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第一章 スペチエスとしての意義 Ⅰ 序

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(1)意味と時間 遡行 著者 学位授与大学 取得学位 学位の分野 報告番号 学位授与年月日 URL. フッサールにおける意味の最根源への. ?野 孝 東洋大学 博士 文学 32663乙第222号 2018‑07‑30 http://id.nii.ac.jp/1060/00010253/. Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja.

(2) 2017 年度 東洋大学審査学位論文. 意味と時間 フッサールにおける意味の最根源への遡行. 高野. 孝.

(3) 目次. 序論. 1. 本論 第一部 静態的探究. 第一章 スペチエスとしての意義 Ⅰ 序. 7. 意義という概念の根源の問題. 9. Ⅱ 意義及び質料についての概略 1 意義及び関連する諸概念. 9. 1-1 二種類の意義と意義付与作用及び意義充実化作用. 10. 1-2 意義と作用. 13. 1-3 意義と対象. 15. 2 質料及び関連する諸概念. 17. 2-1 性質と質料. 17. 2-1-1 性質. 18. 2-1-2 質料. 20. 2-1-3 志向的本質. 21. 2-2 統握された内容. 22. 2-3 統握形式. 24 25. Ⅲ 意義付与作用と他の作用 1 客観化作用への限定. 25. - ⅰ -.

(4) 2 意義付与作用と他の客観化作用との相違. 27. 2-1 近接による表意的志向と意義機能. 28. 2-2 直観作用と意義機能. 29. 3 意義付与作用と他の客観化作用との間の質料の合致 Ⅳ 媒介としての質料と意義. 機能的な側面から. 1 対象への媒介. 30 33 33. 1-1 対象への媒介としての質料. 33. 1-2 対象への媒介としての意義. 34. 2 対象の同一化の媒介. 35. Ⅴ 作用の内容としての意義と質料. 内容的な側面から. 1 質料は志向的内容か実的内容か. 37 37. 1-1 問題提起. 37. 1-2 志向的内容と実的内容. 38. 2 意義は志向的内容であるか実的内容であるか Ⅵ 質料はイデア的か実在的か. 41. 時間的な側面から. 43. 1 二つの解釈. 43. 2 (A)の解釈の検討. 44. 2-1 トゥーゲントハットの見解. 45. 2-2 (A)の解釈の裏付け. 46. 3 (B)の解釈の検討. 47. 3-1 メレの見解. 47. 3-2 (B)の解釈の裏付け. 48. 4 質料ないし志向的本質という概念における困難. 第二章 相関者としての意義 Ⅰ 序. フッサール意味論の画期的な進展. 50. 新たな意義概念の導入 52 53. Ⅱ 新たな意義概念の導入 1 意義の理解への問いと意義への問い. 53. 2 現象学的意義概念の導入. 54. - ⅱ -.

(5) 3 同一的な統一点としての対象と現象学的還元. 58. 4 『意義論』の意味論. 60. 4-1 二重の対象. 60. 4-2 現象学的意義の構造. 60. 5 意義理解についての理論. 62. 5-1 現象学的意義の構造と意義の理解. 62. 5-2 意義理解における遡源. 63 64. Ⅲ 相関者としての意義の構造 1 『論研』における名辞的作用の優位. 64. 2 述定という脈絡への名辞的作用の組み込み. 65. 2-1 二重の対象と同一性述定. 65. 2-2 同一性述定による対象自体の還元. 67. 2-3 同一性述定の内部での名辞的作用. 69. 3 名辞的作用から述定への遡源. 70. 3-1 根源的述定への遡源. 70. 3-2 遡源による志向性の構造の解明. 72. 3-3 志向性の究極的な基盤且つ志向性の構造としての根源的述定. 73 75. Ⅳ 言語的意義はスペチエスであるのか 1 『意義論』における議論. 75. 2 『意義論』より後の議論. 78. 第三章 相関者としての意味の時間性 Ⅰ 序. 83. 意味の時間性を問う必要性. 86. Ⅱ 二つのノエマ論 1 論争の概観. 86. 2 フェレスダールの見解. 86. 3 ギュルヴィッチの見解. 90. 4 ノエマ概念の起源への定位. 双方の見解を承けて. 93 97. Ⅲ 直観的意味の時間性. - ⅲ -.

(6) 1 『論研』における意義と質料. 97. 2 直観作用の探究の独自性. 98. 2-1 直観作用の領域におけるノエマ概念の起源. 98. 2-2 直観作用における現出・意味・意義. 99. 3 直観的意味は時間的である Ⅳ 言語的意義の時間性. 103. 超時間性から遍時間性へ. 1 言語的意義のイデア性の問題. 106 106. 1-1 問題提起と問題解決の指針. 106. 1-2 偶因的表現の意義の同一性. 111. 2 超時間性から遍時間性への捉え直し. 114. 2-1 言語的意義のイデア性は超時間性か. 114. 2-2 遍時間性としてのイデア性. 118. 3 超時間性の否認. 122. 3-1 遍時間性の問題と個体的本質. 122. 3-2 言語的意義の遍時間性. 130. 第二部 発生的探究. 第一編 受動的次元を土台とする能動的次元における探究. 第一章 意味の根源への遡行 新たな探究への移行. 135. Ⅱ 意味の発生的探究へ向けて. 139. Ⅰ 序. 1 静態的現象学から発生的現象学へ. 139. 2 発生的現象学における意味の探究. 143. Ⅲ 言語的意味における遡行. 究極的な判断基体へ. 1 複雑な判断基体から単純な判断基体へ. 形式の展開. 2 一般的な判断基体から個体的な判断基体へ. - ⅳ -. 一般性の除去. 147 148 153.

(7) Ⅳ 経験への遡行. 述定から先述定的経験へ. 157. 1 判断の統一を基づけるための遡行. 157. 1-1 形式的な一般的判断と排中律. 157. 1-2 経験という普遍的地盤への遡行. 161. 2 判断の明証性を基づけるための遡行. 166. 2-1 述定的明証性から経験の明証性への遡行. 166. 2-2 生活世界への遡行. 169. 究極根源的な経験明証性を求めて. 第二章 直観的意味から言語的意味へ Ⅰ 序. 174. 探究の出発点と概要. 受容性の段階. 178. 1 発生の過程. 178. 2 直観的意味の発生. 182 186. Ⅲ 自発性の段階 1 判断. 186. 1-1 発生の過程. 186. 1-2 直観的意味と論理的意味との特有な関係. 190. 1-3 論理的意味と言語的意味との関係. 193. 1-4 直観的意味から言語的意味への発生の道とそれに関わる疑問. 195. 1-5 直観的意味から言語的意味への発生の道. 200. 1-5-1 オノマトペを具体的事例として. 201. 1-5-2 通常の語の場合. 208. 1-5-3 直観的意味と言語的意味の時間性の相違の問題. 210. 2 概念化. 211. 2-1 発生の過程. 211. 2-2 言語的意味と概念との関係. 216. 第三章 意味の遍時間性は如何にして成立するか Ⅰ 序. 意味の発生的探究と心理学主義. - ⅴ -. 219.

(8) Ⅱ 発生的探究の解釈. モハンティとクライドゥル. 221. 1 モハンティの見解. 221. 2 クライドゥルの見解. 224. 3 モハンティとクライドゥルの見解に対して. 226 228. Ⅲ 意味と無限 1 意味のイデア性と意味の無限の反復. 228. 2 無限について. 230. 3 極限値としての意味と現実的無限における意味. 235. 3-1 モハンティの見解と極限値. 235. 3-2 クライドゥルの見解と現実的無限. 236 237. Ⅳ 意味のイデア性の確保 1 フッサールにおける無限概念. 237. 2 問題解決の試み. 239. 2-1 無限性と任意性. 239. 2-2 言語的意味の遍時間性の確保. 247. 2-2-1 任意の置換可能性と遍時間性. 247. 2-2-2 過去地平への沈降における無限と任意性とによる遍時間性. 254. 2-3 最後の疑問と本章の結論. 260. 第二編 受動的次元における探究. 第一章 共時間的意味の発生 Ⅰ 序. 意味と生き生きした現在 264. 能動的次元から受動的次元へ. Ⅱ 感覚と時間. 270. 1 時間意識. 270. 2 内容-統握図式の問題. 273 277. Ⅲ 与件の類似と対照の綾としての意味 1 与件の連合的綜合と要素主義の否認. 278. 2 根源的な意味. 281. - ⅵ -.

(9) 3 根源的な意味と与件の成立. 286 288. Ⅳ 根源的な次元における意味の発生 1 意味発生の要件としての時間意識. 289. 1-1 聴覚的与件の場合. 289. 1-2 視覚的与件の場合. 290. 1-3 意味の時間性. 292. 2 時間意識の補完と要件としての連合. 294. 2-1 原印象について. 294. 2-2 過去把持について. 297. 2-3 原印象と過去把持との相互覚起. 300. 2-3-1 原印象と過去把持の内容的成立. 300. 2-3-2 原印象と過去把持の時間的機能の成立. 302. 2-4 未来予持について. 304. 3 意味の共時間性 3-1 共時間的意味. 305 時間の具体的な成立と共に. 3-2 意味の共時間性を承けて. 308. 第二章 意味の背景としての類型 Ⅰ 序. 音素を具体例とした探究 311. 背景としての類型の探究. 313. Ⅱ 音素とは何か Ⅲ 音素としての類型. 305. 類型の形成と機能. 315. 1 音声についての意識. 315. 2 過去把持的沈降. 316. 3 覚起から再想起へ. 317. 4 再想起の反復. 319. 5 類似性綜合に基づく一般者の形成. 320. 6 習慣化による音素の習得の成就. 322. 7 習得された音素の働き. 323. 8 音素と言語的意義. 324. - ⅶ -.

(10) 325. Ⅳ 言語学の音韻論との比較 1 読み取られた音韻論からの所見. 325. 2 言語学の音韻論についての現象学. 328. 2-1 ヤーコブソンの二項対立的弁別特徴理論. 328. 2-2 認知音韻論. 330. 2-2-1 認知音韻論と現象学的音韻論との親近性. 330. 2-2-2 認知音韻論に対する批判. 331. 3 音素(類型)の意識相関的探究. 333. 第三章 意味と類型 Ⅰ 序. 意味と過去-現在-未来 335. 意味の背景としての類型. Ⅱ 生き生きした現在を越えた過去と未来の構成. 336. Ⅲ 意味の背景. 340. 類型を介した過去と未来への結び付き. 1 受動的次元. 類型を背景とした意味の発生. 340. 2 能動的次元. 類型に即して自我が意味を統握すること. 343. 3 意味が過去と未来に結び付くこと. 345 347. Ⅳ 変転する意味と意味の枠組み 1 受動的次元. 347. 2 能動的次元. 349. Ⅴ 意味の枠組みの崩壊から背景の創設と革新へ. 352. 1 意味の枠組みの崩壊と意味の遡及的変化. 352. 2 意味から類型への影響. 356. 第四章 先時間的意味と本能 Ⅰ 序. フッサールにおける意味の最根源 360. 残されている問題. Ⅱ 意味の共時間性. 根源的な次元における意味と時間. Ⅲ 意味の最根源へ向けて. ヘルトとリーを導き手としつつ. 1 究極的に作動している先時間的な自我 2 先自我的な自己保存の本能. ヘルト. 361 363 363 365. リー. - ⅷ -.

(11) 3 意味の最根源への道. ヘルトとリーの不十分さ. 368 371. Ⅳ 意味の最根源 1 流れること・原連合・原時間化. 371. 2 最根源的な次元における意味の先時間性. 377. 3 本能的な予感と先時間的意味の発生. 384. 4 未分化な意味. 387. 最根源の中の最根源の意味. 結語. 394. 註. 398. 参考文献. 471. - ⅸ -.

(12) 序論 「《意義 Bedeutung》とは何かということは、色や音とは何かということが我々に与え られているのと同様に、直接的に我々に与えられているであろう。それはこれ以上定義さ れ得ず、記述的に最終的なものである」(XIX/1,S.187)。フッサールはこのように『論理学 研究』(以下『論研』)において論じている。しかしながら、フッサールは上のように論 ずることによって、意味の探究を終結させようとしているわけではない。むしろ、「意義 の現象学は此処から始まるのである」(XIX/1,S.187)(《意味》と《意義》という術語につ いては、序論の最後を参照)。フッサールは『論研』において、絶えず意味に照準を合わ せて探究を遂行していく。意味 Sinn(意義 Bedeutung)は、一貫して『論研』における最 も重要な探究主題を成しているのである。いや、それは『論研』に限られることではない。 『論研』においてだけでなく、フッサールは意味を、現象学における根本的な主題の一つ として探究し続けたのである。意味は諸々の著述において様々な仕方で繰り返し問い直さ れる。意味の探究は、まさにフッサール現象学の進展と歩みを共にしたとも言えよう。し かも、フッサールにおける意味の探究のそうした進展は、特に、意味を時間という問題領 圏の内に据えることによって露わとなるのである。というのも、フッサール意味論は、ま さに意味を時間とのより密接な関わりの中で問い進める歩みにおいて、深化の道を辿った と考えられるからである。 しかし、フッサールは意味を時間との関わりの中で探究したという記述は、奇異な印象 を与えるかもしれない。意味は時間と何の関わりも持たず、むしろ時間との関わりの無さ こそ意味の本質的特徴であるように思われる。実際、フッサールは『論研』において、意 味作用の意味(言語的意味)をイデア的なものと捉え(vgl. XIX/1,S.57,97,106f.,109 usw.)、 それに倣って直観作用の意味(直観的意味)もイデア的なものと捉えている(vgl. S.56f.;. XIX/1,. XIX/2,S.625) 。 意 味 は 「 理 念 」 ( XIX/1,S.57) で あ り 、 理 念 と し て 「 超 時 間 的 」. (XVIII,S.134)・「非時間的」(XVIII,S.136; vgl. auch XIX/1,S.129)であると言える。このよう に、『論研』のフッサールは、意味を時間と無関係なものと見倣しているのである。そう. - 1 -.

(13) であるならば、意味を時間との関わりの中で探究する必要などなく、むしろ、そうした探 究は意味というものを捉え損なう恐れがあるとも考えられるであろう。 しかし、フッサールによる意味探究の独自性は、既に『論研』においてそうであるよう に、意味を単にそれ自体としてではなく、言語活動の際に遂行される意味作用及びその意 味志向を充実させる直観作用(知覚作用・想起作用等)との関連において探究するところ にある。第一部第一章Ⅰで論じられるように、そのような探究を行なうことでフッサール が目指したのは、意味の根源を解明することであった。フッサールは既に『論研』におい て、意味そのものだけでなく、意味の根源へと探究の眼差しを向けていたのである。そし て、この意味の根源へと方向づけられた探究、すなわち意味を意味の根源としての作用に 関連づける探究において、意味は時間という問題領圏の中に引き込まれることになる。作 用は時間的である(vgl. III/1,S.180-182; XVIII,S.134; XIX/1,S.50,106; XXIV,S.141f.; XXVI,S.25, 31f.)。それでは、意味は作用と同じ時間性を持つのか。もし意味が作用と異なる時間性 を持つならば、それは如何なる時間性であるのか。また、意味はその時間性を如何にして 持つことができるのか。つまるところ、意味は時間と如何なる関係にあるのか。このよう な問いが、意味に差し向けられることになるわけである。意味が作用と関連づけられるな らば、意味は、時間的な作用を通して時間とも関わらざるを得ないであろう。フッサール 意味論は、その出発点である『論研』において、意味の根源へと向かう探究を目指した。 まさにそのことにより、フッサール意味論は、『論研』のときに既に、時間という問題領 圏の中を突き進むよう定められていたとも言えよう。 我々はそのことの証左を、『論研』より後の著述から一つだけ挙げておくことにしよう。 フッサールは『受動的綜合の分析』において次のように論じている。「時間が客観的に、 あらゆる個体的で実在的な対象の普遍的形式として妥当するならば、そのことには、時間 は意識にとって、あらゆる可能な個体的対象意味 Gegenstandssinne の普遍的形式であると いうことが対応する。それどころか更に進んで、時間は、あらゆる対象一般及び対象意味 一般が或る一定の仕方で必然的に埋め込まれている普遍的形式である。意味 Sinne が意味 の論理学の重大なテーマであるならば、そして、我々が立証できるように、表現において 文において表現されるのが意味であるならば、時間形式の論究は、従って、我々にとって 普遍的で根本的な意義を持つ」(XI,S.312)、と。但し、注意すべきことに、フッサールの この見解は、意味と時間との関わりについて、あくまで証左の一つとして挙げられたもの であり、決して我々の最終的な見解というわけではない。我々はフッサールに導かれつつ、. - 2 -.

(14) 更なる根源的な見解に到達することになるであろう。 本論の探究において明らかとなっていくように、フッサールは意味をイデア的なものと のみ捉えたわけではない。イデア的意味は、言わばフッサール意味論の表層に存する純粋 な上澄みである。我々がフッサール意味論においてイデア的意味だけに目を奪われ、しか も、それを超時間的・非時間的と捉えるに留まるならば、つまりは意味を時間と無関係な ものと見倣すならば、我々はフッサール意味論の表層に立ち止まってしまうこととなろう。 我々は、意味を時間との関わりの中で探究することを通して、フッサール意味論のより深 い層を目指さなければならない。但し、これは、意味を超時間的・非時間的なものとして 捉える代わりに、時間的なものとして捉えることを目指すということでは決してない。第 一に、イデア的意味は超時間的・非時間的としか捉えられないわけではないからである。 我々は意味を、イデア的であり且つ超時間的・非時間的ではないものとして捉えることも できる。第二に、意味は超時間的・非時間的でなければ時間的であるというわけではない からである。意味の時間性は、超時間的・非時間的か時間的かという二つの選択肢に尽き るわけではない。意味は更なる時間性を持ち得るのである。これらのことは、本論の探究 の進展と共に、順次露わとなっていくであろう。かくして、我々は上記のようなことを目 指しているわけではない。我々が目指しているのは、意味を時間との関わりの中で探究す ることを通して、意味の根源へと遡行の歩みを進め、フッサール意味論の表層からより深 い層へと、最終的にはフッサール意味論の最底層へと突き進み、意味の最根源に到達する ことである。まさにこれが本論の課題に他ならない。 このような本論の探究は、大きく分けて以下の三段階を辿って遂行される。 (1)意味の静態的探究(第一部) フ. ェ. ア. テ. ィ. ヒ. この段階では、我々は意味を「出来上がった」(XVII,S.216)ものとして捉え、しかも、時 間の存立を前提しつつ探究を行なう。我々は此処では、意味は時間との関わりの中で如何 なるものであるのかという問題に取り組むこととなる。別言すれば、我々は時間の存立を 前提した上で、意味の時間性を追究するのである。 (2)能動的次元における意味の発生的探究(第二部第一編) この段階では、我々は出来上がった意味を前提することはせず、「意味発生 Sinnesgenesis」(XVII,S.215)について探究する。しかし、他方で、時間の存立は前提されて いる。また、此処では、自我が関与している能動的次元において探究が行なわれる(但し、 能動的次元はそれを下支えする受動的次元を不可欠とするため、この段階で必要な限りで、. - 3 -.

(15) 受動的次元についても論及が為される)。我々は此処では、意味は時間との関わりの中で 如何にして発生するのかという問題を考究する。その際、意味のイデア性は如何にして確 保されるのかが、特に重大な問題として究明されることになるであろう。 (3)受動的次元における意味の発生的探究(第二部第二編) この段階では、我々は出来上がった意味を前提しないだけではなく、時間の存立も前提し ない。フッサールにとっては、時間もただ単に前提されるものではなく、意識による構成 を問われるべきものである。それ故、我々は此処では、自我の関与していない受動的次元 において、時間構成との関わりの中で意味は如何にして発生するのかという問題に取り組 む。 以下では、本論の探究を開始する前に、何点か注意すべきことに触れておくことにする。 我々が第一に触れるのは、本論の探究の射程についてである。意味に関しても時間に関し ても、間主観性は、それ無しでは済ますことのできない重要な探究主題であると言える。 しかし、間主観性という主題は、それがあまりにも重大であるため、本論の探究の射程を 大きく踏み越えてしまっている。それ故、本論では間主観性について論究を行なうことは できなかった。間主観性が高次の言語的なコミュニケーションにおいて重要な役割を果た すことは、縷言するまでもない。だが、それだけでなく、間主観性は、根源的な次元にお ける意味と時間に関しても、それ以上に重要な役割を果たしていると考えられるのである。 しかし、様々な次元で間主観性が果たしている役割を十二分に究明するためには、間主観 性を中心的主題とする更なる別の論文を必要とするであろう。 第二に我々は意味概念について触れておくことにしよう。「時間をさえもわれわれの経 験の意味として捉えることは、彼〔フッサール〕の超越論的現象学の立場からすれば、む しろ当然のことでなければならない」(滝浦,194 頁)。既に言及したように、現象学におい ては時間も構成されるものとして捉えられる。そうであれば、時間も一種の意味であるこ とになろう。意味という概念を現象学において最広義で用いるならば、そのように言うこ とができる。もし意味という概念をこの最広義において用いるならば、上で示された《意 味を時間との関わりにおいて探究する》という本論の探究は、《意味を意味としての時間 との関わりにおいて探究する》ということになる。しかし、これは奇妙な記述と言わざる を得ない。後者の意味概念を最広義に解し、前者の意味概念をより狭義に解すれば、一応 辻褄は合うかもしれない。だが、そうした用語法は不要な誤解を招くだけであろう。確か に、本論における探究は現象学的探究である故に、我々は最広義で意味概念を用いること. - 4 -.

(16) もある。しかし、時間概念と共に用いる場合には、我々は意味概念のそうした用い方を避 けねばなるまい。従って、例えば本稿の題目《意味と時間》においては、時間を包括する ものとしての意味、意味の一種としての時間といったことが念頭に置かれているわけでは ない。この場合、意味と時間は、あくまで或る種の対比において捉えられている。そして、 同じことは、本論の探究においても一貫して妥当するのである。 我々が第三に触れるのは、《意味》と《意義》の用語法についてである。フッサールは、 『論研』では"Sinn"と"Bedeutung"を同義的と見倣す(vgl.. XIX/1,S.58)。他方、『イデーン. Ⅰ』では"Sinn"を志向作用一般に関して、"Bedeutung"を限定的に表現作用に関して用いる とする(vgl.III/1,S.285)(第一部第三章註(6)も参照)。双方の著述の間の時期では、二つ の術語を使い分けていない場合と明確に使い分けている場合とがある(但し、その使い分 けは、必ずしも『イデーンⅠ』における使い分けと同じではない。第一部第三章Ⅲ・Ⅳ参 照)。 『イデーンⅠ』より後の時期には、『イデーンⅠ』での使い分け以上に、"Sinn"が優先 的に用いられることがある。例えば、『イデーンⅠ』の使い分けに従えば「《論理的》な い し 《 表 現 的 》 Bedeutung」 (III/1,S.285)と 言 わ れ る は ず で あ る が 、 し か し 、 『 能 動 的 綜 合』においては「論理的 Sinn」(XXXI,S.58)という言い方が為される。また、『イデーン Ⅰ』より後には、"Sinn"は一層広範に用いられるようになり、作用だけでなく、作用を下 支えする根源的な次元へも、"Sinn"の適用範囲が拡張されるのである(かかる Sinn につい ては、第二部第二編参照)。 上記のような事情があるにしても、本論に《意味》や《意義》が登場する際に、使い分 けがあるかどうか、また、使い分けがある場合、それがどのような使い分けであるかは、 註記や文脈から十分理解できるであろう。このことを基本として、以下、本論における 《意味》と《意義》の用語法についてまとめておく(なお、以下の用語法は本論だけでな く、題目やこの序論にも、つまり本稿全体に当てはまる)。 (a)フッサールの著述からの引用文においては、一貫して、"Sinn"を《意味》、"Bedeutung" を《意義》と訳す。 (b)引用文以外の地の文においては、基本的には文脈に応じて《意味》ないし《意義》を 用いる。 (b1)大まかに言えば、第一部では『イデーンⅠ』での使い分けに倣うが、しかし、『意義 論についての講義 1908 年夏学期』での使い分けに倣う箇所も少なくない(特に第一部第. - 5 -.

(17) 三章)。 (b2)第二部では、上で述べたように、『イデーンⅠ』より後の時期には『イデーンⅠ』で の使い分け以上に"Sinn"が優先的に用いられるということに倣って、《意味》を優先的に 用いる。その場合でも、《言語的》や《直観的》等の付加語によって混乱は避けられるで あろう。 (b3)《意義》より《意味》の適用範囲を広く捉えている『イデーンⅠ』の使い分けに倣っ て、意義と意味の両方を指す場合にも《意味》を用いることがある。 (b4)フッサールに言及する場合も含め、より一般的な表現を要する際にも、《意味》を用 いる。例えば、《フッサール意味論》、《フレーゲ意味論》、《言語学の意味論》、《言 語哲学における意味の考察》等々といった用い方が考えられる。本稿の題目《意味と時 間》における《意味》もこれに当たる(あるいは、この《意味》は、意義と意味の両方を 包括的に指す(b3)の用語法として理解することもできる)。. - 6 -.

(18) 本論 第一部 静態的探究. 第一章 スペチエスとしての意義 Ⅰ 序. 意義という概念の根源の問題. 序論で論じたように、『論研』において意味(意義) (1)は最も重要な探究主題となって いる。だが、何故意味ないし意義が最も重要な探究主題とされるのであろうか。フッサー ルが『論研』において目指しているのは、学問の基礎付けである。どの学問においてであ れ、理論は論理的に展開されねばならない。従って、論理学は他の全ての学問の基礎を成 すと考えられる。そのため、学問の基礎付けを目指して、フッサールはまず論理学を構想 することから出発する。但し、フッサールは、単に論理的(整合的)かどうかを問題にす るだけでなく、「学問一般の可能性の諸条件」(XVIII,S.238)を探究する学問論としての論 理学を構想する。しかも、学問論としての論理学は、学問的に思考するための単に事実 的・心理学的な諸条件ではなく、学問が成立するための普遍的・理念的な諸条件、すなわ ち「イデア的な諸条件」(XVIII,S.238 Titel, S.239)を探究するものとして構想されるのであ る。 このような学問論としての論理学は、「意義についての学問」(XIX/1,S.98)として特徴 付けられる。どの学問における理論も、言語表現ないし何らかの記号表現で論述されねば ならない。当然、それらの表現は意義を持つ。例えば「地球は太陽の周りを回っている」 という言語表現や“1+1=2”という記号表現は意義を持つ。そうであれば、どの学問も意 義というものなしでは成立し得ないことになろう。あるいは、理論にとって「表現は偶然 的なものであり」(XIX/1,S.100)、理論は表現されないこともあると考えるにしても、事情. - 7 -.

(19) は変わらない。「あらゆる学問はその客観的内実によれば、理論として〔意義という〕こ の一つの同質的素材から構成されているのであり、あらゆる学問は諸意義のイデア的な複 合体である」(XIX/1,S.100)。従って、学問を基礎付けるためには、あらゆる学問の素材と しての意義を探究しなければならないわけである。「与えられた理論的統一全てが、その 本質に従えば意義統一であり、論理学が理論的統一一般についての学問であるならば、同 時に次のことが明証的である。それはすなわち、論理学は意義そのものについての学問、 意義の本質的な種類と相違についての学問、並びに純粋に意義に基づく(従ってイデア的 な)法則についての学問でなければならないということである」(XIX/1,S.98)。かくして、 学問の基礎付けを目指す『論研』において、意義、特に言語表現の意義が最も重要な探究 主題となるわけである。 我々は序論において、フッサールによる意味探究の独自性は、既に『論研』においてそ うであるように、意味を単にそれ自体としてではなく、意味作用及び直観作用との関連に おいて探究することにあると論じた。そうした探究のあり方は、フッサールが『論研』に おいて、「意義という理念の根源を解明するという……目標」(XIX/2,S.538)を立てたこと に見て取ることができよう。フッサールは『論研』において、「意義という概念の根源に ついての問い」(XIX/1,S.352)に答えることを目指す。それは、「意義という最上位の類が そこにおいて根源を受け取る心的諸体験の類」(XIX/1,S.352)に関わる問いである。つまり、 如何なる類の心的体験が意義の根源であるのか、また、その心的体験は如何なる点で意義 の根源と捉えられるのかといったことが問われるのである。この問いに答えるためには、 我々は意義の根源としての心的諸体験へと遡り、意義とそれら心的諸体験とを関係付けね ばならない。それ故、フッサールは、上述のように、意義を意義作用及び直観作用との関 連において探究することになるわけである(「志向的体験という意味での作用の概念」 (XIX/1,S.353)というフッサールの叙述が端的に示しているように、作用とは志向的体験で ある)。このように、意義の根源としての心的諸体験(特に志向的体験)へと遡り、意義 とそれらとを関係付けることにより、我々も意義の根源を探究することを目指す。まさに これが、本章の課題に他ならない。 この課題に取り組むにあたって、トゥーゲントハットの次の論述が我々に示唆を与える であろう。「表現の観点から〔見て〕表現の意義であるものを、フッサールは『論研』に おいて、作用の観点から、作用の質料 Materie(II,411-16)と呼び、あるいは《対象的統握の 意味 Sinn der gegenständlichen Auffassung》 (416)とも呼ぶ」(Tugendhat,S.35)。この論述だけ. - 8 -.

(20) では、トゥーゲントハットが意義を作用の質料と同一視しているかどうかまでは断定でき ない。しかし、少なくとも、意義と作用の質料とが何らかの仕方で対応するということは、 この論述から読み取れるであろう。このことが、探究の出発点において我々に指針を提供 する。これに従えば、我々は、意義から心的諸体験へと遡源するという課題を、意義から 質料へと遡源するという、より限定された課題として捉え直すことができよう。そうであ るならば、我々の究明すべき問題は、質料は如何なる点で意義の根源であるのか、意義と 質料とは如何なる関係にあるのかというものになるであろう。但し、この問題設定は、あ くまで出発点における目算によるものであり、探究の進展に伴って修正を迫られるかもし れない。だが、ともかく、我々は出発点においては、上述の問題を解明し意義と質料とを 関係付けることで、意義の根源を探究するという課題に応えることを目指すことにしよう。 その際、本章の議論は以下のような道筋を辿ることになる。我々はまず本章における探 究の土台を提示することを企図し(Ⅱ)、意義及びそれと関連する諸概念について(Ⅱ -1)、質料及びそれと関連する諸概念について(Ⅱ-2)、概略的に論ずる。次に我々は、 意義の根源としての質料を探究する際に、如何なる種類の作用の質料に目を向けるべきで あるのかを明らかにする(Ⅲ)。これらの議論を承けて、我々は意義をその根源としての 質料に関係付けることに着手する。我々は意義が質料と如何にして関係付けられ得るのか を、まず機能的な側面から(Ⅳ)、次に内容的な側面から(Ⅴ)、最後に時間的な側面か ら(Ⅵ)、探究することになるのである。. Ⅱ 意義及び質料についての概略 1 意義及び関連する諸概念 我々は本章Ⅱでは、本章の論究主題について概略を見ていくことにしよう。まずⅡ-1 では、我々は意義について概観することになる。フッサールは意義について次のように指 摘している。すなわち、「論理的明晰性にとって非常に不都合な仕方で、人は、……或る 場合には告知された諸作用 kundgegebene. Akte を、或る場合にはイデア的意味を、或る場. 合には表現された対象性 ausgedrückte Gegenständlichkeit. を 、当該表現の意味ないし意義. Sinn oder Bedeutung として把握する」(XIX/1,S.58f.) (2)、と。こうした混乱を避けるために、 意義は作用からも対象からも区別されねばならない。それ故、我々はまず、意義に関連す る諸概念を区別することから始めよう。そのためには、対話における表現を事例として採 り上げ、その表現の種々の内容を区別するのがよいと考えられる。その区別は次のように. - 9 -.

(21) まとめられるのである(vgl. XIX/1,S.38-41,51-53,57,83)。. 表現された内容(表現が表現する内容). 主観的な意味での内容. 告知されたもの (3). (狭義)意義付与作用 意義充実化作用、及び話者の他の全ての作用. 客観的な意味での内容. 意義されたもの. 志向する意義、または、端的に、意義 充実させる意義. 名指されたもの. 対象性. これに従えば、意義は、「意味付与作用 sinngebender Akt」(z.B. XIX/1,S.40,43,46f.)(「意 味付 与作 用 sinnverleihender. Akt」 (XIX/1,S.46,420)) ないし 「意 義付与 作用 bedeutung(s). verleihender Akt」(z.B. XIX/1,S.44f.,57,67)から、また「意味充実化作用 sinnerfüllender Akt」 (z.B. XIX/1,S.43,51)ないし「意義充実化作用 bedeutungerfüllender Akt」(z.B. XIX/1,S.44f.,57) から区別されねばならず、更に、対象性からも区別されねばならない。それでは、我々は 以下で、これらの区別を検討していくことにしよう。. 1-1 二種類の意義と意義付与作用及び意義充実化作用 我々はこれまでは、単に《意義》という言い方をしてきた。しかし、前段落の図表に示 されているように、意義には二種類のものがあるのである。我々はまず、このことに注意 し て お か な け れ ば な ら な い 。 二 種 類 の 意 義 と は 、 一 方 は 「 志 向 す る 意 義 intendierende Bedeutung」 (XIX/1,S.57)で あり 、他方 は「充 実させ る意 義 erfüllende Bedeutung」 (XIX/1, S.57) で あ る 。 志 向 す る 意 義 は 、 「 意 義 付 与 作 用 の 志 向 的 本 質 の イ デ ア 的 な 把 握 」 (XIX/1,S.57)によって明らかとなる (4) 。意義付与作用とは、単なる語音を、「意味で生化 された sinnbelebt 語音」にする、つまり「表現」にする作用である(XIX/1,S.44)。他方、充 実させる意義は、「意義充実化作用の、〔意義付与作用の志向的本質に〕相関的な本質の イデア的な把握」(XIX/1,S.57)によって明らかとなる。意義充実化作用とは、意義付与作. - 10 -.

(22) 用を、あるいは意義付与作用における「意義志向 Bedeutungsintention を種々の程度の適切 さで充実させる erfüllen」(XIX/1,S.44)作用に他ならない。 意義付与作用は、上述のように単なる語音を表現にする作用であり、それ故、「表現に とって本質的である作用」(XIX/1,S.44)と規定される。他方、意義充実化作用は「表現そ のものにとって非本質的である作用」(XIX/1,S.44)と規定される。表現が表現であるため には、別段意義充実化作用(直観作用) (5)を必要としないからである。「表現の意義志向 が直観でもって充実される」(XIX/1,S.61)ことがなくとも、別言すれば、「表現が……基 づける直観を欠いているとしても、表現は有意味的に sinnvoll 機能するのであり、表現は 依然として空虚な語音以上のものである」(XIX/1,S.44)。例えば、「千角形」(XIX/1,S.70) という表現に際して、「我々は千角形を考えながら、《多》辺の何か或る多角形を想像す る」(XIX/1,S.70)ということになるにしても、つまり、表現における意義志向を適切に充 実させることができないにしても、《千角形》という表現が単なる語音になってしまうわ けではなく、我々は《千角形》という表現を理解できるであろう(本章Ⅱ-1-2 も参照)。 上述のような二種類の作用についての規定は、二種類の意義にも適用される。つまり、 「表現そのものにとって本質的である」(XIX/1,S.58)のは、志向する意義であって、充実 させる意義ではないとされるのである。それ故、意義には二種類のものがあるにしても、 フッサールは、端的に《意義》と言う場合には志向する意義を指すと見倣すのである(vgl. XIX/1,S.58)(我々も以後この用語法に従う) (6)。 前段落で論じたように、意義充実化作用は表現にとって非本質的な作用と捉えられる。 意義志向を含む意義付与作用が単なる語音を表現にするならば、「表現の意義志向が直観 でもって充実される」(XIX/1,S.61)ことがなくとも、「表現は有意味的に sinnvoll 機能す る」(XIX/1,S.44)からである。このように表現が有意味的に機能する際には、「表現は対 象的なものに関係する」(XIX/1,S.44)とされる。「意義の内で、対象への関係が構成され る」(XIX/1,S.59)。但し、「対象への表現の関係が単なる意義志向の内に含まれている限 りでは、その関係は目下のところ実現されてはいない」(XIX/1,S.44)。その関係は、まさ に上述の「表現の意義志向が直観でもって充実される」場合に実現されるのである。それ は、より詳しく言えば、「充実化統一 Erfüllungseinheit において、志向の作用が充実化作 用と合致し sich. decken」(XIX/1,S.62)、意義充実化作用(直観作用)が、「認識統一ない. し充実化統一において、意義付与作用と融合する verschmelzen」(XIX/1,S.44)場合に他なら ない。このようにして、直観でもって、「初めは空虚な意義志向が充実されることによっ. - 11 -.

(23) て 、 対 象的 関 係 が 実 現さ れ る 」 (XIX/1,S.44)。従 っ て 、 対 象的 な も の へ の表 現 の 関 係 が 「実現される」とは、「表現が直観的に与えられたものに実際に適合する」(XIX/1,S.56) ことであると言える。そして、このような場合に、表現は単に有意味的に機能するだけで なく、「認識機能」(XIX/1,S.61)をも果たすのである。 意義付与作用と意義充実化作用との間においてと平行的なことが、二種類の意義の間で も見出される。我々は「意義志向が、それに一致する korrespondieren 直観に基づいて充実 される場合」(XIX/1,S.56)を、具体的には、何か或るものが知覚されつつ知覚される通り に表現されるという「知覚言表 Wahrnehmungsaussage」(XIX/1,S.56)を採り上げよう。我々 は、一方で単なる語音を表現にする意義付与作用を遂行し、他方で知覚作用を、しかも意 義充実化作用として遂行する。というのも、その知覚作用によって意義付与作用が充実さ ベ. ド. イ. テ. ン. れるからである。その際、「意義と意義充実化との合致統一において、意義することの本 質としての意義に、意義充実化の相関的な本質が一致する」(XIX/1,S.56)。そして、この 「相関的な本質は充実させる意味……である」(XIX/1,S.56)。つまり、「充実化統一にお いて」、「充実させる《内容》」すなわち充実させる意義が、「志向する《内容》」すな わち志向する意義と「《合致する》sich "decken"」というわけである(XIX/1,S.57)。 このように意義には二種類のものがあるが、しかし、既に論じた如く、志向する意義が 表現にとって本質的であるのに対し、充実させる意義はそうではない。充実させる意義が 欠如していても、表現は有意味的に機能するからである。それにもかかわらず、何故フッ サールは充実させる意義という概念を構想したのであろうか。意義付与作用における志向 する意義と同様に、意義充実化作用(直観作用)において充実させる意義なるものを考え るようにフッサールを促したのは、前段落で論及された合致であると思われる。つまり、 意義付与作用を直観作用が充実させる際には、意義付与作用の志向する意義に合致する何 かが、直観作用(意義充実化作用)の側にもなければならず、その何かが充実させる意義 に他ならないというわけである。充実させる意義は、志向する意義に合致するものとして 要請されているのである。そうであるならば、充実させる意義は、志向する意義に倣って 案出されたものであると言えよう。従って、後に本章Ⅳ・Ⅴ・Ⅵで論及されるように、充 実させる意義が、機能的な側面からも、内容的な側面からも、そして時間的な側面からも、 志向する意義と同様のものと見倣されるのは当然であろう(時間的な側面に関して言えば、 すぐ次の本章Ⅱ-1-2 で論ずるように、充実させる意義は志向する意義と同様にイデア的で ある)。. - 12 -.

(24) 1-2 意義と作用 上述のように、意義も意義付与作用も表現にとって本質的である。しかし、このことは 両者が等しいものであるということを示しているわけではない。(意義付与作用の一種と 考えられる)「私の判断作用 Urteilsakt は 、生成消滅する一時的な体験である」(XIX/1, S.50)。別言すれば、判断作用つまり意義付与作用とは、個体的・実在的なものである。 他方、意義は、「意義付与体験」(XIX/1,S.102)(意義付与作用)そのものではなく、「話 者や思惟者の現実のまたは可能な諸体験の個々別々の多様性に対し、同一的な志向的統一 性を提示する、意義付与体験の《内容》」(XIX/1,S.102)である。つまり、「我々は、真と 見做すことや言表することという一時的な諸体験から、それらのイデア的な内容を、すな わち多様性における統一体としての言表の意義を区別するのである」(XIX/1,S.50)。従っ て、意義とは、意義付与作用とは異なり、「イデア的統一体 ideale Einheiten」(XIX/1,S.97) ・「スペチエス的統一体 spezifische Einheiten」(XIX/1,S.107)に他ならない。意義充実化作 用と充実させる意義との間の関係も同様である。前者が多様な個体的なものであり実在的 なものであるのに対し、後者はやはり、イデア的統一体でありスペチエス的統一体なので ある。 我々は前段落では、意義に意義付与作用を対比させた。しかし、より精確には、意義に 対比されるのは、意義付与作用の契機である意義志向に他ならない。「イデア的-単一的 意義 ideal- eine Bedeutung に対する多様な諸個別者 Einzelheiten は、当然、〔イデア的-単 一的意義に〕対応する、意義することの作用諸契機 Aktmomente des Bedeutens、すなわち 意 義 諸 志 向 で あ る 」 (XIX/1,S.106)。 そ し て 、 「 等 し く 規定 さ れ た gleichbestimmt 心 的 性 格」(XIX/1,S.104)としての等しく規定された意義志向によって、「心理学的内実に関して 非常に甚だしく相違する表現諸体験は、初めて、同じ意義についての諸体験に成る」 (XIX/1,S.104)のである。とはいえ、意義志向は意義ではない。確かに、「心理学的内実に は、勿論、その時々で変化するものと同様に、その場合その場合で等しいものが属してい る」(XIX/1,S.104)。しかし、フッサールは、「どの折にも等しいままである gleichbleibend 作用性格それ自身が既に意義であるというのは、実際決して我々の説ではない」(XIX/1, S.104)と論ずる。同じ意義とは、決して「心理学的内実」に含まれている「等しいもの」、 つまり等しい意義志向のことではない。フッサールは、等しい意義志向そのものを同じ意 義と捉えるわけではないのである。「どの折にも等しい意義体験に関して、我々は 同じ意. - 13 -.

(25) 義 と言う」(XIX/1,S.117)こともある。だが、それは「同一性についての非本来的な言い 方」(XIX/1,S.117)に過ぎない。我々が等しいものを《同じもの》と呼ぶとしても、それは あくまで、《同じ》の非本来的な言い方なのである。フッサールは、意義つまり「スペチ エス的なものの厳密な同一性」(XIX/1,S.117)を、そのような非本来的な言い方として理解 するわけではない。それでは、《等しい》と、本来的で厳密な意味での《同じ》とは、一 体どのように異なるのであろうか。 フッサールによれば、「我々は相等性 Gleichheit が存立するところでは常に、厳密な真 の意味での同一性 Identität をも見出す」(XIX/1,S.117)。双方は同一視できるものではなく、 「厳密な真の意味での同一性」は相等性が存立するための前提なのである。「我々は、二 つの事物が等しい観点を指摘することなしには、それらを等しい事物と言うことはできな い」(XIX/1,S.117f.)。例えば二つの個体的事物の形が等しいならば、それは二つの個体的 事物が形の点で等しいということであり、比較の観点として、形というスペチエスの同一 性が二つの個体的事物において存立しているということである。「相等性は、一つの同じ スペチエスに従属している諸対象の関係である」(XIX/1,S.118)。形という同一のスペチエ スに従属しているからこそ、二つの個体的事物は形の点で等しいと言うことも可能になる。 つまり、個体的なものの相等性は、スペチエス的なもの(イデア的なもの)の同一性に基 づいているわけである。こうした相等性の前提としての同一性は、当然ながら、非本来的 な同一性(つまり相等性)ではなく、本来的で厳密な意味での同一性に他ならない。フッ サールが意義の同一性として考えているのは、こうした厳密な意味での「スペチエスの同 一性」(XIX/1,S.105)であり、「意義の厳密な同一性」(XIX/1,S.105)なのである。 だが、何故フッサールは、上述のように相等的な意義志向と厳密に同一的な意義とを峻 別するのであろうか。既に本章Ⅰで引用された論述を繰り返せば、「あらゆる学問はその 客観的内実によれば、理論として〔意義という〕この一つの同質的素材から構成されてい るのであり、あらゆる学問は諸意義のイデア的な複合体である」(XIX/1,S.100)(下線引用 者)。フッサールは、意義という同質的素材は、単に心理学的に相等的なものなのではな く、イデア的同一的なものと考える。それ故、フッサールは、イデア的同一的なものを認 めず、論理学的なものを心理学的に相等的なものとしか見倣さない心理学主義を峻拒する ことを目指すのである。『論研』のフッサールにとって、現象学はそうした役割を担って いるものに他ならない。「純粋現象学のみが、客観的論理学的なものを心理学的なものに 曲解するよう我々に非常に強く促す……仮象を除去する」(XIX/1,S.12)のであり、論理学. - 14 -.

(26) 的なものを心理学的なものに曲解する「心理学主義は、……純粋現象学によってのみ、徹 底的に克服され得る」(XIX/1,S.11f.)のである。. 1-3 意義と対象 我々は本章Ⅱ-1-1 において、二種類の意義について論ずるために、何か或るものが知覚 されつつ知覚される通りに表現されるという知覚言表を採り上げた。知覚言表に関しては、 既に論じられた、対象への表現の関係が実現されている。それ故、我々は此処で更に、二 種類の意義と対象とについて考察することにしよう。知覚言表においては、ないし、知覚 言表をまさに表現にする意義付与作用においては、志向する意義と「意義的に思念された bedeutungsmäßig gemeint 対象性」(XIX/1,S.56)とが区別される。他方、その意義付与作用を 充実させる知覚作用つまり「充実化作用においては」、「知覚のいわゆる意義的なもの Bedeutungsmäßiges」すなわち充実させる意義と、「知覚された対象」とが区別されねばな らない(XIX/1,S.57)。知覚言表が関係する対象は、単に思念されているだけでなく、知覚 されてもいる、別言すれば、知覚的に与えられてもいる。しかも、知覚された対象は、志 向する「意義が対象を思念するのと 同じ仕方 で与えられている」(XIX/1,S.56)のである。 従って、「合致統一の体験においては、志向されている上にまた《与えられている》対象 は、二重にではなく、一つの対象としてのみ、我々に対峙している」(XIX/1,S.57)という ことになるのである(本章Ⅳ-2 も参照)。 前段落で論及されたように、知覚言表において、我々は意義と対象とを区別しなければ ならない。知覚言表における対象、つまり知覚された対象とは、別の捉え方で言えば、実 在する対象である。この実在的対象と意義とを区別しないならば、我々は直ちに困難に陥 るであろう。「意義が表現の対象性と同一視されるならば、 黄金の山 というような名称は 無意義である」(XIX/1,S.60)ことになってしまう。言うまでもなく、黄金の山などという ものは実在しないからである。これは明らかに、「無対象性 Gegenstandslosigkeit」(XIX/1, S.60)と「無意義性 Bedeutungslosigkeit」 (XIX/1,S.60) との混同であり、そのことが困難を 惹き起こしているわけである。我々は同じことを知覚言表に即して論ずることもできる。 私は金色に輝く山を見ながら《黄金の山は美しい》と言表したが、しかし、私はすぐに、 それは黄金の山ではなく黄鉄鉱の山であると気がついた。そうであるならば、私が先ほど 発した《黄金の山》は無意味だったのであろうか。だが、そのように考えるのは無理であ ろう。私は無意味な音の連なりを発した後に、《は美しい》と述べたわけではないのであ. - 15 -.

(27) る。 それでは、対象が実在しようとしまいと、対象を知覚できようとできまいと、ともかく 表現の対象を何らかの仕方で直観する(想像する)ことができる場合、別言すれば、直観 作用によって意義志向が充実される場合、表現は有意味である (7)と考えるならばどうであ ろうか。この見解に従えば、黄金の山は実在しなくとも、従って当然知覚できなくとも、 想像をすることは可能であるので、確かに、《黄金の山》という表現は有意味であること になろう。しかしながら、それでは「千角形」(XIX/1,S.70)や「閉じた直線」(XIX/1,S.70)、 更には「円い四角」(XIX/1,S.60)という表現の場合はどうであろうか。「我々は千角形を 考えながら、《多》辺の何か或る多角形を想像する」(XIX/1,S.70)とか、「我々は閉じた 直線と言いながら、閉じた曲線を描く」(XIX/1,S.70)というのが、我々の想像や描かれた 図に基づく知覚の実情であるならば、我々の想像作用や知覚作用は《千角形》や《閉じた 直線》という表現の意義志向を適切に充実させることはできまい。《円い四角》という表 現に至っては、我々はどのような想像を遂行して、その意義志向を充実させればよいので あろうか。かくして、直観作用によって意義志向が充実される場合、表現は有意味である とするならば、《千角形》・《閉じた直線》・《円い四角》という表現は、無意味という 烙印を押されることになろう。 しかし、それにも拘わらず、上の諸表現は無意味ではない。フッサールによれば、無意 味な も の と は 、 「Abracadabra の よう な 、 語 の よう に 聞 こえ る 分節 され た 音声 形成 体 」 (XIX/1,S.59)や、「統一的な意義が対応しない、実際の表現の複合体」(XIX/1,S.59)、例え ば「緑はあるいはである Grün ist oder」(XIX/1,S.59)のようなものを指すのである。これに 従えば、《円い四角》という表現は「不合理 Absurdität(反意味 Widersinn)」(XIX/1,S.72) と見倣されるが、しかし、無意味ではない。《円い四角》において「客観的に相容れない こ と を 思 念 す る 」 ( XIX/1,S.72) こ と が で き る の も 、 そ の 「 反 意 味 的 な 表 現 の 意 味 」 (XIX/1,S.72)によってである。つまり、意味を持つからこそ、その表現は不合理であるこ とができるわけである。《千角形》・《閉じた直線》・《円い四角》が意味を持つからこ そ、我々はそれらの表現の対象が直観されるかどうかを問うことができる。表現が意味を 持つことは、表現の対象が直観されることには依存しない。それどころか、反対に、前者 ア クトゥ エル. は後者の前提を成すのである。従って、「表現の意義志向を充実させる、現勢的に与えら れた対象性への関係は、表現にとって非本質的である」(XIX/1,S.56)。つまり、実際に対 象が直観されることは、表現にとって非本質的なことに他ならない。これは、我々が既に. - 16 -.

(28) 本章Ⅱ-1-1 で論じた所見でもある。我々は同所では、表現にとって本質的であるのは、意 義付与作用(ないし志向する意義)であって、意義充実化作用(ないし充実させる意義)で はないと論じた。つまり、同じことが、本章Ⅱ-1-1 では意義と作用に、此処では意義と対 象に照準を合わせて論じられたわけである。. 2 質料及び関連する諸概念 我々は本節では、密接に関連する諸概念と対比させつつ、作用の質料 Materie(8)について 概略的に論ずる。そのために、我々は「 対象への作用の関係の異なった仕方 verschiedene Weise der Beziehung eines Aktes auf seinen Gegenstand と いう言い方」(XIX/2,S.624)の多義性 に着目することにしよう。フッサールは、その言い方が持つ多義を次のようにまとめてい る(vgl. XIX/2,S.624)。 1. 作用の性質 Qualität der Akte 2. 基礎になっている代表象 Repräsentation a)統握形式 Auffassungsform b)統握質料 Auffassungsmaterie c)統握された内容 aufgefaßte Inhalte これらは、作用を形成する諸契機に他ならない。つまり、作用は性質と代表象とから形成 され、その代表象は統握形式と統握質料と統握された内容とから形成されているのである (vgl. auch XIX/2,S.540) (9)。これらの諸契機は、作用が対象に関係することにおいて、それ ぞれ独自の役割を果たす。それ故、「対象への作用の関係の異なった仕方」という言い方 は多義的と見倣されるのである。当然、質料も独自の役割を果たすのであり、その役割は 上記の他の諸契機が担う役割とは区別される。その中でも特に重要なのは、質料の役割と 性質の役割との区別である。. 2-1 性質と質料 我々はまず、如何なる場合に質料及び性質が同じであり、あるいは異なるのかを具体例 で見ていくことにしよう。 (イ)「2×2=4」(XIX/1,S.426) 「イプセンは演劇における近代リアリズムの代表的な創始者と 見做される」(XIX/1,S.426). - 17 -.

(29) これら二つの主張においては、性質は同じであり、質料は異なっている。 (ロ)「等辺三角形 das gleichseitige Dreieck」(XIX/1,S.429) 「等角三角形 das gleichwinklige Dreieck」(XIX/1,S.429) これら二つの表象においては、性質は同じであり、質料は異なっている。 (ハ)「雨天になる es wird Regenwetter geben」(XIX/1,S.429) 「天気は雨になる das Wetter wird regnerisch werden」(XIX/1,S.429) これら二つの言表においては、性質は同じであり、質料は異なっている。 (ニ)「今日は雨が降る es wird heute regnen という判断」(XIX/1,S.429) 「多分今日は雨が降るだろう heute wird es wohl regnen という 推測」(XIX/1,S.429) 「今日は雨が降るか wird es heute regnen ?という疑問」(XIX/1,S.429) 「今日は雨が降ればなあ wenn es doch heute regnen würde !という 願望」(XIX/1,S.429) これらにおいては、性質は異なっており、質料は全て同じである。以上の諸例から、性質 の相違と質料の相違とは互いに独立であることが見て取れるであろう。つまり、性質と質 料とは全く独立的に変異し得るのである。. 2-1-1 性質 性質とは、「作用をそれぞれに応じて単純表象 bloß vorstellend 作用、判断作用、感情作 用、欲求作用等々として特徴付ける、作用の一般的性格」(XIX/1,S.425)である。性質の相 違によって、諸作用は次のように区別される(vgl. XIX/1,S.425f.,429,457,460,472,483f.,498-501, 507,514f.,519,; XIX/2,S.624 -但し、原語は適宜、名詞化不定詞に改めてある)。. (A)(a)定立的: 真と見做す Fürwahrhalten・信憑 belief, Glauben; setzend. 判断・知覚・想像・想起 Erinnern・予期 Erwarten (10). (b)非定立的: 単純断定保留 Dahingestelltseinlassen・ nichtsetzend. 単純未決定 Dahinstehendhaben・単純表象; 単純理解・単純知覚虚構(錯覚)・単純想像. (B) 願望 Wünschen・疑問 Fragen・疑念 Zweifeln・推測 Vermuten・ 欲求 Begehren・感情 Fühlen・意志 Wollen 等々. - 18 -.

(30) (A) は「客観化的 objektivierend 作用性質」(XIX/1,S.515)であり、(B) は「非客観化的な nichtobjektivierend 種類の作用性質」(XIX/1,S.517)すなわち非客観化的作用性質である(本 章Ⅲ-1 参照)。いずれにせよ、これらの性質は、質料とは全く無関係に独立的に変異し 得るのである。 我々は此処で、特に想像と知覚とについて注釈を加えておこう。我々はまず、前段落の 区別から見て取れるように、想像には定立的なものもあるということに注意を喚起する。 「想像された感性的対象は、変様された仕方で〔つまり非定立の仕方で〕想像された対象 として我々に対峙し得るのと同様に、定立という仕方で存在する対象として我々に対峙し 得る」(XIX/1,S.511)。我々は対象を、一方では非定立的に想像することもでき、他方では 定立的に想像することもできる。定立的に想像するとは、「現実の客観の準現在化 Vergegenwärtigung」 (XIX/2,S.621)を遂行することである。例えば、同じ一枚の絵の中の風 景が、一方では「純粋に審美的に、定立無しに」(XIX/1,S.511)受け取られ、他方では「現 実の客観の表象」(XIX/1,S.511)として受け取られるということもあろう。このように、想 像には定立的なものと非定立的なものとがあると考えられる。それ故、「中立的な断定保 留 Dahingestellthaben は、決して……想像と同一視されてはならない」(XIX/1,S.510)のであ る。 想像に関してと反対のことが、知覚に当てはまる。つまり、《知覚》には非定立的なも のもあるということである (11)。「知覚にとって特徴的な知覚的統握」とは、対象を「《そ れ自身》(しかも有体的に leibhaft)現在している gegenwärtig 対象として」統握するとい うものである(XIX/1,S.511)。フッサールは、このように統握され、なお且つ非定立的であ る も の を 挙 げ て い る 。 そ れ は 、 「 感 性 的 仮 象 」 ( XIX/1,S.512) 、 例 え ば 「 立 体 鏡 現 象 stereoskopische Phänomene」(XIX/1,S.512)である。この現象は、「態度決定無しに、しかも その 上 、 他 の もの のた め の写 像 Bilder と して では な く、 現象 そ れ自 身と し て」 (XIX/1, S.512)受け取られ得る。つまり、この現象は有体的且つ非定立的に受け取られ得るのであ る。他にも例えば、初めのうち現実の婦人に見えていたものが、実際には人形だったとい う事例を挙げることができる(vgl. XIX/1,S.458-461)。この場合、婦人は、初めは「現実と ニ ヒ テ ィ ゲ ス. して」、後には「逆に虚構として、有体的に現出しつつ、しかも無効なものとして、我々 の前に立っている」のである(XIX/1,S.460)。こうした「相違は、双方で諸性質に存してい る」(XIX/1,S.460)。つまり、一方の性質は定立的であり、他方の性質は非定立的である。. - 19 -.

(31) これに対し、双方で質料は同じとされる。同じ質料が、一方では「知覚の質料」(XIX/1, S.460)であり、他方では「単純知覚虚構 bloße perzeptive Fiktion の質料」(XIX/1,S.460)なの である。この後者が、対象を有体的且つ非定立的に統握するものに他ならない。. 2-1-2 質料 そ れ で は 我 々 は 質 料 に 目 を 転 じ よ う 。 質 料 は 「 対 象 的 統 握 の 意 味 Sinn. der. gegenständlichen Auffassung(あるいは、略して統握意味 Auffassungssinn)」(XIX/1,S.430)と も呼ばれる。質料とは、「対象的なものへの関係を初めて作用に付与するもの」(XIX/1, S.429)である。「単に一般的な形での、作用が思念する対象的なものだけではなく、作用 がそれを思念する仕方も、質料によって確固として規定されている」(XIX/1,S.429)。より 詳細に言えば、「質料とは、……作用の現象学的内容の内に存する作用の特性であり、作 用がその都度の対象性を統握することを規定するだけではなく、作用がその対象性を何と して als was 統握するか、作用がそれ自身において、その対象性にどのような諸徴表、諸 関係、範疇的諸形式を割り当てるかをも規定する特性」(XIX/1,S.429f.)に他ならない。つ まり、「作用がまさにこの対象を、しかもまさにこの仕方で、すなわち、まさにこの諸分 節や諸形式において、まさにこの諸規定ないし諸関係に特に関連して表象する」 (XIX/2,S.617)ということは、質料に基づいているのである。 質料同士が如何なる場合に互いに同じであり、互いに異なるかは、既に本章Ⅱ-2-1 冒頭 で挙げた諸事例から見て取れるであろう。我々は此処では、質料同士の相違の中でも特に 注目すべきものについて論及しておく。それは、「多光線的 mehrstrahlig」(XIX/1,S.492)で あるか「単一光線的 einstrahlig」(XIX/1,S.492)であるかの相違である。具体例としては次 のようなものが挙げられる(vgl. XIX/1,S.491)。 (イ)《雨が降った Regen ist eingetreten》 (ロ)《雨が降ったこと daß Regen eingetreten ist》 (イ)は「多光線的」とされ、(ロ)は「単一光線的」とされる。(イ)と(ロ) において、性質は 同じであるが、しかし、質料は異なっている。従って、双方で作用も異なっている。(イ) の際に遂行される作用は「多光線的作用」(XIX/1,S.502)(「命題的作用」(XIX/1,S.501)) であり、(ロ)の際に遂行される作用は「単一光線的作用」(XIX/1,S.501f.)(「名辞的作用」 (XIX/1,S.501))に他ならない。そして、(イ)では「判断意識、事態 Sachverhalt の言表され ていること Ausgesagtsein」(XIX/1,S.492)が遂行されているのに対し、(ロ)では「表象意識、. - 20 -.

(32) その同じ事態の名指されていること Genanntsein」(XIX/1,S.492)が遂行されているのである。 これらの作用の対象つまり「事態は、一方と他方で同じであるが、しかし、その事態は全 く別の仕方で我々にとって対象的になる」(XIX/1,S.491)。そして、このように対象的にな る仕方が異なるのは、質料の相違によってなのである。 此処で我々は、双方の作用の間に見出される関係に注目しなければならない。(ロ)の単 一光線的作用は、「以前既に綜合的に(多光線的に)構成された事態に、単一光線的な定 立において、単純に対峙する」(XIX/1,S.492)。従って、「単一光線においてその事態に向 けられる志向は、多光線的な志向を前提する」(XIX/1,S.492)のである (12)。このことを反対 側から見て、フッサールは、「どの多光線的な意識様式にも、単一光線的な意識様式へと 変換される可能性(《イデア的な》本質可能性としての)が、アプリオリに根ざしてい る」(XIX/1,S.492)とも論じている。そして、フッサールは、この変換の操作を「名辞化 Nominalisierung」(XIX/1,S.501f.)と呼ぶのである。. 2-1-3 志向的本質 我々は上では、性質の変異と質料の変異とが互いに独立的であることを明らかにし、性 質と質料とを別個に取り扱ってきた。しかし、このことは、性質と質料とが互いに独立的 である、すなわち、他方を必要としないということではない。「作用性質は明らかに、ど の質料からも切り離されるならば全く考えられないことになる、作用の抽象的契機 abstraktes Moment である」(XIX/1,S.430) (13)。これと「類似のことが、質料に当てはまる」 (XIX/1,S.430)。従って、「質料と作用性質との織り合わせは、……抽象的な諸契機の織り 合わせである」(XIX/1,S.472)。そうであれば、性質と質料は、両者が統一されてでなけれ ば存立し得ないことになろう。こうした性質と質料との統一体は、「作用の 志向的本質 intentionales Wesen」(XIX/1,S.431)と呼ばれる。なぜならば、「性質と質料とは、作用の全 く本質的な、それ故決して無しでは済まされ得ない諸成素 Bestandstücke と見做されねばな らない」(XIX/1,S.431)からである。更に、フッサールは用語法について次のように付け加 える。「表現に際して意義付与作用として機能する、ないし機能し得るような作用が問題 である限りでは、……より特殊に、作用の 意義的本質 bedeutungsmäßiges Wesen という言い 方がされるべきである」(XIX/1,S.431)、と。 前段落で述べたように、性質と質料の統一体は《志向的本質》と呼ばれる。とはいえ、 「両者の統一体は、完全な作用の一部を形成するに過ぎない」(XIX/1,S.431)。性質と質料. - 21 -.

(33) という「双方の契機は、統一へともたらされても、具体的に完全な作用を形成しない」 (XIX/1,S.431)のである。そうであれば、性質と質料という双方の契機の統一体である志向 的本質も、具体的な作用の契機に過ぎないことになる。従って、「実際、二つの作用が、 性質に関しても質料に関しても互いに等しく、それにも拘わらず、依然として記述的に異 なるということがあり得る」(XIX/1,S.431)のである。この依然として異なり得るものとは、 本章Ⅱ-2 冒頭で挙げられた、統握された内容と統握形式とに他ならない。. 2-2 統握された内容 統握された内容は、既に本章Ⅱ-2 の冒頭で述べたことから分かるように、統握形式及 び統握質料という契機と共に代表象を形成する契機である(代表象は、「あらゆる作用に おいて志向的対象性を表象的にすること」(XIX/1,S.471)を果たす。本章註(9)も参照)。 統握された内容とは、「代表象的 repräsentierend( 統握された)内容」(XIX/2,S.539)とい う書き方が示している通り、代表象的内容である(特に、「直観的な代表象的内容」 (XIX/2,S.609)は「呈示的 darstellend 内容」(XIX/2,S.609)とも呼ばれる)。より詳しく言え ば、統握された内容とは、「代表象の内で客観化的統握」(XIX/1,S.525)を蒙った「体験さ れた内容」(XIX/1,S.525)に他ならない。 此処で我々が注意しなければならないのは、体験された内容と統握された内容との相違 である。《体験される》とは、意識の内に「実的な reell 成素ないし内容」として単に所 有されるということである(XIX/1,S.361; vgl. auch S.528)(「実的」については本章Ⅴ-1 参 照)。例えば感覚としての体験された内容それ自身は、志向的体験ではなく(vgl.. XIX/1,. S.382,406)、 対 象 へ の 関 係 を 持 た な い 。 「 感 覚を 知 覚 的 統 握と い う 種 類 の志 向 的 性 格 が ベメヒティゲン. 捕 ら え、感覚に言わば生気 Beseelung を与える」(XIX/1,S.406)ことによって、ようやく志 向的体験(知覚作用)が成立するのである。そして、この志向的体験の内で(性質を度外 視して言えば、代表象の内で)、初めて感覚は「対象的なものに関係付けられる」(XIX/1, S.406)。それは、「感覚が知覚作用の呈示的内容として機能する」(XIX/1,S.406)というこ ともである。まさしく、このような、志向的体験ないし代表象の内での体験された内容が、 統握された内容に他ならない。 統握された内容は、「対象が表象されているのが、この記号によってかあの記号によっ てか、ないしは、この呈示的内容によってかあの呈示的内容によってか」(XIX/2,S.624)に 関わる。第一の選言(この記号によってか、あの記号によってか)と、第二の選言(この. - 22 -.

参照

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