教授学は教材充満の反教育的,反陶冶的 性格の追求を改めて鋭くすると共に,教材充満の克服 教材精選をその直接または間接 の現代的課題とし,責任として受けとめているように思われる。シヨイアール(H・Scheu一 er1)によれば,「教材の絶え間ない充満の中で,今日の学校は,精神生活にとって余暇 の場であるというその最も根源的な意味からかけ離れたものになる危険にさらされてい
高久:教材のもつ「範例的代理機能」の本質と形式 3
る。」(1生S.1)ブリットナー(W.Hitner)は次のような指摘を行なっている。「教材は 充満しているのに陶冶は狭く空虚である。 ぜい肉は多いが筋肉はない。」(Der Stoff
ist ft皿ig, die Bildung eng und karg−viel Fleisch, doch keine Muskulatur.)(5. S.
126,7.S.194) 「今日,青少年,教師および両親が教材の重荷を嘆き,しかも学校の教 育成果に満足していないということは,われわれの教授学的知慧の喪失を暗示している。
……墲黷墲黷ヘ教材充満とのたたかいに倦み疲れてはならない。校門へと押し寄せる教材 の群れをいつでもきびしくふるいにかける必要がある。」(7.S.208)それでは,われわれ はこのたたかいのためにどのような武器をとり,押し寄せる群れを取捨するためにどのよ
うな「ふるい」を用意しなければならないのであろうか。
第2節 基礎的教育内容のもつ「開く」力
すでに『決議」にあらわれているように,現在,教材精選問題の中心分野は量ではなく 質の次元に属するものと考えられるに至っている。質の観点から教材を問題にするという のは,「「真に教育的に作用する内容」とは何か」との問いを中核に据えることを意味す る。この内容が「基礎的なもの」(das Grundlegende)または「本質的なもの」(das Wes一 entliche)とよばれる。ある教育内容が「基礎的」であるということの根本徴表は,それ が当面の範囲,レベル内における内容領域の全体についての理解や支配の可能性の前提ま たは条件になるという意味で基礎的であるに止まらず,さらにより広い,より高い,より 深い領域への道を開く働きをもつということである。この働きが「開示的」(aufscbliess一 end, erschliessend)の語によって特色づけられる。デルボラフ(J. Derbolav)によれば 教育上真に基礎的なものとは「そのときどきの『全体』にとって基礎的であるばかりでな く,同時に,『その他の事柄」や『より以上の事柄」にとって開示的(anfschliessend)に作 用するものである。」(3.S.64)したがって,教材精選のめざす「真に教育的に作用すか 内容」,すなわち基礎的教育内容とは開示的に作用する内容であるといい換えられる。
「基礎的」教育内容についての以上の概念規定は,この「基礎的なもの」を中心概念と する西ドイツにおける新しい教授学体系への探索(とくに,プリットナー,ワーゲンシャ
イン,デルボラフ,クラフキーら)の核心問題に触れることになる。この問題は次のよう な問いにより端的にいい表わせる。一「開く(開示する)」というのは何を開くことな のか。この答を要約すれば,それは「対象的世界」と「人間の自己理解」である。つまり
「事実内容の理解」と「人間の自己理解」を開くことである。この両者は層を異にする。
このうち事実内容の理解は二面に分けられる。すなわち,これを客観的側面からみれば,
事実内容の基本的な原理や法則や構造の把握であり,これを主観的側面からみれば,内容
4 茨城大学教育学部紀要 第十七号
習得のための基本的な方法や態度を身につけることである。これらは同一事象の両面であ り,同時的なものである。人間の自己理解とは対象の理解を通して開かれるより深い層で の人間の内的実存的な拡大と深化である。デルボラフのいう「学問的領域またはこの底に 横たわっている意味領域の基礎的問いと範疇的前提」は客観面からみた内容理解に対応し,
「これら領域を開く方法上の道」は主観面からみた内容理解に対応する。そして「拡大さ れ変革された人間の自己理解の可能性」というのは人間の自己理解の層を指している。(
3.S.71)とくにデルボラフが基礎的教育内容のもつ「基礎的一開示的」(grmdlegend一 aufschliesgend)性格に加えて,さらに「照明的」(erheHend)性格について語るとき,
彼は人間の自己理解の層を開く働きを問題にしている。したがって基礎的教育内容のもつ
「開く」働きというのは,厳密には,第一の層の事実内容の理解を開く意味での「開示 的」と,第二の層の人間の自己理解を開く意味での「照明的」との二つの性格を含むもの
と解釈される。このうち,計画的組織的な教科課程,それ故当面の教材精選の問題に関す る考察の直接的対象として前景に出てくるのは第一の層の基礎的開示的教育内容である。
「開示作用」(Erschliessung)の概念はクラフキー(W. Klafki)の陶冶理論および教授 学を特色づける中心概念である。彼はとくに,この開示作用が対象内容(客観的)と精神 作用(主観面)の両面で同時的に行なわれるものである点(「実質陶冶」と「形式陶冶」
の統一)を強調する。客観的側面からみれば,「陶冶とは人間に対して物的および精神的 現実が開かれていること(Erschlossensein)である。」しかしこれを主観面からみれば,
・「陶冶とは人間の当面する物的および精神的現実に対して人間が開かれていることであ る。」(9.S43) このように陶冶とは同時的な「二側面の開示作用」(die doPPelseitige Erschliessung)によって特色づけられる。そしてこの基本的特質から必然的に「範疇」
(Kategorie)の概念が提示される。なぜなら,「開く」とか「開かれる」という作用は,
特殊的個別的なものではなく,一般的範疇的なものを明らかにするか,身につけるかによ ってはじめて可能となるからである。したがって,陶冶とは,これを客観面からみれば,多 様な特殊的個別的内容を開く鍵としての一般的範疇的内容が明らかになることである。こ れを主観面からみれば,一般的範疇的な方法および態度を身につけることである。かくて クラフキーはこの二面的開示作用との対応において,陶冶とは二重の意味で「範疇的陶 冶」(Kategoriale Bildung)であると定義する。(9・S・44)以上の基本見解からして,
クラフキーによれば,ある内容が「陶冶価値」(Bildungswert)をもつかどうかは,この 内容が陶冶の基礎的事象である二面的開示作用をひき起すかどうかによって決定される。
したがって,陶冶の基礎的内容とは「開示的に作用する内容の総体」(lnbegriff…erschlie 一ssender Inhalte)に他ならない。(9. S.322)
高久:教材のもつ「範例的代理機能」の本質と形式 5
クラフキーの二面的開示の見解を参照するとき,「教材制限は二様のことに集中する」
というシヨイアールの主張の意味が明瞭になる。シヨイアールによれば,教材の制限は
「多様な教材の中でくり返されている基礎的性質の事実内容構造(Sachstrukturen血n一 damentaler Art)へと集中するか,あるいは精神活動の基礎的な態度と方法(gmndlegen一 de Einste11ungen und Methoden geistigen Verhaltens)へと集中するか」である。(14.
S.82) しかし,この二つは別のものではない。客観面における事実内容への集中と主観 面における精神活動への集中(シヨイアールは前者を「範疇陶冶」(Kategorial団dung),
後者を「方法陶冶」(Methodenbildung)とよぶ)(14. S.82)は,クラフキーにおける 二面的開示の作用と同様,同時的に行なわれる同一作用の二局面にすぎない。
ここでわれわれはきわめて重要な問題点に当面したことになる。それは,クラフキーお よびシヨイアールの主張する客観主観の二側面の開示作用が「同時的に」行なわれると
● ■ ● ●
いう保証をどこに見出すべきかという問題である。われわれはこの同時性の実現をいわば 予定調和的に座して期待するわけにはいかない。この実現を根拠づける内容および方法に 関する吟味へと進まなければならない。すなわち,陶冶の基本的方向を指示する陶冶理論 の領域から,その実現を裏づける教授学および方法論の領域へと吟味の焦点を移行しなけ ればならない。とくに内容論的考察,すなわち教授学的考察にとって,シヨイアールの次 の主張は決定的な重要性をもっている。「真に範例的(exemplarisch)な対象は,その事 例を与える力(beispielgebende Kraft)を二つの方向で発揮する。すなわち範例的対象 は範疇陶冶および方法陶冶を同様に可能にする。範例的対象は精神の客観的世界の本質領
● ●
域をその基礎構造に関して開くことによって,同時に,精神の主観的生活の基礎形式を開
● ・ ● ●
示する。範疇的および方法的性質の関係構造は,範例的対象の中で暗黙のうちに,あるい ははっきりと代理されることができる。」(14.S.82f.) ここでは二側面の開示,つま
り「対象の本質領域の基礎構造」と「精神活動の基礎形式」の陶冶を同時的に可能にする
「かなめ」として「範例的対象」があげられている。かくてわれわれは現在西ドイツにお
● ● ● ● ●
いて,教授学的関心の的となっている「範例」概念に関する吟味の必要に当面したことに なる。この吟味により,これまで陶冶理論の次元において問題にされてきた基礎的教育内 容論は,新しく「範例的関係」の中に位置づけられることによって,教授の直接的対象と
しての教材論として,教授学の次元で問題とされることになる。
6 茨城大学教育学部紀要 第十七号
第2章 「範例的なもの」の本質と限界
第1節範例的関係の二面性
上述のように,ショイアールが客観面における「範疇陶冶」と主観面における「方法陶 冶」との同時的な実現を可能にするポイントとして「範例的対象」をあげる根拠は,「範 例的なもの」(das Exemplarische)に関する彼自身の次のような概念規定にある。「なん
らかの事物,事象は『それ自体』で範例的なのではなく,特定の関連の内部で範例的なの である。範例的なものというのは関係概念(Relationsbegriff)である。範例的なものは ある関係をいい表わしている。それは,範例的なものが代理する何かある物と,範例的な ものがその人に対してこの代理作用を行なうところの誰かある人との間に立っている。」
(14.S.27)「範例的関係は二面的(doPPelseitig)である。範例的なものはすべて離な と何かにとって同時に範例的である。それは橋渡しをするものである。」(14・S・82)「誰
■ ■ ● ● ●
か」というのは範例的関係の主観面,すなわち人間であり,「何か」というのはこの関係 の客観面,すなわち内容である。範例的なものは本来この二面を同時にもっているが故に こそ,この二面を同時に開く働きをもつのである。
主観的側面からみた範例的関係は,さらに,人間の「陶冶獲得の進行過程」(Bildung一 sgang)と「教授獲得の進行過程」(Lehrgang)の二層に分けられる。前者の層における 範例的なものは,その人間の陶冶過程の中で「「時期を画する」(Epoche machen)よう な働きかけを行なうもの,『今度かぎりに』(ein fOr allema1)新しい態度,新しい事実領 域,価値領域あるいは体験領域を開くものである。」(14.S.82)ここでは,その人間の新 しい次元の内的世界を開くような実存的範疇に属する「経験」,「体験」,「出会い」(Be一 gegnung)が問題となる。前章で触れた「人間の自己理解」をひき起す働きをもつと考え
られるのがこの層における範例的なものである。後者の層における範例的なものは計画的 組織的な教授作用の進行過程の中で,精神活動の基礎形式,すなわち対象習得の方法と聾 度を開く働きをもつ。しかしこの働きは対象の本質内容そのものが明らかになるというこ
とと切り離しては全く考えることができない。この対象的なものの本質内容が問題となる ところではじめて客観的な範例的関係が成立する。この関係は,主観面における範例的関 係が一回性の性格をもつが故に計画化を拒む性質のものであるのとちがって,形式上恒常 的性格をもつが故に客観的な構造分析の対象となり得る。したがって,計画的組織的な教 科課程の問題,それ故にまた当面の教材精選問題の考察において吟味の直接の対象となる
のは,この客観的な内容面における範例的関係,およびこの関係の中で成立する範例的な ものである。
噛
高久:教材のもつ「範例的代理機能」の本質と形式 7
第2節 特殊的なものと一般的なものとの代理的関係 一「範例的なもの」の教育的意義一
ビューテ(W.BUtbe)のいうように,範例的なものは「単にそれ自体であること(bl一 oss Ansich−Sein)以上のもの」(2. S.78)である。個々の事物,事象は範例的関係の中で はじめて「範例的なもの」となる。客観的内容面におけるこの範例的関係とは,シヨイア 一ルによれば,「包括的なものがとくにとりあげられた事例を通して代理される」関係で ある。(14.S.82)同じく範例的なものを関係概念としてとらえるシュテンツェル(A・
Stenzel)によれば,範例的なものとは,「ある事例(Beispie1)と,これがそのための事 例となるはずのものとの問の関係についての表現」と理解されている。(18.S59)一般 化して定義すれば,範例的関係とは事例としての個別的特殊的内容と,原理,法則,概念 構造などの全体的一般的な本質との問の特徴の一致または類似に基づいて,前者により後 者が代理される関係である。そしてこの関係の中で前者が範例的なものとよばれる。範例 および範例的なものについての現行のさまざまな概念規定は,このような代理関係に基づ いているという点で全く一致する。たとえば,ハイムペル(H.Heimpe1)による範例方 式の規定は,「個々のものの中に一般的なものが含まれており,また見出され得る」との 確信から出発し,(14.S.17)バルテール(K, Barthel)によれば,「ある選択された範 例ということによって,単に興味ある個々の断片が意味されるのではなく,同時に,全 体,一般的なものを代理的に表現している個々のものが意味されている。」(1.S.210)
ワーゲンシャイン(M.Wagenschein)は「範例的なもの」としての個々のものを「全体 を写す鏡」(Spiegel des Gar鵬n)と解釈する。彼によれば,範例的関係の中で「全体 に対する個々のものの関係は,部分,段階,予備段階の関係ではない。それは重心(Sc一 hwerpunkt)のような性質のものである。なるほど重心は一つではあるが,しかしここに
■ ●
おいて全体がになわれている。」(19.S.300)ジーベルト(G Siewerth)が範例的教授の 問題点として,「特殊的な個々の場面の経鹸から一般的なものへと高まることはいかにし て可能であるか」,「特殊的なものから一般的なものへの進行の中で行なわれる媒介的(図 式化的)見通しはどのようなものであり,あらかじめ与えられてある一般的なものの下へ 特殊的なものを組み入れるのはいかにして行なわれるか」(16.S.132)などの諸点をあげ るのも,すでに特殊と一般との問ではじめて範例的関係が成立するとの解釈が前提となっ ているからであろう。
このような特殊と一般との間の代理的範例的関係において成り立つ範例的なものの教育 的意義を根拠づけるものとして,とくにクラフキーの次のような主張に注目したい。「個
8 茨城大学教育学部紀要 第十七号
個の内容でありながら,しかもいつでも多くの文化内容にとって代理となるというのが陶 冶内容の特質である。すなわち,陶冶内容は基本的問題,基本的関係,基本的可能性,一 般的な原理,法則,価値,方法を明らかにするはずのものである。特殊の中で,あるいは 特殊に即して,このような一般を開く働きをひき起す要因をいい表わすものが陶冶の本質 内容(Bildungsgehalt)という概念である。したがって,おのおのの特殊的な陶冶内容は 一般的な陶冶の本質内容をそれ自体の内に包蔵している。」(9.S.134)「一般的なもの
(これは事実上および意味上の一般的なものを指す)と特殊的なものとの関係一陶冶内 容(Bildungsinhalt)と陶冶の本質内容(B並dungsgehalt)という一対の概念はここに由 来する一は次のように包括的にまとめられる。すなわち,個々特殊の事態が個々特殊の
ものとして陶冶的に作用するのではなく,この個々特殊の事態に即し,またはこの中で得 られる構造洞察あるいは法則認識,把握された原理または経験された動機,完全に身につ けられた方法あるいは理解された問題の方向づけ,わがものとして習得された基本形式あ るいは範疇,そして最後に経験的に把握された限界が陶冶的に作用する。これらすべての
「本質内容」が開示的(aufschliessend, erschliessend)に作用するのである。」(9. S.12 1f)要するに,クラフキーによれば,特殊に即し,または特殊の中で開かれる一般が真 に教育的,陶冶的に作用するというのであるが,範例的なものはまさにこのような教育 機能を実現する内容の具体的な現象様式を表現している。範例的なものは,一方,具体性,
具象性,一義的な明瞭性,単純性,簡潔性,したがって容易な経験可能性,表象可能性 をもった個別的特殊的なものでありながら,他方,全体的一般的な本質内容を代理し,指 示し,開示する。範例的なもののもつ教育的意義はこのような本来の関係的性格に基づい て規定されるのである。ビューテはこれを次の三点に要約している。(1)範例は抽象概念
(概念,公式,法則など)を直観化し,具象化し,明瞭化し,具体化するのに役立つ。(2)
範例は一般的抽象的真理を認識し,この真理の助けによって未知の新しい,しかし類似 の場面を開き,支配するのに役立つ。(3)範例は特殊の精神的活動様式を示し,練習し,
完全にするのに役立つ。(2.S.94f.)
範例的関係を客観的対象面に限定した立場で,範例的なもののもつ教育的意義を問題に するのなら,以上の規定で十分と思われる。しかし,今日の西ドイツにおける範例論によ れば,このような規定はさらに拡大され,深化される必要がある。既述のように,範例的 関係の主観的側面,とくに人間の自己理解,すなわち新しい次元の内的実存的世界を開く 範例的なものが問題にされていること自体が示しているように,範例的なもののもつ教育 的意義は客観的内容への徹底のための効果的な前提または手段という点においてばかりで なく,主観面への深まり,すなわち,人間それ自身の基礎への徹底を志向する点に求めら
高久:教材のもつ「範例的代理機能」の本質と形式 9
れている。ワーゲンシャインは前者を「要素的なもの」(das Elementare),後者を「基礎 的なもの」(das Fundamentale)とよび,範例的なものの核心を後者に求めている。
「「基礎的なもの』は,物理学における『要素的なもの』のように,「考察者』に対し,多 くの個々の課題を解決するための権能を与えるものではなく,もっと深い層に属してい る。それは人間および人間の基礎と,事実内容およびその基礎を 両者の分離は不可能 である一ゆり動かすものである。」(19.S.308) ここでいう「基礎的なもの」とは,
われわれが全人として根をおろしているその深みにおいて,人間の全心情をゆさぶり,変 容し,陶冶する働きをもつものを指している。シュテンツェルもまたワーゲンシャインの この見解を参照しながら,範例解釈の強調点が事実内容から人間へと移り,対象の理解か ら人間の自己理解へと深まるときにはじめて,範例的なもののもつ真の教育的意義があら われることをとくに指摘している。(18.S.71 ff,)前述のように,範例による対象理解
という観点からその教育的意義を導き出しているビューテも,「範例を範例として受けと め,努力して身につける人間」そのものへと観点を移すとき,範例的なものの「より以上 の」教育的意義が認められるとしている。この「より以上のもの」とは「範例において人 は現実的,実存的な陶冶へと達する可能性をもつ」ということである。(2.S.96 D
第5節 本質性と充満性(豊富性)との弁証法的関係 ㌧
一「範例的なもの」の内的限界
範例的なもののもつ教育的意義を規定する原理は,特殊に即し,または特殊の中で開か・
れる一般が真に教育的に作用するということである。一般から遊離し,特殊が特殊としで どんなに豊富となり充満しても,また特殊から遊離し,一般が一般としてどんなにその本 質性を主張しても,相互に孤立した一般と特殊とは本来の意味での教育内容とはならな い。一般と特殊のこの関係が範例的関係として特色づけられる。この関係は一般的内容の
「本質性」(Wesentlichkeit)と特殊的内容の「充満性」または豊富性(F直Ile, Reichtum)
との関係に置き換えられる。本質が本質として理解または予感されるためには,ある程度 の充満や豊富が伴っていなければならない。カント流にいうなら,充満(豊富)のない本 質は「空虚」であり,本質のない充満(豊富)は「盲目」である。シヨイアールによれば
「本質性と充満性とは陶冶の質的標準として弁証法的に連続し係わり合っている。」(域 S.83) 「この両者は,一方が他方に基づくというのではなく,円環的に相互に結びつ
いている。」 (14.S.38)
本質と充満との弁証法的,円環的関係の認識を通して,範例的なものの特質と同時にそ の内的限界もまた明らかとなる。主として本質性を志向する範例的原理は,主として充満
10 茨城大学教育学部紀要第十七号 ■
性または豊富性に係わる他の原理や方式との相互補充の関係においてはじめて意味をもち 効果的となる。この関係は次の二つの方向において成立する。第一は範例的教授方式と他 の教授方式との関係である。ロート(H.Roth)によれば,「たとえ理想的な仕方で範例 的に教授が行なわれたとしても.この方式だけで教授を行なうことは不可能である。」「わ
o ● ● o
れわれの考えによれば,『範例的教授』はどうしても補充的に作用する他の教授方式を必 要とする。この方式をわれわれは方向づけ(Orientierung)および知識伝達(Information)
の方式とよびたい。」(13.S.184)このようにしてロートは,内容の豊かさを増大する他 の方式を前提とし,あるいは連続する発展として予想することにおいて,範例的教授方式 の果す本来の機能の実現を問題としている。第二は範例的教授とこの教授の外における生 徒の自由な自己教育との関係である。範例的教授はその計画的組織的な教授進行の中で何
もかも貧欲にとりあげ包みこもうとはしない。「範例的原理は本質的には物惜しみしない。
それは後に続く自由な補充完成(Erganzung)の作用への信頼によって生きる。」 (14.
S.83) この信頼と期待は教授が範例的に強く集中すればするほどいっそう大きくなる。
したがって,比喩的にいえば,範例的教授は教材の基本線にみずから限定し,その平行線 または延長線にあたる内容に関しては参照のための指示や暗示を与えるに止まる。
以上のような本質と充満との関係と関連して,ここでとくに,教材制限と範例的原理と の関係について次の二点に注目しておきたい。第一一・,この原理は内的な豊富と充満が望ま しい精神生活の基本条件であり規準でもあるという事実を何一つ変えようとするものでは ない。範例的原理は精神生活の内容の削減を意図するものではなく,計画的組織的教授の 教材内容の削減を問題とするのである。この削減により教材の重荷から教授を解放するこ とによって,かえって基礎的本質的内容のもつ「開く力」を発揮させ,精神生活の豊富と 充満をひき起そうとするのである。第二,教材の制限および範例的原理と結びつけてしば
しば語られている「隙間への勇気」(Mut zur LUcke)についての正しい理解が必要であ る。たしかに教授内容の「隙間のない」完全性が固執されるかぎり,思い切った内容の削 減は不可能である。しかし「隙間」についての無定見がひき起す無系統の害毒もまた無視 することはできない。範例的教授と「隙間への勇気」との関係についての理解のポイント
となるのは,この勇気が,内容の本質性が志向される分野と豊富性が志向される分野とに おいて同様には通用しないということである。この点についてシヨイアールの次の主張は 傾聴に値いする。「「隙間への勇気』について語ることにはあいまいさがつきまとう。という のは,このことばに含まれる表象は二つの分野で相異なって表わされるからである。すな わち,吟味され獲得されるべき本質連関(ein zu erarbeitender Wesenszusammenhang)
と,この本質連関から開かれるべき事例の充満(BeispielfaUe)とは二様のものである。
高久:教材のもつ「範例的代理機能」の本質と形式 11
範例的教授が精神生活の全領域に対する盲目へと迷いこむべきでないとするなら,この教 授は,そのときどきの教授領域の範疇的基礎構造および本質的方法の規準が,共に,教授 の範例の展開の中で隙間なく(IUcker江os)反映されるようめざさなければならない。これ に反し,包括され,あるいは集積されることのできるような教材に関しては完全性は全く 問題にならない。」(鳳S.83) ワーゲンシャインもまた「隙間への勇気」の主張が誤解
され易い点を認め,この主張の真義が「基礎的徹底への勇気」(Mut zur GrUndlichkeit),
「根源的なものへの勇気」(Mut znm UrsprUngIichen)にあることをとくに強調してい る。(19,S.316)
第三章 範例的代理機能の形式
第1節 範例的代理機能に関する構造分析の必要性
「範例的なものが教授において果す機能の本質は不在の対象を代理するという点にあ る。」(14.S.39) 「範例的代理の機能は実際上不在であるものを潜在的に現存させる。」
(14.S.82)一簡潔,明瞭な個別的特殊的内容によって全体的一般的領域を範例的に代 理するということは,教授の行なわれるところ,とくに計画的組織的教授の行なわれると
ころで,いつでもどこでも,自明のことと考えられ,実践されてきたことである。もとも と範例的代理機能はあらゆる教授作用を成り立たせる本質的な構成要因の一つに他ならな いからである。それにもかかわらず,今日,改めてこの問題がさし迫ったものとしてとり あげられるに至っているのは,その自明性が失われてきていることを意味する。今日にお けるこの問題への取組みは,何よりもまず,この機能が教授成立の本質的構成要因である ことの自明性を回復しなければならない。しかし,これだけに止まってはならない。範例 的原理の吟味がさまざまの内容領域をすべて画一的に包含するような一般的意味規定に止 まっているかぎり,ここからこの原理を実際化するためのプログラムは期待できない。今 日,われわれは範例的代理機能についての非常に一般的な表象だけでは満足できない。何 が全体的一般的なものであるのか,この個別的特殊的なものは何にとって範例的であるの か,それはどのような様式において範例的であるのか。 これら諸問題に関する構造分 析的吟味がさらに立入って進められなければならない。とりわけ,範例的代理機能の基本 的な現象諸形式の分類が不可欠となる。なぜなら,この種の分類は,一般教授学的立場か らの形式的考察と,さまざまの教授領域における各教科教授学的立場からの内容的考察と の接点に位置すると考えられるからである。
西ドイツにおける範例論の中では,この代理機能の諸形式についてしばしば言及されて
12 茨城大学教育学部紀要第十七号
いる。しかし,この形式の分類を直接の吟味対象とした体系的論究は案外に数少ない。筆 者の理解する範囲内ではわずかにデルボラフ,シヨイアール,クラフキーにみられるにす ぎない。このうちデルボラフの分類は簡約であるが,シヨイアール,クラフキーにおいて は,この分類が両者による範例的原理または範例的基礎的教育内容論の中心あるいは帰結 として位置づけられている。本章における考察の手がかりとして,ここでまずデルボラフ の見解をとりあげておきたい。
デルボラフは「基礎的一開示的に作用するもの」としての基礎的本質的内容が範例的代 理関係の中であらわれる形式,すなわち,「個々のものにおいて全体を,単一・のものにお いて複合したものを代理する形式」を次の四つに分けている。(3.S.65〜67)第一は「モ
fル的に単純化されたもの」(das Modellmassig−Vereinfachte)である。この形式はと くに機械的なものの分野,定量化および合理的把握の可能な内容分野において,多数,多 様な現象の背後にある原理,法則の理解のために適切である。第二は「全体的一根源的な
もの」(das Ganzheitlich−UrsprUngliche)である。モデルによる単純化の形式がより高 次の構造的な現象領域,すなわち生命,意識,自由などの現象領域にはいっていけばいく ほどその説明力を失うのに対し,この第二の形式はこれら「有機的なもの」の領域におい て作用する。この形式は「すっきりと分類,整理され,仕上げられ,成熟し切ったもの」
について,その本質的および発展的な解明を与えるために効果的である。第三は「表現的 一特徴的なもの」(das Ausdruckmassig−Charakteristische)である。心的,内的なもの がその表示,現象としての発現の中でとらえられるところでは,この第三の形式をとる表 現を注視することが重要な理解の手段となる。特徴的なものの簡潔,明瞭な表現は,その 他のもののあいまいな非類型的な多様性を把握するための鍵として利用される。第四は
「象徴的一比喩的なもの」 (das Symbolisch−Gleichnishafte)である。この形式は先験 的超越的なもの,実証的探究の対象とはなりがたいものへの接近にとって効果的である。
以上がデルボラフの分類である。これは全く簡約ではあるが,しかし教授の内容領域 の相違に着目して範例的なもののさまざまな現象様式を分類することを重要な研究課題と
して提起している点,しかもこの分類の基本的方向を指示している点で注目に値いするも のである。
第2節 シヨイアールによる範例的代理機能の形式の分類
シヨイアールの範例論の中心となっているのは「範例的代理機能の形式と原理」であ る。クラフキーが「この点にこそシヨイアールの決定的に持続する業績がある」と指摘す るように(10.S.549),シヨイアールは「範例的代理機能の可能な作用様式の目録」(der
高久:教材のもつ「範例的代理機能」の本質と形式 13
Katalog m691icher Spieヱarten der exemplarischer Reprasentation)をかなり詳細に吟 味している。以下まずその所説を要約し,次に批判的な検討を加えることにしたい。
1. 「パラディグマ」(Paradigma)
範例的代理関係において Paradigma の語が用いられるとき,それは最も一般的,
無規定的な表現となる。Paradigmaは「模範」,「範例」,「事例」など類似の一連のす べての概念中,最も広い包括的な概念であり,同時に最も具象性に乏しい概念である。し たがってこの語は代理関係の性格までも表現するための概念としては不適切である。
2. 「エクセムプラール」(Exemplar)と「エクセムペル」(Exempe1)
これまで本稿において包括的な意味で使用してきた広義の「範例」または「範例的なも の」の中心形式としての狭義の「範例的なもの」(das Exemplarische)の概念には,さ らに次のような二つの性質をもつ「範例」の意味が含まれている。第一は,とくにとりあ げられた個別的なものが,一般的なものとの間の「厳密な特徴の同一性(Merkmalsiden一 titat)」に基づいて,対象のある部類(Klasse)の一般的なものを概念的に代理するとい
う意味での範例である。第二は「ある軌範(Norm)を代理する」という意味での範例で ある。シヨイアールは前者を Exemplar ,後者を Exempe1 として区別する。(14.
S.84)同じく「範例」と称しても,Exemplarはより「事例的なもの」,Exempelは
より「模範的なもの」である。Exemplarは「種」(Spezies),「類」(Gattung)など一連 の抽象化段階中,一ばん低い,一ばん具体的な段階に位するが,それにもかかわらずより 高い抽象化段階の諸概念と同一の特徴を共有するが故に,個において全種属を代理し確証 することができる。Exemplarにおいて真に注視の対象となるのはExemplarとしての個 ではなく,これが代理する種類属などの概念の一般的特徴である。したがって個別的な
ものそのものの価値は,これがExempl arとしてあるかぎり認められることはない。こ こでは価値とは係わりなく,もっぱら個別的特殊的なものと一般的なものとの間の帰納 法,演繹法による概念的,論理的操作が問題となる。これに反し,ある軌範を代理する Exempe1はほとんどいつでも情緒的に彩られたアクセントを伴って,ある実践的な要求,
いわば従われるべき軌範から出てくる価値強調的な呼びかけの作用を含んでいる。
「範例的なもの」という概念は上のようなご様の意味をもつ範例を含んでいる。 「『範 例的なもの』はExemplar, Exempelの両概念に対する上位概念ではなく,これらと同じ 抽象化段階にあって両概念のニュアンスを混合している。」(14.S.44)「範例的なものに は,とくにとりあげられた個物のもつ個性をある程度無価値とする包摂可能性(Subsum一 mierbarkeit)と同時に,この個物に対してある特別の価値を与える本質性のパスト(das Pathos der Wesentlichkeit)が含まれている。」(14. S.84) 「概念的,操作的に『一般
14 茨城大学教育学部紀要第十七号
的なもの』を代理する単なるExempIarがExemplarとしては価値的に中立であるのみ ならず,全く価値と切り離されたものであるとすれば,Exempelとしてのそれにはある
『本質的なもの』への志向が固有である。一般性と本質性(Allge meinheit und Wesen一 tlichkeit),種属と本質(Gattung und Wesen)とは二様のものであって,相互に混同
されてはならない。」(14.S.51) したがって「範例的なもの」について語る場合の危険 は, Exemplar , Exempel の両概念のうち,一方を不当に他方へと拡大し適用する点
にある。
3. 「類型」(Typus)
ここでの代理関係は「類型」としての一一般的なものと,「類型的な個物」(typische Individuen)としての個別的なものとの間で成立する。類型の一・般性は偶然的特殊的なも のの度外視によって明らかになる。しかしこの抽象化はExemplarと種属の一般的特徴
との問で行なわれるような概念的,論理的操作としての抽象作用とはちがった特別の性質 をもつ抽象化である。類型は概念的に定立されるものではない。それは個物の「中で」純
■ ●
粋に直観的に看取される「直観的,一回性の高い形式」(eine anschaulich−einmalige Hochform)である。類型のもつ一般性は「あらゆる場合に抽象的同一的にくり返される 意味での一般概念ではなく,一回性の直観的なものそのもの,いわばより高い次元分野の 個(ein einmaIig Anschauliches−ein Si㎎ular h6her Ebene)である。」(14. S.54)
それ故,類型は本質的には個物た対する「部類概念」(Klassenbegriff)でも上位概念でも
ない。
ここから,前述のExemplarと種属との関係とは全く性質を異にする個物と類型との 関係が明らかになる。類型と係わり合う個物は類型に包摂されることによって個物として の個性価値を失うことがない。ここでは個物は一般的なものによって汲み尽されない個物 としての価値と独自性を持続する。したがって個物と類型との関係は,Exemplarと種 属との間においてのように,「全くそうであるか,ないか」の関係,つまりあくまでも両 者間の特徴の厳密な一・致だけが問題であって,その多少や類似の程度が問題とはならない
ような絶対的なものではない。むしろ近似的な(approximativ)比較,すなわち,類型 性が個物の中であらわれる相対的な関係,これが個物と類型との関係である。
4. 「純粋場面」(Reiner Fa皿)
複雑,多様な諸事象を単純化して明瞭に示すのが「純粋場面」である。この場合の「純 粋性」(Reinheit)は次の三つの意味をもつ。第一は「一・義的な明白性」(Eindeutigkeit)
である。第二は「場面」を構成する諸要因が複合的ではなく要素的であるという意味での
「単一性」(Einfachheit)である。以上は「場面」のもつ二つの性格,すなわち,;Exem一
高久:教材のもつ「範例的代理機能」の本質と形式 15
plar としての性格と「類型」としての性格のうち,主として前者の性格をもつ「場面」
の純粋性の二つの意味であるが,後者の性格をもつ「場面」の純粋性は「類型的なもの」
(das Typische)を意味する。これが純粋1生の第三の意味である。
教授の意図に応じ,「純粋場面」は基本要素,原理,概念,方法などの一般的なものを 代理し,また例証することができる。この場合,純粋性の三義に対応し,次のような三様 の代理作用を行なう。すなわち「純粋場面」は「『一義的に明白な』場面として,同じ性 質の諸場面に共通する範疇の原理的なもの,しかもこの明白な場面に即して概念的に把握 することのできる原理的なもの(das Prinzipielle)を代理する。「単一な」場面として,
● ● ● ● ■ ●
相異なる性質の,しかし同じ基礎的構成要素から構成されている諸場面の基本要素的なも
● ● ● . ● ● ●
返されている状況場面(Situation)を代理する。」(14. S.62)
5. 「規準」(Muster),「モデル」(Mo dell),「比喩」(Gleichnis)
上述の「範例的なもの」,「類型」,「場面」は,範例的代理関係の中で,これらと関 連してさらに補充され,継続的に展開されねばならないもの,あるいはこの補充作用,展 開作用そのものに対するある種の「模範性」(Vorbildlichkeit)をもっている。この模範 性の現象様式は主としてその拘束性の性質と程度によって「規準」,「モデル」,「比喩」
に区分される。
(1),「規準」(Muster)は疑う余地のない明白な「規範」(Norm)を示すことによって 他者を義務づける。「規準」の概念の裏返しは同様性または同質性である。すなわち「規 準」はこれに係わる広範囲のあらゆるものから,この規準との最大可能の同様性または同質 性を要求する。それ故,「規準」の語そのものには,ある固定性やなじみにくい冷たさをも つ機械的ニュアンスが宿っており,厳粛主義やしゃくし定木の色あいをもっている。
(2),「モデル」(Modell)の作用分野は「規準」のそれよりも自由で豊かである。それ は議論の余地のない確定的な「規範」ではないが故に,自由に意のままに処理,修正がで きる。「モデル」は一定の観点の下に特徴的な仕方で対象を構成し単純化することにより まだ流動状態にある表象から現実へ,あるいは現実そのものとしては把握の困難な現実か ら表象への移行を容易にするための補助手段となる。「修正の可能な単なる補助手段とい うこの役割によってこそ,モデルは規準のもつもったいぶった硬直性の危険から守られ る。」(14.S.64) 「規準が無条件的な追随を要求するとすれば,モデルは自分自身の固 有の道の探求に対して,これを方向づけるための援助を与えるにすぎない。」(14.S.66)
(8),「比喩」(Gleichnis)により,ことばでは表現できない意味を精神的に把握するた めには,さらに大きな精神作用の自由と自立性が要求される。「比喩」独自の機能は概念
16 茨城大学教育学部紀要 第十七号
的な記述を本質的に拒むような領域においてとくにきわ立つて行なわれる。この領域にお ける意味像(Sinnbild)と意味(Sinn)そのものとの間のへだたりは合理的には測られな い。可視的なものにより不可視的なものを代理する機能をもつことばまたは形象による表 現とその理解のためには,「予言的精神または詩的精神」が必要である。(14.S.67)
6.,「全体を代理する部分」(pars pro toto)
これまでの範例的代理機能の全形式に共通であるのは,全体に対し部分が立っていると いうことである。部分の把握から,補充および継続的展開の作用を通して全体の開示が期 待される。したがって,範例的教授の基礎には「部分が全体を開く」といういう原理が横 たわっている。部分と全体との間の範例的代理関係の形式は次の四つに区分できる。
第一の形式では,部分は「個々の断片」(ei n EinzelstUck)を意味し,全体は「系列」
■ ●
(Reihe),「集計」(Summe),「領域」(Bereich)などを意味する。この形式はExemplar と種属,「規準」とこれに従うもの,つまり,代理する一部分とその他すべての諸部分ま・
たは全領域との間に同質性があるところで妥当する。ここでの「範例的教授は単純な『以 下かくのごとし」( Und so weiter )で満足する。補充完成の作用(Erganzung)がめ ざさなければならな全体は,ここでは一つの総体(eine Gesamtheit)であり,ますます ひろい加数の接合から生ずる総計(Aggregat)である。」(14. S.69)
第二の形式では,部分は「形態一部分」(Gestalt−Tei1)を意味し,全体は「形態一全 体」(ein Gestalt−Ganzes)を意味する。この全体は個々のものの総計とは本質的に別の
ものである。形態上の部分と全体との間には,前者から後者が「見出され」(抽象化によ り論理的に定立されるのではない),後者が前者にさかのぼって働き返すという円環的関 係がある。この関係は「類型」と「類型的な個物」との間において典型的に成立する。
「多かれ少なかれ「類型的な』個物から『純粋な』類型が看取される。しかしこの際,こ の「純粋な』類型は「類型的な」諸特徴の認識にあたってすでにいつでも前提されてい る。一つまりここでは一つの円環(Zirke1)があり,人はある飛躍によって以外,この 円環へと達することはできない。この飛躍は範例に即してだけ成功する。」(14.S.70)
第三の形式では,部分は「体系の肢体」(Systemglied)あるいは「要素的図式」(Ele一 mentarschema)を意味し,全体は「作用一全体」(ein Wirk−Ganzes)を意味する。ここ
では,より複合的な作用全体に関する「モデル」としての「単一な場面」に即して,この 作用一全体の基本要素または構成要素およびこれら諸要素の合同作用の原理ができるかぎ りの純粋性の中で学ばれる。「範例的教授は次のような範疇(Kategorie)一すなわち,
この助けによって,学習者が『純粋でない』複雑した諸場面をもその要素や原理へと還元 することができ,その結果,ここから自分自身でさらにもう一度これら諸場面をより明白
高久:教材のもつ「範例的代理機能」の本質と形式 1ア
につくり上げることのできるような範疇を身につけさせることによって学習者を自由にす る。」(14.S.7D 以上のような「作用一全体」は単なる「総計」以上のものであり,他 方,この全体に「形態」の性質が帰属するとはかぎらない。
第四の形式では,部分は「比喩的なもの」を意味し,全体は「意味一全体」(ein Sim一 Ga揺es)を意味する。直観的に表現されるかまたは物語られる所与としての比喩的なも
のは,それ自体,表現や物語られることによって直接的には与えられることのできない何 かあるものの補充完成によって,はじめて「意味一全体」を明らかにする。
7. 「類推」(Analogie)
精神世界の拡大と深化とは連続的な発展や累積だけによって実現されるのではない。そ れは新しいものへの飛躍の敢行という一面をもっている。このような飛躍による移行の原 理(むbertragungsprir囲p)が「類推」である。類推は直接かつ厳密には演繹することの できない関係問の「相応」(Entspr㏄hung)を単に例証的に予示するに止まり,明確な証 明力をもっていない。しかし,思い切って飛び越えたものを後になってさかのぼり吟味す ることにより,その連関の根拠づけを明らかにするよう鼓舞するかぎり,類推は同一の関 係または相違する関係の発見を助ける。それ故「類推」は研究および教授に対する「発見 的原理」(ein heuristisches Prir広p)としての大きな意味をもっている。
以上がシヨイアールによる「範例的代理機能の可能な作用様式の目録」分類の要旨であ る。この種の分類をいっそう精確化すると同時に,各教授内容の性質に応じてさらに具体 化することこそ,範例的教授方式の実際化のための中心課題と思われる。ここでは今後の より立入った吟味のための手がかりとして,シヨイアールによる分類の問題点を指摘して おきたい。
シュテンツェルによれば,シヨイアールの分類は「列挙された作用分野のうち,どの分 野も他の分野より高く評価されておらず,すべて同等の価値をもち一つの次元に並立して
いる。」(18.S.61) たしかにシヨイアールは価値的観点からの次元の区別には触れてい ないし,また叙述の様式からみても諸形式を並列的に列挙している。それにもかかわらず,
代理機能の性格や位置づけの意味的な観点からすれば,すべての形式を一つの次元に並立 してはいない。したがって彼の分類についての正しい理解のためには,羅列的な叙述の外 的様式にとらわれず,諸形式間の内的な連関に注目する必要がある。この点に言及してい るクラフキーの見解を参照しながら,シヨイアールの分類を次のように受けとることにし たい。シヨイアールのあげるはじめの三つの形式,すなわち Exemplar , Exempel ,
「類型」は特殊と一般との関係状況の中で,一方,特殊的なものの構造,他方,一般的な
18 茨城大学教育学部紀要 第十七号
ものの構造を問題にするところから導き出されている。しかしこの分類観点は,次に「純 粋場面」をあげるとき,「他の観点によって切断されている。」 クラフキーによれば,
「『純粋場面』はExemplar, Exempel,類型と並ぶ代理形式ではない。」(10・S・549)
● ●
どのような簡潔性や明瞭性,単一性をもって,どの程度の接近の度合をもって特殊が一般 を代理するかという観点の下に考察されるとき,以上の三形式が状況により「純粋場面」
としてあらわれるのである。次に,この三形式およびこれらの簡潔な現象としての「純粋 場面」によって行なわれるはずの範例的代理の実際的な作用様式,いい換えれば,これら 形式と関連し,ここから継続的に展開する補充完成の作用様式を示すものとして,「規 準」,「モデル」,「比喩」があげられる。この際, Exemplar と「規準」,「類型」と
「モデル」との間にはある類似性が認められる。「比喩」は,クラフキーによれば,代理 作用の単なる実際的な一様式というよりも,むしろ代理の「基礎形式」とみなされてい る。(10.S.550) シヨイアールのあげる「全体を代理する部分」の原理は,すべての 範例的教授に共通する基本的特色である。この教授においてはいつでも「全体」に対して
「部分」が前景に出ており,部分から継続的に展開する補充完成の作用が学習者から期待 されている。この作用様式,つまり部分と全体との関係は主として Exemplar および
「規準」,「類型」および「モデル」,「比喩」と対応して四つの形式に分けられている。
要するに,われわれはシヨイアールによって分類された範例的代理の諸形式を平板な羅 列的,並立的なものとして受けとるべきではなく, Exemplar , Exempel ,「類型」
およびこれらの簡潔,明瞭な現象としての「純粋場面」を代理の基礎形式とし,これとの 関連において代理の作用様式が多角的にとりあげられていると理解すべきであろう。
第5節 クラフキーによる基礎的内容の基本形式の分類
クラフキーは,既述のような「二面的開示の作用」を本質とする基礎的要素的内容のさ まざまな基本的現象様式の分類を行なっている。これはシヨイアールの分類と同様,教育 内容のもつ範例的代理の機能の形式の分類とみなされる。クラフキーの場合はシヨイアー ルよりもいっそう首尾一貫した分類観点,すなわち,「基礎的および要素的なものに関す る問題の根底に横たわっている一般的なものと特殊的なものとの関係が具体化されるさま ざまの諸形式を特色づける」(10.S.442) との意図の下に,次のような七つの形式が分 けられている。
1. 「基礎的なもの」(das Fundamentale)
ここでいう「基礎的なもの」は「基礎的経験および基礎的体験」という様式をとってあ らわれる。これは「経験存在あるいは体験存在」(Erfahrung−oder Erlebnis−Sein)の性